January 2007
柳川範之『法と企業行動の経済分析』は、雪印の事業再生の過程をあとづけ、破局的な事件がかえって思い切ったリストラを可能にし、本業に特化することによって資本効率が向上したことを指摘している。Fukuda-Koibuchiは、長銀の破綻後の取引先を追跡し、資産の厳格な査定によって多くの企業が破綻したが、新生銀行に債権が引き継がれた企業の株価は大きく上がったことを示している。これに比べると他の銀行の取引先は、破綻も少なかったが、業績の向上も起こらなかった。
不二家のように業績が長期低落している老舗企業は多いが、ほとんどは銀行によって延命されながら没落してゆく。非効率な経営をしていても、資金繰りで行き詰まらないからだ。このような現象を、コルナイは「ソフトな予算制約」(SBC)と名づけた。SBCは社会主義国の市場経済化に際して起こる生産性低下の最大の原因であり、その対策は金融仲介機関を分権化して予算制約を「ハード化」することだ。「日本型社会主義」からの脱却にあたってもSBCが最大の問題であり、90年代の不良債権問題はそれを克服して金融機関を分権化するチャンスだったが、大蔵省の官製粉飾決算と日銀の超緩和政策による銀行救済で、日本はチャンスを逃してしまった。
いまだにケインズ的な財政・金融政策を求める人々(自称「リフレ派」を含む)は、「構造改革は景気がよくなってからやればよい」というが、業績がよくなってから人員整理を行う経営者がいたら教えてほしいものだ。Jensenも指摘するように、資本主義は効率が低下した企業の予算制約をハード化することによって経営者を不採算事業からの撤退に追い込む「自動退出装置」なのである。今回の事件も、慢性的な赤字に悩む不二家にとってはblessing in disguiseかもしれない。
作者は、1995年まではパシフィック・ベルに勤務しながら漫画を描いていたので、アメリカの会社の実態を知るにはどんなビジネス本よりも役に立つ。日本の「ショージ君」などが職場の義理人情をじめじめと描くのに対して、Dilbertの経営者は株価対策のために英語の通じない国にアウトソーシングしたり、コンサルタント(主人公の飼い犬Dogbertが演じる)のbuzzwordにだまされてバカな企業買収をしたりする。
ただ、これまでにも何度か日本語の連載や単行本はあったが、とぎれている。日本のサラリーマンは身近な人間関係に悩んでいるが、アメリカのサラリーマンは現場を知らないでプレゼンテーションの数字を信用する経営者との距離に悩んでいるので、笑うところが違うのだろう。
特におもしろいのは、1998年の接待疑惑の発端となった大蔵省証券局の課長補佐の事件だ。彼は接待だけでなく、風俗店(ソープランド)に頻繁に行っており、これが逮捕の決め手になった。当時の霞ヶ関の暗黙のルールでは、接待はシロだが現金はクロで、女は現金と同等という扱いだったからだ。ところが逮捕してから、この風俗の出費は自費(!)であることが判明した。検察は動転したが、「50年ぶりの大蔵キャリア逮捕」を不起訴にするわけには行かないので、213万円の接待で起訴した。この結果、法的には他の「ノーパンしゃぶしゃぶ」などもすべて犯罪に問われる可能性が出てきた。結局、大蔵省が3人の幹部を懲戒免職にするなど112人を処分する代わり、刑事訴追はしないということで決着がはかられたが、大蔵省と検察の関係はガタガタになった。
最大の問題は、不良債権処理の過程で大蔵省が銀行に債務超過状態を隠蔽するよう指導した「官製粉飾決算」を、検察が見逃したことだ。特に日債銀救済のために金融機関34社から「奉加帳方式」で2107億円も集めた(すべて損失になった)事件について、検察は銀行局の幹部に事情聴取したが、立件を見送った。結局、不良債権の問題で刑事責任を問われたのは、国有化(税金投入)にともなう「国策捜査」によってスケープゴートにされた長銀や日債銀などの旧経営陣だけで、「主犯」だった大蔵省の責任は不問に付されてしまった。
ライブドア事件などについては、淡々と事実をのべるにとどめ、あまり検察批判には踏み込んでいないが、著者は個人的には検察の捜査能力の低下に危機感をもっている。最近の的はずれな捜査は、「国策」というより、急速に変化する市場の現実に検察の捜査手法がついていけず、霞ヶ関が「情報過疎」になっていることが原因だろう。本書に書かれているように、官庁間の取引で犯罪がつくられたり闇に葬られたりする現実を見ると、日本が本来の意味で「法治国家」になるには、まだ時間がかかりそうだ。
Freakonomics Blogより:
バラク・オバマ氏も指摘するように、イラク戦争への兵員増派についてのライス国務長官の説明は、要するに「ここで引き下がると、これまでの努力が無駄になる」という論理だが、これは典型的なサンクコストの錯覚である。こういう場合に計算が必要なのは、過去にどれだけ投資したかではなく、今後の選択肢のうちどれがもっとも収益が高いか(あるいは損失が少ないか)である。2万人ぐらいの増派で情勢が好転する可能性は低い(それはライス氏でさえ認めている)が、撤退すると内戦状態になり、現政権が倒れることは避けられないだろう。しかし米軍が永遠に駐在し続けない限り、それはいずれにしても避けられない。つまり今回の増派は、破綻の表面化を先送りする効果しかない。それは90年代に日本の銀行がやった不良債権への「追い貸し」と同じ、価値破壊的な投資なのである。
先日のホワイトカラー・エグゼンプションに関する記事には、予想外の反響があった。私も企業ごとのミクロレベルでは、残業規制の緩和が労働強化に結びつく可能性はあると思う。しかしマクロに見ると、失業を減らす方法は(供給が所与である以上)労働需要を増やすしかなく、そのためには企業収益を高めるしかない。世の中では、正社員が減ってみんなフリーターになるように思われているが、実際には昨年の正社員総数は一昨年より増え、今年の新卒採用も大幅に増えた。つまり究極の雇用政策は、経済を活性化することなのである。
この場合、活性化を(投資水準が所与の)短期でとらえるか(投資が変動する)長期でとらえるかによって必要な政策は異なり、「構造改革かリフレか」といった二分法はナンセンスである。有効需要が大幅に不足してデフレになっているといった短期的な緊急事態に対しては、金融緩和によって投資需要を追加する(インフレによって実質賃金を切り下げる)ことも有効かもしれないが、現在の日本経済はそういう緊急事態は過ぎたとみてよいだろう。いま重要なのは短期の安定化政策よりも、潜在成長率を引き上げるという長期の問題である。
