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Jam とは何をすることか

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2010-01-04 02:36:51 posted by anmintei


ブカレストのDangerous コンサートの最初の曲は Jam である。上に、現在、DVDで販売されているバージョンより編集がカッコいいBBCで放送されたバージョンを添付しておいた。(但し、AS859 という方の書き込みによれば、画像はBBCバージョンだけれど、音はDVDのものを使っているらしい。確かに、画像は悪いがBBCバージョンとおぼしき、http://www.youtube.com/watch?v=0yVutprayN8 を見ると、Nation to Nation という歌詞を歌い出すまでマイケルは何も音を出していない。写っている観客などを見ると、同じ人がいるので同じ日の公演だと思うのだが、なぜ音が違うのか、不思議である。【追記】Wikipedia によると、"This version, while mostly having footage of Jackson performing at the Bucharest Concert, also consisted of footage from concerts in other locations such as Madrid and Wembley, heavily edited crowd noises, and is also missing the We Are The World Interlude that was included in the original BBC Telecast, leading to some criticism from some fans."とのことなので、DVDバージョンはかなり加工されているようである。BBC版がDVDで発売されることを願いたい。 )

この映像を最初に見たときには、その金色の金太郎さんのような衣装と、局部を触りまくる股間踊りに度肝をぬかれた。2009年に日本の中年男が見て度肝を抜かれるのであるから、1992年にチャウシェスク政権の抑圧を抜けだしばかりのブカレストで若い女性が見れば卒倒するのも当然である。既述のごとく、DVDの方では Nation to Nation と歌い出す前に卒倒している人が見られる。

この映像を見た時には、英語の歌の内容を全く聞き取れなかった。あれだけセクシーなダンスをしているのだから、かなりきわどいエロチックな歌詞なのだろう、と漠然と思っていた。しかしそれにしては、マイケルの表情が妙に真剣で、何かを訴えかけている感じがした。そういうわけで何か非常に不思議な気分になってしまった。

それでDVDを全部を見終わってから、もう一度戻って英語の字幕を出しながら見たが、歌詞という奴は意味がとりにくいので、よくわからなかった。よくわからなかったのだが、少なくとも、セクシーであったり、ロマンチックであったりする様子は、どこにも見られなかった。特に、出だしが、

Nation to nation, all the world must come together,
face the problems that we see.
Then maybe somehow we can work it out.

つまり「我々が目にしている問題に、世界じゅうの国家が力を合わせて立ち向かうべきだ。そうすれば何とかする方法が見つかるだろう。」となっているのにあっけにとられてしまった。そういう歌なのであれば、マイケルが真剣に訴えようとしていたのも当然である。

とはいえ、肝心の"jam"という単語の意味がわからない。DVDの日本語字幕を見ると苦し紛れに「集中する」とか訳してあるが、これでは意味が通じない。そもそも jam というのは、traffic jam が交通渋滞という意味であることからわかるように、何かが詰まる、ということである。

It ain't too much stuff,
It ain't too much.
It ain't too much for me to jam.

と繰り返し叫んでいるがそれは、私にとって jam するのはできない事ではない、ということである。全体の流れからみてこれは、「みんなも jam できるだろう!」というマイケルの聴衆への呼びかけだと捉えて良いかと思う。

では、jam する、とはどういうことなのか。マイケルはなにをやって欲しいと言っているのであろうか。それには、jam していない状況の描写を見るのが良かろう。この歌詞のなかで、jam していない状態の描写としてわかりやすいのは、以下の部分である。

I told my brothers;
Don't you ask me for no favors.
I'm conditioned by the system.
Don't you talk to me.
Don't scream and shout.

ぼくは仲間たちに言った。
ぼくに頼み事をしないでくれ。
ぼくはシステムによって
条件づけらているんだ。
ぼくに話しかけないでくれ。
叫んだり怒鳴ったりしないでくれ。

私がある研究会でこの話をしたときに、大学院生の白川君が、重要な事例を教えてくれた。彼が道を歩いていたときに、交通量の多い交差点で、交通事故が起きた。車とバイクとが衝突して、バイクに乗っていた男性が倒れて動かなくなってしまった。彼が倒れた人に駆け寄ると同時に、多くの人が集まってきた。しかし、ほんの二三人が倒れた男性の様子を気にかけるだけで、ほとんどの人は口々に「こんなところに車やバイクを停めていたら、交通渋滞するから、早くどけろ」というようなことばかり言うのである。彼はその様子を見て、とても怖くなった、と言っていた。

