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重要余談:ベランダの恐怖

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2010-01-29 12:49:26 posted by anmintei
朝日新聞のネット版に次のような記事が出ていた。

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4歳女児、マンション8階から転落 あごに擦り傷

2010年1月29日12時3分
28日午後7時20分ごろ、東京都国分寺市泉町3丁目の共同住宅で、8階に住む母親(30)が、直前までベランダにいたはずの娘(4)が地上を歩いているのを見つけ、119番通報した。小金井署によると、娘は左あごに擦り傷を負って病院に運ばれたが、軽傷という。娘は「ベランダから落ちた」と話しているという。
同署によると、通報の直前、母親は娘をしかって、ベランダに出した。泣き声が聞こえないため、ベランダを見ると娘がいなくなっていた。ベランダから下を見たところ、娘が泣きながら歩いていたという。
8階は高さ約21メートルで、真下の植え込みはへこんでいて、人が落ちた形跡があるという。同署は、娘がベランダのさく(約1.2メートル)を乗り越えて誤って転落したとみている。

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実に恐ろしい事件であるが、何より恐ろしいのが、これが「娘が・・・誤って転落した」と表現されていることである。8階のベランダから落ちたのは、この四歳の娘の「誤り」のせいだと、警察も新聞も考えていることになる。

しかし娘はなぜベランダから部屋に入らずに、柵を越えたのか。

同署によると、通報の直前、母親は娘をしかって、ベランダに出した。泣き声が聞こえないため、ベランダを見ると娘がいなくなっていた。ベランダから下を見たところ、娘が泣きながら歩いていたという。


この記述に従えば、事件の経緯が以下の通りであったことになる。

(1)母親は娘をしかった。
(2)母親は娘をベランダに「出した」。
(3)母親はベランダの見える部屋から移動した。
(4)泣き声が聞こえなくなった。
(5)ベランダに出たら、娘が地上を歩いていた。
(6)警察に通報した。
(7)母親は、ベランダに出したのは、警察に通報する「直前」だと証言した。

以上のうち、明らかに(7)はおかしい。ベランダに「出した」のが通報の直前ということはあり得ない。(2)~(4)の間には、当然、何らかの時間の経過が必要である。もし(7)が正しいとすると、母親が娘を叱ってベランダに「出し」てから、直ちに別の部屋に行き、その瞬間に娘が「誤って」1・2メートルの柵を越えて転落した、ということになる。こんなことが起こりうるのだろうか。

さらに、「出した」という表現はおかしい。叱られて泣いている娘をベランダに出したら、当然、柵を越えたりはせず、必死で部屋に戻るだろう。

(1)~(7)の経緯を合理的に再構成すれば以下のようになる。これはあくまで推測に過ぎないことを強調しておく。

(1)母親は娘をしかった。
(2-1)母親は娘をベランダに追い出して鍵をかけて閉じ込めた。
(2-2)娘は泣いて部屋に入れてくれと必死で許しを乞うた。
(3)母親はそれを無視して、ベランダの見える部屋から移動した。
(4-1)いくばくかの時間の経過ののちに娘は絶望し、泣くのをやめて脱出をはかった。
(4-2)娘は必死で1・2メートルの柵を越えて脱出し、転落した。
(4-3)娘の泣き声が聞こえなくなったことに母親が気づいた。
(5)ベランダに出たら、娘が地上を歩いていた。
(6)警察に通報した。
(7)母親は、ベランダに「出した」のは、警察に通報する「直前」だと証言した。

四歳の女の子が、部屋に入るのをあきらめて柵を越えようと決断するまでに掛かる時間がどのくらい掛かるのか、見当がつかないが、もしベランダに閉じ込められたのが初めてであれば、そう簡単にそんなことを思いつきはしないだろう。母親が許してくれるまで、ベランダのガラス戸を泣きながら叩き続けるだろう。あるいは、過去に何度も長時間にわたってベランダに放置された経験があれば、短時間で絶望し、柵越えの脱出をはかるかもしれない。

8階のベランダに四歳児を叱りつけて閉じ込めて、放置するというのは、普通の神経でできることではないように見える。普通なら、そんな場所に四歳児が泣きながらいたら、誰でも危ないからすぐに中に入れるだろう。実の母親ならなおさらそうするはずである。ところが、私は犬の散歩をしながら、マンションのベランダで子供が泣いているのを何度か目撃したことがある。あるとき、高級マンションの三階のベランダに、二歳くらいの男の子が「出され」たところに、ちょうど私たちが通りかかったことがある。私が下から、「あ、何しているんだ。お~い、どうしたんだい、何を泣いているんだい」と大声で呼びかけたら、母親があわてて出てきて子供に何か言って中に入れた、ということもあった。この母親は常習的にこの手を使っているらしく、アッサリ中にいれてもらった子供の方が驚いている風情であった。マンションの部屋の構造からして、ベランダへの子供の監禁は、極めて一般的な「躾」と称する虐待の手法なのである。

また、大阪西淀川区の松本聖香さんの虐待殺人事件でも、ベランダへの監禁が重要な虐待手段であったことを私は思い出した。子供をベランダに監禁するのは、無条件に虐待と認識すべきだと私は考える。

大人をベランダに閉じ込めたりしたら、監禁罪に問われる。その大人が、隣のベランダへの脱出をはかって、手が滑って転落したら、その大人が「誤って転落した」と警察や新聞は表現するだろうか。監禁した者が、その大人をベランダに「出した」ら、その直後に転落した、と説明したら、それを受け入れるだろうか。

この母親が、転落したことを隠蔽せずにすぐに警察に連絡していることから、警察はこのような説明を受け入れたのだと推測するが、それを「娘が・・・誤って転落した」と表現するのは危険なことだ。なぜならこの子が、無闇に柵を越えて飛び出すような無茶苦茶なことをする人間だ、ということになり、この子が自分を信じられなくなるからである。新聞にまで出てしまえば、動かぬ証拠である。

また、子供のせいにして事実から目を背ければ、事態は改善されない。このような思考パターンがある限り、虐待防止の有効な対策をとることは不可能である。なぜなら、この母親は何らかの衝動に駆られて、思わず娘を叱りつけてベランダに「出して」しまったからである。思わずしてしまうことは、いくら反省しても直らない。そういうことをする衝動に駆られないように、その衝動の原因を取り除かねばならない。彼女の心理に立ち入って原因を取り除かなければ、また何かに振り回されることになる。
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Beat it: 非暴力の戦い

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2010-01-29 11:02:48 posted by anmintei


Beat It である。この言葉は二重の意味が込められている。

ケン・ラッセル監督の「マーラー」という映画がある。これは作曲家のマーラーが死の少し前にニューヨークからウィーンに戻る途中の列車の中で、自分の人生を回想する、というものである。映像が奇怪で衝撃的だが、音楽の使い方が見事で、なかなか面白い。特にオープニングで、交響曲10番の悲劇的な冒頭の部分が使われていて、映像では湖の美しい小屋が突然燃え上がるところが凄かった。下に劇場用予告編を引用しておく。



この映画の最初の方で停車中の列車の窓から外を見ているマーラーに新聞記者が寄ってきて、不躾なインタビューをする。マーラーは少しだけ応えて、「私がいつも楽団員に言っている言葉を、君にお贈りしよう。」と言い、怪訝な顔をする記者に、

Beat it!