潜在成長率を決めるもっとも重要な要因がTFP(全要素生産性)であることはよく知られている。1990年代に日本経済のTFP上昇率が下方に屈折したことは、いろいろな実証研究で明らかにされているが、その原因には諸説ある。Hayashi-Prescottは、その主要な原因を1988年の労働基準法改正による労働時間の短縮に求めている。この説が正しいとすれば、雇用規制の強化は不況を招き、かえって失業を悪化させるということになる。
しかし、この説明には批判も多い。最大の問題は、Hayashi-PrescottモデルがマクロのTFPしか見ておらず、企業レベルの生産性の変化をとらえていないことである。この点を企業ごとのパネルデータで見たCaballero-Hoshi-Kashyapは、バブル崩壊によって発生した不動産業者などの大量のゾンビ企業(実態は債務超過だが銀行の追い貸しで延命されている企業)が経済全体の生産性を低下させ、雇用創出をさまたげていると指摘している。
これに対してFukao-Kwonは、TFPの低下率は非製造業よりも製造業のほうが高いことを示している。これはもともと日本の非製造業のTFPが低いからだと考えられる。さらに驚いたことに、彼らの実証研究によれば、退出した企業のTFPは生き残った企業よりも高い(これは他の実証研究でも確認されている)。つまりゾンビ(古い大企業)が追い貸しで生き延びる一方、資金調達の困難な新しい企業が廃業することによって日本経全体のTFPは大きく低下したのである。Fukao-Kwonは、このメタボリズム(新陳代謝)の低さが長期不況の最大の原因だと結論している。
最近の実証研究で明らかになったのは、「失われた15年」の主要な原因は需給ギャップではなく、TFP上昇率の低下だったということである。日銀の超緩和政策は、短期的な「止血効果」はあったかもしれないが、結果的にはゾンビ銀行とゾンビ企業を延命して、TFP上昇率をさらに低下させてしまった。潜在成長率を高める政策として、財界は「政府の研究開発投資」のバラマキを求めているが、政府の補助金がTFPを改善するという証拠はない。重要なのは、いまだに大量に残っているゾンビを安楽死させ、人的・物的資本を新しい企業に移動するメタボリズムの向上である。
この場合、活性化を(投資水準が所与の)短期でとらえるか(投資が変動する)長期でとらえるかによって必要な政策は異なり、「構造改革かリフレか」といった二分法はナンセンスである。有効需要が大幅に不足してデフレになっているといった短期的な緊急事態に対しては、金融緩和によって投資需要を追加する(インフレによって実質賃金を切り下げる)ことも有効かもしれないが、現在の日本経済はそういう緊急事態は過ぎたとみてよいだろう。いま重要なのは短期の安定化政策よりも、潜在成長率を引き上げるという長期の問題である。
潜在成長率を決めるもっとも重要な要因がTFP(全要素生産性)であることはよく知られている。1990年代に日本経済のTFP上昇率が下方に屈折したことは、いろいろな実証研究で明らかにされているが、その原因には諸説ある。Hayashi-Prescottは、その主要な原因を1988年の労働基準法改正による労働時間の短縮に求めている。この説が正しいとすれば、雇用規制の強化は不況を招き、かえって失業を悪化させるということになる。
しかし、この説明には批判も多い。最大の問題は、Hayashi-PrescottモデルがマクロのTFPしか見ておらず、企業レベルの生産性の変化をとらえていないことである。この点を企業ごとのパネルデータで見たCaballero-Hoshi-Kashyapは、バブル崩壊によって発生した不動産業者などの大量のゾンビ企業(実態は債務超過だが銀行の追い貸しで延命されている企業)が経済全体の生産性を低下させ、雇用創出をさまたげていると指摘している。
これに対してFukao-Kwonは、TFPの低下率は非製造業よりも製造業のほうが高いことを示している。これはもともと日本の非製造業のTFPが低いからだと考えられる。さらに驚いたことに、彼らの実証研究によれば、退出した企業のTFPは生き残った企業よりも高い(これは他の実証研究でも確認されている)。つまりゾンビ(古い大企業)が追い貸しで生き延びる一方、資金調達の困難な新しい企業が廃業することによって日本経全体のTFPは大きく低下したのである。Fukao-Kwonは、このメタボリズム(新陳代謝)の低さが長期不況の最大の原因だと結論している。
最近の実証研究で明らかになったのは、「失われた15年」の主要な原因は需給ギャップではなく、TFP上昇率の低下だったということである。日銀の超緩和政策は、短期的な「止血効果」はあったかもしれないが、結果的にはゾンビ銀行とゾンビ企業を延命して、TFP上昇率をさらに低下させてしまった。潜在成長率を高める政策として、財界は「政府の研究開発投資」のバラマキを求めているが、政府の補助金がTFPを改善するという証拠はない。重要なのは、いまだに大量に残っているゾンビを安楽死させ、人的・物的資本を新しい企業に移動するメタボリズムの向上である。
グローバル P2Pテレフォニーカンパニー、Skypeがこのほど日本にオフィスを開設しました。バージョンも3.0にアップデートされ、フュージョン・コミュニケーションズと提携して050発信を可能にするなど、日本でのビジネス展開も活発化しています。通信事業者やISPもIP電話サービスを開始し、競争が激化していますが、そのなかでSkypeはこれからインターネットでのコミュニケーションをどう変えようとしているのでしょうか。情報通信政策フォーラム(ICPF)では、ジェネラルマネジャーの岩田真一さんにお話をうかがいます。
スピーカー:岩田真一(Skype日本オフィス ジェネラルマネジャー)
モデレーター:池田信夫(ICPF事務局長)
日時:1月24日(水)18:30~20:30
場所:「情報オアシス神田」
東京都千代田区神田多町2-4 第2滝ビル3F(地図)
入場料:2000円
ICPF会員は無料(会場で入会できます)
申し込みはinfo@icpf.jpまで電子メールで氏名・所属を明記して
(先着順で締め切ります)
スピーカー:岩田真一(Skype日本オフィス ジェネラルマネジャー)
モデレーター:池田信夫(ICPF事務局長)
日時:1月24日(水)18:30~20:30
場所:「情報オアシス神田」
東京都千代田区神田多町2-4 第2滝ビル3F(地図)
入場料:2000円
ICPF会員は無料(会場で入会できます)
申し込みはinfo@icpf.jpまで電子メールで氏名・所属を明記して
(先着順で締め切ります)
来年から「日本版SOX法」が適用されるため、企業の経理担当者はパニックになっているようだが、本家のSOX法の評判は最悪で、早くも見直しが始まっている。この法律ができたのは、6年前のエンロンやワールドコムのスキャンダルがきっかけだが、果たして法律を強化すればあの事件は防げたのか?逆に、あの事件が起こったのは法律が不備だったからなのか?
