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佐藤優、「私が言ってもいないこと」とは何だったかをついに明らかにする [2010-01-30 00:00 by kollwitz2000]
陰謀論的ジャーナリズムの形成(2):山口二郎の場合 [2010-01-22 00:00 by kollwitz2000] 陰謀論的ジャーナリズムの形成(1) [2010-01-21 00:00 by kollwitz2000] 日韓安保共同宣言 [2010-01-14 00:00 by kollwitz2000] 佐藤優のいない<佐藤優現象>(下) [2010-01-11 00:01 by kollwitz2000] 佐藤優のいない<佐藤優現象>(上) [2010-01-11 00:00 by kollwitz2000] 対『週刊新潮』・佐藤優裁判のための準備書面(2)を、1月25日に、裁判所と被告に送付した。これは、第4回期日(2009年12月14日)で陳述された、被告の準備書面(2)への反論を中心としたものである。以前記したように、この被告準備書面(2)から、被告側の反論も本格的なものになってきている。そこで、ウェブ上で、この被告準備書面(2)と、今回提出した原告の反論(原告準備書面(2))を中心に、公開していく。
どのみち後日まとめるが、原告の反論(原告準備書面(2))は、引用も含めて3万字以上あり、一気に公開しても読みにくいと思われるので、連載形式で紹介していく。 ---------------------------------------------------------------------------- まず、この裁判の焦点の一つは、私の論文「<佐藤優現象>批判」に対する、佐藤の『週刊新潮』記事での以下の発言 「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です。言論を超えた私個人への攻撃であり、絶対に許せません。そして、『IMPACTION』のみならず、岩波にも責任があります。社外秘の文書がこんなに簡単に漏れてしまう所とは安心して仕事が出来ない。今後の対応によっては、訴訟に出ることも辞しません」 の正当性である。 佐藤は一体、「<佐藤優現象>批判」内のどこを指して、「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書」いた箇所だと言っているのか。これは、私も分からなかったし、ある佐藤ファンすら分からなかったことを告白している。http://blog.goo.ne.jp/taraoaks624/e/8fc63517da4264ef220a968fd4c3f0c5 この点については、以前にも書いたように、何を指しているのか明らかにするよう佐藤に質問状を送ったが、佐藤は回答を拒絶していた。 http://watashinim.exblog.jp/9592397/ ところが、佐藤は、被告準備書面(2)において、ついに、「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書」いた箇所を明らかにしたのである!! それでは、被告準備書面(2)から引用しよう。 「第2 佐藤発言①について 1 被告ら準備書面(1)では、本件記事における被告佐藤発言を3つに分類し、「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です」という部分を①としている(5頁)。 この①の発言については、以下に述べるとおり原告の論文(甲3号証、以下、「論文」という)において、被告佐藤が言っていないこと、あるいは曲解された事実が多数記載されていることに基づくものであって、真実である。 2 言っていないこと 原告は、「論文」143上段2,3行目、下段12行目において、《佐藤の提唱する「人民戦線」なるものが、いかなる性質のものであるかを検証しておこう》《佐藤の言う「人民戦線」とは、「国民戦線」である》との記述を行っている。 しかしながら、被告佐藤は「人民戦線」とは言っておらず、「論文」でもそれに該当する箇所の引用はない。 また、原告は、「論文」6.及び7.において、被告佐藤が言っているとする「人民戦線」についての持論を大々的に展開しているが、佐藤自身が「人民戦線」と言っていないので、そもそもの前提自身が成り立たない。 3 曲解していること」(後略) このように、佐藤は、「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書」いた箇所を、「2 言っていないこと」と「3 曲解していること」の2種類に分けている。上では略したが、「3 曲解していること」は9箇所に渡っている。 その9箇所に関する主張は、全て、佐藤は反論が公開されることを想定しなかったのだろうか、と呆れさせるような稚拙な内容である。これらについては、原告準備書面(2)において逐一反論したし、この連載でもそれを紹介していくのであるが、そもそも、この「曲解していること」などと佐藤が挙げてくること自体が奇妙である。 佐藤が発言した「私が言ってもいないことを,さも私の主張のように書」いた箇所とは,普通に読めば、原告が被告佐藤の主張を捏造して批判している,という意味なのであって、「曲解」というのは解釈の問題なのだから(そして、後で示すように、私は全く曲解していない)、「私が言ってもいないことを,さも私の主張のように書」いたとするものとは全然次元が異なる。 多分佐藤は、後述するように、「2 言っていないこと」が主張として弱すぎるので、「3 曲解していること」を付け足したのではないかと思う。 この「3 曲解していること」を挙げること自体がおかしい、ということを確認した上で、本題の、「2 言っていないこと」を取り上げることにしよう。 なんと、佐藤が言っていた、「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書」いた箇所とは、「人民戦線」の箇所だったのである!!しかも、「言っていないこと」はここしか挙げていない。 「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です。言論を超えた私個人への攻撃であり、絶対に許せません。」とまで言うのだから、読者としては当然、金が佐藤の主張を捏造して批判したのだと佐藤は主張している、ととるだろう。私は、佐藤の主張を捏造した覚えは全くなかったので、『週刊新潮』での佐藤の発言を読んで以来、一体何を指して佐藤はこのように主張しているのか、訝しく思っていた。それで、「言っていないこと」として、「人民戦線」の箇所しか挙げられていないのを見て、しばし唖然としてしまった。そして、「人民戦線」とは言っていないなどという佐藤の主張自体が、以下で述べるように全く真実性を欠いている。 こんな弁明では、私が心配してやる必要はないが、佐藤ファンですら当惑するのではないか?そして、リベラル・左派は、佐藤自身が「人民戦線」と言っていないと主張しているのだから、「右翼」「国家主義者」を自称する佐藤をいかなる理由で重用するのか、「人民戦線」以外の理屈で公的に説明すべきであろう。 前から推測しているように、佐藤としては、『週刊新潮』で恫喝すれば、岩波書店が金を黙らせると思っていたから、何の根拠もなくあのように発言し(「滅茶苦茶な内容」だとすれば、私に反論する必要もなくなるわけである)、裁判沙汰になってからはじめて「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書」いたと強弁できそうな箇所を探したのかもしれない。それほどやっつけ感が漂うのである。 さて、上で挙げた佐藤の「人民戦線」云々について、原告準備書面(2)で書いた反論を引用する。 