結婚直後から20年、義母の介護〜荒木由美子さん(3)
ストレスで胃痛、髪の毛も抜ける
義母、吉の(よしの)さんの世話は、湯原昌幸さんとの結婚式から2週間しかたっていないころから始まった。足が痛いと言い出して入院。糖尿病が原因だった。いったんは退院するが、その後も入院を繰り返し、若妻はそのたびにお弁当を持って病院通いをした。
結婚の翌年、長男が誕生。義母の世話に、育児という大きな務めが加わった。そして息子が幼稚園に通い出したころ、吉のさんに認知症の症状が表れ始める――。
「由美ちゃん、由美ちゃん」と、嫁のそばから離れようとしない義母。しかし、その信頼感は、やがて攻撃的な側面を帯びてくるようになる。孫の顔を見たり、宅配便の人が来たりすると、「由美ちゃんが若い男を連れ込んだ」などという、信じがたい言葉を発するようになったのだ。ストレスで胃が痛み、手の震えが止まらなくなった。髪の毛もごっそり抜けた。
湯原さんはテレビの時代劇の収録などで家を空けることも多かったが、苦しみは夫とて同じだった。「何が気に食わないんだよ」と母親に激しく迫った弾みで、その手が母の首にかかったこともある。
今際のきわに「由美ちゃんありがとう」
まさに地獄だった。それでも妻は、介護という現実から決して逃げなかった。「芸能界では、人にだまされることもなかったし、素晴らしい環境で仕事もさせてもらった。だから、『あの荒木が離婚したらしいよ』とか、『介護に疲れちゃったらしいよ』とか、これだけは言われたくなかった。プライドを捨てるわけにはいかなかったのです。捨てたら、芸能界でやってきたことも、結婚生活もすべてなくしてしまう。前に進んでいるのか、いないのか分からないけれど、足を止めたら、すべてがダメになるという気持ちでした」
2003年1月9日、吉のさんは、静かに息を引き取った。荒木さんにとっては、結婚後、20年間に及ぶ介護生活だった。容体が悪化したころ、吉のさんは、嫁の手をさすりながら、
「由美ちゃん、ありがとう」と、何度も口にした。
お世話で燃え尽き、虚脱状態に
亡くなって1か月ほどは、後片付けなどで慌しく時が過ぎた。それが一段落したころ、虚脱状態に陥った。「燃え尽き症候群とでも言うのでしょうか。朝、起きても、『こうしなきゃ、ああしなきゃ』というような追いかけてくるものがないので、逆に毎日が『疲れた、疲れた』という感じで。テレビを見てもつまらないし。と言うのは、介護をしていた時期はテレビもほとんんど見ていなかったので、タレントさんの顔が全然、分からなかったのです」
そんな時、中国のIT関係の起業家から所属事務所に国際電話があった。「中国のファンのために、こちらに来てもらえないか」という。その背景には、1970年代末から80年代にかけて荒木さんが主演した“スポ根”ドラマの存在があった。
(次号に続く)
(中央公論新社 増沢一彦)
あらき・ゆみこ。1960年、佐賀県生まれ。1976年9月に「第1回ホリプロ・タレントスカウトキャラバン」で審査員特別賞を受賞して芸能界入り。同期生に同キャラバンでグランプリに輝いた榊原郁恵らがいる。歌手として『渚でクロス』『ヴァージン ロード』『うつらうつら』などを発表。ドラマやバラエティー番組などでも活躍するが、1983年、結婚を機に芸能活動から退いた。2004年、義母の介護体験をつづった著書『覚悟の介護』を出版した。