という。これは、「拍子をとれ」という楽団員むけの意味と、「うせろ!」という新聞記者向けの意味が重ねられている。(走り去る時の足音が、パタパタとビートになって聞こえるので、うせろ、とか、逃げろ、という意味になるらしい。)

マイケルの歌でも、同じことである。おそらくこの曲は、アメリカの若者(特に貧しい黒人)がつまらない喧嘩で次々に命を落とすのを、何とか食い止めようとして、マイケルが必死の思いで歌ったものだと思う。それゆえ、どちらが正しいか間違っているかなんか関係ない、喧嘩が強いか弱いか、面子がどうだなんてどうでもいい、君は生き延びることが大切だ、とにかく逃げろ!と叫ぶのである。

しかし、それだけではない。というのも、プロモーションビデオでも、舞台でも、誰も逃げ出してはいないからである。単に、逃亡を薦める歌なら、喧嘩しないで逃げる場面があっても良さそうなものだが、そういう人は一人も出て来ない。

では何が起きるのかというと、戦っているギャングの親分二人の間にマイケルが割り込み、歌いながら踊るのである。そうすると、ギャングの親分二人が踊りだし、踊りの輪が広がって行って、みんなも一緒になって踊り出す。

結局のところ、これもまた、キャプテンEOと同じ構成になっている。暴力を振るう若者は、子供時代に激しい暴力による虐待を受けている。その痛み、悲しみ、不安に蓋をして、抑さえ込んで生きているのだが、子供時代に直接的暴力に晒された若者は、それを適切に抑え続けることができない。そのためにちょっとした切っ掛けで、自分と他人とに向けた暴力として噴出する。

マイケルはそのような状態からの離脱を訴えている。逃げろというのは、敵の前から逃げろといっているばかりではないと私は思う。それは自分を振り回す悪魔に「失せろ!」と言っているようにも聞こえる。また、自分の痛み、悲しみ、不安を抑え込もうとする蓋を、音楽の力で、ビートの力で取り除こうと訴えてもいる。PVの寝室の場面でマイケルの着ているTシャツの柄が、ピアノの絵に音符が沢山ついている妙にかわいい模様であることは、このPVの主題が、音楽/暴力 の対立であることを暗示している。

それゆえ、ギャングたちは、マイケルの歌と踊りとによって魂が蘇り、踊りに参加して進んで行くのである。彼らが進む先には、キャプテンEOの「女王 Supreme Leader」がいるはずである。それは、自分が子供時代に受けた虐待の記憶の象徴である。どのような虐待を受け、どのような思いに自分が振り回されているのか、それに向き合うことなしに、溢れ出す暴力を止めることはできない。そのためには、大変な勇気と、その闘いを励ましてくれる愛が必要である。マイケルは音楽とダンスとを通じて、聞くものの魂を揺り動かして勇気を奮い立たせると共に、深い愛による励ましを与えようとしているのである。もちろん、そのようなメッセージが込められていることに、気づかれないようにして。

この曲のプロモーション・ビデオに出てくるギャングは、かなりの部分が本物のギャングだという。ダンサーがギャングに扮している Bad と較べてみれば、一目瞭然、ものすごい迫力があるのは、そのためであろう。マイケルが本物のギャングの出演に拘ったのは、これがヘナチョコ・ダンサーでは、説得力が無くなるからである。

しかしそればかりではなく、何十人かのギャングが、マイケルと一緒に踊るという機会を得ることで、その心が開かれるのを期待したのではないかと私は思う。このPVの収録それ自体が、マイケルにとっての非暴力の闘いだったのである。このダンスに参加したギャングたちのその後を追う番組を作ることはできないだろうかと私は思う。そうすると、マイケルのこの闘いの勝敗が明らかになるのだが。

余談: 草薙剛のアルコール入りジャム

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2010-01-29 00:02:34 posted by anmintei
紅白歌合戦のSMAPによるマイケル・ジャクソン追悼(?)パフォーマンスについての記述に続いて、ビリー・ジーンについての記述にもキムタクを登場させてしまった。この際なので、もう一度、SMAPについて論じておきたい。今回は、旧聞に属するが、草彅剛の泥酔全裸事件である。

上のNHKが早速削ってしまった紅白歌合戦の画像では、SMAP がまるで小学校の卒業式の「よびかけ」のように皆で順番にマイケルに呼びかけていた。その中で「ぼくたちは、マイケルのようになりたいと思って努力してきました。」という言葉があったように記憶している。これは、全く、信じがたい発言であり、おそらく、彼らはそんなことを考えもしていなかったと思う。もし真剣にそういうことを考えていたのであれば、あまりにも自分を知らなさすぎである。

SMAPが人気があるのは、「かわいい男の子たちが、一生懸命やっているけれど、下手なのがなんともいえない」という役割を演じ続けているからである。もう彼らは立派なオッサンであるけれど、いつまでも「かわいい男の子」であることを強要され続けている。だから小学校の卒業式の「よびかけ」のように、歯の浮くようなことを、みんなで唱えさせられる。このような彼らの活動は、スムーズ・クリミナルにひたすら適応するものであって、マイケル・ジャクソンが命を削って貫徹した非暴力の闘いは、何もやっていない。そんな彼らに「マイケルのようになりたい」などという資格は全くない。

とはいえ、良い大人がいつまでも「かわいい男の子」扱いに耐えることは難しい。それゆえ、キムタクはいつも仏頂面であり、中居クンはぶっきらぼうで、稲垣は無表情である。香取慎吾は忍者ハットリ君や慎吾ママや両津のような奇怪なキャラクターに変身して、辛うじてバランスを保っている。

しかし、草彅剛は、一度だけ、マイケルのように、スムーズ・クリミナルに対する闘いを挑んだ。それが例の泥酔全裸事件である。

メンバーのなかで最も繊細かつ聡明な彼は、「かわいい男の子」扱いに耐えきれなくなった。彼が最初にやったことは、韓国語を覚えて、チョナン・カンになりすますことであった。これは外国語を上手に話すようになる人がよく使う手である。言語も文化も全く違うところに入り込めば、日本社会で抑圧されている自分から抜け出せて、自由を獲得できるのである。

この方法は、一見したところ、うまいストレス解消のようであるが、実は世の中それほど甘くはない。人間の身体は一つであり、魂も一つであるから、たとえ言葉を切り替えて違う人格になるように偽装したところで、それはあくまで偽装に過ぎない。一つのものを、無理に、二つに切り裂いていると、そのうち、切れ目が深くなって、どんどんつらくなってくる。それゆえ、どこかで両者を統合せねばならない。

