2009年11月27日

「無条件」という条件

「無条件の愛」をテーマにしたブログに於いて、
「無条件の愛は存在しない」というような内容を提示すると決まって反論者が現れ、
ブログの著者に内容の撤回・訂正を突き付けるが如くの言葉の放火を浴びせて行くものだ。

・・・という私はこのブログのテーマとして「全てが愛で出来ている」という説明をしているのだが、
それはいわゆるスピ系的無条件の愛の定義とは全く異なるものである。

愛には必ず対象が存在し、その対象を自分よりも優位に感じる時、
それは「愛」という認識に成長する。
対象なき愛は「無関心」であり、それは大きさでも高次的な意識の拡がりを意味するものでもない。

・・・が、スピ系的「愛」の定義はその対象を「万物」に設定したものであり、
この世の全ての存在を対等に思い遣るほかに、
そこに「受け身」「非選別」「非認識」という条件がついて回る。

相手を感じるか否かという情感の動きを封鎖し、
特定の「神(かみ)的人間」がそれを提唱し、その条件のみを無条件・無抵抗に受け入れる事を「無条件の愛」と言っており、
そこには「一人の発信者とそれを受信する複数の傍聴者」というシチュエーションの設定が、
暗黙のうちに施されている。

この設定はそこに宗教性を秘めた場合に効力を発揮するものであり、
巷の多くの「無条件の愛」提唱者の真意は、
自身が宗教的立場に於いて絶対性を持つ対象であらんとするところに在る。


数日前から知人の日記内で議論が展開されているコメントの投稿者の中にも、
上記の宗教的願望を秘めたユーザーが温厚かつ高圧的な文字を連ねており、
下界の揉め事を仲裁する神になり代わったかのような、安らかな口調で布教に転じるコメントを行っている。

だが、
「無条件の愛」の定義を書き示しなさい・・・と言っている段階で、
「定義付け」という条件を要求する彼らの行為こそ、「無条件」に相反している(苦笑;)

 無条件とは、
 自他双方に対し条件を課さない事である。


だが、愛がそこに付く事は、「その対象を限定する」という条件が設定されるものであり、
故に「無条件の愛は存在しない」という現世的な調停は間違いではないと、私は確信する。

又この真偽に対しそれでも「無条件の愛が成り立つ」事を主張するのであれば、
その人は「生きる」事の全ての動作から身を引く事が条件付けられる。

例えば「食す」という行為は、自然界に存在する命を自分の体内に取り込む事を意味し、
その対象に感情が在ろうがなかろうが、
・・・つまり肉類、草木類かを問わずその為に殺生を行う事が生存の条件である以上、
「愛」とは真逆の行為によって自分の命が維持されて行く事から、身を引かない限り、
「無条件の愛」を実践している事にはならないわけだ・・・。


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別記事:「思考の速度」


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