歌謡曲とフォークの架け橋めざして〜太田裕美さん(1)
アイドルとは異なるピアノ弾き語り
1974年(昭和49年)は、前年のオイル・ショックの影響もあって、経済の実質成長率が戦後初めてマイナス成長となった年である。「今太閤」などともてはやされた田中角栄首相が金脈問題で退陣し、巨人軍の長嶋茂雄選手は現役を引退した。フィリピンのルバング島に終戦後もずっと潜んでいた小野田元少尉が救出されたのも、この年だった。
今から35年前。ひとつの時代が終わりを告げるような世相の中で、太田裕美さんは「雨だれ」で歌手デビューを果たす。舌足らずで愛らしい歌い方、大きな瞳の愛らしい容姿。だが、彼女は単なるアイドルとは違った。ピアノの弾き語りで、歌謡曲とフォーク(ニューミュージック)の中間的な作風を貫き、従来の歌謡界に新風を巻き起こす。今のJ−POPの女性ボーカリストたちの道を切り開いたとも言える、歌姫の登場だった。
――デビューしたての頃、私のことをアイドルと思った方は、アイドルのわりにはピアノを弾いて歌っているし、自分で曲も書くし、コンサートにも熱心だし、ちょっと不思議に思ったかもしれません。フォーク系の方はフォーク系の方で、フォークの仕事しているくせにテレビに出ている、みたいに見られていたと思うんです。
――けれども、私とスタッフは歌謡曲とフォークの両方のいいところを、いいとこ取りじゃないんですけど、ちょうど中間点、真ん中の活動をしていこうと決めていました。だから、コンサートもやるし、テレビにも出るし、ラジオにも出るし、グラビアの仕事もするし、かまわずにいろんなお仕事をさせてもらいました。
二つのジャンルの仕事で寝る暇なし
――当時を振り返ると、毎日、本当に必死でしたね。アイドル的なお仕事とフォーク系のお仕事の両方をやるってことは、二人分の歌手のお仕事をしていたということでもあって、それこそ寝る暇もないって感じでした。
――コンサートだけでも年130本くらいやったし、コンサートを終えて地方から戻って、夜中にテレビのお仕事をしたり、ラジオに出たり、そのすき間を縫ってアルバム作りのためのレコーディングとかがあったり。しかも、私のマネージャーと父との「必ず家から通わせる」という約束事があったので、どんなに遅くなっても、埼玉・春日部の実家に帰らなくちゃいけなかったし、もう本当に大変でした。
――今思うと、よくやっていたな、って感じです。あのころは若かったし、デビューした頃はすべてが新しい体験なので、大変とか辛いことはあっても、やっぱり新鮮で楽しかったことのほうが多かったかな。たとえ休みがなくても、遊びたいというよりも仕事していたほうが楽しい、みたいなところがありました。
既存のアイドル歌手のようにチャラチャラした感じがなく、従来のフォーク系歌手のようにとっつきにくいイメージもない。太田さんの、そんなキャラクターは新曲を出すたびに、多くのファンを獲得していく。「雨だれ」から始まり、「たんぽぽ」「夕焼け」、そして「木綿のハンカチーフ」、続く「赤いハイヒール」「最後の一葉」「しあわせ未満」、「恋愛遊戯」に「九月の雨」。ヒット曲を重ねてスターの仲間入りを果たし、1976年から5年連続でNHK紅白歌合戦にも出場した。
――紅白ですか、そうですね、緊張というよりも何かすごくバタバタしていたのを覚えています。歌うだけじゃなくて、ほかの方たちの応援とかもしなくちゃいけなくて、踊ったり、コーラスしたり、ピアノを弾いたり。自分の中では、一年の最後なのだから、もっと歌に集中したかったなどと、生意気なことを思ったのを、今でもよく覚えています。
太田さんがデビューした1974年の紅白歌合戦。太田さんは出場しなかったが、大トリを務めた森進一さんが歌ったのはこの年の大ヒット曲、「襟裳岬」だった。作曲したのは吉田拓郎さん。大物演歌歌手とフォークの大御所とのコラボレーションは、当時、大きな話題を呼んだ。「歌謡曲とフォークの架け橋」を自認する太田さんの、その後の活躍を、時代も後押ししてくれたと言えなくもないだろう。
(読売新聞 松崎剛)
(次号に続く)
おおた・ひろみ 東京都荒川区生まれ、埼玉県春日部市育ち。血液型はA型。1974年、「雨だれ」で歌手デビュー。「木綿のハンカチーフ」「赤いハイヒール」「九月の雨」など多くのヒット曲を出し、フォークと歌謡曲のジャンルを超えた新しいシンガーとして脚光を浴びた。85年の結婚後も家庭と音楽を両立させ、2004年から始まった伊勢正三、大野真澄とのライブは今も、幅広い年代に好評を博している。今年4月、デビュー35周年を記念し、通算30枚目のシングル「初恋」をリリースした。
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- むっち
- 2009年05月20日 16:15
コンニチワン♪
太田裕美さんは、ぼくにとっての青春そのものです。
当時、高校生で、木綿のハンカチーフはぼくの気持そのままを打ったってるようなものでした。動画サイトのユーチューブで楽しんでます。
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- よっこ
- 2009年05月20日 23:12
太田裕美さんの歌声、本当にきれいで、かわいらしくて、私は、毎日、車を運転する時に聞いています。
