介護・看病という言葉をよく耳にする今日この頃・・・・
そこに至るまでには、責任を買って出た管理者の「当然の世話」から
始まる。
この「承知の上で」良い時も悪い時も、容易い事も大変な事も
あらゆる総てを予想して、整えた状態で引き受け、迎え入れなければならない
のは、常識中の常識として、普通の事です。
余裕があるとかないとか、人それぞれとか言葉や表現の問題ではないし、
決してすり替えてはいけない当たり前過ぎる事に過ぎません。
ましてや そこに、見返りの目論見が心に棲み付いている人間は
関わってはいけない。
そもそも生きているという事は 老いも訪れるわけで、なんら変わった事
でもなんでもなく、老いがくれば、多かれ少なかれ障害が現れるのも然り、
ジタバタするのも、何を今更〜 と思ってしまうのも正直なところです。
老いが訪れ、介護が必要になる事は100も承知で、準備万端の余裕の体勢で
いてあげる事。「賞賛と労いを受ける事の道具・理由」にするのはもってのほ
かで、不謹慎極まりない心の持ち主です。
介護だ看病だとよく聞きますが、当然の世話をする事と混同してるようです。
元気な頃からもしもの場合に症状が軽く済む様に愛情たっぷりの世話をしてき
かどうか、いつ何時どんな病気や事故に遭うかもしれないと突発的な事態にも
慌てず対応し、事なきを得た という安堵へもっていけるかどうかも
この「元気なころから・・・」常日頃、もしもこういう場合は、ああいう場合
は といつもいつもシュミレーションと、各専門機関との信頼関係を築き、
組み立てておくべきです。
この時点で大変大変、疲れた疲れたと不満に感じる人間はむいていないので
関わらなくても結構なのです。
そもそも生き物に関わるという事は世話や介護が必要になってくるのです、
大変じゃなく、疲れない介護なんてあるのでしょうか???
大変じゃなく 疲れない介護があるのなら是非教えていただきたい。
この 「大変・疲れない・最悪な状況だけは脱したい」を軽減し、苦しむ
生き物の為にも日頃から余念のない用意を整えておくべきなのです。
それから関わっていただきたい。
用意を整えておかず、安易に手を出す人間は何をしてきましたか?
これに該当する人間こそが 安易に放棄し、処分へと追い込み、活動される
人間の足を引っ張り続けていると思うのですが。。。
専門機関から離れて、家族からの介護・看病をするに至るまでには上記の
惜しまぬ努力と愛情の土台は勿論の事とし、四方八方、労費を惜しまず手を
尽くし、専門機関での「最終判断で」他に手立てがないと判断された
この瞬間から「家族による介護・看病が始まる」のではないでしょうか。
専門機関に委ねず、判断を仰がないまま、素人が自己判断で医療行為を
する事は「違法行為」であり「虐待」であります。
同じ動物でも、姿形が違った為にこの様な扱いを受けるのでしょうか?
もしも、我が子や、同種である人間の子供(それが年老いていようが
虚弱であろうが)に対して、見るからに専門機関での緊急処置が必要と判断
に容易い時に、少し様子をみる事はあってもそのまま介護する になるの
でしょうか?
人間の子供、又は緊急処置が必要な場合に当てはまる人にこの様な放棄・虐待
をしている事が発覚した場合にはどうなるんでしたっけ。。。
飲酒運転をしたドライバーと、黙認した人間にも罪が課せられますよね。
気付いた人や、近しい人が素通りし、見過ごし許してきた挙句の先に
悲惨な結果でニュースを飾る事、多いですよね。
張本人はある意味病気だから治らないのです。
関わるのが面倒臭い、勇気がない、実は関心がない、、、、、
人それぞれのスタンスがあるから、、、、
こういう助長させ、野放しにしてきた人間が一番悪くもあると思いますし、
怒りもあります。
病気の張本人にはさほど怒りはありません、ビックリしないからです、
案の定だからです。
野放しにしただけではなく、労うとは一体どういう神経なのでしょう?
