「軽水炉ですら不信感が高まっていた。そこへ高速増殖炉を持ってくるなど絶対認められん、という気持ちだった」。市民団体「高速増殖炉など建設に反対する敦賀市民の会」の事務局長を務めた吉村清さん(84)は振り返る。
もんじゅの立地計画が具体化しつつあった76年、同会は発足した。この間、美浜原発1号機の燃料棒折損事故の隠ぺい(76年)や、敦賀原発1号機の放射能漏れ事故隠し(81年)など県内の原発で大きな不祥事があった。83年には秋田沖で起きた日本海中部地震がM(マグニチュード)7・7を観測。津波が日本海沿岸を襲い、100人以上が死亡した。
一方で、もんじゅの着工に向けた国や動燃の手続きは着実に進んでいった。82年、当初は慎重姿勢を見せていた故中川平太夫知事(当時)が建設を了承。同年、原子力安全委員会が開いた公開ヒアリングでは「設置許可のための行事に過ぎない」と反対派がボイコットする一幕もあった。
着工当日、敦賀市白木には反対派の住民ら約800人が集まった。白木につながるトンネルはまだできておらず、曲がりくねった林道をたどって浜へ向かい、建設現場に新しく設置されたゲート前でシュプレヒコールを上げた。
着工から今年で25年。もんじゅはまだ止まっている。「当時は『夢の原子炉』と宣伝され、期待もかけられとった。今はもう熱が冷めている」と吉村さんは感じている。【酒造唯】
毎日新聞 2010年2月10日 地方版