主人や子供達に「ママ、飽きないの?」と聞かれますが、「ぜんぜん〜このおねえちゃん、声がすごくきれいでかわいいから、毎日聞いていても楽しいのお〜〜」
もうすべての歌詞を覚えて、ちょっと違うトーンになったところなんかも全部わかるようになっています。
太田裕美さんの歌声、聞く人の心を和ませてくれる優しいトーンの素敵な歌声ですね。
私は大好きです。
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- ぺんぎん
- 2009年05月21日 09:04
「九月の雨」以来のファンです。コンサートにも何回も行きました。深夜ラジオから聴こえる「君と歩いた青春」に涙し、「さらばシベリア鉄道」で心癒されました。でも「青空の翳り」というかくれた名曲が一番好きです。
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- りんぐぷる
- 2009年05月21日 10:28
拓郎とのコラボよりも、松本隆さんとのコラボが最高です。
ぺんぎんさんのおっしゃる「青春のしおり」が収録されているアルバム「心が風邪をひいた日」は、自分の中で、ベスト・オブ・太田裕美だと思っています。
また後に、こちらも大好きな遊佐未森さんとのコラボをされたりしていますが、これからも、マイペースで、末永く続けていただきたいと思います。
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- ミッチー
- 2009年05月21日 12:21
むっちさんと同じく僕にとっても彼女は青春そのものであり、結婚したい女性ナンバー1でした。(夢のまた夢でしたが!)
高校生の時にTVで見たのですが、「9月の雨」で”September Rain Rain〜”という歌詞が印象的で、ステージで素敵なドレスを着て、傘をさしてレインブーツを履いて熱唱している彼女の姿が、今でも脳裏に焼き付いています。
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- Athrun
- 2009年05月21日 12:49
太田裕美さんは正に青春そのものでした。高校時代、大学時代を通じて彼女の曲を飽きずに繰り返し聴いたものです。当時はすごく可愛かったですよ。今でも声がきれいでCDをよく聴いています。
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- ウサギ
- 2009年05月21日 12:51
私も中学から高校まで、シングルレコードの発売日に必ず買いに行っていたのを思い出します。
中学生の時にコンサートに行きたくて、母親にお願いしましたが、却下されました。しかし、大学生の時に学園祭にきてもらい、前から2列目で聴けた時は、感動でした。
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- TPAP
- 2009年05月25日 20:49
30歳男性です。太田裕美さんがデビューされ、ヒット曲を出されたのは、私が生まれる前のことですね。私は、高校生の頃に懐メロの番組で、太田裕美さんのことを知り、CDも買って、かつてのヒット曲を何度も聴きました。1970年代いう時代。この時代は、太田裕美さんの歌だけでなく、他にも本当に良い歌が多いですね。この頃の歌は何が良いかというとやっぱり歌詞が素晴らしいです。近頃の歌は歌詞のレベルが落ちているので、この頃の歌の素晴らしさをもう一度見直して欲しいです。
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- えいちゃん
- 2009年05月25日 21:14
大学時代、裕美さんのコンサートに誘った彼女とは7年付きあって別れてしまった。「しあわせ未満」や「君と歩いた青春」の歌詞が胸に迫ります。彼女はいま元気にしているのだろうか。裕美さんの曲とともに想い出が蘇ります。
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- 青空のかぎり
- 2009年05月26日 00:04
デビュー以来、自らのスタイルを貫き通す裕美さんを
50歳になった自分は、非常に尊敬するばかりです。
歌手の前に、一人の女性として素敵に生きる姿を、ファンとして誇らしく思います。これからも、いつまでも、そのままでいて下さい。
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- 田舎者
- 2010年01月18日 01:30
中学の時に聞いた「木綿のハンカチーフ」
都会に定住して30年。今年、2010年、久しぶりに帰省した祭に実家で見つけたテープ。再生してみると、1曲目に「木綿のハンカーチーフ」が・・・・
今もそのままの実家の自分の部屋で聞き、中学時代に戻ったような気持ちでした(^_^;)その次に入っていた曲も「赤いハイヒール」・・・少々のびたテープでしたが、当時のオリジナルエアーチェックの原版
! 大切に保管しようと思います。時折TVで拝見しますが、今でも変わらぬ歌声、元気がでます。ますます頑張って欲しいと思います。
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