The Invitation To Japanese Traditional Comb Ver.2.09
  お六櫛の職人列伝 
手挽き技法を伝え続けた櫛職人 
(故) 川口助一氏 
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 川口 助一(かわぐち すけいち)
川口助一

年 譜
1914年 お六櫛職人六代目助六の
長男として生まれる

1929年 一人前の櫛職人に
1939年 国鉄入社
1969年 国鉄を55歳で定年退職
川口工房を設立

1989年 木祖村無形文化財
人間村宝に指定
長野県卓越技能者知事表彰
「信州の名工」認定

1995年 長野県無形文化財・
お六櫛づくり人間県宝認定

1999年 労働大臣表彰
       国卓越技能者
「現代の名工」受賞

2002年 黄綬褒章受賞
2003年 没(享年89歳)
 お六櫛は江戸時代享保年間から作られ続けてきた薮原宿の特産品。 幅三寸ほどのミネバリやツゲの板に100本近い歯をつけた梳き櫛は 実用的な製品として人気を博し、村の基幹産業となってきた。
 ところが戦後、合成樹脂の櫛やブラシの台頭と洗髪習慣の変化によって需要が減少。 最盛期には全国の櫛生産量の80%を占め、薮原だけでも200人近い職人が従事した櫛生産も 昭和30年代末には十数人に減少する。手挽きのお六櫛を作る職人はいたものの、 手挽きの何倍もの速さで作る機械挽きが主流となり、当時薮原で本物の手作りの腕を振るう職人はわずか二人になっていた。

 手挽き職人の一人川口助一さんは元国鉄職員。川口家は薮原宿で代々お六櫛を作っていた。 父の助六さんからお六櫛の製法をたたきこまれ、15歳で一人前となり、25歳まで櫛作りの生活を送る。
 昭和初期のお六櫛は、一枚二銭2厘で問屋に渡し、現金か米や味噌をもらって帰る生活であり、 当時200人近い櫛職がいた薮原では競争が激しく問屋の言いなりの生活であったといわれる。 25歳の頃、そんな苦しい生活に疑問を抱き国鉄に入社。父の助六さんも反対しなかったという。
 その間も休日は父親の櫛作りを手伝っていたが、国鉄を退職した昭和44年、 薮原で手挽き櫛の技法を受け継いだ職人がほとんどいなくなっていた事を憂い、 郷土のためにも手挽き櫛の技法をぜひ伝承保存しておきたいとの決意から、 再び手挽きお六櫛の製作に戻った。

 「350年の伝統工芸を後世に」。昭和48年12月、村をあげて「お六櫛保存会」(黒木半蔵会長=初代)を結成。 地域ぐるみの文化伝承の機運が高まり、古文献の調査研究や技術伝承を目的に活動を開始する。 昭和53年より川口さんを筆頭に数名の櫛職人が講師となり、毎月定期的に技能講習会を開いて後継者育成に努めた。

 「目の細かい櫛は、すべて手仕事です。私が作る櫛の歯数は90本以上あります。 機械で歯を挽くと50本ほどしか作れないのです。それでは髪を梳いてフケや埃を取り、 毛の表皮を整える事はできません。
 今の女の人にも、お六櫛の良さを知ってもらい、 美しい髪を作ってほしいですね・・・」

  生前そう語っていた川口さんは、0.5〜0.6ミリの歯にこだわって櫛を作り続けた。 ミネバリの温かみのある木肌に「助一」の名が刻まれたその櫛は、櫛目の細かさもさることながら、歯の弾力でしなやかに髪を梳き解かし、地肌にも優しい。

 手挽きお六櫛と川口さんの技術は現在も受けつがれ、信州の名工・篠原武さんをはじめとするわずか数人が薮原のお六櫛の伝統を守り続けている。

大深 ミネバリ大深梳櫛 歯数103本

深川 ミネバリ深川梳櫛 歯数100本

はたぐし 機櫛(はたぐし):機織りに使用する櫛

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