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help リーダーに追加 RSS 塩野七生『ローマ人の物語]W キリストの勝利』の書評:ギリシア・ローマの伝統の衰退とキリスト教の台頭

<<   作成日時 : 2006/06/11 17:06   >>

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紀元前44年、共和政ローマで絶大な権力を得たガイウス・ユリウス・カエサルは、ブルートゥスとカッシウスらに敢え無く暗殺されることになった。
カエサルが構想した少数の政治的リーダーによって国家を統治する三頭政治(カエサル・ポンペイウス・クラッスス)は、共和政体堅持を主張する元老院との対立の中で自壊していった。

元老院派と民衆派が権力の綱引きをしていた共和政ローマは、カエサル以後、オクタヴィアヌス、アントニウス、レピドゥスの三頭政治を経て、最高権力者である皇帝(アウグストゥス)が統治するローマ帝国への道を歩み始める。
ローマの歴史上で初めてアウグストゥス(尊厳ある者)の特権的な称号を元老院より与えられた(B.C.27)のは、三頭政治の内戦に勝利してローマに安定と平和をもたらしたオクタヴィアヌス(B.C.62-A.D.14)であった。

何故、共和政ローマで全ての権力を掌握したオクタヴィアヌスは、同時代に生きたカリスマ的軍事指導者カエサルのように元老院から専制君主として糾弾されず、暗殺の危機にも晒されなかったのだろうか。
個人としてのカリスマ的求心力や政治・軍事の能力を比較すれば、オクタヴィアヌスはカエサルの足元にも及ばないように見える。しかし、オクタヴィアヌスは、ローマの政治を裁量できる絶対権力を保有しながらも、自分は専制的な独裁者となる野心は持っていないというメッセージを元老院や民衆派に送り続けていた。

あらゆる権力闘争の陥穽を回避する為の巧みな根回しと懐柔、元老院議員や護民官、民衆のそれぞれに対して明瞭に示される敬意と謙譲の精神によって、ローマ最初の皇帝アウグストゥスは40年にわたる長期独裁政権を安泰のままに維持したのだった。

元首政への過渡期を確実なものとしたアウグストゥスが、貴族階級の合議による共和政を主張する元老院から排除されなかった理由としては、アウグストゥス自身がカエサルのような軍事活動の天才でなかったことも上げられるだろう。
アウグストゥスは、戦争を勇敢に主導する軍事的リーダーの才覚には余り恵まれていなかったが、自分の手足となってローマ帝国を防衛してくれる忠良な側近アグリッパに恵まれていた。アグリッパの獅子奮迅の功績によって、ゲルマン部族の侵攻に対する防衛ラインを死守することに成功した。

40年もの長きにわたって長期政権を維持しローマ帝国繁栄の礎を築いたオクタヴィアヌス(アウグストゥス)は、カエサルの遺言で彼の養子という続柄にあったわけだが、この義理の親子の名は、帝国の四分割統治を始めたディオクレティアヌス(245-313, 在位284年-305年)以後の帝政ローマにおいてそのまま最高権力者の称号となった。
アウグストゥス(尊厳者)は、ローマ帝国の専制君主である皇帝(正帝)の称号となり、カエサルは、ローマ帝国ナンバー2で、対外的な軍事活動の最高責任者である副帝の称号となったのである。

ローマ帝国最初の皇帝であるアウグストゥスの時代から『ローマ人の物語]W キリストの勝利』で描かれるコンスタンティヌス大帝の時代までは、パックス・ロマーナ(ローマの平和)と五賢帝の時代(96-180, ネルヴァ,トラヤヌス,ハドリアヌス,アントニヌス・ピウス,マルクス・アウレリウス)を挟んでかなりの年月が流れている。

この紀元前1世紀から紀元4世紀までのローマ帝国史を簡略化して俯瞰すると、専制君主制(ドミナートゥス)を確立したディオクレティアヌスなどの登場に示されるように、『オリエント的な皇帝権力の強化による権力の一極集中』が続いたことが分かる。

