テーマ:明治維新と新政府
第1章 明治維新 明治維新を一口で語るのは困難な事である。いえるのは維新によって誕生した新生日本は、否応無しに国際社会の荒波に乗り出さねばならなくなったということである。
明治国家は、それまでの江戸幕藩体制とはまったく異なる体系を持って成立しているし、黒を白に変えるほどの大変化をしようとしているものであった。そういう革命としての明治維新を考える場合、スポットを当てる角度が様々にある。思いつくままにいくつかを列挙してみる。
@【維新の原動力】
既知のように、明治維新の功労藩には薩長土肥、すなわち「薩摩」「長州」「土佐」「肥前佐賀」の4藩が上げられる。これらの藩には、維新の先駈けになるだけの要因、特色、力があった。
薩摩藩:
関ヶ原の戦い(1600)で石田三成(1560〜1600)率いる西軍につき、苦渋をなめた島津家の藩。外様でありながら77万石の大藩で、江戸時代になってからもずっと幕府に反逆する恐れがあるとされた。ゆえに幕府はこの藩に常に目を光らせてきたが、薩摩はその監視をものともせず一独立国の体を成し続けてきた。
また、この藩は江戸期、一度も暗君(愚かで道理の分からぬ当主)を出さなかったことでも有名である。
また、幕府に背いて密貿易も盛んにし、薩摩を倒幕に向かわせる財力を築き上げた。幕末には豪邁大度、活眼達識といわれた名君、島津斉彬(1809〜1858)を出し、その遺志を受け継いだ西郷吉之助(隆盛)らが討幕運動へこの藩を導いてゆくのである。この藩が唯一徳川に抗うだけの軍事力を有していた。長州藩:
長州藩の毛利家はあの中国地方統一を達成した毛利元就(1497〜1571)の家である。安芸(広島)全域を支配していたが、関ヶ原敗北後は周防(現在の山口県)に閉じ込められた。
この藩は特殊であった。幕末には高杉晋作(1839〜1867)、桂小五郎(1833〜1877)などの有能な人材を出したが、なにより他藩に先んじて多くの事を経験している。はじめペリー来航以来、強烈に攘夷(外国人を追い払う考え)を唱え、外国勢力を徹底的に打ち払うべく活動するが、下関で外国船を砲撃してその反撃に遭ってからは攘夷がいかに無謀であるかを知り、藩内改革を推し進めて国力強化を目指すようになる。
また、高杉晋作の奇兵隊(身分差を越えて兵力と成した日本初の洋式陸軍)に見られるように、封建制を否定する考え方が幕末のその時期に既に生まれていたことも、明治維新に向かわせるひとつの要因であったといえる。
さらに忘れてはならないのは、そうした有能な人材を育成し輩出した吉田松陰(1830〜1859)という巨大な思想家の存在である。彼の存在なくしては、あるいはその後の長州の存在はなかったかもしれない。土佐藩:
土佐藩は江戸幕府開幕の折り、それまで遠州掛川6万石にあった山内家が、関ヶ原の功績を認められ、土佐に24万石として封入されて生まれた藩である。
土佐藩は身分差別が特に激しい事で有名で、山内家と家臣団は封入後、以前から土着する長曽我部家の家臣だった者たち土着武士を「郷士」とし、自らを「上士」として大いに差別した。差別は酷烈を極めた。
この300年の差別が郷士たちを革命の荒波へ押し出させて行く。幕末には多くの郷士たちが脱藩してこの藩を捨て、そして討幕運動に参加して行くのだが、有名な坂本竜馬(1835〜1867)もそのひとりである。
当時の土佐藩主、山内容堂(1827〜1872)は、幕府側とも勤王側とも右往左往し、結局は公武合体(幕府と天皇の融合政策)を目指したが、そういう藩を最終的に一勢力に押し上げたのは脱藩して生死を賭けて活動した浪人たちであった事は皮肉な事実である。
坂本竜馬の周旋が長州薩摩の連合を成立させ、さらには大政奉還策を講じたことで、土佐藩重臣の板垣退助(1837〜1919)や後藤象二郎(1838〜1897)を動かしめた事も重要な点である。佐賀藩:
肥前佐賀藩は強大な軍事力(佐賀は幕末にはすでに黒船を建造できるだけの産業を興していた)を有してはいたが、佐幕(徳川幕府支持)藩であった。さらにこの藩は二重鎖国の国であり、他藩と交流しないこと甚だしかった。
そうした藩であるから、勤王活動も盛んではなく、幕末に出た大隈重信(1838〜1922)、副島種臣(1828〜1905)、江藤新平(1834〜1874)らの力あってこそその名を天下に轟かせる事ができた。彼らが藩内を改革すべく周旋し、特に江藤新平は脱藩してまで天下の状勢を調べ上げ、帰藩して藩主に報告した事で、佐賀藩に倒幕に向かわねばならない、と決意させた。
