2009/8/28
「お知らせ」
いつも「ハムレットの吹かす風」を読んでいただきありがとうございます。7月は英国,インドのムンバイへ行ってきましたが,またまた,管理人は超多忙となり(笑)おそらく9月一杯までは更新は不可能ではないかと考えております。一時的に転居のため画面が見られなくなるかもしれません。(このHPが初めての方は左の目次をクリックすると記事が見れます,またアンダーラインも同じです)
ちょうどこんな感じですが100メートル以上の国立公園U種の高台の240坪の敷地から約150度南伊豆の海を見渡せるところです(これ以上書くとカルトが公園に火をつけるかも知れないためこれで場所の概要はおわり)。ゲストハウスもありますので来年はお客さんで大変な予感がします。第一号は英国の友人クリストファー・ストーリー氏になりそうです。広いウッドデッキからの日の出,日没は素晴らしいですよ。耳を澄ますと波の音だけがして静寂そのものです。水道は山からの湧き水でカルキなしの天然ミネラル・ウオーター。池の金魚,鯉,メダカも喜んでいるみたいです。睡蓮もたくさん入れました。魚は人間と違って喧嘩もせず仲良くやっているようです。10月頃に少し紹介しましょう。まるでユングの共時性(シンクロ二シティ)そのものです(その家との関連性の意味はいつか説明します)。まだ白浜の山荘と行ったり来たりですが今年英国のジャガーSタイプ(アスペングリーン3000CC)を買ったら近所の人が挨拶をしなくなりました。これが日本人の正体(いわゆるねたみ,そねみ)。これを読んでいるあなただって気持ちよく思わないでしょう?日本で起きていることの殆どは人災。日本人だけでなく人間なら持っているものですがその極みは自分と家族だけは幸せになり他のすべての人が不幸にならないと納得しないという理論でしょう。人と群生しないで生活するのが何よりです。『余剰もなく不足もなく,必要なだけがそこにあり,必要なだけ使う』これが管理人の人生のモットー。30日の投票では政権交代はあるでしょうがおそらく来年自民党との二大政党(公明党を除いた)を実現し「核武装国民投票」に持ち込むでしょう。そうなれば「言論統制」「治安維持法」などはやり放題。大切なことなのですがアフガニスタンでMI6などによるやらせテロの連続で米軍の増派に継ぐ増派,米国内で手薄になったところで偽大テロ(米国での)によりFEMA発動。大統領交代。国連軍や在米の他国の軍隊によるFEMA CAMPへの連行。管理人はこんなふうに見ています(恐らくBlack POPE MR.Zの考えそうなことです)。何も起こらないのがなによりですが。NHKはオームの時と同じように新型インフルエンザを連日やっていますが最後の仕上げは来年春一番で運ばれる「マイコプラズマ」で肺炎を引き起こす作戦ではないでしょうか。抗生物質もありますので危ないと思ったら注射を打ってもらったほうが安全でしょう。昨年ポートランドでケムトレイルの雲を見て,同行者は非喫煙者,私は喫煙者,その同行者は完璧に肺炎になりましたが抗生物質で命を取り留めたそうです。一方私はいたって元気。結論としてニコチンが有効。世界的に禁煙をしているのはそのためです。それでは皆様再会の時まで御身おいといください。
御身おいといの前に,
じゃやあ、マイコプラズマってな〜に?
(以下の文章に良い子にとって適切でない表現が含まれています)。
拙稿で生物兵器に関しての記事がありますがこの「マイコプラズマ」(2CHの方々:マンコプラズマではありませんよ)は新種の作られたいくらでもTISSUE CULTURE(組織培養)で増産できる生物兵器の一種で非常に危険なものです。いまから準備しておきましょう。医者はよく知らないかもしれませんけど。輸入ワクチンは安全なんてNHKでくどいように放送していますがまずマイクロチップが入っていることを疑うべきでしょう。妊婦から奇形児が生まれても例の「非加熱....」でエイズになったように逃げることが出来るというものです。なんて言えばいいのでしょうか,騙されるほうが悪いのかも。でも実にうまく状況設定するものです。位相心理学そのものでしょうか。
やっぱ!!
そうですか,そうですか。やっぱり。赤の他人がシャングリラのような家に住み高級外車を乗り回していることがそんなに面白くない?そうですか。ではもうやめて以下の記事をどうぞ。
以下はコピペでチョン:
第二次世界大戦はなぜ起こったのか?
2001/8/14 (2001/10/2 一部修正・2003/12/13 加筆『1941/11/1〜11/26)
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日本が軍拡を目指していた当時、1921年軍縮を目指す国際会議のワシントン会議で5:5:3の英米日の海軍比率を決めた。
そして、中国の門戸開放によって、英米既得権益の維持が決められた。
1930年のロンドン会議で海軍軍縮が決定。
当時、日本国内では新興国に対する国際的な圧力だという不満があった。
そして新天地への進出を目指した日本は海外にどんどん移住していった。
1931年 満州事変勃発。
中国東北部の鉄道事件をきっかけに日本は軍事行動を開始。
そして中国の東北部の殆どを征服。
1932年3月 日本は清朝の最後の皇帝溥儀(フギ)を利用して中国内部に日本人を主とする満州国を設立。
1932年11月 満州国建国を認めるかを巡り、スイス ジュネーブで国際連盟臨時総会が開かれる。
その時、外務省官僚であった松岡洋右は日本の主席全権として参加。
日本の植民地政策に対する欺瞞とした国際連盟はリットンを団長とする調査団を満州国に派遣。
リットン卿は満州国は日本の保護国であると断定し日本を侵略国とした。
日本政府は満州国建国が認められないならば、松岡に国連を脱退するように指示していた。
それに対し、松岡は日本の将来のためにも、日本が孤立しないよう国連に残るように政府に進言していた。
1933年1月 ドイツにヒトラー率いるナチス政権誕生。
独裁体制を作ったドイツは国際連盟を脱退。
軍備拡張を始める。
第一次世界大戦で敗北したドイツはその賠償金の支払いで国内の経済はズタズタ。
国民はどんな形でもいいからと自らの生活を救ってくれる救世主を求めていた。
そんなときに現れたのが解り安い言葉で強引に人民を引っ張るリーダーシップを持ったヒトラーだった。
1933年2月24日 国際連盟は日本の満州撤退勧告を日本以外の42カ国の賛成で可決。
そして、これに怒った松岡は国連を脱退を発言してしまった。
1933年3月 日本は国際連盟脱退を正式に通告。
外交を失敗して絶望して帰国した松岡は予想外に国の英雄として国民に歓迎された。
今までに国連で圧力を受け続けていた日本国国民はそのウップンを爆発させたのだ。
当時の日本は世界大恐慌のアオリをくって不況の真っ只中!