私はかつて銀行員として働いていた事がある。毎日毎日長時間のサービス残業でヘトヘトになっており、生活のすべてが会社の仕事によって支配されてしまっていた。通勤途中で、誰か調子の悪くなった人を見ても、到底、気にかけて駆け寄る気分にはなれなかった。乗り換えの駅で前を行く男性が、突然気分がわるくなったらしく、へたりこんでしまったことがあったが、けつまずかないようにあわててコースを変えただけで、気づかぬフリをして通り過ぎた。これが jam していない状態である。

チャップリンのモダン・タイムスという映画の、有名な歯車のシーンがある。チャップリンが歯車の間を蛇のようにくねって行くのだが、これは現代社会に適応し、歯車の一部となってしまった人間の姿を描いたギャグである。その状態が jam していない状態、いいかえればスムーズな状態である。(ラップの部分で、Smooth Criminal という言葉が出てくるので、jam していない状態を、スムーズな状態、と言うことにする。)この映画では、歯車になりきれなかったチャップリンは工場で大活劇を演じて、精神病院に入れられ、退院したあとは浮浪者となる。



言うまでもないが、マイケルはチャップリンを尊敬していた。最も好きな曲がチャップリンの Smile だと言い、HIStory の最後でこの曲を歌っている程である。マイケルが9歳のときに描いたチャップリンの絵がその尊敬を表現している。チャップリンの扮装をしたマイケルの写真も有名である。私は、jam という曲は、チャップリンの影響を受けているのではないかと考えている。また、チャップリンのこの映画は、ガンディーの影響を深く受けたとされている。

このように考えると、jam という言葉の意味が見えてくる。歯車にネジか何かが挟まって、ガキンと歯車が止まってしまったとき、jam した、と言う。人間が、歯車に順応してスムーズに通り抜けるのではなく、そこで自分自身の感覚に立ち返って行動すると、歯車は jam してしまう。交通事故の交差点で、交通渋滞を懸念してけが人を顧みないのがスムーズな状態であるとすれば、そのときに群衆を押しのけて倒れた人に駆け寄る行為が jam なのである。マイケルは、そのjamが誰にでもできるはずだ、と訴えている。

ではどうすれば jam できる、というのだろうか。それは自分自身の内面に平安を見つけ出すことで可能になる。マイケルは次のように歌う。

I just want you to recognize me in the temple.*
You can't hurt me.
I found peace within myself.
Go with it. Go with it. Jam.

私はあなたに、わたしが寺院にいることをわかってほしい。
(それゆえ)あなたは私を傷つけることができない。
(なぜなら)私は自分自身の中に平安を見いだした(からだ)。
それと共に行こう。それと共に行こう。ジャム(自分に立ち返れ)。

*DVDの字幕では "I just want you to recognize me, I'm the temple." (私が寺院であることをわかってほしい)となる。この方が意味が通じやすいと考えるが、Dangerous の字幕は in the temple になっており、ライブでもそのように歌っているように聞こえる。

他人の視線のなかで、他人の地平を生きるとき、人は決して平安を見いだすことができない。そういう生き方は絶えざる不安に苛まれ、その不安をエネルギーとして走り回ることになる。少しでも所得を増やし、少しでも階層を駆け上り、少しでも評価され、少しでも力を得る。そのために走り回ることになる。それでも不安は決して消え去ることはないので、それを紛らわすためにテレビを見る、ゲームをする、遊びに行く、買い物に行く、恋愛ごっこをする、性欲の発散に耽る、冒険をする、セクト宗教に入信する、アルコールやタバコ、さらには麻薬をやる、などなど。マイケルはこういうことを人々が繰り返していることが、現代の危機の原因だと看做していた、と私は考える。

人間は、自分自身の地平を自分自身の感覚に従って生きるときにはじめて、平安を得る事ができる。自分自身の内面にある豊かな創造性を持つ魂に触れたとき、自らの神聖さを感じることができる。そのとき、自分自身が祈りを捧げるべき寺院となる。マイケルはグラミー賞レジェンドの授賞式のスピーチで、このような深遠な内なる真の智恵に至る方法は、子供が教えてくれる、と言っている。このような平安に至ったとき、人は勇気をもって jam することができる。また、このような平安に至ったときにはじめて、本当の意味で smile することもできるのである。

