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2007年12月25日 (火)

会社法はこれでいいのだ(2)

今日は、クリスマスイブ。
東京タワーもピカピカとクリスマスツリー化していました。

この愛の日に、論争するのもどうか、という気はするものの、浜辺教授から「再々抗弁」も提出されたことですし、「会社法はこれでいいのだ」第2弾をお送りします。
なお、浜辺教授の再々抗弁に対する反論は、長大なので、後ろの方に回しています。興味ある方はご覧ください。また、あまりに長くなりすぎたので、質問コーナーはお休みです。

さて、「会社法は、これでいいのか」は、随所に突っ込みどころがあるのですが、今日は
「立法担当者の責務放棄」について反論しましょう。

同書の36ページ以下で、企業会計という雑誌の郡谷さんと稲葉さんの対談が引用されています。
 この対談は、新会社法と旧商法の哲学の違いをまざまざと見せつけるという点で、非常に面白いものですが、浜辺教授は、この対談中の郡谷さんの
「特定のニーズを思い浮かべて制度をつくるということを、会社法はしていません」
という発言を捉えて

「会社法ほどの重要な法律なのですから、明確なビジョンなりポリシーを持って立法にあたったはずです。そして、誰もがそうなっていると思いこんでいましたが、実は必ずしもそうではないとうことを立法担当者が白状するに至っているのです」

と批判しています。

 しかし、郡谷さんだけでなく、会社法の立案担当者は、「明確なビジョンなりポリシー」を持って
 「稲葉さんをはじめとする従来の立案担当者のように、特定のニーズがある場合に限って、それを認めるという発想は駄目だ。
 会社と関係者が、意思表示によって権利義務を設定することは、本来自由なのだから、立案担当者の狭い常識の中で、しかも、立案当時に存在するニーズ以外に対応できないというような規制をすることは、基本法としてふさわしくない。
 将来、どのようなニーズが生じても会社法が対応できるように、不都合が生じない限り、理論的にありうる制度設計をできるかぎり広く許容しよう」
と考えて、立案しています。

 稲葉教授や浜辺教授の考え方の特徴は
  「規制を原則」
としている点です。たとえば、種類株式の設計でも、原則は禁止で、特定のニーズがある場合のみ、これを例外的に認めるという発想のように見受けられます。

 しかし、ニーズを厳密に想定しなければならないのは、規制を行う場合です。
 すなわち、
   具体的な規制を行うニーズがある場合に限り、規制することができる
という考え方が正しいわけです。
 この命題は、裏を返せば
   具体的な規制を行うニーズがない限り、規制をせず、当事者の意思に委ねる
ということを意味します。
 これが私法の原則であり、当事者の意思に委ねるのに「ニーズ」は必要ではないのです。

 また、浜辺教授は、会社法が社債の発行を持分会社にも認めたことについて
「合名会社や合資会社において社債を発行するということはおよそ考えにくいことです。・・こうした無意味な制度があることで、会社法のセミナーなどでは、あれこれ制度の説明をした挙げ句、「でも、結局これは使えません」というオチになるようなことが、あちこちで起こっています」。
と批判されています。

 セミナーで講師が、そういうオチをつけることは、「弊害」とはいいません。

 私は、浜辺教授は、社債についての理解が十分ではないと思います。確かに、社債は、原則として、社債管理者の選定や金商法の規制等がかかるので、合名会社等が社債を発行することが実務上困難な場合もあるという点では、浜辺教授は正しいです。

 しかし、たとえば、私募等のうち一定のものは、社債管理者の選定も不要であり、金商法の規制もかからず、社債を発行することができますから、手続としては、大変ではありません。
 
 ある地方公共団体では、会社による社債の発行について特別な支援をするような制度がありましたし、金融機関の中には、審査において、証書貸付と社債を別枠で評価するところもあり、証書貸付だけでは難しい融資も、社債と組み合わせることにより、可能になる場合もあります。
 その他、社債という制度を有効活用する道はあるわけで、合名会社等から、そうした有効活用できる手段を奪う必要性がどこにあるのでしょうか。「結局、これは使えません」という狭い考え方だけで、合名会社等の社債発行を禁止するのはおかしいです。

 さらに、浜辺教授は、有限会社の社債発行について、「有限会社の規制の甘さからしますと、株式会社としての体制もない会社に社債発行まで認めるのが妥当なのかは極めて疑問です。」という例をあげ、会社法が「立法事実も考慮されていなければ、どうあるべきかも深く検討してもいないようであり、どのように弊害を防止するかも不十分です」と述べられています。

しかし、先に述べたとおり、会社法は、弊害が生じるような場面まで許容するようなことはしていません。
 たとえば、浜辺教授があげた「社債」の例についても、有限会社に社債を発行させても何の問題もないからこそ、認めているのです。
 浜辺教授は、社債の発行を規制の強弱と関連づけているようですが、一体、どう関係するのか、理解できません。社債は、一種の借金です。株式会社にお金を貸す人もいれば、有限会社にお金を貸す人もいるのであり、有限会社はガバナンスが緩いので、貸したくないというのならば、貸さなければよいだけです。
 また、株式会社だから社債が償還できて、有限会社だから償還できないという因果関係もありませんし、社債が証書貸付などと異なるのは、公衆の保護のために社債管理者や社債権者集会の制度が置かれている部分ですが、これについては、株式会社も有限会社も共通の規律に服します。この点について有限会社や持分会社に対する規制が緩くなっているわけではありません。

 このように浜辺教授の基本的な考え方は妥当ではなく、また、批判の根拠としてあげられている具体例も的外れだと思います。

 なお、18頁以下において、浜辺教授は、会社法の立案に郡谷さんが参画していることについて
 「本来ならば、少なくとも司法研修所を出て、法律事務家として人並みの経験を積んだ後に、会社法の立法に携わるという順序になるべきであるし、そういうものだと一般的には考えられているのではないでしょうか」「そういう人事を行った権力者の意向が働いていたのではないかと推測するほかありません」
と述べられています。

 この文章は、「法律実務家は人並み以上に法律の立案ができる」という奢り以外の何ものでもありませんし、「権力者の意向が働いていた」などというのは、何を言おうとしているか意味すら理解できません。

 法律の立案のほとんどは、法律家以外の公務員が行っていますし、法律実務家だろうと、どんなに優秀な学者であろうと、法律の立案という作業については、無能ということも十分ありえます。
 大事なことは、適材適所です。郡谷さんは、もし彼がいなければ、会社法が平成17年に成立していなかったかもしれないというほど卓越した働きをしています(しかも、会社法の立案をしながら、旧司法試験に合格するという離れ業をやりとげています)。

 浜辺教授も「K氏自身としては、その職務を立派に果たされたと思います」とフォローしているように見せていますが、少なくとも、このあたりの浜辺教授の記述は、この本の品位を著しく落としていると感じます(ちなみに、K氏に続き、H氏として私の紹介もしていただいていますが、この部分は、前後関係からすると、あまり脈略がないので、割愛します。)。

 結局、浜辺教授は、郡谷さんが理系出身者だから、会社法では
  「因数分解的な手法」
が用いられており、それが、「今までの歴史的な経緯や表現の問題においても、ずいぶん多くの問題を含む結果となって」いるというところを主張しようとしているのでしょう。

 そして、その因数分解的な手法に対する批判として、67頁以下に「読めば読むほど分からなくなる会社法」として、いろいろな例を挙げています。

 たとえば、浜辺教授は、転換株式だと分かりやすいが、取得請求権付株式だと、取得請求権付株式に関する条文(会社法108条1項5号)と、「取得するのと引き替えに株主に対して他の株式を交付する」(会社法108条1項5号ロ)という条文を組み合わせることによって、はじめて従来の転換予約権付株式と同種の仕組みが定められていると分かるから、わかりにくい、という趣旨のことを述べられています。
 しかし、この例で、浜辺教授が「わかりにくい」と思うのは、「従来の転換予約権付株式はどこにあるのだろう」と思って探しているからであり、最初から、会社法で勉強し、種類株式の説明を聞いた人には難しくありません。会社法108条1項5号と同号ロをそのまま読めばいいだけの話です。

 また、浜辺教授は、会社法154条1項で「金銭」の二文字ですむところを「金銭等(金銭に限る)」などと表現して、わざと難解にしていると批判しています。
 しかし、会社法154条1項を「金銭」とするのは間違いです。浜辺教授の条文の読み方が間違っています。
 154条1項は、「第百五十一条の金銭等」と規定し、「株式会社が151条各号に掲げる行為をした場合に、当該行為によって当該株式の株主が受けることのできる金銭等」という長たらしい引用を簡略にしているのです。
 その上で、154条1項の対象となるのは、151条の「金銭等」のうちで、「金銭」に限られるので、それをカッコ書きで表現しているのです。
 この場合、第151条1項は、あくまで「金銭等」で定義をしているので、その一部部分を「金銭」で引用することはできません。
 それにもかかわらず、浜辺教授は、自己の誤解をもとに、154条1項の規定ぶりを「笑い話」として批判されていますから、この点は、増刷の際には変更された方がよいように思います。

 その他浜辺教授が具体例としてあげられたことは、それぞれ理由のあって、そのような規定にしているのであり、「わかりにくい」と一括りにしてよいようなことはありません。

 もちろん、私は、会社法が「わかりにくい」という点については、そういう面もあるだろうとは思います。
 分かりやすいところもあれば、わかりにくいところもあるのは、法律ならば当たり前のことだからです。また、法律専門家が従来の常識をもっているがゆえに、わかりにくいところだって沢山あるでしょう。

 しかし、少なくとも法律の専門家を名乗るならば、そういう改正をフォローすべきです。私だって、金商法、独禁法、税法の改正は、わかりにくいけれでも、一生懸命勉強しています。会社法の制定は、平成2年まで続いた規制中心の商法の合理性を徹底的に検証し、数度にわたって自由化の観点から行われた商法改正の総仕上げとして行われたものです。
 平成2年までの常識を絶対視して、会社法を見れば、いつまでたっても分からないのは当然であり、会社法の目指すバランスがどこにあるのかを理解すれば、会社法は分かりやすくなると思います。

 なお、浜辺教授が、「わかりにくい」ということを問題視されているのは、浜辺教授が「立法担当者から大手法律事務所等に転職した人たちであれば、自分だけは会社法の奥の奥まで知っている元立法担当者として優位に立てる」という思いに囚われていることも一因なのかもしれません。
 しかし、もし、私たちが、そんなに優位に立ちたければ、あんなに本を執筆することはなかったでしょうし、このブログで無料で質問に答えたりしないでしょう。ノウハウは、独占した方が得ですから。
 浜辺教授が、そういう偏った目で会社法を読むのを止め、従来の商法の欠点や、会社法に込められた哲学を素直に受け止めたれた上で、会社法を批判されれば、より深い議論ができるでしょう。

<浜辺教授の再々抗弁に対する反論>
>浜辺教授「葉玉先生の引用がかなり恣意的で、都合よく改ざんされておりますので、その改ざんを前提に読まないで頂きたいのです。残念ながら、12月22日の葉玉先生の議論は、いつもと違って少しアンフェアな議論が目立ちます。
葉玉:もし引用が浜辺教授のご趣旨と違うのならば、申し訳ありませんでした。なるべく原文を生かしているつもりですが、いずれにせよ、読者には、原文を読むこともできますので、私の引用が恣意的かどうかは読者の判断にゆだねたいと思います。
 なお、今回の浜辺教授の再々抗弁は非常に長いので、読者のために一部要約することをお許しください。

>浜辺教授「第一に、この議論を通して、最近の立法が一体誰のために、役人たちが、どういう姿勢で法律を作っているかを浮き彫りにできるかもしれないと思うから。
第二に、今後の立法の方向性はどうあるべきか、を考える参考になるかもしれないと思うから、そして、これらの議論を通じて「エリート官僚支配」を打破するための議論のために小さな一石でも投じることができればという思いからです。」

葉玉:第一の点は、最近の立法は、海外からの輸入ではなく、現実にその法律を使っている人たちの声を聞いて、その人たちのために作っています。浜辺教授は、それが「財界エリート」に偏っているように思われているかもしれませんが、今、話題になっている「最低資本金制度の撤廃」などは財界とは全然関係のない中小企業や脱サラの方の声から作られたものであり、たくさんの利害関係者の意見の調整の中からできあがっています。
 役人たちが、どういう姿勢で法律を作っているか、という点については、役所によって、かなり違うでしょう。法務省民事局は、基本的には、行政法ではなく、私法の領域を取り扱っているので、どちらかというと民事局自体が何か目標設定をして改正をやろうとするようなことは少ないです。民間からの改正の声を聞きながら、改正をしているというのが実態でしょう。
第二の点については、今後の立法の方向性は、民事局の立法姿勢については、とりたてて変える必要はないように思います。昔は、人手の問題もあり、法務省というのは、法改正をしたがらない代表的な役所のひとつであり、いつまでも不都合が是正されない時代もありました。今くらいがちょうどいいかなあと思います。ちなみに「エリート官僚支配」というのは、民事局の立法、特に会社法については、荒唐無稽な批判です。会社法は、行政に関連する部分(たとえば、登記義務)は多くなく、しかも、今回の改正では、なるべく行政の関与を少なくしようとするものばかりです。また、会社法の立案担当者グループのうち、行政畑を歩いてきた公務員は経産省からきた郡谷さんだけ、弁護士および公認会計士が5人、検事が2人、裁判官が2人ですから、現実問題として、「エリート官僚支配」とはかなり違うでしょう。弁護士だろうとなんだろうと、法務省に入ったら、もう「エリート官僚」だというのならば、どうしようもありませんが。エリート官僚支配という言葉のもつ意味を明らかにした上で、ご批判されたほうがよいのではないでしょうか。

>浜辺教授:かつては1000万円の資本金を調達するためには、それなりの事業計画を作って、出資者を説得し、はじめて出資を得て事業が開始できるが、その計画が十分ではないために、会社設立が見送られたといったことは、現実にあります。
葉玉:そういうケースもあるでしょう。でも、それは、「会社」の設立が見送られただけではなく、「事業」としても見送られたのではないでしょうか。
  浜辺教授のご批判の最大の難点は、
    ① 事業の成否の問題と株式会社の設立の問題を混同している。
    ② 最低資本金制度の問題と、大規模会社とそれ以外の会社の区分をしようという立法姿勢(区分立法)の問題をあまり区別せずに論じている
という点でしょう。
浜辺教授が、株式会社の最低資本金制度の廃止を批判されるとするならば、個人もしくは合名会社としては「事業が開始できる」が、株式会社としては「事業を開始することができない」という事例を出されるべきでしょう。無理な事業を抑止することと、株式会社の設立を抑止することを同列に取り扱うべきではありません。浜辺教授のおっしゃるように、最低資本金制度の維持は、無理な事業を抑制する具体的な効果がある場合もあるかもしれませんが、そのような事業は、個人事業や合名会社としてはじめようとしても、駄目なのではないでしょうか。
  逆に、個人事業などとして継続できるような事業であるならば、株式会社としても継続することができるでしょう。中小株式会社で、事業計画もなく、出資者は社長一人で株式会社を設立して成功したケースは、沢山あります。それにもかかわらず、最初に1000万円を用意できないというだけで、株式会社の設立を禁止すれば、株式会社を設立して事業を成功させるという芽をつむだけでしょう。また、ある程度事業が成功した後でなければ、株式会社に移行することができないとすれば、個人事業から株式会社に移行するときに、事業用資産の譲渡のために無用なコストを生じさせるという問題も生じます。
  浜辺先生は、区分立法の理由付けとして、事業としての継続性やスクリーニングを持ち出している点に、実態にそぐわない面があると考えますし、事業としての継続性を確保できるかどうかは、出資金だけではなく、事業の収益性・将来性、経営者の信用などに依存するものですから、「事業を営むことが無理かどうか」、さらに、「株式会社として事業を営むことが無理かどうか」を、1000万円の出資金の有無という形式的な要件でスクリーニングしようとすること自体に無理があると思います。
 
>浜辺教授:「既に企業経営をしている人たちからも、「かつては、それなりに苦労して会社を作ったけれども、これからの会社法は安易に会社を設立して心配だ」といった意見を耳にすることが少なからずあります。
葉玉:その苦労というのは出資金1000万円のことでしょうか?また、その人は、平成2年以降に設立した人でしょうか?その「心配」は、会社法施行後、現実になりましたか?私もビジネスに携わっている人から、そのような声を聞いたことがありますが、よくよく聞いてみると、最低資本金制度自体に関する誤解や制度変更に伴う一般的な不安感に基づくものであったと思います。
  また、安易に会社を作れる雰囲気があっても、実際に作るには、すくなくとも数十万円のお金が必要なのですから、本当に「安易に」作る人は少ないでしょう。仮に、安易に作ったとすれば、休眠会社になるかもしれませんが、それだけならば、誰にも迷惑はかけませんから、それを禁止する必要はありません。
こうしたことを、浜辺教授が「善人をも悪人にしてしまう危険性をはらんでいる」と表現することには、強い違和感を覚えます。
  さらに、浜辺教授は、「会社法のような弊害予防・抑制・克服策を備えていない最低資本金の廃止」が問題と指摘されますが、実質的には、平成2年改正の前に戻るというだけであり、そのころの制度に加えて、ことさら弊害を予防・抑制・克服しなければならないような制度を会社法で用意する必要はないように思います。

>浜辺教授「、葉玉先生の<私は、ダミー会社が違法な行為を行うのならば、たった1社であっても、1回の行為であっても、許されないと思いますし、また、「数が少なければいい」などとも思っていません>という、くだりは、元々の、「ダミー会社が沢山設立されていたのでしょうか。」「さらに、会社法が成立した後、そのようなダミー会社が増えたのでしょうか。 おそらく、どれも実証的な研究がされていないため、浜辺教授も私も正確に答えをもっていないというのが現実ではないでしょうか。」という問いかけと、論理的にどのように整合するのでしょうか?これって、論理のすり替えではないのでしょうか。これは役人が国民を騙すために使う常套手段です。
葉玉: 論理のすり替えではありません。私は、違法行為を行うのならば、その違法行為を抑止すべきであって、違法行為の抑止との直接の因果関係がない最低資本金制度による設立制限を廃止することとは、切り離して考えるべきだということで論理は一貫しています。

>浜辺教授「最低資本金制度は、「健全な会社を作っていくため」の制度であって、「違法行為の抑止手段」という目的は、「健全な会社を作るため」という目的よりも小さい位置づけ、ないし副次的目的だったと思います。
葉玉: 最低資本金制度は、「健全な会社を作っていくため」という意味でも、不十分であまり意味もない制度でした。「健全な会社」とはなんでしょうか。設立当初、1000万円の自己資本があることが健全な会社なのでしょうか。とすると、有限会社は300万円だから不健全なのでしょうか。もちろん、そうではありませんよね。また、合同会社や合資会社は、出資金0円なので不健全なのでしょうか。
 繰り返しますが、浜辺教授は、株式会社の設立の問題と、事業の継続性や会社の設立の健全性の問題を混乱されているように思います。浜辺教授が主張されているのは、区分立法の必要性の問題であり、設立の健全性の問題ではないはずです。
 たとえば、間接有限責任のもとで資本金1円でも、代表者が、連帯保証して、会社が借り入れを行えば、事業は継続できます。それでは、不健全なのでしょうか。もし、その形態が「不健全」であるというのならば、合名会社は不健全であるというのに等しいわけです。
 また、実際には、資本金1000万円で1億円の借り入れがあるところはザラであり、そうした会社は金利3%としても年300万円の金利になります。また、社長と従業員一人の給料等だけでも、1年間で数百万円になります。会社の一般管理費を考えると、1000万円・300万円という最低資本金をもとで、設立の健全性を語るのには限界があります。
 私が、浜辺教授の理解がやや浅いと感じるのは、その理論が、株式会社のみにフォーカスされすぎているところに由来するように思います。ダミー会社であるとか、安易な会社設立という問題は、本来、会社全体について語るべき問題です。また、安易な起業というのなら、個人事業を含めて語るべき問題です。浜辺教授は、しきりに「不健全な起業の抑止」とおっしゃいますが、最低資本金制度は、単に株式会社としての起業を抑止しているに過ぎないのであり、起業そのものを抑止しているわけではないのです。それにもかかわらず、それを、株式会社の最低資本金制度の存在意義のように語られるのは、あまり論理的ではないと思います。
  最低資本金制度の目的は、大規模会社と中小規模の会社を区分することにありました。それ以外は、健全な設立という点を含め、付随的な理由です。
  これに対し、会社法は、会社が成長に応じてシームレスに組織を改変することができるように、そのような区分を取り払いました。最低資本金制度の撤廃は、そのひとつのあらわれでもあります。
 私が、最低資本金制度には違法行為抑止の効果はないと主張したのは、浜辺教授が、ダミー会社が増えるという話をされたからであって、『違法行為の抑止オンリー』とは言っておりません。先ほどお話したように、最低資本金制度は、健全な会社の設立という点でも合理性に疑問の残る制度です。また、その主たる根拠であった区分立法の考え方ももやは維持すべき必要がないと考えます。