「(2) 被告が「言っていないこと」と主張しているのは,唯一この「人民戦線」の箇所のみであるが,それすらも真実ではない。 被告佐藤は,その著書『佐藤優 国家を斬る』(同時代社刊,2007年10月5日初版刊行。甲36号証)の93頁から94頁にかけての箇所で,以下のように述べている(強調は引用者,以下同じ)。 「右の媒体にも左の媒体にも書いていますので,いろいろ会合に呼ばれることは多いんですが,圧倒的に右の方に呼ばれることが多いんですね。そうすると,「大日本者神国也(おおやまとはかみのくになり)」とか,あるいは「万邦無比の我が国体」という発想がどういうことなのかとか,そういう話をするんですが,実は右の言語でも左の言語でも,同じことが言えるわけなんです。「反ファッショ統一戦線」というのと,私が理解するところの「国体の護持」というのは全く同じなんです。そんなことをいうと,皆さんきょとんとされていると思うんですが,それは国体をどう定義するかという問題なんです。その定義にかかってくるわけです。国体とは日本ファシズムみたいなものだと,そんな国体という概念は全くろくでもない。しかし,『神皇正統記』の中には,多元的な世界で価値を認め合うんだと,書かれているんですね。あるいは室町時代にできた「猫の草紙」というのがあるんですね,『御伽草子』の中に。猫というのは実は日本サイズに現れたトラなわけです。我々は非常に小さい国だからそういったような自分たちの分をわきまえなきゃいけない。だから排外主義的な発想なんか持ったらいけないんだよといって,アジャリに猫が説教する,こういう話があるんですね。私はこういうようなところが,日本人が書く日本人観かなと思っているんです。」 そして,93頁には,「反ファッショ統一戦線」という語について,以下のように注釈が付されている。 「反ファッショ統一戦線 一九三〇年代に,コミンテルンの決議にもとづいて,各国共産党が,ファシズムと戦争に反対する多様な政治勢力の統一戦線戦術を採った。一九三五年のコミンテルン第七回大会のディミトロフ報告で提起され,翌三六年のフランス,スペインでの人民戦線内閣の成立として実を結んだ。」 この注釈の執筆者が被告佐藤であるかは,同書中に記載がないので不明だが,被告佐藤名義の単著として同書が刊行されている以上,少なくとも,被告佐藤がこの記述に承認を与えていると読者が理解することには,十分な合理性があると言える。 被告佐藤は,「日本について考える場合,北畠親房が『神皇正統記』の冒頭で宣言した,「大日本者神國也(おおやまとはかみのくになり)」というのが,私にとっての基本テーゼであります。」(甲37号証,佐藤優「丸山真男の呪縛から脱却せよ」『月刊日本』2007年3月号24頁),「筆者の理解では,われわれの歴史において,日本の国体が危機に瀕したことが二度あった。第一回目は,まさに北畠親房が活躍した14世紀の南北朝の動乱で,第二回目は60年前に終わったあの戦争である。ここで皇統が途絶えるような事態が生じたならば,日本国家も日本人も解体してしまったことであろう。南北朝の動乱の結果,足利義満が日本国王になり,中国皇帝の臣下となったならば,日本国家は中華帝国の内部に包摂されることになったと思う。第二次世界大戦の結果,皇統が廃止され,日本が共和制になったならば,社会主義革命が起き,「日本民主主義人民共和国」が成立し,人民民主主義の優等生となった日本人が「日本民主主義人民共和国」を「日本ソヴィエト社会主義共和国」に改組し,ソ連邦への加入を申請したことも十分考えられる。そこでは日本や日本人という名称が維持されても,伝統を断ち切られ,文化的に異質な「日本人」の残骸しか残らなかったことであろう。第二次世界大戦直後に,日本の政治・軍事エリートが「大日本者神國也」という国体の本質をアメリカ占領軍に理解させようと試み,これに対してアメリカがプラグマティズムの観点から皇統の維持という決断をしたからこそ,今日,われわれは日本人として生き残ることができたのである。」(甲38号証,佐藤優『日米開戦の真実――大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』小学館刊,2006年7月1日初版発行,287~288頁)と述べているのであるから,被告佐藤が,「国体の護持」という概念に肯定的であり,「国体の護持」が必要であると認識していることは明らかである。 そして,被告佐藤は,その「国体の護持」と「反ファッショ統一戦線」は「全く同じ」だと明言しており,しかも,「反ファッショ統一戦線」という語には,「人民戦線内閣の成立として実を結んだ」と明確に記述する注釈が付されている。ここで説明されている「反ファッショ統一戦線」は,一般に,「人民戦線」と基本的に同義のものとして解釈されていることは周知のことであり,そのことは注釈で「人民戦線内閣」と記述されていることからも明らかである。したがって,原告の「論文」内の《佐藤の提唱する「人民戦線」なるものが,いかなる性質のものであるかを検証しておこう》《佐藤の言う「人民戦線」とは,「国民戦線」である》という記述が正当であることは明らかである。 被告は,被告準備書面(1)において,「私が言ってもいないことを,さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です。」という被告佐藤の発言を「真実である」と主張し(5頁),被告準備書面(2)において,「被告が「言っていないこと」と主張している点」として,この「人民戦線」の記述を挙げているが,被告が原告の「論文」内で,この箇所以外に「被告が「言っていないこと」と主張している点」を挙げていない。そして,この箇所は被告佐藤が「言っていないこと」ではない。被告の主張は失当である。 (3)また,そもそも,原告による,「論文」中での「人民戦線」という記述は,被告佐藤の主張を要約したものである。 原告は,「論文」において,「佐藤は呼びかける。「ファシズムの危険を阻止するためには,東西冷戦終結後,有効性を失っているにもかかわらず,なぜか日本の論壇では今もその残滓が強く残っている左翼,右翼という「バカの壁」を突破し,ファシズムという妖怪を解体,脱構築する必要がある」(50)と。魚住昭は,呼びかけに応じて,「いまの佐藤さんの言論活動の目的は,迫りくるファシズムを阻止するために新たなインターアクションを起こすことだ」と述べており(51),斎藤貴男も,前掲の『週刊読書人』の記事で,「魚住の理解に明確な共感を覚えた」と述べている。」と,被告佐藤の主張を示し,被告佐藤の主張が,「人民戦線」と要約される意で受容されていることを示している。 また,「論文」中の,《佐藤の言う「人民戦線」とは,「国民戦線」である》の記述においては,「国民戦線」という一般的な用語と対比する形で,一般的な用語として「人民戦線」という用語を示している。 また,被告佐藤の主張する,ファシズムを阻止するために「左」と「右」を超えて連帯しようという政治的方針のことを,一般に,「人民戦線」と呼ぶことも,周知の事実である。『広辞苑 第六版』(岩波書店刊,2008年1月11日発行)の「人民戦線」の項でも,「ファシスト独裁および戦争に反対する,共産主義・社会主義の政党に自由主義政党も加えた広範な統一戦線。」とあり,「統一戦線」の項には,「政治運動などにおいて,ある共通の目標に対して諸党派または諸団体が協同して形成した持続的な運動形態。人民戦線の類。」とある。 被告佐藤は,原告の「論文」において,「言論を超えた私個人への攻撃」であり,被告佐藤をして「絶対に許せ」ないと思わしめた,「滅茶苦茶」な,「私が言ってもいないことを,さも私の主張のように書」いた箇所が存在すると主張しているのであるが,これが,一般読者の普通の注意と読み方に従えば,原告が被告佐藤の主張を捏造して批判している,という意であると解されることも明らかである。 被告が挙げる「人民戦線」の箇所は,「滅茶苦茶な内容です。言論を超えた私個人への攻撃であり,絶対に許せません。」