このような美しく力強いメッセージを、チャウシェスク政権崩壊後間もないブカレストで人々に届けたマイケルは、偉大である。しかも、このメッセージを、あの金太郎服と股間ダンスで届けたところが特に凄い。というのも、このようなメッセージを直接、わかりやすい形で投げかけたなら、それを投げかけられた人は往々にして受け取り拒否するからである。

jam したくない、smooth に生きたい、と願って日々不安に耐えている人に、自分の内面に平安を見いだそう、などと呼びかけても全面拒否されるのがオチである。この拒否反応を取り除くには、そういった不安に取り憑かれた人が惹き付けられる何かと、一緒に送りつけなければならない。それをチャップリンは抱腹絶倒のコメディーとして届けた。マイケルはそれを、この上なく奇抜な衣装とセクシーでエロチックなダンスと共に、その上、歌詞もわかりにく形で届けたのである。

こうすることで初めて、意識レベルでの受け取り拒否をすり抜けて、メッセージを潜在意識のレベルへと直接届けることが可能になる。人間の行動は意識によっては変革しえない。というのも人間は潜在意識に振り回される生き物だからである。その潜在意識に、直接、愛のメッセージを送り届けるのが、マイケルの重要な戦略である。私は jam という曲、特にブカレストでのパフォーマンスはその意味で、マイケルの数々の名曲のなかでも重要性が高いと思っている。

余談:バックダンサーと日本人〜紅白歌合戦のマイケル・ジャクソン追悼SMAPパフォーマンス

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2010-01-01 18:54:59 posted by anmintei


紅白歌合戦でマイケルの追悼ステージとやらをやっていたらしいので、Youtube で見てみた。

今更言うまでもないが、SMAPの踊りは面白いくらい下手であった。なぜNHKはわざわざ、マイケルの映像の前で、踊りも歌も下手なことで有名な彼らに、歌って踊らせるなどという嫌がらせをするのであろうか?彼らにしても、マイケルの映像の前であの下手な踊りと歌とを何千万人に披露して平気というのは、「厚顔無恥」を絵に描いたようなものである。

しかしこの映像を見て、改めて日本のバックダンサーはうまいと感心した。私はかつてイギリスに居た事があるのだが、そのテレビを見ていて驚いたことがいくつもあった。一番驚いたのはイギリスのテレビが日本と違ってまともな知性によって運営されている、ということであったが、二番目に驚いたのは、イギリスのバックダンサーがあまりにヘタクソなことであった。地を這うようなジャンプとバラバラの手足の動きで、その上、みんな全然合っていない上に、やたら目障りなのである。それに較べると日本のバックダンサーは、技術が高く、ピシッと動いている上に、上手に合わせていて、その上、目立たない。紅白の映像でも、バックダンサーはこの条件を見事に満たしていた。

マイケル・ジャクソンのPVやライブの映像を見ると、バックダンサーとマイケルの動きが全く違う事に感心してしまう。これはどうしてかと色々考えたのだが、やはり上の条件を満たすバックダンサーをちゃんと選んでいるということであろう。マイケルの踊りがすばらしいのは言うまでもないが、それに匹敵する動きのできる人がいないわけではない。たとえば Black or White の歌の冒頭のアフリカの場面で踊っている人たちの動きはものすごくて、真ん中にいるマイケルがかすむほどである。



バックダンサーというものは、真ん中にいる自分の雇い主のエンターテイナーを際立たせてみせるのが仕事なのである。自分自身が本当に創造的で魅力的なダンスをしたのでは、雇い主がかすんでしまう。その意味で、日本人のダンサーが This is it のオーディションにトップで合格し、マドンナにも放してもらえなかった、という逸話は頷ける。彼がO2アリーナのマドンナのコンサートで、マイケルの格好をして踊ったビデオを見ればわかるが、踊りは下手ではないが魅力はない。魅力があったのではバックダンサーとしては失格なのである。かの日本人ダンサーは、ダンサーとしてトップレベルなのではなく、バックダンサーとしてトップレベルなので、マイケルとマドンナとが取り合いをしたのである。



日本人は、お殿様を支えるために集団で一生懸命にがんばる、ということに喜びを見いだすという特性を持っているが、これは室町時代に村や町を家の連合体として構成するという社会変革を起こした結果であると私は考えている。このシステムは江戸時代の超安定期を作り出す事に成功し、明治維新をも生き延びたが、高度成長期に家制度が崩壊すると共に消え去った。