ローマ市民権と宗教への寛容(トレランス)に象徴されるローマ人アイデンティティの衰退の問題は、ローマ帝国の版図が拡大して異民族の流入が増えるにつれて深刻なものとなってきた。
ガリア人やゲルマン人など属州出身のローマ人以外の皇帝が輩出される中で、ローマ帝国は、弱体化したローマ・アイデンティティを補完する新たな国家統合の軸を求めざるを得ない状況に追い込まれていく。

我々ローマ人とは何なのかというアイデンティティの根幹が揺らいでいく中で、ローマ帝国の首都機能がディオクレティアヌスによって祖国ローマから東方のコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)に移された(330年)。
国家の主権者であるローマ人と属州の異民族の境界線が曖昧となったことで、祖国防衛の責務と誇りを率先して担うローマ市民の絶対数が減少し国防に対する士気も低迷してしまった。

ライン川やドナウ川はローマ帝国の国土維持に関わる生命線であり、4世紀のローマ帝国においても最も重要な防衛ラインと考えられていた。しかし、終わることなく続くゲルマン人やフン族などの侵入によってその防衛ラインは次第に切り崩され防衛の為の要塞設備は放置された。
しかし、曖昧にローマ化した異民族が防衛統治に当たり、外部から侵攻してくる異民族に対してそこまで強硬な戦いをしなかったことなどもあり、この時代における防衛線の後退というのは致し方ない部分も多いように思う。

その意味で、北方ゲルマン民族の侵入に対するライン川の防衛線を回復したユリアヌス(後年、キリスト教の特権政策を廃止して背教者と呼ばれる皇帝)の功績は素晴らしいものであり、思弁的な哲学者としてのアイデンティティを自覚していたユリアヌスの軍事的リーダーとしての適性の高さを窺わせるものである。

ローマ人に共有されるべき中心的価値観が希薄化するアノミーの混乱がローマ帝国を襲い、広大な帝国領土の分裂の危機が深刻化した。ローマ帝国の繁栄の絶頂から衰退の始まりを迎える時期に、ディオクレティアヌスが登場し、その後を、過酷な権力闘争に勝利したコンスタンティヌス(272-337)が受け継いだ。

『ローマ人の物語]W キリストの勝利』では、ヒスパニアのオチデント(西方世界)からササン朝ペルシアと国境を接するオリエント(東方世界)に至る広範な領土を得たローマ帝国の斜陽とキリスト教の急速な台頭が描かれる。
キリスト教教会から大帝(マーニュ)の尊称を送られたコンスタンティヌス大帝やテオドシウス大帝が、強大な精神的支柱として国家を統合するキリスト教を求め始めた時代の物語である。

ディオクレティアヌスもコンスタンティヌスも、政治的な混迷とローマ・アイデンティティ拡散の中で国防の求心力を失おうとするローマ帝国の救済策として、官僚制度を備えた専制君主制(ドミナートゥス)の強化を打ち出したことでは共通している。

しかし、ディオクレティアヌスは、当時の新興宗教であったキリスト教勢力の拡大を許さず弾圧したが、東方の正帝リキニウスとの権力闘争を経て絶対権力を掌握したコンスタンティヌスは、ローマ帝国の統一を維持する為の精神的支柱としてキリスト教を保護する寛容政策を取った。
313年にコンスタンティヌスが出したミラノ勅令によって、キリスト教は公認され、ゼウス(ユピテル)を主神とするギリシア・ローマの伝統宗教と対等な地位を得ることになるのである。

しかし、コンスタンティヌス大帝によるミラノ勅令発布の時点では、まだキリスト教はローマ帝国の正式な国教とはなっておらず、ギリシア・ローマの伝統である多神教や地方土着のアニミズムや供犠祭祀を行う宗教と対等の地位を保証されたに留まるものであった。
しかし、コンスタンティヌス自身が死の直前に洗礼を受けてキリスト教徒となり火葬でなく埋葬で葬られたように、キリスト教に対する心情的な思い入れや肯定的な配慮は強かった。