エンロン事件の詳細な記録を読めば、どちらの問いの答も否であることがわかる、とMalcolm Gladwellは書く。事件を最初に報じたWSJの記者は、ほとんど公表資料だけで問題の全容を明らかにした。粉飾に使われたSPE(特別目的会社)は、連結対象にこそなっていなかったが、その財務諸表はすべてSECのデータベースで公開されていた。問題は、その経理内容が正確でなかったことではなく、過剰に正確だったことである。SPEの数は3000にのぼり、それぞれの財務諸表が1000ページ以上あった。この300万ページの文書をすべて読んだ人はいない。
だから「違法行為はしていない」というスキリング元CEO――懲役24年の刑を言い渡された――の主張は、文字どおりには間違っていない。エンロンは合法的にSPEをつくり、合法的にその情報を開示したのである。不良資産をSPEに「飛ばす」手口も、日本の銀行や証券も愛用した合法的なもので、税務署もエンロンの利益が架空であることを把握していた。破綻する前の4年間、エンロンは法人税を1ドルも払っていない。つまり、エンロンの経理操作は「公然の秘密」であり、もとの法律でも摘発できたのである(現に摘発された)。
問題は情報が少ないことではなく、むしろ多すぎることだ。あまりにも膨大な情報をだれも把握できないため、その本質的な内容がかえって見えなくなるのだ。大事なのはペーパーワークではなく、監査人が経営陣の意図を的確に把握してチェックすることであり、手続きの煩雑化はかえってそのエネルギーをそぐ結果になる。この意味で、さらに膨大な文書を要求するSOX法は、問題を解決するより作り出すだろう。
日本について見ても、たとえばライブドア事件の経理操作は、監査人が認識しながら見逃したのであって、文書をいくら詳細にしても防ぐことはできない。逆に、50億円程度の粉飾で社長が逮捕され企業が上場廃止になるというのは、経営者にとっては大きなプレッシャーであり、これで十分(以上に)抑止効果はあるだろう。企業を統制する本質的なメカニズムは競争である。過剰な規制によって起業や株式公開を困難にする日本版SOX法は、新規参入による競争を阻害し、かえって日本経済の活力をそぐおそれが強い。
エンロン事件の詳細な記録を読めば、どちらの問いの答も否であることがわかる、とMalcolm Gladwellは書く。事件を最初に報じたWSJの記者は、ほとんど公表資料だけで問題の全容を明らかにした。粉飾に使われたSPE(特別目的会社)は、連結対象にこそなっていなかったが、その財務諸表はすべてSECのデータベースで公開されていた。問題は、その経理内容が正確でなかったことではなく、過剰に正確だったことである。SPEの数は3000にのぼり、それぞれの財務諸表が1000ページ以上あった。この300万ページの文書をすべて読んだ人はいない。
だから「違法行為はしていない」というスキリング元CEO――懲役24年の刑を言い渡された――の主張は、文字どおりには間違っていない。エンロンは合法的にSPEをつくり、合法的にその情報を開示したのである。不良資産をSPEに「飛ばす」手口も、日本の銀行や証券も愛用した合法的なもので、税務署もエンロンの利益が架空であることを把握していた。破綻する前の4年間、エンロンは法人税を1ドルも払っていない。つまり、エンロンの経理操作は「公然の秘密」であり、もとの法律でも摘発できたのである(現に摘発された)。
問題は情報が少ないことではなく、むしろ多すぎることだ。あまりにも膨大な情報をだれも把握できないため、その本質的な内容がかえって見えなくなるのだ。大事なのはペーパーワークではなく、監査人が経営陣の意図を的確に把握してチェックすることであり、手続きの煩雑化はかえってそのエネルギーをそぐ結果になる。この意味で、さらに膨大な文書を要求するSOX法は、問題を解決するより作り出すだろう。
日本について見ても、たとえばライブドア事件の経理操作は、監査人が認識しながら見逃したのであって、文書をいくら詳細にしても防ぐことはできない。逆に、50億円程度の粉飾で社長が逮捕され企業が上場廃止になるというのは、経営者にとっては大きなプレッシャーであり、これで十分(以上に)抑止効果はあるだろう。企業を統制する本質的なメカニズムは競争である。過剰な規制によって起業や株式公開を困難にする日本版SOX法は、新規参入による競争を阻害し、かえって日本経済の活力をそぐおそれが強い。
NHKを中心に準備が進められていた「サーバー型放送」が、どうやら始まらないうちから計画中止になったらしい。
これは最初から奇妙な計画だった。サーバー型といいながら、どこにもクライアントがない。放送といいながら、どの帯域を使って放送するのかわからない。2001年から総務省主導で検討が始まり、当初は「2004年から事業化」の予定だったのが2005年、2007年とずれこみ、それが「2007年中」になったあたりで消息を絶った。
最大の原因は、機能的にほとんど同じHDDレコーダーが家庭に普及してしまったことだ。サーバー型放送のHDDとの違いは、録画された番組のコピー回数やCMスキップまで制御する、あくまでも放送局中心のコンセプトだ。ところが放送局のコントロールできないHDDが先に普及してしまったため、今さらそれより不便なサーバー型放送の出る幕がなくなってしまったというわけだ。
もう一つの原因は、家電メーカーがネットTVの統一規格として「アクトビラ」を決め、放送局主導のサーバー型放送の受像機をつくってくれなくなったことだ。しかし、アクトビラのほうも2月からサービスが始まるというのに、こんなスカスカの公式サイトしかない・・・
それにしても、同じように最初から失敗が見えていたのに強行した地上デジタルに比べると、サーバー型を始める前に撤退したのは一歩前進ともいえる。進むを知って退くを知らぬ帝国陸軍以来の日本の役所(NHKを含む)の伝統の中では、これはもしかしたら画期的な出来事かもしれない。
これは最初から奇妙な計画だった。サーバー型といいながら、どこにもクライアントがない。放送といいながら、どの帯域を使って放送するのかわからない。2001年から総務省主導で検討が始まり、当初は「2004年から事業化」の予定だったのが2005年、2007年とずれこみ、それが「2007年中」になったあたりで消息を絶った。
最大の原因は、機能的にほとんど同じHDDレコーダーが家庭に普及してしまったことだ。サーバー型放送のHDDとの違いは、録画された番組のコピー回数やCMスキップまで制御する、あくまでも放送局中心のコンセプトだ。ところが放送局のコントロールできないHDDが先に普及してしまったため、今さらそれより不便なサーバー型放送の出る幕がなくなってしまったというわけだ。
もう一つの原因は、家電メーカーがネットTVの統一規格として「アクトビラ」を決め、放送局主導のサーバー型放送の受像機をつくってくれなくなったことだ。しかし、アクトビラのほうも2月からサービスが始まるというのに、こんなスカスカの公式サイトしかない・・・
それにしても、同じように最初から失敗が見えていたのに強行した地上デジタルに比べると、サーバー型を始める前に撤退したのは一歩前進ともいえる。進むを知って退くを知らぬ帝国陸軍以来の日本の役所(NHKを含む)の伝統の中では、これはもしかしたら画期的な出来事かもしれない。
最近、ホワイトカラー・エグゼンプションをめぐって議論が盛んになっている。こういうわかりにくい英語で議論するのも問題だが、状況もわかりにくい。政府部内でも、厚労省は通常国会に労働基準法の改正案を提出する方針だが、公明党ばかりか自民党からも慎重論が出ている。安倍首相は「少子化対策に役立つ」と発言して失笑を買ったが、その後慎重論に転じた。野党は全面対決の構えで、提出されれば対決法案になりそうだ。しかしこういう議論をしている人々は、ホワイトカラー、特に勤務時間の不規則な情報産業の労働者の実態を知っているのだろうか。
