司馬遼太郎先生、これが日本人だよ 3 さっさと全ての略奪品を返せ!強盗野郎
「お互いが信頼しあえるように、過去の溝を埋めていきたいね。」と自らの加害責任を棚に上げてふざけたこと上から目線でいう、倫理観ゼロの朝日新聞の記事より。
朝鮮王朝蔵書 宮内庁に存在
【ソウル=牧野愛博】朝鮮王朝が所蔵していた図書や王への講義に使われた書物が、日本の宮内庁に保管されていることがわかった。1910年に日本が韓国を併合後、朝鮮総督府を通じて日本に流出したとみられる。宮内庁にあることがすでに確認されている同王朝の儀典書「朝鮮王室儀軌(ぎき)」と同様、韓国側から返還を求める声が高まることが予想される。
所在が判明したのは、「帝室図書」と呼ばれる朝鮮王朝の図書のうち、当時の医学や習慣、軍の歴史などを紹介した書籍38種類375冊と、歴代の王が教養を高めるために受けた講義「経筵(けいえん)」に使われた書物。昨年、韓国政府が調査を実施し、宮内庁に保管されていることを確認した。
1392年に建国された朝鮮王朝の初期のものもあり、韓国で国宝に次ぐ重要文化財「宝物」に指定されている医学書と同種類のものや、海外に散逸して全体像がわからない書籍集も含まれている。
日韓両政府は、国交正常化した1965年に文化財・文化協力協定を結び、韓国に由来がある国有文化財約1300点を日本が引き渡すことで合意。両政府とも「国際法上は決着済み」との立場だ。
だが、「朝鮮王室儀軌」をめぐっては、韓国の国会が2006年12月に返還要求決議を採択。韓国側が08年4月の日韓外相会談で、国内事情を説明する形で暗に返還を求めた。
新たに所在が判明した「帝室図書」と「経筵」関連の資料も、流出経路が「朝鮮王室儀軌」と共通している。このため韓国政府内には、日韓併合から100年の節目の今年、3点そろっての返還を実現し、両国の未来志向の友好関係を印象づけたいとの期待感も広がりつつある。
朝日新聞 2010年1月31日朝刊
はぁ?「日本の宮内庁に保管されているのがわかった」、「1910年に日本が韓国を併合後、朝鮮総督府を通じて日本に流出したとみられる。」だと?
それは日本政府と日本の天皇が「強盗」、「略奪」したもの。しかも略奪品を素直に返還する気もないらしい。さすが近隣を地獄に落とした侵略国家。ふてぶてしいにも程がある。
これのどこが、「過去直視し未来へ交流は着実に厚み」(2010年1月27日朝日)なんだ。(笑)そもそも、加害者から「未来志向」なんて口が裂けても言っちゃいけないし、加害事実さえしらばっくれているのに、「お互いの信頼を築こう」なんて人格障害にでもなってなければ言えないだろう。
朝日新聞、こういった事実をまともに書く気もないのに、このところ、都合の良い韓国人を出して、「ほうら、良い韓国人はいつまで過去のことをほじくるなんて、もうしません」「過去は過去、水に流して仲良く未来志向」なんて記事を恥ずかしげもなく3日連続(「百年の明日 日本とコリア」 2010,1,27-29)で書いている。
まるで、日本による強占後、朝鮮人の強い抵抗運動を隠すために書いた当時のプロパガンダ記事と見まちがいそうだ。
2010年1月29日朝刊では、「友情交わす日 信じて 民族の美 守った柳宗悦と妻」なんて、加害者が自画自賛する吐き気を催す倒錯した記事。その柳宗悦こそは、根底に朝鮮民族を見下す、安っぽいヒューマニズムをもって朝鮮民族の良き理解者と自己陶酔した偽善者。柳の博愛に満ちた民族侮蔑観は、そのまま司馬遼太郎につながる。
柳宗悦と司馬遼太郎の朝鮮民族への偽善的ヒューマニストぶりを備仲臣道氏が『司馬遼太郎と朝鮮』で的確に指摘している。
