本欄は桜井淳の水戸事務所とカリフォルニア事務所とニューヨーク事務所の(1)業務内容(2)桜井所長の日米大学での作業内容(3)米国での活動内容(4)日本での専門家養成のための学術セミナー開催案内等を掲載するHP代わりの硬いブログです。最近は事務所スタッフが月1回の割合で最新情報の更新をしています。 各項を順序よく読むと(a)事務所業務内容(b)桜井所長経歴・哲学・著書(c)学術セミナー内容(d)米国での活動内容等情報の価値が分かります。著作権・情報のオリジナリティを確保するために本ブログのコピー・引用・電子媒体へのリンクはすべて禁止します。事務所への連絡・意見はアメーバ会員に手続きすれば右欄の「メッセージを送る」によって誰でも自由にできます。このブログのUSA版も暫定的に公開中です。

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【事務所報告】「第5回(観梅期)弘道館・偕楽園公園の歴史・自然探訪セミナー」開催案内

Mon, February 08, 2010 Theme: ブログ stanford2008の投稿

セミナー実施内容については昨年10月のバックナンバーを参照してください。開催日は、 2/27, 3/6, 3/13, 3/20, 3/27です。今回の集合場所は分かりやすい千波公園です。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-千波公園の五分咲きの白梅 桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-千波公園の五分咲きの紅梅
千波公園の五分咲きの白梅(2010.2.9)_____________千波公園の五分咲きの紅梅(2010.2.9)



【事務所報告】桜井淳所長の2010年2月の実施事項【メルマガ会員限定情報】

Mon, February 01, 2010 Theme: ブログ stanford2008の投稿

【事務所報告】桜井淳所長の講演要旨「作家大江健三郎論」

Mon, February 01, 2010 Theme: ブログ stanford2008の投稿

作家の大江健三郎氏は、30歳の時、「ヒロシマ・ノート」(岩波新書、1965)を発表しました。その書は、これまでに83刷に達し、多くの人々に思考の深さを知らしめました。大江氏は、その前の年に、自身の長男が障害を持って生まれ、失意の中、それをテーマにした純文学作品「個人的体験」(1964年に書き下ろし、新潮社からは1994年に刊行)を発表しました。次ぎの仕事として、やはりお子さんを亡くして悲しみの中の「世界」編集部の安江良介氏とともに、広島を訪問しました。大江氏のそのレポートは、実によく人間を考察し、重厚な社会科学の論文になっており、改めて大江氏の実力を再確認しました。大江作品は、人間の根源的な「生きる力」をテーマにしていますが、それは、自身のお子さんへの愛と苦悩をとおし、人一倍、人間に対する優しさのようなものが育まれた結果です。実に力強い作品に仕上がっています。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-大江健三郎「個人的な体験」
大江健三郎「個人的体験」(新潮社、1994)


私は大江作品をすべて熟読・吟味しています。大江氏は、思考が深く、人間の本質を追究しており、哲学の世界です。大江氏の「沖縄ノート」(岩波新書、1970、56刷)等には、思わず、震え上がる真実が記されています。


大江氏は、他の作品の中で、訪問先の広島の爆心地の川で行われた死者の霊を弔うための"精霊流し"に、生存している長男の氏名を記して流したと告白しています。障害を持った長男に対する苦悩の表現と解釈できます。しかし、この話は、ここで終わらず、大江氏は、つぎに広島を訪れた時、自身のそれまでの行為を恥て、今度は、自身の氏名を記して流したと告白しています。それは、家族や長男への謝罪の意思表示だけでなく、さらに、自身の弱さの克服であり、震え上がるような真実です。


普通の人は、安易な選択をしたかもしれませんが、大江氏は、あえて、困難に積極的に対面し、克服するための人間の強さを作品を通して表現してきました。そのことに最大限の賞賛を送ります。私は、大江氏が、なぜ、ノーベル賞を受賞できたのか、良く理解できます。作家は、一般の人間と異なり、自身の人生のネガティブな側面を題材に、 人間の本質を掘り下げています。大江氏は、何も隠さず、そのことを積極的に語りかけています。

