池田信夫 blog

Part 2

August 2006

2006年08月30日 20:14

テレコム産業の競争と混沌

ロバート・W・クランドール

NTT出版

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アメリカの1996年電気通信法ができて10年になる。当初は、通信業界の規制を緩和すると同時に「ネットワーク要素のアンバンドリング」によって競争を促進しようという目的でつくられた法律だが、10年たった今、その成果はほとんど上がっていない。ネット・バブルの時期には多くのCLEC(競争的地域通信事業者)が参入したが、そのほとんどの経営は破綻し、アメリカはブロードバンドでは大きく立ち後れている。

その原因は、本書も指摘するように、規制によって競争を作り出すことはできないということに尽きる。特に通信設備はILEC(既存地域通信事業者)の私有財産であるため、ILECがアンバンドル規制を「財産権の侵害だ」とする訴訟が相次ぎ、多くのケースでFCCが敗訴したため、規制の実行はきわめて困難になった。結果的には、FCCはアンバンドル規制をほとんど放棄し、現在アメリカのブロードバンドのインフラのうちILEC以外の業者によって供給されているのは1%程度にすぎない。

本書の主要な結論は、FCCの意図した階層別の競争はうまく機能せず、成功したのは携帯電話やケーブルテレビとの設備ベースの競争だけだったということである。この例外は日本と韓国だが、日本の成功はいろいろな偶然の重なった「競合脱線」のようなものであり、他の国に一般化することはできないし、もう一度おなじことが起こるとも期待できない。

ところが日本では、ボトルネックではない光ファイバーにもアンバンドル規制が課せられ、総務省の通信・放送懇談会でも「NTT完全分割論」が出てきた。これに対してNTTは、いっさい制度に手をつけさせないという方向で自民党にロビイングを行ったため、結果的に通信改革はすべて先送りになってしまった。今月、竹中総務相は「通信・放送の総合的な法体系に関する研究会」を立ち上げたが、今度は通信・放送懇談会のような素人談義にならないようにしてほしいものだ。
2006年08月29日 00:54
メディア

OhmyNewsの古色蒼然

「市民ジャーナリズム」をうたったOhmyNews日本版が、きのう創刊された。事前の「開店準備ブログ」にも批判が多かったが、創刊号は予想以上にひどい。サーバの負荷が大きくて読むに耐えないし、TBもできないなど、今どき創刊するウェブベースのメディアとは思えない。

それよりも悪質なのは、内容だ。特に斉藤貴男氏の「時代状況に抗え」と題するコラムは、加藤紘一氏の自宅が放火(?)された事件について「ほぼ九分九厘、靖国参拝に批判的な言論に対する暴力プラス恫喝」という推測にもとづいて、コメントしない政治家やジャーナリストを指弾し、住基ネットなどの「監視社会」を呪い、朝日新聞の「NHK番組改変事件報道」事件は言論弾圧事件だという。

まだ放火かどうかもはっきりしない事件に、コメントしないのは当たり前だ。警察の発表をもとにして犯人の動機まで勝手に推測するメディアが、人権侵害を生んできたのではないか。斉藤氏を初めとする「人権派」が騒いだおかげで、住基ネットのセキュリティには異常な高コストがかけられ、表現の自由を規制する個人情報保護法ができてしまった。NHK事件の報道については、「政治家が呼びつけて介入した」という記事の裏が取れないで、朝日の記者も編集担当常務も更迭された。

斉藤氏のような古色蒼然の左翼をコラムニストに起用する鳥越編集長のセンスも救いがたいが、売り物の「市民記者」の記事も、「インターネット上ではびこる浅はかなナショナリズム」といった類型化された「良識」を振り回すばかりで、日本語としても読むに耐えない。『週刊金曜日』のアマチュア版という感じである。

鳥越氏は「本音」による議論を期待しているようだが、今の日本では、こういう古い建て前論が信用を失ったから、2ちゃんねるのような本音のナショナリズムに人気が集まるのだ。こんな低レベルの記事ばかり出るようでは、「韓国から来た反日メディア」として日本人の反発を買い、ただでさえ複雑な日韓関係をさらに複雑にするだけだろう。そういう反応は、すでに大多数のコメントにもあらわれている。

追記:OhmyNewsの記事によると、アクセスランキングでトップの「浅はかなナショナリズム」は、2ちゃんねらーによる「釣り」だったという。こういう手の込んだいたずらも下らないが、それが通ってしまう編集体制って何だろう。
2006年08月28日 11:27
経済

グレーゾーン金利

利息制限法と出資法の上限金利が異なる「グレーゾーン金利」について、アメリカの金融業界団体が上限金利の引き下げに反対する書簡を与謝野金融担当相に出した。

今年1月に、最高裁がグレーゾーンを事実上認めない判決を出したことを受けて、金利の返還訴訟が頻発している。金融庁は、上限金利を一本化して年率15~20%とする方向で、来年の通常国会で法律を改正する予定だ。アイフルの悪質取り立て事件で批判を浴びた消費者金融業界は、正面きって反論もできない。メディアも、取り立ての実態を暴いて業者を指弾する報道ばかりで、異論を唱えているのは外資だけという状況だ。

しかし、ちょっと冷静に考えてほしい。現在の上限(29.2%)を20%以下に引き下げることが何をもたらすかは、経済学的には明らかである。金利は貨幣のレンタル価格だから、それが人為的に抑えられると、資金の供給(貸出)が減少して超過需要が発生する。この超過需要が満たされなければ破産が起こるか、闇金融に流れることが予想される。事実、2000年に出資法の上限金利が40%から引き下げられたあと、個人破産と闇金融が増えた。

こうした金利の制限は、先進国にはみられないものであり(*)、終戦直後の混乱期に闇金融を規制して「弱者」を保護するために設けられた規制である。同様の規制としては、借家人の権利を強く保護する借地借家法がある。これも終戦直後に戦争未亡人を守るために設けられた規制だが、結果的には借家の過少供給をもたらし、家賃の高騰をまねいた。今回の金融庁の懇談会のヒアリングでも、多重債務の被害者や弁護士は規制強化を強硬に主張したが、そういう近視眼的な「正義」は、長期的には弱者のためにもならない。悪質な取り立ては、金利とは別の問題である。

上限金利が20%に制限されるということは、木村剛氏もいうように、企業も「20%以上の金利で借金する権利がなくなる」ことを意味する。中小企業の場合には、短期的な資金繰りで高利の資金が必要な場合もあるし、収益率が20%を超えることはそう珍しくない。金利を必要以上に抑制すると、収益はあるのに資金繰りで行き詰まる「黒字倒産」が増えるおそれがある。

