2010年2月2日 09時22分 | |
(15時間44分前に更新) |
イギリスで偶然見たドキュメンタリー番組があった。フカヒレのためにヒレを切り落とされたサメが次々に海へと投げ捨てられていく密漁の映像。ヒレを奪われた血まみれの〝それ〟は、まるで人魚の死体のようだった。
私はただ立ち尽くしてそれを見ていた。なんてこった。誰だ? こんなこと。誰の仕業だ?
目を凝らすと、船には日本の名前が記されてあった。私は異国の地で、心臓を千の針で刺されたような感覚を覚えた。「まさか、」日本人として心がワサワサ揺れた。
するとそれは幸運にも「まさか」を免れた。その船はずいぶん古く、乗組員も日本人ではなかったのだ。
「ああ、よかった」
そう想(おも)った。
次の瞬間、そう想った自分に絶望した。あんな映像を目の当たりにしてなお、逃げ道を探した自分が情けなく、悲しかった。
「日本は、やっていない」
私はその言い訳で、千の針を抜こうとしたのだ。
日本で使われなくなった漁船は、遠いアジアの国へ渡り、私たちの手の届かない所で、私たちの知らないことに利用されているだけかもしれない。でも、沖縄のレストランにも並ぶフカヒレメニューのその出所を私は知らない。
ある壮大な海の映画の関係者は、「日本人はフカヒレだけ切り落として他は捨てるということはしていないです」と私に言った。あれだけの作品にかかわった人でさえまず始めにそう言った。もちろんその後に真摯(しんし)な言葉は続いたけれど。
日本は、やっていない。
私たちは、やっていない。
私は、やっていない。
実家の駐車場でたむろする小学生にゴミを片付けるように注意したら「おれの捨てたゴミじゃない」
と返された。
俺(おれ)たちじゃない。
俺は、やってない。
その足元にゴミが転がっているのに、俺はやっていないから、拾う必要はない。
他所(よそ)の血による犯罪はどれだけ責め立てられるかわからないこの島で、じゃあ沖縄人による犯罪を沖縄人はどれだけ認識しているだろう。
被害者という立場に慣れてしまった沖縄。
沖縄は、やっていない?
私たちは、やっていない?
全人類の罪を背負う必要はないけれど、私たち人間の罪を、私は、知らなければならない。
「私は、やっていない」
この言い訳がなくなる時、世界は変わるかもしれないから。(歌手)
毎月第1火曜日掲載。
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