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外国人参政権法案のあやうさ |
☆★☆★2010年02月02日付 |
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「日本人と同じように生活して税金も払っているんだし、参政権ぐらい与えてもいいんじゃないの」という声もあった。しかし民主党が政権を取りその成立を急ぐ様相が濃くなると「待てよ」と空気が変わってきたのが「外国人参政権法案」。言うまでもなく永住外国人に対し地方参政権を付与しようという、友愛的≠ネ法案だが、審議にゆっくり時間をかけるでもなく急いで成立させようという同党の意図は何なのかと疑義が深まったのは当然だろう。国家百年の大計を誤らせてはならない。周囲にも反対の声が強まっている。国民には理屈ではなく、その本質が本能的に理解できるからだろう。 この法案は以前から成立が目論まれてきたが、自民党や保守陣営、一部知識人などの猛反対に遭って阻止されてきた。なにしろ、参政権は国民が政治に参加する固有の権利であり、それを外国人にも与えるというのは明らかに憲法違反である。それもさることながら、日本人としてでなく外国人としてのアイデンティティーを重んじる民族にとって、そのような権利がどのような意味を持つのか。小生が同じ立場にあってそう問われたら絶対に否定するだろう。それが民族の矜恃というものでなかろうか。 もし地方参政権のみならず中央参政権、いや被選挙権も必要だというならば帰化の道が与えられている。実際多くの外国人が帰化し、日本人としての生活を選んでいる。そもそも日本国自体が渡来人との混血を繰り返して成立している国であり、一世、二世はともかく、その出自と祖国への思いを三世、四世さらにその後へも伝えたいというなら、帰化しても故国の姓と名を残す方法もある。そういう日本人も「日系○○人」などと、こだわる傾向があるが、日系三世、四世以降ともなると「祖父は、あるいは父は日本人だけど私はこの国の人間」と大半が答えるだろう。ただ苗字には「イノウエ」だの「フクヤマ」だのと出自が残されている。それが二つの国への忠誠ということかも。 民主党はマニフェストにこの外国人参政権を成立させるとは謳わなかった。しかし政権樹立後、後ろ手に隠し持っていたかのごときこの法案をちらつかせ始めた。特にご執心なのが小沢一郎幹事長で、しきりにその成立をほのめかし、訪韓時にはいますぐにでも国会を通過させたいような口ぶりだった。その是非はともかく、そもそもこうした重要な事項について国外で、しかも要人に言質を与えるような言動は慎むべきだろう。 まともな論戦もせずにこんな重要法案がすんなり通過、成立した後になって後戻りできないようなことになったら一大事と、事の重大さに気付いた地方議会で同法案成立に反対する決議が相次ぎ、一時賛成の決議をしながらも撤回する議会が増えているというのは、時間の経過によって多くの問題をはらんでいることがわかりかけてきたからであろう。 かって賛成の急先鋒だった中央大の長尾一紘教授が、その後自説は誤りだったと反省していることが先月末の産経新聞で報じられていたが、それは元々博愛平等の精神がなせるわざだったろう。しかし、日本の将来に混迷をもたらしかねない事態も予想されるようなこの権利を、十分に玩味もせず軽々と付与することの重大さを考えての翻意だったと思う。 隣国と地続きで国境と接することのない日本は、紛争が少ないことが習い性となり、万事について疑いを抱かず、相手を信じ、かつこちらに善意があれば相手も善意で応えるだろうと思うようなおおらかなところがあるが、そういうおおらかさを大事にするためにも、永住外国人に対し、「参政権などと言わず、日本人となって共に生きよう」と呼びかける方がよっぽど友愛に満ちていると思うがいかがだろうか。(英) |
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季節の移ろい敏感に |
☆★☆★2010年01月31日付 |