という論評の前提となるに足る真実性を有するものとしての,実質を欠いており,形式論へのすり替えであることは明白である。被告の主張は失当である。 (4)また,被告佐藤は,山川均や和田洋一(1903~94,元同志社大学文学部教授)といった,1938年に人民戦線事件で検挙されたことで知られる人物の主張を,リベラル・左派系のメディアで,しばしば好意的に取り上げている。和田が深く関与していた雑誌『世界文化』の同人たち,および山川均が同事件で検挙されたことは,高校の日本史教科書にも記述されている,周知の事実である。このことは,被告佐藤が自らを,「人民戦線」への志向を持った人物として,リベラル・左派系の読者に印象づけようとする行為であると解されるべきである。 被告佐藤は,『獄中記』の「序章」において,和田洋一について,「和田先生には前科があった。一九三八年六月二四日に治安維持法違反(京都人民戦線事件)で逮捕され,翌三九年一二月一四日までの五三八日間の獄中暮らしをした経験がある。」と書いた上で,「序章」全般にわたって,和田との学生時代以来の親しい交流を描いている。 また,これは論文刊行後であるが,被告佐藤の著書『世界認識のための情報術』(金曜日刊,2008年7月10日発行)では,「『週刊金曜日』への私の想い――序論として」の1頁目から,同じく和田に関する説明と和田と佐藤との交流が9頁にわたって述べられており,しかも,この「序論」の章全体(全31頁)が,被告佐藤が語るところの和田の姿勢と発言を補強する形で構成されている。 また,被告佐藤は,『世界』2005年7月号から9回にわたって掲載された連載「民族の罠」の,第8回目(2006年3月号)と最終回(2006年4月号)において,山川均のファシズム論を好意的に紹介しており,また,「山川均の平和憲法推進戦略」(『世界』2008年6月号)でも,山川均の安全保障論を肯定的に解釈し直して紹介した上で,同文章を「山川均はまさに日本におけるマルクスの後継者なのだと,筆者は見ている。」と結んでいる。 山川均は,共同戦線論の提唱者としても知られている。『広辞苑 第六版』の「山川均」の項の全文は,以下のようになっている。 「社会運動家。岡山県生まれ。明治末以来社会主義運動に従事,赤旗事件で入獄。日本共産党創立に参画。山川イズムと称される共同戦線党論を主張。再建共産党には加わらず,労農派論客として活躍。第二次大戦後は日本社会党に属し,社会主義協会を創設。(一八八〇-一九五八)」 また,雑誌『世界』,被告佐藤の著書『獄中記』を刊行する株式会社岩波書店,『世界認識のための情報術』を刊行する株式会社金曜日は,一般的にはリベラルまたは左派系の出版社として知られる。 したがって,被告佐藤は自らを,「人民戦線」への志向を持った人物として,リベラルまたは左派系の読者に印象づけようとしていたと解されるべきであって,このことからも,被告佐藤が実質的には「人民戦線」について記述していたことは明らかである。 以上,原告が「論文」で被告佐藤が「言ってもいないこと」をさも被告佐藤の主張のように書いたとする被告の主張が,真実でないことは明らかである。」 (4)は駄目押しのようなものであり、主張としては(2)(3)が中心的なものである。佐藤が形式論に逃げようとしていること(しかもそれすら成立していない)は明らかである。そして、この「人民戦線」云々のみで「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です。言論を超えた私個人への攻撃であり、絶対に許せません。」と主張しているのだから、呆れるほかない。 しかも、「佐藤優の言論封殺行為について(原告「準備書面(1)」より)」で述べたように、『週刊新潮』の記事が、「原告の社会的評価を低下させることにより,論文の信頼性の低下を企図して,被告佐藤が,昵懇の『週刊新潮』記者,被告新潮社,被告早川清と結託して成立せしめたことは明らか」である。佐藤は、「言っていないこと」がこの「人民戦線」云々のみであったにもかかわらず、この結託行為を行なっているわけであるから、これが、「原告に対する人身攻撃」であり、「原告の社会的評価を低下させることにより,論文の信頼性の低下を企図」したものであることも自明である。これによって、私の論文への反論を回避しようとしたのだろう。まさしく「言論封殺」行為であり、絶対に許されるべきではない。 もちろん、佐藤を相変わらず使い続けるマスメディア、特に、リベラル・左派も同罪である。このことは、「首都圏労働組合特設ブログ」で書いたが、岩波書店(および岩波書店労働組合)が、この『週刊新潮』の記事に乗じて、私への「言論封殺」行為を行い、退職することすら促したことに、大変明瞭に現れている。 佐藤のこうした言論封殺行為およびそれを支える諸言動が、マスメディア、毒にリベラル・左派によって公然と容認されていること自体が、私が<佐藤優現象>と呼んでいるものの一つの現われである。この裁判では、佐藤とともに、こうしたリベラル・左派をはじめとしたマスメディアの異常さにも注目が集まることを期待する。 山口先生、山口先生!きっとまだお気づきではないと思いますが、大変なことが発生しました!ご承知のように、現在、CIAや自民党、特捜検察といった、政・官・業・外・電の悪徳ペンタゴンが、民主党革命を破壊しようとしています。そして、悪徳ペンタゴンの一翼たる読売新聞は、なんと、山口先生のご発言を180度歪曲し、デッチアゲを行なって、山口先生の信頼性を貶めようという大謀略を仕掛けてきたのです!!(以下、強調は引用者です)
2010年1月16日(土)付 読売新聞朝刊 山口二郎・北大教授(政治学)の話 「石川議員が政治資金収支報告書に記載しなかった資金の原資や、ゼネコンとの関係をまず明らかにしてほしい。国民は政治資金に高い透明性を求めている。政治資金規正法はそうした国民の声を背景にしており、違反することは単なる形式犯ではない。国民の期待を裏切る重大な犯罪だと認識すべきだ」 ↓ ↓ ↓ 2010年1月17日(日)付 東京新聞朝刊 「石川知裕代議士が国会開幕直前に逮捕された事件には、私も仰天した。政治資金収支報告書の不備くらいで国会議員を逮捕するなど、非常識な話である。検察のねらいは、ゼネコンからの裏金の流れを裏付ける自白を取ることなのだろう。これまでマスメディアが伝えてきた疑惑が本物かどうか、私にはまだ判断ができない。(後略)」 ----------------------------------------------------------------- 山口先生が、あの1・15事変に接して、上の読売の記事のような発言をなさるはずがありません!また、山口先生が、わずか一日で、見解を180度変えることなどありえるはずもありません!!これが、山口先生が石川さんの逮捕に否定的な見解をお持ちであることを見越した上での、読売による曲解・捏造であることは明らかです。この捏造を見て、私は、怒りに震えると同時に、「権力って、ここまでやるのか・・・」と慄然としました。これはまさに、私たちの同志たる北村肇『金曜日』編集長がおっしゃるところの「国策報道」にほかなりません。 山口先生は、検察に利敵行為をはたらいて恥じない共産党と果敢に闘うなど、これまで、民主党革命の擁護者として、一貫して最前線を歩んでこられました。この謀略は、読売と国家権力が一体となって、民主党革命の擁護者として著名な、そして、私たちの大切な政治的頭脳である、山口先生を狙い撃ちにしたものに違いありません。壮大な陰謀の匂いを感じます。 悪徳ペンタゴンは、山口先生の発言を捏造することによって、あたかも、「山口は当初は思ったとおりの見解を述べたが、その後、他のマスコミ人たちや民主党議員たちが、<国策捜査>論や<民主党対官僚>論や<検察リーク>論で、石川議員を擁護して全面突破しようとしていることがわかってきたから、一夜にして意見を180度変えた」などという、誤りに満ちた印象を、人々に与えようとしているに違いありません。 