日本の芸術文化状況を見ると、東京に集中し過ぎている。これでいいはずがない。地域ごとに個性ある芸術文化が花開き、競い合い、結果的に国の文化水準を高めていくような流れが生まれてほしい、と望む。
舞台芸術の関係者から「劇場法(仮称)」制定を求める声が上がっている。日本芸能実演家団体協議会(芸団協)を中心に、国会議員を招いてシンポジウムを開くなど、積極的な活動を展開している。
劇場法の推進者の一人で、内閣官房参与を務める劇作家の平田オリザさんは、次のように説明する。
「全国2000を超える公共ホール・劇場を、演目の創造も担う『作る劇場』、創造はせずに鑑賞の場となる『見る劇場』、舞台芸術とは無縁の『集会施設』の三つに分け、メリハリの利いた運営を行うための法律です」
「『作る劇場』には芸術監督と専門プロデューサーを置いて、地域の拠点的な劇場とします。僕は『ソフトの地産地消』と呼んでいるんですが、『作る劇場』は地域の観光拠点にもなるはずです。演目が良ければ、別の地方の『見る劇場』なども回ればいい」
地域から発信を続け、見事な「ソフトの地産地消」を行っている劇場・劇団は、すでに幾つか存在する。
その一つが「りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館」である。舞踊部門の芸術監督を務める金森穣(かなもりじょう)さんの軌跡は、これからの芸術監督の在り方として示唆に富む。
金森さんは17歳でヨーロッパに渡り、バレエ振付家のモーリス・ベジャールに師事。オランダ、フランス、スウェーデンのダンスカンパニーで10年間、ダンサーや演出・振付家として活躍した。帰国後の04年、招請を受けてりゅーとぴあの芸術監督に就任し、日本初の劇場専属舞踊団「Noism」を発足させた。金森さんと10人の団員は、いずれも新潟市内に住む。
金森さんは「東京一極集中のため『地方の劇場では、東京の舞台を呼んで見るしかない』という現状に違和感がありました。専属舞踊団が劇場にあれば、世界レベルのものを新潟の市民に提供できる、と信じて設立したのです。ヨーロッパなら当たり前のスタイルですが、21世紀の日本の舞踊集団の在り方を提示したつもりです。新潟のほか、外国での公演も重ねました。昨年、研修生のカンパニーも立ち上げ、新潟市内のイベントや学校での公演などにも参加しています」と語る。
演出家の鈴木忠志さんは76年、演劇活動の拠点を東京から過疎の富山県利賀(とが)村(現南砺(なんと)市)に移し、「世界演劇祭・利賀フェスティバル」を主宰した。「鈴木メソッド」といわれる俳優の訓練法で知られている。
そして、静岡県舞台芸術センターの芸術総監督を退いたのを機に08年、「劇団SCOT」を再始動させた。09年のイベント「SCOTサマーシーズン2009」は、意欲的な舞台のほかに、鈴木さんの発言が興味深かった。
「私が初めて来た時、利賀村の人口は約1500人でしたが、現在は700人余。その村が演劇でこれだけのことをできたのは、歴史的に大きな意味がある。私は『劇場』というのは『演劇』をやるところではなく、『演劇』というものを通じて社会的な事業を行う場所なんだと考えています」
最近、演劇で社会的に注目されたという点では、さいたま市の「彩の国さいたま芸術劇場」が発足させた高齢者演劇集団「さいたまゴールド・シアター」が群を抜く。東京と近過ぎもせず、離れ過ぎてもいない絶妙な距離感が、この劇団の成功の一因になっていると思う。
劇団員の平均年齢は70歳。4年前に結成されるまで、ほとんどが専門的な演技体験と無縁だったのに、観客を巻き込む熱気を持っている。同劇場の芸術監督で演出家の蜷川(にながわ)幸雄さんは、俳優としてやるべきことをきっちり要求する。けいこ場でのやりとりを見ると、74歳の蜷川さんも劇団員の一人であって、共にぶつかり合いながら舞台を作り上げていることが分かる。
特に09年の第3回公演「アンドゥ家の一夜」(ケラリーノ・サンドロヴィッチ作)は、真正面から老いと死の問題を描いて、年間の演劇ベスト5に入れていい秀作だった。蜷川さんはこう振り返る。
「ゴールドのメンバーはプロの俳優さんとは違い、個人の歴史を背負って舞台に上がる人たちで、自分の人生と作品のどこかがクロスした時に輝くんです」
平田さんは「作る劇場」を全国に30~50カ所、まず設けたいと考えている。地域には潜在能力があり、個性的な芸術文化を競演させることは十分可能なのではないか。(専門編集委員)
毎日新聞 2010年2月5日 0時00分