和子の自宅のある青葉台周辺地域は、役所勤めや学校の先生、教育委員会、医者の家庭が多く、地元では「公務員の街」と呼ばれていた。匠のクラスの保護者たちも例外ではない。
ある女児は、「田中先生が匠君を見えないところに連れて行き、手の甲をつねっていたところを見た」と新たな証言をした。母親も一度はその話を陳述書に書くと約束してくれた。しかし、後日陳述書をもらいに行くと、母親は言いにくそうに語った。
「仕事上、難しい」
この家庭は客商売をしており、青葉小学校も得意先の一つだったのである。
和子はこの頃、一緒に陳述書を集めて回っていた由美子に、「私は行かないほうがいい」と漏らすようになった。由美子が当時の和子の心境をこう推し量った。
「ほとんど顔見知りですから、義姉からすれば行きづらい、聞きづらいことだったと思います。義姉の顔を見ると泣き出すお母さん方が大半で、陳述書は出せないかわりに、匠の思い出話ばかりをする方が多かった。それもつらかったのでしょう」
一周忌までにようやく集まった陳述書はわずか2通だった。和子と昭浩は07年3月15日、その2通の陳述書を頼りに、青葉小と北九州市教育委員会を設置管理する北九州市を提訴した。この日を選んだのは、和子の「一周忌までに裁判を起こさなければ、息子に顔向けできない」という強い意向を受けてのものだ。翌日には匠の一周忌が控えていた。
自殺した子どもの両親が、体罰の有無の確認を求めて提訴をする。このニュースは地元だけでなく、全国で報じられた。裁判の大きな争点は二つ。