上の東京新聞では、山口先生の文章が載っているのと同じ見開き面に、青木理さん、魚住昭さん、大谷昭宏さんといった私たちの同志による、検察批判が掲載されています。読売をはじめとした悪徳ペンタゴンは、山口先生の発言を捏造することにより、「山口は状況次第でどうにでも意見を変える。「ことは法律問題ではなく、政治闘争である」といった山口の主張も、論点のすり替えだ。山口にせよ他の民主党応援団にせよ、同じようなもので、検察やメディアへの批判で彼ら・彼女らが掲げるご大層な理念も、別に自分で信じているわけではない。彼ら・彼女らはそれを口実として利用しているだけで、党利党略で批判しているだけだ。だから、この連中は、平気で陰謀論(者たち)に与するのだ」などという、不当極まりない印象を、人々に与えようとしているのではないでしょうか? ところで、大変良いことを思いつきました。僭越ですが、以下のことを山口先生に提案したいと思います。このことを読売に抗議して、謝罪を勝ちえた上で、その顛末を山口先生のホームページに掲載してはいかがでしょうか? 読売から謝罪を引き出し、読売が小沢さんを叩き落すためにはこのような捏造を平気で行なうことを示せば、民主党革命を破壊しようとする悪徳ペンタゴンが大きな打撃を被ることは間違いありません。これにより、私たちはこの聖戦において、必ず勝利を得ることができるはずです。 山口先生については、「山口が主張を変えることは珍しくない。ここ20年で、何回変えたかわからない」などといった、心ない誹謗中傷をよく聞きます。山口先生は、昔からこのような中傷に晒されていたと聞いています。読売の捏造を示すことで、このような中傷が悪徳ペンタゴンによるデッチアゲであること、山口先生がこの20年間、一貫して悪徳ペンタゴンに狙い撃ちにされてきたことも証明できるはずです。 そういえば、私の知人も、「2008年10月の時点で、山口は、「本来独立して行政権力に対する監視機能を持っているはずの裁判所までが政治的な問題について及び腰であることも、自民党永久政権のせいである。」などと主張して「政権交代」の実現を訴えているのだから、「政権交代」後の検察による小沢や鳩山への捜査を擁護しなければ一貫性がないだろう」などと言っていました。ですが、山口先生には言うまでもありませんが、自民党永久政権が復活する可能性が存在し、民主党革命が進行しているときに、裁判所が政治的な問題に口を出したり「監視」を行なってはならないことは明らかであって、山口先生が本当はそのようにおっしゃりたかったことは、普通の読解力があればわかるはずです。私の体験例からも、山口先生への批判が曲解と歪曲に満ちたものであることは、容易に想像できます。 幸い、山口先生はホームページを頻繁に更新されていて、各種メディアで主張されたご発言を再掲載されています。捏造されたのだから当然ですが、読売でのご発言は掲載されていません。私たちは、山口先生に、ぜひとも、読売でのご発言を掲載し、これが読売による不当な捏造であることを主張し、謝罪を勝ちえて、その顛末を掲載していただきたく思います。これによって、私たちは、この悪徳ペンタゴンとの最終決戦において、決定的な勝利を勝ち取り、民主党革命の成就に向けた大きな一歩を踏み出すに違いありません!闘争勝利!! 小沢一郎関連の政治資金規制法違反事件に関する言説を見ていて改めて驚かされるのは、検察の捜査を「国策捜査」「司法による政治介入」として、陰謀論的に非難する言説が一定の勢力を形成していることである。これは、昨年前半の西松事件の際にも見られた傾向であるが、今回はより本格化しているようだ。
だが、司法の活動により政党や政権が結果的に打撃を受けるということは、三権分立による権力の相互抑制ということなのであって、一般的には何ら問題ではない。今回の件について言えば、小沢やその周辺が「シロ」であることが明白であれば「国策捜査」といった批判もわからないでもないが、恐らく批判者たちも含めて誰もそうは思っていないのだから、上記のような検察批判は滑稽としか言いようがない。「検察リーク」論も、他の被疑者の場合には民主党がここまで問題にしたことはないのだから、説得力を欠いているし、小沢自身が違法性を認めている以上、それで免罪にされるはずもなく、論点のすり替えとしか言いようがない。だいたい記者クラブを残しておいて、今回に限って特定の新聞社と検察との癒着を批判するのも奇妙である。 民主党は、「現行憲法の原則は「国民主権」であり、三権分立の規定はどこにもない。」(菅直人『大臣 増補版』岩波新書、2009年12月、246 頁)といった主張をするような人物が幹部の政党なのだから、民主党が検察を非難するのは分かるが(単に、民主党議員たちが小沢を恐れているとか、小沢からカネを貰っているとか、そういった問題ではない)、今回の件で検察を非難する人々は、三権分立をどう考えているのだろうか。 この件については、共産党が今回は(恐らく選挙対策で)頑張っているので、参考までに「しんぶん赤旗」の記事を掲載しておこう。 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-01-18/2010011801_04_1.html 念のために言うが、私は、今回の検察の捜査は純粋に「正義」のために行なわれている、検察が特定の政治的意図を持っているはずがない、などと言っているわけではない。今回の捜査は「アメリカ(CIA)の陰謀」かもしれないし、「自民党の陰謀」かもしれない。だが、検察が特定の政治的意図を持って捜査を行なっているなどということが立証不可能である以上、そのような理由を挙げて検察の捜査を抑制できるということになれば、それこそ三権分立の否定であり、立憲主義の崩壊である。巷では、今回の捜査をして、民主主義への挑戦などと主張する発言も散見されるが(他ならぬ民主党議員が主張している)、本末転倒としか言いようがない。陰謀論を公然と主張することによって、それが建前ではあれ、否定しようのない原則を覆すことができるという発想が蔓延しているという事態こそが、異常である。 ウェブ上では、「去年の西松事件は小沢側に問題があったが、今回の件は検察がやり過ぎ」といった言説も散見される。だが、当たり前すぎて改めて言うのも気がひけるが、この種の主張は一層意味不明である。去年の西松事件の際には民主党はまだ野党であったから、「政権交代を検察が潰そうとしている」といった主張が出ること自体は理解できるが、民主党が巨大与党と化した現在、そのような主張が意味をなさないことは明らかである。 今回の件の、リベラル・左派ジャーナリズムへの影響について考えてみよう。 佐藤優らの「フォーラム神保町」と似たような組織で、高野孟が主宰する《THE JOURNAL》という「ブログサイト」があるが(中心的なメンバーも、「フォーラム神保町」とかなりかぶっている)、このあたりのマスコミという利権集団に巣くう人々(これほど「巣くう」という表現がふさわしい連中もいまい)が、検察批判の中心的な役割を担っている。 恐らく今後、一連の「小沢VS検察」をめぐる言説を通じて、『世界』や『金曜日』のようなリベラル・左派ジャーナリズムやその周辺の書き手たちは、この種の「国策捜査」論的陰謀論者たちと融合していくと思う。既にその傾向はあったし、人脈的にもかなり重なっているが、この件を通じて一体化が完了するのではないか。《THE JOURNAL》は、不偏不党な公正なジャーナリズムではなく、政治家や特定団体のプロパガンダ機関であろうが、リベラル・左派ジャーナリズムもそれと融合してブラック・ジャーナリズム化する、ということである(リベラル・左派ジャーナリズムのブラック・ジャーナリズム化については、以前にも触れた)。 また、小沢の影響力が低下すれば、割と早い時期に、民主党は社民党と国民新党を切って、公明党と連立を組むと思う。そうなれば、護憲派ジャーナリズムや市民団体は、民主党と対決するどころか、民主党の個々の政治家から捨てられないために、ますます小沢にすり寄っていくだろう。共産党系の憲法学者も、今回の件で検察を批判していたことから考えると、共産党系の書き手の一部(大部分?)もこういった流れに実質的に合流していくように思う。9・11陰謀論が一角にあっても、さして違和感を感じさせない構成になるだろう。 日本の大衆は、マスコミや知識人ほど政治的判断力が低くないから、民主党の小沢擁護論は完全に浮き上がっている。こうして形成される陰謀論的ジャーナリズムも、大衆から遊離していくだろう。 「平和」と「人権」について、まともに社会に訴えたい人々は、こうした流れと手を切っておく必要がある。 読売新聞1月8日「日韓、初の安保宣言検討…北の核に連携強化」