ファイナンス業界の合理化のためにも、規制強化は有害である。消費者金融などのリテール分野は、成長の期待される部門だが、日本では「サラ金」という特異な業態として社会から白眼視されてきた。いま日本で必要なのは、ハイリスク・ハイリターンのオプションを広げ、新しい分野にチャレンジする機会を増やすことだ。ところが長期にわたる「量的緩和」のおかげで不良銀行が延命され、企業金融の多様化は中途半端に終わってしまった。さらに今回のような規制強化が行われると、外資を含めたファイナンス業界の競争が阻害され、日本経済全体にも悪い影響が出るだろう。

(*)これは誤り。アメリカ(連邦レベル)・イギリスには上限規制はないが、ドイツ・フランスにはある。ただし金融庁の懇談会に提出されたACCJの資料によれば、多重債務や違法貸付の問題は、イギリスよりもドイツ・フランスのほうが多い。
2006年08月26日 03:48
IT

SIMロックの解除は犯罪か

きのう警視庁は、携帯電話のSIMカードのロックを解除して売っていた業者L&Kの社長を、商標法違反と不正競争防止法違反などの容疑で逮捕した。気になるのは、メディアの扱いである。たとえばTBSは(おそらく警視庁のリークで)事前取材をした形跡があり、この商売をいかにもいかがわしいものとして描いている。テレビ朝日の「報道ステーション」でも、解説者が「こういう不正改造を許したら携帯電話業者のビジネスは成り立たない」とコメントしていた。

果たしてそうか。SIMカードは、もとはヨーロッパ統一規格のGSMで、一つの端末を各国で使うためにできたものだ。端末とSIMカード(携帯電話アカウント)を別に売っているので、一つのカードで複数の端末を使うこともできる。これによって端末とサービスがアンバンドルされ、両方の市場で競争が促進された結果、GSM端末の原価は日本の携帯電話よりも一桁ぐらい安く、通話料金も日本よりはるかに安い。端末の国際的ポータビリティは、ヨーロッパでは当たり前なのである。

これに対して、日本では郵政省がPDCというNTTローカル規格に一本化したおかげで、市場が広がらず、携帯電話オペレータが端末を買い取って流通を支配する垂直統合型の構造ができてしまった。したがってPDCの端末には、SIMカードはない。W-CDMAは世界共通規格なので、UIMというSIMと同様のカードが内蔵されているが、日本のオペレータは垂直統合のビジネスを守るため、端末にロックをかけて他社のUIMでは動かないようにしている。L&Kは、このロックを解除し、日本の端末で中国などのUIMが使えるようにして輸出していたのである。

しかし、このビジネスのどこが悪いのか。これは技術的には「不正改造」ではなく、端末の本来の機能を使えるようにするだけである(日本でもNokiaの端末ではSIMが交換できる)。商標法違反という容疑も理解に苦しむが、それは逮捕しなければならないような凶悪犯罪なのか。すでにブログでも、たとえばタイ在住者から次のような批判が出ている:
仕事でタイにしょっちゅう来ている人。当然タイでも携帯電話を使いたいですよね。国際ローミングなんて、ばかばかしい値段を払いたくないし。一台の携帯で、SIMカードだけ交換して使えれば便利ですよね。[・・・]「各社の販売戦略上の理由などから、」SIMロックなんてばかばかしいことが行われていることが間違っているわけで。
日本では、オペレータが販売店に多額のインセンティブを出し、販売店はこれを原資にして端末を大幅に割り引き、オペレータはインセンティブのコストを通話料に上乗せして回収するしくみになっている。L&Kのように端末を安く買って解約し、改造して高く転売されると、インセンティブがまるまる損失になってしまう、ということらしいが、これはビジネス上の問題にすぎず、警察の動くような事件ではない。オペレータが端末1台4万円以上という異常なインセンティブを下げ、異常に高い通話料金を値下げすればいいのである。

10月から、ナンバー・ポータビリティ(MNP)が始まる。その大義名分は「競争の促進」だが、数千億円もかかるMNPに比べて、SIMロックを解除して端末をポータブルにするコストはゼロである。端末をもとのまま使えばいいからだ。欧米で行われている競争促進策は、どんなコストがかかっても業者に強制するが、日本だけでやっている(*)競争制限策は放置する総務省のダブルスタンダードも問題だが、さらに問題なのは、競争を促進する業者を「別件逮捕」する警察と、その尻馬に乗って業者を犯罪者扱いするメディアである

ケータイWatchによれば、今回の事件を警視庁に垂れ込んだのはボーダフォンだという。同社は10月からソフトバンクモバイルになるが、かつてADSLでNTTに対して果敢な価格競争を挑んだソフトバンクが、警察まで使って閉鎖的なビジネスモデルを守ろうとするのは筋が通らない。むしろ率先してSIMロックを解除し、グローバルな端末を使って価格競争を仕掛けることが挑戦者らしいのではないか。

(*)これは事実誤認だった。SIM lockは海外でも行われている。しかしEUでは、これは反競争的な行為として規制され、オペレータは消費者が要求した場合にはロックを解除することが義務づけられている。総務省は、ロック解除が違法行為ではないことを言明し、消費者の求めに応じて解除することを義務づけるべきだ。

追記:TBで指摘されたが、総務省もSIMロックの規制は検討しているようだ。とすれば今度の逮捕は、総務省にも相談しないで警視庁が「暴走」したものと思われる。

2006年08月23日 21:02
その他

愛国心の進化

毎年この季節になると、靖国神社をめぐる不毛な議論が繰り返される。メディアでは、首相の参拝に反対の意見が多いが、世論調査では逆だ。特に若い世代では、70%以上が賛成している。これは「中国や韓国が介入するのは許せない」という感情的な反発によるものだろう。当ブログの『国家の品格』スレも、コメントが200に達してまだ続いているが、藤原氏を批判する人々がその事実誤認や論理の矛盾を指摘するのに対して、擁護する人々は「愛国心は理屈ではない」と反発するのが特徴だ。

教育基本法の改正でも、愛国心が論議になっているが、それは「伝統や郷土を愛する心」というような自然な感情ではない。愛国心が存在するためには、当然その対象である国家が存在しなければならないが、主権国家という概念は17世紀以降の西欧文化圏に固有の制度であり、家族や村落などの自然な共同体とは違う。国家は、ベネディクト・アンダーソンのいう想像の共同体であり、具体的な実体をもたないがゆえに、それを愛する心は人工的につくらなければならないのである。