また、最初は自由を与えてくれた外国語社会でも、長い時間にわたって交渉を続けて行くと、別のシガラミが発生する。そうすると、日本では草彅剛としての呪縛、韓国ではチョナン・カンとしての呪縛という、二つの呪縛に直面することになる。

この状況で草彅剛が逃げ込んだ先が、アルコールであった。番組中でも嬉しそうに酒を飲んでいる姿を見たことがあるが、彼はかなりのアルコール依存症である。アルコールという薬物は、精神科医が扱う薬品と較べると、相当にキツいものであるらしい。これと同じくらい脳に影響のある薬物は、厳重に保管され、医者も滅多なことでは処方しない、というレベルのものである。これが自動販売機で売られているというのは、とても怖いことだ、と知り合いの精神科看護士が教えてくれた。

試しに草彅クンにも、アルコール依存症チェックをしてみて欲しいが、ニュースで報道された項目を合計するだけでも、相当のレベルになる。我慢したり努力したりで抑えられるものではないので、本格的なアルコール依存症治療が必要なはずだが、そういう様子が見られないのが心配なところである。

彼が素っ裸で暴れたのには、正当な理由があると私は思う。それはおそらく、このような生活を続けていては、自分が破綻してしまう、という正しい無意識の作動が原因であろう。SMAPの中でも特に「いい人」を演じる抑圧、そこから韓国語を通じて第二人格を作り出して自由を獲得しようとしながら、チョナン・カンまで「いい人」というイメージを獲得してしまった。それでアルコールに逃げ込んだが、これはかなり危険な状態である。

そこで彼の無意識は、全体を統合するために、最も合理的な方法に出た。それは、自分の真の姿を人々の前にさらけ出すことである。こうして彼は、全裸になって、うぉぉぉぉぉと叫び、取り押さえにきた警察に「裸になって何が悪い!」と言ったのである。全くその通りである。いくつもの仮面をかぶり、アルコールでそのつらさを誤摩化す生活なんか真っ平だ。おれは、おれだ。裸の自分自身以外の何者でもないのだ。裸になって何が悪い!これは彼の魂の叫びであった。

ここまでやれば、口うるさい日本社会では、十分なはずであった。ついに「いい人」の仮面を外せるはずであった。あわよくば、これで、SMAPもクビになって、抜け出せるかもしれない、と思ったことであろう。この行為はつまり、草彅クンの JAM であり、Startin' Somethin' だったのである。

ところが、世間のスムーズ・クリミナル・パワーは強烈であった。草彅クンに JAM されてしまっては、困る人が沢山いたのである。特に、彼によってご飯を食べさせてもらっている人々にとっては、死活問題であった。

そこで、SMAPの皆でかばい、事務所が総力を挙げてマスコミに手を回し、警察にも手心を加えてもらえるように反省の色を見せさせ、あの手この手で「草彅クン」を守ったのである。ファンもまた、「草彅クン」を捨てるつもりはなかった。彼がさらけ出した真の姿を無視し、「元の草彅クン」の復活を実現すべく全力を挙げて応援した。



こうして草彅剛は敗北した。草彅クンからも、チョナン・カンからも、アルコール依存症からも抜け出し、裸の自分に戻る試みは、あえなく失敗に終わった。「迷惑をかけた」「心配をかけた」と、日本社会のお決まりの意味の分からない謝罪させられて、全ては元の木阿弥となった。それどころか、以前よりもさらに「いい人」にならざるを得なくなった。草彅剛のJAM は失敗したのである。

なぜ失敗したのか。その理由は簡単である。それがアルコールの力を借りたものだったからであり、アルコールが醒めたら、もうその勇気を失ってしまったからである。アルコール入りのジャムは、逆に呪縛を強める効果しかなかったのである。


Billie Jean: ... is not my lover. (追伸:非暴力の闘い)

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2010-01-24 12:20:47 posted by anmintei
Billie Jean の議論の最後で私は、マイケルが貪欲さに溺れる女性を惹き付けて、彼女らの魂に自分自身に立ち返るようにメッセージを送った、と書いた。このテーマを最も直接に表現しているのは、ディズニーランドのアトラクション Captain EO である。この映画は、マイケルの思想を考える上で極めて重要なので、後に詳述したいが、ここでは、Billie Jean と関わる部分だけを論じる。



上の動画はその後半部分であるが、ちょうどその前半と後半とのつなぎ目に重要な場面が出ている。

Supreme Leader: Why have you come ?
Captain EO: To bring a gift, your highness. To someone as beautiful as you.
Supreme Leader: You think me … beautiful ?
Captain EO: Very beautiful within, your highness, but without a key to unlock it.
And that is my gift to you.
Supreme Leader: So … Let me see this gift !
Captain EO: Not only see, your highness, but hear !
(脚本は http://legend-of-mwfc.la.coocan.jp/repo_eo03.html より引用)

安冨訳
女王: なぜおまえは来たのか?
MJ: 贈り物を届けに参りました、陛下。あなたのように美しい方のために。
女王: おまえは私を。。。美しいと思うのか?
MJ:  非常に内面はお美しいと存じます、陛下。しかしそれを開く鍵をお持ちではない。それが私のあなたへの贈り物なのです。
女王: ならばその贈り物を私に見せよ!
MJ:  お見せするばかりではありません、陛下、お聞き下さい!
 ※Supreme Leader は最高指導者、your highness は殿下と訳すのが普通だが、
 この不気味な最高指導者は、女王アリのイメージだと思うので、それぞれ女王、陛下と訳した。

こう言ってマイケルは、We are here to change the world という歌を歌いながら、激しい踊りを見せる。その中で、女王の手下の気持ち悪い戦闘員と戦うのだが、敵のレーザー光線は、マイケルを傷つけて苦しめる。ところが、マイケルのレーザー光線は、敵を癒し、蘇らせるのである。

光線を浴びた戦闘員は、その醜い姿から抜け出して美しくなり、次々にマイケルのダンスに加わる。そうやって最後に女王を追いつめて、全身全霊を掛けたレーザー光線を浴びせると、ついに彼女の内面の表出を抑えている蓋が unlock され、美しさが溢れ出し、闇の気持ち悪い世界全体の呪縛が解けて輝き出す。マイケルは、この上なく美しい微笑みを浮かべて、女王に跪く。

$マイケル・ジャクソンの思想(と私が解釈するもの)著者:安冨歩

これがマイケルの目指す闘いである。The Girl is Mine でマイケルとポール・マッカートニーとの掛け合いの部分でマイケルが次のように言う。

Paul, I Think I Told You, I'm A Lover Not A Fighter
ポール、言っただろう、ぼくは愛する者であって、戦う者ではないんだ。