>浜辺教授「ダミー会社の問題は、会社法という枠組みだけではなく、刑法や警察行政との連携によって解決されるべき問題である」というのは、その通りですが、その辺は他の役所にお任せで「俺は知らん」というのも、ちょっと無責任ではないか、という感じがします。(お役所の縦割りですか)
葉玉:私は、「俺は知らん」といっているわけではありません。むしろ、私は、民事局のあと特捜部にいって、ダミー会社を使った刑事事件を捜査していましたから、わが身のことでもあったわけです。また、会社法に限っても、規制の強化・罰則の強化が図られている部分もあります。会社法立案担当者は、「俺は知らん」とか、縦割り行政とかと、もっとも縁遠い人たちであり、おそらく、刑事局の当時の担当者や他省庁の人が、浜辺教授のその批判を聞いたら、唖然とするでしょう。

浜辺教授「葉玉先生は「現在、社会的に必要な弱者保護や不公正の是正などのため実には社会保険庁の問題をはじめとして各種偽装問題でも露見してきたように、日本には不公正がまかり通るものだったのではないのですか?各種の社会問題やら、病理現象に目をつぶった、お気楽な、世間を知らないエリート官僚の意見のように聞こえました。「憲法上の要請」まで持ち出して、程度不明な「具体的な効果」を基準にして、制度の採否を決めるのは、やはり役人的な発想にすぎません。」
葉玉:この一文は、浜辺教授のジョークだろうと思いますので、まじめに反論するのもどうかと思いますが、①どのような規制をするかということと、②規制を破る人がいること、③規制が破られたときに、どう実効的に対処するかということは、まったく次元の異なる問題です。それとも、浜辺教授に万能の立法権限を与えれば、社会保険庁の問題も、偽装問題も、その他の各種社会問題も、何も起こらなくなるのでしょうか。それは、違いますよね。
 病理現象が起こることを前提にどう対処するかが立法のあり方ではあると思いますが、「病理現象が起こるという具体的危険がないのに、人の権利を制限する」という発想は、それ自体が病理です。そのような発想は、公務員が絶対にとってはならない立案姿勢であると思いいます。

浜辺教授「最低資本金制度そのものが、経済社会の現実にあわなかった」のではなく、現実には、少しでも多くの起業を図ろうという狙いでした。論理よりも、経済的・政治的な要請によるものだったのではないですか? つまり、日本の企業社会ではなじみのある株式会社と有限会社というのは、経済社会の現実をある意味では反映していて、適合していた面もありました。ところが、無計画でも、何でも良いから、とりあえず設立される「株式会社」を増やして経済が良くなったように見える数字を偽装でもしようと思ったのか、さまざまな思惑の人たちの圧力があって、官僚が「最低資本金制度」の立法趣旨などを無視して、安易に飛び乗ったというのが、実際なのではないですか?」
葉玉:株式会社が増えても、経済がよくなったように見える数字は偽装できません。正直なところ、浜辺教授の言っていることは、ナンセンスです。
  また、株式会社と有限会社は、経済社会の現実をある意味では反映していたかもしれませんが、株式会社の中に、有限会社的なものが沢山存在していたことを忘れてはなりません。今回の株式会社と有限会社の一体化の本質は、有限会社的株式会社を、どこに位置づけるかという問題なのです。浜辺教授ならば、そのような有限会社的株式会社をどうされますか?その問題を無視して、株式会社と有限会社の区別をすることは無意味です。

浜辺教授「今回の会社法は、要するに「規制される側」の要望ばかりを聞いて、「規制によって守られる人たち」の意見をどれだけ聞いたのか極めて疑問です。」
葉玉:浜辺教授のいう「規制によって守られる人たち」の具体的な姿が見えません。会社法施行1年半たって、その人たちの利益は害されたのでしょうか?害されていないはずです。浜辺教授の論理がおかしいのは、具体的な姿を描くことなく、「利益団体」(=規制される側)と「取引先、消費者」(規制によって守られる人たち)というラベリングをしていることに起因しているのではないでしょうか。
 利益団体は、経団連にしろ、中小企業団体にしろ、会社の要望を集約する組織です。そして、会社の取引先の多くは、やはり会社であり、特に「健全な設立」に関係しているのは、売掛金や融資等により株式会社の債権者になる会社が主であり、現金現物取引の多い消費者ではありません(もちろん、NOVAのように消費者が債権者になる場合もありますが)。
 したがって、利益団体は、規制される側と規制によって守られる人たちの双方の利益を集約しているのであり、浜辺教授がご自身のラベリングの中身をもう少し検討すれば、より説得的かつ合理的な論理を構築できるのではないかと思います。

浜辺教授「まず理解すべきは、事業を行うためには、何も会社を設立する必要はない点です。多くは個人事業者として、できるビジネスはいくらでもあるのです。しかし、あるレベルになると、会社形態が必要となったり、会社にしたいという場合があり、多くの人々は有限責任の会社を選択します。その場合には、それなりのルールが必要だから、会社法があるのでしょう。」
葉玉:個人事業でもやれるような事業を、株式会社でやってはいけないのですか?別に禁止する必要はないと思います。最初から株式会社にしておいた方が、あとで株式会社になるよりも、無用なコスト(たとえば、事業用資産の登記登録、免許の移転など)を節約することができます。浜辺教授のように遠回りをさせる根拠は何もないはずです。

浜辺教授「伝統的な「株式会社」の歴史的意義とか、現代における社会的重要性、社会的責任、公共性なんて、もうここに書くまでもないでしょう。」
葉玉:株式会社に限らず、事業を行うものは、それぞれに社会的重要性、社会的責任、公共性を持ちます。そのような抽象的な命題から、何か具体的な立法論を導くのは、あまり賛成できません。

浜辺教授:「「本来、出資者は、会社債権者に対しても、責任を負うべきだが
、一定の基礎があった場合には、有限責任を認めてあげよう」という思想は、間違っているのでしょうか?「会社は、法的な意味でも、実態としても、出資者とは切り離された存在である」というのは、それを切り離すべき根拠が必要であるはずで、むやみに切り離すのはおかしいと思います。」
葉玉:私は、合名会社・合資会社・合同会社も含め、「会社」と呼んでいますので、そういう前提で、私の発言をお読みください。法人というのは、それを設立した自然人とは別個の人格なので、法人なのです。これは、会社法という狭い世界だけをみずに、各種法人法制をみれば、法律上、当然の事理であると思います。

浜辺教授:「会社に対する権利を取得することは意思表示の内容となっていますが、その契約に名前もでてこないような背後の出資者の財産を当てにする意思は見受けられません」と葉玉先生は述べますが、これは誤りです。公開会社ならば別ですが、小さな会社は、誰がオーナーの会社であるのかは大問題で、彼の会社ならば、信頼して取引するというのが実態です。」
葉玉:浜辺教授は、意思表示理論の基礎について誤解があるようです。私の発言は、意思表示理論をそのまま述べているだけであり、誤りではありえません。
  小さな株式会社で、誰がオーナーの会社であるのかが大問題であるのは、当然ですが、そのような場合に、オーナーに対して責任追及をしたいのならば、会社の債務に連帯保証を求めるのが原則です。そうでなければ、オーナーが違法行為をやった場合に429条の責任や不法行為責任を問うか、法人格否認の法理(有限責任否認の法理ではありません)を用いるかなどを模索することになります。「法人格を認める」ということと、有限責任は別の次元ですが、「法人格=有限責任」が原則であり、例外が、合名会社や合資会社において、明文で認められた直接無限責任なのです。これは、他の法人法制をみれば、法人の設立者や運営に携わる理事について、有限責任の規定を置いていないところからも明らかです。

浜辺教授「当局も、会社法によって法人格の濫用が増えるだろうということは認めているのです。すなわち、平成18年税制改正で、税務専門家の間で評判が悪かった同族会社の行為計算否認の制度の適用範囲が逆に拡大されました。
当局の説明によれば、「・・・その背景として、会社法の下では従前よりも会社が設立しやすくない、会社形態の濫用が増える懸念があるからということがあります。」
葉玉:同族会社の行為計算否認は、株式会社にのみ適用されるものではありません。持分会社にも当然適用されます。浜辺教授が批判していたのは、最低資本金制度の廃止によるダミー会社等の設立の問題ですよね?論点がずれているような気がします。
  また、私は、最低資本金制度のように設立自体を困難にするのは合理的ではない、設立を認めた上で、違法行為を抑止すればよいし、会社法だけではなく、その他の法律でトータルで抑止するように配慮しているとお話してきました。浜辺教授のご指摘になったのは、まさに会社法以外で個別の違法行為(濫用行為)を抑止するための改正です。

浜辺教授「このように、「法人格を認める」ということと、有限責任は別の次元ではありますが、葉玉先生が混同したように、「法人格=有限責任」という捉え方をされることもあり、とりわけ税務当局は上記のような説明で、運用上は問題のあった制度を拡大しているわけです。このように見ると、葉玉先生の議論は「黒を白と言いくるめる」類の議論であって、また、当局さえ認めてきたことを隠して民間人を批判する、極めてアンフェアなものだと思います。」
葉玉:すいません。浜辺教授のおっしゃっていることの意味が分かりません。ただ、私は、論理的にお話をしているだけで「黒を白といいくるめる」ような議論はしていないと思います。

浜辺教授「「株式会社」は、株式を発行し、将来的には公開会社を目指せるような器であって、それに対して有限会社は小規模閉鎖会社というブランドであったという両者の区別があったことを前提にしたものであって、十分に整合的な議論です。恐らく、ここは、「有限会社廃止ありき」でしか考えていないことによる読み間違いの批判と思われます。どうして全部「株式会社」にしてくれ、という話になっているのでしょうか?株式会社と有限会社とあることで、不都合がありましたか?」
葉玉:旧商法でも、有限会社は、組織変更で株式会社となり、公開会社を目指すことはできました。もちろん、譲渡制限株式会社も、譲渡制限を撤廃することにより、公開会社をめざすこともできました。この2つは何が違うのでしょうか?
 浜辺教授は、現在の多くの株式会社が、譲渡制限会社で実質は有限会社とあまり変わらないという現実について、どう対処すればよかったのか、という点について答えてくれません。今回の改正のポイントは、そこなのです。
 なお、株式会社と有限会社とあることで不都合はあったかという点については、まさに浜辺教授のように「有限会社」は、小規模閉鎖会社というラベルを貼られること自体に不都合があったわけです。有限会社でも資本金が5億円を超えるところもありますし、従業員数も何百人も存在する会社もあります。会社を分類するのならば、株式会社と有限会社の「法的最低ライン」を見比べることによりラベリングするのではなく、個々の会社の出資金、従業員数、売上、利益などを見るべきです。
 浜辺教授の区分立法の考え方は、無意味なラベリングをすることにより、特に法的リテラシーの低い人に対し、有限会社に対する無用の誤解を与えるという点が問題だったと思います。

浜辺教授「どうも節操もなく、「株式会社」を解放して、いったいどういう
意味があるのか、その辺りが立法政策として問題があり、結局、論理よりも、経済政策・政治的妥協にすぎないものを、葉玉先生が一部利益団体のために理論武装をされているだけのことのように思います。従って、そうした利益団体から支持を受けるのは当然ですよね。もっとも、官界から民間に天下りしても、官界での経験を利用して「活躍」している分だけ、何もしないで金だけ取っている天下りと同列にする趣旨ではなく、葉玉先生は立派であり、貴重な存在です。」
葉玉:浜辺教授の発想が間違っています。まずは、株式会社を開放した場合にどんな弊害があるかを考えるべきです。浜辺教授の発想の根底には、区分立法があると思います。むしろ、私は、浜辺教授に、なぜそんな区分をしなければならないのかを教えてもらいたいところです。誰のために区分しなければならないのか、なぜ会社の実態ではなく、最低資本金で区分しなければならないのか、正直、なんの合理性も見出すことができません。
 また、一部利益団体のための理論武装というのも、浜辺教授の幻想です。

浜辺教授:「どうして「有限会社」がなくならなければならないのでしょうか?「有限会社」は、廃止しなければならないような悪い制度だったのでしょうか?有限会社を株式会社にする必要性が、本当にあったのでしょうか?選択肢としては、有限会社のみ最低資本金を廃止して、利用者からみて、有限会社は資本的裏付けがない会社、株式会社は少なくともある程度の資金的裏付けからスタートして、それなりの企業を目指す会社といった棲み分けを志向するということは、そんなに悪いことでしょうか?」
葉玉:有限会社がなくなったのは、株式会社の設立や機関を簡素化した結果、有限会社という形態を株式会社と別に残存させておく意味がなくなったからです。
  また、現実に有限会社的株式会社が多数存在することや、有限会社に対するラベリングに嫌気がさした有限会社がそのままの形で株式会社になりたいという要望が強かったというのが一体化の動機でしょう。
  浜辺教授は、有限会社は「資本的裏づけのない会社」とおっしゃいますが、資本的裏づけが株式会社よりも大きい有限会社もありますし、資本金の最高限度額が定められているわけでもありません。浜辺教授自身が、まさにラベリングの罠にひっかかっています。また、「それなりの企業をめざす」のは株式会社だけの専売特許ではありません。持分会社も有限会社も、株式会社をこえる事業をやることを目指してもいいのではありませんか?売上高や利益の額が、会社の類型によって規制されるということもありません。
  浜辺教授の区分立法は、お上が企業の大小を決めて、ラベルを貼ってやるという考え方であり、会社の実態と異なるところで、ラベルを貼ることの問題点を見つめなおすべきです。
  浜辺教授のように「棲み分けを志向する」考え方は立法論として十分ありえますが、「日本国の会社法制の歴史」の中で、資本欠損時の解散義務を廃止したことや、株式譲渡制限を認めたことで、そうした会社が多数を占めるようになり、もはや有限会社と株式会社での「棲み分け」というのは、法的にも実質的にも、困難になっており、また、その棲み分けが何かに役に立つようなこともないと思います。

浜辺教授「法制度を改正せず放置するという選択肢をとれば、実質的違法状態(活動しない取締役や監査役がいる状態)を放置することになる」などといいますが立法趣旨が正しければ、違法状態は是正する方向で、いろいろと調整したり、新しい知恵を出したりすべきなのであって、それを単に放り出して、全部「株式会社にするしかない」というのは、あまりに短絡的です。」
葉玉:「棲み分け」の論理に合理性と実効性があれば、よいのですが、残念ながら、そうした考えで行われた旧商法の改正が、日本の実体にそぐわなかったのが現実です。すなわち、「立法趣旨が正しくなかった」のです。ですから、現在では、「放り出す」こと自体に価値があります。

浜辺教授「結局、「株式会社と有限会社の一体化の問題は、法制審議会における最大のテーマのひとつとして活発に議論し、整理された」と、ここでも「お上の権威」を持ち出しますが、結局「特例有限会社」は残っている、上記の疑問について、どう考えているのか明らかではない、とにかく起業促進という目的のために理論が政治に負けただけのことではなかったのか、という疑問が残ります。つまり、最低資本金廃止が株式会社全体に及んで、その株式会社はいろいろなタイプがあって、それぞれの使い方は、民間に丸投げで「自由にどうぞ」という形で、ソフトロー的な規律自体は良い面もありますが、方向性はもう少し明らかにする必要があったのではないかということなのです。まあ、法制審議会が決めたから「仕方ないじゃないか」というのであれば、それこそ仕方ありませんが。」
葉玉:法制審議会は、構成メンバーを見ていただければわかるとおり、「お上」とは違います。また、法制審議会が決めたから「仕方がない」というのもおかしい話であり、民間の委員を中心として真摯に議論し、合理的な結論になったと思います。さらに、会社法の示す方向性は、株式会社を設立する際のハードルを下げるという点で非常に明快であると思います。
 なお、「政治に負けた」の意味がわかりません。むしろ会社法の立案担当者は、タフネゴシエーターで、自分の好き勝手に作っているという悪評が立つほどで、あまり「負ける」ような仕事はしていなかったと思います。浜辺教授が、会社法の立案プロセスを実際に体験すれば、その批判が的外れであることが分かっていただけるのですが。

浜辺教授「有限会社と株式会社という二つの分かりやすい区別がなくなって、会社法では、基本的なところから見えにくくしてしまったのです。今回の会社法は、明らかに強者に有利なのであって、弱者のためのことを考えたとは思えません。それは今後取り上げられる論点にもなってくるでしょうが、「むしろ「株式会社」という認識すらなく、取引をしているのが実態なのではないでしょうか」などというのは、庶民を愚弄するものではないでしょうか。」
葉玉:浜辺教授のおっしゃる「法的リテラシーの低い人」とは誰なのでしょうか。検事としての経験からすれば、詐欺集団が、消費者相手に詐欺をしているとき、株式会社という形態を使っていないことは沢山あります。誰だって、有限会社と株式会社の区別くらいは、つきますが、具体的にどう違うのかを言える人は、少ないのではないでしょうか?「強者弱者」「庶民」という言葉は、具体的な中身を伴わないと何の説得力も持ちません。

浜辺教授「私が主張しているのは、もっと分かりやすい法律を作れということであり、徒に難しい法律を作ったことに対する批判もあるのです。
 昔も分からなかったから、分かりにくくても良いのだということにもなりません。葉玉先生、「分かりやすい法律を作ろうという意識はなかった」くらいは自白してもらえませんかね。」
葉玉:自白というと、何か悪いことをしたような感じですが(笑)、まず「分かりやすい法律」の定義を浜辺教授にお聞きしたいと思います。それが、法律の知識も、会社の知識もない人でも、簡単に分かるという意味であるならば、会社法でそれを実現するのは、不可能です。
 また、浜辺教授は、立法プロセスとそれの持つ意味をより理解されるべきでしょう。
  私たちは、現代の法制執務に則って、法律を作らなければなりません。そこでは、主語述語を明確にしなければならない、他の条文との関係を明確にしなければならない、準用したら読み替え規定を置かなければならないなど旧商法が制定されたころとは比べものにならない細かいルールがあります。この細かいルールは、すべての法律に共通の「読み方」「解釈の仕方」を設定することで、法制度全般の明確性や理解しやすさを助けるためのものです。
  また、会社法が基本法であり、他の法律から多数準用されるということからくる制約もあります。会社法の表現が他の法律に影響を与える以上、会社法の表現自体を他の法律で準用しやすくする必要があります。
 さらに、会社法は、これまで特別法とされていたものを含めて、一本の法律にまとめあげるという難しさもありました。
 私たちは、そうした制約の中で「普通の法律」を作ることを目指したものであり、できるだけ分かりやすくする努力はしているつもりです。
  その結果、浜辺教授は「分かりにくい」と思ったのならば、それはそれで仕方がないです。いいわけをするようなことでも、謝ることでもありません。「分かりやすいと思え」と強制することはありません。浜辺教授には、分かりにくかった。それ以上でもそれ以下でもありません(できれば浜辺教授が、金商法や税法を分かりやすいと見るかどうかを聞かせていただきたいと思います)

浜辺教授「ブランドとは、他の銘柄と異なる明確な差別性があることとか、ある銘柄に対して社会や消費者が抱いている印象」であって、株式会社のブランドと、有限会社のブランドとがあったところ、「株式会社のブランド価値とは、最低資本金制度導入前から形作られてきた規制を受けている総体であって、もともと公開会社のイメージの「株式会社」ブランドです」と説明しておりました。葉玉先生のこの辺りの論理操作は正しくなく、結論として「旧商法の株式会社よりも会社法の株式会社の方がブランド価値が高いということになる」ことはなく、私の議論では、会社法の株式会社にはブランド価値がなくなったため、当然のことながら、旧商法の株式会社、有限会社よりもブランド価値が低くなったということになります。これを図式化すると、こうなります。」
葉玉:分かりました。ようするに区分立法をなくしたこと自体をブランド価値がなくなったと表現しているということですね。区分すること=ブランドならば、有限会社は、今も区分されているからブランドですから、確かに浜辺教授の論理には矛盾はありません。
  ただし、区分立法の考え方を尊重していること自体、私は、政策的に誤りであると思います。

浜辺教授「「会社法の位置づけ」について、「実際に、具体的な法的弱者の救済を行う制度は、刑法や各種消費者保護立法によって用意されています」と葉玉先生は主張します。しかし、それで本当に十分な状態になっている前提で言っているのでしょうか、また、会社法でやることが本当になかったのか、ということです。私は、会社法では会社の最低限度の健全性を確保するくらいのことや、不祥事が発生した場合に、いたずらに一般法理に頼るのではなく、会社法に、株式会社の健全性確保のための十分な具体的方策(まあ、これは内部統制が一部ある点は評価しています)やら、救済方法をビルトインしておくべきだったのではないかということです。」
葉玉:健全性の考え方自体に違いがあるので、救済措置の十分性についても意見の相違があるということでしょう。十分か不十分かは、最低資本金制度がなくなったことにより、どのような不都合が生じるかによって、今後、浜辺教授が正しいのか、私が正しいのかが自然とわかることでしょう。
 浜辺教授は、民間の行為に規制を及ぼすことが好きなようですが、私は、基本的には、嫌いです。また、今のところ、会社法による規制緩和によって、不都合が生じていることはないという自信があります。