私がかつて勤務していたNHKは、おそらく日本でもっとも早く残業時間をとっぱらった企業のひとつだろう。1970年代から、記者には「特定時間外」という制度が適用され、一定時間の「みなし残業」によって賃金が支払われていた。それ以外の職種は、ほとんど同じような仕事をしている(私のような)ディレクターも含めて、普通の時間外規制のもとで勤務していた。
どっちが勤務実態に即しているかといえば、明らかに記者のほうだった。報道局の中でも、ニュース番組のようなデイリーの仕事をやっていると、残業はすぐ100時間近くになってしまう。こういう場合、NHKのタイムカードは、打刻していない部分を手書きで修正できるようになっていた(!)ので、法定残業時間(50時間)に収まるように修正する「サービス残業」が常態化していた。他方、教育番組のような暇な職場では残業はほとんどないので、逆に残業時間を手書きで水増しするのが普通だった。要するに、残業規制なんて形骸化しているのだ。
今では、テレビ局のような仕事は「裁量労働制」が適用できるから、もう少し柔軟になっているかもしれない。また他の業種でも、「機長全員管理職」で有名な日本航空のように、管理職にすれば残業規制をまぬがれるので、「店長」などの管理職を量産している企業が多い。私がいま代表取締役を務めている会社などは、全社員が請負契約である。こうすれば雇用にからむ余計な規制がなくなり、勤務時間は自由だし「在宅勤務」でもよい。このように雇用はすでに多様化しており、今度の制度改正もそういう実態に合わせて規制を整理する意味あいが強い。
これを「残業代ゼロ法案」などと呼ぶのは誤りだ。厚労省は、現在の残業手当が総額で減らない水準をめどにしているので、これはNHKの記者と同じ「残業手当の定額制」である。手当をなくしたら「長時間労働の歯止めがなくなる」と労働組合などは反対しているが、上にのべたように今でも歯止めなんかないのだ。実態的な歯止めは労使の力関係であり、労働分配率が低下しているのは、長期不況によって労組の交渉力が低下したためである。これは規制を強化しても変えられない。
いま日本で重要なのは、既存の雇用を守ることではなく、新しい雇用を創造することである。雇用規制は、社内失業している中高年を守る役には立つかもしれないが、新しい企業の雇用コストを高め、雇用創造を困難にする。労働市場から締め出されているニートを救済するには、雇用規制を弱めて少しでも労働需要を増やすことが重要だ。「弱者」の名を借りて労組が既得権を守ろうとするのは、おなじみのレトリックだが、労組の組織率が18%まで低下した今日では、彼らは労働者を代表してはいない。
労働を時間で測るのは、工業社会の遺物である。商品の価値が労働時間で決まるという労働価値説は100年以上前に否定されたのに、いまだに賃金が労働時間で決まっているのが時代錯誤なのだ。定刻に出勤・退勤するのは機械制工業のなごりであり、情報社会では人々は時計で同期する必要はない。
もちろん製造業では、いまだに資本設備をもつ資本家と労働者の力関係の違いは大きい。企業理論が教えるように、資本家が物的資本の所有権によって労働者を間接的に支配することが資本主義の根幹である。しかし、すべての労働者が資本設備(コンピュータ)をもつ情報産業では資本主義の前提が崩れ、個人がE2E的に契約ベースで生産を行うことが可能になった。
ここで知的生産の鍵になるのは、物的資本ではなく人的資本であり、それをいかに効率的に配置するかが労働生産性にとって決定的に重要だ。長期不況の間に、日本の労働生産性はG7諸国で最低になってしまった。このまま低生産性・高コストが続けば、雇用は中国に流出するだろう。「フラット化」する世界の中で日本の企業と労働者が生き残るには、むしろ率先して雇用の多様化を進める必要がある。
追記:結局、法案の提出は見送られた。財界も「残業代ゼロ法案」という名前が悪かったと反省しているようだが、「エグゼンプション」なんてわかりにくい名前で議論した厚生労働省が悪い。これを機会に、霞ヶ関のカタカナ言葉を整理してはどうか。
私がかつて勤務していたNHKは、おそらく日本でもっとも早く残業時間をとっぱらった企業のひとつだろう。1970年代から、記者には「特定時間外」という制度が適用され、一定時間の「みなし残業」によって賃金が支払われていた。それ以外の職種は、ほとんど同じような仕事をしている(私のような)ディレクターも含めて、普通の時間外規制のもとで勤務していた。
どっちが勤務実態に即しているかといえば、明らかに記者のほうだった。報道局の中でも、ニュース番組のようなデイリーの仕事をやっていると、残業はすぐ100時間近くになってしまう。こういう場合、NHKのタイムカードは、打刻していない部分を手書きで修正できるようになっていた(!)ので、法定残業時間(50時間)に収まるように修正する「サービス残業」が常態化していた。他方、教育番組のような暇な職場では残業はほとんどないので、逆に残業時間を手書きで水増しするのが普通だった。要するに、残業規制なんて形骸化しているのだ。
今では、テレビ局のような仕事は「裁量労働制」が適用できるから、もう少し柔軟になっているかもしれない。また他の業種でも、「機長全員管理職」で有名な日本航空のように、管理職にすれば残業規制をまぬがれるので、「店長」などの管理職を量産している企業が多い。私がいま代表取締役を務めている会社などは、全社員が請負契約である。こうすれば雇用にからむ余計な規制がなくなり、勤務時間は自由だし「在宅勤務」でもよい。このように雇用はすでに多様化しており、今度の制度改正もそういう実態に合わせて規制を整理する意味あいが強い。
これを「残業代ゼロ法案」などと呼ぶのは誤りだ。厚労省は、現在の残業手当が総額で減らない水準をめどにしているので、これはNHKの記者と同じ「残業手当の定額制」である。手当をなくしたら「長時間労働の歯止めがなくなる」と労働組合などは反対しているが、上にのべたように今でも歯止めなんかないのだ。実態的な歯止めは労使の力関係であり、労働分配率が低下しているのは、長期不況によって労組の交渉力が低下したためである。これは規制を強化しても変えられない。
いま日本で重要なのは、既存の雇用を守ることではなく、新しい雇用を創造することである。雇用規制は、社内失業している中高年を守る役には立つかもしれないが、新しい企業の雇用コストを高め、雇用創造を困難にする。労働市場から締め出されているニートを救済するには、雇用規制を弱めて少しでも労働需要を増やすことが重要だ。「弱者」の名を借りて労組が既得権を守ろうとするのは、おなじみのレトリックだが、労組の組織率が18%まで低下した今日では、彼らは労働者を代表してはいない。
労働を時間で測るのは、工業社会の遺物である。商品の価値が労働時間で決まるという労働価値説は100年以上前に否定されたのに、いまだに賃金が労働時間で決まっているのが時代錯誤なのだ。定刻に出勤・退勤するのは機械制工業のなごりであり、情報社会では人々は時計で同期する必要はない。
もちろん製造業では、いまだに資本設備をもつ資本家と労働者の力関係の違いは大きい。企業理論が教えるように、資本家が物的資本の所有権によって労働者を間接的に支配することが資本主義の根幹である。しかし、すべての労働者が資本設備(コンピュータ)をもつ情報産業では資本主義の前提が崩れ、個人がE2E的に契約ベースで生産を行うことが可能になった。