近代国家が成功したのは、それが戦争機械として強力だったからである。ローマ帝国や都市国家の軍事力は傭兵だったため、金銭しだいで簡単に寝返り、戦力としては当てにならなかった。それに対して、近代国家では国民を徴兵制度によって大量に動員する。これが成功するには兵士は、金銭的な動機ではなく、国のために命を捨てるという利他的な動機で戦わなければならない。逆にいうと、このような愛国心を作り出すことに成功した国家が戦争に勝ち残るのである。

こういう利他的な行動を遺伝子レベルで説明するのが、群淘汰(正確にいうと多レベル淘汰)の理論である。通常の進化論では、淘汰圧は個体レベルのみで働くと考えるが、実際には群レベルでも働く。動物の母親が命を捨てて子供を守る行動は、個体を犠牲にして種を守る「利他的な遺伝子」によるものと考えられる。ただし、こういう遺伝子は、個体レベルでは利己的な遺伝子に勝てないので、それが機能するのは、対外的な競争が激しく、群内の個体の相互依存関係が強い場合である。内輪もめを続けていると、群全体が滅亡してしまうからだ。利他的行動は戦争と共進化するのである。

人間の場合にも、利己的な行動を憎む感情の原因は、利他的な遺伝子だと考えられるが、ミーム(文化的遺伝子)の影響も強い。そもそも明治以前には、日本という国民国家が成立していなかったのだから、愛国心という概念もなかった(したがって江戸時代の武士道を引き合いに出して国家を論じる藤原氏の議論はナンセンス)。しかしアジアが帝国主義諸国の植民地支配下に置かれるなかで、日本は急いで国家意識の育成につとめた。その天皇制のミームが近代化を支えたわけだが、他方ではそれが暴走して破局的な戦争をまねいた。

ミームも多レベルで進化するから、愛国心(利他的なミーム)が機能するのは、国家間で争いが激しく、国内ではあまり激しくない場合に限られる。現在のように対外的に平和になる一方、国内で競争が激しくなると、愛国心が薄れるのは当然である。それを強めるには、愛国心教育を行うよりも、対外的に敵をつくるほうが有効だ。その意味で、中国や韓国を挑発して敵を作り出した小泉首相の演出は、なかなか巧みだったといえよう。

こういうナショナリズムは感情の問題だから、論理的に説得するのは無駄だし、「アジアの国民感情」を理由にして封じ込めようとするのは、かえって反発を強めてしまう。その感情は、靖国神社のようなシンボリックな装置によって演出されるものだから、散文的な「国立追悼施設」は代替策にはならない。むしろ小泉氏が引退して、安倍氏が参拝しなければ、問題は自然消滅するのではないか。いま日本が、中国・韓国と本当の意味で争う理由はないからである。
2006年08月23日 01:12

制度の経済学

Microeconomics: Behavior, Institutions, and Evolution

Samuel Bowles

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著者は、1970年代に「ラディカル・エコノミスト」として活躍した経済学者。本書にも、マルクスへの言及がたくさんあるなど、その影響は残っているが、分析用具は意外にオーソドックスだ。裏表紙では、Maskin、Rubinstein、Arrow、Binmoreといった主流派の巨匠が、本書を「最新の成果を踏まえたオリジナルな教科書」として賞賛している。日本のマル経のように「床屋評論家」にならないのは立派なものだ。

新古典派の教科書には、「市場」の説明はあっても「資本主義」の説明はない。そのコアであるArrow-Debreuモデルにおいて一般均衡の成立する条件がきわめて非現実であることはよく知られているが、その後この条件をゆるめる研究はみんな失敗し、そのうち一般均衡にはだれも興味をもたなくなった。しかし資本主義が(少なくとも社会主義よりは)うまく機能したことは事実だから、その理由は一般均衡のような「空想的資本主義」ではなく、もっと現実的なコーディネーション装置に求めなければならない。

本書は、そうした「制度」としての資本主義を、いろいろな分析用具を使って説明する。消費者行動の説明には限界効用ではなく行動経済学が使われ、企業の理論には不完備契約、経済全体のコーディネーションにはゲーム理論が使われる。特に重視しているのは、市場による分権的コーディネーションを支える制度としての財産権で、その発生を進化ゲームでシミュレーションしている。

ただ応用されている個々の理論は既知のもので、オリジナリティはあまりない。制度を内生的に説明しようとする点は(著者の盟友だった)青木昌彦氏の「比較制度分析」と似ているが、分析用具の選択がアドホックで、体系的に説明されていないので、教科書としては中途半端だ。明らかに初心者向きではないが、体系的なだけがとりえの新古典派の教科書に飽きた人には、それを補完する刺激的な「制度の経済学」の入門書としておもしろいだろう。
2006年08月22日 12:15
経済

Web2.0の経済学

Web2.0という言葉ほど、定義の不明なまま濫用されているバズワードも珍しい。いまだに「Web2.0って何だ?それを気にする必要はあるのか?」というコラムが書かれている。その特徴は、しいていえばユーザーによる情報生産ウェブベースのサービスという点だろう。このいずれも今に始まったものではないが、それが顕著な特徴としてみられるようになったのは最近である。その理由を少し経済学的に考え、概念を整理してみよう。

ネットワークの経済学というのは古くからある分野で、有名なのはBolton-Dewatripontだが、その基本的な考え方は単純だ。個人をプロセッサ、組織をネットワークと考え、情報処理コストと通信コストのどちらが相対的に高いかによってネットワークの構造が変わると考えるのである。簡単にいうと、情報処理コストが高いときには集中処理したほうがよく、通信コストが高いときには分散処理したほうがよい

電話網のような回線交換は、情報処理コストが禁止的に高いとき、交換機でネットワークを集中的にコントロールするもので、端末は電話機のようなdumb terminalになる。これに対してインターネットのようなパケット交換は、(専用線の)通信コストがきわめて高いとき、ネットワークを共有して必要なときだけパケットを送るものである。ここでは個々のホストが自律的な単位で、ネットワークはホストを結ぶだけのdumb networkになる。これが「ユーザーがネットワークをコントロールする」というインターネットのE2Eの構造である。

しかしインターネットが一般ユーザーに普及すると、E2Eの原則は非現実的になる。ユーザーの処理能力が情報量の増加に追いつけないので、ISPのメールサーバやウェブサーバなどで代行処理するようになるわけだ。これをWeb1.0と定義すると、それは原初的なE2Eに比べて、個人の情報処理コストが上がったため、ネットワークのコントロールを部分的にサーバに集中するものである。ここでは通信インフラは主としてダイヤルアップなので、処理はサーバ側に任せきりにすることが多い。