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100107-OYT1T01526.htm 産経新聞1月8日「日韓安保共同宣言「機運高まっている」」 http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100108/plc1001081055005-n1.htm 東亜日報日本語版1月9日「鳩山首相、「日韓安保宣言」構想に前向き姿勢 韓国政府は慎重」 http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2010010962308 日韓の安全保障共同宣言である。現時点では、韓国政府はその事実を否定しているが、いずれこれは政治日程にのぼってくると思う。朝鮮日報は、「これが事実なら、韓日関係において1965年の国交正常化以来の大事件になり得る」と報じている。 以前に書いた記事で、自民党と民主党の安全保障政策が基本的に連続していることを指摘し、記事の末尾で前防衛大臣補佐官の森本敏の発言を紹介したが、改めて引用しておこう。 「森本は同書で、日米同盟、米韓同盟はあっても日韓同盟がないことを問題視し、日米韓の安全保障協力関係の構築、防衛協力ガイドラインの設定、朝鮮半島統一の前に韓国を日本に引き寄せることを提唱している。来年に本格化するであろう日韓の「和解」キャンペーンも、こうした文脈の中にあると考えるべきだろう。」 日韓安保共同宣言も、もちろん、森本の主張と同じ線上にあるのであって、安全保障政策の面で、自民党と民主党には何の違いもないことが改めて裏付けられたと言える。ちなみに、「日韓同盟」の提唱者といえば、最近の姜尚中先生である。 面白いことに、朝鮮日報日本語版は上記報道の同時期の1月9日に、「「アジア安保共同体」に向けた遠い道のり」なる記事を掲載している。鳩山政権が提唱している「東アジア共同体」が目指しているのは、ここで言及されている「「集団自衛」措置」を含んだ「集団防衛体制」である。ここでは外交部高官の言葉を借りて「不可能」とされているが、日韓安保共同宣言は、それをも視野に入れて構想されているのだろう。 前にも書いたが、東アジアの集団防衛体制=「東アジア共同体」が成立すれば、「対テロ戦争」へのアメリカの諸負担は格段に減るから、かえって一層、先進国による中東やアフリカ等への軍事介入は増えるだろう。もちろん、東アジアにおいても、そうである。 だから、「平和」的な装いをほどこしてはいるが、「東アジア共同体」が実現すれば、「対テロ戦争」はますます増えるだろう。 今年の日韓の「和解」キャンペーンは、このような文脈で進められるわけである。その「和解」が政治的に成立すれば、その状態がそのまま継続しようが(日韓同盟→東アジア共同体)、破綻しようが、どちらに転んでも災厄にしかなりえない(「天皇政治利用問題と天皇訪韓」参照)。このようなキャンペーンに乗るべきではない。 3.
最新号の冒頭の21頁にわたる座談会(天野恵一・鵜飼哲・崎山政毅 「「政権交代後」の課題」)が、特集「新政権を考える 現場からの視点」の中心であろうが、これがもう、突っ込みどころ満載である。ほとんど逐語的に批判したい衝動にかられるが、時間もないので、以下、目についたところを指摘する。 ここで天野は、「『現代の理論』あるいは『世界』のように民主党にアイデンティファイしちゃって「民主党革命」万歳じゃなくて」と、一応は自らと『世界』との「立ち位置」の違いを強調するが、座談会で天野が言っていること自体は『世界』とほとんど変わらない。言葉づかい自体は相変わらず「無党派左翼」っぽいが、むしろ、「きっこの日記」あたりを愛読するような左派ブロガーを想起させる。冒頭の、事業仕分けを称賛するところから呆れさせるが、根本的に、民主党政権を運動側が介入するチャンスだとしているのが倒錯としか言いようがない。渡辺治も天野と似たようなことを言っているが、極小サヨクが巨大政党にどうやって影響を与えられるというのか。社会的に見れば、そういう状態を指して、極小サヨクが民主党に取り込まれた、と呼ぶのである。前にも書いたが、民主党政権に左翼が強い影響力を与えうると考えているのは、左派(メディア)とネット右翼だけだ。 あと、「アフガニスタンに軍事的な構図での協力を事実上していくシステムとするためには、集団的自衛権は邪魔だというのは、それはあるわけですよね。それは小沢に一貫してある。国連のお墨付きという前提の上でね。」という発言も酷い。天野は、小沢の解釈改憲論を、だから自民党よりましだと言いたげだが、小沢が言っているのは、国連決議があれば「集団的安全保障」の名の下で、集団的自衛権を行使しても問題視する必要はなくなるということである。常識ではないか。 「(注・小沢には)要するに、アメリカは壊れた、とんでもないものだという認識はあるわけだよな。」という発言も、ナイーブすぎるとしか言いようがない。個々の現状分析もその多くが間違っている。特に、雑誌『正論』の論調を読んで右翼について云々しようとするスタンスが、時代錯誤というか、痛々しい。右派における『正論』の影響力なんてほとんどないよ。 鵜飼の発言にも、同種の問題点を指摘せざるを得ない。例えば、以下の発言である。 「なぜ2000年代の改憲攻勢は失敗したのか。最初にいっておかなければならないのは、今回の政権交代、なんとなく遠くから眺めている印象もあるんだけれども、99年の145国会から9・11を経て小泉・安倍政権に至る十年間はものすごいきつい時期だったわけで、それなりに皆必死に闘ってきた。今回の選挙は、短期的には最悪の事態を回避したという意味はあるでしょう。そこに、民衆闘争の力量が何らかの形で反映していることは間違いない。」 「改憲攻勢」は失敗したどころか、今月からはじまる通常国会で成立が確実視されている臨検特措法や国会法改正のように、実質的な改憲の道は一段と現実味を帯びている。なぜこれで「最悪の事態を回避した」と言えるのだろうか?明文改憲という「最悪の事態」さえなければよい、とでもいうのだろうか。憲法の文言上の観点から見ても、こうした法案が通り、アフガニスタンに派兵されれば、憲法上は誰が見ても無理があるのだから、遅かれ早かれ改憲されるだろう。「民衆闘争の力量」云々は、魯迅が嘲笑した、精神的勝利法の典型とでも言うほかない。 また、鵜飼の発言については、民主党政権を、フランスで「左翼が政権を取った」「二回」の事例としての、人民戦線内閣・ミッテラン政権と同列で論じることにも驚かされた。一応鵜飼は、「人民戦線やミッテランの時代のフランスとの比較は、民主党が国有化を含めた社会主義的政策を取るとは思えないから、そこは区別して考えないといけないと思いますが。」と留保はつけているが、それはあくまでも「政策」の違いでしかないのであって、鵜飼が両者について、左翼政権という性格は同じだ、と考えていない限り、このような同列視は無理だろう。 鵜飼は一応、「この連立政権をさしあたり支持しようというスタンスはちょっと楽観的すぎると思う」などと言っているから、「民主党革命」万歳の天野よりマシなように見えるが、果たしてどうだろうか。経験上、こういう姿勢の人というのは実際にはより面倒なのである。