ここで知的生産の鍵になるのは、物的資本ではなく人的資本であり、それをいかに効率的に配置するかが労働生産性にとって決定的に重要だ。長期不況の間に、日本の労働生産性はG7諸国で最低になってしまった。このまま低生産性・高コストが続けば、雇用は中国に流出するだろう。「フラット化」する世界の中で日本の企業と労働者が生き残るには、むしろ率先して雇用の多様化を進める必要がある。
追記:結局、法案の提出は見送られた。財界も「残業代ゼロ法案」という名前が悪かったと反省しているようだが、「エグゼンプション」なんてわかりにくい名前で議論した厚生労働省が悪い。これを機会に、霞ヶ関のカタカナ言葉を整理してはどうか。
日本経団連の会長が御手洗富士夫氏になって初めて公表された政策ビジョン「希望の国、日本」が話題になっている。マスコミ的には、消費税の2%引き上げを求めたとか憲法改正を提言したとかいうのが関心を呼んでいるが、そのページを見てまず目につくのは「全文のPDF版が閲覧いただけます(印刷は出来ません/冊子版が後日発売される予定です) 」という表示だ(*)。
ふーん、経団連って金持ち企業の集まりだと思ってたけど、意外に金に困ってるんだ。自分たちのいちばん大事な主張を世の中に伝えるより、冊子を売って小金をもうけるほうが大事らしい(でもそんな冊子を買う人がいるんだろうか)。これって情報の流通を阻害することが「知財立国」だと思い込んでるキャノンの社長が考えたのかもしれないけど、こういう大事と小事の優先順位のおかしい人たちが提唱する「国のかたち」に説得力があるんだろうか・・・
全体に説教くさく、「精神面を含めより豊かな生活」とか「公徳心の涵養」などの精神論が多い。行財政改革に多くのページがさかれ、労働市場について「ビッグバン」を提唱しているが、実はもっとも重要なメッセージはここに書かれていないことにある。145ページの冊子の中に、日本経済の最大の課題である資本市場改革についての記述が1行もないのだ。
これについての経団連の考え方は、昨年12月に出た「M&A法制の一層の整備を求める」という提言に書かれている。それによれば「消滅会社が上場会社である場合、現金又は日本上場有価証券(あるいは日本の上場基準を満たす有価証券)以外を対価とする合併の決議要件は、たとえば特殊決議とするなど、厳格化すべきである」という。
ちょっとわかりにくいが、これは要するに三角合併ができないようにしてほしいということだ。三角合併とは、外資が日本企業を買収するとき、日本に子会社をつくって株式交換で買収することだ。2005年にできた会社法で認められたが、財界の反対で施行が07年5月に延期されていた。通常の企業買収は、株主の過半数が出席してその2/3が賛成する特別決議で成立するが、今度の提言ではそれを株主数で過半数かつ議決権で2/3以上の賛成が必要な特殊決議を条件とすることで、やりにくくしろというのだ。
彼らが外資を恐れるのは、日本の会社の資本効率が(したがって株価も)低いからだ。たとえばグーグルの株式の1割を使えば、株式交換で日立グループ885社を全部買収できる。行政には「聖域なき改革」を求め、貿易についてはFTAなどによる市場開放を求める財界が、自分の会社だけは聖域にして「鎖国」したいのである。対内直接投資のGDP比が世界で158位という日本で、「株価至上主義」の脅威を恐れているのは無能な経営者だけだ。
そもそも財界団体が3つもある状態さえリストラできない財界のおじさんたちが、改革を口にする資格があるんだろうか。こんな人々が経営者としてリードする「希望の国」の未来は絶望的だ。
(*)コメントで指摘されたが、このファイルは引用(一部コピー)もできないように制限がかかっている。しかしBrava! Readerなどの互換リーダーで読めば、コピーも印刷もできる。(追記)この冊子が発売された。定価は1260円だそうである。
ふーん、経団連って金持ち企業の集まりだと思ってたけど、意外に金に困ってるんだ。自分たちのいちばん大事な主張を世の中に伝えるより、冊子を売って小金をもうけるほうが大事らしい(でもそんな冊子を買う人がいるんだろうか)。これって情報の流通を阻害することが「知財立国」だと思い込んでるキャノンの社長が考えたのかもしれないけど、こういう大事と小事の優先順位のおかしい人たちが提唱する「国のかたち」に説得力があるんだろうか・・・
全体に説教くさく、「精神面を含めより豊かな生活」とか「公徳心の涵養」などの精神論が多い。行財政改革に多くのページがさかれ、労働市場について「ビッグバン」を提唱しているが、実はもっとも重要なメッセージはここに書かれていないことにある。145ページの冊子の中に、日本経済の最大の課題である資本市場改革についての記述が1行もないのだ。
これについての経団連の考え方は、昨年12月に出た「M&A法制の一層の整備を求める」という提言に書かれている。それによれば「消滅会社が上場会社である場合、現金又は日本上場有価証券(あるいは日本の上場基準を満たす有価証券)以外を対価とする合併の決議要件は、たとえば特殊決議とするなど、厳格化すべきである」という。
ちょっとわかりにくいが、これは要するに三角合併ができないようにしてほしいということだ。三角合併とは、外資が日本企業を買収するとき、日本に子会社をつくって株式交換で買収することだ。2005年にできた会社法で認められたが、財界の反対で施行が07年5月に延期されていた。通常の企業買収は、株主の過半数が出席してその2/3が賛成する特別決議で成立するが、今度の提言ではそれを株主数で過半数かつ議決権で2/3以上の賛成が必要な特殊決議を条件とすることで、やりにくくしろというのだ。
彼らが外資を恐れるのは、日本の会社の資本効率が(したがって株価も)低いからだ。たとえばグーグルの株式の1割を使えば、株式交換で日立グループ885社を全部買収できる。行政には「聖域なき改革」を求め、貿易についてはFTAなどによる市場開放を求める財界が、自分の会社だけは聖域にして「鎖国」したいのである。対内直接投資のGDP比が世界で158位という日本で、「株価至上主義」の脅威を恐れているのは無能な経営者だけだ。
そもそも財界団体が3つもある状態さえリストラできない財界のおじさんたちが、改革を口にする資格があるんだろうか。こんな人々が経営者としてリードする「希望の国」の未来は絶望的だ。
(*)コメントで指摘されたが、このファイルは引用(一部コピー)もできないように制限がかかっている。しかしBrava! Readerなどの互換リーダーで読めば、コピーも印刷もできる。(追記)この冊子が発売された。定価は1260円だそうである。
安倍氏のいう「戦後レジームからの脱却」は、GHQによって武装解除され、メディアや日教組によって精神的に去勢された「戦後民主主義」を否定し、ナショナリズムを復活させようというものだろう。これは彼が祖父から引き継いだ悲願だが、今の日本では妙に浮いたスローガンに見える。彼が憲法改正の前哨戦として力を入れた教育基本法の改正も、「愛国心」をめぐって野党とメディアは騒いだが、一般国民はほとんど関心をもたなかった。
戦後の日本政治では、奇妙にねじれた対立構造が続いてきた。他の西側諸国では、自由経済を掲げる保守政党と社会主義の影響を受けた社民政党(アメリカの民主党を含む)の政権交代があったのに対して、日本では政権交代がなかったため、社民的な対立軸が育たなかった。ところがGHQ民政局の行った社会主義的な戦後改革と憲法改正によって、空想的平和主義が国是になり、財政負担を軽減するためにこれを利用した吉田茂の「軽武装主義」が自民党の路線となった。いいかえれば、日本の保守主義はその中核に社民主義を抱え込んできたのである。