それでも、何百年もかけて培った行動様式と文化とはそう簡単に変わりはしない。バックダンサーがうまいのも、その現れだと私は思う。このような仕事に、本当の意味で情熱を燃やすことのできる人間は、世界中を見渡しても、そんなにはいないのである。

バックダンサーが上手いのと引き換えに、真ん中で目立って人を惹き付ける才能はほとんど育たない。SMAPがヘタクソな踊りと歌を披露して国民が喜ぶのも、同じ文化の一側面である。

ブカレストのマイケル・ジャクソン(2)

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2009-12-31 11:31:44 posted by anmintei
ブカレストで行われた Dangerous ツアーのコンサートは、単なるコンサートではなかった。それは社会にインパクトを与えるための政治的イベントでもあった。数々あるライブのなかで、公式にDVDとして販売されているのは、このコンサートだけであるが、それはマイケルがHeal the World Foundation の立ち上げを行ったこのコンサートを特に重視していたことを反映しているのではないかと考える。

このコンサートのチケットは、ルーマニアの人々の平均的月給の三分の一に当たったというが、7万枚のチケットはあっという間に売り切れた(Grant 前掲書、同頁)。DVDを見ると、マイケルが動き出して Pow! を何回か叫んだ段階で歌い出す前に卒倒している人がいるが、もったいない話である。チャウシェスク時代にはマイケルの音楽は公式には販売されていなかったはずであるが、おそらくは海賊版で出回っていたのであろうし、また同政権崩壊後には怒濤のごとく流れ込んだに違いなく、観客はマイケルの歌を覚えていて英語の歌詞をマイケルと一緒に歌っている。チャウシェスクの抑圧体制を倒したエネルギーの少なくとも一部は、彼の音楽によって伝えられた愛だったのではないか、とさえ思える。

マイケルはブカレストの7万人の観客、2万人の警備員、首相を始めとする多くの政治家、さらにテレビの向こうの数億人、現在DVDを見る私たちに向けてそのメッセージを伝えた。その要点は以下の通りだと私は考える。

(1)マイケルはメッセージをストレートに伝えるわけではない。
(2)時にそれは隠蔽して伝えられる。
(3)隠蔽することで、そのメッセージに反発する人をも惹き付ける事ができるからである。
(4)最大のメッセージは、人間の魂の大切さである。
(4の註)魂とはこの場合、霊魂のことではなく、人間の身体の作動そのもののことである。
(5)魂が本来持つ作動の美しさを損なうものを明らかにする。
(6)そこから抜け出す勇気の大切さを示す。

以下では具体的にどのような形でどのようなメッセージが伝えられたのかを、曲順に追って行くことにしたい。

ブカレストのマイケル・ジャクソン(1)

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2009-12-29 00:19:58 posted by anmintei
ルーマニアのチャウシェスク大統領は、「チャウシェスク王朝」と呼ばれるほどの権力者であった。ルーマニア政府は国家政策として4人の子供を生んでいない女性の避妊や堕胎手術を禁止しており、この政策が大量のストリートチルドレン(「チャウシェスクの子供たち」)を生みだした。これは大統領の妻エレナの影響が大きかったと言われている。(なお、この政策によって女性の人生と身体とが大きな危険に晒されていたことは、2007年カンヌ国際映画祭でパルムドール(最高賞)を受賞したルーマニアの作品『4ヶ月、3週と2日』(クリスティアン・ムンジウ監督)で端的に表現されているようである。
http://www.ahni.co.jp/kitazawa/sei/kitazawaseikyouiku52.htm

その結果生じた大量の捨て子は孤児院に収容され、往々にして治安部隊や秘密警察の要員供給源となったとされる。治安部隊とは、チャウシェスクに忠誠を誓い、その敵を躊躇無く殺せるように洗脳された集団であったと言われている。

そのチャウシェスク政権は1989年に「ルーマニア民主革命」によって倒される。
【チャウシェスク最後の演説の映像(1989年12月21日)】

この演説の直後に政権は崩壊し、チャウシェスク夫妻は銃殺された。
【チャウシェスク夫妻の処刑の映像:(12月25日)】
この過程で治安部隊は最後まで抵抗し、多くの命が失われた。