キャプテンEOで描かれているのは、まさしく、Fighter と Lover との闘いなのである。前者は傷つけ、後者は癒す。この映画は、まさに彼が世界に向かって単身仕掛けていた闘いをそのまま表現している。(This Is It でもマイケルは、世界中の Lovers にメッセージを送らねばならない、と言っている。)

このように考えれば、彼の魂のこの上ない純粋さと、彼が発していた外見的なあるいは行動の妖しさの不思議な共存という、誰もを困惑させる矛盾の意味がわかる。整形、厚化粧、衣装、奇行、浪費、スキャンダルなどは、彼が倒すべき相手、つまり内面に美しい魂を持ちながらそれを固く閉じ込めてしまっている人々、をおびき寄せるものだったのである。そうやって引き寄せておいて、その蓋をこじ開ける鍵を渡すのが、彼の闘いであった。

たとえば、二度目の児童虐待疑惑の裁判が、その典型的事例である。アフロダイテ・ジョーンズ『マイケル・ジャクソン裁判』(ブルース・インターアクションズ、二〇〇九年)によれば、二千二百人ものマスメディア関係者がこの裁判の取材に押し寄せ、何億人もの野次馬がそのニュースを消費した。彼らはもちろん、マイケルが有罪であることを確信すると共に、そうやって報道のネタが生産されつづけることを強く願っていた。同書の著者ジョーンズもそのうちの一人であった。

しかしマイケルは裁判に勝った。それは二千二百人のジャーナリスト、何億人もの野次馬にとって、まったくの不意打ちで、唖然とする事態であった。その中でただ一人、アフロダイテ・ジョーンズは正直に自らの誤りを認め、事実を再確認し、事件の全容を明らかにする本を出版した。ここまでやったのはジョーンズただ一人であるが、しかしマイケルの魂の力が、誠実なる弁護士トーマス・A・メゼロウ・ジュニアを動かして、トム・スネドンら警察検察関係者と、二千二百人のジャーナリストと、何億人かの野次馬との魂に、深い楔を打ち込んだことは間違いがない。

これが彼の闘い方なのである。アルビーゾ一家のような厄介者に自宅を開放し援助したのは、マイケルが無邪気で愚かだったからではない。彼らはトム・スネッドンのような人々が飛びつく餌をバラまくために、マイケルによって「利用」されたのである。そして彼らの行動が、タブロイド・ジャンキーどもをまんまとおびき寄せた。もちろん彼らは、キャプテンEOの女王の手下のように、レーザー光線でマイケルを傷つけ、苦しめた。その傷が彼の命を削ったことは間違いがない。しかしマイケルは、愛のレーザー光線を送りつづけ、裁判に勝利し、アフロダイテ・ジョーンズの心を開くことに成功したのである。彼女は同書の謝辞の最後に次のように書いている。

本書を執筆しながら、私は神にも日々感謝していた。神が、私に書き続ける意思を与えてくれたのだ。

彼女に力を与えていたのは、神ではなくマイケルの愛だと私は思う。

余談: 戦後日本の政策とマイケル・ジャクソン

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2010-01-24 10:39:21 posted by anmintei
先日の代官山での講演の最中に、重要なことに気づいた。
それは戦後日本の政治構造をこれまでに述べた論理で理解できる、ということであった。
そのあとで色々考えてみて、全体像がはっきりと見えた気がする。

戦後日本の政治構造の第一のモジュールは、女性に対する政策群である。
それは以下のように纏められる。

女性の家庭内法的地位の強化
+社会的進出の徹底した阻止(女性が家に居ることを前提とした日常生活構造)
+社会保障を男性経由化(控除、年金など)
+夫婦別性の阻止

これらの政策は、女性が男性をとっつかまえてそれにしがみつくように誘導するものであり、
「ビリー・ジーン養成政策」として一貫している。

一方、男性に対しては以下の政策がとられてきた。

職員の企業内の法的地位の強化
+企業内労働組合による転職の阻止
+徴税・社会保障を企業経由化

この政策をとることで、ビリー・ジーンに魂を殺されてアニー化した男性が、
企業にしがみつくようにしておく。
企業内のコミュニケーションは極めて支配的なものになり、
Smooth Criminal 化が著しいものとなる。
企業で搾り取られてヘトヘトになった男は、
家に帰るとBlood on the dance floor 女に
対抗する力は残っておらず、イチコロでやられ、家庭でも支配される。

さて、企業に対し取られた政策は、

公共事業と規制とによる利益保証
+行政指導による自由行動の阻止
+高い法人税を武器とした税務署による監視
+金融機関による貸し出しと徴税とをセットにしたコントロール

というものである。これによって企業が国家にしがみつくようにする。

さらにその日本国国家は、

日米同盟+アメリカ市場+核の傘+米軍駐留

でアメリカにしがみつかされている。
結局のところ、これが自民党政権の一貫した政策だったわけである。
本当に驚くほど一貫性が高い。
「対米従属 Billie Jean = Smooth Criminal 体制」とでも呼ぶべきものである。
マイケルが徹底的に戦い続けた相手がアメリカの歪んだシステムであるとすれば、
アメリカに植民地化された戦後日本のシステムも同じ要素を持つように構成されていたのは、
非常に自然である。

私が感心するのは、鳩山首相が、このシステムの根幹である、
Billie Jean 養成政策と対米従属との打破を最重要視していることである。
おそらくは、金星人の奥さんの命令ではないかと思われる。

そうすると、民主党のあるべき政策セットは、上のすべてをひっくり返して、

(女)反Billie Jean政策(既に揃っていて、あとは保育の充実)
(男)労働力の流動性拡大+個人社会保障への移行
(経済)公共事業のNPO移譲+企業活動の自由化+法人税廃止+消費税大増税
(外交)東アジア共同体+中国市場との関係強化+東アジア非核化+米軍撤退

ということになるであろう。

しかしこれらも、マイケルの主張するように、
子供から子供時代が奪われないようにしなければ意味はない。
それは人々が JAM することでのみ可能となる。
「友愛」の実現は生易しいことではない。

Billie Jean: ... is not my lover.(4)

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2010-01-23 21:57:49 posted by anmintei


さて、以上の議論により、 Billie Jeanという曲は、愛でもロマンスでもない、女性による残忍な捕食行動と、その罠に引っ掛かった男性の悲劇を描き、"Do think twice!"という教訓を与える歌だ、ということが立証できたかと思う。ここで問われるべき問題は、(1)第一に、このような教訓を一生懸命マイケルが歌う理由;(2)第二に、なぜこの曲が人々の心を惹き付けるのか;(3)第三に、なぜこのような歌詞に、魅力的なリズムとメロディーを付け、それをまばゆいばかりの華麗なダンスで飾り立てる必要があったのか、である。

そのためにはまず上のグラミー賞のレジェンドの授賞式の演説に立ち返る必要がある。私はこの演説こそがマイケルの思想を最も簡潔かつ直裁に表現する、極めて重要なものだと考えるので、後に、詳細に考察を加える予定である。ここでは、以下の一節だけを引用する。

I realize that many of our world’s problems today from the inner-city crime to large-scale wars and terrorism and our overcrowded prisons are a result of the fact that children have had their childhood stolen from them. The magic, the wonder, the mystery and the innocence of a child’s heart are the seeds of creativity that will heal the world. I really believe that.