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今年もあっという間に一カ月が過ぎようとしている。新しいカレンダーも月綴りのものであれば、一枚目がめくれて明日から「如月」となる。 会社のデスクの背後、壁に掲げた「マイカレンダー」。今年のものは、なかなかの優れもので、重宝に使わせていただいている。大船渡市内にある福祉関係の事業所からいただいた、数字だけのシンプルなものだ。 どこが使い勝手がいいかというと、日付の下にちょっとしたメモ書きスペースがある。その中に、「二十四節季(にじゅうしせっき)」はもとより、「農事暦」「きょうは何の記念日」といった雑学≠ェ詳しく紹介されている。 例えば、一月なら、三日が「ひとみの日」、五日は「小寒、いちごの日、囲碁の日」、七日が「七草、つめ切りの日」、九日「とんちの日」、十九日「のど自慢の日」、二十二日「カレーライスの日」、二十五日には「日本最低気温の日」といった具合だ。 一月九日が「いっきゅう」で「とんちの日」ぐらいは知っていたが、語呂合わせ的なものも少なくない。「のど自慢の日」は、昭和二十一年のこの日、NHKラジオの「のど自慢素人音楽会」が開始された日という。 ラジオ番組で、「今日は何の日」というコーナーによく耳を傾ける。記念日や季節の行事を歳時記に絡めて「記事ネタ」の参考にするためだ。常々、先輩記者から「季節の移ろいに敏感になれ」と教えられてきた。 「二十四節季」は、季節の目安として考案されたものだが、あまり馴染みがないように見えてわれわれの日常と密接な関係がある。 例えば、立春の時には「暦の上では春だが、まだ風が冷たく…」などの時候のあいさつにしたりする。最近は異常気象でややズレてきてはいるが、仕事の上だけでなく個人的にも参考になる。 人間は、自然と深くかかわってきた。昔の人々の生き方や暮らし方は、自然に逆らわず、自然をうまく利用した。その季節になれば種まきをし、収獲した。季節を知る能力は現代よりはるかに優れていた。 現代でも、季節の移ろいに敏感なのは俳人ばかりではない。漁業、農業に携わる人はもちろん、商売をやる人も気温の変化、記念日にちなんだセールなど、独自のカレンダーを持っている。季節に敏感でなければ、世の中うまく生きていけないからだ。 もう一度、「マイカレンダー」に目をやる。これまた、サラリーマンの習性というヤツで、二月以降のカレンダーの赤い配列が気になる。 三連休以上は、一月には一回(九、十、十一日)あったが、二月はない。一枚一枚ページをめくってみる。三月が「二十、二十一、二十二日」、五月のゴールデンウイークは五連休「一〜五日」。ハッピーマンデー制度で七月、九月、十月にもそれぞれ三連休があり、今年は計六回。それでも昨年より一回少ない。 昨年は、高速道路料金のETC割引が始まったこともあり、週末には近県へ出かけたり、他県から気仙を訪れた人も多かったようだ。 一方で、雇用環境や経済情勢は依然として厳しい状況が続いており、ゴールデンウイークや年末年始といった長期休暇も旅行を控えるなど節約志向が高まっている。「連休があっても先立つものがないと」と、単純に喜べない複雑さもある。 さて、二月は三日の節分、豆まきが終わると翌四日は立春。暦の上では寒中もここまで。旧正月の十四日は日曜日、バレンタインデーと重なる。 十九日の「雨水」は農事暦に「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」と記されている。昔から農耕の準備を始める目安とされた。 今年はカレンダーのおかげで、季節の移ろいに敏感になりそうだ。(孝) |
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ナゾ秘める前方後円墳 |
☆★☆★2010年01月30日付 |
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国際宇宙ステーションに長期滞在している野口さんのように、人類が宇宙に飛び出すようになった今日でも、宇宙の果てはどうなっているのかとか、その宇宙をつくっている物質や反物質は何から出来ているのだろうかという問いには、未だ定説がない。 まして顕微鏡とか天体望遠鏡といった観測機器さえない時代には、人々は直観的に考えるしか方法がなかった。霊魂とか精霊とかが生き生きと感じられた時代にあって、自然や動植物などを観察する中から生まれた考えの中に、「両儀(りょうぎ)」がある。 つまり陰陽(いんよう)のことで、夜空に輝く星々も、そして地上のあらゆる存在も、すべてそのバランスで成り立っているとの考え方だ。太陽と太陰(月)、天と地、山と海、男性と女性、左と右など。また、陽を奇数とすれば陰は偶数、一を男性とすれば二は女性、一が天だと二は地となる。 この陰と陽がさらに二つに分かれ、太陽と少陽、太陰と少陰の四象(ししょう)となる。四象は春夏秋冬にも当てはめられるが、四象がさらに陰陽二つずつに分かれて八卦が生じた。このため八卦占いは、陰陽を基本に宇宙のことわりも、その一部である人間の消長や運勢も見直すことができると考えられた。 八卦占いが当たるかどうかは別にして、陰陽説の歴史は古い。紀元前十世紀の中国では、皇帝伏義(ふくぎ)と妃の女禍(じょか)のカップルが伝わっている。日本では全く未開の時代に、皇帝はコンパスを、その妃は定規(じょうぎ)を持った姿で描かれたという。 