このねじれは当時から意識されており、安倍氏の祖父は憲法を改正してこのねじれを解消しようとしたが果たせず、逆に日米安保によって軍事的な独立が押さえ込まれた。しかもメディアの主流は社民で、東大法学部を中心とする知識人の主流も左翼だったため、「頭は左翼、下半身は保守」というねじれがずっと続いた。
社民主義は、世界的には1970年代から破綻し始めていたが、それを決定的にしたのは社会主義の崩壊だった。左翼という対立軸を失った保守から、新保守主義という対立軸が生まれ、英米の「小さな政府」への転換が成功したことで、対立軸は旧保守対新保守になった。日本でも『日本改造計画』を著したころの小沢一郎氏は、新保守への転換を志向していたが、彼の戦略が失敗に終わったため、日本の政治は対立軸を失ったまま漂流を続けた。
小泉政権の行った改革は、経済的には教科書どおりの新保守主義だったが、政治的には靖国参拝などで混乱したシグナルを出すにとどまった。安倍氏は政治的な面で新保守主義のカラーを出そうとしていると思われるが、もともと日本人はそういう理念には興味をもたない上に、こうした政治的な保守主義がリアリティを失ってしまっている。
保守主義は、経済的には小さな政府を求める一方、軍事や政治の面では強い国家を求める二面性をもっている。このうち経済的な自由主義はますます強まっているが、政治的なナショナリズムは世界秩序の<帝国>化によって有効性を失いつつあるというのが、佐々木毅『政治学は何を考えてきたか』の見立てだ。
日本でナショナリズムが復権しているように見えるのも、戦後ずっと続いた左翼的インターナショナリズムの反動にすぎない。文春系の雑誌の編集者と話していると、彼らのナショナリズムが朝日新聞などの主流メディアに不満をもつ読者をねらうマーケティングであることがよくわかる。こういう「すきま商法」としてのナショナリズムは、エスタブリッシュメントの社民主義が崩壊すると存在意義を失ってしまうのである。
小さな政府と強い国家がバンドルされていたのは、冷戦のなかでは自由主義を守るために対外的な軍備が必要だったからである。冷戦が終わった今、両者をアンバンドルし、国家の肥大化に政治的にも経済的にも歯止めをかけることが新たなアジェンダである。今ごろからナショナリズムを強めようとする安倍氏の「遅れてきた保守主義」は、空振りに終わるおそれが強い。
先日も少し紹介したが、最近、経済学者のブログでハイエクがちょっとした話題になっている。サックスが「ハイエクは間違っていた」と論じたのをイースタリーが批判し、さらにサックスが反論している。ポイントは、ハイエクが30年前に「スウェーデンのような福祉国家は社会主義国と同じ運命をたどるだろう」とのべたことだ。実際には、北欧諸国の経済的なパフォーマンスは良好で、日本でも「北欧型をめざせ」という議論がある。
しかしハイエクが生きていたら、こんな批判は一蹴しただろう。彼にとって社会主義の欠陥は経済的な非効率性ではなく、それが人間の自由を拘束すること自体だからである。彼は、非常に有名な1945年の論文で価格メカニズムの意味をこうのべる:
あまり知られていないことだが、ハイエクは最近、『感覚秩序』(1952)でニューラルネットの原理を初めて提唱した科学者として「再発見」されている。脳も社会も、特定の中央集権的な計画なしに進化した自生的秩序だというのが彼の哲学だった。それは単に「与えられた」資源を効率的に配分するといった目標を最大化するのではなく、変化する環境に柔軟に適応できる自由度に最大の特徴があるのだ。
しかしハイエクは、価格メカニズムが「自由放任」によって機能すると考えたわけではない。むしろ晩年の彼は、市場が機能するための法秩序のあり方を研究し、大陸法の伝統である実定法主義(legal positivism)を批判して慣習や前例に従って判事がルールをつくるコモンローが望ましいとした。その基礎になるもっとも重要なルールが財産権である。それは、個人がコントロールできる物的な領域に境界を設けることによって他人や国家の干渉を防ぎ、その領域の中で自由な意思決定を可能にするからだ。では、ハイエクは「知的財産権」をどう考えただろうか。彼は、1948年の論文でこう書く:
「市場原理主義」は金の亡者を賞賛するものだという通俗的な理解に反して、ハイエクは自由な社会の目的は富を最大化することではなく、自由を最大化することだと考えていた。実はこういう自由の概念は、彼のきらうヘーゲルやマルクスの自由論と似ている。マルクスにとっても、未来社会で重要なのは分配の平等ではなく、経済法則に支配される「必然(必要)の国」を脱却して「自由の国」を実現することだった。Economist誌によれば、晩年のフーコーも講義で「ハイエクを読め」と教えていたという。
私たちの社会が工業化の段階を過ぎて新しい段階に入ろうとしているとき、あらためて考える必要があるのは、社会の究極の価値とは何かということだろう。富は欠乏からの自由を得るための手段だったはずなのに、富の追求が目的になる資本主義社会は倒錯しているのではないか。まして著作者の富を守るために、他人の表現の自由を侵害する権利を認めてよいのだろうか。財産権を破棄することが自由な社会の条件だというマルクスの結論は間違っていたが、知的財産権についてはマルクスとハイエクの意見は一致するかもしれない。
しかしハイエクが生きていたら、こんな批判は一蹴しただろう。彼にとって社会主義の欠陥は経済的な非効率性ではなく、それが人間の自由を拘束すること自体だからである。彼は、非常に有名な1945年の論文で価格メカニズムの意味をこうのべる:
合理的な経済秩序の問題に特有の性格は、われわれが利用しなければならないさまざまな状況についての知識が、集中され統合された形では決して存在しないという点にある。[・・・]したがって社会の経済的な問題は、単に「与えられた」資源をいかに配分するかという問題ではない。それはだれにも全体としては与えられていない知識を[社会全体として]どう利用するかという問題なのである。これはおそらく、インターネットの自律分散の思想をもっとも早い時期に提唱したものだろう。集権的国家のヒエラルキー構造では、必要な知識は官僚や専門家に集中しているが、変化の激しい社会ではその全体像を知っている人はだれもいない。社会全体に分散した膨大な情報を分散したまま利用するには、情報をもつ人が自由に意思決定を行うようにするしかない。その分散した情報を価格というパラメータを媒介にして調整するしくみが市場である。
あまり知られていないことだが、ハイエクは最近、『感覚秩序』(1952)でニューラルネットの原理を初めて提唱した科学者として「再発見」されている。脳も社会も、特定の中央集権的な計画なしに進化した自生的秩序だというのが彼の哲学だった。それは単に「与えられた」資源を効率的に配分するといった目標を最大化するのではなく、変化する環境に柔軟に適応できる自由度に最大の特徴があるのだ。
しかしハイエクは、価格メカニズムが「自由放任」によって機能すると考えたわけではない。むしろ晩年の彼は、市場が機能するための法秩序のあり方を研究し、大陸法の伝統である実定法主義(legal positivism)を批判して慣習や前例に従って判事がルールをつくるコモンローが望ましいとした。その基礎になるもっとも重要なルールが財産権である。それは、個人がコントロールできる物的な領域に境界を設けることによって他人や国家の干渉を防ぎ、その領域の中で自由な意思決定を可能にするからだ。では、ハイエクは「知的財産権」をどう考えただろうか。彼は、1948年の論文でこう書く:
