聖魔伝説6<伝説編> 祈り

第14章 ――永遠に貴方を――

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* 01/14  01/22  01/28

更新 2010.01.28

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 T
「――っ……」
 意識を取り戻すなり、セルリアードは急ぎサリディアの寝室へと向かった。何が夢で、何が現実なのか。
 部屋の寝台に、こざっぱりした姿のサリディアが身を起こしていて、窓の外、見渡す限りの銀世界を眺めていた。
「サリディア?」
「セ――」
 呼ばれて、振り向いたサリディアが微笑んで彼を呼び返しかけ、吐息のような声を漏らした。
 彼に、固く抱き締められたからだ。
 サリディアも、確かめるように彼の背へと腕を回して、目を伏せた。
 愛しさと心地好さに、それきり、互いに何も言わなかった。

 ただ、誰より傍で笑っていて欲しい相手が――
 ここにいる。
 真っ直ぐに見詰めて、慈しんで、抱き締めてくれるから。

 サリディアには、今は到底、他のことなど望めなかった。
 抱き締める腕に、苦しいくらいの力を込められると、彼女は心底ほっとして、心満たされる嬉しさに、花が綻ぶような笑みを溢した。
 冷たい闇の中、独りきりで過ごした寂しさが、恐怖が、彼の腕の中で消えて行く。
 彼が傍にいてくれるなら、どんな悲しみも苦しみも、乗り越えて行けると思った。
「――セルリアード」
 どのくらい経った頃か。
 寝室の入り口に、サリスディーン博士が姿を見せていた。
「娘と別れるつもりなのか、それでも、なお、別れないつもりなのか、聞きたい」
「え……?」
 セルリアードと博士を交互に見比べ、サリディアは恐怖に震える手で、彼の衣装をつかんだ。
「その聞き方では、サリディアが恐れます。やめて下さい」
「黙って身を隠すつもりなら、言語道断だ。どうするつもりなのか、答えられないのか?」
 サリディアの手が、傍目にも震え出し、彼女は哀願するように、首を振った。
「父さん、やめて……なに……? お願い、セルリアード、…っ……行かないで……!」
 腕の中、壊れたように震える彼女を、彼は落ち着かせるように、胸に押し付けた。
 恐怖に彩られた彼女の瞳から、涙さえ、伝い落ちていたから。
「サリディア、私の身に流れる魔族の血が、濃くなりすぎている。感情が昂った時には、魔性を隠せないだろう。おまえのことも、繰り返し、傷つけるかもしれない。それでも、おまえ、私の傍にいたいか?」
「――……」
 サリディアはこくんと頷いた。
「サリスディーン博士」
 神秘的な蒼の双眸に、もはや揺らぐことのない、意志を宿して。
「宰相の地位、退かざるを得なくとも、人の住む世界にさえ、いられなくなろうとも、サリディアとは別れられません」
 言葉をなくしたサリディアが、彼の真意を確かめるように、目を凝らすようにして、彼を見た。その彼女に優しく微笑みかけて、感極まった涙を彼女が落とすと、彼は胸に彼女を抱き留めてから、博士に視線を戻した。
「もう二度と、サリディアを傷つける真似を繰り返すつもりはありません。今後は何をおいても、命に代えても、彼女を守ります」
「……」
 サリスディーン博士はしばらく、彼を見据えていた。
「本当だな?」
「ええ」