コンパスが意味するものは円であり、太陽(日)であり、天であり、男性となる。一方の定規は方(方形)であり、太陰(月)であり、地であり、女性となる。つまり古代の中国では、天も地も、この男女すなわち陰陽二神によって生み出されたと考えていたことになる。 日本の国生み神話はイザナギとイザナミ二神によるとの『古事記』の原話ともなりそうな話だが、この天地陰陽を象徴する巨大構造物として、日本には「前方後円墳」がある。文字通りに解釈すると、手前が方すなわち四角い方形、後ろ側が丸い円形の墳墓を意味する。 数ある古墳の中でも仁徳(にんとく)天皇陵は有名だが、推理小説の第一人者だった松本清張は、円墳と方墳の並び方は「前後」ではなく、本来は「左右」でなかったかとの仮説を披露している。もし前方後円墳が左方右円墳≠ネら、皇帝とその妃が左右に並んで宇宙を設計したとされる中国古代の伝承と一致することになる。 従来の考えでは、手前の方形が塚、そして後方の円形部分が墳墓全体の中心的な存在との見方だ。しかし、松本説を拡大解釈すると、前方後円墳の実体は左に陰と女性を意味する方形墳墓、右に陽と男性を意味する円形墳墓を配置した、古代天皇家の夫婦墓≠ニなりはしまいか。 新たな古代ロマンが広がる仮説ではあるが、この陰陽を忠実に反映した建築物には多宝塔(たほうとう)がある。お釈迦様が法華経を講話した時、地上から湧き出たという伝説があり、内部に釈迦像や多宝如来像などが安置される。 多宝塔の構造は、大層となる一階部分が方形、上層となる二階が円形だけに、「天・円」の男性と、「地・方」の女性でこの世、ひいては全宇宙を表現したとも解釈できる。 ともかく、古代中国で認識された陰陽説に基づいて千年の古都&ス安京も造営された。その鬼門(東北の方角)を守る意味で陰陽師(おんみょうじ)が活躍。さらに新たな東北経営、ひいては気仙の正史登場にもつながっていったことを考える時、陰陽説は単に過去のものとして見過ごすことのできない意味もある。(谷) |
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救缶鳥プロジェクト |
☆★☆★2010年01月29日付 |
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平成七年一月十七日に阪神淡路大震災が起き、六千人を超す尊い命が失われた。あれからはや十五年。今月十三日(日本時間)には最貧国と言われる中南米のハイチを巨大地震が襲い、十万人以上ものかけがえのない命が奪われた。 関連するニュースを見聞きし、昨年十二月に東京で活躍する気仙出身の方から届いた「救缶鳥プロジェクト」と題されたブログを思い出した。 「『You“CAN”savetheworld あなたの救缶鳥が世界を救う』という救缶鳥プロジェクトをしっているかな?」 こんな書き出しで始まるブログを読み直し、改めて調べてみた。 救缶鳥プロジェクトは栃木県那須塩原市の株式会社パン・アキモトが昨秋スタートさせた。平成七年に開発した「パンの缶詰」を非常食として備えてもらい、その缶詰パンを世界の飢餓救済活動にもつなげるという企画だ。 一般向けには現在、防災備蓄用二種類を含めると十六種類の缶詰パンを製造・販売している。賞味期限は通常用が十三カ月、防災備蓄用は三十七カ月。 その缶詰パンをもとに生まれたのが救缶鳥だ。一缶が通常の缶詰パンの二倍の二百c入り(菓子パン約三個分)で、味はオレンジとレーズン、イチゴの三種類。防腐剤は使っていない。 中のパンは生地を入れて焼き上げ、すぐ蓋を巻き締めるために焼きたて状態で入っており、柔らかく、しっとり感がある。蓋を開ける前にお湯などで温めると焼きたての風味が味わえる。 さて、ここからがプロジェクトの真骨頂だ。救缶鳥の賞味期限は三年。二年間は有事や震災時の非常食として備蓄してもらい、利用しなかった残りの分は賞味期限内に回収し、日本国際飢餓対策機構などを通じて飢餓に苦しむ世界の人々のもとに届けられる。 国内の配送と回収はヤマト運輸が担当。その費用も売価に組み込まれており、回収は再備蓄用を納品する時に行う。救缶鳥を再購入する場合は値引があり、支援活動参加者には感謝状も贈られる。 このプロジェクトはアキモトの秋元義彦社長が阪神淡路大震災の折、何か役立つことはないかと考え、二千個のパンを送ったのがきっかけだったという。 世界では今、六人に一人が飢えに苦しみ、五歳未満の子どもが六秒に一人ずつ命を失っているという。同社はホームページでこう訴えている。 「アキモトのパンで、世界中に元気と笑顔を広めたい。私たちの夢に協力してください」 我が家でも非常時に備えて防災用品を備蓄している。前にも書いたが、私はその気になりやすい人間である。 「よし、うちでも救缶鳥を防災用品に加えよう!」 