特に、コンスタンティヌス大帝の後に、ローマ帝国全領域を統括する専制君主となる次男のコンスタンティウスは、明確にキリスト教を保護優遇する宗教政策を打ち出すことになる。

コンスタンティウス以降のキリスト教優遇政策やユリアヌスの反キリスト教的なギリシア・ローマ宗教への伝統回帰を振り返る前に、コンスタンティヌス大帝以降の帝国の政治状況と権力闘争を確認しておきたいと思う。

コンスタンティヌス大帝は、帝国唯一のアウグストゥスになるという野望を実現するために、マクセンティウスやリキニウスといった政治指導者を目指すライバルと戦って打ち破らなければならなかった。
3世紀から4世紀にかけて、帝国の暴力装置(軍事)と官僚機構(行政)の全てを掌握する専制君主の座を巡る争奪戦は熾烈を極め、暗殺・裏切り・陰謀・讒言による権力者の死は珍しいものではなくなっていた。

コンスタンティヌス大帝は、自身が権力掌握の過程で多大な犠牲を払ってきたことを鑑みて、自分の死後に帝国内部で血を流し合う内戦が起きないように生前から後継人事を公表していた。
自分の死後、広大な領域を版図に収める帝国は5分割して、それぞれの地域の統治と防衛を3人の子と2人の甥に割り当てた。



長男・コンスタンティヌス2世……ガリア・ヒスパニア・ブリタニア

次男・コンスタンティウス……小アジア・シリア・エジプト

三男・コンスタンス……イタリア・パンノニア・北アフリカ

甥・ダルマティウス……ダキア・トラキア・マケドニア・ギリシア

甥・ハンニバリアヌス……ペルシア国境地域の北部メソポタミア・アルメニア王国



しかし、権力闘争の泥沼の内乱を未然に防止しようとしたコンスタンティヌス大帝の思惑は見事に外れ、死後すぐに帝都コンスタンティノープルで50人以上が粛清される残酷な事件が勃発した。この次男コンスタンティウスが画策したとされる政治的粛清を目的とする暗殺事件によって、帝国の分割統治を任される予定だった甥のダルマティウスとハンニバリアヌスが姿を消した。

粛清以降、ローマ帝国はコンスタンティヌス大帝の3人の息子(コンスタンティヌス2世・コンスタンティウス・コンスタンス)によって3分割統治を受けることになるが、この帝国三分割時代も長くは続かなかった。

長男のコンスタンティヌス2世でさえまだ20歳という若さであり、3人全員が、実際に外敵と戦火を交えた戦争経験を持っておらず、個人的な交友関係が極めて狭かったという点で共通していた。
ローマ帝国の後期帝政では、国家の最高権力者である皇帝(インペラトール)は、一般貴族や民衆と隔絶した特別な存在であるとされ、皇帝と直接に言葉を交わせる関係にある人は皇帝の側近となった宦官(内務を司る去勢された官吏)などごく一部の人間に限られるようになっていた。3世紀以降、オリエントのペルシアや中華帝国をはじめとする専制国家によく見られた、閉鎖的な独裁体制やそれを支える宦官制度がローマにも導入されるようになったのである。

去勢されて朝廷内部で皇帝の相談役や後宮の管理などを勤める宦官は、公的な身分としては奴隷同等か人外の身分とされることも少なくなかったが、コンスタンティウスの時代の帝政ローマでは、エウヌコスと呼ばれた宦官は正式な高官として重用されていたようである。
始皇帝が建設した中国最初の統一国家・秦で宦官の趙高が絶大な権力を振るったように、『皇帝の意志と世俗の社会をつなぐ役割』を独占する宦官は次第に特権階級化していき、酷い場合には宦官が自分の意志を皇帝の意志として伝達することもあった。