何かの刺激を求めていた。
その中で世界に対して対等にNo!と言えた日本人に圧倒的な支持を表したのだった。
松岡は一躍国民の英雄に祭りたてられた。
その瞬間、日本にナショナリズムが吹き上げたのだ。
1936年 2・26事件 政治の腐敗に嫌気がさした青年将校のクーデターだ。
軍部が政治で実験を握るために画策したものだった。
昭和天皇はこの事件で混乱した日本を制するため自ら軍隊を掌握することにした。
この事件の後から、天皇をバックに得た軍が政治に台頭してくることになった。
国民の意思は腐敗した政治家による政治より、清潔感の有るように見えたわかり易い軍部による強い日本の政治を支持するようになった。
このころ共に世界から孤立していたドイツと日本は急速に接近。
1936年11月 日本は松岡ら外交官をドイツに送り、ドイツと日独防共協定締結。
目的はソ連に対抗すること。
日本もドイツもソ連を仮想敵国としていたからだ。
1937年 イタリアもこの協定に参加。
日独伊防共協定が結ばれた。
1937年 第一次近衛内閣 天皇家の政治の始まりだ。
天皇家の血を引く公家の近衛文麿に国民は日本を変えてくれると期待した。
また、近衛は政治家の間では軍部の支配に対抗できる最後の切り札だと思われていた。
しかし近衛は国民を自分より目下の存在とみていた余りに愚弄な考えの人間だった。
近衛内閣の政治改革で新体制法と言われた国家総動員法を国会の満場一致で成立させた。
これにより日本は40年体制と言われる”統制経済の国家社会主義体制”(ナチスと同じ)と変わっていった。
そして一党独裁体制の大政翼賛会が生まれた。
1937年7月 ドコウ橋事件 北京郊外のドコウ橋での中国軍から日本軍に向けての発砲事件と言われている。
そして日本軍と中国軍が衝突し日中戦争が始まった。
慌てた参謀本部は軍を制止しようとしたが、すでに軍部は暴走し日本政府はそれを制止出来なくなった。
そして暴走した日本軍は、満州での日本の中国人に対する残虐行為を見習った将校らによって、「南京大虐殺」と言われる何万人もの中国人に対する不差別大量大虐殺をした。
参謀本部はそれに反論も出来なかった。
これに対しアメリカは中国を支援し、日米関係は徐々に悪化して行った。
1938年 ドイツを中国との仲介に立てようとしたが、軍部に圧し切られた近衛内閣は”蒋介石を相手とせず”という声明を発表し和平の道を失った。
そして日本軍は中国国府軍将軍の蒋介石を追って中国大陸の奥へ奥へと攻め入った。
1939年1月 ドイツは日本に防共協定を発展させ、強固な協定を作ることを提案。
三国の中の一国が、今後、三国以外のある国から攻撃された場合、軍事的に援助することを義務付けるという、集団的自衛権の協約だ。
この協定が結ばれればアメリカ、イギリス、フランス、ソ連を公然と敵視することになる。
1939年8月 衝撃的な事件が起きた。
ドイツがソ連と急接近し、独ソ不可侵条約が締結されたのだ。
当時、ノモンハンでソ連と闘っていた日本は驚いた。
1939年8月28日 平沼騏一郎内閣総辞職
1939年9月1日 ドイツ ポーランドへ侵攻。
イギリス・フランスはドイツに宣戦布告し 第二次世界大戦勃発。
同月27日、ソ連もポーランドへ侵攻し、ドイツとソ連はポーランドを東西に分割した。
ドイツはまずポーランドを取り、そのあと有利にフランスを取るため、当時、敵対していたソ連とまず不可侵条約を結んだのだった。
1940年 ドイツはオランダフランスなど西ヨーロッパ各国を占領。
この時、アメリカはヨーロッパの情勢を分析し、ドイツはイギリスに勝てないと結果をレポートしていた。
日本はドイツの快進撃を見て、そのうちにイギリスも屈服させられると判断し、アメリカと敵対してでもドイツとの関係を強化すべきという気運が陸軍を中心に上がった。
1940年7月17日 近衛文麿 総理大臣に任命される。
新内閣の外務大臣に松岡を抜擢。
そして、松岡は外交を自己が主導して行うことを考えたため、外務省内に反対意見をもつ者を次々に更迭。
親アメリカ・イギリス派をすべて辞めさせた。
松岡はアメリカとの戦争は避けたい、しかしアメリカが強硬な態度を取った場合、断固これに対抗すると考えていた。
1940年 9月19日 宮中において御前会議が開かれ、三国同盟を組むかどうかを議論された。
原枢密院議長は、三国同盟はアメリカの反発を招き、鉄や石油の経済制裁をかけられるから慎重になるべきと考えた。
松岡外相は、すでにアメリカは日本に対し反日感情を持っている、アメリカに毅然とした態度を見せることで、戦争を避けられるとした。
松岡外相はアメリカは一時的には態度を硬化させるかもしれないが、冷静に利害を計算し、対日貿易をしているアメリカ企業が損をする経済制裁はかけないと主張した。
そして松岡の主張が通った。
1940年9月27日 ヒトラー官邸において、ドイツ:リッテントロップ外務大臣・イタリア:キアノ外務大臣・日本:栗栖ドイツ大使が調印して日独伊三国同盟が締結された。
三国同盟はアメリカを仮想敵国としていた。
日独伊三国同盟の情報を得た蒋介石は、ナチスを敵視するアメリカを敵にした、日本に勝ったと確信したという。
蒋介石はアメリカで教育を受けた妻の宋美齢というスポークスマンを持っていた。
美しい宋美齢はアメリカでマスコミに次々に取り上げられた。
アメリカ議会でも発言し、「悪の帝国日本」に対して、全米で「日本と戦うけなげなヒロインのいる中国」を救えと声が上がりだした。
「木と紙で作られた日本家屋など焼き尽くせ」とアメリカで声が上がる。
当時、アメリカは日中戦争の軍需景気で沸いていた。
アメリカ企業は日本に物資を送り続けていた。
日本は戦争に必要な鉄や石油、天然ゴムはほとんどアメリカから買っていた。
しかし、この宋美齢に同情したアメリカの世論は、日本に軍事物資を供給するのを止めろと声を上げ出した。
アメリカ政府は世論に負け日本への鉄・生ゴムなどの物資の輸出を停止する経済政策を実施した。
石油の70%以上をアメリカに依存していた日本にとってこれは大打撃になる措置だった。
1941年3月26日 松岡外相はドイツを訪問し、ドイツに日ソ間の仲介を要請した。
その時、松岡はドイツが当然、間に入ってくれるものと思っていたのだが、ドイツはこれを拒絶した。
ヒトラーはその時、すでにソ連攻撃を決意していたのだが、松岡はそれを全く知らなかったのだ。
1941年4月7日 焦った松岡外相はソ連のモスクワを訪れ、スターリンと直接交渉した。
1941年4月13日 日ソ中立条約締結。
これで、日独伊の三国に、ソ連に加わることで、アメリカと対等の力を持つことになり、戦争を避けられると思った。
その頃、日本は貿易再開の交渉としてワシントンへ野村日本全権大使を送りアメリカのハル国務長官「日米交渉」をした。
野村は日米諒解案を作成し日米の思い違いを解こうとした。
その内容は日本に甘いものであった。