浜辺教授:「「民法」は、一般法ですから、最後の砦で、まったく「弱者切捨て」ではなく、他の法律で救えなかったものをフォローするものですから、葉玉先生のこの辺の説明は、民法の位置づけも誤解させるような記載になっています。それを、まるで、私が誤解しているように書いているので、始末が悪い書き方で、これまたアンフェアな記載です。」
葉玉:アンフェアだと受け取られたとすれば、申し訳ありません。ところで、会社法は、民法以上に他の法律に準用されている基本法だということは、どのように評価されているのでしょうか。

浜辺教授「第二の的外れ」として、今回の規制緩和立法を「弱者切捨て」につなげている点だとして、いろいろと論じております。この点は、規制緩和が各種の弱者切り捨てをしている一般論を確認した上で、葉玉先生の理由付けを見てみましょう。「最低資本金制度の導入の前までは、35万円あれば会社が設立できていたわけですが、そのときは弱者切捨て状態だったのでしょうか?」この点についてはその時代は、格差社会でもなく、グローバル競争も今ほどではなかったのです。社会が構造的に変化して、弱者切り捨ての風潮を後押しする形になっているということです。」
葉玉:この部分は、浜辺先生の論理の最大の弱点です。格差社会やグローバル競争の中身をはっきりさせないまま、それを弱者切捨てと断定し、さらに、その風潮を会社法が後押ししているという論理は、申し訳ありませんが、私の理解を超えています。
 平成2年と現在で、どんな点に格差が生じているのか、グローバル化という点でどのように昔と違うのか、また、その差異が、現実に存在した最低資本金制度の廃止とどのような関係に立つか、を明確にされてください。
  私は、誰もが納得するような明確化は不可能であると確信しています。

浜辺教授「規制緩和前には、いまほど弱者と強者の格差が社会問題化するほどではない社会だったわけですから、「ダミー会社として、どんどん使われ、弱者切捨てがされていた」わけがありません。それに、「ダミー会社の問題」副次的な問題なのですが、論理的帰結として、ダミー会社を作るコストが安くなることは間違いないわけです。つまり、違法行為がするのが楽になるわけで、違法行為に手を貸すような話であるという側面があることを指摘しているのです。」
葉玉:すいませんが、格差社会とダミー会社による弱者切捨てとの関係が、どうしても分かりません。具体的には、どんな事象を念頭に置かれているのかを明らかにされてください。

浜辺教授「本来の資本金制度は「健全な企業」のために、事業計画と資金繰りなどをきちんと考えてこそ「会社」であって、個人商店とは区別すべきだというのが、一次的な議論です。」
葉玉:個人商店でも事業計画と資金繰りは考えるべきです。事業継続の問題を株式会社の問題に矮小化するのはおかしいと思います。

浜辺教授「最低資本金制度のために、株式会社や有限会社を作るのに苦労している」という現実はご存じのようですが、その場合に、きちんとした事業計画なり、成功しそうなビジネスであれば、出資者が現れたり、借金をしたりできるのです。それを「見せ金」で無理している人もいるわけで、そんな株式会社も本当に認めなければならないものですか?個人事業者ではだめなのでしょうか?とにかく「株式会社」にしないと、ビジネスできないというのであれば、それはむしろ、そういう資金くらい集めるべきだという要請があったからではないですか。」
葉玉:経営者以外の出資者がいるような株式会社が全体のどの程度あるかをご存知でしょうか。その割合が著しく少ないことを認識された上で、論じられなければ、理由として貧弱です。また、個人事業者では駄目かと問う前に、個人事業者と実質的にかわりないような株式会社が沢山あるという現実を見てください。
  浜辺教授は、そうした株式会社を個人事業者に戻せというのでしょうか?そうではありませんよね。
 そこが、議論の出発点です。
 個人事業者では駄目か、とういう問題提起ではなく、「株式会社では駄目か」という問題提起が行われるべきです。

浜辺教授「これからは、この辺りが、何だかワケが分からない世界になり、それこそ企業社会における秩序が分かりにくくなってしまうのです。過去の最低資本金規制の下で会社を設立した、まじめな経営者は、みな「苦労を強いる」最低資本金は悪い制度だったという評価なのでしょうか?また、「違法行為を誘発する」というのは、どういう違法行為を想定しているかが問題で、会社法のほうが、より大きな違法行為を誘発する構造になってはいないか、という趣旨のことは前に述べたので繰り返しません。」
葉玉:まじめな経営者に「最低資本金はどんな役に立っているのか」を聞いていただければ、ほとんどの人が、答えられないと思います。なお、違法行為とは「見せ金」のことであり、実際に代表者の借り入れによって出資金を調達した会社は沢山あります。なお、会社法は、より大きな違法行為を誘発する構造にはなっていません。

浜辺教授「とはいえ、「最低資本金制度の廃止」そのものだけを批判しているわけではなく、中小企業の実態だけでいえば、経営者とすれば「有限会社のみの最低資本金規制廃止」という選択肢もありえたはずで、ここで「弱者切捨て」とは、前の反論でも説明していた通り、その取引先、消費者など、会社と取引する「法的弱者」であって、「中小企業経営者が株式会社を手に入れやすくなった」ことは当然の前提にして論じているからで、読解不足か、故意の歪曲か定かではありませんが、ちょっと納得できない断じ方です。」
葉玉:この記述を見る限り、浜辺教授は、株式会社を実体以上に高く評価し、有限会社を必要以上に貶めすぎているような気がします。たとえば、資本金1000万円の株式会社と資本金10億円の有限会社は、浜辺理論では、どちらが信頼できる会社なのでしょうか。最低ラインだけで「ブランド」を決めるのがよい法制でしょうか?
 また、「株式会社」というブランドを信じて取引する取引先や消費者がどれだけいるのかどうか、よく分かりませんが、少なくとも、最低資本金制度というのは、そういう人を保護するための制度ではなかったと思います。

浜辺教授「「最低資本金制度」の意義は、これまで述べてきたところから明らかだと思います。別にこれが積極的に「弱者救済のため」に役に立たなくても、せめて健全な企業社会になる方向で考えて欲しかったということなのです。
つまり、現行法の最低資本金制度廃止は、
①有限会社と株式会社の区別がなくなり
②病理現象、弊害があった場合のフォローが会社法に乏しく、他の法律(
民法の一般法理などに丸投げ)、ない
③健全化を図る機能が弱まった
等の問題があったように思います。」
葉玉:これまで述べてきたとおり、浜辺教授のおっしゃる病理現象や弊害は、現実のものではありません。ゼロとはいいませんが、それで、最低資本金制度を維持しなければならないほどのものとは考えがたいです。

浜辺教授「立法担当者だったけれども、民間人になったのですから、もう少し正直に、自分に不利な事情も開示して、深い議論を展開してくれればとまで期待するのは無理ですかね。」
葉玉:私は、公務員か、民間人かにかかわらず、常に客観的に物事を議論しているつもりです。自分に不利な事情があれば開示するのはやぶさかではありませんが、有利不利は、どうだっていいことであり、真実かどうか、現実的な懸念なのかどうか、理論的かどうかが重要です。
  残念ながら、浜辺教授は、誤った事実認識をもとに批判されているように思います。また、浜辺教授の最大の問題点は、現実に実施されていた最低資本金制度の効用を高く評価しすぎている点にもあると思います。
  そのために、その廃止に伴うメリットとデメリットの利益考量が(少なくとも私にとっては)まったく説得力を持たないのです。
  さらに、株式会社と有限会社の区分について、昭和25年改正当時ならば、浜辺教授の考えも、「これから、がんばりましょう」ということで支持できたのかもしれませんが、平成17年会社法成立前の株式会社と有限会社の現状からすれば、そのような区分を維持する合理性はもはや失われたというほかありません。
  浜辺教授がより「深い議論」を展開していただければ、私はどこまでもついていく所存ですので、以上の反論を前提に、「なるほど。」と思うことを指摘をしていただければと思います。
 

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コメント

葉玉先生、教えてください。
会社法には、株式会社と株主との間で、株式の売買が行われる際の価格について記述された条文があり、
・116条1項、469条1項・・・「公正な価格」
・144条3項、177条3項・・・「資産状態その他一切の事情を考慮」
と2通りがありますが、どういう基準で区分けされたものなのでしょうか?
例えば、116条1項一号の公開会社から非公開会社への定款変更であれば、時価純資産での株価評価が妥当だと思われるので、「資産状態その他一切の事情を考慮」の方がしっくりくる様に思えます。

投稿: まろ | 2007年12月25日 (火) 09時37分

私の場合、会社法で、変だと思っている条文は446条です。

446条1号のみを読むと、なんとなく自己株式の帳簿価額まで含めて剰余金として定義したのだと思ってしまいます。ところが1号ホで参照している法務省令である計算書規則177条を読むと天と地がひっくり返ってしまう思いです。

一  法第446条第1号 イ及びロに掲げる額の合計額
二  法第446条第1号 ハ及びニに掲げる額の合計額

ということで、会社法446条1号のイからニが否定されて、残るのは

三  その他資本剰余金の額
四  その他利益剰余金の額

ということになりますから。

自己株式の帳簿価額は446条第1号 ニでありましたので、常識通り剰余金の額には含めず、貸借対照表を安心して読むことができる。

と言うことで、私は、446条については改正すべき条文であると思っています。

投稿: ある経営コンサルタント | 2007年12月25日 (火) 14時13分

葉玉師匠、こんにちは。

自分も、法人における拘束財産についての「受託責任」が、「事業のブランド」を決めてはイナイと思います。
NPO法人だって、株式会社・有限会社だって、悪用されるときには悪用されます(新しい制度で、物珍しい内は余計に悪事に使われるのでしょうし)。

自分のクライアントには、たま~に、公益的な法人もあるのですけれど・・・
たとえば、医療法人について、会社の資本金にあたる、医療法人の「拠出金」の多寡で、医療サービスの「質」や、お医者さんの「腕」を、患者さんは判断しないと思うのです。
今では医療法人もたくさんあるので、特段珍しくはないし・・・患者さんは、場合によっては、「個人のお医者さん」の方を信用したりします。

そして、(財貨・用役の)購入行動を、「投資行動の形態」の「重要なモノの1つ」として認識したとしても・・・認識すればこそ・・・「(消費者や購入者の)判断の局面」が大切になると思います。

いや、しかし・・・お二人の『議論』は、非常に良い勉強になります。
ありがとうございます。

投稿: 至誠丸 | 2007年12月25日 (火) 17時11分

「具体的な規制を行うニーズがある場合に限り、規制することができる。」
と同じことを意味するのは、
「規制するのができないのは、具体的な規制を行うニーズがない場合である。」
なのではないでしょうか?

なお、論旨に対して批判しているわけではございません。
論理学的に不正確な表現が気になっただけです。

投稿: 非常に細かい突っ込みですが・・・ | 2007年12月25日 (火) 19時29分

会社法がそれを利用する人の為に立法担当者の下、膨大な試行錯誤と議論の蓄積の中で出来上がっているということがよくわかりました。できあがったものを単に利用したり規制として受身の姿勢で捉えると浜辺教授のように不満ばかりが先にくるのでしょう。会社法をもっと前向きな批判と解釈を通して魂を入れるべく活用するよう努力しなければならないと思いました。

投稿: fuji | 2007年12月25日 (火) 21時17分

お二人の論争を非常に興味深く拝見いたしました。
浜辺先生の見解で非常に興味深いのは、会社と取引する債権者を「法的弱者」と位置付けていらっしゃる点です。この点が浜辺先生の思考の出発点なのでしょうが、その結果として通常の論理と逆転してしまっていると思うのですね。
つまり、もし「エリート官僚」や「権力者」が「利益団体」のために行動するのだとしたら、普通は規制を強化する方向へと立法するはずだと思うのですが、浜辺先生は会社法が規制を緩和し、原則として会社の制度設計を自由にする思想を「弱者切り捨て」であると論じているわけです。このあたりの論理構造は面白いと思いました。
問題は、ここで配慮すべき「法的弱者」とは一体誰なのか?という点ではないかと思います。それは本当に会社債権者なんでしょうか?私は「これから事業を営もうとする人」ではないかと思うのです。つまり、会社をこれから設立しようする人にとって、どういう立法が望ましいのか。どういう規制が経済活動を促し、会社制度を利用しやすくし、もって経済を活性化していくか…ということが大事だろうし、それこそが会社法の目的ではないかと思うのです。その意味では、最低資本金制度の撤廃や有限会社の株式会社化が、弱者切捨てにつながるとは私には思えません。
会社債権者の保護は、会社の財務状況を適切に開示することや、きちんと債権者が担保を取ること、役員等への責任追及といった手段によって達成が可能でしょうし、最低資本金の撤廃を批判する根拠には乏しいように思えます。
会社法の基本的思想である「私的自治の拡大と規制緩和」の方向は基本的に望ましいものと思いますし、それに対する弊害は、個別に対策を考えていくほかないのかなと思います。立法論として「弊害への対策が不十分だ」という批判は、ありうるところでしょうが…。

投稿: schulze | 2007年12月26日 (水) 00時21分

仕事の合間にこんな丁寧に反論するなんて、葉玉先生すごいですね。
私も弁護士ですが、浜辺先生のような非論理的な方に対しては、どんなに懇切丁寧に反論したとしても、論議を通じて議論が有益な方向に収束しないというのが私の経験です。その経験から、浜辺先生相手の場合のような、議論を続けても(労力の割には)あまりいいことがないと思われるときには、意図的に議論を終了させてしまうという癖が私にはあるのですが、これは直した方がよいのでしょうか?相手を納得させることができそうな場合であればそれはそれでいいですし、また相手に納得させられる(自分が誤っているということを認識させられる)というのもそれはそれで有益だと思いますが、葉玉先生の浜辺先生との議論を見る限り、どちらにもならなそうな気がします。
まあでも、葉玉先生の場合は、ブログ上で議論をすることにより、読者の「会社法はわかりにくくて悪い法律だ」という固定観念を取り去るのに役にたつので、それはそれでいいのかもしれませんね。

投稿: | 2007年12月26日 (水) 00時54分

葉玉先生。内容ではなく、やり取りに疑問を感じました。

実定法を研究する者は、改正法について、特定の制度・条文がおかしいという立法論的批判はしても、改正作業がおかしかったという批判は、普通はしません。私もそうありたいと思っています。それを前提として、今回の会社法については、改正のやり方自体に異論が出ていることを、頭が古いなどと拒絶せずに、元立案担当者として謙虚に受け止めるべきです。浜辺教授の議論は、規制緩和=弱者切捨てというもので、このような議論自体は従来からあるものです。論理的に否定しても、そのような議論が世の中からなくなることはありません。規制緩和にそのような側面があることは、否定できないからです。

その意味で、立法過程に対する批判への反論で、「「権力者の意向が働いていた」などというのは、何を言おうとしているか意味すら理解できません。」ととぼけていらっしゃるのは感心しません。郡谷氏は経産省で「経産商法」を作った人ですし、「会社法は郡谷氏が8割作った」「彼は経産省からの刺客」という発言も良く耳にしました(真実そうだと言っている訳ではありません)。そして、当時の経産大臣は、買収防衛策についても経営者側の発言を繰り返していました。何をもって権力者というかは問題ですが、「意味すら理解できない」なんてことはないでしょう?

投稿: 法学徒 | 2007年12月26日 (水) 01時42分

http://www.zorro-me.com/2001-11/01115ag.html
ちなみに、日本には企業が243万社あるが、そのうち65%は赤字で法人税を払っていない。

http://blog.goo.ne.jp/inosanshigesan/m/200603/1 - 87k
日本には外国と違い赤字法人の数が信じられない程多いのです。 アメリカなら何期にもわたって赤字を出し続ける会社があれ ... 言う職業があるのは世界では日本と韓国そして独逸位しか無いと言われて居ますが、日本では税理士の先生は脱税の奨めをします。

>>>>>>>>>>>>>>
赤字法人の存在について、有識者のご検討を宜しくお願い申し上げます。
会社法の問題ではないという意見もあるでしょうが、赤字法人の存続をどう評価してどう規制するかは、会社法の問題です。

投稿: 問題のすりかえをやめて下さい | 2007年12月26日 (水) 07時38分

葉玉さんも浜辺教授も、書籍で私に法律を教えてくれる大先生です。
お二人ともしっかりとご自分の視点と原理を持っていらっしゃる・・感嘆しています。
論争は、次の新しい理解を生む貴重な場だと思うので、
お二方とも忌憚なく会社法の存在意義の発展に向けた論争をしていただきたいですm(__)m
あ、葉玉先生はお子様の育児で大変なので、浜辺教授はそこのところをどうぞよろしくご考慮されてください・・葉玉先生のDNAは貴重です(笑)
あぁ、こんな二人の下、現役学生の身分で法律を学べたら素晴らしいのになぁ・・・

投稿: be scrivener | 2007年12月26日 (水) 07時50分

お終い。

委員会設置会社でも、監査役設置会社でも、企業不祥事防止の効果はたいして変わらないでしょ、ぷぷぷ(爆)
→業務執行と監督を分離したアメリカ型・ドイツ型のガバナンス機構でも、大規模な企業不祥事は発生している。

他の論点も、ほとんど似たようなものでしょ。

投稿: 会社法はどうでもいいのだ(完) | 2007年12月26日 (水) 13時23分

葉玉先生に対する反論 第3弾

12月25日は、一日中、大阪出張で、回答が遅れてしまいました。早く回答しないと、お弟子さんたちの援軍が増えてしまう傾向にあるようで、早めに回答しなければならないという、プレッシャーがかかっており、この構造は、大きなハンディです。
基本的には飛車角落ちで将棋をしているような心境です(「飛車」(立法過程に関与していない)のと「角」(ここが葉玉ブログであるという環境)によるハンディです。)
と、まず、いつものように、いくつかの前置きから。

まず、どんな法律も二面性があって、良い面もあれば、悪い面もあるわけで、よく法律の議論には、「必ずしも結論はない」などと言われることが多いように、「逆の面から見たらどうなるか」というのが、「会社法はこれでいいのか」(平凡社新書)(本書)の前半の趣旨ですが、後半も読めば、結論的には、「うまく行くようにがんばりましょう。気をつけましょう」という本になっているので、その点は、「全面的な会社否定本」ではないという点を、一つ、葉玉先生と、まだ本書を恐らく全く読んでいない圧倒的多数の葉玉先生のお弟子さんたちにご理解いただければと思います。

葉玉先生の「反論」だけを読んでおりますと、本書がまるで「全面的否定本」のようで、そういう誤解をしている人もいるようなので。別に文句ばかり言っているわけではありません。今回は、葉玉先生の問題提起に応じて、そういう役を演じているのです。

それと、「再々抗弁」、「抗弁」というのは、葉玉先生の議論も成立するということを前提に、両立しうる議論だということを示すために、敬意をこめて「抗弁」という表現をしたわけで、
喩えて言えば、きつねうどんのテレビCMにおける武田鉄也風にいえば、
「反論、否認、否認、反論、否認、否認、これ子供」
ということになるので、「争う」とか「否認」とか、あるいは、曖昧な「反論」ではなくて、「抗弁」になっているわけです。
まあ、そのCMでいう何をもって「男の美学」と考えるか。ちなみに、あのCMは、結構示唆的ですよ。この論争の議論にも通じるメッセージが込められているみたいです(TV、ラジオを見ない人、聴かない人は、この部分さっぱり分からないはずですから、その場合は、結構です)。

いずれにしても、「会社法で遊ぼう」というのですから、「絶対的にこれしかないんだ」、「だからこれを信じろ」、「あとは全部間違いだ」という考え方は、どこか危ないということを、法律家はいつも注意していなければならないというわけです。(誤解しないでくださいね。ここは、あくまでも一般論で述べています。)

さて、12月25日付けのメインテーマ「立法担当者の責務放棄」などについては、予想論点的中ということで、ありがとうございました。ほんとうに長文、大変でしたね。お忙しいお仕事の傍らで、ここまでの力作は、本当に頭の下がる思いです。

でも、私も、3人の子供がおり、しかも長女は来年2月に受験を控えており、塾への送り迎えをしたり、家事の手伝い、その他もろもろのことが当然のようにあります。私の子供たちのDNAだって、葉玉先生のお子さんたちのDNAと同じくらいに認めてもらえれば幸いです。

さて、22日の反論と比べると、25日の反論は、かなり丁寧になって、周到になっている面もありますが、一部、水掛け論的なところを除いて、私も、この後の方で、再反論(なんだか、両立するかどうか怪しくなってきましたから)をしていきたいと思います。ただ、長い道のりになりそうなので、なるべく「簡潔さ」をも心がける必要があるのかとも思います。

まず、葉玉先生によると、会社法の立案担当者は、「明確なビジョンなりポリシー」を持って「会社と関係者が、意思表示によって権利義務を設定することは、本来自由なのだから、立案担当者の狭い常識の中で、しかも、立案当時に存在するニーズ以外に対応できないというような規制をすることは、基本法としてふさわしくない。将来、どのようなニーズが生じても会社法が対応できるように、不都合が生じない限り、理論的にありうる制度設計をできるかぎり広く許容しよう」とのことです。
しかし、「どのようなニーズが生じても対応できるようにしてほしい」というのは、企業経営者のニーズにほかなりません。
また、民法の「意思表示理論」が現れますが、会社法は、民法の世界とは異なって、「団体」を基本にした世界であるところからくる特殊性があるのではないでしょうか。
もちろん、一人会社が多い実態、これを受けて会社法は「団体性」を会社の本質から消してしまって、合名会社も一人でできることになっているというところにつながっているので、今回の立法において矛盾はありません。しかし、これは経営者や会社関係者にとっては都合よいことは当然として、本当に債権者や他の出資者にとって、それでよいのかが問題です。
結局、「ニーズ」を隠して、本当は持っていたという「ポリシー」の妥当性を議論させないような格好になったのではないですか?