【事務所報告】桜井淳所長の講演要旨「作家五木寛之論」

Mon, February 01, 2010 Theme: ブログ stanford2008の投稿

私は、「旧約聖書」「新約聖書」や「ナザレのイエス」「ユダヤ教の精神構造」のようなの学術書だけでなく、「新約聖書物語」「神の発見」「梅原猛著作集第9巻三人の祖師」「般若心経について」「チベットのモーツアルト」「ユダヤ教の歴史」のような啓蒙書も読んでいます。特におもしろくて分かりやすいと感じたのは梅原猛・中沢新一・犬養道子・瀬戸内寂聴・五木寛之の解説です。仏教は、専門ではありませんが、比較宗教学の視点から研究しています。


表現法や内容が受け入れられるか否かにかかわりなく、非常に冷静で淡々と語っているのは、作家の五木寛之氏です。


五木氏は、1932年生まれですから、78歳になります。五木氏は、早大文学部露文科卒後、若くしてベストセラー作家となり、代表作として、34歳で「さらばモスクワ愚連隊」(第6回小説現代新人賞)、35歳で「蒼ざめた馬を見よ」(第56回直木賞)、35歳で「青年は荒野をめざす」、36歳で「風に吹かれて」、44歳で「青春の門」(第10回吉川英治文学賞)(この10冊のシリーズは総数2000万部の歴史的ベストセラーとなりました)、49歳で一時休筆して、京都にある浄土真宗(親鸞)の龍谷大学で仏教を学び、その後、文壇に復帰、仏教については、「蓮如-われ深き淵より-」「生きるヒント」「大河の一滴」「人生の目的」「運命の足音」「不安の力」「元気」「気の発見」「神の発見」「人生の覚悟」等の作品があります。


読んで感じることは、五木氏は、人間的に、大変真面目で、誠実で、勤勉で、しかも、がまん強く、常に冷静で、淡々と語り続けており、読者に、人間としての価値・魅力・能力・主張がよく伝わるような表現をしており、希に見る人生への積極的な姿勢が読み取れる作家のひとりのように思えました。作家は、誰しも、自身の体験を題材にしていますが、「青春の門」や「青年は荒野をめざす」には、五木氏の体験の試行錯誤の跡が記されており、五木氏の心の変遷を読み取る上で貴重な資料です。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-龍谷大学本部 桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-西本願寺
JR京都駅近くにある龍谷大学本部_______________西本願寺(龍谷大学本部の隣、訪問時閉門)


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-東本願寺金堂
東本願寺(西本願寺の約200m東側)


特に、ベストセラー作家でありながらが49歳で学士入学し、しかも、仏教を学ぶということは、誰にでもできることではありません。人生について特に感じることがあってのことでしょう。その年齢は、人生の一区切りというだけでなく、同時に、迷いが生じ、人生の最終的な目標は何かについて考えるようになります。五木氏が仏教を学ぼうとした心境については、私自身の神学哲学の研究の経験からも、よく分かります。宗教を研究対象にすることと信仰対象にすることは別次元の問題です。


読者の中には、五木氏のように、腰が低くて本音で悟りきったような哲学の展開に、違和感どころか、揶揄すらする者がいますが、私は、どちらかというと、積極的に受け入れる立場にあり、学問や人生に対する積極的な姿勢には、なお、学ぶべきことが多くあるように感じています。五木氏は、全作品をとおして、人間とは、人生とは、について、問いかけているのです。すでに哲学者と言ってもよいでしょう。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-五木寛之「親鸞」
五木寛之「親鸞(上、下)」(講談社、2010)


最近、五木寛之「親鸞(上、下)」(講談社、2010)を熟読しました。上下とも約300頁で、全国27の地方紙に連載されたものです。この作品は、小説であって、史実に忠実な学術書ではありませんが、仏教の高度な専門知識と親鸞の人生と思想遍歴を熟知していなければ、書くことのできない内容です。上巻では8-19歳まで(氏名は忠範から範宴へ)、下巻では19-33歳まで(範宴から間置いて善信へ)の比叡山延暦寺や六角堂での修行(比叡山延暦寺から京都の真ん中の六角堂まで毎日通ったと記され、直線距離で約10kmで可能なように思えますが、その大半は比叡山の勾配のきつい山道であることを考慮すると、不可能な苦行)、越後への流罪(流罪が決まってから自ら親鸞と改名、歴史的には流罪の真の原因は分かっていません)への経緯が記されています。