利益を優先するアメリカは、一旦それを飲もうとしていた。
しかし、当時、ソ連を廻って日本に帰ってきて、強気になっていた松岡外相は、その内容を知り激怒した。
松岡外相は一切内容を知らなかったことに怒ったのだ。
日本ではアメリカ提案とされていたその内容を勝手に修正して再びアメリカに提出した。
一度同意しかけていたアメリカはこれに驚き、日米交渉は破綻した。
1941年6月22日 ドイツはバルバロッサ作戦によりソ連に攻め入った。
ここで松岡外相が画策していた日独伊にソ連を入れた四国同盟の計画が完全に崩れた。
そして、松岡外相は政府内で完全に信用を失った。
1941年7月16日 政府はアメリカに対し、強攻策を取り続ける松岡外相を取り除くため一旦総辞職。
近江総理大臣はアメリカとの交渉継続を図ろうとした。
当時の東條陸軍大臣はソ連に攻め入りドイツとともにソ連と戦おうとする”北進論”を主張。
及川海軍大臣は燃料の石油確保のために”南進論”を主張し陸海軍は対立。
近衛が南進を中止するように海軍に出向いたときはすでに海軍は何進に出撃していた。
1941年7月 海軍は南部仏印(フランス領ベトナム)に南進。
しかし、そこには石油は無かった。
アメリカはこれによって態度を硬化し、対日禁油政策に踏み切った。
アメリカはドイツがソ連を敵にしたときに勝負を見切っていた。
力の均衡が完全に失われたと確信し禁油政策をとったのだ。
1941年8月 イギリスのチャーチルはドイツに勝つため、アメリカをこの戦争に引き込もうとアメリカ・ルーズベルト大統領と洋上会談を行った。
1941年10月 日本では近衛私邸「荻外荘」にて、近衛首相・松岡外相・及川海軍相・東條陸軍相で会談を行った。
近衛は事前に及川が「海軍が日米戦で戦えない」と言うように打ち合わせ済みだった。
東條「アメリカの態度はすでに明確である。三国同盟離脱、(中国)駐兵拒否というのでは日本は譲れない」
近衛「そうは思わない。問題となっているのは駐兵が難点で、あとは話し合いがつく。そこで。一応撤兵を受け入れて後で資源保護の名目で若干駐兵して・・・」
東條「それはいけない!それは謀略だ!」
近衛が及川に聞く。
及川「総理に一任する」
近衛「それでは話が違うじゃないか」
海軍としては長年税金を費やしてきた海軍がアメリカに負けるから参戦しないと言うことは、国民に対してできないというものだった。
海軍省としては日米開戦に反対だったが、及川は開戦を断れば翌年の予算を削られると言うことを第一に恐れたのだ。
ここに、国益より省益を重視するという、政府の中での利権の構造が生んだ悲劇が始まったのだ。
近衛「もし戦争をするなら自身のある人で勝手におやりなさい」と、捨て鉢な態度に出た。
同月 近衛内閣退陣 元来、気まぐれな近衛は突然内閣を投げ出した。
東條陸軍相は宮中から呼び出された。
東條は叱られると思いながら宮中へ行った。
しかし、東條はそこで天皇から内閣総理大臣を命じられ茫然とした。
1941年10月 東条内閣成立。
この奇策を考えた者の中に近衛がいた。
近衛「非常な名案だ。東條に戦争をしないと約束させ内閣を組閣させる・・・これは名案」
木戸内大臣「陸軍を抑えるとすれば東條しかいない。毒をもって毒を制す」
天皇「虎穴に入らずんば虎子を得ずだね」
そして、
天皇は「白紙に戻して和平努力せよ」と東條に勅令した。
しかし、アメリカは日本が現役軍人を首相にしたのは、アメリカに対し戦争のサインを送ったものと受け取った。
<日本と戦うには3ヶ月必要だ : しかし、『日本もアメリカ、中国の暗号伝を解読していた』>
11月1日 東条内閣の閣僚と軍部の首脳が首相官邸に集まった
アメリカに石油を止められた今、戦争に突入するのか、和平の道を探るのか、国策を決める会議が開かれた。
この日の、『大本営政府連絡会議議事録』(今も現存する)には、出席者の間でかつて無い議論が戦わせられたことが記されている。
軍部首脳「石油を止められた以上、日本はジリ貧に陥る一方である。アメリカと戦うには石油のある今しか無い。」
東郷茂徳・新外相「日本の国力はアメリカに遥かに及ばない。今は臥薪嘗胆(がしんしょうたん:じっとこらえる時)」
そして、東条は軍部にアメリカへの交渉案を示した。
アメリカへの強攻策、すでに提出されていた甲案に対する、アメリカに大幅に譲歩する姿勢をみせた乙案だった。
乙案は、アメリカの不満を取り除くため『日本はインドシナ南部から軍部を撤退』を約束、また、軍部を納得させる項目には『アメリカは石油の供給を再開し、中国問題には干渉しない』と要求するものだった。
会議は17時間に渡った。
翌、午前2時、日本の国策が決定した。
結論は『(戦争)作戦準備と(平和)外交とを平行する』
甲案によって軍部が開戦の準備をすすめる一方で、東郷外務大臣の乙案を基に日米交渉を続けることが決まった。
しかし、乙案には「11月30日一杯中」とする交渉期限が設けられた。
そして『11月30日までに交渉がまとまらなければ、日本軍はアメリカに攻撃を開始する。』と軍部は東郷外務大臣に条件を提示した。
東郷外務大臣は、ワシントンにいる駐米大使 野村吉三郎に電報を送った。
『乙案は名実共に最終案である』
この電報は、暗号文によって極秘に打電されたが、この電報を読んだのは野村大使だけではなかった。
アメリカ大統領 フランクリン・ルーズベルトも、東郷外務大臣の暗号電報を読んでいた。
アメリカは、日本の外交暗号は1年も前から解読されていた。
それは、マジック(暗号解読システム)だ。
アメリカの公文書館には、今も乙案を解読した文書が残されている。
文書には『...この提案は最終案である...』と、すべて記されている。
ルーズベルトは、解読によって乙案が最終案であり、期限が設けられたことを知った。
そして、乙案を拒絶すれば、日本は開戦に踏み切ることを読み取った。
この時、ヨーロッパ戦線ではナチスドイツが各国に侵攻し、連戦連勝の快進撃を続けていた。
ルーズベルト政権は、ナチスドイツを敵とみなし、ドイツとの戦争の準備を進めていた。
また、ルーズベルト政権は、ドイツと同時に日本と戦うには、あと3ヶ月程度の準備期間が必要だと考えていた。
ルーズベルトは日本との交渉の責任者 コーデル・ハル国務長官を呼び出した。
ルーズベルトの指示は「日本との戦争準備が整うまで、開戦を引き伸ばすこと。そのために暫定協定案を作り交渉を進めろ」
1941年11月17日東郷外務大臣が国会で行った演説。
「現内閣におきましても、太平洋の平和を維持せんがために日米会談を継続するに決定。帝国政府においては、本交渉の成立に向かって最善の努力を傾注しておる次第であります。」
外務省は、戦争を回避する方法を模索していた。
1941年11月20日 ワシントン時間正午 アメリカ国務省を、野村吉三郎大使と来栖三郎大使が訪問した。
2人はハルに、東条の作成した乙案を提示した。