後に唯一の専制君主となるコンスタンティウスは、エウセビウスというエウヌコス(宦官)を非常に信頼して、国政に関与する重要な権限と職務を与えていた。

コンスタンティヌスの子息である三兄弟による分割統治は、結局、長男と三男が途中で脱落して死去し、次男のコンスタンティウス一人が残って専制君主制(ドミナートゥス)を敷くことになる。
長男のコンスタンティヌス2世は、領土分割に不満を持ち、末弟のコンスタンスにアフリカ割譲を迫って対立した挙句、まともな戦闘も出来ないままコンスタンスの領土に踏み込んですぐにあっけない戦死を遂げた。
三男のコンスタンスは、10年間にわたってコンスタンティウスとローマ帝国を二分して統治してきたが、蛮族出身の部下であるマグネンティウスの反乱に遭って荒涼とした山野に遺骸を晒すことになった。

コンスタンティウス一人では、広大無辺なローマ帝国の全領土を監督し防衛することは不可能であり、コンスタンティウスは信頼して分割統治を委任できるのは血のつながった血縁者しかいないと考えていた。その為、コンスタンティノープルで凄惨な粛清をした甥の子に当たるガルスとユリアヌスの兄弟に目を付けた。
兄のガルスは、コンスタンティウス暗殺の陰謀を巡らしたという疑いを掛けられて処刑されたが、弟のユリアヌスはコンスタンティウスの死後まで生きて短い期間ではあるが正帝(アウグストゥス)として改革の大鉈を振るった。

コンスタンティウスは、キリスト教を政治権力の正当性を担保する道具として利用しようとしたコンスタンティヌス大帝以上に、キリスト教を厚遇して様々な特権待遇を与えた。
364年には、キリスト教会(司教・司祭・助祭)のみに許されていた人頭税の免税特権を、教会関係の人間(生産手段としての農地・工場・商店)全てに拡大し、その後、地租税など全ての税金を免除される特別待遇を得ることになる。

現代日本でも、宗教法人は営利目的の世俗的な事業を行っているわけではないとして課税免除の特権を持っているが、コンスタンティウスは宗教団体に対する免税特権の付与の歴史の端緒を作ったともいえる。
コンスタンティウス帝が死ぬまで継続した親キリスト教の政策路線は、ギリシア・ローマの歴史的宗教である多神教を敵視する方向へと先鋭化していく。

そもそも全知全能の創造神を信仰し、その宗教教義を広範囲に布教拡大しようとするキリスト教やイスラム教のような一神教は、他宗教の教義や世界観と共存共栄を図ろうとする意志が初めからない。

一神教の宗教原理に忠実であれば、世界全体の支配者である天上の唯一神以外の神を信仰する集団・個人を看過できないはずである。
また、唯一神の存在を否定するような言論・表現の自由を容認することも難しいので、『価値観の多様性』を尊重する社会との宥和性は基本的に高くないだろう。

権力者が支持してくれなかったり、信者数が圧倒的に少なかったりして自分達が劣勢な場合には、他の宗教や価値観を容認せざるを得ないというだけである。
一神教の教会側に十分な権威(世俗の人々の支持)と財力(世俗の人々の寄進)があれば、異教徒や異端者との共生よりもそれらを排除して宗教的な同質化を進める行動を選択するだろう。

キリスト教の保護者であり続けたコンスタンティウスは、ユピテル(ゼウス)やポセイドン、アテネなどの多神教信仰に代表される伝統的な古代宗教を抑圧する為に、供犠・祭儀・偶像崇拝という宗教信仰に欠かせない要素を段階的に禁止していった。