ではWeb2.0とは何か。それはブロードバンド(常時接続)によってネットワークに滞留するコストが大きく低下すると同時に、ウェブ・アプリケーションの発達でユーザーの情報処理能力が上がった結果、分散的に情報生産が行われるようになったものと考えることができる。他方、インフラやプラットフォームはサーバ側に集中する傾向が強いが、その役割はユーザーの情報生産をサポートする従属的なものになる。この点で、インフラは超集中型だが、情報のランキングはユーザーによるリンクの数で決めるグーグルは、Web2.0のモデルといえよう。

こういう変化は、ファイナンスの世界ではよく知られている。インターネットで一時はやったdisintermediation(中抜き)という言葉も、もとはファイナンス用語で、ITの発達によって銀行のような金融仲介機能が不要になり、「直接金融」に移行するという意味で使われたものだ。しかし現実にはそんなことは起こらず、証券会社やファンドのようなリスクとリターンを顧客がコントロールする仲介機関が相対的に増えただけである。Web1.0がリスクもリターンもサーバ側でプールする「銀行型」だったとすると、Web2.0の特徴は、そのコントロールをユーザーにゆだねる「証券型」である。

これまではインフラと情報をともに集中するか分散するかという選択しかなかったが、これをレイヤー別に分解し、インフラはサーバ側に集中し、情報処理はユーザー側に分散するのがWeb2.0の特徴だと考えれば、統一的に理解できるのではないか。これはブロードバンドで物理的な通信コストが下がる一方、ムーアの法則によって情報処理コストも指数関数的に低下し続けているためである。もちろん銀行と証券が併存しているように、1.0と2.0も併存するだろうが、仲介機能の多様化にともなって後者の比重が高まってゆくと予想される。

しかし今後、インターネットで映像が伝送されるようになると、通信コストが相対的に高くなり、サーバがボトルネックになる可能性が高い。したがってWeb3.0が登場するとすれば、それはインフラも情報処理もピアに分散してユーザー側でコントロールするP2P型だろう。
2006年08月21日 01:49
IT

RSSリーダー

このごろ、グーグルよりもRSSリーダーを使うほうが多くなった。グーグルはノイズが多く、日付順に表示するオプションがないので、最新情報をフォローするのには向かない。なぜか他の検索エンジンも、この点はグーグルと同じで不便だ。RSSのフィードをチェックするだけなら、FireFoxのライブ・ブックマークがいちばん簡単だが、量が多くなると見にくいので、このごろはリーダーで見ることが多い。いろいろ試してみたが・・・
  • gooリーダー:これまで主として使っていたが、デザインが野暮ったく、記事の保存も特定のレイアウトでないとできないなど、使いにくい。RSSの登録も、いちいちRSSマークをさがしてURLをコピーしなければならない。しかしキーワードを設定して自動的に検索する機能は便利なので、たまに使っている。
  • livedoor Reader:デザインはほとんどBloglinesのコピーで、人気サイトをリストから選べるのは便利だが、項目の一覧表示ができないなど、オプションが少ない。表示にいちいち新しいウィンドウを開くので、ウインドウだらけになる。
  • はてな:ソーシャル・ブックマークとしては日本最大だが、その人気記事にはゴミが多く、情報収集の役に立たない。RSSリーダーは使いにくく、機能もデザインも貧しい。
  • テクノラティ:この種のサービスの老舗。キーワードを設定して検索する「ウォッチリスト」など独自の機能もあるが、多くのサイトを一覧できないなど、機能に限界がある。
  • Google Reader:デザインが特殊で、使いにくい。ベータ版。
  • Bloglines:機能もデザインも、ほぼ満足できる。表示や編集のオプションも多く、使いやすい。英語のサイトなら、上位200のリストから簡単に登録できる。Time誌の"50 Coolest Websites"に、RSSリーダーとしては唯一選ばれた。日本語にも対応しているが、日本のサイトのリストはまだ出てこない。
というわけで、最近はもっぱらBloglinesを使っている。ブログだけでなく、ニュースもこれで見ることが多い。そのうち、これが私のブラウザの既定ホームページになるかもしれない。
2006年08月19日 02:35
メディア

放送ゼネコン

CBSが、9月から始まる新番組"Evening News with Katie Couric"をウェブで同時放送すると発表した。これはネットワーク局としては初めてである。これまでテレビ局が同時放送をためらっていたのは、それが広がると、ただでさえ難航している地上デジタル放送が、インターネットに中抜きされてしまうことを恐れていたからだ。しかしテレビ視聴者が高齢化しているため、スポンサーから若い視聴者を獲得するよう求められ、背に腹は代えられなくなったというのが実情らしい。

他方、日本では、海外から日本の番組を見る「まねきTV」のサービス中止を求めて訴訟を起こしていたテレビ局が敗訴した。同様の事件としては、昨年「録画ネット」事件でテレビ局側が勝訴したが、今回の判断はその流れを変えるものだ。こうした一連の訴訟の背景には、同様のサービスであるサーバー型放送と競合するサービスをつぶそうというテレビ局のねらいがある。

アメリカでも日本でも、デジタル放送が行き詰まっている状況は同じだが、アメリカでは曲がりなりにもインターネットに対応しようとしているのに、日本ではもっぱら後ろ向きの妨害工作に懸命だ。おまけにコピーワンスとかサーバー型放送とか、既得権を守るための「独自技術」まで開発している。よくもこういう後ろ向きの知恵ばかり次々と出てくるものだ。

しかしNHKの元同僚によれば、テレビ局の経営者には、良くも悪くもそんな知恵はないという。こういう知恵をつけるのは、家電メーカーらしい。メーカーの中でも放送部門は、民生品とほとんど同じ機材をテレビ局に随意契約で高く売りつけてもうけているので、利益率は高いが、成熟分野で、いつもリストラの対象にあげられている。そこで、こういう後ろ向きの技術を開発して、またテレビ局から金を引き出そうというわけだ。要するに、テレビ局も「放送ゼネコン」の食い物にされているのである

デジタル放送は、家電メーカーにとっては、サービスが失敗しても大型家電が売れるノーリスク・ハイリターンだが、テレビ局にとっては投資リスクは大きく増収はゼロのハイリスク・ノーリターンである。こういうプロジェクトに1兆円以上つぎこむのは、お人好しというしかない。テレビ局も、そろそろだまされていることに気づいてはどうだろうか。
2006年08月18日 03:04

情報時代の戦争

Fiasco: The American Military Adventure in Iraq

Thomas E. Ricks

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ワシントン・ポストの特派員として5年間、イラク戦争に従軍した著者が、なぜこの「大失敗」が起こったのかを明らかにする。大筋は、これまでのイラク本(たとえば『戦争計画』)とそう違わないが、イラク戦争終結後の占領政策の失敗に重点が置かれている。