また、葉玉先生は、「種類株式の設計でも、原則は禁止で、特定のニーズがある場合のみ、これを例外的に認めるという発想」はダメだというようですが、会社法でさえ、種類株式は原則自由で、会社法で禁止している種類株式のみ発行できないという形にはなっていないですね。

もちろん、合同会社にすれば、何でもありだから、「具体的な規制を行うニーズがある場合に限り、規制する」という考え方から、合同会社は持分の内容(及び非公開会社の属人的定め)を原則自由とし、株式会社の種類株式は原則禁止をベースに会社法108条で一定のものを認めているという形になっているわけですね。これは一体、何故なんでしょう?

ひょっとすると、あの会社法は「まだ自由化がまだ足りない」ということでもあるのでしょうか?その点は分かりませんが、「具体的な規制を行うニーズがない限り、規制をせず、当事者の意思に委ねる」というのは、民法の世界ならば許せる(ただし、民法でさえ、公序良俗など、いろいろと規制の余地はあります)。しかし、会社法でもそれで良いのかは別です。

葉玉先生の「私法の原則」は、民法の原則としては認めますが、会社法で「当事者の意思に委ねるのに「ニーズ」は必要ではない」とまで言うのは、本当は、経営者のニーズに応じて作っていた態度を隠すものであると思います。

次に、社債の点については、実務家の多くが社債の仕事をしておらず、自信をもって議論することが少ないので、「浜辺教授は、社債についての理解が十分ではない」と、葉玉先生のお弟子さんたちが飛びつきたくなるフレーズが出てきます。ただ、社債は、かなり自由化が進んでしまったので、葉玉先生が指摘するようなこともありますが、やはり広く社債が発行できるようになりすぎていはしないか、という点は、本当に何も問題がないのですか?単なる金銭消費貸借にとどまらず、それを敢えて「社債」まで許容する必要があるのか、という点です。弁護士会で社債に関して専門の弁護士さんとも話をしたこともありますが、今回の改正はそんなに評価していないと聞いております。

もともとは、借金をしないで、社債発行の形を取るというのは、間接金融ではなく、直接金融の話だったわけです。ところが、最近は、銀行ではないという意味で、間接金融ではないのですが、狭い意味での「金融市場」を利用しない(広い意味では、それも最近は金融と呼ぶようなので、これも厳密に定義しだすと長くなるので、やめておきます)ような社債の発行があります。

しかし、地方公共団体では、「会社による社債の発行について特別な支援をするような制度」というのは、会社による借金について特別な支援ではダメなのでしょうかね。あるいは、例えば、葉玉先生が述べるように、金融機関では、審査で、証書貸付と社債を別枠で評価するというのですが、これは合理的なのでしょうか。「証書貸付だけでは難しい融資も、社債と組み合わせることにより、可能になる」という実務があるのは分かりますが、そういう形式の違いで区別する考え方の経済的合理性が、いまひとつ理解できません。できれば、その点を教えてくれませんか。

また、有限会社の社債発行について、「会社法は、弊害が生じるような場面まで許容するようなことはしていません。」とは、具体的に何を述べているのですか?民法の一般法理で救済するのではなく、会社法で何か小規模閉鎖的で株式会社のように開示も緩やかな特例有限会社について、何かあるのであれば、この際、教えてください。

もちろん、実務では多くの場合、「社債」で被害にあわないように注意する人が多いので、問題が生じることはそれほど多くないはずです。ただ、それは、この規制の整理の正しさによるものではなく、ちゃんとした金融機関が弊害予防のために関与するからで、それ自体はいいのですが、もともと、そういう形にする必要があったのか、というのが、上記の議論です。なお、有限会社に社債を発行させることにより、将来、いつか何か問題が起きることはあるだろうという予言はできます(なんだか、「いつか地震が起こる」の類であることは承知していますが)。

葉玉先生も総括するとおり、「社債は、一種の借金です」。つまり、①「社債」という方式まで認めてあげる必要があったのか、②それを支える経済的な実態が合理的・必然的なものなのかという点について、葉玉先生の説明では、疑問が残ります。その意味で、私の「基本的な考え方は妥当ではない」と述べておられますが、そこで数行さいて書いていることについて別に誤解などなく、そういう批判のされ方をされると、まるで「私がそんな基本的なことも知らないから、葉玉先生が教えてあげているんだな」と誤解されてしまうように思います。(この辺の葉玉先生の述べ方は、だから「異議あり」です)

次に、「「法律実務家は人並み以上に法律の立案ができる」という奢り」などという指摘をするところに、「奢り」があると私は言いたい。法律実務をある程度経験すると、しかも実力がある先生であればあるほど、経験をつんで、いろいろな考え方があることを知り、ある意味では、稲の穂が垂れるように、頭が下がるという話があります。逆に、私も若い頃(学生とか、修習生とか、新米弁護士の頃とか)は、いろいろと暴論を述べた経験があると認識しており(まだ、その傾向は、多少、いや、かなり残っているかもしれませんが)、それが年を経ると変わってくるわけです。つまり、「奢り」というのは、経験ある人よりも、経験の浅い人にありがちなことで、それこそ「これが絶対だ」という考え方に容易に陥ってしまいやすいのです。

私が述べたかったのは、歴史、政治的状況、いろいろな人々の思惑などなどを踏まえて、それを理解していないよりも、理解していたほうが、ましであろうということです。

「若手登用」は良い面もありますが、往々にして、それが権力者に操られることを、当の「若手」は分からないことがある。そういうことは、日本の歴史にも随分あったのではないかと思います(長くなるので、この辺で)。(一つ脱線すると、大阪府知事に立候補する橋下弁護士も、その辺の危険性をどこまで理解して、事にあたるかが、ポイントです)
だから、「「権力者の意向が働いていた」などというのは、何を言おうとしているか意味すら理解できません」というのは、素直なコメントだと思います。(まさか、橋下弁護士は、選挙民によって選ばれるのだから、権力者は関係ない、などという世間知らずな反論はここではないですよね。葉玉先生はご存知だと思いますが、外野を意識すると、つい余計なことを書いてしまいます。)

本書では、このあたりの記述について、葉玉先生も「この本の品位を著しく落としていると感じます」というお気持ちは分かります。ただ、ここの部分について、私が問題提起したかったのは、最近、「公人」というのは、一体だれのために働いているのか?昔は国家のために、勤め上げていた先輩たちが沢山いた。それが、どうもそういう動きになっていない。これは一体どういうことなのか、疑問があったからです。

「個人の自由」だと言うかもしれない。しかし、職業とは、そういうものだろうか。確かに地方で検事を何年もやり、それから何かの都合で弁護士になるというのは、まだ良いのです。それと「会社法を作った人が弁護士になるというのは、同列には論じられない」というのが、私の見方です。転職が悪いわけじゃない。問題は、この国を背負っているという、一定レベルのエリート官僚の人たちのことです。こういうキャリア・アップというのは、倫理的に問題がないのでしょうか?(もちろん、私も弁護士として、在野の立場から、こうして出来てしまった法律について、検証しようとしているのです。あくまでも、敢えて「批判的な立場」に身を置いてということです。)(だから、もちろん、会社法は、ありがたく自由に使わせてもらっています。)

国民の一人として言いたい。税金で育てた優秀な人材が外部に流出してしまうのはもったいないし、残念なことであると。今でも判事一筋、検事一筋で、定年してから、という生き方のほうが清々しいと感じるのは、時代遅れだということで片付けられるのでしょうか? 

その意味で、若い人たちが、判事や検事を出世のステップとしか捉えていないような風潮が高まって、まさか葉玉さんが、その「模範」になりはしないか、心配なんですが、私の心配は間違っているのでしょうか?昨今の風潮における倫理の荒廃の背景には、最も上の人たちの振る舞いに、何か影響を与えているものがあるのではないですか?これは関係ないとはいわせない。数々の賞やら何やらを受賞できたのも、葉玉先生のキャリアを抜きにして考えられるのですか。当然に、皆、葉玉先生は憧れの的、スターなのです。従って、その生き方が正しいか、潔いか等といった問題は、議論・批判の対象となっても仕方がない運命だと思うのです(まあ、ご本人は自覚されていると思いますので、ここのところ外野向けです。)

要するに、ここで論じるべきは、本書の「品位」ではなく、昨今のエリート官僚の「倫理」なのです。

なお、例えば、稲葉教授がかつて商法改正に関与していて、今、弁護士になっています。その他、かつての立法担当者もみんな弁護士になっていますが、立法してから何年もたってから弁護士になるのは、多分、ほとんど問題ないでしょう。なぜか分かりますよね。もちろん、そんな関係ないことを引き合いに出さないとは思いますが。
(それと、「倫理」の問題については、また後の議論でも、少し、シツコイようですが、触れさせてもらいます。私はそこにも関心があるから。)

なお、転換株式の解説は、今でも、この機能から説明して教える方法が多いように思います。「最初から、会社法で勉強し、種類株式の説明を聞いた人には難しくありません」といっても、ずいぶん学生たちは苦労しているようです(上手な教え方をしている葉玉先生にとっては何でもないかもしれませんが)。

なお(なおの3連発で、自分でもまいるな、これは)、「権力者」とは誰かを明らかにすべきだという声もありますが、権力者は黒幕であり、容易にしっぽを出しません。だから、権力者なのです。また、私は権力者が怖いので、権力者を名指しすることは避けます。従って、読者の方々の判断に委ねます。文脈からご判断下さい。

さて、「会社法154条1項で「金銭」の二文字ですむところを「金銭等(金銭に限る)」などと表現して、わざと難解にしているとの批判」が誤りであるとして、会社法154条1項は「金銭」ではないというと述べるところは、まさに葉玉先生の面目躍如というところで、鬼の首を取ったようなくだりがでてきます。

私も、立法担当者のご指摘なので、25日の葉玉先生の見解を最初にさっと読んだときには、「その解説を読まなければ読み間違えるという代物」について、的はずれの批判をしていたのかな、と思ってしまいましたが、条文を読みながら葉玉先生の見解を見たら、別に私は条文の読み間違いをしていたわけではないことが分かりました。最初は、「条文の読み方の間違い」が悪いのか、法律の定め方が悪いのか、考えてみよう、と反論しようかな、などと思っていましたが、これは予備的主張ということで、とっておくことにします。

私も、第151条1項で「金銭等」で定義をしていることは分かっており、それを引いて、154条1項は、「第百五十一条の金銭等」と規定していることは理解しておりました。だから、本書のこのくだりの解説は詳しく説明すると、次のような趣旨でした。私の推理をまじえて解説します。

本来は、「金銭等」は、会社法第2条に定めるべきものであった。しかし、それをしないで、分かりにくく、それこそ立法担当者は罠をしかけるように、この定義を会社法第151条に埋め込んだ。そして、本来であれば、第151条では、「・・・できる金銭等(金銭その他の財産をいう。以下同じ。)・・・」などとしないで、「・・・できる金銭その他の財産について存在する」と定めれば良かった。しかし、そういう分かりやすい表現をしないで、敢えてここでも第151条を長たらしい読みにくいものにした。その結果として、154条では、葉玉先生が指摘するような書き方をせざるをえなくなった。しかし、そのように書かざるを得なくしたのは、上記のような経緯があったからで、「各号に掲げる行為をした場合に、当該行為によって当該株式の株主が受けることのできる金銭」という表現さえも避けることができた。でも、そうはしなかった。つまり、犯人はすべて立法担当者であった。

要するに、本書で言わんとする趣旨は、
154条で「第百五十一条の金銭等(金銭に限る。)」とあるのは
「第百五十一条の金銭」とは書けないような会社法の書き方がおかしい、ということになるわけです。その理屈の操作が、なんだか笑えるということになります。

私だって、条文を読めば、154条1項の対象となるのは、151条の「金銭等」のうちで、「金銭」に限られるので、それをカッコ書きで表現しているということくらい、分かっておりました。しかし、上記のような詳しいカラクリをくどくど書いたら、分かりにくいので、上記の趣旨を縮めて、きちんと全体を工夫をすれば、「金銭」ですますことができるのを、わざと難しい構造と表現を用いて、「金銭」とだけして引用することはできなくしたということでしょう。

ただし、この裏には、さらなるアッというカラクリを葉玉先生から出される恐れもあるので、その場合には、次に予備的主張を使いますので、どうか、これはそういう構造でなければならなかった理由、例えば2条で定義できなかった理由とか、そのカラクリがあったら、教えてください。お待ちしています。

いずれにしても、葉玉先生は、私が基本的なミスを犯したと決めつけられまして、私は、葉玉先生から「154条1項の規定ぶりを「笑い話」として批判されていますから、この点は、増刷の際には変更された方がよいように思います」とご丁寧なご忠告をいただきました。

まあ、敢えて修正するとしたら、「なお、この点については、こう表現しなければならない文章に作ってしまっているというのだから、始末に悪い」とでも加筆しますか。

この問題だけではないんです。しばしば、会社法の条文構造が、なぜそうなっているのかという説明は、葉玉ブログを読んで、皆、驚き、学習したわけで、その内容は個別にうかがっております。でも、そんな解説を聞かないと分からないような、あるいは葉玉ブログを読んで驚くような法律は、どこか法律の表現そのものに欠陥があるのではないかと思いませんか。我々が驚けば驚くほど、そこには問題のある会社法であることが、かえって浮き彫りになる、ということだと思います。

だから、「それぞれ理由のあって、そのような規定にしているのであり」なんて当たり前で、なぜそうなったかが問われるべきなのです。

言葉の定義の仕方という極めて単純な作業さえ怠けて杜撰な法律を作ったのではないのか? その定義の仕方の、どこが緻密で、すごい仕事をしたというのか、小生には理解できません。 「「わかりにくい」と一括りにしてよいようなことはありません」と簡単に断言して、そこで思考や改善の努力を止めれば、それで終わりです。この批判は、私だけが述べている話ではないんですよ。
 
ここの議論は、葉玉先生も、とりあえず「会社法が「わかりにくい」という点については、そういう面もあるだろう」とは認めてくれているので、今回はとりあえず「良し」ということに致しましょう。ただ、あくまでもこの問題意識は大切です。そうしないと、将来の改善の努力がされなくなってしまったり、弱くなったりしてしまうから、今後の宿題ということで、立法担当者の方たちに考えて頂きたいと願っております(まあ、どうせ無視する方のほうが多いかもしれませんが、どうなるか分かりません)。

さて、私も、会社法の講演のときには、「会社法の目指すバランスがどこにあるのか」という観点から解説させてもらっていますから、そんなことは分かっています。

ちなみに、執筆について、書いた本の印税は全部国庫に入れているんですか?別に国庫に入れていなければダメだと言っているのではありませんよ。正当な労働の対価なんでしょう。ただ、それでいくら稼いで、このブログで無料で質問に答えていることが、どういうメリットがあるのか、存じませんので、これには反論する資料がありません。分かっているのは、「葉玉師匠」など、と仰ぐ人たちが沢山いるんだなあということです。それはどんな分野で働いていても、当然にあることですから、それが悪いといっているのではありません。ただ、そういう状況で、全面的に「正しいんだ」「問題ないのだ」と思われると、ちょっとどこか違うな、という感じです。

要するに、どんな法律でも二面性があるから、「批判的に見てみよう」というところが出発点でした。それが、本当に「会社法で遊ぼう」ということになると思います。ですから、「浜辺教授が、そういう偏った目で会社法を読むのを止め」ろ、といっていたのは驚きでした。

もっとも、従来の商法に欠点があったのも事実でしょう。しかし、それと「会社法に込められた哲学」がどういう関係にあって、どう位置づけられるのかを、葉玉先生が、もう少し巨視的にごらんいただければ、もっと、より深い議論ができるように思います。
(後半に続く)

投稿: 浜辺陽一郎 | 2007年12月26日 (水) 20時47分

さっきの続き

いっぺんに投稿できない仕組みなんですね。続きをやります。

葉玉先生による<浜辺教授の再々抗弁に対する反論>に対する、これまた反論

いや~疲れますね。もう、この辺で止めましょうか、と言いたいところですが、せっかく葉玉先生が休日を費やしての力作ですから、簡単にポイントを絞ってコメントしたいと思います。

ただ、これを議論していくと、日常的なQ&A、それこそ、葉玉師匠のご回答を待ち望んでいるお弟子さんたちに、大変なご迷惑をおかけすることになる結果となるのではないか心配しています。既に、Q&Aをお休みになったことで、相当に恨まれている可能性もありますから、怖い世界ですね。でも、書きましょう。そういう力に屈して、「多数の力に負けたのか」といわれたくないので。

*法務省民事局が、それなりにがんばっている、良心的な方々が多いというのは、私も承知しております。だから「民事局」自体がどうのこうのとは、一言も申しておりません。ただ、どんな組織でも、監視や批判にさらされなくなったら、腐敗を始めて堕落するということです。民事局がちゃんとしているのは、弁護士会や各種の学者が比較的うるさい人たちが多いので、一般的には、おっしゃるような実態でしょう。しかし、官僚に対しては、在野の立場からすると常に疑惑の目を持って監視しなければならないのです。それとも、葉玉先生は、「監視をやめろ」「一切批判するな」というのでしょうか。それと、今回の会社法は本当に財界寄りじゃなかったと断言できるのですか?この点は、先に触れた倫理の問題も関係しております。
 
私は、「民事局の立法姿勢」ではなくて、会社法の方向性がどこへ行くのかを議論しています。会社法と、金商法の関係その他もろもろありますよね。全部整理ついていないでしょう。

まだ「とりたてて変える必要はない」というのは、規制緩和は此れで良いという趣旨でしょうか?それとも、もう少し細かいレベルのところまで含んでいるのでしょうか?(例えば、「最低資本金廃止」の妥当性など、まさに、議論しているようなレベルのことであれば、こんなふうに、まだ論争やら検証やらの必要性はないのですかね。もう議論の必要がないのであれば、「変える必要はない」でよいのですが、・・・。)

何をもって、「変える必要はない」と簡単に述べているのか、分かりません。正しくは、変えるべきところもあるかもしれず、変えなくてもいいところもあるということでしょう。そういうことについて、どこかに、広くコンセンサスが出来ているのですか?私の議論の仕方をいろいろと批判されておりますが、葉玉先生の議論も、その実像を全部、説明しているわけではないでしょう。それは、こういう場で全部はできないですよね。この点は、お互い様だと思うので、ブログでのトークバトルということで、詳細はまた別途正式な論文か何かで、やれる時でもあったら、やればいいことでしょう。ただ、大体の方向性とか、ざっくりとしたところは、こうした場で議論していいと思うので、そこは論じたいところです。

私も内部統制関係の方向性は、全体としてはまあ良いと思っているのですが、それさえも、財界からは逆行したような、まだ基本に納得していないような声を聞きます。それと、会社法の中では、何か起きた場合の責任関係・事後処理のあり方(例えば、私が衆議院法務委員会で指摘した株主代表訴訟の問題)などは、疑問を持っています。

*次に、葉玉先生の論法には、私が統合して議論しているものをバラバラに切り離して、「混同している」と断じる箇所が多いのですが、そこに当方の見解の曲解が入り込んでくるのです。

まず私の批判の最大の難点① 「事業の成否の問題と株式会社の設立の問題を混同している」という点について、「無理な事業を抑止することと、株式会社の設立を抑止することを同列に取り扱うべきではない」といいますが、まさに起業イコール株式会社の設立のようなことを前提にした「ニーズ」をいろいろとお聞きになって、今回の立法では、「最低資本金制度廃止」になったと先に葉玉先生がご説明されていたことと矛盾するのではないですか?