大帝コンスタンティヌスが新設した東の首都コンスタンティノポリスからして、「偶像」で溢れ返っていたからだ。建設当初からこのコンスタンティノープルには、キリスト教の首都として建設したからには当然だが、ギリシア・ローマの神々に捧げられた神殿は一つもなかった。だが、古代人は、特にローマ人は、立ち並ぶ彫像で飾られた都市でなければ都市とは見なさない。大帝コンスタンティヌスも、「新しきローマ」と呼んだこの新都建設に当たって、ギリシアを中心にしたローマ帝国の東方全域から、大理石の彫像を多量に徴発して運ばせ、それらを並べ立てて新都を飾ったのである。

おそらくこのキリスト教の首都はしばらくの間、キリスト教の教会とギリシア・ローマの神々の像が共存する都市であったろう。ギリシア人はもっとも美しい形は裸体であると信じていたので、その優先権は神々に与えている。というわけで神々の像となれば、常に、裸体か半裸体で表現される。キリスト教の教会と裸体の彫像の共存は、キリスト教的に考えれば許しがたいが、人間性の現実から見ればより自然な光景ではなかったか。だが、裸体の神像の生命も、この後、半世紀足らずでしかないのだった。

大帝コンスタンティヌスとその息子コンスタンティウスの二代にわたって実施されてきた、キリスト教の振興を目的にした諸政策は、時代順に分ければ次の三段階になる。

第一段階、公認することで、他の諸宗教と同等の地位にする。

第二段階、キリスト教のみの優遇に、はっきりと舵を切る。

第三段階、ローマ伝来の宗教に、他宗教排撃の目標を明確にしぼる。

第一段階と、それに加えて第二段階の本質的な部分までは大帝コンスタンティヌスが、第二段階の残りと第三段階までを、息子のコンスタンティウス帝が継続したと考えてよいだろう。息子は多くの面で父ほどの才能の持ち主ではなかったが、キリスト教優遇策においては終始一貫していたのだった。そしてこの路線で、半世紀が過ぎていたのである。



哲学的な本質考究の営為を好み、当時、勢力を増していたキリスト教の特権的待遇を廃絶する『背教者(ユリアヌス・アポスタタ)』の称号を得たユリアヌスだが、『複雑化した官僚制度や行政機構の大幅なスリム化』という大規模な歳出削減につながる行政改革にも着手していた。

背教者ユリアヌス帝は、絶大なるローマ帝国皇帝の権力を自由自在に行使して、財政を逼迫する既得権益層の解体に尽力し、価値観の多様性や信仰の自由を認めない排他的なキリスト教会の動きを牽制した。
ユリアヌスという皇帝は、キリスト教史観から見れば、唯一神の権威に服従しない罪深い反逆者であるが、非宗教的な歴史観から見れば、『多神教と一神教の共生』というその後の人類の歴史で多くの戦争の原因となってきた課題を克服しようとし、宗教階級や官僚機構の不正な既得権益を廃止しようとした偉大な皇帝であった。



「背教者」と弾劾されることになるユリアヌスの行った反キリスト教会とされる政策だが、それを一言でまとめれば、ローマ帝国民の信教状態を「ミラノ勅令」に戻した、のである。
ユリアヌスによって再び、あらゆる信仰がその存在を公認された。ギリシア・ローマの神々もエジプトのイシス神もシリア起源のミトラ神もユダヤの神も、キリスト教内部でも、これまで教理解釈の違いで争ってきた、三位一体説をとるアタナシウス派もそれに反対するアリウス派も、またこの二派以外の他の派も、何もかもがOKということになったのである。

信仰の完全な自由を保証する以上は、「異教徒(パガヌス)」という蔑称も、「異端(ハイレジス)」という排斥の想いも、あってはならないというのが、直訳すれば「全面的な寛容(トレランス)」の名の許に公表された、皇帝ユリアヌスの勅令であった。

ラテン語の「トレランティア」(tolerantia)を語源にする英語のトレランスでもイタリア語のトレランツィアでも、日本語訳は「寛容」とするしかないが、この言葉には、自分とは違う考えを持つ人でも認め受け容れる、という意味がある。この面でも、一神教との違いは明白だ。