1991年の湾岸戦争の際にフセイン政権を倒せなかったため、ウォルフォウィッツ国防副長官(本書の主役)をはじめとするネオコンは、いつかフセインを政権から追放しようとねらっていた。CIAが大きく間違えた原因も、最初にイラクを攻撃するという結論ありきで、それにあわせて都合のいい情報だけが集められ、ホワイトハウスに報告されたためだ。

致命的だったのは、イラクが大量破壊兵器を保有しているという2003年2月のパウエル国務長官の国連演説と、それに続くメディアの翼賛報道だった。特にNYタイムズのジュディス・ミラー記者は、米軍がバグダッドで「巨大な化学兵器工場」や「移動式の生物兵器研究室」を発見したという類の「スクープ」を連日のように放ったが、その情報源チャラビ(元亡命政権代表)は詐欺師だった。

さらに問題だったのは、戦争の計画はあっても、戦後の復興計画がなかったことだ。ネオコンたちは、第2次大戦後の日本の例を引いて「イラクに民主政権ができれば、国民は喜んで米軍を迎えるだろう」と主張した。悪いことに彼らは、この嘘を自分で信じていたため、占領政策については何も考えていなかったのである。状況は日本よりもベトナムに似ていたのだが、その泥沼の教訓は生かされなかった。

最新の情報技術で武装した軍隊によって、最小の犠牲で効率的に戦争を終わらせる、というラムズフェルド国防長官のRMA(軍事の革命)は、自爆テロを相手にした市街戦では通用しなかった。むしろ情報の重要性は、皮肉なことに、お粗末な情報収集と予断による情報分析がいかに破局的な失敗をもたらすかという点で示されたといえよう。
2006年08月17日 23:08
科学/文化

Pandora

自宅では、ほとんどPCを見ながらラジオを聞いている。ラジオといっても、日本のラジオはしゃべりばかりでうるさいので、インターネットラジオだ。しかし、これはいろいろな曲がランダムに出てくるので、じゃまになることもある。かといって、HDDの中のMP3ファイルばかり聞いていても、バラエティが限られる

・・・というとき便利なのが、Pandoraだ。これは、たとえば"Pat Metheny"というキーワードを入れると、ウェブサイトでそれに似た曲をさがしてストリーミングするシステムである。まったく知らないミュージシャンが、Methenyそっくりの演奏をしていたりして、なかなか楽しめる。これはレコード会社にとっても、無名のミュージシャンのプロモーションになるだろう。

しかし日本では、この種のサービスは不可能に近い。JASRACが、煩雑で高価なライセンス契約で、音楽のネット配信を事実上、禁止しているからだ。そういう行為が自分の首を絞めていることに彼らが気づくのは、いつだろうか。
2006年08月16日 02:04
IT

第5世代コンピュータ

渕一博氏が死去した。彼は、1980年代の国策プロジェクト「第5世代コンピュータ」を進める新世代コンピュータ技術開発機構(ICOT)の研究所長だった。私もICOTは何回か取材したが、発足(1982)のころは全世界の注目を浴び、始まる前から日米で本が出て、欧米でも似たような人工知能(AI)を開発する国策プロジェクトが発足した。ところが、中間発表(1984)のころは「期待はずれ」という印象が強く、最終発表(1992)のころはニュースにもならなかった。

1970年代に、通産省(当時)主導で行われた「超LSI技術研究組合」が成功を収め、日本の半導体産業は世界のトップに躍り出た。その次のテーマになったのが、コンピュータだった。当時はIBMのメインフレームの全盛期で、その次世代のコンピュータは、AIやスーパーコンピュータだと考えられていた。通産省の委員会では、国産のAI開発をめざす方針が決まり、第5世代コンピュータと名づけられた。これは、次世代の主流と考えられていた「第4世代言語」(結局そうならなかったが)の先の未来のコンピュータをめざすという意味だった。

ICOTには、当初10年で1000億円の国家予算がつき、国産メーカー各社からエースが出向した。その当初の目標は、自然言語処理だった。プログラミング言語ではなく日本語で命じると動くコンピュータを目的にし、推論エンジンと知識ベースの構築が行われた。システムは、Prologという論理型言語を使ってゼロから構築され、OSまでPrologで書かれた。これは、Prologの基礎になっている述語論理が、生成文法などの構文規則を実装する上で有利だと考えられたからである。

エンジニアたちは、当初は既存の言語理論をソフトウェアに実装すればよいと楽観的に考えていたが、実際には実用に耐える自然言語モデルがなかったので、言語学の勉強からやり直さなければならなかった。彼らは、文法はチョムスキー理論のような機械的なアルゴリズムに帰着するので、それと語彙についての知識ベースを組み合わせればよいと考えていたが、やってみると文法解析(パーザ)だけでも例外処理が膨大になり、行き詰まってしまった

結局、自然言語処理は途中で放棄され、「並列推論マシン」(PIM)というハードウェアを開発することが後期の目標になった。しかし肝心の推論エンジンができておらず、その目的である自然言語処理が放棄された状態で、並列化して処理速度だけを上げるマシンに実用的な用途はなく、三菱電機が商品化したが、まったく売れなかった。予算も使い切れず、最終的には570億円に減額された。その成果は、アーカイブとして残されている。

ICOTは、1980年代初頭というコンピュータ産業の分岐点で、メインフレームを高度化する方向に国内メーカーをミスリードし、IBM-PCに始まるダウンサイジングへの対応を10年以上遅らせた点で、大きな弊害をもたらした。また産業政策としても、史上最大の浪費プロジェクトだったといえよう。これほど高価な授業料を払ったにもかかわらず、最近の「日の丸検索エンジン」の動きをみていると、その失敗の教訓は生かされていない。

しかし学問的には、ICOTの失敗によって、人間の知能に対する機械的なアプローチが袋小路であるということが実証された点には大きな意義があった。自然言語の本質はプログラミング言語のような演繹的な情報処理ではなく、脳はノイマン型コンピュータではないことが(否定的に)明らかになったからである。ではそれが何なのかは、いまだに明らかではないが・・・

追記:ICOTの当初の方針も、「非ノイマン型」の並列処理を行うことだったが、実際にできたPIMは、複数のCPUを並列につないだ「拡張ノイマン型」だった。その後、AIの主流はニューロコンピュータのような超並列型に移ったが、汎用的な成果は出なかった。

追記2:訃報の記事としてはあんまりだというコメントもあったので、個人的な思い出をひとつ:渕さんは哲学者的な感じの人で、第5世代の産業的な成功は信じていなかったように思う。ICOTの「孤立主義」を批判し、世界のAIの主流だったLispを採用すべきだという意見もあったが、彼は「成功しても失敗しても、仮説は単純なほうがいい」として、折衷的なアプローチを拒否した。