都心部の犯罪から大規模な戦争やテロリズム、犯罪者で溢れ返る刑務所に至るまで、我々の世界の今日の諸問題の多くは、子供から子供時代が奪い取られているという事実の結果だと、私は認識しています。子供の心に宿る魔法、奇跡、神秘、無邪気といったものは、創造性の種子であり、それが世界を癒すのです。私は本当にそう信じます。


ここに私はマイケルの思想の核心があると考えている。我々の直面する諸問題の原因は、子供から子供時代が奪い取られることにある。その方法はさまざまである。直接的には、飢餓、疾病、暴力などによって子供の命が脅かされるという事態がある。あるいは躾と称して、激しいあるいは陰湿な暴力が子供に加えられる、というケースも一般的に見られる。しかしそればかりではなく、学校や塾に子供を詰め込んで、無理矢理、長い時間にわたって勉強させて遊ばせない、ということもある。スポーツや演劇や音楽のトレーニングに繁く通わせるのも同じである。マイケルは、自分自身を含め、芸能界に子供時代に入った人々の精神的苦しみをいつも訴えていた。あるいはこういったことが一切なく、食事も衣服も住居もあり、何ら無理強いや拘束を受けず、玩具やゲームや漫画やCDをふんだんに買ってもらえる、という状況でも、親が子供の「面倒を見る」ばかりで、本当の意味での関心を払わず、放置するのもまた同じことである。Black or White のPVのオープニングで、マコーレ・カルキンが演じるアメリカ中産階級の家庭の姿は、その状況を的確に表現している。

子供が必要としているのは、親の愛情に基づく関心である。これが無ければ子供は自分自身の魂の作動を押さえつけ、創造性を失ってしまう。

このような考えは、マイケルだけが提唱したものではない。たとえばアリス・ミラー、アルノ・グリューンといった心理療法に携わる人々が、つとに訴えてきたところであり、彼らの活動によって児童虐待の社会的意味が徐々に認識されるようになってきた。とはいえ、マイケルは、おそらくこういった人々の著作から学んだのではなく、自分自身、テータム・オニール、その他多くの子役出身芸能人の苦しみを通じてこの原理を発見し、世界各地の様々な人と出会うことで、多くの人々にも当てはまることだと、自分で気づいたのではないかと考える。また、マイケルは、この原理を広く様々の方法で人々に伝え、また巨額の寄付を通じて、極めて大きな影響を人々に与えてきた。

さて、この考えからした場合、子供に対する愛情が確保されることが、人類社会の将来にとって極めて重要だ、ということになる。子供に愛情を与える上で最も重要な役割を果たすのは、言うまでもなく両親である。親が子供に愛情を与えるためには、親もまた、愛情に満たされている必要がある。自分は誰にも愛されていないのに、他人を愛するのは無理な相談だからである。そのためには、親が相互に本当の意味で愛し合っていなければならない。それは子供の人生にとって決定的に重要なことである。

もし、両親のどちらかが、相手を愛していないにも関わらず、その所得や容姿や身分や優しさや気の弱さや、その他もろもろの属性に執着し、相手を自分の配偶者にするという目的のために誘惑し、セックスして子供を作ったらどうなるだろうか。その場合、誘惑した方も、された方も、どちらも愛情などは最初から抱いておらず、長期的あるいは一時的な欲望の充足のためにのみ関係を結んだに過ぎない。そうやってできた子供は、最初から、他人を陥れて自分に縛り付ける、という悪辣な目的の手段として作られたことになる。このような状況で生まれた子供が、十分な愛情によって育まれる可能性は最初からない。

このような事態は、もちろん、男性が女性を誘惑する場合にも起きる。しかし、身体の構造からして、男性が女性を無理矢理妊娠させるのは簡単ではない。それに対して、女性が男性を騙して妊娠してしまうのは、簡単である。実際、それは人類社会のすべての時代、すべての空間において、普遍的に起こり続けていることである。マイケルが Billie Jean や Blood on the dance floor といった曲を歌ったのは、そのためだと私は考える。これが課題(1)に対する私の答えである。

両親の間に愛情がなく、その一方が相手を陥れるための手段として、自分は産み落とされた、という恐ろしくも悲しい事実は、たとえ親自身がそのことから目を背けて「互いに愛し合っている」という偽装を続けようとも、子供は感じ取るものである。もちろん小さな子供が、そのような事実に直面して生きて行く事は難しい。それゆえ子供は、自分自身がこの事実に気づかないように、自分の感覚を押さえ込んでしまう。「親は立派な人たちで、互いに愛し合っている。それに私を愛してくれているはずだ。彼らが私にしてくれることこそが、愛情の証拠なのだ。たとえそれが躾と称して私を殴ることでも。たとえそれがお前のためだと言って、私を遊ばせずに勉強や習い事をさせることであっても。」このように子供は自分自身に言い聞かせる。

これをアルノ・グリューンは、「自分に対する裏切り」という。こうなったとき子供は、自分自身の子供時代を奪われ、創造性の源泉から切り離され、他人を愛する力を喪失する。そしてこれは、極めて多くの人の状況に他ならない。それゆえ、この曲を聞いたときに、自分の内部の何か、つまり子供時代に押さえ込んだあの悲しみが蘇るのだと私は思う。これが多くの人がこの曲に惹き付けられる理由、つまり課題(2)の答えだと考える。

最後に、マイケルがこの曲にすばらしい音楽と舞踏とを与えた理由を考える。これは、(1)のようなテーマが多くの女性を困惑させるものだということに関係がある。Blood on the dance floor のように直接的な曲に、女性が惹き付けられる可能性は低い。しかし女性が聞かないのであれば意味が乏しい。Do think twice! とサカリのついた若い男に言っても、実のところほとんど効果はないであろう。本当に意味があるのは、女性がそのような行為に及ぶ原因である貪欲さから、自ら離脱することである。

人が貪欲さに溺れるのは、自分の魂、自分の創造性と愛情との源泉から、自分自身が切り離されているからである。自分に対する裏切りを行った状態では、本当の感覚から切り離されるため、喜びを感じることができない。そのため、自分が抱いている不安や悲しみや痛みを押し隠し、ごまかして紛らわす手段を得ることが「喜びの代替物」となる。それには贅沢、化粧、見栄、所得、資産、趣味、お喋り、といったものから、より直接的なアルコール、タバコ、麻薬、刺激的なセックス、というものまで色々である。こういった喜びの代替物を求める心が、貪欲さの本質である。