この手のタイプの人に問題点を指摘すると、「全くその通りですね」と賛同はするが、それによって意見が変わるかというと、何も変わらない。お前の批判の論点はわかっている、と回収されるだけで、議論が成立しないのである。「他者」性が存在しないのだ。こういうタイプの人は、左派に大勢いる。 あと、座談会で、在特会に過剰な意味づけや時代画期性を認めていることにも呆れた。天野の「僕たちみたいな運動の世界に生きている人間は、ネット右翼がものすごく大量に出てきている気持ちは日々実感している。ああいうふうに右翼が街頭大衆運動みたいに出てきたのは、やっぱり戦後史を画する事態になっているんじゃないか。」という発言や、鵜飼の「僕もこのところ機会があって話をするときは、今までにないタイプのファシズムが、この民主党の政権交代を一つの契機にしてい起こってくる可能性があると主張しています。在特会は日本で初めての真性ファシズム運動という位置づけもある。」などという発言がそうだ。同様の認識は、『金曜日』で、同じく『インパクション』編集委員の岡真理も述べていた。 前にも書いたが、在特会のようなレイシスト団体が日本社会で大衆化する可能性は極めて低い(別の記事でも書いたように、大衆的な極右運動が現われるとすれば、朝鮮系日本人を含める形で現れるはずである)。在特会の行動の過激化と犯罪行為は、もちろんそれ自体として大きな問題であり、その活動への反対運動は重要ではあるが、在特会はあくまでも「鉄砲玉」である。 在特会に「今までにないタイプのファシズム」などと画期性を認めることは、在特会のような「過激」な行動にはその多くは同調しないであろう、日本社会の排外主義的性格を不問に付し、在特会に反対することであたかも「良識派」たりえるようなアリバイを提供することになるだろう(どうでもいいが念のために書いておくと、在特会と日本国家・社会の同質性という問題は、某ブロガーの支離滅裂な主張の弁明にも利用されていたが、私の主張はそれとは無関係である)。 現に、在特会に対しては、佐藤優の熱心なファンや、北朝鮮への軍事的「人道的介入」を実質的に容認する新左翼といった、どうしようもない連中も反対の意を表明している。「<佐藤優現象>批判」で指摘したように、これは、ありもしない「ファシズム」の脅威に対する「人民戦線」である。実際には、<佐藤優現象>の帰結たる「大連立」の方が、ファシズム的である。 そもそも、朝鮮学校への襲撃は、90年代に日本の警察が行なっていたことであり、朝鮮総連への政治弾圧も国家によって行なわれている。国家がやっていたことを民間(在特会)がやっているだけだ。天野や鵜飼が言うような、「在特会」が「下からのファシズム」としての画期性を持つもの、という規定について、「確かに間違っているかもしれないけれど、そう規定した方がより多くの人が関心を持ちそう」などとあえて支持する人々がいるかもしれないが、そうした規定は大衆的には説得力を全く持たないのであって、むしろそうした規定で戦後の日本社会を無垢なものとして描いてしまうことの方が、悪影響をもたらすと思う。そこにあるのは、平和だった日本社会に亀裂が生じている、という認識(感覚)であって、それこそが<佐藤優現象>を駆動させている認識(感覚)である。 4. 『インパクション』と佐藤優との絡みで言えば、今号で森宣雄が、恐らく沖縄の左派に媚びて、どうでもいい文脈で佐藤を肯定的に引用している。それも問題だが、より端的な例がある。 『インパクション』と関係が深い太田昌国は、2008年2月15日に発表された文章で、佐藤優のどうということもない発言を好意的に紹介している。 http://www.jca.apc.org/gendai/20-21/2008/gyoza.html 時期に注目しよう。私の論文が掲載された『インパクション』第160号が出版されたのは、2007年11月であるが、その少し後にこれは発表されている。 太田が、『インパクション』第160号に、「<佐藤優現象>批判」が掲載されたことを知らなかったはずはない。ここからは私の推測になるが、太田は多分、わざわざ佐藤の文章を好意的に紹介して、「左翼のみなさん、左派論壇から佐藤を排除してはならない」というメッセージを送っているのだと思われる。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への武力行使や朝鮮総連への政治弾圧などを主張する佐藤が、左派論壇の一角にいることで、「左翼も拉致問題を真剣に考えている」というイメージが作られるからである。 これは、以前にも指摘したが、「左翼も拉致問題について考えていますよ」と日本社会で「立ち位置」を確保することを目的とした、太田の『拉致異論』の論理的帰結でもある。 その意味で、佐藤優が登場しない場合も含めた<佐藤優現象>を成立させた大きな要因として、北朝鮮バッシングに直面したリベラル・左派の防衛機制を挙げることができるだろう。 天野恵一は、2003年2月に発表された座談会で、あからさまに、以下のように述べている(天野恵一、池田祥子、太田昌国、白川真澄、ダグラス・ラミス「座談会 日本人拉致問題にどう向き合うか――北朝鮮と私たち」『ピープルズ・プラン』第21号、2003年冬号。強調は引用者) 「僕は、拉致が明らかになったことで、日本社会はすさまじいことになるという予感がした。一番大変なのは、戦後補償の問題のように、ここ十何年それなりに運動がいろいろと積み上げてきたことが、すべて押し返されてめちゃめちゃにされてしまうだろうと感じました。日朝間で経済協力方式で歴史的な問題をすべて収めてしまう方向が決まってしまったが、拉致問題との関係で、抗議の声を出しにくい。反天皇制運動連絡会でも、とにかく経済協力方式に対してだけは抗議しようということで、声明を出しました。その時の討論では、強制連行は大勢の人数だったのに拉致はたったあれっぽっちじゃないかという相殺の論理に立つ政治主義的な論議が多分たくさん出てくるだろうから、やはり被害者には一人一人固有の歴史や社会的文脈があるのだから、一人一人の具体的被害こそ問題なのだから、相殺できる問題ではないということをちゃんと言っておくべきだろうという確認をしました。 日本の中では、在日朝鮮人の人びとや運動もすごく深刻な事態になっていくだろうと思います。もともと破壊活動防止法という悪法は朝鮮総連を対象にして作られたものですが、総連自体と北朝鮮の直接的な関係の構造が洗いざらい表に出てきたときに、一体どうなるのか。また、それと共闘してきた日本の運動体がどうなるのか。 そして、左翼の正義感の前提が壊れつつある。メディアでいえば、『諸君!』とか『正論』とか『VOICE』とかの右派の言論がジャーナリズムの主流に出てきています。ラミスさんの言論が載るようなメディア、例えば『世界』が嘘をついてきたというのは極端かもしれませんが、拉致問題に限っていえば本当のことを言っていたのは右翼だったわけで。そういう逆転の中で、運動における混乱が生まれています。正義感が逆向きになっていて、例えば北朝鮮が五人を帰さないかもしれないのだから、本人たちの意思であろう永久帰国ということを国家が決めてしまうのはやむを得ないというような意見が、運動の中にも出てきていないわけではない。」 ここには、日本社会において恐らく座談会当時吹き荒れていた、北朝鮮や朝鮮総連や在日朝鮮人へのバッシングに対抗するという認識は全くなく、むしろ、日本の左翼になんとかしてその火の粉がふりかからないようにしなければ、という焦りしか見られない。恐らく、そういう焦りが強いから、朝鮮人強制連行を問題化することは「相殺論」の名の下で切り捨てられ、「『世界』が嘘をついてきた」などという虚偽の主張すら行なわれているのであろう(注4)。 現に、天野にしても『インパクション』にしても、この後、日本社会における北朝鮮への好戦的論調、在日朝鮮人への排外主義に対してほぼ沈黙している。