私は、ここで発明の特許権、著作権、商標などの特権や権利を考えている。こうした分野に有体物と同じ財産権の概念をまねて適用することが、独占がはびこるのを大いに助長しており、この分野で競争が機能するには抜本的な改革が必要であることは疑問の余地がないように思われる。知識をもっている人の物的な財産を守ることで意思決定の自由を確保する財産権とは逆に、特許や著作権は国家が知識の利用を集権的にコントロールすることによって、その自由な利用をさまたげている(cf. Wu)。それを正当化するのに、権利者の利益を守るという(疑わしい)理由をつけることは間違っている。自由な言論は自由な社会の究極的な目的であって、経済的な利益に従属する手段ではないからだ。
「市場原理主義」は金の亡者を賞賛するものだという通俗的な理解に反して、ハイエクは自由な社会の目的は富を最大化することではなく、自由を最大化することだと考えていた。実はこういう自由の概念は、彼のきらうヘーゲルやマルクスの自由論と似ている。マルクスにとっても、未来社会で重要なのは分配の平等ではなく、経済法則に支配される「必然(必要)の国」を脱却して「自由の国」を実現することだった。Economist誌によれば、晩年のフーコーも講義で「ハイエクを読め」と教えていたという。
私たちの社会が工業化の段階を過ぎて新しい段階に入ろうとしているとき、あらためて考える必要があるのは、社会の究極の価値とは何かということだろう。富は欠乏からの自由を得るための手段だったはずなのに、富の追求が目的になる資本主義社会は倒錯しているのではないか。まして著作者の富を守るために、他人の表現の自由を侵害する権利を認めてよいのだろうか。財産権を破棄することが自由な社会の条件だというマルクスの結論は間違っていたが、知的財産権についてはマルクスとハイエクの意見は一致するかもしれない。
ふだんはほとんどテレビを見ないが、正月ずっと家にいたので、いやでもテレビを見てしまう。しかし特に民放の番組は、ほとんど5分と見ていられない。せりふを字幕でなぞり、映像を見ればわかることをコメントでなぞり、ビデオ素材の内容をスタジオで「気の毒ですねぇ」などとなぞる。このしつこく相槌を打つ傾向はワイドショーでもっとも顕著だが、最近はニュース番組にも広がり、「報道ステーション」などはスタジオの時間の半分ぐらいはキャスターの個人的な感想だ。
少なくとも私がテレビの仕事をしていたころは、字幕は絵を殺すので最小限にしろと教育された。特に日本人の言葉に字幕を入れるのは、方言が聞き取りにくい場合など、ごくまれにあったが、なまりをバカにしているように受け取られるので、なるべくやってはいけないことだった。ビデオからスタジオに返したとき余計な感想をいうのは野暮で、NHKの番組の受けコメントはたいてい演出サイドで書いた補足情報である。いつも勝手に余分な受けをつけた畑恵アナウンサーは、ニュースを下ろされた。
これって実は、男の感覚なのである。男同士で、たとえば困っているとき「気持ちはわかるよ」などと相槌ばかり打ってもらってもしょうがないし、そういう余計なことはいわないが、女同士の会話を横で聞いていると、この種の無意味な相槌が実に多い。この特徴はメディアでも顕著で、立花隆氏は女性週刊誌のアンカーをつとめていたころ、記者の書いた記事に「なんと悲しい話だろう」といった形容詞をたくさんつけて読者を感情移入させるのが編集の仕事だったと語っていた。
これに対して新聞や男性週刊誌は重複や感情移入をきらい、対象と距離を置いて皮肉な見方をするのがジャーナリストとされている。テレビでも、NHKの番組はこういう男の感覚でつくられているが、これは供給側の論理だ。視聴者の多数派である女性は情報よりも情緒を求めているので、それに忠実につくられた冗漫で大げさな民放の番組のほうが日本人の感覚を正直に表現しているのだ。ヒトラーは「大衆は女だ」と言ったというが、これは彼が大衆社会の本質を把握していたことを示している。
同じ傾向は、2ちゃんねるなどの匿名掲示板にも見られる。たとえば「死ぬ死ぬ詐欺」のスレでは同じ内容の攻撃的な言葉が繰り返され、それを制止する意見は出てこない。経済板では「構造改革よりリフレだ」といった意見ばかり集まり、論争が成り立たない。こういう現象は「サイバーカスケード」などと呼ばれ、インターネット上の言説の特徴である。このように群れる連中のほとんどは内容を理解していないが、問題は内容ではない。彼らは、自分の同類が世の中にたくさんいることを確認して慰めを得ているのだ。マクルーハンが言ったように、メディアはマッサージなのである。
少なくとも私がテレビの仕事をしていたころは、字幕は絵を殺すので最小限にしろと教育された。特に日本人の言葉に字幕を入れるのは、方言が聞き取りにくい場合など、ごくまれにあったが、なまりをバカにしているように受け取られるので、なるべくやってはいけないことだった。ビデオからスタジオに返したとき余計な感想をいうのは野暮で、NHKの番組の受けコメントはたいてい演出サイドで書いた補足情報である。いつも勝手に余分な受けをつけた畑恵アナウンサーは、ニュースを下ろされた。
これって実は、男の感覚なのである。男同士で、たとえば困っているとき「気持ちはわかるよ」などと相槌ばかり打ってもらってもしょうがないし、そういう余計なことはいわないが、女同士の会話を横で聞いていると、この種の無意味な相槌が実に多い。この特徴はメディアでも顕著で、立花隆氏は女性週刊誌のアンカーをつとめていたころ、記者の書いた記事に「なんと悲しい話だろう」といった形容詞をたくさんつけて読者を感情移入させるのが編集の仕事だったと語っていた。
これに対して新聞や男性週刊誌は重複や感情移入をきらい、対象と距離を置いて皮肉な見方をするのがジャーナリストとされている。テレビでも、NHKの番組はこういう男の感覚でつくられているが、これは供給側の論理だ。視聴者の多数派である女性は情報よりも情緒を求めているので、それに忠実につくられた冗漫で大げさな民放の番組のほうが日本人の感覚を正直に表現しているのだ。ヒトラーは「大衆は女だ」と言ったというが、これは彼が大衆社会の本質を把握していたことを示している。
同じ傾向は、2ちゃんねるなどの匿名掲示板にも見られる。たとえば「死ぬ死ぬ詐欺」のスレでは同じ内容の攻撃的な言葉が繰り返され、それを制止する意見は出てこない。経済板では「構造改革よりリフレだ」といった意見ばかり集まり、論争が成り立たない。こういう現象は「サイバーカスケード」などと呼ばれ、インターネット上の言説の特徴である。このように群れる連中のほとんどは内容を理解していないが、問題は内容ではない。彼らは、自分の同類が世の中にたくさんいることを確認して慰めを得ているのだ。マクルーハンが言ったように、メディアはマッサージなのである。

私は、ネットワークをAll-IPにするというコンセプトに反対しているわけではない。私が日経新聞の「経済教室」で「次世代ネットワークのイメージ」として"everything over IP"の図を描いたのは、1998年の9月だった。同じ年の7月、ジュネーブで行われたINET'98のキーノート・スピーチで、Vint Cerfが"everything on IP"を提唱したといわれている。
同じ時期、NTTは"everything over ATM"による「情報流通企業」構想を掲げた。ここではIPはATM交換機で行われるサービスの一つであり、NTTのミッションは「ベストエフォート」のインターネットを脱却し、帯域保証を実現することだった。それから8年あまりたった今、NTTがようやくAll-IPのNGNを中期経営戦略の柱にすえたのを見ると、今昔の感がある。