そう決意した。 そこまでは良かったのだが、数量と価格を見て決意が鈍った。なにしろ十五缶入りで標準希望価格「一セット一万二千円(税込)」なのだ。少人数家庭の庶民には数量といい金額といい少しばかり手が出にくい。個人購入は今後の検討課題とし、大変恐縮だが、今回は救缶鳥プロジェクトの紹介にとどめさせていただくことにした。 アキモトはホームページで備蓄対象として自治体や企業、学校、マンションなども挙げている。町内会単位での備蓄もいいのではないかと個人的には思う。非常時に備えるとともに、飢餓に苦しむ人々を救うことができる。趣旨に賛同する方々には可能であればご検討をお願いしたい。 (下) ◇ ◇ 前回紹介した漢字の読み=@「虎杖」(いたどり)A「虎蝦」(とらえび)B「虎魚」(おこぜ)C「虎斑木菟」(とらふずく)D「虎鶫」(とらつぐみ)E「猟虎」(らっこ)F「御虎子」(おまる)G「虎落」(もがり)H「虎刺」(ありどおし)I「虎列刺」(コレラ) |
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続・平氏の末裔「渋谷嘉助」J |
☆★☆★2010年01月28日付 |
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日露戦争後、陸軍御用達の渋谷商店(東京・日本橋)は、組織を合資会社とし、事業が一層拡大した。 社長の渋谷嘉助は業務のいっさいを引き続き取り仕切っていたのだが、その時期を待っていたかのように自らの英断で大転換を図る。それが実に見事なのである。 渋谷嘉助は、父親の弟である渋谷忠兵衛が創業した渋谷商店の後継者となり、子どもがなかった忠兵衛に養子として迎えられた経緯がある。 その後に忠兵衛に実子の権之助が生まれ、渋谷嘉助は、忠兵衛が亡き後、父親代わりとなって幼い権之助を育てた。権之助が成人となった時、それまで経営していた渋谷商店の全権を権之助に譲ったのであった。日露戦争が終わった時のことだった。 渋谷商店を大きくしたのは渋谷嘉助の功績によるものだが、「私嘉助の功績によるものだが、「私の御恩報じだ」と言って、近親が反対する声も聞き入れなかったという。 その時に、渋谷商店の経営を任されて、叔父のおかげで人並みに仕事をすることができた。その恩に報いることをしなければならないといい、昔は叔父の店だったので、「譲ったのではない。返したのですよ」と言った。 渋谷嘉助でなければできないことだと周りは評した。 渋谷商店の全権を義弟に譲った後、渋谷嘉助は、国家に貢献するため、生きている間は働き抜くことを決め、当時あまり手つかずにあった新山開発に乗り出す。 渋谷商店を経営したころは、各方面の事業にも関係し、十数社の重役をしていた。その際に、国家的貢献ということを何よりも先に考え、第一義とした。 次に、百年後のことを考え、有利な事業であっても永続性のないもの、いつまでも国家に貢献しないものにはいっさいかかわらなかった。自己の利益を二の次としたため関係した事業の中には経営難が伝えられたものもあったとされる。しかし、持ち前の不撓不屈の精神でいつの間にか軌道に乗せていった。 明治二十五、六年ごろから、暇さえあれば山を歩いて、至る所で新山の開発に努めた。それもすべては国家のためであり、全財産を投げ出す覚悟で開発にあたった。 積年の努力が実り、大正七年に北海道の大鉱量の鉄山をついに発掘し、巨利がもたらされたという。北海道において鉱量三千万トンともいわれた大炭鉱を当時所有していた。 渋谷商店を義弟に譲り、渋谷鉱業を創業した渋谷嘉助は、すでにその当時、大船渡湾に面した弁天山で石灰石の採掘も行っていた。 石灰石は製鉄、製鋼、製紙の原料として国内の工場に供給され、生産額は年間十万トンを超え、県下の鉱物産出額の第一位を占めつつあったと記されている。 無尽蔵といわれる石灰石は、品質の良さと運搬上の地勢の利において国内一と、当時から称されたという。渋谷嘉助の血と汗によってもたらされた遺産の一つが、大船渡の地にあるということである。(ゆ) |
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気にする小さいこと |
☆★☆★2010年01月27日付 |