すでに暗号解読によって、乙案の内容を知っていたハルはトボケて答えた。
「十分に検討した上で、返答させていただきたい」
ハルは、野村と来栖に数日以内に返答すると約束した。
1941年11月22日 ハルの元で、アメリカ側の暫定協定案が書きあがった、
それは乙案を検。討し、日本が受け入れ易い条件を記した暫定協定案だった。
『日本がこれ以上、南方に進出しないことを条件に、アメリカ派経済制裁を緩め、日中戦争の解決には干渉しない。正しこの提案の有効期間は3ヶ月とする。それ以後は改めて交渉する。』
ハルはこの戦争回避のための妥協案(3ヶ月引き伸ばし案)を、イギリスなどの同盟諸国の同意を得て日本に提出しようと考えていた。
もし、この暫定協定案が日本に提出されていたら、無論、日本は拒否する理由も無く、この後3ヶ月の猶予が生まれただろう。
この後、3ヶ月の間に、無敵だと思われたナチスドイツがソ連のモスクワ戦線で敗北し、追い討ちをかけるようにナポレオンと同じく冬将軍に破れ去り、この後、ドイツは敗戦を重ねるようになる。
無敵ナチスドイツと同盟を組んでいた日本はアメリカ戦には突入せず、歴史は大きく変わったかもしれない。
1941年11月22日午前9時 ハル国務長官は、国務省にイギリス、オランダ、オーストラリア、中国の大使や行使を呼び、暫定協定案への了解を求める会談を行った。
中国大使 胡適は、「アメリカは中国を見捨てようとしている」と、この暫定協定案に大きなショックを覚えた。
胡適は直ちにこの提案の内容を、暗号電報で中国政府へ送った。
電報を受取ったのは中国の指導者 蒋介石。
中国はすでに日本と4年以上に及ぶ戦いの最中にあり、蒋介石が拠点とする重慶には日本の激しい空爆が続けられていた。
台湾の国史館には当時の蒋介石の日記の写し(蒋の秘書が書き写した)が保管されている。
その日記には、暫定協定案を知ったときの蒋介石の心情が書かれている。
「不安と怒りが心の中を激しく交錯した。我々の国はこの絶対絶命の危機から生還することができるだろうか。」そして、胡適に「なんとしてもアメリカを日本と妥協させてはならない。それは中国の死を意味する」と電報を送ったと記している。
中国にとって生き残るための最後の希望はアメリカだった。
蒋介石はワシントンの胡適大使に暗号電報で暫定協定案絶対阻止を命じるだけでなく、面識の無かったチャーチル・イギリス首相にも電報を送った。
当時、イギリスはアメリカが進める民主主義を掲げる国々が団結し、ドイツや日本に対抗するべきだと主張していた。
蒋介石の日記にはチャーチルに送った電報の内容が記されている。
『アメリカが日本と妥協案を結んだら、中国の人々は失望し戦いは崩壊します。それ以後のどうような助けも空しく、中国は最早、あなた方の語る国際信義という言葉を信じなくなるでしょう』
蒋介石はチャーチルに働きかけ、ルーズベルトを説得しようと考えたのだ。
1941年11月24日午後 ハルが日本への返答を約束した日、ハルは胡適大使を国務省に呼び、暫定協定案の了解を得るよう会談した。
ハル「3ヶ月待てば、日本への戦争準備が整うのですよ」
胡適「3ヶ月も待てない。今、アメリカが妥協案を出したら、中国は崩壊します」
日本大使館では野村大使と来栖大使がハルからの返事を待ち続けていた。
しかし、夕方、国務省から入った連絡は
『協議が長引いている。返答は明日25日にさせて欲しい』
中国側の反対で、アメリカの妥協案の提示は先送りになった。
その時、択捉島の単冠湾に集結していた日本海軍 機動部隊は、乙案の期限が切れれば直ちに実行される極秘作戦『真珠湾攻撃』の命令を待っていた
1941年11月25日朝 ハルは閣議で閣僚たちを前に、暫定協定案を日本に提示すると宣言。
このとき、ルーズベルトや閣僚たちに蒋介石からの電報が次々に届いていた。
これを知ったハルは、胡適中国大使を呼び捲くし立てた。
ハル「まるで洪水のような電報だ!交渉担当者の私を差し置いて送りつけるとは、どうゆうことだ!」
胡適「アメリカは本気で日本に石油を売るつもりか?蒋介石はこう言っています。『石油を日本に一滴売れば、中国人兵士の血を1ガロン流すことになる』」
胡適は妥協案の破棄を執拗に求めた。
中国説得に失敗したハルは日本への返答をさらに1日延ばした。
この1日が世界の運命を大きく変えることになった。
同日夜、野村大使は焦りと不安の中、日本の東郷外務大臣に宛て次々に電報を送った。
『アメリカに検討の督促を繰り返すが、協議中という理由で引き延ばされていく。中国大使の胡適が本日夜、ハルと協議している。注意すべき動きだ』
この中国の活発な外交を知りながらも、東郷外務大臣は野村大使に具体的な対策を指示しなかった。
2001/12 東京港区 外交資料館で大きな発見があった(発見者:神戸大学 簑原俊洋助教授)。
「特殊情報」綴 と題されたファイルに150ページにも渡る外国の電報が綴られていた。
電報は『絶対極秘 取扱御注意相』と印が押されていた。
1枚の電報は、1941年 暗号文(In cipher)とタイプで打たれた英文で、送信者: From Hull, Washington(ハル、ワシントン) 受信者: To Grew, Tokyo(グルー駐日大使、東京)と記されていた。
また、胡適駐米大使から蒋介石に宛てた電報も見つかった。
この発見で、日本が開戦直前までアメリカや中国、イギリスの暗号電報を解読していたことが明らかになった。
さらに、解読した暗号電報を東郷外務大臣も目を通していたことが、押された印章で明らかとなった。
日本は、胡適から蒋介石への暗号電報を全文を解読して、アメリカの妥協案の内容を知っていたことが想像される。
東郷外務大臣は、中国の活発な外交活動を完全に知り、事態を静観した。
妥協案を、完全に掴んでいた東郷外務大臣は日本の交渉はうまく進んでいると確信し、ここは動いてアメリカを刺激するより、待つ方が得策と考えたようだ。
11月25日、同日夜、ルーズベルトに1通の電報が届いた。
イギリス首相チャーチルより、合衆国大統領ルーズベルトへ
『もし、中国が崩壊すれば、私たちの共通の脅威は著しく増大するだろう。アメリカが中国の立場を十分に考慮した上で、政策を実施することをイギリスは期待します。』と中国を救うべきだとチャーチルは進言した。
そのころイギリスはドイツとの戦いに苦戦し敗戦濃厚になっていた。
しかし、アメリカ軍のヨーロッパ戦線参戦を強く願うチャーチルは、アメリカが日本と戦うことになると、その同盟国ドイツとも戦うことになると目論んでいた。
1941年11月26日朝、ルーズベルトの元に軍部から驚愕の情報がもたらされた。
『数十隻からなる日本の大輸送船団が台湾沖を南に移動している』
しかし、この情報は僅か10隻程度の通常の輸送船を、アメリカ軍関係者が情報を過大に報告したものだった。
この報告を聞いたルーズベルトは烈火の如く怒った!