私には比叡山での苦行の内容(若い頃には掃除や薪割り、それが済むと読経、修行が進むと高度な各種経の1000回にも及ぶ繰り返し等、修行の無限の深さ)が大変参考になりました。反面、五木氏が小説としてさまざまな設定をし、最も大きなウェイトを置き、くどいように展開した救済の本質的解釈については、あまりにも自明なことであり、なぜ、くどくどと繰り返すのか疑問に感じました。下巻の数箇所に見られる度肝を抜かれるストーリー展開に、驚きを通り越し、恐怖さえ感じました。この作品には「青春の門」にはない年齢相応の哲学的思索の成果が記されており、作家として、哲学者として、ライフワークと位置づけられる出来栄えです。


五木氏は、大江健三郎氏とともに、作家として、哲学者として、最も高い位置に登りつめた作家です。「親鸞」を読むとそのことが良く分かります。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-「常陸の親鸞」
園部公一「常陸の親鸞」(東泠書房、2004)


なお、親鸞は、流罪を勅免された直後、45歳の時、家族とともに、常陸の国(今の茨城県)の稲田(今の笠間市稲田)の西念寺を中心に、常陸の国、特に、北部一帯(今の常陸太田と常陸大宮)等で、約10年間、布教活動をしていた時期があり、常陸の国の24の寺院には、親鸞や24輩の弟子達の遺跡が残されています。私の住む水戸市にも徒歩で訪れることのできる関係する寺院が三箇所(信願寺・善重寺・報仏寺)あります。園部公一「常陸の親鸞」を手がかりに、これから県内のすべての関係寺院を訪ね歩き、改めて、歴史的事実の把握に務めたいと考えています。

【事務所報告】桜井淳所長の講演要旨「建築家安藤忠雄論」

Mon, February 01, 2010 Theme: ブログ stanford2008の投稿

約7年前の冬、日本原子力学会の研究専門委員会の会合終了後、東大大学院工学研究科の教授と打ち合わせのため、東大本郷へ立ち寄ったところ、偶然にも、安田講堂(定員約1500名)で安藤忠雄教授の退官記念講演が予定されており、開演前、安田講堂前から正門まで数珠つなぎの人並みができており、安藤教授は、講演後、定員オバーで入れなかった約300名に向かって、野外で約30分間の追加講演を行っていましたが、それだけ人々を引き付ける魅力が何なのか、不思議に思ったことがありました。


桜井淳カリフォルニア事務所のHP代わりの硬いブログ-建築家安藤忠雄
「建築家安藤忠雄」(新潮社、2008)


2009年6月20-21日の4:00-5:00、NHKFMで、安藤忠雄氏へのインタビューが放送され、インタビューアの質問に応え、安藤氏は、興味深いことを話していました。


要約すると、①子供の頃、大工さんが家を作っている現場を見て、建築というのは面白いと感じた、②高等教育を受けていなかったため、工学部建築学科に通学している友人から使用している教科書を教えてもらい、それらを片っ端読んだところ、ある程度分かるものの、教養が足りないことを痛感、③欧州各国の建築物見学、④帰国後、事務所を構え、仕事のチャンスを待ったが、なかなかなく、それでも、大阪というところはおもしろいところで、何の学歴もなく、何の実績もない若造に仕事を与えてくれた物好きが現れ、大阪だからできたことであり、東京だったら、まず、無理だった、⑤特徴的なコンクリート打ちっぱなし工法は、オリジナルなものではなく、代々木公園の構造物等、多くの例があるが、その工法を独自の哲学で住宅や公共施設に応用した、⑥コンペで採用されたのは、10回応募して1回くらいで、ほとんど落選していたが、それでも、勉強になり、失敗から学ぶようにしてきた、等。