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「ちっちゃいことは〜気にするな、それ!ワカチコワカチコ〜♪」と振り付けながら歌う、お笑い芸人・ゆってぃのネタ(ギャグ)がある。中途半端な長髪にスパンコールのついたヘアバンドを着け、銀色のシャツ、白いズボンといった出で立ちの「アイドル目指して三十年」の彼。年季の入りすぎた青年だからこそ醸せる、自虐と哀愁ある笑いを生み出す。 彼自身の心をえぐるようなキョウレツにひどいエピソードの後に「ちっちゃいことは…」と陽気に言うものだから、このフレーズに笑いと元気をもらいつつ、逆に小さいことを気にしたくなるのは心情か、はたまたあまのじゃくだからなのか…。ギャグは理解したが『ワカチコ』って何だ?と小さい こと≠気にしてみた。調べてみると、往年のアイドル・少年隊が歌う「デカメロン伝説」で間奏などに「ワカチコ、ワカチコ」と声が入っているとい う。その意味は「若さ・力・根性」らしい。また、ワカチコの単語がエレキギターのエフェクト音を表現しているという説もある。 ああ、そうか。つまり「小さいことは気にするな。若さ・力・根性だ!(それで乗り切れる)」ってことを言ってるのかも。もしくは、エフェクト音から転じて「気にしていることは、人生の効果音なみに味わいあるものとして楽しめ」とも受け取れるのでは…こんなにも奥の深い言葉だったんだ! いや、お笑い芸人の世界だから、そこまで深読みしなくていいんだろうなあ。意味深長に作ったのではなく、アイドル目指して三十年の青年にとっては売れたいがために既存の大人気アイドルを模倣したが故なんだろうなあ…。 こんな風に(?)小さいことを気にしてみると、意外な世界が広がることがある。そして個人的に小紙でちっちゃくも今年からリニューアルしたある部分に注目している。社員でも気づいていない人が大多数と豪語してもいいほどの、小さな小さな改革=B それは6面に掲載している「越路スキー場情報」。気仙管内から一番近いスキー場で積雪量や天気などを表にしてシーズン中毎日掲載している。よくよく見てみると、下の方に小さく同スキー場からのコメントが入っている。これが今年から掲載開始した、リニューアル部分なのだ。 情報は同スキー場から毎朝ファクスで寄せられており、ゲレンデ情報以外にもスタッフのコメントが書き添えられていたのだが、レイアウトやスペースの関係上、コメントの掲載は見合わせ、必要最低限の情報のみにとどめていた。しかし「せっかくコメントが寄せられているのだから、小さくても 掲載しよう」と相成った。 ご覧の通り、本当に文字も改編の中身自体もちっちゃいこと≠ネのだが、毎日雪に囲まれた銀世界から届くコメントの数々――「スノーパウダーでゲレンデ絶好調」「ウインタースポーツで運動不足解消!」「シニアスクール開催」「岩手山も見えそうです」「雪景色が最高…待ってま〜す!」な どなど…は情報以外に、心にときめくものを届けてくれる。 ウインタースポーツは未経験ながら「いつかやってみたいかも…」と憧れだけはある筆者。今年こそスノーボードにに挑戦しようか?でも教えてくれる人がいないしな…あっ、スクールも開催しているからここは思い切って教わりに行けばいいかも…というように、読むたびに心が揺れるのだ。 また、同情報には岩手の湘南・気仙からみると想像もできない積雪量なども記載されている。そしてスタッフの銀世界へと誘うようなコメントが加われば、真白い雪の壁や一面の雪景色、迎えてくれる雪国の人の温かさなど想像も膨らむ。スキーに縁のない方も、一目置いてほしいなと思う。そして このちっちゃいこと≠ヘ、地域紙をつくる上での原点なのではと改めて考えさせられた。 (夏) |
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野球音痴を西武ファンにする |
☆★☆★2010年01月26日付 |
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このところどんな分野を問わず「何十年に一人という逸材」と話題になる主といえば、もう菊池雄星一人にトドメを刺すだろう。なにせ西武では「イチロー」のように姓は省いて「雄星」を選手名として登録したほどだ。いかに救世主として期待しているか、そのほどがうかがわれる。 全国注視の中で文字通り期待の「雄たる」「星」はすでに一軍入りも決まり、シーズン開幕早々にマウンドに上がるだろう。その時全国に広がるであろう興奮の渦が早くも目に浮かぶ。 ただ素質の方は疑う余地なしとしても、心配なのは期待が高ければ高いほどプレッシャーも強まるという人間の持つ精神的、生理的作用とどう戦うかだ。甲子園における春、夏ともの活躍を見る限りその心配は少ないとしても、まだ高校を出たばかりの社会人一年生である。その上、注目の度合いは高校野球当時の比ではない。国内のみならず大袈裟に言えば、国外からもじっと見詰められているのである。それだけでも、気の小さい小生などは動転して気が狂うかもしれない。まさに世界的規模の圧力を感じなければならないのだ。 ただ、テレビで見る投球フォームやトレーニングにおける身のこなしから判断して、やはりこれは天性の恵まれた素質の持ち主であると断じて間違いあるまい。