しかしインターネットの現実を見ると、"everything over IP"の実現は意外にむずかしい。データと音声についてはいいとして、問題は映像である。NTSCの映像を流すには、H.264でエンコードすれば1Mbpsぐらいあればいいから、ADSLでもアクセス系の帯域は十分だ。しかしGyaoなどの現状をみると、ユーザーが増えるにつれてサーバの負荷が大きくなり、ほとんどユーザー数に比例してサーバを増強しなければならない状況だという。つまりオンデマンド配信については、ボトルネックは帯域ではなくサーバの容量なのだ。「ムーアの法則がすべてを解決する」というマントラは、ここではまだ実現していないのである。特に配信の対象が数百万世帯となるとオンデマンド配信は不可能だから、ニュースやスポーツなどリアルタイムで多くの人々が見るコンテンツについては、放送型が今後とも残るだろう。
もちろんIPでもマルチキャストは可能だから、問題はテレビのSTBに(ケーブルテレビと同様)RFで伝送するかIPパケットで伝送するかという差だけになる。どちらも技術的には可能だから、ここから先は技術というよりもビジネスの問題である。すでにSTBが百万台単位で普及し、技術が枯れていてコストも安いという点では、RFがまさる。これはスカパーとNTT東西がやっている「スカパー!光」や関西電力系の「イオ」などが採用しており、アメリカではベライゾンのFiOSがこの方式だ。しかし、ここでは一つの回線にIP(通信)とRF(放送)という2種類の多重化方式が必要なので、NTTは波長多重、関電はなんと2芯の光ファイバーを使っている。いずれも光でなければ不可能な方式で、どこまで一般化するかはわからない。
インフラに依存せず、All-IPのアーキテクチャとも両立するという点では、IPマルチキャストのほうがすぐれている。世界的には、ほとんどのIPTVがこれである。しかしこの方式の弱点は、IPのコーデックが標準化されていないため、STBがバラバラだということだ。おまけに、IPマルチキャストは放送ではなく「自動公衆送信」だと放送業界が難癖をつけているため、今度改正された著作権法でも「当該放送区域内」に限って地上波放送の再送信が許諾されるというハンディキャップが残る。
長期的にはSTBが標準化されれば、映像もIPTVに統合され、"everything over IP"が実現すると予想されるが、短期的にはRFも混在するだろう。IPTVの優位性を訴求するには、CSやケーブルテレビよりも低料金で多チャンネルを提供できるかどうかが重要だ。ところがNTTのNGNは、それと関係ない光ファイバー化とバンドルされているのでややこしい。実際には、NGNは現在のBフレッツを置き換えてIPv6を使った閉域網になり、アクトビラなどのアプリケーションも「フレッツ・スクウェア」のような会員制サービスになるのだろう。しかし光だけの閉域網では顧客ベースが小さくなってコストが上がり、採算がとれなくなるおそれが強い。
NGNに意味がないといっているのではない。"Everything over IP"にして交換機をルータに代えることによるコスト削減効果はきわめて大きいので、むしろ加速すべきだ。そのためにはIP化と光化をアンバンドルし、SIPもIPv6もやめてオープンなインターネットにし、BTのようにAll-IPでコストを削減することを最優先の経営戦略にしたほうがいいのではないか。それによって、たとえば通信料金が半分になるとかIP電話がすべて無料になるとかいうわかりやすいメリットがあれば、NGNはすぐ普及するだろう。ただ、これでは何が「次世代」なのかよくわからないが、交換機を全廃することは十分大きな世代交代だと思う。
戦後、先進国が行った途上国の開発援助の総額は2.3兆ドルにのぼるが、それによってアフリカ諸国の一人あたりGDPは半減した。ラテンアメリカ諸国のGDPは、世銀が融資しはじめてから減少した。旧社会主義諸国を市場経済化しようとして行われた「ショック療法」によってGDPは激減し、ロシアの一人あたりGDPはいまだに社会主義時代に及ばない(この点では著者の前著もおもしろい)。
政府に資金援助しても、途上国の貧困は改善されない。それは政府が腐敗している場合だけではなく、民主的な国でも同じだ。政府が金をばらまくこと自体が、働かないで政府に頼るモラルハザードをまねいてしまうからだ(日本の公共事業と同じ)。著者は、世銀や国連のように外部の「顧問」が中央集権的な開発計画を途上国の政府に押しつける手法を批判し、現地の住民の話を聞いて改良を重ねる断片的アプローチを提案する。
特に印象的なのは、エイズ対策がなぜ失敗したのかについての分析だ。エイズ対策資金の大部分はエイズ治療薬に使われるが、これは患者の発症を数年おくらせる効果しかない。しかも感染者は発症するまでの間にHIVをまき散らすので、治療薬はエイズ感染を悪化させるのである。コンドームや性教育などによって感染を予防する対策は、治療薬よりはるかに安価で効果が高いが、アメリカやカトリック系の国はコンドームに開発援助が使われることをきらう。こうした愚かなキリスト教道徳のおかげで、毎年何十億ドルもの援助が浪費されているのである。
だから途上国の貧困を救うのは多額の開発援助ではなく、貧困の現場に立ち会って住民の望むものを把握し、それを地域の中で自律的に実現するしくみをつくることだ。それは計画的アプローチのように壮大ではなく、ロック・スターのような華やかさもないが、それよりもはるかに安価で実用的だ。ハイエクが指摘したように、何が必要かは現地の住民が一番よく知っているのだから、彼ら自身の知識を活用することが最善の策なのである。
追記:著者とサックスの因縁は、著者が『貧困の終焉』を酷評したころから始まっており、最近もサックスが「ハイエクは間違っていた」と論じたことを著者が「Salma Hayekのことか」とまぜかえしている。

ひも理論が正しいとすると、私たちの宇宙は10-500の確率で当たった宝くじみたいなものであり、その中で生命の出現する確率も同じぐらい低い。地球上のすべての生命が基本的に同じDNAを持っているところから、生命が出現したのは50億年間で1回だけだったと考えられています。そこから人類のような高等動物が進化するのもきわめてまれだから、私がいま存在しているのは、宝くじに何兆回も続けて当たるぐらいの幸運です。
そんな偶然があるはずはない、それはだれかがこの宇宙を設計した証拠だ――と考えるインテリジェント・デザインは自然な発想です。ドーキンスの"The God Delusion"がアメリカで大きな話題になっていますが、それも科学への「信仰告白」でしかありません。サスキンドの本の副題も"String Theory and the Illusion of Intelligent Design"ですが、インテリジェント・デザインの批判は半ページぐらいしかない。
こういう発想は、西洋の人間中心主義のような気がします。宇宙が人間に理解可能なものだという前提が、そもそも疑わしい。宇宙が物理学の法則で理解できるためには、それが到るところで一様だという条件が必要ですが、それ自体が(インフレーションの生み出した)偶然の産物かもしれません。人間に理解できるのは、この宇宙だけかもしれないのです。
The most incomprehensible thing about the world is that it is at all comprehensible. - Albert Einstein