トマソンという建築芸術 赤瀬川源平による超芸術トマソンとは
毎日椅子に座って仕事をしすぎで目と腰がめっきりダメになってきた猪飼です。 リハビリをしなくては!と思い、ちょっと遠くまでランチを食べに行こう計画を社内で実行中です。 町を歩いていると色々な発見があります。 中でもとても興味深い事の1つが建築デザインだったりします。 新しいものから、古くてボロボロな家までどれも個性的な家を見つけると思わず写真を撮りたくなります。 そんな街中散歩をしていると、たまに「おや?」と思う不思議な建築物のかけらを見つけることはありませんか? それがトマソンです。 本日はそんな街中の、「おや?」についてです。
1.超芸術トマソンとは
日本を代表する芸術家赤瀬川源平によって提案された概念で、主に不動産、建築に付着している(または取り残された)無用な部分をいいます。 名前の由来は、プロ野球選手のプレイヤー ゲーリー・トマソンに由来します。 ゲーリー・トマソンは高額で助っ人として契約し、四番打者となったものの毎回空振りを繰り返したという彼の姿が「不動産に付着して(あたかも芸術のように)美しく保存された無用の長物」という芸術の概念にぴったりだった為だといいます。 トマソン選手の三振の記録は132本で、(近鉄のブライアントに89年に抜かれるまでプロ最多記録)高額契約した選手としても、一般選手としても異例の数でした。
発生は1972年、町を歩いていた源平は建物の脇に先端になにもない階段を発見します。 これを源平は「四谷の純粋階段」と命名します。 こうした不要な建築物の一部は日本の各地で観ることができる事を発見した源平は、《芸術のように実社会にまるで役に立たないのに芸術のように大事に保存されあたかも美しく展示されているかのようなたたずまいを持っている、それでありながら作品と思って造った者すら居ない点で芸術よりも芸術らしい存在=「超芸術」》として超芸術トマソンを提唱しました。
2.超芸術トマソンの繁栄
当時美大で講師をしていた赤瀬川源平は、このトマソン概念の発見を喜び、生徒達に話しました。 授業や課題で町に出かけさせてトマソンの写真を撮りに行かせては、授業で話し合いました。 さらに赤瀬川源平は雑誌「写真時代」でトマソンという概念を説き、優秀なトマソン写真の紹介をしました。 結果1980年頃、トマソンは大ブームを起こします。 社会現象と呼ばれるほど芸術好きな若者が熱中し、トマソンの概念に対しても様々な舞台で議論されました。
バブル期に乱立された豪華な建築物がバブル崩壊後一気に取り壊され、色々な理由で部分的に残った物件がトマソンの温床としては最適だったというのもトマソンブームへ影響したのかもしれません。 赤瀬川源平はラジヤやテレビ、写真集や単行本でトマソンについて説き、トマソンバスツアーというアート・レクチャー・ツアーまで開かれたといいます。
建築家兼アーティストの藤森照信がマンホールや古い張り紙を採取して観察する路上観察学という芸術概念を提唱し、「路上観察学入門」の出版と共にトマソン人気もピークに達し、80年代中期でトマソンは全盛期を迎えました。
3.トマソンのその後
トマソンのおもしろいところは、常に移り変わりする所です。以前あったトマソンが失われ、新しいトマソンが生まれます。 トマソン学会では、トマソンのジャンルを分けたり、どういったトマソンが美しいか、等との討論が繰り返されました。 そうした活発な活動もトマソンブームの低下により次第に減少し、当時のトマソンブームや、路上観察の概念を俗的にしたオモシロ投稿という形で宝島社から「VOW」という雑誌が発売されたりもしました。