野球にはまったくの門外漢というよりすべてにおいて完全なスポーツ音痴が、身の程もわきまえずに言わせてもらうとすれば、あのしなやかさは何ものをもっても替えがたいものであるということである。 スポーツのみならず何事も「ムダな力を入れるな」というのは鉄則というより自然の原理であり、しかしそれがなかなか出来ないからこそ上達もしない。雄星の投球にはそのムダな力がない。まさに投手として生まれてきたような天与の素質なのである。そう、打のイチローと共通した「自然力学」の持ち主なのだと思う。 プロ野球観戦などまったく興味のなかった小生も今年からは宗旨替えするようだろう。少なくとも雄星が登板する試合だけは見るはずである。ただいくら才能や素質があってもすぐテングになったり、スター気取りになるような人物ならその気にはならないだろう。たとえ同県人であってもだ。ところが、まったく東北人そのものといった純朴なイメージとあの憎めない風貌が雄星の持ち味というか大器の片鱗を感じさせて無条件に応援したくなるのである。これは野球の素質とはまた異なった持ち味というものであろう。 ところで、松坂大輔(現レッドソックス)が西武入りした時に監督を務めていた東尾修氏が、雄星の投球練習を見たその感想を述べている。新聞各紙が「江夏級」「松坂より上」とべた褒めの様子を紹介しているが、読んでいない方のためにスポニチの記事を紹介しよう。 東尾氏が「アラを探そうと思っても何もみつからない」というのは最大級の賛辞だろう。続いて「強くて柔らかい下半身。バランスもいい。流れるようにしなやかなフォーム。ひじも柔らかい。指先にボールがかかり、腕が前でしっかり振れている。これなら昨年、テレビで見た右打者の内角に食い込むクロスファイアも納得できる」と絶賛も特大級。 以下具体的評価は延々と続くのだが、これほどの高評価を得たルーキーが近年あっただろうかと思えるほど手放しだ。 同氏の指摘する「緊張の中でオーバーペースになって疲れを残すとオープン戦で結果が出せない」という一抹の不安をまったく否定はできないとしても、とにかく今後を長い目で見て、あせらずじっくりと心身を鍛えていってほしいと本人にも球団にも望みたい。それもこれも久方ぶりの岩手の宝を大事に見守りたいからである。(英) |
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ゲン担ぎと神頼み |
☆★☆★2010年01月24日付 |
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入試シーズンといえば一月から三月上旬と、日本では一番寒い時期にあたる。中には体調を崩して受験本番で実力を発揮できなかった先輩たちも少なくない。さらに今年は、新型インフルエンザで学級閉鎖や学校閉鎖が相次ぎ、その影響を受けている人も多いのではないか。 連日連夜、ねじり鉢巻きで勉強をしている受験生たちの努力、それを温かく見守る家族の人たちの苦労はいかばかりであろうか。まずは、体調万全で臨み、無事、難関突破することを願いたい。 本格的な受験シーズンを迎え、巷ではゲン(縁起)を担いだ合格グッズが受験生の人気を集めているという。 先日も、「すべらせない砂」入りの合格祈願お守りがJR釜石駅で受験生に無料配布されたことが、本紙の広域トピックス欄で紹介されていた。列車の車輪をすべらせないようにレールにまく砂が入った特製のお守りで、砂は市内の神社で祈祷されたものだ。 JR大船渡線でも今年の初詣に合わせて、一関市川崎町門崎の常堅寺というお寺で「滑り止め砂」と、めでたい合格の知らせの「サクラサク」にちなんで桜をあしらったお札を入れたお守り袋を配り、評判を呼んだ。 この季節、すべり止めの砂は、全国各地で引っ張りだこらしい。岡山県では、路面電車のレールにまく滑り止め砂を入れた「お守り砂」の小瓶を絵馬型の袋で包み、千個限定(一個五百円)で販売したところ、二週間足らずで完売した。 お守り砂を瓶詰めにして携帯電話ストラップにしたのは鳥取県の「若桜(わかさ)鉄道」。北海道の帯広競馬場では、今月から「滑り止め」の凹凸がついた競走馬の蹄鉄をお守りとして販売しているというから商魂たくましい。 こうした、ゲン担ぎ商品は、台風でも落ちなかった青森県の「合格リンゴ」が有名だ。チョコレート菓子「キットカット(ツ)」、スティック菓子「Toppa(トッパ)」なども中高生の間で今も人気とか。最近は、「置くとパス(合格)する」タコや、「縁起他抜(たぬき)」、合格祈願の干し納豆には「ねば〜ねば〜GIVEUP!」のキャッチコピー付きのものもあるらしい。 今年は、坂本龍馬ブームにあやかり、高知県では龍馬の合格祈願鉛筆なるものも登場。五角(合格)形の鉛筆には、「あせらず、たゆまず、おこたらず」「人に頼るな、自分でなせば叶う」「困難に打ち勝て、自信は努力から」などのメッセージが刻まれている。 