意識を変える事

2010年02月03日 14:42

「意識を変える事」を、何か見えない存在と深く繋がる事であるかのように、
不可思議な錯覚をしている人たちがスピ系に大勢居るようですが、
実はそれは全然違っていると思います。

顕微鏡の度数を上げて行くと、それまで肉眼で見えにくかったものがより、
鮮明に視えるようになって行くのですが、
それと同じ事が「意識を変える事」なのです。

それには先ず、自分という主体性を明確に持ち、
自分がどう在りたいのか・・・という指針をしっかり描く事が大切です。

そうではない場合に視える「何か」が仮にあったとしても、
それは欲しいものを決めずにフラリと街角に出かけて行って見つけてしまう、
まぐれ商品のようなもので、
衝動が見せる幻覚以上の何物でもない場合が殆どなので、
「何かを見た」、「自分にとって必要な情報を得た」事にはなりません。


「意識を変える事」とは、それまでの自分の中に曖昧になっている物事に対し、
それを明確なビジョンとして捉え、
意識化し、認識を細分化して整理する事であり、
不思議な相手と繋がって不思議なメッセージを導き出す事ではありません(笑;)


スピ系という非常識な世界観に毒される事なく、
現世の物事を現世の実感で認識して行く事を、忘れてはいけないと思います


Copyright (c) 2010 平杜カノン


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幻覚の中の「僻み」意識、即ちディセンション

2010年01月31日 07:09

多くの人たちが、生きて行く上で必要な幻覚を自ら作り出し、
それによって実生活上に起きる様々な苦痛を緩和していると思います。

でも、その幻覚と緩和の繰り返しを長い間続けていると、
ある一定の苦痛が本来気付かせてくれる大きな進化のきっかけを、
率先して逃す事にもなりかねません。


苦痛とは、それに向き合う事の先にある、
本質との出会いと直視のきっかけとも言える事が多く、

例えばの話ですが・・・・、その本質と向き合いたくないと思う人たちにとって、
それ以外の言い逃れで自己肯定に勤しむ人たちには、
苦痛をいかに愉快にやり過ごすか・・・という事の方が、
本質よりもよほど価値のあるものと思い込んでしまうとも言えます(笑)

あくまで例えばの話ですが(笑)
私は自分が「神界の人間だ」・・・などと言ってもないのに、
あたかもそう言ったかのような事実の捏造を行う事で、
「平杜に勝った」などと思い込むような人たちにもそれは当てはまり(笑)
ものの本質と直視出来ず、
尚且つ過去の記録に囚われて、常にそうした他者の過去をつまみ上げては何かを揶揄して生きて行くような人間は、
一生自分が作り出す何かしらの幻覚に自分自身を包み込み、
そしてその瞬時瞬時の自分の快楽を優先して生きて行く以上の、何の進化も望めません。


進化とは、それまでに無い新しいものの考え方と出会う事を指します。

尚且つそれが妄想や幻覚ではないものとして、
スピリットの中の微かな記憶や経験と照合し、意識化を図れる人に訪れる変革であり、
そう在ろうとする人にとっては、仮に私が過去にどんな事を実際に言って来たか、
そして何を切り捨てて来たか・・・などという事を逐一気にする必要すら無くなるのです。

過去の自分や他者に対し、真摯にリベンジを図り、
そして進化を望む人で在ろうとする存在意識に対し、
結果、自分が自分の意識やスピリットをサポートして行けるようになれれば、
それが大きな意識の変革〜進化に繋がる事を静かに体感して行けるのではないでしょうか


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