享和二年(1802)太田蜀山人『壬戌紀行』には、
---- ゆくゆく薮原の駅にはいれば、駅舎のさまにぎわし、お六櫛・あららぎの箸ひさぐもの多し、此所より諸国につたうという…(中略)…お六櫛のことをとうに、お六といえる女はじめてみねばりの木をもて此の櫛を引き出せり。しかるに此のあるじのおじなるもの此業をつぎて、みねばりの木をつげの木をもて此櫛をひき、諸国にひろめしより、あまねくしれりといえる、薮原またやご原ともよぶ ----
とお六櫛の記事が掲載されています。
文化四年(1807)山東京伝の原作である『於六櫛木曽仇討』という芝居が拍車をかけて、お六櫛はさらに全国にその名を広め、大流行をきたすことになりました。
弘化年間には宿内の78パーセントの家が櫛に関する仕事に携わっていた事がわかっています。
明治9年の記録によれば「木櫛892筒 東京、京都、大阪をはじめその他諸所へ輸送す」とあります。1筒とは約1200枚を1梱にまとめたもので、892筒は約100万枚になります。
薮原では一口に「お六櫛」と総称していますが、その種類は多義にわたり、梳き櫛・解かし櫛・挿し櫛・鬢掻き櫛などがあります。さらにそれぞれに形や大きさ、歯のつけ方などの違いによって様々な名前がつけられています。
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元禄の年号が見られる 包紙と木櫛
(木祖村郷土館蔵)
於六櫛木曽仇討
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