龍馬の如く、と言いたいところだが、いざという時の「神頼み」は受験生の常識。先日も、ある取材で陸前高田市内の神社に行ってみると、おびただしい絵馬が神前にかけられていた。 その絵馬に近づいてみると、受験生が必死の思いで合格祈願の文言を書き込んでいる。中には、受験する学校名をすべて並べて、「どうかこの中からひとつでも合格させてください」というちゃっかり者もいた。 受験生にとって“試練の春”は、それこそ神や仏にすがりたくなるほど厳しいものであろうが、そこにはもう少し受験生の自主性、主体性があってしかるべきではないか。ただ、闇雲に「合格させて」だけでは、神様も戸惑ってしまう。 どうして、そこを受験したいのか、志望校に合格したら何をどのように勉強したいのか、具体的にこうした主体性のある願い事は、どんなに絵馬が多くても、神様はちゃんと気が付いてくれるはずだ。 神社は、ただすがりにいくところではない。自分の願いが現実のものとなるよう、その思いを宣言しに行くところ。改めて自分の気持ちも引き締まる。シャレのゲン担ぎは良しとしても、神頼みだけは真剣に祈願してほしいものだ。合格を祈る。(孝) |
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大手マスコミの姿勢を質す |
☆★☆★2010年01月23日付 |
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小沢一郎民主党幹事長に対する疑惑報道が加熱している。小沢氏の資金管理団体の土地購入に絡み、同氏の元秘書らが逮捕された政治資金規正法違反事件。大手マスコミ各社の報道によると、東京地検特捜部は、土地購入の原資に建設会社からの裏献金が含まれているのではないかとみて捜査を進めているらしい。 検察と小沢氏の全面戦争≠ノ、多くの国民の注目が集まっている。政治とカネの問題があればこれを追及し、疑惑の真相に迫ることはマスコミの使命だが、この問題をめぐる大手マスコミの報道姿勢に疑問を感じているのは自分だけだろうか。 一連の報道で目に付くのは「〜していたことが関係者の話で分かった」とか、単に「〜であることが分かった」といった表現だ。この「関係者」とはいったい誰なのか。いったい誰に取材して「〜であることが分かった」のか。記事を読んでも情報源は分からない。 検察が公式会見もしていないのに、当事者や捜査当局しか知り得ない情報が流れている。弁護側を情報源と特定していない記事の中に、逮捕された容疑者の供述が出てきている状況から、これらの報道は検察側がリーク(漏えい)した情報に基づいたものと推測され、記者クラブに加盟していない多くのフリージャーナリストから批判の声が上がっている。 情報の出所は、読者が記事の信頼性を判断するための重要な要素であり、これを明示することが報道の原則だ。一方で、報道の世界においては「取材源の秘匿」が記者の最高倫理の一つに位置づけられているが、これも取材源の生命、安全が脅かされる場合など匿名を維持する差し迫った必要性や、権力の不正を暴く内部告発など報道の内容に公益性があることが前提で、無条件に行使できる権利ではない。 現場の記者が熾烈な取材競争にさらされているのは分かる。検察からのネタが簡単に手に入るものだとも思っていない。ただ、結果としてマスコミが検察の意図的な情報操作や世論誘導に利用されているとしたら看過できない。 断っておくが、自分は小沢氏を擁護しているのではない。前段でも書いたが、政治権力の疑惑を追及するのはマスコミとして当然のこと。「自分は潔白だ」というなら、小沢氏はもっと早く特捜部の事情聴取に応じる意向を示すべきだったとも思っている。 しかし、小沢氏同様、検察も権力だ。マスコミは政治権力だけでなく、検察という公権力にも監視の目を光らせなければならない。 国家公務員である検察官は守秘義務を負う。捜査情報のリークは、この守秘義務に違反するもので、国家公務員法に抵触するが、その疑惑を追及する大手マスコミの報道はみられない。さらに言うなら、大手マスコミは小沢氏の説明責任を厳しく問いながら、リーク疑惑に対する自分たちの説明責任は果たしていない。 リーク情報による報道にはもう一つ、その情報が確定した事実だと読者に誤認を与えかねないという問題もある。起訴事実や裁判の判決が、事前の報道内容と同じになるとは限らない。事実、特捜部が手掛けた旧日本長期信用銀行の粉飾決算事件では、被告となった旧経営陣全員の無罪が確定した。 公権力を持つ捜査当局が常に正しいとはいえないという前提がある中で、リーク情報に偏った報道はマスコミの姿勢としてバランスを欠くものではないか。