ユリアヌスは、コンスタンティヌス大帝からコンスタンティウスへと継承されたキリスト教優遇政策を中止するという楔を打ち込んで、ローマの伝統である多種多様な価値観や生活習慣を承認する『寛容(トレランス)の精神』を政治と宗教に取り戻そうとしたのである。

ユリアヌスは、異教徒(パガヌス)や異端者に対して共感を欠き容赦なく排除しようとする

しかし、ユリアヌス帝以後、ギリシア・ローマの伝統的な多神教を完全に邪教として退けるミラノ司教アンブロシウスが登場して、キリスト教教会の権威はより一層強まっていく。
キリスト教を392年に国教化したテオドシウス大帝(在位379-395)は、他宗教の信仰を禁止して、古代ギリシア(B.C.776)から1169年もの歴史があるオリンピア競技開催を廃止した。

西欧史においてオリンピックの祭典が廃止された393年は、『古代ギリシア・ローマ文明の終焉の年』であると同時に『世界宗教としてのキリスト教が勝利の凱歌を挙げた年』になったのである。


ミラノ司教アンブロシウスは、キリスト教会の意向に逆らったローマ帝国の最高権力者テオドシウス帝を糾弾して、公式にキリスト教会に対する贖罪の意志を示すように要求しました。
世俗のヒエラルキーで最も高い地位にある皇帝を謝罪させ、神の権威を背負う自らの前に跪かせたアンブロシウス。
アンブロシウスは、世俗権力と神聖権威が相補的に機能する『権力の二重構造』を知悉した聖職者であり、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世を屈辱の謝罪に追い込んだ『カノッサの屈辱』へと続く『世俗に対する宗教の優越』の範例を示した司教でした。

キリスト教をローマ帝国統一の最良の道具として利用しようとしたコンスタンティヌス、ローマ帝国皇帝の地位の正当性を神の権威で承認することで政治権力をコントロールしようとしたアンブロシウス、中世に至るまでヨーロッパ全土で勢力を拡大し続けるキリスト教は、世俗の政治権力にメタ(神)の次元からコミットすることによって、各時代の政権よりも長い命脈を保ち続けていく事になるのです。

ローマ帝国はテオドシウス帝の死後、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と西ローマ帝国に分裂することになり1453年に地上から消滅しますが、キリスト教のカトリックとプロテスタントは2006年の現代でもこの世界に悠然と存在し続けています。
ローマカトリックを頂点とするキリスト教会やプロテスタンティズムの教義が世俗社会に与える影響力はかつてほど大きくはないですが、未だ隠然とした存在感と権威性を保持しています。

イランやイラク、アフガニスタン、パキスタンといった中東のアラブ社会では、一神教のイスラム教の教義が持つ世界観や倫理観(規範性)が今でも政治や民衆に大きな影響力を与え続けていて、世俗権力と宗教権威が同一であったり拮抗していたりします。

ユリアヌス帝が構想したような全ての価値観が等しく尊重される社会、あらゆる宗教の共生が可能となる世界は現代に至るも全く実現されていません。
一神教と対立した多神教の力はますます衰えていて、一切の宗教言説や宗教規範にコミットしないという無宗教の人も経済が発展した先進国では増えていますが、一神教的な信仰や価値観が対立する構造は全く解消されていない状態です。

一神教同士の融通の効かない価値観の衝突だけでなく、グローバリゼーションと絡んだ経済的な利害関係が複雑に輻輳する中で、現代の解決困難な国際問題が構築されています。
現代社会に存在する国際紛争やテロリズムの解決の道筋は遥かに遠いですが、異質な他者を弾圧する排他的感情を抑制して、宗教や価値観の多様性をお互いに尊重する古代ローマ的な『寛容と公正の精神』を政治指導者と民衆が培っていくことが大切だと思います。


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キリストの勝利 ローマ人の物語XIV
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元老院主導の共和政の衰退と帝政ローマの興隆:ローマ帝国の覇権主義を支えた『属州のローマ化』
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