「日本は和平交渉でインドシナからの撤退を口にしながら、遠征軍を送ろうとしている。これは握手を求めるもう片方の手で短剣を突きつけるようなものだ。日本を最早、信用することはできない」
怒りで震えるルーズベルトに、日本との妥協案を提示しようとするハルから電話があった。
<ハルノート そして、開戦>
1946年11月26日 午後5時、野村大使と来栖大使がアメリカ国務省に到着。
ハルは2人を前に
「アメリカは中国を見殺しにするなという意見などに鑑み、本日の案を提出することになった。」
後にアメリカ国務長官提案『ハルノート』と呼ばれる文書だ。
その中に、石油の供給再開の文字は無かった。
さらに、日本に衝撃を与える条項が書かれていた。
『日本政府は、中国及びインドシナからすべての陸海軍と警察部隊を撤退させること』
ハルノートの内容は”中国からの全面撤退、三国同盟の否認などを要求”していた。
それは日本軍部が到底受け入れられない条文だった。
後に、東郷外務大臣はハルノートを目にしたときの心情をこう日記に記している。
『目も眩むばかりの失望に打たれた。ハルノートを受取ってからは働く熱を失った』
そして、アメリカのハル国務長官は「アメリカは日本に米日和平の提案を渡した。それはジャップにとって時間稼ぎにしかならないだろう。奴等にはもう時間が無い!」とマスコミの前で発表した。
蒋介石はアメリカが日本にハルノートを提出したのを知ったときのことを日記に記している。
『昨日以前のアメリカの日本への妥協的な態度は根本から変わった。外交とは常に変化し続ける無常のものである。』
11月26日午前6時、第一航空艦隊(南雲機動部隊)は、駆逐艦隊の警戒隊を先頭に、重巡の第八戦隊、戦艦の第三戦隊、潜水艦の哨戒隊、空母の第一・第二・第五航空戦隊、補給艦を入れると30隻の、航空母艦を中心にした大艦隊を組み真珠湾を目指し出撃。
1941年11月28日 東条外務大臣は野村大使に電報を送った。
『米側の提示し来れる対案は、(大日本)帝国の立場を無視せるものなり』
東郷外務大臣は交渉を断念した。
1941年12月1日 御前会議「日米開戦」決定
12月8日 日本軍、ハワイ真珠湾アメリカ軍基地を奇襲。
日本時間午前6時 日本のラジオからは絶望的な放送が流された
『大本営 陸海軍部発表 帝国陸海軍は今朝未明 西太平洋において 米英軍と戦闘状態にて.... 』
ここに、3年8ヶ月にもに及ぶアメリカとの太平洋戦争が始まった。
金権まみれ・放漫・いいかげん・思いつきのその場しのぎの無策・ただの人気取り政治で、政策を完全に見誤った日本政府は、経済封鎖をしているアメリカに対しても、三国同盟を結んでしまったドイツに対しても、国民に対しても言い訳の出来ない状況に追い詰められ開戦を天皇の下で決定した(管理人注:それもそのはず,真珠湾攻撃で戦争が始まるや<ガーター騎士団のメーソンであり日本支部長である>昭和天皇は小躍りして喜んだとの元侍従長の記述がある。またロンドン郊外KEW GARDENにある英国公文書館で調べた結果『1945年4月日本では空襲の最中に皇后陛下の名でスイスの赤十字に1000万ドルが送金されている。これは莫大な天皇家の資産の移動に関するものであろうがこれ以上書くのは資料ファイル・ナンバーも含めて止めておこうか』)。
ここで天皇は反対しもう一度、アメリカとの話し合いにもって行くことも出来たのだが、天皇は「主君押し込め」を恐れ軍部の決定に従った。
天皇の替え玉位で驚いてはならない。ツアーリだってキング・ジェームズだってそうだった!
