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2007-10-10

「まず 自分が変われ!――勇んで登攀を! 断じて勝利の峯へ」


 私の永遠の師匠は、戸田城聖先生である。

 その弟子として、師匠と共に、三世永劫にわたる人間の極地、そして大宇宙の本源まで説き明かした大法を知った喜びに、私は涙にむせんだものだ。

 ともあれ、大切な人生だ。大切な一生だ。

 長い長い価値ある旅路を、永久不滅の正義と大勝利の金字を打ち立てゆく天地まで、歩み走りゆくのだ。

 嵐が何だ! 怒涛が何だ! 中傷批判が何だ!

 が何だ! 財宝が何だ! 権力が何だ! 偉ぶった、嫉妬深い畜生どもが何だ!

 私には大法という金剛不壊の宝の中の究極の宝がある。

 な夕な、常に語り、常に励ましてくださる師匠が胸に生きている私は、最高の幸福者だ。永遠に幸福者である。

 私は勝利者だ。三世にわたる祝杯を上げながら、光り輝く“不滅の正義”という明(たいまつ)を高く掲げているからだ。


【「随筆 人間世紀の光」/今後、掲載される予定】


 次の闘争の火蓋(ひぶた)を切る指導である。無限の生命力からほとばしる言葉の数々に、ただただ圧倒される。凄まじい勢いだ。


 若き君よ! 青年たちよ!

 君もまた山本伸一となって、私に続いてくれ給え!


【同】

創価系サイト、及びブログの傾向


 立て続けにネットの話題を。私が定点観測しているサイトは、全てトップページにリンクをしている。これ以外のサイトやブログを見ることは、まずない。


 以前なら、様々なキーワードで探し回ったが、いつしか徒労と化していることに気づいた(笑)。


 まず、活動家は多忙を極めているため、ネットに接続する時間が限定されている。あるいは、ネットの使い方がわかってない(笑)。学会員は、驚くほどアナログタイプが多い。


 個人のブログにおける情報発信とは、自分のいを綴ることだ。にも関わらず、多くの創価系サイトは、聖教新聞の一部抜粋に終始している。これは全く味がない。例えば、指導をひたすら入力してデータベース化するなら、まだわかる。だが、聖教新聞のサイトにアップされたものをコピーすることに、何の味があるのか全く理解にしむ。指導の一行でも入力しておきながら、自分のいや決すら書かないで、弟子を乗る資格があるのだろうか?


 次に目立つのは、読むに値しない日記の類いである。「だから、何なの?」といったものが殆どだ。参考になるものは一つもない。


 以上のことを踏まえると、ネット学会員は情報発信手と見える。文章が手というレベルではない。「発信する何ものも持ち合わせてない」ということである。


 私のブログにしてもそうだが、一方的な情報を受信して何が楽しいのだろうか? 受け身の人は、本質的に奴隷的要素が強い。かような面々が、組織の中で官僚を支えているのだ。


 折伏とは、人間究極の発信であり、真実のメッセージであることに気づくべきだ。