それゆえ、貪欲さからの離脱を実現するには、人の魂を揺り動かす必要がある。人が自ら、自分の状況のおかしさに気づき、JAM して、start something するなら、そのとき自分に対する裏切りからの離脱の第一歩が始まる。貪欲にイカした男を狙う女性の魂が揺り動かされたなら、そのとき Billie Jean の悲劇は回避される。

しかし、このような厳しいメッセージを、貪欲に溺れる女性の意識下に届けるのは容易ではない。マイケルはこの極めて困難なタスクに挑戦したのである。そのためにはマイケル自身がそういう女性の憧れる存在となり、彼女らが狂喜するような魅力に溢れた音楽とダンスとで飾り立てる必要がある。
それが Billie Jean という曲をめぐる彼の闘いであった。これこそが課題(3)の答えだと私は考える。

彼の闘いは見事な成功をおさめた。Billie Jean はマイケルの数々の名曲の中でも、最も人気のある作品となったのである。

(了)

Billie Jean: ... is not my lover.(3)

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2010-01-22 11:29:36 posted by anmintei
マイケルは、Billie Jean と同種のテーマを扱う歌を何曲も歌っている。そのうち、一番強烈で、かつ明白な関係をもつものが、 Blood on the Dance Floor である。この曲は、ダンスフロアが舞台となっている点で、ビリー・ジーンと同じである。その上、以下のフレーズは、明らかにビリー・ジーンを踏まえている。

She got your baby          彼女は君の赤ん坊を妊娠する。
It happened fast           それは素早く行われる。
If you could only           君はできることなら、
Erase the past            ただ過去を消し去りたい。

この曲は、私の解釈では Billie Jean をより率直かつ露骨に歌ったもの、もっというと注釈のようなものである。Billie Jean を理解する上で重要なので、以下に歌詞を全訳しておく。

=========Blood on the dance floor===============
訳詞 安冨歩

She got your number            彼女は君の電話番号を知っている。
She know your game            彼女は君のやり口を知っている。
She put you under             彼女を君の意識を失わせる。
It's so insane               それはとても異常だ。

Since you seduced her           君が彼女を誘惑したのだから。
How does it feel              どんな感じがする?
To know that woman           その女が君を殺そうとして、
Is out to kill                フロアに出てきたと知るのは。

Every night stance is like takin' a chance   毎晩、その態度はチャンスを狙うかのようだ。
It's not about love and romance       それは愛でもロマンスでもない。
And now you're gonna get it         いまや君はそんなものを手にしつつある。

Every hot man is out takin' a chance  イカした男は誰でもチャンスを狙ってフロアに出てくる。
It's not about love and romance    それは愛でもロマンスでもない。
And now you do regret it       そしていまや君は、それを後悔する。

To escape the world           この世界から逃げ出すには、
  I've got to enjoy that simple dance   あの単純な踊りを楽しまねばならない。
And it seemed that everything was on my side すると全てが私の手中にあるように見えた。
(Blood on my side)             (血が私の手中に)

She seemed sincere           彼女は誠実に見え、
 like it was love and true romance   それは愛や真のロマンスであるかのようであった。
And now she's out to get me      そしていまや彼女は私を捕まえにフロアに出てきて、
And I just can't take it         そして私はそれを取る事もできず、
Just can't break it           それを振り払うことさえもできない。

Susie's got your number        スージーは君の電話番号を知っている。
And Susie ain't your friend       そしてスージーは君の友達ではない。
Look who took you under       見よ、彼女は君を組敷いて、
With seven inches in          18センチの物を挿入した。(※)
Blood is on the dance floor      血がダンスフロアに。
Blood is on the knife         血がナイフに。
Susie's got your number       スージーは君の電話番号を知っている。
And Susie says its right        そしてスージーはそれが正しいことだと言う。

She got your number         彼女は君の電話番号を知っている。
How does it feel           どんな感じがする?
To know this stranger        その見知らぬ女が君を殺そうとして、
Is out to kill             フロアに出てきたと知るのは。

She got your baby          彼女は君の赤ん坊を妊娠する。
It happened fast           それは素早く行われる。
If you could only           君はできることなら、
Erase the past            ただ過去を消し去りたい。

Every night stance is like takin a chance 毎晩、その態度はチャンスを狙うかのようだ。
It's not about love and romance     それは愛でもロマンスでもない。
And now you're gonna get it      いまや君はそんなものを手にしつつある。

Every hot man is out takin' a chance  イカした男は誰でもチャンスを狙ってフロアに出てくる。
It's not about love and romance    それは愛でもロマンスでもない。
And now you do regret it       そしていまや君は、それを後悔する。

To escape the world           この世界から逃げ出すには、
  I've got to enjoy that simple dance   あの単純な踊りを楽しまねばならない。
And it seemed that everything was on my side すると全てが私の手中にあるように見えた。
(Blood on my side)             (血が私の手中に)

It seemed sincere           それは愛や真のロマンスであるかのようで、
 like it was love and true romance   それは誠実に見えた。
And now she's out to get me      そしていまや彼女は私を捕まえに出てきて、
And I just can't take it         そして私はそれを取る事もできず、
Just can't break it           それを振り払うこともできない。

Susie's got your number        スージーは君の電話番号を知っている。
And Susie ain't your friend       そしてスージーは君の友達ではない。
Look who took you under       見よ、彼女は君を組敷いて、
With seven inches in          18センチの物を挿入した。(※)
Blood is on the dance floor      血がダンスフロアに。
Blood is on the knife         血がナイフに。
Susie's got your number       スージーは君の電話番号を知っている。
You know Susie says its right     ほら、スージーはそれが正しいことだと言う。

Susie's got your number        スージーは君の電話番号を知っている。
Susie ain't your friend         スージーは君の友達ではない。
Look who took you under       見よ、彼女は君を組敷いて、
With seven inches in          18センチの物を挿入した。
Blood is on the dance floor      血がダンスフロアに。
Blood is on the knife         血がナイフに。
Susie's got your number       スージーは君の電話番号を知っている。
Susie says its right          スージーはそれが正しいことだと言う。

It was blood on the dance floor   それはダンスフロアの血だった。
(blood on the dance floor)      (ダンスフロアの血)
It was blood on the dance floor   それはダンスフロアの血だった。
(blood on the dance floor)      (ダンスフロアの血)
It was blood on the dance floor   それはダンスフロアの血だった。
(blood on the dance floor)      (ダンスフロアの血)
It was blood on the dance floor   それはダンスフロアの血だった。
(blood on the dance floor)      (ダンスフロアの血)