2006年08月13日 15:40

自壊する帝国

自壊する帝国

佐藤優

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ゴルバチョフの登場からソ連の崩壊後までの7年あまり、モスクワに駐在した著者が、ソ連という「帝国」の崩壊する過程を同時代的に体験した記録。政治家だけではなく、反政府活動家や宗教家などとの交流から、ロシア人の内面に入り込み、80年代までにソビエトという帝国が精神的に空洞化し、内部から崩壊していたことを明らかにする。

モスクワ大学の「科学的無神論学科」では、宗教を批判するという名目でキリスト教が研究されていた。宗教が公式に禁止されてから70年以上たっても、ロシア人の心のよりどころはキリスト教だったのである。マルクス主義は結局、そういう求心力を持ちえなかった。レーニンが「弁証法的唯物論」と称してでっち上げた素朴実在論が党の教義となり、精神の問題を完全に無視したからだ。ちなみに、弁証法的唯物論なる言葉は、マルクスの著作には一度も出てこない。

他方、チェチェンにみられるようなナショナリズムは、今なお強い求心力をもち、ロシア連邦の同一性を脅かしている。第2次大戦でドイツを撃退した力の源泉も、イデオロギーではなく、「国土を守れ」というナショナリズムだった。キリスト教も国民国家も人為的につくられた幻想にすぎないが、豊かなシンボリズムをそなえた幻想は、社会主義の貧しい現実よりも現実的だったのである。

ただし、本書は著者の個人的な交友関係を中心とした「ミクロ的」な叙述に終始し、全体状況がよくわからない。あとがきでは、全体の話は宮崎学氏との対談『国家の崩壊』(にんげん出版)を読めと書いてあるが、この本はゴルバチョフと小泉首相を同列に扱う宮崎氏の床屋政談で台なしになっており、おすすめできない。
2006年08月11日 01:49

シリコンバレー精神

シリコンバレー精神 -グーグルを生むビジネス風土

梅田望夫

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文庫になるのは、古典とはいわないまでも、年月がたっても「腐らない」本が普通で、IT業界の本が文庫になるのは異例である。『ウェブ進化論』が大ヒットしたおかげだろう。本書の主要部分は、1996年から2001年までに書かれたエッセイだが、最後に現在の状況について書いた「文庫のための長いあとがき」がついている。先にあとがきを読み、そこに参照されている本文にリンクするように読めと書いてあるが、これは読みにくい。

本文にも1ヶ所だけ、グーグルが出てくる。「すばらしい検索技術をもっているが、どうやって資金を調達すればいいかわからないベンチャー」という2001年の状況だ。この年は、ドットコム・バブル崩壊の翌年で、シリコンバレーから資金が急速に引き上げられていた。検索も金にならないということで、多くの検索サイトは自社開発をやめ、グーグルのエンジンを使い始めた。こういう状況で、グーグルは逆に自社技術の開発に投資したのである。

結果としてグーグルが生き残ったのは、彼らが未来を的確に予測していたからではなく、著者のいうように「1社だけ人とは違うことをしていた」からである。環境がどう変化するかわからないときには、人と違うことをする「おかしな会社」が多いほど、企業システム全体も生き残る確率(オプション価値)が高くなる。これは「シリコンバレー精神」というよりは「風土」みたいなもので、他の国でまねるのはなかなかむずかしい。

もう一つは、ファイナンス構造が、日本のベンチャー(というか中小企業)のように「私財を投げうって」創業し、失敗したら莫大な借金を背負って人生は終わり、という「超ハイリスク型」とは違うことである。VCの「失敗しても返さなくてもいい金」を借りて冒険でき、こけても創業者の負うリスクは限定されているので「再チャレンジ」できる。

週刊東洋経済の読書特集で、いろいろなIT本を読んでみてわかったが、その大部分はマニュアルやハウツー本で、書物として読むに耐えるものはほとんどない。『ウェブ進化論』は、2006年現在のインターネットの全体像を日本語でのべている唯一の本といってもよい。本書のあとがきは、その付録として読むこともできるが、本文はさすがに古くなっている。
2006年08月09日 21:04
経済

ロングテールの虚妄?

WSJに"The Long Tail"批判記事が出ている。筆者のLee Gomesによれば、「オンライン音楽サイトの曲の98%は四半期に1度は演奏(ストリーム)される」というChris Andersonの「98%ルール」は、実証データによって反証されるという。たとえば、
  • Andersonがこの「法則」の根拠としたEcastの最新のデータでは、四半期に1度も演奏されない曲が12%に増えている
  • Rhapsodyでも、まったく演奏されない曲が22%にのぼる
  • Ecastでは、10%の曲がストリームのの90%を占める
  • Bloglinesでも、トップ10%の記事のRSSフィードが登録数の88%を占め、35%の記事にはまったく読者がいない
といったものだ。これは十分ありうることだが、Andersonの論旨をくつがえすものではない。彼の本質的な発見は、ウェブ上の情報の分布がベキ分布になっているということであり、テールがどの程度長いかということではないからである。

むしろ彼の議論の欠点は、実証データを系統的に検証していないため、それがどこまでベキ分布に近いかが、はっきりしていないことだ。もし完全なベキ分布になっていれば、彼が強調しているように、テールが長くなると同時にヘッドが低くなって「ブロックバスター」が減るという現象は考えにくい。ベキ分布は、45度線について対称なので、テールが長くなると、ヘッドも高くなるはずである(現実にそうなっている)。

もう一つのAndersonの議論の問題点は、分布のベキ係数(対数グラフでみたときの傾き)の変化と、分布の右端の切れていたテールの出現が混同されていることである。アマゾンでテールの比重が高くなるのは、かつては倉庫スペースなどの制約で市場に出てこなかった商品が売れるようになったことによるもので、分布関数の変化ではない。ちょうど潮が引いて氷山が水面上に姿を現すように、ITによって取引費用が下がったことで、テールの部分の市場が見えてきたわけだが、このように氷山の全体像が見えたことは重要である。

これまでのようにベキ分布のテールの部分が大きく切れていると、正規分布で近似できる。市場データも、1日単位の粗いデータで見ると、ランダムウォークで近似できる。それをこれまでの経済学者は、経済現象の本質と取り違え、ほとんどの統計データを正規分布で近似してきた。正規分布で平均値をとれば、集計的には決定論的なデータと変わらないからである。しかしベキ分布では、平均や分散という概念は意味をもたない

いずれにしても、この種の問題は、まずいろいろなデータを集めて解析してみないと、実態がわからない。Andersonの本は、少ないサンプルを繰り返し使っていろいろ憶測しているが、経済学者がもっと系統的に調べる必要があるだろう。そういう研究会を立ち上げようかと思っているので、データ解析やネットワーク理論に興味と知識のある方は、連絡をください。

