ここから本文エリア 現在位置:asahi.com >歴史は生きている >9章:日韓・日中 国交正常化 >記憶をつくるもの > 「旗」は降ろされたか 四島一括返還 〈記憶をつくるもの〉
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日本の「北方領土の日」を受け、ロシアの有力各紙は領土問題を大きく報じた |
北方領土に暮らしていた元島民たちは、「千島歯舞諸島居住者連盟」という団体をつくり、早期返還や財産補償などを求めている。昨年5月の総会でちょっとした異変が起きた。議事が終わった直後、根室支部青年部の幹部らがいきなり前に出てきて「決意表明」文を読み上げたのだ。
会場にいた人たちをさらに驚かせたのは、決意表明の次のくだりだ。
「我々としては元島民が存命中になんとしても領土問題を解決させたい。しかし、今までの『四島一括』という運動では現状を打破することはできない。だからこそ、あらゆる方法で運動を展開していかなければならない」
「四島一括返還」というスローガンは戦後、日本政府が長く掲げてきた。北方領土と言えば、「四島一括返還」。冷戦時代からの政府や自治体主導の運動によって、その定式が人々の記憶に刷り込まれてきた。
それを元島民2世の側から変えようというのだ。決意表明文づくりにかかわった濱屋正一氏は「元島民がどんどん亡くなっている中で、我々2世は運動の『受け皿』をつくっていかなくてはならない。『四島』をあきらめるわけではないが、本当に島が還ってくるような運動をしたいんです」と話す。
連盟の調べでは元島民の半数以上がすでに亡くなり、存命の方の平均年齢も74歳を超える。進展の見えない領土交渉に最も切実な危機感を抱いているのが、北方領土と海を挟んで接する根室の人々だ。
実は日本政府はソ連が崩壊する直前の91年秋、「四島一括返還」という旗を事実上、降ろしている。それに代わってソ連・ロシア側に伝えた方針は「四島の我が国の帰属が確認されれば、実際の返還の時期、態様及び条件については柔軟に対応する」というものだ。「四島一括」で返還を求めることと、「四島」への日本の主権を確認することには大きな開きがある。
にもかかわらず、この交渉方針の転換が日本国内で十分に理解されてきたとは言い難い。違いを知ってか知らずか、何年たっても政党幹部の口から「四島一括返還」が時折発せられる。
今年、「北方領土の日」の2月7日、例年のように「北方領土返還要求全国大会」が東京・九段で開かれた。あいさつに立った岩國哲人・民主党国際局長は「北方四島一括返還は、すべての政党の共通した願いであるということを、民主党を代表して皆様にもお伝えしたい」と述べた。
民主党では鳩山由紀夫幹事長が昨年2月に「『四島一括返還』では1千年たっても還らない」と述べている。「願い」と「交渉方針」では違うのかもしれないが、元島民の人たちは矛盾した言葉にどんな思いを持つだろうか。
■ナショナリズムの強い磁場
領土交渉に深く関与した作家で元外務省主任分析官の佐藤優氏は、「ナショナリズム一般はその時点での最も強い要求が正しい要求となるから、『段階的返還』よりも『一括』となるのは当然」と説明する。加えて指摘するのは日本政府の説明不足だ。「領土問題は限られた人たちが政策を決めていた。説明責任という発想が欠落していたのです」
モスクワでロシア政府の関係者、研究者らと話すと、もう一つの根深い問題に改めて気づかされる。それは一言で言えば「敗戦の受容」である。
いくら日本側が国際法上の正当性を強調しても、ロシア側は「あれは第2次大戦の結果だ。なぜ日本は敗戦という現実を受け入れないのか」との論理で対抗する。日露戦争に敗れ、領土を割譲させられたという記憶があるから、その論理はロシアではさほどの疑いもなく浸透しているという。
しかし、だからこそ戦後日本にとって北方領土問題は、戦勝国への異議申し立てでもあった。敗戦とはいかなる不条理も受容しなくてはならないものか、いやそうではない、と。とりわけ冷戦期のソ連は、それをぶつけるのに何の遠慮もいらない相手だった。
北方領土問題は今もこうした強い磁場の中にある。「国民の悲願」と位置づけるためにはナショナリズムに訴えるのが有効だが、ナショナリズムと深く結びつくほど妥協は難しくなる。
あるロシア政府高官が話した言葉が印象に残った。
「戦争には必ず勝者と敗者が生まれ、問題の発生はそこにある。伝統的な発想ではナショナリズムは超えられない。ナショナリズムを超えるのは双方の関係の発展しかない。そのためには別の目で相手の重要性をみることだ」
東郷和彦さん |
■「二島返還論は誤解だった」 元外交官・東郷和彦氏
根底には「四島一括返還」と錦の御旗の下で断固たる主張を続けてさえいれば、国内的に批判されずに済むという、一部外務官僚のことなかれ主義も感ぜられた――。
2002年4月、オランダ大使を免職された東郷和彦氏は昨年5月に出版した「北方領土交渉秘録 失われた五度の機会」(新潮社)の中でこう書いている。
東郷氏はソ連課長、欧州局長などを務め、ゴルバチョフ以降の領土交渉にほぼ一貫して関与し、問題を動かそうとした。だが、鈴木宗男衆院議員と連携し、対ロシア外交の推進に混乱をもたらしたという理由で外務省を追われた。
執筆の動機について「どういう状況で日ロ関係が動き、なぜ底打ちしたのかを国民に話さなければならない。そうしなければ死ぬに死にきれないと思っていました」と話す。免職に至る経緯や冷戦崩壊前後から十数年間の交渉の内幕が詳しく描かれている。
それにしても「四島一括返還」からの転換を国民にもっと丁寧に説明すべきだったのでは?
「相手のロシアを考えると『譲歩した』とあえて言う必要はないんです。正義は百%こちらにある、という議論をしており、その旗を降ろすのは不利になる。ただ、今にして思えば有力議員や運動団体に総力をあげてもっと説明すれば良かった」
そう反省するのも、自らが提案した56年宣言を基盤にした並行協議方式が、日本国内で「二島返還論」だという批判を招いたからだ。東郷氏はそれが誤解であることを強調したうえで、自分の主張はこうだったと説明した。
「とにかく協議を始めなければ、入り口に入らなければ、出口に行くことはあり得ない」