次に、最大の難点② 「最低資本金制度の問題と、大規模会社とそれ以外の会社の区分をしようという立法姿勢(区分立法)の問題をあまり区別せずに論じている」という点についても、後で葉玉先生も指摘している通り、「最低資本金制度の目的は、大規模会社と中小規模の会社を区分することにありました。(それ以外は、健全な設立という点を含め、付随的な理由です)」(葉玉、(括弧)追加は筆者)というわけですから、これらを統合して議論するのは当然でしょう。

個人事業から始めさせると、何か芽をつまれてしまう事業があるのでしょうか?また、「個人事業から株式会社に移行するときに、事業用資産の譲渡のために無用なコストを生じさせるという問題」などというのがありますか?現物出資規制はかなり緩和されていますから、それはあまり問題なくなったのでは。

確かに、「事業としての継続性を確保できるかどうかは、出資金だけではなく、事業の収益性・将来性、経営者の信用などに依存する」のは確かですが、出資金も関係しているわけですよね。最初の資金というのは、ある意味で重要でしょう。旧商法は、その点が形式的に判断しやすいから、それを一つの基準としていたわけでしょう。それは、全部捨てなければいけない理由として十分ですか?日本よりは先進的・合理的ではないかと思われるヨーロッパの国々もそこまで行っていないのでは。彼らは「最初の出資金の有無という形式的な要件でスクリーニングしようとする」間抜けな法制の国々なのでしょうか?

*「善人をも悪人にしてしまう危険性をはらんでいる」という表現は、「ゼロ円でも会社がつくれるようになりました」というキャッチフレーズに乗せられてしまう善人で、法的なリスクみたいなことを疑ったりしない、人の良い人たちがビジネスで失敗してしまった場合のことを想定しており、この辺は、倒産の専門家にでも聞いてください。(まあ、こういう分野では、多少の規制があると、法的なことに注意するようになったりする人もいるんです。)

*なお、「実質的には、平成2年改正の前に戻るというだけ」というのは、少し言い過ぎで、35万円あるのと、ゼロ円の違いは大きいように思います。35万円の資本金を残すことを考えると、それなりに真面目に考えるチャンスは、ゼロよりはかなりありそうです。

*次に、葉玉先生の「違法行為の抑止との直接の因果関係がない最低資本金制度による設立制限を廃止することとは、切り離して考えるべきだ」という立場は、理解しています。ただ、その理由付けとして、事件の「数」は問題なのか、問題ではないのか。そこをめぐって、論理のすり替えがあったとの指摘でした。葉玉先生の結論にぶれがないことは承知しております。葉玉先生は、ここ点の理由付けについて、揚げ足取り的な批判をされていたと思います。

*なお、「最低資本金制度は、「健全な会社を作っていくため」の制度」でもあるといった解説は、かつての教科書にも書いてありましたが、それについて、葉玉先生は、「最低資本金制度は、「健全な会社を作っていくため」という意味でも、不十分であまり意味もない制度でした」と指摘します。思うに、「健全な会社」とは、経営者が真剣に事業に取り組んで、それなりの計画性をもっているような会社であり、設立当初の自己資本がどれくらいであるかは一つの重要なポイントであったと思います。しかし、確かに、人間の心も変わるものですから、その後、不健全になっていく人たちもいますから、それは別の方法で規制する必要があります。

つまり、入り口規制と、その後の規制は別の話であり、「入り口規制は不要だから全部撤廃」というのは、少し飛躍しております。その意味で、私は、入り口規制について考えてみると、かつての有限会社の300万円は、それなりに一応、健全といえようし、会社法においては、無限責任社員のいる合資会社の出資金0円は許すとして、「合同会社」について出資金0円はやや不健全と思います(合同会社については、他の人に批判を任せます。)

繰り返しますが、上記のように、私も、「株式会社の設立の問題」と、「事業の継続性」は区別しており、まるで、その区別もできないで論じているように批判しているのは、アンフェアで、お弟子さんたちに誤解を与える記載だと思います。

*なお、私の理論が「株式会社のみにフォーカスされすぎている」から理論が浅いと、断じておりますが、株式会社の伝統的なイメージを基礎に論じているわけで、「古い理論は浅い」「新しい理論は深い」ということなのでしょうか?どうも、考え方に融通性がないというか、昔の理論は理解する必要もないという立場なのでしょうか。

*会社法では、株式会社を最初に作ってしまえば、後で倒産させてもよし、成長させてもよし、とても使い勝手のよいもので、別に、状況に応じて会社自体を「改変させていく」必要はなく、むしろ、経営者が自由に会社を作ったり、つぶしたりできる、便利な制度になったということでしょう。その便利さも、程々にする必要があるのではないかという感じがします。

*「最低資本金制度」の主たる根拠であった「区分立法の考え方ももやは維持すべき必要がない」と述べるのですが、大会社とそうでない会社の「区分」はあるわけですね。これも葉玉先生は廃止すべきものが残っているというのでしょうか?
しきりに、私の「区分」の考え方を批判されておられるので、この点を指摘する次第です。つまり、有限会社の意義は、本当にないのか、ということです。確かに、有限会社の領域は研究もあまりなされていなかったということはあるようですが。それも、株式会社の重要性に研究者の目が向きすぎていたということもあったからなのでしょう。

*私も、会社法で、規制の強化・罰則の強化が図られている部分もあることは承知しております。別に、私は、「刑事局の当時の担当者や他省庁の人」を批判しているものではありません。

この部分は、そもそも葉玉先生が、
(12月22日)「真に考えなければならないのは、そうした違法行為をどのような手段で抑止するかという点です。私は、最低資本金制度という効果のない制度で抑止するのはナンセンスであると思いますし、ダミー会社の問題は、会社法という枠組みだけではなく、刑法や警察行政との連携によって解決されるべき問題であると思います。」

とだけ述べたところに端を発します。これに対して、トラックバックを開いて読む人は少ないだろうから、もう一度再現すると、私による反論のくだりは、こうあります。

「なお、「ダミー会社の問題は、会社法という枠組みだけではなく、刑法や警察行政との連携によって解決されるべき問題である」というのは、その通りですが、その辺は他の役所にお任せで「俺は知らん」というのも、ちょっと無責任ではないか、という感じがします。(お役所の縦割りですか)」
 
つまり、「会社法で、違法行為の抑制をどうするのか」という問いについて、葉玉先生の一つの回答が「規制の強化・罰則の強化が図られている部分もある」というところにつながるのは結構です。しかし、だからといって、これが警察行政を批判していると読まれたのでしょうが、そこまでの趣旨ではありません。私もそんなに批判もしていないものを批判したといわれて、警察に恨まれたくはありません。それは冤罪ですから、この点は正してもらわないと、警察が相手だけに。それとも、わざと悪人に仕立て上げようという策謀でしょうか?別に「警察行政の現場の人々」が「唖然とする」ような批判まではしておりません。

ただ、警察が、こうした問題をどれだけやっているのか。民事不介入の考え方も根強く、限界も大きくて、問題があるのではないかという認識ではあります。葉玉先生は、この点は全く問題がないという見解なのでしょうか?

だいたい、今回の会社法でも、株式会社であれば、決算公告の義務があり、100万円の過料の制裁がありますが、この運用はどうなっているのでしょう?(もちろん、これは旧法からあったもので、法改正の問題ではありません。)

それとついでに、会社法の立法担当者が立派な人々ばかりだというのは分かりましたが、警察・検察は完全無欠なんですか?厚生労働省をはじめとして、霞ヶ関の役人に対しては、国民の厳しい目が注がれるべきですが、法務省だとか、あるいは葉玉先生がいた場所だけは例外であった、ということなんでしょうね。少なくとも、そういう役所もあると国民としては信じたいところです。「ブルータス、おまえもか」てなことは、何もないでしょうね。

*葉玉先生は、まじめに反論するのもどうかと思ってと前置きしてはおりますが、「①どのような規制をするかということと、②規制を破る人がいること、③規制が破られたときに、どう実効的に対処するか」ということは、まったく次元が異なるから、「そんなの関係ない」と言いたいようです。しかし、それこそふざけた考え方のように思われ、それには反対です。私は大いに関係していると思います。

*葉玉先生のいう「万能の立法権限」という言葉も、よく理解できませんが、社会保険庁の問題や、偽装問題も、その他の各種社会問題の背景には、法律の不備や構造上の欠陥があったのではないか、とりわけ社会保険庁の問題についてはガバナンスやコンプライアンスに相当な問題があったように思われ、それを許していたのが、いい加減な法律だったのではないかということです。

「病理現象が起こることを前提にどう対処するかが立法のあり方ではある」というのはOK。ただ、「病理現象が起こるという具体的危険」だけではなく、論理的な帰結、人々の心理、社会的文脈、社会的構造、歴史などをも考える必要を主張しているのであって、こうした考え方自体のどこが病理なのでしょうか?もう、ここは平行線のようですね。

さらに、「そのような発想は、公務員が絶対にとってはならない立案姿勢」といいますが、それが今の公務員の倫理なのでしょうか?

葉玉先生の言うように、「株式会社が増えても、経済がよくなったように見える数字は偽装できない」というのは、まったくその通りで、まさしくナンセンスです。ところが、最近の役所や政治は、社会保険庁もそうでしたが、ナンセンスな数字の操作をぬけぬけとやってしまうような、ご時勢です。

*さあ、そこで再び「株式会社と有限会社」の関係ですが、会社法は、すべてを「株式会社」にしたのではなく、実質的には、すべての株式会社を「有限会社」の規律にとりあえず入れてしまって、株式会社らしい規制は、オプションに応じて、という格好にしてしまっているというところに問題があったように思います。

私も、「株式会社の中に、有限会社的なものが沢山存在していたこと」など、忘れたくても忘れられません。(多分、お弟子さんたちは、私がそんなことも知らない人だと思って、ここでも葉玉先生に拍手が送られているところかもしれないので、申し上げます。この辺の議論もアンフェアです。異議あり。)

だから、葉玉先生は、「株式会社と有限会社の一体化の本質は、有限会社的株式会社を、どこに位置づけるかという問題」だったといいますが、会社法で現実に行われたのは、「株式会社らしい株式会社も、そうでない株式会社も、有限会社も、全部、実質的には基本的には有限会社であるところの「株式会社」という名前の会社にしてしまった」という立法だったと評価できるでしょう。その意味で、大いに規制緩和が実現して、財界も中小企業の経営者も、みんな大喜びなのです。

「規制によって守られる人たち」とは、経営に携わっていない会社の出資者であり、一般消費者であり、弱小の取引先であり、その他もろもろの声なき大衆といったところでしょうか。会社法施行1年半たって、その人たちの利益が害されないように、いろいろな人たちががんばっているし、まだまだ会社法の悪用については、限られているので、まだまだそれほどではないでしょう。しかし、昨今の商法の規制緩和が、ライブドア・ショックを起こした後遺症が、今なお、新興市場に残っていることを忘れるべきではないでしょう。あの株式分割を厳しく批判していたのは早稲田の上村先生ですが、その辺はお忘れですか。

*個人事業でもやれるような事業を、株式会社でやらなければならないのですか?事業を禁止してはいません。最初から株式会社にしておく必要がどれだけあるのか、この点は前にも触れました。設立するときは、どこかの段階で会社を設立すればよいので、「遠回りをさせる」というわけではないでしょう。

「伝統的な「株式会社」の歴史的意義とか、現代における社会的重要性、社会的責任、公共性」などについて、葉玉先生が「株式会社に限らず、事業を行うものは、それぞれに社会的重要性、社会的責任、公共性があるから、そのような抽象的な命題から、何か具体的な立法論を導くのは、あまり賛成できない」といいますが、個人事業と株式会社、さらには中小会社とでは、その意義の内容は異なるのではないでしょうか?伝統的にはそこを区別していたわけですが、これはまさにポリシーに関する部分です。

*葉玉先生が「合名会社・合資会社・合同会社も含め、「会社」と呼んでいる」のは、分かっておりますが、それぞれには別々の問題があります。また、「法人というのは、それを設立した自然人とは別個の人格なので、法人なのです」というのは、大学一年生のときに習いました(そこまで言わせる?)。

*同じく、葉玉先生は、私が「意思表示理論の基礎について誤解がある」とまた述べますが、葉玉先生の意思表示理論に誤りがあるなどと述べているのではなく、その議論の仕方が誤りだと述べているに過ぎません。ここで問題だったのは、「出資者が誰であるかが取引において、関係しているか、関係していないか」、という点であり、それを葉玉先生は「関係ない、別だ」というので、私は「それは誤りだ」と述べたまでです。その点は、「小さな株式会社で、誰がオーナーの会社であるのかが大問題であるのは、当然です」と認めておられる通りです。

*時々、葉玉先生の議論には、基本的な法理論の説明が出てきますが、これは私の反論を疲れさせるためか、葉玉先生が説明のためのストックをお持ちのためなのか、それとも、まさかお弟子さんたちへの教育目的か、何かは分かりませんが、論点がズレているところが多いので、その辺りの議論はすべて異議ありです。

*平成18年税制改正の議論は、会社設立の濫用が増えるか否かの水掛け論について、当局の考え方を指摘したものです。ちなみに、当局は「合同会社の濫用が増える」と考えたわけではなく(これは、むしろ、新たに生じるもの)、当局が危惧していたのは明らかに「株式会社の設立の濫用」であったはずです(まあ、どっちでも同じだけど)。これを「論点がずれている」で片付けられたのは、残念でした。このくだりは、葉玉先生も「論理的にお話をしているだけで「黒を白といいくるめる」ような議論はしていないと思います」というだけで、はぐらかされました。(ここのところの反論は、読者も注目ポイントだったと思いますが、失望した方も多かったのでは)

なお、税務当局がそう述べているのは、会社法による規制緩和で、会社設立の濫用が増えるというのが、いわば自明のことで、論理必然だというコンセンサスが役所においてすら存在していたからではないかと推測します。

*次の議論は、株式会社と有限会社の「実質」の違いと、「形式・名称」の違いに関する論争です。

まず、実質のレベルに関してですが、前の議論で、葉玉先生は、最初から個人事業者だと「遠回り」だといいながら、今度は、「旧商法でも、有限会社は、組織変更で株式会社となり、公開会社を目指すことはできました。もちろん、譲渡制限株式会社も、譲渡制限を撤廃することにより、公開会社をめざすこともできました。」といい、ここで「現在の多くの株式会社が、譲渡制限会社で実質は有限会社とあまり変わらないという現実」があることを認めておられます。それは何か対処する必要があるのでしょうか?これは実質レベルの話であって、これらの会社の違いは、会社の実態の成長に合わせて変わっていけるようになっているという話であって、その限りでは旧商法の規律に別に違和感はありません。従って、私に「どう対処すればよかったのか、という点について答えてくれません」と言われても、どうも議論が噛み合いませんね。

一方、形式・名称レベルの違いからくる問題ですが、葉玉先生は、「「有限会社」は、小規模閉鎖会社というラベルを貼られること自体に不都合があったわけです。有限会社でも資本金が5億円を超えるところもありますし、従業員数も何百人も存在する会社もあります」と述べており、それが是正すべき不都合だというのであれば、なぜ「特例有限会社」がそのままなのでしょうか?そこにメスを入れないで、中途半端ですね。「最低資本金制度が中途半端」と批判する方が言われているのとは何かギャップがあります。

もちろん、会社を分類するのならば、個々の会社の出資金、従業員数、売上、利益などを見るべきですというのは同意しますが、でも、それが大変だから、さしあたり株式会社と有限会社の「法的最低ライン」を一つの基準にして、あとは資本金規制をクリアしさえすれば、あとは経営者の希望に応じて、どちらかを選択する中で、ラベリングするわけでしょう。つまり、どちらの名称を選ぶかには、当事者の選択意思もあったわけです。

換言すれば、今回、新たに設立した会社を「有限会社」と名乗ることを禁止したわけでしょう。これは、冒頭にあった「具体的な規制を行うニーズがある場合に限り、規制することができるという」正しい考え方からして、有限会社という名称を禁止する必要があったのですか?葉玉先生が正しいという、その考え方からして、これをどう説明していただけるんでしょうか?

そこで、葉玉先生はこう述べます。「無意味なラベリングをすることにより、特に法的リテラシーの低い人に対し、有限会社に対する無用の誤解を与えるという点が問題だったと思います。」ここで無用な誤解とは、どういう誤解でしょうか?

さらに、葉玉先生は、「有限会社がなくなったのは、株式会社の設立や機関を簡素化した結果、有限会社という形態を株式会社と別に残存させておく意味がなくなったから」と、簡単に片づけてしまったことを認めた上で、「また、現実に有限会社的株式会社が多数存在することや、有限会社に対するラベリングに嫌気がさした有限会社がそのままの形で株式会社になりたいという要望が強かったというのが一体化の動機でしょう」と言いますが、その動機が不純なものであれば、それは阻止すべきではなかったのですか?

もちろん、私もいろんな金融取引を実務で見ておりますので、株式会社よりも資本金の大きい有限会社はいくらでもあるのは知っています。しかし、それにはカラクリがあるでしょう。金融スキームで色々と作ってやっていますから。また、そうでない場合も、有限会社は株式会社とは違って規制が弱いので、それが悪いというのであれば、規制の緩い合同会社を作ったほうが、もっと変ですね。

区分立法は、お上のルールと当事者の選択と、その他の実態などから、ラベルが選択されることを前提としていたところ、会社の実態と異なるラベルの問題は、もっと直接的に規制する必要があれば、規制するという考え方もありうるでしょう。

「もはや有限会社と株式会社での「棲み分け」というのは、法的にも実質的にも、困難になって」いる面があったことは認めるにしても、会社法は、もっと会社を見分けることを難しくした面があります。

また、「その棲み分けが何かに役に立つようなこともない」というのは、どんな会社もすべてが「株式会社」と名乗れることになって、かえって、ありがたみが無くなったわけで、過去の区分が何の役にも立っていなかったわけではありませんでした。

次に、葉玉先生は、「「立法趣旨が正しくなかった」のです。ですから、現在では、「放り出す」こと自体に価値があります。」とズバっと述べているような表現が出てきますが、ここで私が述べてくだりを繰り返します。
(私)(株式・有限の区分立法の)「法制度を改正せず放置するという選択肢をとれば、実質的違法状態(活動しない取締役や監査役がいる状態)を放置することになる」などといいますが立法趣旨が正しければ、違法状態は是正する方向で、いろいろと調整したり、新しい知恵を出したりすべきなのであって、それを単に放り出して、全部「株式会社にするしかない」というのは、あまりに短絡的です。」
 つまり、小さな株式会社で活動しない取締役や監査役がいない実態が違法状態だが、適法な状態とは、取締役や監査役が職責を果たしている状態ですから、立法趣旨とは、「会社の健全性を確保するために取締役や監査役の設置を求めた趣旨」を意味しており、葉玉先生のここでの議論は、論旨がずれております。

確かに、「政治に負けた」という表現は、少し不適切で、それなりに円満にやっていたでしょうから、いっしょに作り上げたということでしょうね。とはいえ、会社法の立案担当者は、「自分の好き勝手に作っているという悪評が立つほど」というのは、法制審議会の議論との整合性が問題となりうるところですが、これは論点がずれるので、会社法の立案プロセスが大変であったことは、お察しします。それは分かってますよ。大人げないことをいうつもりはないです。

ただ、だからといって、出来上がったものが、完全無欠であるわけではないでしょう。その辺りの批判を分かりやすくしようとしているわけで、批判をすると何でもかんでも、「的外れ」のレッテルを貼るので、いろいろと反論する必要が生じてしまうのです。

「分かりやすい法律」というのは、一律の基準があったり、定義するような性質のものではないと思います。むしろ、これは程度問題であり、これからの立法担当者がどれだけ意識するかの問題にかかっている問題だと思います。はじめから、多くの人が理解しやすいような、読み間違いしにくいような法律を作ることが「会社法でそれを実現するのは、不可能です」と断言されては、もうそこに進歩はありません。必要は発明の母であり、ニーズが法律を作るのです。分かりやすい法律を作るというのは、これからの法化社会での課題であり、まさに「正当なニーズ」でもあると思うのです。

「浜辺教授は、立法プロセスとそれの持つ意味をより理解されるべき」との、葉玉先生のお説教ですが、私だって「現代の法制執務に則って、法律を作らなければなりません(云々)」などということは分かってます。でも、そこの法制執務は、変える必要はないのですか?