呆れることに、「「新自由主義」とナショナリズム――安倍政権下で加速化される改憲策動」と題された、天野と渡辺治による二段組40頁近くにわたる対談(『インパクション』第157号、2007年4月刊)の中でも、北朝鮮問題はほとんど触れられていない。それこそが、安倍政権下の「改憲策動」における駆動力であったにもかかわらず、である。 「平和」と「人権」を考える人間は、こうした馴れ合い的な左派(注5)から手を切るべきである。 2010年は、佐藤優のいない<佐藤優現象>ではない、真っ当な批判的言論を作っていきたい。 (注4)これは恐らく、和田春樹あたりを指していると思われるが、太田による同趣旨の批判に対して、和田は、説得的に反論している(「われわれの過去の意味ある総括のために――太田昌国『「拉致」異論』に答える」『同時代批評――日朝関係と拉致問題』彩流社、2005年3月)。 (注5)天野は『インパクション』の「編集顧問」であるが、同じく「編集顧問」である、池田浩士氏と私のやりとりの件を紹介しておこう。 私は、論文発表直後、『週刊新潮』、岩波書店、岩波書店労働組合からほぼ同時に攻撃を受けたので、私の論文を評価してくれている人から、応援のメッセージをもらい、首都圏労働組合特設ブログに掲載させてもらおう、と考えた。 そこで、池田氏が私の論文を評価してくれていると聞いていたので、2007年12月21日に池田氏にメールで連絡し、メッセージをいただけないか、うかがった。 池田氏は、自分は電子メディアにあまり見解を載せたくない、自分は『インパクション』編集顧問であるから、意見表明するとすれば、誌面で行いたい、近々深田氏と会うのでその旨伝えたい、という返事をメールでいただいた(12月25日)。 私は池田氏の回答に感謝した(これは皮肉ではない)上で、深田氏が佐藤と会うと言っていることを伝え、深田氏の不当な発言と私の批判を付記し、池田氏が深田氏に会う際に、深田氏に、会うことをやめるようお願いしてもらえないか、メールでうかがった(12月26日)。 これに対して、池田氏から、お断りのメールが来た(12月29日)。もちろん、断られることは仕方がないが、その理由がふるっている。 池田氏は、深田氏の発言には一切触れずに、深田氏と自分は29年来のつきあいで親友だ、親友であるということは、あらゆる思想信条やイデオロギーが同一ということではなく、「お互いの違いを尊重し愛惜したうえでのこと」だ、一週間ほど前に知り合った金の深田評価に軽々しく同調するつもりはない、と述べた上で、金が「ひとに踏み絵を踏ませ」ようとした、などと非難してきたのである。 「踏み絵」もなにも、私が挙げたのは、深田氏の具体的な(不当な)発言なのだから、会った際に深田氏に確認すればよいだけの話ではないか。親友であるがゆえに言いにくい、というのはありがちであるが、まさか、「親友」(「深田さんへの信頼と敬愛」)であることを理由にして非難されるとは思いもよらなかった。 左派系の雑誌の書き手の人選は、大半が意味不明で、「なぜこの人物が未だに業界で生き残っているのか?」という書き手が山のようにいるが、こうした老年の麗しき友情によって支えられているのだと思う。ほぼ例外なく下らない、年配の新左翼系ブロガーのエールの送りあいからも、同じような雰囲気を感じる。 1.
最近、以下の記事を知って、唖然としてしまった。朝日新聞2009年12月17日付の記事である。 ---------------------------------------- 運動の論理貫き30年 理論・情報誌「インパクション」 死刑廃止や反基地、反天皇など、大手メディアが伝えない運動を紹介し続けてきた理論・情報誌「インパクション」(隔月刊)が創刊30年を迎えた。 (中略) 創刊時、すでに学生運動のピークは過ぎ、左翼系総合誌の休刊も始まっていた。代わって登場したのが、ウーマンリブや自然保護など、シングルイシューを掲げた雑誌。創刊以来編集長を務める深田卓さん(61)は「それぞれの運動がタコツボに入り、『専門化』しかけていた。各運動をつなぐ総合的なメディアが必要だと考えた」という。 ほぼ一人で編集実務を担い続けてきた深田さんは、86年に独立し、「(株)インパクト出版会」の社長になった。現在の発行部数は数千部、30年前より3割ほど落ちたと言い台所は楽ではないが、DTP化で制作費が30年前の3分の1に下がったこともあり、十分採算はとれていると話す。 07年11月には、金光翔氏の論文「〈佐藤優現象〉批判」が注目された。「反貧困」の特集号では、20~30代の若い読者もつかんだ。しかし、あえて「売れ筋」企画を繰り返すことはしない。商業誌として30年間成り立たせてきたが、根っこにあるのはあくまでも運動の論理だ。 「この手法は総合雑誌としては通用しないかもしれないが、ほかの雑誌がやらないことを運動現場の視点から考えることが特徴。単なる評論をするつもりはありません」(樋口大二) http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200912170233.html ---------------------------------------------------------- この記事が出るにあたっては、当然、深田氏も事前に読んでいるだろう。私が呆れたのは、以前書いたように、深田氏が私に対してあれだけ非常識な対応をとり、佐藤優とも率先して手打ちをしておきながら、「07年11月には、金光翔氏の論文「〈佐藤優現象〉批判」が注目された」などと、あたかも深田氏らの功績であるかのように描かれていることである。どこまで厚顔無恥なのだろうか。 小谷野敦は、この件に関する『インパクション』の対応について「やっぱりダメなバカ左翼雑誌か」と評しているが、その評価の正しさを再確認させられる。 「根っこにあるのはあくまでも運動の論理だ」などとされているが、だとすれば、「<佐藤優現象>批判」も「運動の論理」として掲載されたことになるわけだから、深田氏が佐藤と率先して手打ちをしたことはなんだったのか、ということになる。ひょっとすると、ここでの「運動の論理」とは、党派性の下では原則や正義をねじまげる、という意味で使われているのかもしれない。そのまんまであるが。 『インパクション』の中心メンバーは、反天皇制運動連絡会(反天連)周辺の無党派左翼であるが、この手の「無党派」左翼が、実際には、セクト以上にセクト的に動き、自分たちの利害次第で原則や正義を簡単に踏みにじる、というのは、ごくありふれた事例であろう。『インパクション』は、こういった中心メンバーの周辺に、ポストコロニアル系の研究者がいる、という配置になっている。 板垣竜太氏がなぜ編集委員をやっているのか、とたまに読者から質問されるが、私に聞かれても分からない(笑)。板垣氏には、このブログ内を検索すれば分かるように、いろいろな点でお世話になっているが、もともと私とは基本的なスタンスは異なっており、共闘するところは共闘する、という関係である。 それにしても、上の記事は突っ込みどころ満載で、「「反貧困」の特集号では、20~30代の若い読者もつかんだ」という箇所も笑ったが(そんなものでつかめる読者に何の意味もない)、「十分採算はとれている」という箇所にも驚いた。じゃあ雀の涙でも原稿料を出すべきだろうに(注1)。私が深田氏に驚いたのは、原稿料が出ないこと自体よりも、原稿料が出ないという説明が深田氏から一切なかったことである(「原稿料が出ないんだったらもらえないか」ということで、かわりに、インパクト出版会発行の本1冊か2冊と私の論文が掲載された号の『インパクション』を20部ほどもらった)。載せてやってありがたく思え、とでも言わんばかりだった。原稿料が出ないことを正式(?)に知ったのは、論文掲載号が出版されてから1カ月ほどして、常連執筆者に確認した時だ。 深田氏といえば、深田氏が佐藤と会うらしい、という話を編集委員から聞き、私が電話で「佐藤と会うそうですが・・・」と聞いたとき、深田氏は「あ、金さんには言うなって言ったのにな・・・。気にするから」と言っていた。