京都の新聞社で寺院を受け持っている司馬遼太郎が、西陣の町寺で骨董商か伊勢辺りの大工の棟梁か、得体の知れないU氏と一緒になり、その男が庭の隅に転がっていた壺の破片を見て、朝鮮ではないかーーという言葉を発するところから、この物語は、はじまる。
その破片について、司馬はこう書く。
破片には、白い釉薬のうえに鉄砂の絵があらわれている。くるりと一重の渦を描いただけの投げやりな絵で、この何とも言えぬ物憂げさが朝鮮や、とU氏は言いかさねた。
投げやりな絵で、この何とも言えぬ物憂げさーーと司馬が作中のU氏に言わしめているところに、はしなくも司馬の李朝陶磁に対する浅薄な理解、あるいは朝鮮観の一端がこぼれ出ているのを見なければならないだろう。ここには、李朝や高麗陶磁の美を「悲哀の美」と規定した柳宗悦の誤りが、なんら検証されることなく、まっすぐに出ているのであるが、しかし、司馬のこの視点はのちに見る「李朝五百年の停滞」につながるものであるということを、ここでは指摘しておきたい。
柳の「悲哀の美」は「朝鮮の友に贈る書」の中でつぎのように書かれている。
私は朝鮮の芸術ほど、愛の訪れを待つ芸術はないと思う。それは人情に憧れ、会いに行きたい心の芸術であった。永い間の酷い痛ましい朝鮮の歴史は、その芸術に人知れない淋しさや悲しみを含めたのである。そこにはいつも悲しさの美しさがある。涙にあふれる淋しさがある。私はそれを眺めるとき、胸にむせぶ感情を抑え得ない。かくも悲哀な美がどこにあろう。それは人の近づきを招いている。温かい心を待ちわびている。(柳宗悦 『民藝四十年』岩波文庫)
深読みがお得意の柳宗悦は、朝鮮の美を説明するのに窮して、ついに、永い間にわたって外勢に侵略されてきた「苦悶の歴史」のせいにしたのである。この悲哀の美論は、あちこちにいろんな害毒を流したと言っていい。
柳君のように我がままで、自分に随順するものか自分を尊敬する者かでなければ容れられぬ人物にとって、朝鮮の工芸を通じて朝鮮と朝鮮人とを愛し得たのは、幸福だったといえるかも知れないーーーと安倍能成は「柳宗悦君を惜しむ」という文に書いている。(安倍能成「柳宗悦君を惜しむ」『涓涓集』所収 岩波書店)
柳の李朝美術への理解は浅川巧を主な媒介としているが、浅川が滑らかに話した朝鮮語を柳は話せなかった。海軍少将を父親に持つ上流家庭に生まれ育ち、学習院から東京帝大を出ている柳は、常に浅川の後ろにいて、高いところから朝鮮民衆を見下していた。ひいき目に見てさえ、その姿勢は旦那が憐れみを垂れる態のものでしかなかった。前記の安倍の文の別の所に「自己中心的で貴族的」とさえ書かれている柳は、尊大で自身に対する思い入れの強すぎる人間であった。
だから、柳宗悦が李朝の芸術について、悲哀の美と見誤ったのは、気位の高い柳が、朝鮮民衆に対して自らの心を開かなかったために、民衆の心、ひいては美の根源に触れることも出来なかったのが主因である。彼の性格や姿勢を土壌として、自ずと生え出たものが、悲哀の美という、苦しい解釈であった。
ーー
司馬は、そうした柳の誤りをそのままに引き継いで作品に反映させている点において、その姿勢を、まず問い直しておきたい。
『司馬遼太郎と朝鮮』備仲臣道 2007 批評社
司馬遼太郎と朝鮮―『坂の上の雲』‐もう一つの読み方
著者:備仲 臣道 |
隣国人を見下し憐れみを持って偽善の自己陶酔をする前に、自分たちが道徳観さえもちあわせていない野蛮人だということを自覚してほしいね。(嘲笑)
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