そうした報道が、時に言論の暴力を生むという教訓を、マスコミは無実の会社員を実名で犯人視した松本サリン事件で得たはずだ。 検察によるリーク問題で民主党は十八日、元検事の議員をトップに据えた「捜査情報の漏えい問題対策チーム」を設置し、報道の在り方を検証している。逮捕された衆院議員・石川知裕容疑者の弁護人は二十日、同容疑者が小沢氏の事件への関与を認める供述をしているとの一部報道について、「完全な誤報」とする文書を報道各社にファクスで送付した。 過去の教訓を生かすために、小沢氏の疑惑を追及するマスコミは今、社会正義の代弁者としての報道姿勢を質してみる必要があるのではないか。もちろんそれは大手マスコミだけでなく、自分を含めた報道する側の人間すべてに必要なことだと思っている。(一) |
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「生き残り」をかけて |
☆★☆★2010年01月22日付 |
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昨年十一月の話になってしまうが、島根県海士町長である山内道雄氏の話を拝聴する機会に恵まれた。県中小企業家同友会が主催した講演会でのことだ。 なぜ山内町長≠ネる人が、中小企業家らの研修講演に登壇するのか。いわば「官」が、「民」に何を伝えるというのか、多くの人は不思議に思われるだろう。しかし、同様の疑問を持って聴講した私も、同氏の話を聞いたあとは深い感銘の中にいた。官や民などという線引きが全く不要な、含蓄ある講話であった。 「海士町長がなぜ招かれたのか」。この答えをごく端的に言うと、海士町が財政破綻寸前の「ド貧乏」な町だったから。そして、その窮状から見事脱却中だからである。そこには「行政は中小企業である。町政は経営である」という観点から、民間企業出身の山内氏が取り組んできた改革があった。 年間予算の二・五倍にあたる百二億円の負債を抱え、他島にある町との合併も困難な離島が、どうやって生き残り策を編み出したのか。講演には、同氏の手腕・同町の取り組みに倣おうと、企業のみならず市町村職員の姿も多く見られた。 日本海・島根半島沖約六十`に位置する隠岐諸島の一つで、人口約二千五百人の離島である中ノ島・海士町。まず驚かされたのは、講演会の行われた盛岡市に、同氏が二日がかりで足を運んだと聞いたときだ。 現代日本においても、訪れるだけで数日かかる場所があるという事実。日ごろ、不便不便と思っているこの気仙だって、東京から半日足らずで来られる。沖縄も北海道も、飛行機なら数時間。これだけで、同町が文字通り「絶海の孤島」であることがわかると思う。 話は、「平成の大合併」のご多分に漏れず、平成十四年に同町でも合併の話が持ち上がったところから始まる。海士町のある中ノ島、西ノ島町のある西ノ島、知夫村のある知夫里島。破綻の影がちらつく「島前」の三町村が、行財政の効率化を目指し、合併協議に入った。 しかし、地理的に近いとはいえ、船でしか移動手段のない三島は、行政サービスの広域化を図るのも、それぞれの島民の意識統一を目指すのも困難。合併特例債という旨み≠持ってしても、町民には合併のメリットが感じられなかった―。そこから、単独町政を目指す山内町長の物語が幕を開けるのだ。 当然、ここで頭に浮かんだのは、気仙二市一町の合併についてであった。 離島とは比べるべくもないが、やはり交通の要地から遠く隔たっている気仙地方。地続きで隣接し合っているとはいえ、歴史も人柄も産業も少しずつ異なる地域性。サービス広域化の前に立ちはだかる壁。合併の難しさを縮図化したような話は、とても遠く離れた島のこととは思えなかった。 しかし、私自身は合併問題に熱い関心を寄せていたわけではない。むしろ自分は、気仙の合併について「静観」という立場を取っていた。 いや、静観などという言葉で取り繕ってはならない。正直に告白する。完全に「無関心」だった。 スタンスとしては「合併しないに越したことはないが、するのなら仕方ない」という感じ。自分の生まれ育った市の名前がなくなってしまうのだとしたら、ちょっとイヤだなあ、と思う程度である。 各市町が、賛成派と反対派が、どう折り合いをつけるのかは興味深いけれど、声高に伝えるような自分の意見も持たず、渦中に飛び込もうという気はさらさらない。 なかなか進展しない合併話に現実味を感じられなかったこともあるが、仮に二市一町が一緒になったとして、そこで得る利益も、被る不利益も、おそらく「まあこんなもんか」と受け入れるに違いない。流れ流れるまま、どうとでもなれ、という気持ちだった。 しかし去年の夏ごろだったろうか、私の心境に変化が生まれていた。(里) |
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