「意気地がないな〜」といつも、こうみています。
イジメと諫止する事とは全く違うという事を、原点に戻ってみれば簡単な事
です。
表面判断で受け入れれば、どう見てもおかしな事は自ずと見えてきます。
これが見えなくなっているのは、表面に惑わされる狭い心が悪いのです。
人間も然り、「生き・行き」場を失った者をどうするのか という世界に
入ってると名乗るからには、「初めから、精神も肉体も経済面も生態知識も
労費を惜しまず」は当然の覚悟で挑んでいるのが好ましいのです。
ここが追いついていない人間に限って、大変大変・疲れた疲れたと言うのが
共通のお決まり台詞のようです。
もし、我が子や、家族(動物も)、自分が専門機関に掛かった時、これを
言われたらどんな気持ちになりますか?
わあ〜、偉いですね〜、具合悪くなって申し訳ありません、
頑張ってください・・・・・ などなど、言えますか???
何か間違っていると気付きませんか?
例えそれがボランティアの人間でもです! ボランティアを受けねばならな
い者を捕まえて、こんな言葉を吐いて、労われて良いのでしょうか?
それとも、弱い立場の者がひたすら悪く、ひたすら屈辱に耐えねばならない
のでしょうか?
そんな優しさも愛情もないボランティアって必要でしょうか?
ましてや家族「管理責任者」の言葉であって良いのでしょうか?
「お金をかけるばかりが。。。。。じゃない」という言葉もチラホラ目に耳に
しますが、これは不正解!!!
愛情があれば、、、 これも違います!!!
愛情があれば という人間はこの言葉でもみ消して穴埋めし、代償している
だけです。
総てがバランス良く整えられた状態で迎え入れていなければならないと思いま
す。
奇麗事の 愛情・祈り・傷の舐めあいだけでは残念ながら生き生きと健やかに
生かしてあげる機会を与えてあげられないのです。
又、状況提供に、どうしても何かが欠けるというのであれば、対策はちゃんと
あるものです。
誰が正論を述べているのか、誰が経験豊富なのか、又は従事する人間か
助言や、判断、あやまち、なんでも素直に仰ぐ事です。
自分の意地が勝ってしまうのでしょうか?
大切な守りたい命が勝つのでしょうか?
これで、決まってしまいます。そもそも、こういった問題や取り組みに
勝ちだの負けだの挑戦だのと 不必要な事です。
何故、天秤に掛け、あやまちが勝ってしまうのでしょうか?
命の方が軽いのでしょうか?
では何故命を語るのでしょうか?
きちんと責任と愛情をもって世話を引き受ける事のできない人間の心の障害は
決まって必ず「自分よりも少しでも劣る状況や人間を引き合いに出し、
それよりかは良いのだから、そうなっていたかもしれない事を思えば(マシ)
だから良いのだ と 自分を納得させ、慰め、賞賛を求める」のが
お決まりの傾向のようです。
本来ならば、自分が提供している飼育環境に甘んじず それよりも少しでも
「良好」とみられる管理者とされる者をよくみて、手本にしていく事が
改善の「其処から抜け出る」余地があるのではないでしょうか。
運動会のリレーなどとよく似ているように思う。
自分より遅いとわかっている人と走ったら傍から見て表面上は良く見えるで
しょう。
好タイムに見えるし、その中では確かに表面はそうなるかもしれません。
・・・が、タイムは非常に悪いのです。
(コレは例えであって、今は運動会ではリレーを取り入れないか、
順位をつけないそうですが、命の話は別です)
より良い走り方の正しく基礎の整ったフォームを身に付け、より良い好タイム
を出し続けるには、常に自分よりも早い(優れた)人を聞き入れ、見習い、
表面は後方だろうと、後追いだろうとそういう存在を受け入れて走るべき
です。
亢進(改心)していける筈です。
傍観サイドも気をつけねばなりません。
動物の応援をしているのか、非愛護者を応援しているのか。。。。。
世の中には 反愛護者がいます。 私は非愛護者・偽愛護者が大嫌いです!
反愛護者は愛護を装ったりしません。
非・偽愛護者は愛護者を装います。
それから、実践の人じゃないと、窮地に陥り、満足な環境を与えられないのが
何よりの証拠です。
人に請いず、働く事です。 動く事です。 学ぶ事です。 認める事です。
転載記事とは、実践し、体験された方のみの生きた活字です。
記事投稿した人と、転載投稿した人と混同する事は身震いする程危険です。
転載大変結構! 私もするかもしれません、しかし、誰の生きた活字なのか
良く考えて下さい。
それを引き算してみて下さい。
何が残りますか? 残ったものから何が見えてくるでしょうか・・・・・・
初めから疑問の記事もありますけどね・・・・・・
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