勤王倒幕の第4勢力として佐賀は起ち、ついに新政府に多くの人材を出仕させる事ができた。
A【維新の勝者と敗者】
維新の変革が近代日本の出発点であったことは誰の目から見ても疑いないことだが、その変革における敗者の存在を見過ごすことはできない。勝者である勤王雄藩は明治新政府の中心的存在として活躍するし、維新を「御一新」という輝かしい変革として捉えている。
ところが、敗者の側である、旧幕府関係者からすれば維新は「瓦解」でしかないのである。このことを考え合わせずにはその後の明治国家を考える事はできない。維新には様々な側面がある。薩長勢力の政権奪取(クーデター)に過ぎないということもしきりに叫ばれた。現にそうであったろう。身分制を撤廃しようとしたが、潜在的に残ってゆくし、中央政界に入ったかつての志士たちが権力の亡者になってゆく側面もあった。こういう政権にするために我々は闘ったのではない、という在野の士族たちの不満が奮発するのも仕方のない事である。そういう勢力とかつての敗者たちがある面においては次第に歩み寄り、内乱が起きて行く。それは急激な革命を押し進めた国家には宿命的な事態なのである。
しかし、明治10年(1877)西郷隆盛(1827〜1877)の決起による西南戦争を政府が鎮定してからは、この国に内乱が再び起きる事はなかった。もはや国内で戦争などしている時ではない、我々の日本は西欧列強との確執の中で富国強兵を進めなければ国際社会に生き残ることは困難である、との認識が生まれてゆくのである。
B【維新と日本人】
アジア諸国が西欧列強に植民地化されて行く中で、何故日本のみが独立を守り得たか、という問いは、しばしば歴史学的見地で取りざたされることである。作家・島崎藤村はこう言っている。
インドへ―支那ヘ―日本へ― そう思ってあの「黒船」来航が幾そうとなくこの島国の近海に出没した時代のことを振り返ってみると、我々の先祖のなかにたくさん気違いができたということも不思議はないと思う。よくそれでもあの暗雲の時代にあって我々の先祖が迫り来る恐怖をきり抜けたものだという気もする。幸いにして我が長崎はシンガポールたることを免れたのだ。(島崎藤村 『海へ』から)
この藤村の意識はその時代を生きた人々の全体的意識を投影したものであるとも言える。なぜ植民地化せずにすんだか、という問題は様々な要因と、この日本のそれまでの歴史にも大きく起因するであろうか。藤村はさらにこういう。
僕はこんなふうにも考える。インドやエジプトやトルコあたりには古代と近代しかない、といった人の説にはまったく賛成だ。幸いにも僕らの国には中世があった。封建時代があった。長崎がシンガポールにならなかったばかりじゃない。僕らの国が今日あるのは封建時代の賜物じゃないかと思うよ。(同前)
日本の明治維新はこうしたアジア全体の歴史から見た上でも非常に希有の事情をもつ革命であったのである。もちろん、中国やインドのように封建国家は他にもあったが、日本とそれらの国々とが異なっていたのは、絶対的封建下にあった中国などと比べ、日本は低い身分の人間も場合によっては出世することを許される、超法規的封建体制であったことである。人材が多く輩出した幕末には、そのことが顕著に感じられる。そうした国民社会で国を守る層が多角化したことにも因を求められはしないだろうか。
そして藤村が言うように、鎌倉時代を経て江戸時代という多くの知識人を生んだ封建体制があってこそ、始めて成し得る独立体制であったのである。当時の日本は世界でもトップレベルの識字率(民衆の文字使用率)を誇る国だった。それは武家層はもちろんの事、物品の流通を扱う商人層にも文字は必要であり、納税と農家の掌握の為に農民でさえ文字を必要としたのである。
読書層を広域化させ、300年近くの民衆醸造を経たからこそ、幕末の外圧に対して危機感と対応策と思想というものが生み出されてゆくのである。
翻って言えば、こうした長い安泰の統一国家を築き上げた徳川家康(1542〜1616)は、すでに江戸徳川幕府開幕の時点で維新のきっかけを作っていたといえなくもない。
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