それに手をも付けないで、天下りしてきて、大きな顔をされてもなあ、というのが、あるんです。だから、金商法や税法も分かりにくいですよ。もちろん、これは定評があります。今回の会社法は、金商法ほどではないが、金商法に悪い意味で近づいたわかりにくさであるということです。

*ただ、誰が読むかということを考えると、現行民法と比べると、会社法はちょっとどうかという感じですし、商法改正でも、改正するごとにだんだん複雑化してきたわけで、どこかで、法律の日本語の問題に着手すべきだったわけで、単なる「日本語の限界」だけで済ませるわけにはいかないのだろうと思います。しかも、「因数分解」ときていますから。

その意味で、現在の制約の中で「「普通の法律」を作ることを目指したものであり、できるだけ分かりやすくする努力はしているつもり」とのくだりは、「努力をしていたつもり」だったんじゃないですか?現在進行形じゃないですね。でも、そういう意識は重要だと思います。(なんだか、この辺は半落ちにもなってないようですが)

もしも、また法務省に戻って、改正作業をするという機会があるとしたらいいかもしれませんが、それともそれは後世の人たちに委ねるか。

*私は、何も「民間の行為に規制を及ぼすことが好き」というわけではありません。でも、必要なルールは作ってもらいたいと思っています。これは、基本的には、好き嫌いの問題であるべきではなく、それを嫌いだといって避けるのは、公務員の倫理として、しかも立法担当の官僚としてどうなんですか?そんなに、そういう考え方で自信が持てるんですか。

葉玉先生は、「今のところ、会社法による規制緩和によって、不都合が生じていることはないという自信があります」というのが、いつまで続くかですが、この表現が未来も生じないだろうというのではなく、「施行後1年半に限定している」という表現がみそで、さて、何年くらい効力がありますかね。

*会社法は、民法以上に他の法律に準用されている基本法ですが、民法とは違って、法人を扱う基本法の側面があるわけですが、どの点の評価をお尋ねなのか、ご質問の趣旨が分かったらコメントするでしょう。

葉玉先生が、(私の)「論理の最大の弱点」(なんだか、こういうのが多いな)として、「格差社会やグローバル競争の中身をはっきりさせない」「平成2年と現在で、どんな点に格差が生じているのか、グローバル化という点でどのように昔と違うのか」などのご質問は、私が説明するまでもないと思います。
 ただ、少し触れれば、弱肉強食の傾向が強くて、中小企業が苦境に陥る中で、小さな企業の起業を促進するために、「最低資本金制度の廃止」によって、「自力で何とかしろ」との政府の政策は、なかなか経済を好転させるまでには至っていない状況にあるのではないかと思います。
 この点は、数学とは違いますから、葉玉先生が「誰もが納得するような明確化は不可能であると確信しています」と言うように、現実に目を向けようとしなければ、真実は見えてこないし、政策などを論じることもできないでしょう。

*なお、格差社会とダミー会社による弱者切捨てとの関係は、本書78ページ以下参照。

*個人商店でも事業計画と資金繰りは考えるべきなのは、その通り。しかし、会社になれば、もっと、考えるべきレベルが上がるべきだとも思います。さらに、大会社であれば、その要請はもっと大きくなる。それは実態に応じてレベルは異なります。

*「経営者以外の出資者がいるような株式会社が全体のどの程度あるか」について、「その割合が著しく少ないこと」が重要なポイントだと指摘している点については、むしろ会社の割合ではなく、出資をする人がどれくらいいるかを問題とすべきで、さらに、出資した人たちのうち、満足に行った人たちと、「出資」でトラブルに巻き込まれた人たちの比率を問題にすべきではないかと思います。ただ、これも数の問題ではないでしょう。「理由として貧弱」かどうかは措くとしても、です。

*個人事業者と実質的にかわりないような株式会社が沢山あるという現実は、分かりきったことです。さて、葉玉先生は、議論の出発点として、「個人事業者では駄目か、とういう問題提起ではなく、「株式会社では駄目か」という問題提起が行われるべきです」と立てますが、私は個人事業者ではダメだとは言っておらず、むしろ逆で、個人事業者でもいいじゃないかと論じているのですよ。この辺は、葉玉先生も疲れているのかな。

*次に、私が、「とはいえ、「最低資本金制度の廃止」そのものだけを批判しているわけではなく、中小企業の実態だけでいえば、経営者とすれば「有限会社のみの最低資本金規制廃止」という選択肢もありえたはずで、ここで「弱者切捨て」とは、前の反論でも説明していた通り、その取引先、消費者など、会社と取引する「法的弱者」であって、「中小企業経営者が株式会社を手に入れやすくなった」ことは当然の前提にして論じているからで、読解不足か、故意の歪曲か定かではありませんが、ちょっと納得できない断じ方です。」と述べた点について、葉玉先生は、私が「株式会社を実体以上に高く評価し、有限会社を必要以上に貶めすぎているような気がします」といいますが、これも逆の読み方になってしまっていますね。読者もすでについてくるのが困難になっているでしょう。私の趣旨は、従前の有限会社を中小企業として、正面から価値を認めている議論であって、むしろ、これまでの議論で有限会社を貶めていたのは、葉玉先生ですよ。かつての株式会社を高い伝統的なイメージで捉えていた面はありますが、それを会社法は分かりにくくしてしまったというのが、基本的な論調でした。

*さあ、ラストスパートです。

葉玉先生は、「公務員か、民間人かにかかわらず、常に客観的に物事を議論しているつもり」だそうですが、このような言辞こそ、まさに判検交流で、「自分は常に客観的、公正に裁いているから、判検交流は、行政訴訟の公平さに何らの支障も生じていないと信じている」と述べるような裁判官・検察官の言辞とダブって聞こえました。

*いくら客観的だと思っていても、立場によって、評価されますし、誰のために言っているのか、その党派が問題とされます。自分が「無派閥」だと思っていても、知らないうちに、誰かの片棒を担いでいた、などということは、よくあることです。その辺を意識しているか、わざと知らないふりをしているのか、それとも、本当にまだ気づいていないのか、どれなのかは知りません。

従って、「有利不利は、どうだっていいことであり、真実かどうか、現実的な懸念なのかどうか、理論的かどうか」というのは、これまでの議論から明らかなとおり、必ずしも客観的・理論的に、数学的に答えが出ているものではないと思います。

*私が「誤った事実認識をもとに批判されている」と思っているという点については、既に説明した通りで、それは読者のご判断に任せるほかないのでしょうが、葉玉先生の認識もかなり誤っており、偏っている面があるのではないでしょうか?自分が唯一正しいという議論の仕方そのものも違っているところがあったのではないかと思います。

*そして、「最低資本金制度の効用を高く評価しすぎている」と感じられたのは、そういう立場で議論していたからで、それこそ既に死刑が執行されてしまった「最低資本金制度」を弁護した弁護人として、弁護しすぎ、と言われているようなもので、このまとめは、単なる葉玉先生の見解に過ぎないものとして理解しましょう。私のほうは、いわゆる後の祭りにすぎませんが、葉玉先生がやっているのは、あの死刑執行は正しかったという説明責任の履行であると理解しております。

*まあ、現代という時代をどう捉えるか、という問題と関係しているので、私はこの議論は面白いのではないかと思っています。

*ボクシングで喩えると、観客は、ずいぶんと葉玉先生のパンチが効いているな、と見えるかもしれませんが、私の感じとしては、あまり真に当たっているような感じがしておりません。他方、葉玉先生は、私のパンチも当たっていないと思っているのでしょうが、そうなると、両者共に現実には空振りしているかもしれず、でも、どれかのパンチは当たっているかも知れない。例えば、葉玉先生の頭に血が上ったところがあるとしたら、そこは私のパンチがあたったところなのかもしれません。

でも、長すぎます。雪だるま式に膨らんでいっており、当初の予想が的中してしまいました。これから、ひとまず「正月休戦」となるのか、それとも「熱い年末年始」を過ごすハメになるのか、それを決めるのは、このブログの主催者である葉玉先生次第です。

私はあくまでもゲストとして、お邪魔しているに過ぎません。平静な、いつもの葉玉ブログに戻りたいから、もう来るな、といわれれば来ませんが。どこまでも、というならば、どこまで行くか分かりませんが、でも、いつものことですけれども、ひとつ、お手わらかにお願いします。
以上

投稿: 浜辺陽一郎 | 2007年12月26日 (水) 20時49分

葉玉先生は、三輪芳朗教授の一連の著作、特に「規制緩和は悪夢ですか」を読んでいませんか。
もっとも、三輪教授が強調するように、レッテル貼りやあいまいな概念に基づく通念に囚われることなく、証拠に基づいてきちんと考えれば、同じような論旨になるのだとは思いますが。

それなりに名の通った弁護士でも、稚拙な議論しかできないということが新鮮でした。

投稿: 驚き | 2007年12月26日 (水) 22時46分

自分も一応早稲田卒であり、平素から葉玉氏のことは「東大卒の、ヤメ検弁護士の、エリート街道まっしぐらの、そのクセ庶民派ヅラしぃの、嫌な野郎」と思っている人間ですから、浜辺教授の執拗なまでの論駁を拝見しては、「やれやれ、もっとやれ」と陰ながら応援しているクチです。

 しかし、全体として、残念ながら、浜辺教授のご議論は不徹底と思われます。

 可能ならば

~~ 私(浜辺教授)の言う「取引先、消費者など、会社と取引する『法的弱者』」とは、具体的にこういう人です。
 たとえば私の顧客であるAさんは「有限会社を廃止しやがって。最低資本金制度を廃止しやがって。会社法を立法した担当者と話をする機会があったら、私がどんなに迷惑を被ったか、全部ブチまけたうえで、ブン殴ってやる」とまで言っておりました。それは具体的には、こういった事例でした・・・ ~~

・・・というような書き出しで始まる、具体例を、ご遠慮なさらず、お出しになるほうが、議論が説得的になるものと思われます。
 
 それに比較すれば、
「ちなみに、執筆について、書いた本の印税は全部国庫に入れているんですか?」といった、葉玉氏個人に対する追求はきわめて生々しく具体的で、微に入り、細を穿ち、迫真の説得力があると感服いたしました。自分のような無学文盲の輩でも即座に納得させられる、大変結構な論旨の展開で、欣快の至りです。やれやれ、もっとやれ。

投稿: 法的リテラシーの低い、いち個人 | 2007年12月26日 (水) 23時06分

基本的に、葉玉先生は、「ゼロから出発して、どのような法律にするのが一番バランスをとれているかを考えよう」というスタンスであるのに対し、
浜辺先生は、「昔の商法の、改正する必要性がある点だけ改正すればよい」というスタンスであるようですね。
また、葉玉先生の、「いろいろなことができるようにしておこう。」というスタンスに対しては、浜辺先生は、「○○ということをできるようにする必要性はなに?必要性がないならできるようにする意味はない」というスタンスのようですね。

投稿: | 2007年12月26日 (水) 23時47分

「法的リテラシーの低い、いち個人」さんに大賛成です。
まあたいてい、持論の筋がとおっていれば、そういう具体例をまじえた議論ができるものですが、そうでないと、えてして抽象論に陥りがちです。

投稿: | 2007年12月26日 (水) 23時51分

葉玉先生。
「論争」に割って入る気はないのですが、葉玉先生が会社法のポリシーを明示してくださったので、質問です。

葉玉先生:「会社と関係者が、意思表示によって権利義務を設定することは、本来自由なのだから、立案担当者の狭い常識の中で、しかも、立案当時に存在するニーズ以外に対応できないというような規制をすることは、基本法としてふさわしくない。
 将来、どのようなニーズが生じても会社法が対応できるように、不都合が生じない限り、理論的にありうる制度設計をできるかぎり広く許容しよう」
と考えて、立案しています。」 

これは、会社法29条に関する立案担当者の解説と矛盾しないでしょうか。

投稿: 会社法の任意法規性 | 2007年12月27日 (木) 01時26分

>「個人事業者では駄目か、とういう問題提起ではなく、「株式会社では駄目か」

というところは、「個人事業者ではなぜ駄目なのか、という問題提起ではなく、「株式会社ではなぜ駄目なのか」
という意味でしょう。

投稿:   | 2007年12月27日 (木) 02時50分

会社法の立案担当者は、「明確なビジョンなりポリシー」を持って「最低資本金制度」を撤廃したそうです。

一般的には次のような説明が行われます。
http://www.chusho.meti.go.jp/zaimu/kaisya/kaisyahou33/kaisyahou46.htm
最低資本金制度の撤廃には、次のような背景があります。
⑤ 「最低資本金規制特例制度」(いわゆる「1円会社」制度)が、新事業創出に一定の効果があったこと。
平成15年2月の制度実施以来、本特例制度を利用して設立された会社(いわゆる「確認会社」)は27,218社、うち資本金1円の会社は1,259社に上っています(平成17年8月5日現在)。

>>>>>>>>>>>>
http://www.chusho.meti.go.jp/pamflet/hakusyo/h19/h19_hakusho/html/j1210000.html
設立登記数の推移を見ても、2002年を底に増加傾向で推移している。2003年2月から施行された「最低資本金規制特例制度」(新事業創出促進制度の一して運用)及び2006年5月の会社法施行によって、資本金1円からの起業が可能となり、法人設立が従来より容易になったことが影響している

http://www.amy.hi-ho.ne.jp/umemura/konna/gdp.htm#nendo
⇒景気回復は2002年ごろからです。設立会社数の増加の主な理由を、法制度の変化に理由付けるのは、かなり無理があります。

http://plaza.rakuten.co.jp/tshimizu/diary/200712250000/
法人数259万1,914社、全体の98.4%が資本金1億円未満の中小企業であることは変わりません。欠損法人の割合は66.5%・・・
⇒低額資本金で設立された会社が、ほとんど赤字であるなら、それは国民経済の浪費です。そのような政策を採用した行政官庁は、経済的に無駄なことをしただけです。

http://www.chusho.meti.go.jp/pamflet/hakusyo/h19/h19_hakusho/html/j1210000.html
「情報・通信」や「事業活動関連サービス6」(例:人材派遣業、リース業)において開業率・廃業率が高くなっている。
⇒資本の裏づけのない業態は概ね廃業率も高く、簡単に新規事業の創出などと賞賛することはできません

起業で成功するのは、1500人に1人だというご意見もあります。
「起業バカ 渡辺仁著 光文社」「起業バカ2~やってみたら地獄だった 渡辺仁著 光文社」

最低資本金制度の撤廃は、アメリカ猿真似バカウヨによる、企業バカのための政策であることが、信頼度100%で証明されました。ぷぷぷ

※弁護士とは、他人の欲望をあおり、墜落した人とその親族から有り金を簒奪する職業のようです。
 個人:高利融資⇒自己破産・任意整理⇒弁護士や司法書士の金儲け
 会社:無謀な企業⇒民事再生・破産⇒弁護士や司法書士の金儲け

投稿: 会社法はどうでもいいのだ、こりゃ | 2007年12月27日 (木) 08時21分

葉玉師匠、こんにちは。

浜辺先生の本は、床屋さんの待ち時間に読んたコトがありますが・・・プラセボ(偽薬)効果がある本としては非常に良いかもしれないな~、なんて思いつつ読んでいました。
同じ人が書いた本でも、時期によってダイブ違ってるコトもあるし、いろんな人が書いた、いろんな本があっても自分は良いと思っています。

しかし・・・浜辺先生は、商法の立法担当者について、「エリート街道」とか「天下り」を強調し過ぎていて・・・非常に違和感がありました。
そもそも、「ひがみ(を生むように比較の効果)」を使って、商売したり一体感を醸し出したりしてはいけないし・・・(爆)

自分の仲間に、資格系の予備校で、かつて講師をしていたヤツがいるのですけれど・・・現場で実務をやるようになったら、「(正規のルートではない)バッタモンに見られて苦労している」・・・と嘆いていました。
そんな事実を身近で見聞きしていると・・・葉玉先生は、「エリート街道まっしぐら」ではなく、それとは逆の、そうとうの「イバラの道をまっしぐら」だと、自分は思っているのですが(笑)

「最低資本金のブランド」を強調しすぎるのは・・・従業員さん達の老後を守る退職金でも何でもないのに・・・確定支給型での資金運用を「謳う」のと同じ効果、つまり、確定額の配当を約束するのと同じ効果があると思います。

そして、確定拠出型での資金の『受領』を、時価評価によってある意味徹底したうえで、その上で構築されている現状の株式会社制度は・・・ヤッパリ、非常に良い制度です♪

投稿: 至誠丸 | 2007年12月27日 (木) 11時49分

浜辺先生の文章を読んでいると適性試験を受けるのにつかった「論理トレーニング101題」を思い出します。

読んでて驚いたり笑ったりと、つっこみどころ満載だと思うんですが、あまり指摘されていないのが不思議でしょうがないです。中身がどうこうという以前のレベルの話になってしまうのですが。

投稿: ロー生 | 2007年12月27日 (木) 13時25分

葉玉:第一の点は、最近の立法は、海外からの輸入ではなく、現実にその法律を使っている人たちの声を聞いて、その人たちのために作っています。
⇒最近の立法はバカウヨアメリカを崇拝するわが国の経済団体の声を聞いて、その人たちのために作っています。ぷぷぷ(爆)

葉玉:病理現象が起こることを前提にどう対処するかが立法のあり方ではあると思いますが、「病理現象が起こるという具体的危険がないのに、人の権利を制限する」という発想は、それ自体が病理です。
⇒具体的危険があるとはいえない=業績に影響がほとんどない子会社解散でも、それを知りつつ自社株を購入した会社が、インサイダー取引規制違反で制裁を受けました。これは病理なのですね、ぷぷぷ(爆)
http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPJAPAN-25048920070309

年末年始は、バカウヨマスゴミに脳みそを汚染されるより、次のような有益な書物を読むことをお奨めします。
http://www.rakuhoku-pub.jp/book/27040.html
排除型社会 洛北出版 (著者ジョック・ヤングはニューヨーク市立大学教授)
 ↓
ゼロトレランス(不寛容政策)を採用した結果、アメリカでは600万人以上が収監されている=これは旧ソビエト連邦の強制収容所の収容人員に匹敵するそうです。
著者は、アメリカの犯罪政策に学ぶのは、サウジアラビアで女性の権利を学ぶようなものだと言います。さらに、このような巨大人員を犯罪者として収監し、その数倍の人間を治安当局の監察下におくことは、もはや民主主義ではないと批判しています。

投稿: 訂正報告書 | 2007年12月27日 (木) 13時29分

会社員:株式会社のブランド価値ってないのか?
ワーキングプア:日本全国で500万社あり、その2/3が欠損法人なら、実質的にはないと思います。

会社員:新規事業を株式会社でやりたがる人が多いのはなぜ?有限会社だと問題があるのか?
ワーキングプア:多くの中小事業主は、「株式会社」という名称を「有限会社」という名称より好ましく思うからだと思います。

会社員:中小事業主にとっては、例え心情だけでも「株式会社のブランド価値」があるのではないか?
ワーキングプア:ブランド価値とは、それが吉兆でもゴディバでもルイヴィトンでも所詮は人間の心情(信頼を含む)が、客体に与えた価値に過ぎないと思います。

会社員:会社法弁護士と大学教授の議論をどう思う?
ワーキングプア:多くの中小事業主の抱いている心情的なブランド価値について言及しない会社法弁護士が、大学教授に比べて誠実な議論をしているとは思いません。

会社員:旧来の会社法の規制が、株式会社=大企業=高い信用度という印象を与えている点で、ブランド価値はあるのではないか?
ワーキングプア:心情と制度と事実(又は実効性)は区別すべきです。

>>>>>>>>>>>>>
今の会社法は、規制緩和こそが正しいという心情を、旧来の会社法=利害関係調整のための強行法規こそ正しいという心情に置き換えただけなので、優劣を比較するなら、どっちもどっちというだけ・・・

投稿: 法的リテラシーの低いワーキングプア | 2007年12月27日 (木) 18時29分

犯罪政策は日本から学ぶべきだよね。まちがいない!

投稿: うんうん | 2007年12月27日 (木) 22時16分

浜辺:若いやつは駄目だ。経験豊富なやつがいい。
葉玉:経験年数が上の者の方が能力も上とは限らない。若くても能力あるヤツは使えばいい。
浜辺:若いやつは駄目だ。経験者が豊富なやつがいい。 ←今ここ
葉玉:だからそれが奢りなんだってば。

投稿: 答える価値なし | 2007年12月27日 (木) 22時41分

浜辺先生も超一流の実務家なのですから、(もちろん葉玉先生は除いて)読者が安易な批判をすることは慎むべきではないでしょうか。特に言葉づかいなど失礼な点が多いのではないでしょうか。私はロー生で今年某大手事務所のサマーインターンにも行かせていただきましたが、パートナーの方に対して投稿されているような発言をするというのはちょっと考えられません・・(もちろんパートナーに限らずですが)。

投稿: | 2007年12月28日 (金) 01時03分

あの方が上界の方々や弁護士事務所に抱き込まれていたことも、他の方が分かりにくくたっていいと審議会で開き直ったら委員に激怒されて飛ばされてしまったことも、巨頭の方々に怒鳴り込まれたことも、どれも噂の域を出ませんから、一般人には確めようがありません。立法過程は見せられないし、言えないし、大変ですよね。利害が反する片方から見れば、もう一方に組していると批判されますしね。しかし所管官庁自身がどう総括しているのかは、その後の担当幹部の人事を見ればなんとなくわかる気がしました。
今回の立法に対して多くの評価と同時にこれだけ多くの批判もあることについて、元立法担当官としてもう少し謙虚な姿勢を前面に出していただきたいところです。企業クライアントは少々引いてしまいます。だって相談している弁護士が大物学者から嫌われてしまったら、いざというときに学者の意見書がもらえないじゃないですか(そういう意味では、あの方に相談するクライアントがいることは信じがたい。)。

でも楽しいからもう少しやってください。正月はTVがつまらないんですよ。まだ前半戦。いいぞ、もっとやれ!