深田氏は書き手である私に黙って会おうとしていたのである。まさに談合である。 深田氏は、私が「首都圏労働組合特設ブログ」で『週刊新潮』の記事による攻撃への反論をはじめた際、「ブログなんて意味がない。そんなにブログに価値を認めているのならば、論文も、『インパクション』ではなく、ブログで掲載すればよかったのではないか」とも言っていた。それでいて、佐藤と深田氏を仲介した安田氏をブログで批判すると逆上するのであるから、意味不明である。ブログに意味はないというならば、無視すればいいではないか。 (注1)今号の「編集後記」では逆に、深田氏による、経営が苦しいという読者への訴えが掲載されている。どっちなんだ。朝日の記事を見て、「だったら原稿料を払え」というこれまでの書き手たちからの抗議が来たのかもしれない。 2. それにしても、上の朝日の記事などから、「『インパクション』は<佐藤優現象>に感染していない」と捉える人がいるかもしれないが、事態は全く逆であると考える。 論文「<佐藤優現象>批判」を読めば自明だと思うのだが、論文を支持してくれている方々の中にも誤解しているとしか思えない人々が若干見られるので改めて強調しておくと、私が問題にしているのは、佐藤優というよりも<佐藤優現象>であり、リベラル・左派の「国益」論的なものへの変質である。すでにその変質はほぼ完了してしまっている。 もちろん、佐藤をリベラル・左派メディアが起用しないことは望ましいことではあるが、逆に、佐藤と懇意であったり起用されていたりすれば、その人物やメディアが<佐藤優現象>に巻き込まれていることが分かるので、大変都合がよかったわけである。問題は、佐藤と一見関係がなさそうな人物やメディアですら、<佐藤優現象>として立ち現れる、「国益」論的な変質(転向)の傾向を強く持っているケースが往々にしてあることである。佐藤優のいない<佐藤優現象>だ。奇妙な例としては、私の論文に賛同を示す人の中でも、右翼と共同で雑誌を立ち上げる人々とか、自称「ファシスト」と親しいらしい若手労働運動家とか、変な人たちもいる。残念ながら、雑誌などで書いている文章からそう判断せざるを得ないのだが、「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」への署名者にも何人か、当てはまる人々がいる。 この「佐藤優のいない<佐藤優現象>」を構成する人々やメディアには、私が論文やブログで行なってきた、<佐藤優現象>に親和的なリベラル・左派への批判が、大体当てはまる。 この「佐藤優のいない<佐藤優現象>」が問題なのは、<佐藤優現象>と距離をおいている、またはそれを批判しているはずの論者たちの言説が、同じような問題を再生産してしまう、という結果をもたらしかねないことである。もちろん、佐藤をリベラル・左派メディアが起用することは、「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」が指摘するように、「人権や平和に対する脅威と言わざるを得ない佐藤氏の発言に対する読者の違和感、抵抗感を弱める効果をもつことは明らか」なのであって、リベラル・左派メディアによる佐藤の起用が終わることが望ましいことは自明であるが、<佐藤優現象>にまともに対抗するには、そこに止まるべきではないと思う。 また、「リベラル・左派が佐藤を使うことをやめてくれさえすればよい」とすることは、従来どおりの、「改憲派対護憲派」または「保守・右翼対リベラル・左派」という図式を再生産することになる。もちろん、現在の左派に見られる、民主党政権(一定)支持という傾向は、この図式に則ったものである。 これでは、『世界』や『金曜日』など、護憲派ジャーナリズムの主要な雑誌や論者たちが、既に「国益」論的なものに変質している、という事態を全く捉えられなくなってしまう。アメリカの民主党やイスラエルの左派、日本の民主党がそうであるように、護憲派ジャーナリズムのような、「国益」論的に変質したリベラル・左派の主張は、それ自体としてある種の整合性・体系性を持っている。論文「<佐藤優現象>批判」でも指摘したつもりなのだが、今の『世界』や『金曜日』が佐藤優を起用することは、別に矛盾でもなんでもないのであって、矛盾しているのはいまだにそれらの雑誌が「平和」やら「人権」やらを標榜(する記事を掲載)していることである。このブログでも何度も指摘しているように、『世界』や『金曜日』が佐藤を起用するのは必然であって、一過性のものではない。 逆に言えば、佐藤優の起用には距離をおく、もしくは反対しながらも、「佐藤優のいない<佐藤優現象>」には感染している人々の方が、矛盾しているのである。その矛盾は、遅かれ早かれ、第二・第三の佐藤優が登場するか、同質の問題が登場するかによって「解消」されることになるだろう。これは、赤松克麿らが1932年に日本国家社会党を結成した際には、大部分の無産運動が批判していたにもかかわらず、数年後には似たような主張を展開するようになっていくことと同型的である。 この構図は、以前述べたように、かつて山口二郎を批判していた渡辺治の転向、竹田青嗣を批判していた姜尚中の転向、といった形で完全に反復されている。 そして、『インパクション』が、「佐藤優のいない<佐藤優現象>」と呼ぶべき論調にあることは顕著であると思う。書き手として朴裕河が登場していること(注2)がその象徴である。以前、「仮に私の論文が載らなければ、『インパクション』は佐藤を登場させていたんじゃないですか」とある編集委員に述べたところ、この人物も、「そうかもしれない」と言っていた。私は、最新号(第172号)のいくつかの記事を図書館で読み(注3)、ますますその思いを強くした。 管見の範囲では、こういう紙媒体の左翼雑誌の中で、存在意義のあるものは一誌もないのであって、そうした左翼雑誌への幻想をなくしておくためにも、私の論文が掲載されたことによる読者への誤解を解くためにも、『インパクション』が「佐藤優のいない<佐藤優現象>」に感染していることを指摘しておくことは必要であろう。また、その問題点は、「佐藤優のいない<佐藤優現象>」のよい事例となっている。以下、最新号のいくつかの記事と、同誌および「佐藤優のいない<佐藤優現象>」を規定していると思われる傾向について述べる。 (注2)なお、『インパクション』は毎号、「「運動のメディア」読者会報告」として、『インパクション』読者会参加者による前号の感想会の様子が掲載されている。第171号を評した今号のそれでは、朴裕河の論文が賛否両論だったことが述べられた上で、「大沼保昭や和田春樹など国民基金に関与した人びとの主張も含めて、否定一辺倒ではなくあらためて洗いなおしてみる必要がありそうだ。」とまとめられている。この見解は、「国民基金」的な「和解」論に親和的な、現在の『インパクション』周辺の<空気>をよく表していると思う。 (注3)今号から新しく編集委員に加わった金友子は、呆れることに、『ロスジェネ』の執筆者である。これは、同じく「若手」の在日朝鮮人である、崔真碩(チェ・ジンソク)が、佐藤優と親しげに座談会で話していることとも、同質の問題を孕んでいると思われる。 金友子の今号の文章は、参政権について「問題」の周りでたたずむ自分語りに終始しているものだが、驚いたことに、昨年秋に国会提出を予定していた民主党の外国人参政権案について、「永住者のうちでも「わが国と外交関係のある国の国籍を有する者もしくはこれに準ずる地域を出身地とする者」としている。この限定を設けることで、ある種の人々を排除しようとしている。」と一見批判的に解説した上で、この文末に、「まったく制限を設けるな、と言いたいわけではない。」などと自注を付している。逆に言えば、制限を設けてもよい、ということらしい。これでは、金友子が弱々しく異議を唱えているらしい、朝鮮籍を排除しようとする小沢案に対して、反論できないだろう。
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