動乱スタート
ハルノートの内容に熱り立った陸海軍部とも開戦に合意したため、天皇はその決定を覆すのを諦めた結果だった。
天皇は戦後当時の言い訳を記している。
「私の国民は私を非常に好きである。もし私が戦争に反対したのなら国民は私を精神病院か何かに入れてそこに押し込めていたにちがいない」
開戦当時の軍事物資生産能力比 アメリカ(79):日本(1)
負けはすでに確定していた。
御前会議の前に、天皇は杉山参謀長にどのくらいで(日本が勝って)決着をつけるつもりか聞いていた。
3ヶ月で決着をつけると杉山は言ったという。
天皇は杉山に、シナ事変(日中戦争)は1月で決着をつけると言ったが、もう4年も経っているではないかと言った
開戦にあたり、山本五十六は「1年は持たせるがあとはわからない」と言ったという話もある。
FBI「テラサキファイル」真珠湾攻撃の真相を明かすと言われている。
FBIは当時の寺崎英成駐米大使一等書記官一家の行動や会話、そして大使館に宛てられた電文を分刻みで完全に把握していた。
24時間体制で尾行し盗聴を行っていた。
開戦前日、土曜日に無人だった日本大使館に日米開戦を知らせる電文が送られていた。
しかし、そこころ大使館員全員出席して寺崎の送別会があるチャイニーズレストランで行われていた。
真珠湾攻撃は日曜だった。
最初に、何か気になっていた駐在武官が当日休みの大使館に9時過ぎに出勤。
担当の奥村書記官は前夜遅くまでブリッジをしていて出勤が遅れた。
ただならぬ雰囲気にビックリした奥村はマニュアル通りタイプライターで一生懸命に宣戦布告のタイプでの清書にとりかかった。
アメリカ東部時間13時出撃命令を受けたゼロ戦を始めとした日本海軍機が空母を一斉に飛び立った。
先遣機は真珠湾をすでに目測していた。
13時50分 野村・来栖両大使はタイプを受け取り、アメリカ国務省へ向かった。
14時5分 真珠湾に第一迅の攻撃が始まっていた。
15時 ハル国務長官が宣戦布告文を受け取った時にはすでに攻撃から55分も経過していた。
しかも、受け取ったアメリカ側は「日本政府は、アメリカとの親善理解を求めていた・・・誠実に・・・」と書かれていたと皮肉コメントとして報道した。
しかし、アメリカはマジック(暗号解読システム)によって日本側のこうした暗号文を完全に把握していた。
ワシントンは事前に真珠湾攻撃を察知していた。
だから、最新鋭戦闘機や空母はすべて事前に退避させていた。
すべてを把握した上で戦争は行われた。
日本は開戦前の経済封鎖により、アメリカを攻撃するための絶対的な物資が不足していた。
アメリカには日本は石油資源や鉄鉱石などの地下資源や生ゴムを求めて南進することは目に見えていた。
アメリカの興業生産能力はすでに世界最高になっていた。
しかしその発言力はまだイギリスに負けていた。
戦後のヨーロッパ復興のためのアメリカの特需も期待できた。
その上、太平洋戦線に参戦することで環太平洋を経済的にも政治的にも支配が可能になる。
アメリカはイギリスの要請を受けてのヨーロッパ戦線参戦の口実も、アジアを日本植民地化政策からの開放という太平洋戦線への参戦の口実も手に入れた。
アメリカは本国を攻撃されること無く多くの利益と、国際的な地位と発言力を手に入れることが確実だった。
そしてアメリカは日本との戦争に突入した。
「リメンバー・パールハーバー」だ。
日米開戦前夜に東条英機は、天皇の意思に反して開戦に向かってしまったことで、布団の上に座り慟哭の涙を流した涙を祖母が見たと孫娘の東條由布子は書いている。
戦争が始まったとき、近衛は軽井沢の別荘で「僕は悲惨な敗北を予感する」と、つぶやいた。
真珠湾攻撃を知った松岡元外相は、友人にこう語ったという。
「三国同盟の締結は、ぼく一生の不覚だったことを、いまさらながら痛感する。
これを思うと死んでも死にきれない」
1943年 イタリア降伏。
1943年11月 カイロ会談:ルーズベルト、チャーチル、蒋介石が始めて一同に介した。この会談でこれまで以上に結束して日本と戦うことを確認した。
1945年5月 ドイツ降伏。
1945年8月 ソ連、日ソ中立条約を無視して参戦し、満州、朝鮮半島などに進撃。
1945年8月15日 天皇のラジオ放送で戦闘停止が告げられる。
1945年9月2日 東京湾上の戦艦ミズーリでポツダム宣言「無条件に武装解除」調印。
日本政府及び軍代表は降伏文書に署名し、日本の降伏が確定した。
1945年12月16日 近衛が「荻外荘」で服毒自殺
1946年5月3日 極東軍事裁判(東京裁判)が始まる
1946年6月27日 松岡洋右は裁判中、肺結核で病死。
1948年11月 東條に死刑判決 「すべての責めは我にあり」と言い残し、12月23日死刑執行。
三国同盟で重要な位置にいた松岡だが、
1893年 松岡洋右は13歳の時にアメリカで働きながら勉強することを決意し、アメリカに渡った。
松岡はオレゴン州ポートランドで最初に寄宿した先で使用人として重労働をし苦学した。
しかし次に寄宿した先の、ベバリッジ夫人に大変お世話になった。
彼女は松岡を差別せず、我が子と同等に扱ってくれた。
1901年までのアメリカでの生活で人間は対等の立場を欲する者は対等で望まなければならないと学んだ。
その恩が忘れられず1933年松岡53歳の時、再びここを訪れ、当時の感謝の思いを込めてここにベバリッジ夫人の墓を建てている。
国際連盟を脱退するきっかけとなったジュネーブ臨時総会からの帰り道だった。
その時、松岡洋右は「余はかつて、人生の発育期をこの国で過ごし、生涯忘るべからざる愛着の情を持つに至った」と語ったという。
東郷茂徳は戦後、日米開戦前夜のことを振り返って日記に記している。
『深夜の帝都は深い静寂の裡(うち)にあって、数刻の後には世界歴史上の大事件の起こるべき思い、種々の観想にうたれた。当時を偲ぶだに、いまなお目頭の熱きを覚ゆる』
おそらくこれが事実だろう。
しかし、それによって戦争責任は逃れられるものではない。
意地とか、誤魔化し、無責任、保身、いい加減、勇気の無さが戦争を生んだ。
間違った戦争にNo!と言える指導者が皆無。
日本のすべての指導者が弱かったため、多くの人の命や人生が奪われた。
それが戦争の原因だ。
天皇も軍部によって操られたから戦争責任が無いと言う者がいる。
それは間違いだ。
彼がNo!と言えなかったために、彼のために数百万二上る人が死したのだ。
天皇のために死ねば靖国神社に神として奉られるなど、バカげた嘘に嘘を積み重ね国民を洗脳し扇動した罪は重い。
また天皇らはそれを知りながら、世界に事実を知らせる義務を怠たり、ヒットラー、ムッソリーニらと並びその名で世界中を恐怖に陥れることに加担したことも重罪だと言える。
すなわち天皇も東條も及川も松岡もすべて戦争責任はA級だ。
No!と言えないばかりに、世界の人々を戦争に巻き込んだ罪は重い!
利権や昇進欲に塗れた政治は勿論やってはならない!
この戦争の原因にも、長年の腐敗した政治がその根底にあった。
国策の実権を握る政治指導者は正しいことは正しい、間違っていることにNo!と言える勇気がなくてはならない。
意地や気持ちや感情などで政治をやられたら困るのだ。
それこそ、No!だ。
今の日本はまるで開戦前夜だ。
痛みを知る改革は、すべての痛みを指導者が味わう覚悟がなくては出来ないのだ!
