code 150-0044 no. 02 |
「撮ったところで何にも使えないでしょうが」
「昇給査定に必要だろ」
まるで刺身を食べるには醤油が必要だ、と同じくらい、殿岡は平然と言ってのけた。
「最低」
つられて、つい笑ってしまった。
「あーあ、来週からどんなツラしてアイツの顔見りゃいいのかわかんねぇな」
「私もだよ。 もろにこっち向かれてるからさぁ、気まずいったらないよ」
「しかも、飲み会のネタには使えないしな」
相変わらずクソガキ仕様の笑みを浮かべたまま、殿岡は私に向き直った。
厚手のカシミアコートにくるまれた肩は、意外と広い。
1軒目の居酒屋が2時間制とのことで、私たちはいったんお店を出た。
そうしたら、アルコールのせいで変な方向にテンションが上がっていたのか、ここ最近では珍しく、殿岡が2軒目に行こうと私に提案してきた。土曜日に予定もなく、彼氏もいない私は、殿岡と一緒に道玄坂をぐだぐだのぼって行った。
2軒目のお店は、円山町の片隅にある。 私たちは、いかがわしい街の谷間にこじんまりと暖簾を構えるおでん屋さんに入った。ここは大学時代に発掘した隠れ家で、内輪だけでのどかに飲みたいときによく使った。
「なんか知らないけどさ、最近やたらメールが来るんだよ。 元気? とか、仕事はどう? とか、風邪に気をつけてね、とか、そういう感じで」
「ふぅん。 それでどう返信してるの?」
「そのまま。 元気、仕事は順調、気をつけるよありがとう、って」
「うっわ。 つまんない男」
「だってさ、わかるんだよな。 あいつは俺とやり直したいんじゃなくて、俺がまだあいつに気があるってことを確かめたいだけなんだよ」
「あるの?」
「ないよ。 っていうか、なくなった。 こんなくだらないメールを送ってくるような女だったのか、って、ちょっと失望した」
拗ねた幼稚園児みたいな顔をして、殿岡は大根をむしゃむしゃほおばった。
あくまで想像なんだけど、きっとこいつは、こういう顔を恋人の前で見せたりはしないんだろう。デキる男が、ほんのときおり、こういうちょっと幼稚な表情を見せるだけで、女はその男に親密さを覚える。必要とされているんだ、と感じる。
でも、殿岡はそういうことをよしとしない。 顔に似合わず、古臭いプライドの持ち主だから。
だからこうして、臨界点ギリギリになったら、しょぼい部分をさらしても何ら差し支えない私にぶちまける。 こちらとしてはメリットもないしそれなりに迷惑なんだけど、まぁ、昔からデキのいい殿岡のヘボい姿を眺めたり、そんな男をなだめたりするのは、それほど苦痛じゃない。
あぁ。 哀しい哉、腐れ縁。
「うぅ、寒い。 早く春にならないかなぁ」
おでん屋を出ると、真冬の夜風が私の頬を切るようになでた。
「今年の花見、どうする?」
さっきまで元カノのことをグチグチ愚痴っていたくせに、殿岡はやはり切り替えが早い。
「まだ1月だよ」
「お前ねぇ、いいところは事前チェックが、って、え?」
「ん? なに?」
なぜか唖然とした様子の殿岡の視線をたどった。私もきっと、彼と同じ表情になっていたんだと思う。
私たちの視線の延長線上に、非常によく見知った2人の人間がいた。
小柄でずんぐりむっくりした男性と、ほっそりしたショートカットの女性。 “垂れ目”こと殿岡の4期先輩と、私の部署の同じく4期先輩。 彼らは同期。 そしてともに既婚者。 その2人が、円山町のラブホ街を、腕を組んでくっついて歩いていた。
「うわぁ、マジかよマジかよ。 嘉穂、あいつら尾行しようぜ」
ただでさえつぶらな目を、殿岡は好奇心と興奮でキラキラさせた。 私たちの夜の探偵ごっこの始まりだった。そして今、そのお遊びは、2人のラブホテル入館を見届けたところで終わりを迎えようとしている。
殿岡は黙って私を見下ろしている。
「俺にもあれくらいの甲斐性があればいいのかねぇ」
へらり、と気の抜けた笑顔を浮かべて、殿岡がつぶやいた。
「いらないよ。 あんなの」
とっさに、私はちょっと強めの口調で答えた。
「そう? まぁ、ああいう頭の悪い種類のは願い下げだけどさ。 男としての貪欲さっていうの? 俺はそういうの、足りてないだろ?」
こいつ、どうしてこんなことを私に聞くんだ。
幸か不幸か、私たちは道のすみっこにいた。 右へ左へせわしなく行きかう人々が、殿岡と私の邪魔をしてくれることはない。
悪趣味なピンク色のネオンが、へらへら笑いを貼りつけたままの殿岡の横顔に当たっている。
「ま、ヨイコの私たちはお家に帰りましょうよ」
私は場違いなくらい明るい声で切り出した。 殿岡の質問は流すことにした。
本当は、このまま何事もなかったみたいに「じゃあ、また来週」と別れる気分じゃなかった。 今さっき目撃したネタを肴に飲み直したかった。ついさっきまでは。
だけど今は、殿岡とこのまま一緒にいるのはまずい。非常にまずい。そんな心地だ。
先手必勝とばかりに、私は渋谷駅に向かう狭苦しい坂道に踏み出した。
「うわっ」
最初の一歩と同時に、私は後ろに引っぱられた。 振り返ったら、なぜか泣き出しそうな顔をした男がいた。殿岡の手が、私の腕をつかんでいた。
「嘉穂」
やけに耳元に近い位置で声が聞こえた。
「俺たちも、ここ、入ろう?」
視界が暗い。
当然か。 私は、殿岡に両腕で抱き締められているのだから。
「ちょっと、ねぇ、どうしたの? 酔ってるの?」
チャコールグレイのコートの肩口からどうにか顔を上げた。 殿岡の右耳と、そのすぐ下の小さなほくろが見えた。
殿岡は無言だ。 あんたねぇ。 テンパりつつも逃げ道を用意してやった私の気づかいを無視するとは、どういう了見なの。
殿岡と2人きりでいても、そういう雰囲気になったことは今まで1度もなかった。
でも、なかっただけで、今はそういう雰囲気になっている。
「ねぇ、苦しいよ」
文句を言ってみたものの、久しぶりの男の圧力は、正直なところとても心地よかった。 殿岡は何も言わないし、腕の力を弱めもしない。 かといって酔っ払って前後不覚になってるわけでもない。 調整された腕の力でわかる。 男に本気で抱き締められたら、こんな痛みじゃ済まない。 そういうことが分かるくらいは、私にも経験がある。
「なに、慰めて欲しいの?」
「うん」
「しょうがないヤツ」
先輩運にも恋人運にも恵まれず、女友達に迫るようなしょぼい男にほだされる自分も、相当のお人好しだ。 でも、このしょぼさが殿岡らしい。 かわいいかもしれない。
私のマフラーに顔を押しつけていた殿岡が、そっと息を吐いた。
BACK | NEXT >> code 150-0044 no.03
pict. by stare
Copyright© since 2010 Mitsuyo Hachiya All Rights Reserved.