総合すれば、安藤氏は、非常に積極的な人生を歩んできたと解釈できます。


NHKテレビ22:50-23:00の「私の1冊」で、安藤氏は、愛読書として、幸田露伴「五重塔」を挙げ、主人公の五重塔建設に対する考え方、すなわち、「その仕事はオレにしかできず、ぜひ、オレに任せてくれという自信と責任感から学んだ」と語っていました。


安藤氏は、いま、67歳になりますが、少年の目のように、夢を追いかけ、いまなお、キラキラ光っています。安藤氏が、何の学歴がないにもかかわらず、ハーヴァード大客員教授、イェール大客員教授、東大教授に就任できたのは、世界を相手にしたコンペで数十件も採用された実績と世界の建築関係の代表的な賞を十数件も受賞したことです。そこには誰もが認めなければならない客観性があるからです。


東大は、最近、名誉教授の中から、突出した業績を上げた者に特任名誉教授を設けましたが、これまで3名に授与され、そのひとりが安藤氏です。東大は、入学式で、安藤氏にあいさつの機会を与える等、特別扱いしています。東大は、形式的・官僚的だけでなく、安藤氏を特別扱いするだけの柔軟性も備えていることが読み取れます。


私の趣味は、建築学であって、これまで世界の歴史的建築物、さらに、高層ビル等の建設現場や完成した建築物を見学して知識の集積に務めてきましたが、安藤氏の作品や著書等を検討し、やっと、「安藤忠雄論」が書けるようになりました。


安藤忠雄『建築家安藤忠雄』(新潮社、2008)の感想を述べてみたいと思います。「安藤忠雄論」の構想については、先に述べましたが、安藤氏の人生と思想の詳細を把握するために、安藤氏の初めての自伝を熟読してみました。


先に述べたことに、①安藤氏を東大に招聘したのは東大鈴木博之教授(建築史専攻)(232p.)、②安藤氏が設計した東大本郷の福武ホール(赤門と正門の塀ぎわの数十本のクスノキに並列に建設された奥行き約10mで2F2Bの鰻の寝床のような建物)は、20年前に直島プロジェクトの依頼を受けたベネッセコーポレーション(旧福武書店)の福武総一郎元社長からの寄付金によって建設され、人間関係からして、安藤のボランティアによる設計(228p.)であったことを補足しておきます。


この本には、数多くの写真が挿入されていますが、対象が対象だけに、本文との関係で具体的なイメージを作ることができ、理解を助けているように思えます。


安藤氏は、ゲバラの思想に共感し、ゲリラ的建築設計(事務所はゲリラ拠点)をしてきました。情熱家・努力家・勉強家で、野心的な仕事を売り込むのがうまく、関西財界人との人間関係を築き、仕事を拡大して行きました。


安藤氏が建築家として成功したのは、建築への大きな夢、ポジティブ思考、独学精神が高く、大阪という土地柄に助けられ(「大阪では、実績のない若造にも仕事を与えてくれるが、東京ではそうは行かず、東京だったら成功しなかった」と回想しています)、現代社会の不合理面への反逆心が強く、少年のようにキラキラした目(表紙の写真参照)をした永遠に休むことのない努力家という印象を強く受けました。意外と高い建築哲学を持っていることが読み取れます。


安藤氏は、大学ではなく、実務をとおして社会から学ぶ実学派です。「だから、仮に私のキャリアの中に何かを見つけるとしても、それはすぐれた芸術的資質といったものではない。あるとすれば、それは、厳しい現実に直面しても、決してあきらめず、強かに生き抜こうとする、生来のしぶとさなのだと思う」(p.381)。「光と影。それが、40年間建築の世界で生きてきて、その体験から学んだ私なりの人生観である」(p.382)。


安藤氏は、これまでの仕事を体系化・論理化すれば、東大での学位審査に合格できるでしょう。安藤氏は、傑出した建築家にとどまらず、大変優れた哲学者でもあります。大変感銘した一冊でした。

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