参考資料:テレビ朝日 田原総一郎スペシャル「日本は、なぜ負ける戦争をしたのか・・!?」 2001/8/12放送より / NHK その時 歴史は動いた 日独伊三国同盟 2001/9/26放送より
鳥飼行博研究室
鳥飼行博研究室その2
アルバート・パイク参照
「第一次世界大戦は、ツァーリズムのロシアを破壊し、広大な地をイルミナティのエージェントの直接の管理下に置くために仕組まれることになる。そして、ロシアはイルミナティの目的を世界に促進させるための“お化け役”として利用されるだろう。」
「第二次世界大戦は、『ドイツの国家主義者』と『政治的シオニスト』(パレスチナ地方にユダヤ人国家を建設しようとする人々)の間の圧倒的な意見の相違の操作の上に実現されることになる。その結果、ロシアの影響領域の拡張と、パレスチナに『イスラエル国家』の建設がなされるべきである。」
「第三次世界大戦は、シオニストとアラブ人とのあいだに、イルミナティ・エージェントが引き起こす、意見の相違によって起こるべきである。世界的な紛争の拡大が計画されている……」
「キリストの教会と無神論の破壊の後、ルシファーの宇宙的顕示により、真の光が迎えられる……」
レーニンンの伝記
レーニンの革命倫理参照。
ところでヒットラーの祖父(ソロモン・ロスチャイルド)のことは記事にしましたがいつかスターリンのことも記事にしましょう。
資本主義+共産主義=世界統一政府(正・半・合の弁証法)
第四インターナショナリスト
戦闘的無神論のボルシェビキ革命を支えた人々・Jacob Shiffはロスチャイルドの代理人。死後の米国での代理人はロックフェラー。
あと五年生きるはずだ。
ボルシェビキ当時のCHEKAの拷問部屋に見られる「ブルジョアジーに死を」とメンデスの山羊。(写真提供:クリストファー・ストーリー氏)
『階級支配を維持しようとする最後の狂暴な努力のなかで、ブルジョアジーは、人類を核による大虐殺や前例のない野蛮で独裁的な抑圧へと投げ込むのに躊躇しないだろう』(第四インターナショナリストより)。
アルバート・パイクの世界操作計画

(
とは言ってもこのフリーメーソン33位階の男の裏で誰が糸を引いていたかを知る方が大事だろう)つまり真の光と光を偽装しようとする闇の勢力を見きわめる力を養う.......これがここのブログの目的です。『オズの魔法使い』のビデオをレンタルしてご覧なさい。最後にカーテンの中から出てくる叔父さん(老ジョーカーさん)が『闇の勢力』の本当の姿ですよ。
オズの魔法使いのお話
実際元イルミナティの話によるとこれは弁証法を駆使した「不思議の国のアリス」などと同様イルミナティ養成のための一つのツールになっているという。
以下はイルミナティのシステムをつくるための(システムはイルミナティ用語でマインド・コントロールするための意味)プログラミングに使われている物語;
オズの魔法使い,お菓子の国,赤頭巾ちゃん,ヘンゼルとグレーテル,白雪姫,眠り姫,ゆきしろとべにばら,失われた地平線,架空の大きな本,不思議の国のアリス,海底二万マイル,国を持たない男,そして聖書の大部分(例えば,エゼキエル書の骨と皮の谷、ハルマゲドン物語,創世記,神殿,エゼキエルのろくろ,その他)
失われた地平線。いわゆる「シャンバラ(地底世界)物語」。
一般大衆をマインド・コントロールするために開発され,使用されているテクニックは以下の通り:
コントロールされた公教育による教育。これは歴史や道徳,権威,神についての偽りの見解を人々に提供することが含まれます。
精神に変調を起こさせる化学薬品や世界中の飲食物に添加されている人口甘味料など。

テレビ。視聴者を催眠状態にして,潜在意識となる思想を植えつけます(管理人注:いわゆるカール・ユングのプシコイド(精神物質)を中枢神経に植えつけるやりかた)。

脳に入る情報を暗号化した電磁波放送(特定の思考パターンを与えるELF=超低周波電磁波)
人間の精神と肉体をコントロールする,方向性を持ったエネルギーの散布。
健康の破壊。機能不全の病んだ肉体は,コントロールしやすい不活発な精神を助長します。
音楽などの中に隠されたサブミナル・メッセージ。
教化(多種多様の手段が用いられています)
新聞やその他のニュース・ソースによるコントロール。
不安や恐怖,憎悪を人間の心に植えつけることによるコントロール(管理人注:人工地震などはヒステリー状態をかもし出すにはうってつけだろう)
悪霊や地域的な霊の力などによるコントロール
マインドコントロールされた奴隷を作り出す。(例えば,モナーク・プログラム)<これに関してはいつか解説予定>
アメリカの宗教界のコントロール。30万人の聖職者が,今日アメリカに降りかかっている災難について真実を隠しています。
以上はイルミナティの准最高位まで昇ったCisco Wheeler(11位階)の話です。
なおここには書かれていませんが何よりも恐ろしいのは位相心理学を駆使したタヴィストックでしょうか。
ユートピアの表面的なゴールは人類に世界的な幸福を与えるというものである。しかし,彼らの裏に潜んだ意図は世界民衆の(マインド)コントロールを段階的に増して行くということでもある。19世紀に大英帝国とドイツは主要なイルミナティ(現在は4千万人のイルミナティがいるという)のコントロール地域であった。行動科学研究(Behavioral Science Research)は1882年にイギリスで設立された。しかし,マインドコントロールに関わる,最初の医学,精神医学技術はドイツのカイザル・ウイリヘルム研究所で開発された。Human Relationsのタビストック研究所は1921年にロンドンに設立された。人間のBreaking Pointの研究のために(注:人間がある限度を超えると正常な精神状態を保つことが出来なくなるポイント)。1932年,ドイツの精神医学者クルト・レウインがタビストック研究所の取締役となった。イギリスとドイツは壷の中の二つの豆のようにマインドコントロールを分け合った。彼らの兄弟団は(アドルフ・シュタイナー<ドイツ>とウイン・ウエスコット<英国>を軸とする)黄金の夜明け結社(Order of Golden Dawn)と黄金の曙ヘルメス教団を通してこれらの二つの団を結合させた。この秘密結社は多くのナチス党員とイギリス貴族社会を構成した。
『タヴィストックの重要人物にクルト・レヴィンがいる。彼はドイツに生まれたが,「住民コントロール実験」が政府に露見したために国外逃亡を余儀なくされた。英国に逃れていたレヴィンは最初の大仕事を与えられた。ヨーロッパと米国で反ドイツを謳ったメディア攻勢を仕掛けて,米国を第二次大戦に参戦させるプロパガンダ作戦である。レヴィンはめざましい成果を挙げた。米国民に強烈な反ドイツ感情,その後は反日感情を植えつけるのに成功したのである。史上最大のプロパガンダ作戦といえよう。その大作戦によって何十万という米兵が命を失い,数億十億ドルがウオール街,国際銀行,武器商人の懐をうるおした。.......湾岸戦争時に用いられたタヴィストックの手法をひとつ挙げると,国務省が在クウェート大使館員を「人質」といい続けたやり口である。捕らわれの身となった館員はひとりとしていなかった。(注:あの涙ながらにイラク人の非道を訴えた女の子は在米国クウェート大使の娘であったことがバレてしまったのは記憶に新しい)

Kurt Lewin
クルト・レビンやジョン・ローリングス・リースのタヴィストック流手法が大成功したのはなぜか。リースは,ストレステストや心理ショックといったストレス手法を用いて自己流の大衆洗脳実験を完成させた。現在詳細に解析が進んだリース理論は,全住民がストレステストを受ければ,与えられたストレス要因に彼らがどう反応するかを即座に予見できるというものである。この技法の核心は,世論調査を通じて意のままに世論を創造することに他ならない』<ジョン・コールマン著:タヴィストック洗脳研究所より要約>

このコンパスと定規のGマークはフリーメーソンの象徴として使われている。位階はおそらく4位階(ここをクリック)ではないだろうか。下の米国の警察のパッチはすべてそうなっている。つまり米国は国(Nation)ではなく英国東インド会社の末裔である集合体(Corporate)にすぎないことがわかる。
一ドル紙幣に書かれているNOVUS ORDO SECLORUMの意味は?