追記:Odlyzko et al.が、ロングテールを「ネットワークの価値」という観点から論じている。

追記2:"The Long Tail"の訳本が9/25に早川書房から出るそうだ。

情報通信審議会が「新しい外国人向け国際放送」のあり方を検討するそうだ。これは6月の政府・自民党合意で、NHKの子会社と民放で国際放送を行うと明記されたのを受けたもので、情通審では今後、放送内容や財源などを検討するそうだが、根本的な問題が抜けている。それは何のために「情報発信」するのかということだ。

現在のNHKの国際放送(ラジオ短波放送と在外邦人向け衛星テレビ放送)は、情報発信のためのものではない。したがって、まったく新たに海外向けの外国語放送を行う会社をつくるものと考えるしかないが、その位置づけが不明だ。国際放送は欧米各国にあり、たとえばVoice of Americaは米国政府による宣伝放送である。これは北京放送やピョンヤン放送と同じ、軍事・外交的な情報操作の一環であり、政府支出によって行うのが普通である。

ところがNHKの国際放送は、目的が曖昧なまま、国内の視聴者から集めた受信料で運営されてきた。今度の新会社がVOAのようなものだとすれば、こういう宣伝放送をNHKや民放が行うのは、ジャーナリズムとして自殺行為である。予算は100%政府支出でまかない、放送局は政府から広告料をとって番組を供給する立場に徹すべきだ。

さらに問題なのは、どういう情報を発信するのかということだ。NHKの番組でさえ欧米では商品にならないし、民放の番組に至っては、英語に吹き替えて海外に流すのは、ほとんど日本の恥をさらすようなものだ。規制と日本語の壁に守られ、低レベルの番組を高コストで作り続けてきた日本の放送業界は、きわめてドメスティックであり、海外に発信できるような情報がそもそもないのである。

こういうとき「ソフトパワー」という言葉がよく使われるが、ハリウッドの映画がソフトパワーを持っているのは、それが競争の中で観客に選ばれたからだ。したがって世界に通用する番組をつくるには、NHKを民営化し、浪費されている電波を再編して、放送業界に競争を導入する必要がある。ところが政府は逆に、NHK国営化の方向に舵を切ってしまった。多様で質の高い情報が国内でも流通するようにならなければ、海外からも相手にされないし、逆にいいものができれば、政府が支援しなくても、おのずからグローバルに売れる。結局、日本文化の質を高める以外に、世界から尊敬される近道はないのである。
2006年08月08日 10:57
法/政治

グーグルか著作権か

CNETのDeclan McCullaghの記事によれば、グーグルは何件もの訴訟を抱えているようだが、そのうちもっとも重要なのはキャッシュをめぐるものだ。これまでにも、キャッシュの削除と損害賠償を求める著作権者からの訴訟は何件も起こされ、グーグル側が敗訴(あるいは和解)している。この種の訴訟に対するグーグルの反論の根拠は「フェアユース」しかないようだが、これは弱い。グーグルは、ISPのように著作権法の「セーフハーバー」で保護されていないからである。インターネット上のサービス業者のうち、ISPだけはセーフハーバーによって免責されているが、他の業者は賠償責任を負うのである。

しかしISPのセーフハーバーも、最初からあったわけではない。アメリカでも、ウェブが普及し始めた1990年代後半には、著作権法違反のコンテンツをホームページに掲示させたとしてISPが訴えられる事件が頻発した。最初はISPが敗訴するケースが多かったが、1996年のネットコム事件のように、ISPがあらかじめ違法行為を知らない限り責任は負わないという判決も増えた。ホームページの数が数億になると、それをすべてISPに事前チェックさせるのは非現実的だという判断が支配的になった。

アメリカはコモンローの国だから、法律が常識に合わない場合には、常識にあわせて法律を柔軟に解釈する判決が出て、そういう判例の積み重ねによって実質的な法改正が行われ、これを立法府が追認するという形で法律が改正されることが多い。著作権法の場合も、こうした判例をもとにして、1998年にDMCAで、OSP(online service provider)は「違法の事実を知らされたら削除する」という事後処置の義務だけを負うセーフハーバーが設けられたのである。

今後、ナプスター事件のようなサービス差し止め訴訟がグーグルで起きたら、同様にグーグルがOSPかどうかが争点になろう。ナプスターの場合には、P2Pサイトは接続を提供していないのでOSPではないという判例ができ、あとの裁判もこれを踏襲した。グーグルのキャッシュも、第三者に接続を提供しているのではなく、自分で複製しているのだから、この基準に従うと、グーグルが敗訴する可能性が高い(同様にAkamaiなどのCDNも危ない)。

だがナプスターと違うのは、グーグルは今や世界のインターネット・ユーザーのほぼ半数が使っているインフラだということである。ここでグーグルのサービスをアメリカの裁判所が差し止めたら、全世界から抗議が殺到するだろう。それに配慮して常識的に判断すると、何らかの救済措置をとる判決が出る可能性もある。こうした判例が積み重ねられれば、最終的にはDMCAの改正に至るかもしれない。

すべてのデジタル情報の違法性を原則として事前にチェックすることをサービス業者に義務づけ、例外としてISPだけを免責する現在の著作権法(世界的に)は、インターネットの現実にあわない。逆に、すべてのサービス業者を原則として免責し、意図的に違法なコンテンツを掲示した場合に限って賠償責任を負わせるべきである。こうした問題点を明確にして法改正を実現するには、むしろグーグルがいったん敗訴して、キャッシュの提供を差し止める命令が出され、「グーグルか著作権か」という状況になったほうがわかりやすい。

日本の場合には「送信可能化権」という奇妙な権利をつくったため、問題が複雑になっているが、司法的にも立法的にも、ほぼ3年ぐらい遅れてアメリカのあとを追っているので、アメリカだけ見ていれば足りるだろう。
2006年08月07日 22:43
経済

差異性の経済学

東洋経済の読書特集で一番おもしろかったのは、『国家の罠』の著者、佐藤優氏の「獄中読書記」である。拘置所では集中力が高まり、512日間で220冊読んだそうだが、彼がグローバル資本主義を理解する上でもっとも役に立ったのが、宇野弘蔵だったという。

私の学生時代、東大の経済学部には「原論」がAとBの二つあって、Aがマル経、すなわち宇野経済学だった。宇野の特徴は、マルクス経済学を「科学的に純化」し、イデオロギー性を抜きにして『資本論』の論理を洗練しようというものである。これは、世界的にみても珍しいマルクス主義の進化だった。もちろん「党」からの批判も強く、党の方針に従う人々は京大を中心にして「マルクス主義経済学」を名乗ったが、学問的な水準は宇野に遠く及ばなかった。