And I just can't take it       そして、私はそれを取る事もできない。

Ooo...               ああ。

=====================

(※)の箇所は、「深さ18センチ刺した」という意味に解釈した方が、部分的には意味が通じやすい。つまり、以下のようになる。

Look who took you under       見よ、彼女は君を組敷いて、
With seven inches in          18センチ刺したした。
Blood is on the dance floor      血がダンスフロアに。
Blood is on the knife         血がナイフに。

このように読むと、この歌は、スージーが君を実際にナイフで刺し殺し、血がナイフに付いて、ダンスフロアに溢れる、という話になる。こう解釈すると、スージーはあなたを殺そうとしているのだから、彼女との出会いが愛でもロマンスでもない、というのも、文字通りの意味となる。このほうがずっとわかりやすい。

マイケルは、このように表面的に解釈されるように、この歌詞を書いたのだと私は思う。そうやって真のメッセージを隠蔽するために。

しかし手かがりは、ちゃんと与えられている。このように解釈すると、以下の部分の意味がわからなくなるのである。

She got your baby          彼女は君の赤ん坊を妊娠する。
It happened fast           それは素早く行われる。
If you could only           君はできることなら、
Erase the past            ただ過去を消し去りたい。

彼女が君を殺したのであれば、どうやって赤ん坊を妊娠するというのだろう。この部分と一貫して理解するには、seven inches をナイフを刺す深さと解釈してはならない。既にいくつかの曲について示したように、マイケルの歌は魂の次元を考慮に入れなければ、意味がわからなくなる。たとえば Smooth criminal のアニーは魂を殺された人、Thriller は魂の死んだ人々の踊り、Jam や Wanna be startin' somethin' はそこからの脱出、という具合である。Blood on the dance floor も同じ角度から見なければ意味がわからなくなる。

なお、seven inches の意味については、以下に詳細な解説が出ている。ポイントは、大半の男性は7インチも無いくせに、オレのものは7インチだと言いたがる、という点にある。そういうことで自分の価値が上がったり下がったりするように思ってしまう愚かな男が、あっという間にビリー・ジーンの餌食になる。マイケルの言葉の選び方の真剣さが、こういうお下劣な箇所にも表れている。

http://www.urbandictionary.com/define.php?term=Seven%20Inches

1. Seven Inches
1) Lenght of an above average penis.
2) Size penis that someone who has a really small penis will claim to have.
例文 "Didn't ---- tell everyone that he was hung with seven inches?" "Yeah, but the two girls he slept with said he had a baby dick!"

2. seven inches
pertaining to the specific length of a male's penis. The vast majority of men fall short of a seven inch penis. They often exaggerate their size and make incorrect measurements of their penis. Rather than measuring the correct way which is along the top starting at the base where the penis meets the body, they start from the bottom end where the penis meets the scrotum.
例文 Some women prefer to have sex with a man who's cock measures seven inches.




(つづく)

Billie Jean: ... is not my lover.(2)

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2010-01-22 10:31:24 posted by anmintei
Billie Jean でマイケルが人々に訴えようとしたことは、実は明々白々である。それは次の箇所である。

=========================
So Take My Strong Advice, Just Remember To Always Think Twice
(Do Think Twice)

それゆえ、私の強い助言を聞いて欲しい。いつも二度考えるということを、決して忘れないで。
(二度考えなさい!)
=========================

この教訓が、この歌の一番大切なところである。なぜここが一番大切かというと、「私の強い助言を聞いて欲しい!」と言っているからである。マイケルはとても真面目な人なので、言っていることは真面目に受け取らねばならない。それに、この箇所を歌っているマイケルの様子を見ても明らかである。本当に一生懸命である。

では何を二度考えろ、と言っているのかというと、目の前にいる女の子とセックスすべきかどうか、である。ビリー・ジーンは映画女優のような美人らしく、男どもの垂涎の的であるが、その娘がダンス・フロアでの踊りの相手に「ぼく」を指名した。喜び勇んで踊ったら、しばらくすると、彼女は子供を妊娠し、その父親がぼくだという。そんなの知らないと言っても、写真の子供の目がぼくにそっくりで、その上、法律は40日40夜にわたって彼女の味方をする。で、本当に身に覚えが無いのかというと、

=====================
She Came And Stood Right By Me
Then The Smell Of Sweet Perfume
This Happened Much Too Soon
She Called Me To Her Room

彼女は私に寄ってきて、すぐそばに立った。
すると香水の甘い匂いが。
このことはあまりにもすぐに起きた。
彼女は自分の部屋に私を呼んだ。
=====================

ということなので、これはアウト!である。
つまるところこれは、ぼくがビリー・ジーンの罠にかかって、
愛してもいない女に妊娠されて、無理矢理結婚を迫られているわけである。
その上、母親や周囲の人間もそれを強要する。

=====================
People Always Told Me Be Careful Of What You Do
And Don't Go Around Breaking Young Girls' Hearts
And Mother Always Told Me Be Careful Of Who You Love
And Be Careful Of What You Do 'Cause The Lie Becomes The Truth

人々はいつもぼくに言った。
自分のすることに注意するように、
そして、若い女の子の心を乱して回るんじゃない。
それからお母さんはいつもぼくに言った。
誰を好きになるか十分注意しなさい。
そして、自分のすることに注意しなさい。
なぜなら嘘が本当になってしまうから。
=====================

ほら、言った通りになった、というわけである。
嘘が本当になってしまったのだから、もう仕方ない、というのが母親のスタンスである。
ぼくは、「ビリー・ジーンはぼくの恋人じゃない!」と必死で訴えるが、後の祭りである。
それゆえ最初の "Do think twice!" という助言を皆さんにするのである。

私のある友人は、若い頃、キムタクのような風情で、その上、優秀であった。
その彼とある会合で会ったら、ご自慢の長髪がバッサリ切られていて、
サラリーマンのような風情になっている。一体どうしたの?と聞いたら、
涙ながらに恐ろしい話をしてくれた。

彼はモテモテで、複数の彼女がいたらしいのだが、ある日、そのうちの一人に呼び出された。
行ってみると、喫茶店でいきなり、白黒の見にくい写真を見せられた。
よく見ると、真ん中になにか白っぽい、お魚のようなものがぼんやり見える。
それは実は、彼女のお腹の超音波写真で、写っているのは、赤ちゃんだと言うのである。
そのしばらく前に彼は、彼女とセックスしたのだが、「今日は大丈夫」ということだったので、
避妊しなかったのである。

こんなおそろしい詐欺にあったら、警察にその女を突き出して、
詐欺罪で逮捕してもらえば良さそうなものであるが、残念ながら日本でも、
law is on her side で逮捕してはくれない。それどころか、「責任とれ」ということになり、
彼はやむを得ず、長髪をバッサリ切って、彼女の親元にご挨拶に行く羽目になった。