米国のリッチモンドで印刷されるFRBの100ドル紙幣の透かしにはアルバート・パイクが入っている。ここリッチモンドのFRBは莫大な大口の迂回融資が行なわれることを管理人は色々調べて知った。
米国の国璽の裏にもありますがWikiによるとその意味は「新しい時代」の意味で陰謀論者にかかると「New World Order」であるとういう。しかし,それが嘘であることを証明するとMDCCLXXVIをヘブライ語のカバラ数字に変換すると「1776年5月1日」となりイルミナティ結成の記念日である。米国独立記念日は7月4日であるが本当の記念日とは違う。信じられないかもしれませんが,世界の重要事項はすべてオカルト儀式で決定されている。そこで決定される事項は外にもれることはない。しかしここのHPの記事はその漏れることのないことを書いている。
上のアンダーラインの記事から『なお、現在、イルミナティには少なくとも2つのグループが存在していると思われる。すなわち、「ホワイト・イルミナティ」と「ブラック・イルミナティ」である。
1830年、臨終の枕に集まった弟子たちに、バヴァリア・イルミナティの創設者アダム・ヴァイスハウプトはため息まじりにこう語っていた。
「我々の理想を歪め、世間に悪評をばらまき、世のあらゆる陰謀をイルミナティになすりつけようとする黒魔術団がある。注意するのだ……闇のイルミナティに!』
DVD(Deutsche Verteidigungs Dienst)にとってBlackは長期展望に立ったものである。DVDはAbwehr とGehlen organisationから生まれたものでNAZIの超ウルトラ諜報機関であるそれが現在のGERMAN BLACK INTELLIGENCEの正体でありWHITE HOUSEの上に君臨するBLACK HOUSEの意味でもある。表のWHITEは人形劇を演じる。
Black is White,White is Black.That's the way it is! 黒+白=それが我々のやり方さ!つまり正・反・合ってやつ。
資本主義(Thesis)+共産主義(Anti-Thesis)=世界統一政府(A Defact SynThesis)
イルミナティはその実体がつかめないようにするために,多岐にわたる看板組織を通して,世界情勢を背後から操作しているという。CFR(外交問題評議会),ビルダーバーグ,ローマクラブ,三極委員会,シュライナーズ,フェビアン協会,神智学,薔薇十字,そして国連など,一万を超す看板組織が存在すると言われている。その存在はあまりに謎めいていて,部外者には,本当のことが全くわからない
ALTA VENDITAには何が書いてあるか?
ここで注意していただきたいのは米国ではUN POLICE(国連警察)という警察がうようよいて交通違反切符などを切っていることです(実際にこの目で見たことですから)。彼らが何のために米国にいるのかもうお分かりですよね? その時,彼らが使用する武器,弾薬の貯蔵庫(表は貸し倉庫となっている)は全米の全てのFEMA CAMPに隣接している。もうすでに誰が政権を取ろうが手遅れなのです。民主党は静かにしていることです。米国と対等のパートナーを主張することは裏のBLACKに喧嘩を売ることにもなる。日米安保条約をそのままにして対等も何もないでしょうに。そういう対等という言葉はフランスのように「水爆」を持ってからするべきです。徹底的に国として下手に出ることは忘れてはいけません。格好つけると日経平均3500円までやられますよ。Black POPEのMR.ZがオバマというBlackを選んだのはすでに実行段階に入っていることを意味する。次の大統領選挙はない。あるのは突然姿を現すFEMAの大統領である。21Reptilian Counselの顔である三名を伴って。
Concentration Campが正式に国の予算で造られている証拠文書。
House of Representative Washinton DC 20515-3308
March24,1997
MR.Zell Setzer
P.O.BOX 4198
Salisbury,NC 28145
Dear MR.Setzer
Enclosed is the information you requested pertaining to the Army's policy and guidance for establishing civilian inmate labour program,and civilian prison camp on Army installations.
This information has not yet been published(it is currently at the printers).However,it has been funded,staffed,and does reflect current Army policy.I hope you find this information usefull .
With kindest regards,I am
Sincerely Yours
Signed BILL HEFNER
このシナリオを描いているのは誰だ。
では個人はどうすればいいのでしょう。五陰盛苦多いに結構,では封印しましょう。残り時間は三年という秒読みに入っています。質の濃い生活を送ってください。まずは挨拶から始めましょう。国から何かをもらうことばかりでなく,国に何をすることが出来るかを考えることは大切です。またまた,いつもの悪い癖で記事が長くなってしまいました。ありがとう。
人間万事塞翁が馬ですから運命の女神に任せましょう。えてして,今の不遇はチャンスかもしれません。ソニーの創業者の一人井深さんが東芝の入社試験に落ちてソニーを起こした.......これらも人間万事......でしょうか。
人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)
中国の北の方に占いの上手な老人が住んでいました。さらに北には胡(こ)という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。
ある時どういうわけか、その老人の馬が北の胡の国のほうに逃げていってしまいました。この辺の北の地方の馬は良い馬が多く、高く売れるので近所の人々は気の毒がって老人をなぐさめに行きました。ところが老人は残念がっている様子もなく言いました。
「このことが幸福にならないとも限らないよ。」
そしてしばらく経ったある日、逃げ出した馬が胡の良い馬をたくさんつれて帰ってきました。そこで近所の人たちがお祝いを言いに行くと、老人は首を振って言いました。
「このことが禍(わざわい)にならないとも限らないよ。」
しばらくすると、老人の息子がその馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。近所の人たちがかわいそうに思ってなぐさめに行くと、老人は平然と言いました。
「このことが幸福にならないとも限らないよ。」
1年が経ったころ胡の人たちが城塞に攻め入ってきました。城塞近くの若者はすべて戦いに行きました。そして、何とか胡人から守ることができましたが、その多くは戦いで死んでしまいました。しかし、老人の息子は足を負傷していたので、戦いに行かずに済み、無事でした。
この話は、中国の古い書物「淮南子(えなんじ)」に書かれています。(注:ですから慌てず,ひるまず,畏れずに普通に生活をすることです)
「人間万事塞翁が馬」の「人間(じんかん)」とは日本で言う人間(にんげん)の事ではなく、世間(せけん)という意味です。「塞翁」というのは、城塞に住んでいる「翁(おきな)=老人」という意味です。総合すると、「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍へ、また禍から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」という事です。
完

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