チャウシェスク王朝の崩壊からわずか1年半後の1992年10月1日、King of Popがブカレストに降り立った。
【Dangerous ライブでの登場シーン】
Dangerous ツアーで旧共産圏で行われたコンサートはこれだけであり、このコンサートは全世界に放映された。このコンサートにはルーマニアの首相を始めとする主たる政治家も出席し、「十年分の西側との外交努力に匹敵する効果がある」とされた。残された映像を見ると、マイケルのコンサートは、日本で行われたものを除くと、観客が熱狂して気絶者が続出するようであるが、それでもブカレストの卒倒ぶりは群を抜いている。

これは永年にわたるチャウシェスクの抑圧から解放され、自由と豊かさとへの憧れを抱いていた人々が、その象徴として彼を見ているからであろうと想像される。実際、爆発音と共に飛び出して屹立するマイケルの姿は、アメリカ文明を表象しつつ圧倒するかのように見える。ところが、彼が訴える思想は、アメリカ文明を根底から批判するものであった。

マイケルがこの時期にわざわざブカレストにやってきた理由は、子供たちに最もひどいことが行われた場所に行き、そこで子供を守る必要性を訴えるためであった。コンサートの前日に彼は記者会見を行い、 Heal the World Foundation を立ち上げを宣言した。(Adrian Grant, Michael Jackson A visual Documentary 1958-2008, Omunibus Press, 2009, p.154)
【マイケル・ジャクソンのブカレストでの記者会見】
そもそもDangerous Tour そのものが、次の記者会見で表明されたように、この財団を立ち上げるための資金集めのために行われたのである。
【ロンドンでのDangerous Tourの記者会見】

《つづく》



マイケル・ジャクソンは救世主である。

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2009-12-27 01:57:12 posted by anmintei
 マイケル・ジャクソンが亡くなってから、それ以前とは手のひらを返したようにマスコミは賞賛の言葉を贈っている。多くの出版物でも同様の美辞麗句が並んでいる。しかし私にはそのほとんどが、彼の思想の深さに全く言及していない事に、強い憤りを覚える。
 マイケルの思想はグラミー賞のレジェンドの受賞演説に端的に表現されている。
 
最も重要な部分は、
「子供たちが最も深い智恵に到達し、そこから創造性を得る方法を教えてくれる」
という考えである。マイケルは環境と社会の諸問題の根源を、子供から子供時代が奪われることに求めた。そしてそこからの脱却を子供から創造性を学ぶことに求めた。子供を守るのは子供のためではない。人類社会と地球とを守るために、子供の創造性を守らねばならないのである。子供の虐待は子供への犯罪のみではなく、地球と人類社会とに対する犯罪なのである。
 マイケルはそのようにして迫害される子供たちの痛みを直接感じていた。それどころか、地球環境のすべての命に対する迫害を、その全身で感じていた。それはたとえばEarth Songに現れている。

この曲はマイケルの「誇大妄想」や「救世主症候群」の表現として嘲笑されるが、とんでもない話である。マイケルは実際に、地球と人類との痛みをその身に感じ、人々に伝えようとしていたのである。彼がペインキラーを常用するようになり、その死の直接の原因になってしまったのも、この痛みのせいだと私は考える。
 マイケルを「救世主気取り」として攻撃する人がたくさん居た。しかしアメリカの黒人の貧困な家庭に生まれた男の子が、地球上の痛みを感じ取り、それを何億という人々に届けることに成功するということは、どう考えても奇跡としか言えない。しかも彼は多くの子供の病気を愛によって癒してみせたのである。救世主であることの条件は、奇跡によってそのしるしを示すことである。しかも彼は自分が救った子供の裏切りにより、欺瞞によって生きる人々の誹謗と中傷と暴力の行使を受け、十字架に掛けられた。
 その死によってはっきりしたと私は考えるが、もしイエススという歴史上に存在したある人物を「救世主」と呼ぶのであれば、マイケルは「救世主気取り」だったのではなく、それは社会的現象としての「救世主」そのものなのである。グラミー賞のビデオに見えるように、彼は Michael, I love you! とファンに呼びかけられると微笑んでしまい、I love you, too!と投げキスを返す。これはファンサービスなどというものではなく、本当にそうしてしまうのである。これは阿弥陀仏が自らの名を呼ぶ者を誰でも救うのと同じ構造を持っている。Michael, I love you! とその名を呼ぶ者をマイケルは、必ず救い上げて、Neverland に迎え入れてくれるのである。そのように信じても、何も問題はない。

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