10歳でテレビに、大きな瞳の佐賀の美少女 〜荒木由美子さん(1)
ホリプロに見初められ芸能界へ
数多くのアイドルを世に送り出した「ホリプロ・タレントスカウトキャラバン」の第1期生である。1976年の「第1回スカウトキャラバン」で審査員特別賞を獲得。当時16歳の「佐賀の美少女」は、既に受賞の数年前から福岡のテレビ局関係者の間では、よく知られていた。
最初にテレビに出たのは10歳の時。福岡の民放局KBCの「のど自慢」番組だった。「(ウクレレ漫談の)牧伸二さんが司会をなさっていた『ハレハレ555』という番組で(笑)。土曜の夜7時ごろから放送の、とても歴史のある番組で、学校でよく友達と『出てみたいよね』と話していた。お友達の1人にすごく歌の上手な人がいて、彼女のお部屋には、レッスン用の、それはもう素晴らしいオーディオセットがあって、私も時々それを使って練習させてもらっていたんです」
そのかいあって、「のど自慢」に合格。これがきっかけで、当時、福岡を本拠地としていたプロ野球・太平洋クラブライオンズのマスコットガールにもなった。「シーズンに入る前の激励パーティーで花束を贈呈したり、選手とデュエットをしたり。そんなことを小学生のころにやっていたんです。ただ、佐賀の田舎から福岡へ電車で行くというのは、私たちにとってはものすごい大都会に出て行くという意識だったし、学校のこともあったので、母もそれ以上の活動は許してくれませんでした」
超ハード、1週間に10日間の仕事
それから6年後、KBCのディレクターの耳に、山口百恵らを抱える大手芸能プロダクション「ホリプロ」が、大々的なオーディションを実施するという情報が入ってきた。「どこにどういう才能がいるのかを事前に知っておきたい」というプロダクション側の意図が、その情報の裏にはあった。
この時、ディレクターの頭に真っ先に浮かんだのが、大きな瞳の「佐賀の美少女」だった。「未来のアイドル」への期待を背に、少女は1次、2次予選を突破して九州代表に。本選で芸能界へのキップを手にした。
翌77年、『渚でクロス』でデビュー。佐賀から上京し、ホリプロの寮に住みながら多忙な日々を送る。「“バラドル”という言葉がありますが、私たちのころも、若いタレントは、歌もバラエティーも女優も司会も何でもやらなきゃいけなかった」と振り返る。
「私も最初は歌中心でしたが、20歳ぐらいのころから、女優や司会の仕事の方が多くなってきた。一方で、歌手として3か月に1回、新曲をリリースし、半年に1回、アルバムを出す。テレビのレギュラー番組を7、8本持っていると、レコーディングとか取材とかCM撮影とかは、すべてテレビの収録が終わる夜中からになるんです。だから、変な話ですが、スケジュール的には1週間が1週間じゃない。1週間に10日分の仕事をしている感じでした」
そんなハードスケジュールに終止符を打ったのは、13歳年上の男性タレントとの結婚だった。
(次回に続く)
(中央公論新社 増沢一彦)
あらき・ゆみこ。1960年、佐賀県生まれ。1976年9月に「第1回ホリプロ・タレントスカウトキャラバン」で審査員特別賞を受賞して芸能界入り。同期生に同キャラバンでグランプリに輝いた榊原郁恵らがいる。歌手として『渚でクロス』『ヴァージン ロード』『うつらうつら』などを発表。ドラマやバラエティー番組などでも活躍するが、1983年、結婚を機に芸能活動から退いた。2004年、義母の介護体験をつづった著書『覚悟の介護』を出版した。