投稿: 見物客 | 2007年12月28日 (金) 01時19分

ライブドアブログ時代からの読者です。両先生とも貴重な頭脳ですので、公開の場の読者を意識しすぎるあまり、挑発しすぎたり、悪意をかんぐったりするのではないところで、冷静で建設的な批判をお願いしたいです。タダ見の野次馬に煽られず、意地の張り合いになる部分は避けていただいてよいと、一読者として思います。「あ、逃げてる」なんて言わないので。

例えば、企業法務としては、会社法が分かりにくいのは立法担当者のワナというより、神田先生の指摘の通り「新しい会社法の条文は、21世紀にふさわしいルールを書ききろうとしたときの日本語という言語自体の限界を示している」「言語革命を伴わない限り、条文の言葉としてのわかりにくさは改善できない」のではないかと思っているのです。その「言語革命」とは、どのような形なのか? それを考えて、遠い将来に実現させてほしいのです。

>至誠丸さん

師匠はやめたほうがいいですよ。

>浜辺先生

あまりお弟子に過剰にならないでいいと思います。

投稿: 合掌 | 2007年12月28日 (金) 03時09分

排除型社会 洛北出版
合衆国の収監者は160万人に達しており、・・・・さらに成人のうち510万人が矯正・監視状態(収監中、仮釈放中、あるいは保護観察中)にあり、これは成人の37人に1人がそうした状態にある(37ページ)

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犯罪政策は日本から学ぶべきだよね。まちがいない!
⇒法務省が、現在のように少年犯罪などの厳罰化政策を推進する前の「日本」から変える必要がなかったという点で、全面的に同意できます。

なお、飲酒運転に関する次のリンク先は、一応の参考になると思います。
http://www.web-pbi.com/drunk0/index.htm

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一般人から見れば、中央省庁官僚も有名大学教授もエリートですので、内ゲバに興味持つ人は例外です。むしろ、次のようなことを検討すべきでしょう。

ジョン・ロールズ(哲学者)は、生得的才能を報酬の基準にすることは、性や民族を報酬の基準とするのと同じくらい不合理であると主張している。人間は、自身の性や民族に責任を持たないのと同じくらい、自身の生得的才能にも責任を持たないからである。(上掲書474ページ)

ジョン・ケネス・ガルブレイス(経済学者)は、貧者の仕事と富者の仕事の関係を描き出している。
仕事に恵まれた人は、仕事を通じて・・・喜びを得るはずである。しかし現実には、多くの仕事が単調な繰り返しで、苦痛と激しい疲労をもたらし・・・社会的に評価されない。
このような仕事に対して、同じ「仕事」という言葉を用いるのは、ペテンである。快適で十分な報酬を得て過ごす人々は、自分たちが懸命に働いていることを強調する。
・・・すなわち、貧しい人々は、経済的に恵まれない人々がしない仕事、要するに見るからに苦しそうで悲惨な仕事をするために必要な人々なのだ(上掲書493~494ページ)

日本の低俗無能バカウヨ=法務省・金融庁等が、グローバル・ベスト・スタンダード社会思想を勉強することが、わが国の喫緊の課題です。

投稿: 訂正報告書の訂正報告書 | 2007年12月28日 (金) 08時10分

>浜辺先生も超一流の実務家なのですから、(もちろん葉玉先生は除いて)読者が安易な批判をすることは慎むべきではないでしょうか。

超一流には安易な批判するなって?これはひどいw
言ってて恥ずかしくないですか?
それでいて葉玉先生は除くというw安易な批判は慎むべきなのは葉玉先生も一緒でしょうにw
どんだけ権威主義的なんですか?身分が上のものには簡単に逆らうなと?
浜辺先生を擁護しようとしてるつもりなんでしょうが、浜辺先生の論述の中身からすると、あなたみたいなことを言う人を批判していますよ(また、葉玉先生もそういう姿勢を批判していると思います)。

中傷等は絶対するべきでないと思うけど、批判や反論は自由でしょ。なんのためにコメントブログにコメント欄があると思ってるんですか?そういう批判が嫌ならミクシィでもやって馴れ合いに浸ってればればいいんですよ。

投稿:   | 2007年12月28日 (金) 08時27分

合掌さん、こんにちは。

了解しました。

たぶん、葉玉先生と自分は、葉玉先生が一つ年上の、「年子」の関係になると思います。
「先生・先生といわれるほどの・・・」というような感じで引っかかりがあり(自分も一応先生といわれるけれど非常に嫌なのですが・笑)、自分は尊敬するヒトや、教えを請いたいヒトを、若くても師匠と呼びたいのですが、ココではやめておきますね。

投稿: 至誠丸 | 2007年12月28日 (金) 08時28分

訂正
× なんのためにコメントブログにコメント欄があると思ってるんですか?
○ なんのためにブログにコメント欄があると思ってるんですか?

ごめんなさい。

投稿: 念のため | 2007年12月28日 (金) 08時29分

今回の「論争」は、浜辺憎しではなく稲葉憎しから書いたという発言を伝え聞いたのですが、本当でしょうか?

投稿: 非論理的な質問 | 2007年12月29日 (土) 01時35分

見物客さんの仰っていることがあながち謝りでないことを、今日確認してきました。

投稿: 事情通 | 2007年12月29日 (土) 01時45分

葉玉先生(範士)、こんにちは。

今ちょうど大掃除をしているのですが・・・電灯の傘の中の電球は、数や大きさについて、ホントにちょうど良く設計されています。
電灯の笠の部分が、資本金額であって、一つ一つの電球がちょうど株式に当たると思うのですが。
資本制度という電灯の、傘としての資本金額の中に嵌め込むべき、沢山の電球の一つ一つが「(割合的な)単位」としての株式であって・・・電流の量に従って明るさが変わりますし・・・電灯の傘は、傘の中の電球がないとそもそも意味を成さないし、電球も電源が無くては意味が無くなってしまうはずですし。

電灯の笠の中の電球が小さくて、役割が果たせれば良いと思うし、大きな電球に変えていけば良いとも思うのです。

浜辺先生は、(今まで専門家とされた)企業法務に携わる方であっても、新しい会社法が難解なので、実務から撤退するヒトがいることを害悪のように指摘されています。
指摘して、それだけでどうにかナルぐらいなら・・・だれも、現場で苦労しませんが・・・(爆)

自分はヤッパリどうしても、「電灯の傘の部分」としての「最低資本金」についてのブランドを強調しすぎると、どうしても、重大な誤解を与えかねないと思うのです。
電灯の笠と電球を分けて考えれば、司法試験に受かる人達ならば理解できる範囲だと思いますし・・・自分には、簡単ではないですけれど・・・(笑)

そして、会社制度に関わる人達には、株式会社の株式が、「(割合的)単位」である意味については・・・もうちょっと突き詰めて(理論的に、というよりも感覚的に武装して現場の人達が納得できるように)考え欲しいと思う、今日この頃なのです。

投稿: 至誠丸 | 2007年12月29日 (土) 11時01分

法律の中身は別として少なくとも立法過程については多くの問題があった、ということについてはコンセンサスが得られているのではないでしょうか。債権法改正に向けて、有力な学者が中心となって動き出している事実、そして内田先生が法務省へ乗り込んで行った事実は、今回の会社法制定の反省があってのことではないでしょうか?

葉玉先生をはじめとして立法担当官の方を非難するつもりはまったくなく、むしろ神田先生が仰るように大変な仕事だったと思うのですが、それとは別に、立法のプロセスにもう一度しっかりと考えるべき部分があるように思います。

投稿: 年の瀬ですね | 2007年12月29日 (土) 14時56分

立法のプロセスを考えるもなにも、そもそもどの点が会社法で問題なんだよ。浜辺さんの見解はほとんど論理的に成り立ってないじゃん。

投稿: | 2007年12月29日 (土) 16時22分

「コンセンサス」というのは合意形成を指すのであって、単に「そう言っている人が大勢いる」とか「そういう空気がある」とかではないでしょう。同じように「謙虚な姿勢を前面に出していただきたい」というのも厄介で、「批判を謙虚に受け止める」ということと「非論理的な批判にも反論してはいけない」というのは別です。

投稿: 合掌 | 2007年12月30日 (日) 01時37分

浜辺先生の一番良くない所は、自分に批判的な意見は全て「信者、弟子」と決め付けてしまっているところですね。
他人を批判する以上、自分に対する批判にも謙虚であるべきでしょう。
文章全体から非常に卑屈な感じを受けます。
浜辺先生を尊敬している人達を失望させるような書き込みなら、しない方がいいと思います。

投稿: 浜辺先生にお願いします | 2008年1月 3日 (木) 08時48分

浜辺先生、「表現(の行き過ぎ)」については、だいぶサービスしていただいたのは分かるので、あまり気になさらないで下さい。読者は両先生との応酬を通じて、いろいろと勉強させていただいております。ありがたい限りです。あとは受け取り手(読者)の問題です。

投稿: 合掌 | 2008年1月 3日 (木) 22時51分

民間人:アメリカで1990年代に犯罪率が劇的に低下したのは、ゼロトレランス(不寛容)と割れ窓政策(小さな犯罪も見逃さない)のおかげかな?
ワーキングプア:同時期に、犯罪政策を変更しなかった州や寛容な犯罪政策を採用しなかった州でも、犯罪率は低下しています。

民間人:それでは、犯罪率の低下が起こった理由は、どこにあるのかな?
ワーキングプア:70年代の妊娠中絶合法化が、貧しく,厳しい,そして愛情のない人生を子どもたちに送らせないために役立ったという分析があります。
http://www.arsvi.com/1990/990808.htm

民間人:日本ではいつから人口妊娠中絶が合法化されたのかな?
ワーキングプア:戦後に合法化され、中絶件数は昭和30年代で年間100万件、最近では30万件ほどのようです。
http://www.arsvi.com/0g/a01.htm
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/eisei/03/kekka4.html

民間人:先進諸国の中で、日本が例外的な低犯罪率を維持しているのは、中絶の自由化と関係しているのかな?
ワーキングプア:低犯罪率は、日本の検察や警察の力などとは何の関係もなく、水子地蔵のおかげかもしれません・・・・それをどう評価していいのか分かりませんが・・・・・

投稿: 放火大学院犯罪愕講義 | 2008年1月 4日 (金) 14時18分

会社法立案者:資本金という概念が、登録免許税と会計監査人の設置強制以外に法的意味を持たない

資本金は、例えば次のような法的効果があります。
http://www.azsa.or.jp/b_info/keyword/gaikei.html
付加価値額と資本等の金額という2つの外形標準による課税を組み合わせた制度が導入されました。

外形標準課税は、従来事業税を負担していなかった赤字企業にも税負担を求める・・・黒字企業はより拡大・発展を、逆に赤字企業については、市場からの撤退を促すことになり、その結果、経済の活性化と構造改革を促進させることにつながる。

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税法においては、資本金は課税の基礎となる会社の事業規模を表す指標のひとつとして利用されています。
会社法では、資本金は法的効果が乏しいとともに、資本欠損会社の解散は事業者や労働者の保護に有害だなどと説明されるようです。

縦割り官庁の権限拡大のために、その場しのぎで説明を適当に取って付けることを、「違法の相対性」ではなく「説明の相対性」と呼ぶようです。ぷぷぷ(爆)

国民の法務省世論操作リテラシーを高めるため、次の書籍の購読が期待されます。
http://www.tokyo-np.co.jp/book/shohyo/shohyo2007120204.html
戦前の少年犯罪 著:管賀江留郎 築地書館
本書のねらいは明白だ-これらの歴史的データを無視して語られる学者やジャーナリストのイマドキの「キレやすい若者論」「下流化犯罪論」そして「妄想の教育論」への挑戦状だ。

投稿: 放火大学院粗製法講義 | 2008年1月 7日 (月) 08時12分

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-03-21/02_01.html
日本の所得税制は単純な累進課税ではなく、「超過」累進課税です。どんな高額所得者も、最高税率37%が適用されるのは千八百万円を超える部分の課税所得に対してだけです。所得の全体に最高税率がかけられるわけではありません。

給与収入が三千万円の人の所得税の実効税率は、日本は20・3%にすぎません。ドイツ35・7%、イギリス34・9%、フランス32・9%、アメリカ23・8%と比べて最低です。

所得税は、配偶者特別控除の廃止などによって、ぐっと低い所得層にも課税されるようになっています。

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財務省、経団連、日本経済新聞社のみなさまがたへのお願いです。
年金の財源は、消費税よりもまず高額納税者への適切な税負担からご検討くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

投稿: 放火大学院粗製法講義補講 | 2008年1月 7日 (月) 08時25分

制度変化の会計学 藤井秀樹・京都大学大学院教授 中央経済社

会計の主要な機能は・・・原価価格の多くの複雑な転換過程を跡付けることにあった
これに対して・・・投資者の視点を重視するというのは、会計を規律する視点を、生産主体(経営者)の側にではなく、資本市場(資本提供者=投資家)の側におうこということである(30ページ)
⇒原価主義から時価主義という会計ビッグバンは、会計制度の目的を企業から投資市場に転換することを意味するものです。

1990年代にかけて、キャッシュが最高の情報であるという主張が・・・なされた。
ところが、・・・国内外の実証研究では・・・会計利益の法がキャッシュフローよりも相対的に高い価値関連性を有しているという経験的証拠を・・・報告し続けてきた。(166~167ページ)

包括利益には純利益を上回る価値関連性は認められないという経験的証拠が実証研究によって繰り返し報告されてきたにもかかわらず、基準設定の局面では・・・業績利益からの純利益の排除=包括利益への・・・一元化までもが、執拗に主張され続けてきた(169ページ)

合衆国の経験を振り返って分かることは、学術的文献は、実務家の著作や公認会計士協会及びSEC(証券取引委員会)の会計政策にほとんど影響を与えてこなかった

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現在SECが、US-SOX法に関して費用対効果の分析を実施するなどというどうでもいい情報を垂れ流している会計プロフェッションがおられます。

しかし、これまでの歴史でSECは実証研究を全く無視して会計基準を設定してきたのですから、今後もその方向性が変わることはないと考えるのが合理的でしょう。

投稿: 金融ビッグバカウヨアメリカを検証する | 2008年2月17日 (日) 12時34分

(続)制度変化の会計学 藤井秀樹・京都大学大学院教授 中央経済社

近年の(会計)ルール設定が非常にしばしば、実証研究によって報告されてきた経験的証拠と整合しない形で進められてきたという事実が再確認できた

規制のトリガーとなる事象の経済的規模は概して大きく(エンロン社の簿外債務は270億ドルとされた)、社会的な注目度も高い。
従って・・・当該事象に焦点を合わせて強力な規制を実施した方が、そうでない場合よりも・・・政治的コスト(規制失敗の政治責任を事後的に追及されるリスク)は相対的に小さくなる。

統計的確率からすれば「はずれ値」となる可能性の高い突出した事例を想定した強力な規制をルール化する要因が政治過程にはつねに存在している。

市場の事実と整合しない信念(意図的?)に主導されたルール設定であったとしても、それが四半世紀にわたって一貫して維持されてきたということには、何らかの社会的意義があった(以上172-173ページ)
⇒国民に無知に乗じた監督官庁の権限強化と会計プロフェッションの金儲けですね(笑)

会計システムだけ英米型に取り替えても、・・・期待された機能を果たさないばかりでなく、隣接する諸制度にも機能上の混乱をもたらす

隣接する諸制度を含めた経済社会システムの国家統合がコンバージェンスの本質であるといったほうが適切かもしれない。

わが国おいて、金融制度改革(金融ビッグバン)、公的部門の民営化・独立行政法人化等を骨子とした行財政改革、会社法制改革といった一連の制度改革が推し進められてきた。(以上209-210ページ)

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会社法制定(資本制度の無効化)と財務報告に係る内部統制ルールの導入の本質が、やっと分かりました。

ところで、
1)日本は経済的に急速にアジア圏への依存を高めているのに、アメリカ型社会にコンバージェンスしてどうするの?
2)金融・保険業はGDPの6%というマイナー産業なのに、それ以外の産業が金融業のための会計・法制度を導入する理由はどこにあるの?
3)金融業も、ほとんど間接金融であり、株式市場の直接金融なんてその1/100もない。直接金融に焦点を当てた制度改革は、日本の金融業にとってすらメリットがあるの?

投稿: 金融ビッグバカウヨジャパンを検証する | 2008年2月17日 (日) 13時20分

           -― ̄ ̄ ` ―--  _
          , ´         ,    ~  ̄、"ー 、
        _/          / ,r    _   ヽ ノ
       , ´           / /    ●   i" 何も殴らなくても
    ,/   ,|           / / _i⌒ l| i  |  アメリカや国家権力に
   と,-‐ ´ ̄          / / (⊂ ● j'__   |   勝てるわけ無いのに
  (´__   、       / /    ̄!,__,u●   |
       ̄ ̄`ヾ_     し       u l| i /ヽ、
          ,_  \           ノ(`'__ノ
        (__  ̄~" __ , --‐一~⊂  ⊃_
           ̄ ̄ ̄      ⊂ ̄    __⊃
                   ⊂_____⊃


                     ∩___∩ バカウヨアメリカと金融庁と
                      |ノ__△_ヽ 法務省と会計士を批判したら
                     /   〇  〇| あの世行きだって、クマー
                     |    (_○_) ミ
                    彡、   |∪|  、`\
                    / __ ヽノ /´>  )
                   (___)   / (_/
                     \     /
                       )  ) )
                      (  ) /
                       ) /
                       ν
               ∩___ ∩
       _,,..-―'"⌒"ヽノ ||||||  ヽ 
     C./   "⌒    Y  ○  ○`; 
      丿  ノ ̄ ̄"(⌒',彡 \( _●)/ ミ 
  §''ー''  _ノ`      .ヽ_)))ゝ,||∪||ノヽ_)))

投稿: クマー | 2008年2月17日 (日) 13時23分

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080219-OYT1T00835.htm
粉飾決算事件、最高裁が旧長銀頭取らの有罪見直しへ

書面審理が中心の最高裁が弁論を開くことで、3人を有罪とした1、2審判決が見直され、無罪となる可能性が出てきた。

公判では、97年3月に改正された不良債権処理のための新会計基準に拘束力があったかどうかが最大の争点となった。

 弁護側は「新基準は指針に過ぎなかった」と主張したが、2審・東京高裁は「周知期間も十分あり、新基準から逸脱した決算は許されない」として、1審同様、大野木被告を懲役3年、執行猶予4年、元副頭取の鈴木克治(70)、須田正己(68)両被告をそれぞれ懲役2年、執行猶予3年としていた。

一方、整理回収機構が大野木被告ら旧経営陣に計10億円の賠償を求めた民事訴訟では、1、2審とも「新基準の周知徹底は不十分だった」などとして違法配当の責任を認めず、刑事と民事の判断が分かれていた。

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ちょっ2人がかり   | | | |
                         _ /- イ、_      |_|_|_|_  裁量行政
サラ金犠牲クマ               /: : : : : : : : : : : (    / 〉〉〉〉 冤罪クマ
              l⌒)OOo    /: : : : ::;:;: ;: ;:;: ; : : : ::ゝ  {  ⊂〉
   ∩___∩    {  )  )    {:: : : :ノ --‐' 、_\: : ::}  |   |  ∩___∩
   | ノ      ヽ  | ::::::/     {:: : :ノ ,_;:;:;ノ ////ヾ: :::}  l   l /      ヽ |
  /  ●   ● |  /  ::::|   、  l: :ノ /二―-、 |: ::ノ  ヽ  | ●   ●  ヽ
  |    ( _●_)  ミ/    )  ,,・_  | //   ̄7/ /::ノ .・,,; \彡 (_●_ )    |
 彡、   |∪|   /   / ̄, ’,∴ ・ ¨   〉(_二─-┘{/ ∴ ;・, ;  \  |∪|    ミ
/ __  ヽノ  /   /  、・∵ ’   /、//|  ̄ ̄ヽ  、;:,・    ヽ. ヽノ___ ヽ
(___)    /    /        /   // |//\ 〉         ヽ (_____)
                      金融庁・法務省


投稿: 蘇える金熊リターンズ | 2008年2月20日 (水) 09時31分

民間人:新司法試験で、会社訴訟の問題が出たという話だ。
クマー:会社実務で、訴訟又は訴訟類似問題に出会う機会はほとんどありません。

民間人:商事法務から毎年12月ごろ発売される株主総会白書には、会社訴訟データが掲載される。
クマー:株主代表訴訟は年間100件、株主提案は年間20件ほどのようです。

民間人:株主代表訴訟の1/3は小規模会社の株主同士の経営権争奪など内紛事例であり、上場会社に限れば年間60-70件程度に過ぎない。
クマー:マスゴミと会社法務弁護士がおある会社紛争は、上場会社4000社の法務担当者の98%には、話だけで無縁の問題です。