宇野の理論でグローバル資本主義を説明できる、という佐藤氏の直感は正しい。その論理構造は、ウォーラーステインの「近代世界システム」とよく似ている(というか宇野のほうが先)。要するに、資本主義は差異によって利潤を生み出すシステムだという考え方である。その限界が、宇野によれば恐慌なのだが、弟子の鈴木鴻一郎(*)や岩田弘などの「世界資本主義」派は、差異化のメカニズムを世界市場に拡大し、植民地との間にグローバルな差異をつくり出すことによって資本主義を延命したのが帝国主義だとする。こういう議論は岩井克人氏や柄谷行人氏の話でもおなじみだが、これはもちろん彼らが宇野をパクっているのである。

宇野のマルクス解釈は、「ポストモダン」を先取りしてもいた。デリダは『マルクスの亡霊』で、マルクスが価値の実体は「幽霊的」なものだとして古典派経済学の形而上学を批判したことを高く評価したが、結局は労働価値説に価値実体を求めたことを批判した。これに対して宇野理論は、「流通過程が生産過程を包摂する」という論理で、事実上、労働価値説を放棄しているので、近経とも接合しやすい。

均衡=同一性を原理とする新古典派経済学では、利潤が継続的に存在する事実を説明できない。それに対して、差異性を原理とする宇野の理論は、現実の市場を定性的にはよく説明しており、経済物理学や行動ファイナンスのように、均衡の概念を否定する最近の理論にむしろ近い。宇野のスコラ的な文体では使い物にならないが、これをうまくリニューアルして現代の経済学と接合すれば、新しい経済システム論を生み出す可能性もある。

ただ佐藤氏も指摘するように、宇野の限界は、こうした差異化のシステムの基礎に国家権力があるという側面を軽視したことだ。マルクスも最終的には、資本論→世界市場論→国家論という巨大な「三部作」構成を考えていたが、この場合の国家は、あくまでも「上部構造」として経済的な土台から説明されるものだった。これは「市民社会の矛盾を国家が止揚する」というヘーゲル法哲学の思想で、今なお社会科学の主流である。

現代の問題は逆に、貨幣とか財産権などの制度の背後に政治があるということだ。こうした制度が自明に見えているときには、グローバル資本主義は安定した秩序として維持できるが、通貨危機が起こってIMFが介入したり、「知的財産権」を侵害するデジタル情報がグローバルに公然と流通したりするようになると、その自明性は失われ、背後にある政治性(ワシントン・コンセンサスやハリウッドの文化帝国主義)が露出してくるのである。

(*)宇野と鈴木の名前を合成したペンネームが「宇能鴻一郎」だったというのは、嘘のようなほんとの話。
2006年08月07日 09:14

夏休みの読書リスト

きょう発売の週刊東洋経済の読書特集で、「Web2.0とインターネットの未来」というテーマで(無理やり)10冊選んだ:並べ方は本文で言及した順であり、すべての本を強くおすすめするわけでもない。内容についてのコメントは、週刊東洋経済を読んでください。
2006年08月06日 11:10
IT

ウェブの先史時代

Web2.0の便乗本が、たくさん出ている。たとえば神田敏晶『Web2.0でビジネスが変わる』(ソフトバンク新書)は、「Web2.0とはCGM(消費者生成メディア)のことである」と単純明快に断じ、CGMの例ばかりあげているお手軽な本だが、これは間違いである。CGMは、いま初めて出てきたものではない。昔のGopherにしてもネットニュースにしても、インターネット上のサービスは、もとはすべて消費者の作ったものだったのである。こういうウェブの「先史時代」を知ることは、今後の進化を予測する上でも重要だ。

モザイクでウェブがデビューしたとき、それが他のサービスと違っていたのは、むしろそれまでに比べてマスメディアに近づいたことだった。当時ネットニュースは、今の2ちゃんねるのような無政府状態だった。それに対して、ブラウザは文字どおりbrowseするだけで書き込めないから、双方向性はないが、無政府状態になる心配はなかった。ウェブの特徴は、こうして情報の生産者と消費者を区別して、秩序を維持できることだったのである。

さらにウェブ上でビジネスが始まると、ウェブサイトの作者はプロフェッショナルになり、データ量も膨大になり、デザインも凝ったものになった。ハードウェアも、初期のインターネットはすべてのホスト(主としてDECのミニコン)が同格につながるE2Eの構造だったのに対して、ウェブではクライアント=サーバ型の構造がブラウザとウェブサイトの間に成立した。特にほとんどのユーザーがISPを使うようになると、固定IPアドレスも持たなくなり、ユーザーとサービス提供者との非対称性はきわめて大きくなった。

この傾向が逆転し始めたようにみえたのは、ブログだろう。しかし、これも初期のMovable Typeでは、自分でレイアウトしなければならなかったが、そのうちにほとんどは、当ブログのようにISPにホスティングされるものになった。自分でホームページを作っていたころに比べると、ユーザーの自立性は弱まっている。ブログの数が全世界で4000万近いといっても、10億人を超えたインターネット・ユーザーの4%にすぎない。Wikipediaも、ユーザーの1%以下の「プロ」が半分以上の項目を編集している。

だからWeb2.0になってユーザーの力が強まったとか、「総表現社会」が来たとかいうのは錯覚である。アクティブなユーザーの数が増えるのは、母集団が増えているのだから、当たり前だ。インターネットが成長するにつれて、比率としては大部分のユーザーは受動的になり、マスメディアに近づいているのである(*)。極端なのはグーグルだ。その構造は、巨大なコンピュータに世界中の端末がぶら下がるIBMのメインフレームとほとんど同じである。

TCP/IPには、この20年以上、本質的な技術革新がなく、これは今後も(見通せる未来にわたって)変わらないだろう。しかしウェブ(HTTP)は、その上のサービスの一つにすぎず、インターネットの進化がウェブのバージョンアップにとどまるはずはない。今後リッチ・コンテンツが増えると、負荷を分散するため、リンクとファイル転送を切り離すP2P型が増えるのではないか。検索もP2Pで行い、インターネット全体を超並列コンピュータとして使うようなアプリケーションが出てくるかもしれない。そしてP2Pの原理は、E2Eに他ならない。インターネットは、変わっているようで変わっていないのである。

(*)誤解のないように付け加えると、私はウェブがマスメディアになるといっているのではない。初期のユーザーは、いわば「ヘッド」だけだったが、ウェブが普及するにしたがって「ロングテール」の部分が伸びているのである。ドットコム・ブームのころにもprosumerという言葉が流行したが、現実にはヘッドとテールは質的にはっきりわかれている。


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