|
11月12日 アナウンサーズをご覧の皆さんへ |
|
このたび、アナウンス部を卒業し、編成部勤務となりました!
入社して今年で17年目、途中、出産によりお休みさせて頂きましたので、約15年のアナウンサー生活となりました。
異動前に、たまたま同期会が開かれました。
その席で、「お前すごいよな〜。15年も好きなことずっと仕事にしているんだもんなぁ。」と飲みながらしみじみと同期に言われました。
そうですよね、会社員たるもの常に自分の希望の部署で仕事ができるとは限らない。
そんな中、幸せなことに入社してずーっとアナウンス部で仕事が出来たわけですから…。
思い起こせば、採用試験で提出したエントリーシートには、
「希望は、報道。現場に行って、さまざまな場所からリポートしたい。」
という内容でした。
お陰様で、入社して最初に天気予報を担当し、週末になれば、全国津々浦々からお天気中継です。
もちろん、副賞として!?各地の美味も堪能させて頂きました!
その後、夕方のニュースのリポーター、「ステーションEYE」、そして「ニュースステーション」「スーパーJチャンネル」と自分でも想像もしなかった素晴らしい番組と現場で仕事をさせて頂きました。
まだ学生だった私が、(今で言う)エントリーシートに書いた“担当したい番組”は、「ザ・スクープ」でした。
私の学生時代は、冷戦終結へ向かって、世界が激動に包まれていました。
忘れもしない、東西冷戦の象徴・ベルリンの壁の崩壊、ソ連では、恐怖政治の象徴であるKGB前の銅像が引き倒される映像。
そして大学3年の時には、期末試験を受けている最中に始まった湾岸戦争…。
それらを私は、「ザ・スクープ」という番組を通して見ていました。
もちろん面接で聞かれた好きなキャスターは、当時の「ザ・スクープ」のキャスター田丸美寿々さんでした。
学生時代に憧れた番組で、報道現場に行って仕事ができたことは、本当に幸せな経験です。
そんな私のアナウンサー人生の中で、今でも忘れられない瞬間が2つあります。
自民党と社会党が手を組んだ自社さ政権の発足。
それに伴い、社会党委員長が総理大臣となった村山内閣。
その当時、私は“現場へ行って勉強してこい”ということで、総理担当記者として総理官邸に詰めていることがありました。
ある日、閣僚昼食会が終わり、扉を開けて出て来た官房長官の口から出たのは、「ハイジャック、函館。」と一言。
あまりにも突然のことに、その場にいた記者全員が、その言葉を理解するのに一瞬、間がありました。
が、すぐに「どこですか!」「…全日空。」
一目散に記者は本社に連絡に走ります。私も一報を伝えに走りました。
この時が初めて、テレビ朝日の中で誰よりも最初にニュースに接した瞬間でした。
その後は、速報が流れ、特番をやるから大至急会社に戻るように言われ、報道緊急特番へとなだれ込みました。
そして、もう1つが、あの“タイタニック号”引き揚げで活躍した潜水艇に乗り、東シナ海の海底約350メートルに沈む、世界最強の軍艦と呼ばれた“戦艦大和”を目の当たりにした時です。
当時最新鋭といわれた技術を駆使した艦船が、壊れてはいるものの、その重量感を感じさせながら黙したまま巨大な姿で海底に横たわっています。その姿を目にした瞬間、涙があふれ、手を合わさずにはいられませんでした。
なぜなら、誰も訪れることのないこの静かな海底に、2700名以上の方が、沈没した当時のまま眠っているのです。
教科書、新聞、ニュース、本、でしか“戦争”というものを知らない私が、54年の時を経て“戦争”というものを全身全霊で感じた瞬間でした。
先日、ジャーナリストの筑紫哲也さんが亡くなりました。
私が入社した当時、「アナウンサーであっても、まずジャーナリストであれ」と教えられました。
こうして振り返ってみると、私のアナウンサー人生の根幹となっているものでした。
アナウンサーという仕事をしていなければ、取材できないこと、機会、そして出会えない人々に巡り合い、また、仕事を通して貴重な経験をさせて頂きました。
これまで、取材にご協力いただいた方、一緒に番組を担当したスタッフの方、そして、応援してくださった皆様、この場を借りて、感謝申し上げます。
本当にいままで、ありがとうございました!!
そして、家族のような愛情で、時に見守り、時に助けてくれたアナウンス部のみなさま、本当にありがとうございます!
また、いつかお目にかかる日まで! 感謝です!!
岡田 洋子 |
最後のニューススタジオ
かけつけたアナウンス部員と記念撮影です |
|
|
|
バックナンバー |
|
|