こういう恐ろしいことが日常的に起きるのが現実社会であり、
それゆえまったく Do think twice なのである。

$マイケル・ジャクソンの思想(と私が解釈するもの)著者:安冨歩
この画像はイメージ画像で、本文とは関係ありません。

と書いてから気づいたのだが、キムタクも婚約発表時に工藤静香が妊娠四ヶ月だったなぁ。その上、2009年の紅白歌合戦で、ド下手なムーンウォーク(というか、後ずさり)を披露したけれど、その時の曲はビリー・ジーンだった!あな恐ろしや。

(つづく)

Billie Jean: ... is not my lover.(1)

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2010-01-22 00:25:01 posted by anmintei


ビリー・ジーンである。死ぬ程、カッコいいことは言うまでもない。マイケルの曲で一番売れたのは、結局、これだったという。このコンサートでも、ここが全体の頂点を成していると言っていいであろう。上の映像はやはり音がDVD版に入れ替えられているようなので、こちらの音もBBC版の方で聞いてみたが、やはり、冒頭にもの凄い歓声が入っている。確かにもし今、本物のビリー・ジーンのダンスを、この目で見られる、と思うなら、私でも絶叫するだろう。どこからどう見ても、マイケル・ジャクソンの代表作と言わざるを得ない。

しかしその内容は、考えれば考える程、不思議な歌である。
====================
Billie Jean is not my lover
She's just a girl who claims that I am the one
But the kid is not my son
She says I am the one, but the kid is not my son

ビリー・ジーンはぼくの恋人じゃない。
彼女はぼくがそうだ、と言い募っている女の子に過ぎない。
しかしその子供はぼくの息子じゃない。
彼女はぼくがそうだというが、その子供はぼくの息子じゃない。
=====================
ビリー・ジーンがぼくの恋人だ、というなら、まぁ、普通である。
ところが、この歌は、ぼくの恋人じゃない、ということを、熱心に訴えるのである。
こんなヘンテコリンな繰り返しフレーズのヒット曲はそんなにないだろう。

この曲が大好きだという人がとても多いのも不思議だが、
それと同時に、マイケル自身もこの曲を重視しているのも不思議である。
この曲のどこが、彼の思想の重要な部分を成しているというのであろうか。



上の、モータウン25周年記念コンサートで、人類史上初の Moonwalk が披露されたのが、
この曲だった、という影響は大きいであろう。しかし、この番組を見たわけではない
日本人もこの曲が大好きであり、マイケル生誕五十周年企画投票でも一位であった。
ということは、この曲には何か人を捉えるものがある、と言わざるをえない。
ここでは、その理由を考えてみたい。
(続く)

余談; 代官山で風邪をひく

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2010-01-21 13:32:59 posted by anmintei
土曜日に、代官山で東京都歴史文化財団とAITというアート系のNPOの開催した講演会で喋ってきた。

http://www.bh-project.jp/artpoint/lecture/100116-01.html

塚本由晴さんという建築家で東京工業大学の教員をなさっておられる方と対談した。

塚本さんは子供の頃に昆虫採集が大好きで、里山に入り浸っておられたらしい。
虫を探すのではなく、虫の好きな場所を探すのが昆虫採集だ、というお話で、目から鱗が落ちた。
現在の建築家としての活動でも、建物よりも場所の全体を見るのは、そのためとのことである。
「建築家が講演で自分の建てた家を見せて自慢するのはよろしくない」ということで、
パワポもスライドもなしで講演されたのに対して、
子供時代の昆虫採集については、「私の昆虫採集は本当に凄いんです」と、
躊躇無く、何度も自慢しておられたのは実に立派であった。

私はバブルの話から初めて、その背後に「自分自身のための自分」という観点を
喪失し、他人の地平を生きる人間がハラスメント関係を作り出し、
大きな破壊性を生み出す、という考え方を説明し、
タガメ女とカエル男の話をした(拙著『ハラスメントは連鎖する』参照)。
その上で、マイケルの作品の解読を行った。
最初は Blood on the dance floor で、これは強烈なタガメ女ソングである。
そこから、いくつかの代表作を説明した。マイケルの芸術の力は偉大で、
これまでになく、多くの聴衆が、真剣に私の言葉を受け止めて下さった。

おかげで講演会は盛り上がって楽しかったのだが、
その日の夜から喉がいたくなり、日曜日から風邪をひいて寝込んでしまった。
変な風邪で、熱もなく、頭痛もなく、鼻水は半日程ひどかっただけで、
咳もくしゃみも微弱であるのに、もうれつに体がだるい。
何もする気がしないが、じっとしていると風邪に良くないと聞いたので、
毎日、犬の散歩にだけは出掛けた。歩いていると循環が良くなって、
だいぶ気分がましになるが、家に帰るとぶっ倒れる。
これを繰り返して、ようやく少しましになった。

最近、ほとんど風邪をひかなくなったのだが、どうしてこんなにタチの悪い奴に
やられたのか、不思議だった。私が寝込んでいるのに、家族の誰にもうつらなかった
ことから、どうも、感染性の強いウイルスなどにやられたわけではなさそうである。
そうすると、内因性、つまり自分の心身のバランスを欠いた事が原因と考えた方が
良さそうである。

ここのところ忙しくて、過労気味であったのは事実である。
しかしそれ以上に、この講演会が関係あるように思われた。
というのも、観客の皆さんは、若い人が多かったが、
あの恐るべきスリラー・シティ東京の方々である。
ということは、それぞれに、相当のスムーズクリミナル的圧力を受けて、
日常をなんとか過ごしているに違いない。
そうなると個々人の魂に宿る天使は相当に抑圧され、
悪魔が猛威を振るっている人が多いと考えざるをえない。

この Are you OK? 状態の人々に、マイケルの思想の根幹を伝えるという行為は、
個々人の魂に宿る天使に、もの凄いエネルギーを吹き込むことになる。
私の言葉だけではできないことでも、マイケルの芸術の力を借りれば、
相当のインパクトを持つ事は、今回、私がありありと認識したところである。

しかしその行為は同時に、個々人に取り憑く悪魔に、大きな衝撃を与えることになる。
その悪魔の反撃は、天使の得たエネルギーが大きければ大きいほど、強くなる。
この力こそが、マイケルを苦しめ、死に追いやったものに他ならない。

聴衆の皆さんが熱心に聞いて、強く反応して下さったことに気を良くして、
私は、この力のことを、すっかり忘れていたのである。
そのため、もろにそのパンチを知らない間に浴びたようである。
マイケルの受けた力の何万分の一かを受けたなら、
風邪をひくくらいは仕方の無いところであろう。

私のように、心身の作動として真理を掴んだのではなく、
思考によってそれに接近した者は、修行が足りないのであり、
こういった負の力を感知して対処する能力が弱い。
そういう者が、マイケルの力を借りたりするのは、
虎の威を借る狐のようなものであり、
こういう目に遭うのは、避けがたいところである。
黒眼鏡と黒マスクくらいは装備しておくべきだった、
と反省しているところである。

ああ、まだ頭がぼんやりする。

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