民間人:会社法務は、過去から製造物責任→国際法務→総会改革などのブームが過ぎ去り、現在はM&Aかな?
クマー:どの問題も法律面で有効な対策はありません。
 1)製造物責任:技術の問題。契約で免責=無責任を決めるだけの手抜き対策
 2)国際法務:まず訴訟にならない。なっても外国なので手が打てない。
 3)開かれた総会:株主総数千~万人のうち出席100人と対話で自己満足
 4)M&A:高く売り付けたい外国人投資家の株を塩漬けにさせておしまい

民間人:会社法務に関して、弁護士の需要が増加するとは、とても思えない。
クマー:法曹3000人計画とは、社会改良的役割を果たしてきた弁護士集団を財政的に逼迫させ、うそつき損させる体質にトランスフォーメーションさせることが狙いです。

    (⌒ゝ-''⌒)\ぼうらく!ぼうらく!/
    ( ‘(.ェ.)‘ )   ∩ ∩  ∩ ∩   :∩ ∩:
    ((‘∀‘))  (´(ェ)`) ( '(ェ)' )  :(‘(ェ)‘):
    ど゙゙゙"""つ  ((´o`))(('∀')) :((‘-‘)):
     (    )   ( ゙゙゙"") .( ゙゙゙"")  :( ゙゙゙""):
     .∪ ̄∪    ∪∪   ∪∪    :∪∪:

投稿: 【どーでもいい】いま、会社法が熱い【うざいから消えろ】 | 2008年6月 1日 (日) 12時44分

日経報道から
ペルシャ湾岸産油国を歴訪中のポールソン米財務長官は1日、カタールで同国のハマド首相らと会談後、原油価格高騰の短期的な抑制は難しいとの認識を表明した。

中東などの政府系ファンドが投資先を拡大している点については「最高の収益を求めている」と述べ、政治的意図への警戒を否定。米経済を立て直すため金融機関などへの投資を促す考えを示唆した。

長官は原油価格上昇の背景に需給逼迫(ひっぱく)要因があると分析。「市場安定には時間がかかるとの見方を示した

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民間人:悪徳バカウヨ=投機勢力の金儲けの手法は?
クマー:安く買った後で、値段を吊り上げて、高く売り付けます。

民間人:EU諸国が、原油備蓄を強化すると、隣接記事であおっている。
クマー:原油(穀物も同じ)の需給が現実的にあまり逼迫していなくても、消費国が買いだめに走れば急速に逼迫します。

民間人:70年代の石油危機で、恐怖にあおられた市民がトイレットペーパーの買いだめに走り、商品が店頭からなくなったことがある。
クマー:あぶく銭稼ぎは、いつも恐怖をあおり不用品を高く買わせて暴利を貪ります。

民間人:大手消費国が不安に耐えて、備蓄など考えず、平常どおり原油を消費することが、国際的に期待されている。
クマー:景気を引っ張ってきたアメリカと中国に減速傾向が見られるなか、原油の現実の需要が短期的にも長期的にも逼迫するわけがありません。

民間人:仏教では、欲望を捨てることが安らぎへの道であることを教えている。
クマー:自分を苦しめ不安にさせるものは、欲望であると自覚すること。不安と戦うことは、自分と戦うことです。(巨大な投機市場や国家権力と戦うことではない。)

投稿: また、バカウヨアメリカと日経の情報操作か(笑) | 2008年6月 2日 (月) 07時29分

http://www.enecho.meti.go.jp/topics/hakusho/2008/index.htm
平成20年5月27日、エネルギーに関する年次報告書が閣議決定・国会報告された。
第1部第1章第1節>現在の原油価格は・・・ファンダメンタル(実需を反映という趣旨)な価格は50~60ドルと見積もることができます。(30/31ページ)

>>>>>>>>>>>>>>>>>
http://www.nikkeibp.co.jp/news/biz08q2/573241/
日経BP(バカウヨパッパラパーですか?プププ)
未曾有の事態に慌てふためく企業が多い中で、いち早く「原油200ドル時代」を想定して舵を切った経営者がいる。

社内の雰囲気が変わったのは、米ゴールドマン・サックス・グループが5月に入って「原油価格200ドルもあり得る」という趣旨のリポートを発表したのがきっかけです。
「社長だけではなく、ゴールドマン・サックスまで原油200ドルと言い始めている。我々も真剣に考えよう」。こんなメールが社内で飛び交うようになりました。
どうやら社長よりも、ゴールドマン・サックスの方が信用があるようです(笑)。
::::::::::::::::::::::::......   ........::::::::::::::::::::::::::: ;;;;;;;::::::::::::::::::
           γ ⌒ ⌒ `ヘ
          イ "バカウヨアメリカ
           "  ⌒  ヾ ヾ    ドガァァァァァン.....
        / ( 嘘つき損させるヽ  )ヽ
        (     大損論   ヾ )
 ................... .......ゞ (.    .  ノ. .ノ .ノ........... ........
 :::::::::::::::::::::::::::::::::ゝ、、ゝ.....|  |..., , ノソ::::::::::::::.......::::::
  _ _i=n_ ._ [l_ .._....,,. .-ー;''!  i;;;~-ヽ_ii_i=n_ [l h__
  /==H=ロロ-.γ ,~ー'''l ! |'''ーヾ  ヾ 「!=FH=ロロ
  ¶:::-幵-冂::( (    |l  |    )  )=HロΠ=_Π
  Π=_Π「Ⅱヾ、 ⌒~"""''''''⌒~'"´ ノ;;'':::日lTΠl:::....
 Д日lTl,,..:''''"   ""'''ー-┬ーr--~''""   :::Д日lT::::
 FH=n.:::::'            |   |         :::FL日l」:::::
 ロΠ=:::::.:.        ノ 从 ゝ        .::田:/==Д::
 口=Π田:::.   金融資本 あぶく銭   .::::Γ| ‡∩:::::
 Γ| ‡∩Π::....   脅しで騙されて   ...:::Eヨ::日lTlロ::::
 Д日lTlロ_Π::::.......  ウププププ   ...::::::::田:凵Π_=H:::
 =Hロ凵Π=_Πロ=HロΠ:::.................:::::::::::口ロロH「l.FFl


投稿: 日本国政府の実力が発揮されました | 2008年6月 2日 (月) 12時18分

民間人:日経BPのサイトに、自分は年収数千万円でありながら、年収300万円時代を生き抜く方法を提案する人が、ときどき寄稿している。
クマー:景気対策=減税+社会投資の必要性を力説しています。

民間人:ネオリベ=新自由主義者は、おしなべて景気対策の必要性を否定している。
クマー:ネオリベのクイーン=サッチャー政権では、財政引き締め策を取りながら、選挙前に大規模な景気対策を採用しました。

民間人:サッチャーは自分が選挙で勝つためにイデオロギーを放り投げ、選挙時だけケインズ主義を取り、目論見どおり大勝した。(サッチャー時代のイギリス、森嶋通夫、岩波新書)
クマー:今の日本で法人税を減税しても、企業は余剰資金を投資にまわすことが一般的なので、中国やインドの投資が増えるだけで、国内の景気押し上げ効果はありません。

民間人:低所得者向けの減税は、基本的に貯蓄より消費に回るので、景気浮揚効果があることが広く知られている。
クマー:金持ち優先のバカウヨ政党はこの政策を採用しないので、政権交代が強く望まれる理由です。

投稿: バカウヨ対策にむきだしの投資を燃やせ | 2008年6月 2日 (月) 18時35分

民間人:国家公務員が野党のために深夜まで働かされてているとの意見がある。
クマー:民間人でも、予算だの、総会や取締役会だの、訴訟だの、付き合いだの、終電に間に合わないまで働かされて、タクシーで帰ることはあります。

民間人:過酷な日雇い労働で人が死のうが暴動を起そうが沈黙を続けている法科大学院御用教授連中が、エリート国家公務員の過労には明確に反対意見を述べる。
クマー:低率の相続税に安心する金持ちのどら息子が丸暗記だけで大学教授に上りつめても、しょせん冷酷薄情利己主義なので、このような意見しか述べません。
(派遣労働には10年以上も抗議の声を上げず、高級公務員たききのみ反論する人を、学生やワーキングプアの皆さんはどのように感じるのだろうか???)

民間人:ネオリベ政策を推進して年間3万人の自殺者と1千万人の派遣労働者を生み出した責任者=高級公務員に同情する人間など、どこにいる?
クマー:深夜に公務員がビールを飲んでタクシーに乗っている間も、貧乏人はコンビニで立ちっぱなしで、労務者は真夜中しかできない道路下の水道管工事などで働いています。

※膨大な資料を用意するのは一般公務員なのに、国会で偉そうに答弁して、ある年齢がきたら抜け抜けと天下る高級公務員に同情の余地はあるのか?(テリー伊藤のお笑い大蔵省には、ノンキャリアの実情が書かれている。)

民間人:公務員の深夜タクシーの問題をマスゴミが叩く理由も分からないし、年収200万円の下請けにテレビ番組を作らせて生涯年収5億円のフジテレビ正社員よりも、やってることの不当性は遥かに少ないことは間違いない。
クマー:バカウヨはサンケー・ヨミウリではなく朝日新聞を叩くのが好きですね。ネオリベ政策を知識人に撒き散らした最大の功労者として、感謝すべき朝日新聞なのに・・・

    ふ た り は ネ オ リ ベ !
    ∩___∩        ∩___∩
   |;;ノ;朝日新聞;;ヽ     | 法科大学院ヽ  
  /;;;;;;;●;;;;;;;;;●;;|    /  ●   ● |  
  |;;;;;;;;;;;;;;( _●_);;;;;ミ    |    ( _●_)  ミ
 彡、;;;;;;;;;;;|∪|;;;;;、;;;\  彡、   |∪|  、`\
/;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽノ;;;;/´>;;; ) / __  ヽノ /´>  )
(___);;;;;;;;;;;/ (_/  (___)   / (_/
 |;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;/       |       /
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 |;;;;/    );;;;;)      | /    )  )
 ∪    (;;;;;\     ∪    (  \
       \;;;;;;)           \_)

投稿: 居酒屋タクシーもどうでもいいのだ | 2008年6月23日 (月) 07時48分

条文や判例は、普通の学者が太刀打ちできないほど、理論的・体系的です。
⇒どの法律のどの解釈が、どの学者のどの学説と比較してなのかが記述されていませんので、検証できません。(検証できない言説は無意味であるという論理実証主義哲学があります、プププ)

もちろん、アホな裁判官が、アホな判決を出すこともありますが、実務に定着している解釈は、多くの法律家を納得させる理論的背景があります。
⇒実務に定着したどの解釈のことを言うのですか?共謀共同正犯ですか?刑法の因果関係説の条件説的な理論構成ですか?グレーゾーン金利は戦後40年以上日本国に定着してきましたが、貧乏人に薄情で貧困ビジネスに精を出す多くの法律家を納得させたことを理解しました。

学問として「法律を体系化する」ということがどういうことなのか、よく分かりません。
⇒分からないことは、分からないままにして、それ以上議論するなと、ゴータマ・ブッダ(シャキャムニー)は述べています。

昔ならばともかく、判例実務が蓄積し、複雑な契約や事実関係が氾濫している現代社会で、民法の基本書で、民法全体についての「法体系」を語るのは無理があるでしょう。
⇒誰かの能力で無理だから、ほかの人も無理だと考えるのは、僭越でしょう。

まあ、「法体系」的なものは、法律の趣旨を上手く説明でき、妥当な結論を導けるのならば、便利ですが。
⇒妥当な結論とは誰にとってですか?感情的なまでに罪名に拘る検察権力ですか?生活保護支給洩れ殺人を無視して、数十万円のインサイダー取引を積極的に摘発する検察権力にとってですか?

ネオリベ系有識者の、時代の流れに掉さしてあまり具体的・個別的な問題を検証せず、感情と抽象的論理で議論を進める手法が如実に示された説明だと言えるでしょう。

投稿: ムードだけのネオリベ法律家に学ぶ | 2008年6月24日 (火) 07時55分

民間人:日本はグローバリズムに対処するため、構造改革が必要だという「刷り込み」を20年以上聞かされてきた。
クマー:多くの人が指摘しているところですが、日本の実質GDPに占める輸出の比率はせいぜい15%ほどに過ぎません。(比率は欧州主要国の半分以下、アメリカより多い。興味のある人は各自yahoo検索すればすぐ分かります。)

民間人:日本国のなかで、福田内閣と自民党を支持する人の比率よりも少ない(笑)
クマー:グローバリズムとは、ネオリベ=高学歴バカウヨが、国民に非正規雇用と賃金抑制と人員整理を、文句を言わせないで受け入れさせるための口実に過ぎません。

民間人:日本経済の85%は内需主導型で占められている。
クマー:その日本経済は世界GDPの1割を占め、世界に冠たる経済大国であることは、ネオリベ=高学歴バカウヨ以外の世界の人が認めています。

民間人:会社法制、労働解雇法制、金融市場規制など、アメリカやヨーロッパを見習い、日本の貧民化と厳罰化を推進する人たちがいる。
クマー:先進国屈指の「低失業率」「低犯罪率」を誇る日本を、アメリカやヨーロッパ並みにすることを目指す高学歴バカウヨ=官僚、御用学者、経団連はアメリカかヨーロッパへ国外強制退去させましょう。

   ∩___∩    /ヽ
   | ノ      ヽ/⌒)退去)
  /⌒) ●   ● |  | \ノ
 / /   ( _●_) ミ./     ネオリベ=
.(  ヽ  |∪|  /       高級官僚、御用学者、詐欺専門家
 \    ヽノ /         経団連、首切り経営者、東大法学部卒業生
  /      /   〇_〇
 |       /  .( ・(ェ)・)/ヽ
 |  /|  /    ノ つつ 追放) 
 | /  | /   ⊂、 ノ   \ノ
 ∪   ∪     し'

投稿: ムードだけのグローバリズムを考える | 2008年6月25日 (水) 08時00分

          \:::::::::::::::::::::::::::::::::::
   ∩___「\::::::::::::::::::::::::::♪ウソとネオリベと私
   | ノ      ヽ\::::::::::::::::::::  お願いがある~のよ 市場を妄信するネオリベ
  /  ●   ● | \::::::::::::::  厳罰で統制強化なぁら~ば 早く言って欲しい
  |   U( _●_)U ミ   //、 
 彡、   |∪|  、`\//  \:: J-SOXが終わっても 信用が残ればいいけど~
/ __ ヽノ    r-//── 、  無駄な文書化と手順書作らせない~でぇね~
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ i//___」
\\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄// ̄ ̄ ̄ ̄|  ♪ウソとネオリベと私
  ヽ、二二_ヽ、= //=========\ 良心と効率を 少しでも残しているのなら~ 
   ::::::::::::`ヽ、//\\\\\\  /時々行政罰で脅すわ 専門家増員のため
\  :::::::::::::   \\::\\\\\\\//⌒ヽ♪  
  ヽ、::::::::::::    \\::\\\\\\/もし経団連が命ずれば 明日も騙されてね
                     私はその言葉を胸に たくさん立法するわ~
                      会社が金を差し出すのを 見届けた後で~

投稿: 部屋とネオリベとクマ | 2008年7月20日 (日) 17時44分

道徳の哲学者たち リチャード・ノーマン著 ナカニシヤ出版

ニーチェの考えによれば・・・処罰は怒りと復讐という感情、我々を傷つけた者を傷つけたいという欲求に起源を持つ。

我々は、人間は苦痛を与えることに積極的な喜びを見出すものだという事実を認めなければならない。

そうしてはじめて我々は、我々を傷つけた者を傷つけることが・・・どうして我々にある種の償いを与えるかを説明しうるのである。

これが処罰という社会的慣習の心理的起源である。

長い時間をかけてようやく復讐に対する原始的欲求が、正義という観念(処罰にはその限界があり、処罰は罪に見合うように標準化されなければならない)によって修正され、緩和されるようになる。
(以上235ページ)
     ∩____∩
     /         ヽ
    /  ●   ●  |  臨時ニュースクマッ!
    |   ( _●_ )   ミ
   彡、,,   |∪|   /   処罰と道徳の関係が、100年以上も前に
   /__  ヽノ   l\
  (___u)    (uニ )   ニーチェによって説明し尽くされていました。
 | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|

投稿: 部屋と厳罰とクマ | 2008年7月22日 (火) 07時26分

民間人:コンビニ長時間立ちっ放し低賃金労働は、グローバル経済の必然だという意見がある。
クマー:都会はコンビニ店員に外国人が多いと感じますが、店長さんは日本人が一般的です。

民間人:コンビニ経営では、セブンイレブンなどの本部に、店舗売上高の35-55%を上納するフランチャイズ契約が締結される。
クマー:江戸時代の4公6民(幕府4割収奪)のような前近代的搾取構造が21世紀にリバイバルしました。

民間人:セブンイレブン経営者に関する書籍「本当のようなウソを見抜く」「鈴木敏文に学ぶリーダーの条件」「鈴木敏文逆説の経営」がある。
クマー:「江戸時代のようなウソを見抜く」「鈴木敏文に学ぶ4公6民の条件」「鈴木敏文虐待の経営」と改題したほうが良いでしょう。

民間人:共産、社民、国民新の派遣労働法制案では、登録型派遣を専門業務に限り、ピンハネ防止のためマージン率に上限を設けるとする。
クマー:失われた10年間ネオリベに騙され続けた国民と野党は、国民の生活苦をもたらした原因を正しく理解できるようになりました。

投稿: 現代の経営者に学ぶ4公6民の条件 | 2008年7月29日 (火) 10時16分

http://news.livedoor.com/article/detail/3761243/
3日に東京ビッグサイトで、エスカレーターの逆走事故が発生した。
故障が起きたときに、普通のエスカレーターであれば、安全装置が働いて停止するものが、停止するどころか下りエスカレーターよりも速い速度で逆走を始めた。
このメーカーの同型エスカレーターは、5月に名古屋でも同様の逆走事故を起こしている。

警察が「1ステップに3~4人乗っていた」被害者の多くがオタクであったことから、一部でオタクを悪者視する見方が出てきている。

私は、この事故を調べて初めて、建築基準法上の安全基準の計算式というのが「2ステップに大人3人が乗る計算」(*2)だということを知った。
片側に人が1ステップに1人立っていて、開いている方を人が歩いて行く風景を目にする。それはほとんど1ステップに2人という状態だし、歩いているということは、普通に立っているよりも多くの荷重を受けているわけだ。
ならば、国民の大半はエスカレーターの乗り方を間違っているということであり、それがこうした事故に繋がるのであれば、当然周知徹底されなければならない。

安直なオタクバッシングに、この問題を帰結させてはならない。

>>>>>>>>>>>>>>>>
自分で調べ、考えた、非常に良い記事だと感じました。
コメント欄には、批判する内容も多いようですが、まともなことを言うと批判が強くなるのは、よくあります。

盆休み       休みなし     お正月
  ∧_∧     .・,'∧_∧;,.     ∧_∧
 (´・ω・)=つ≡つ);;)ω(;;(⊂≡⊂=(・ω・`)
 (っ ≡つ=つ  (っ  ⊂)  ⊂=⊂≡ ⊂)
 /監査人) ボコ |正社員|   ボコ(上司\
 ( / ̄∪  ボコ   ∪ ̄ ∪  ボコ  ∪ ̄\ )

投稿: ネット右翼もこれでいいのだ | 2008年8月12日 (火) 13時28分

民間人:コンビニエンスストアなどの経営は、法律問題でもある。
http://www.1-japan.com/public/franchise/demerit.htm
クマー:フランチャイズ加盟店による「被害者の会」が結成されたり、フランチャイザー(フランチャイズ本部)を相手取った訴訟が頻発しているようです。

民間人:店舗売上の35-55%を本部に持っていかれたら、店主は生活できない。
クマー:タクシー運転手も、売上の4-5割を事業会社に持っていかれるそうです。

民間人:最近マスゴミは、判で押したように明らかにどうでもいい問題であることが自明な「コンビニ深夜営業の是非」の問題で騒ぎ立てる。
クマー:テレビと新聞などのマスゴミは、ネオリベ搾取問題が社会的に大きくなりそうなとき、先回りして話を逸らすため、別の事件報道でにより略奪富裕層の逃げ切りを図ります。

民間人:「資金力のない人が(本部負担型)により加盟金300~500万円をも借入に頼って開業すると、高いロイヤリティを払い続けなければならないその後の経営状況に苦労することは、業界人からすれば予測できる」そうだ。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1313206958?fr=rcmd_chie_detail
クマー:金のない人に幻想を吹き込み、債務者として貧困化させるのは、消費者金融、証券信用取引、コンビニ業界、法科大学院とも同じ手法です。

民間人:他人を貧乏にした後で略奪的に金を儲ける手法より、その生活を安定させた後に健全な財貨やサービスを売り込むほうが、国民経済的に望ましいことは明らかだ。
クマー:ネオリベを政権から叩き落して、ワーキングプアにも正当な給与を与え、彼らが給料の枠内で生活物資を調達しても、日本の経済は十分発展できると思います。

投稿: 21世紀4公6民の物語 | 2008年8月24日 (日) 16時14分

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