「セーちゃん……」
 ――セーちゃん?
「また、随分懐かしい呼び方するな」
「あ……うん、ごめん……」
 サリディアが謝ると、彼はくすくすと笑みをこぼした。
「人のいないところでなら、構わないよ」
 部屋に二人きりになると、サリディアが瞳を翳らせて、ぽつりと言った。
「命に代えてもって、ほんとには、代えないでね? 言葉の綾でも、あの――」
「さあ、どうしようか?」
 笑みを隠して、察している様子で、セルリアードがそういう言い方をするから。
 拗ねて身を退きかけた彼女の肩を、彼は利き手でつかんだ。
「置き去りにされるの、いや――」
 突然、彼女の声が震えて、言葉が途切れた。
 涙さえ、隠そうとする彼女の指の隙間から伝い落ち、ぱたぱたと床に滴った。
「……サリディア、約束した。もう二度と、置き去りにはしないから――」
 セルリアードもさすがに、可哀相なことをしたなと思った。
 それだけ、傷つけたのだ。わかっているのに、それが嬉しくもあるから、始末に終えない。
 彼は妖艶に微笑むと、告げた。
「サリディア、おいで。泣きやめたら抱くから」
「えっ……?」
 途惑った、彼に何を言われたのか、わからなかった様子で、サリディアがうかがうように彼を見る。
 優しく、泣きやめたらご褒美と微笑まれたのだ。彼女が寂しくないよう、嬉しい気持ちになるよう、いつでも彼に気遣われてきた彼女には、彼がご褒美に何を提示したか、疑う余地さえなかったのだろう。
 彼女に寄せられる信頼の心地好さ。彼は優しい気持ちになって、それでも、やや強引に彼女の腕を引いた。
 小さな悲鳴を上げるサリディアに、甘くキスした後、その夜着の内側へと手を差し入れて、滑らかで弾力のある素肌をなぞった。
「……んっ」
 耳まで紅潮させたサリディアが、切なげな、甘い吐息を漏らして、震える指を彼の指に絡めて、その深くまでは触れさせまいとする。
 彼女がつらいようなら、容赦しても構わなかった。
 けれど、案外、彼女の反応は瑞々しく、入浴したばかりらしい肌は触れ心地が好くて、彼は微笑んで、彼女を寝台に押し倒した。

 ――優しいキスさえ苦しがる、深くまで蹂躙(じゅうりん)すれば、ひどく震える彼女の中に、他の異性が与えた記憶(ショック)など、残しておきたくはなかったから。彼女に愛に満たされる至福の記憶を与えるのも、残酷な痛みの記憶を与えるのも、ただ、彼だけでいい。


 U
「降伏だと!?」
「はっ」
 伝令のもたらした報に、スィール帝国の宰相ヴァレインは目を剥いた。
「どういうことだ! 降伏!? 冗談もたいがいにしろ、あの魔物……!!」
 人間の皮をかぶった魔物の気まぐれだと、ヴァレインは即座に確信し、疑わなかった。
 皇帝が討伐されたという噂は聞こえてこない。
 帝国はいまだ、滅亡を司る天魔の支配から、解き放たれていないのだ。
「ヴァレイン閣下」
 別の斥候(せっこう)が、ヴァレインの前に(ひざまず)いた。
「ラルス軍が峡谷を通過します」
 ヴァレインは残忍に目の端を光らせると、ニタリと笑った。腰の長剣を抜き放ち、振り上げる。
「閣下!?」
 あっという間の出来事だった。何が起こったのかもわからず、伝令は息絶えた。
「――敵国の回し者だ、始末しておけ!」
 天魔に滅ぼされたスィール皇家の末裔、第一皇子であったヴァレインだ。彼には、天魔の棲み処と化したシュレイディンガル城に、首を斬られるために呼び戻されるつもりなど、毛頭なかった。――それは必然の、造反。


 V
 ディルアードは静かに、精巧な細工の施された、美しい精霊石の召喚鈴を手に取った。
 高い魔力を有する召喚鈴だが、彼にも誰にも、取り扱うことは出来ない。
 その召喚鈴は、もはや、装飾品に過ぎないもの。世にも美しい音色を奏でる召喚鈴だったが、もう永遠に、その音色が響くことはない。
 魔力を与えた、唯一の創り手にしか呼応しないのが召喚鈴なのだ。
 音の鳴らない、美しい鈴の形をしたそのイヤリングを、彼は初めて、耳元に飾った。
 天魔が滅びるか、世界が滅びるか。
 沈黙の後、ディルアードは冷笑した。その血が覚醒しかけた、鮮やかな紫眼を見た時、直感した。北の魔王(シェラザード)の落し胤――すなわち、天魔に堕とせる者だと。それがなぜ、聖魔として覚醒し得たのか。彼同様、漆黒の羽根を持ってしかるべき者が――
「なぜ、憎しみに呑まれぬ……? 酔狂なことだ」
 あるいは、仇敵の望みまで汲み取り、叶えんとする存在が聖魔なのか。
 ならば、己は聖魔になど、なりたくもないけれど。
 ――嫌いではない。
 折しも、前触れもなく、ディルアードは苦しい息を吐き、石造りのテーブルに手を突いた。その命核が、摩滅しかけているのだ。
 まだ、滅びるものか。
 奪い穢し蹂躙するだけの、醜悪なる生き物が蔓延する世界の終焉を、絶望の果てに滅ぼされた魂の残骸に、捧がん。忌まわしき、邪悪なる種に、凄絶な末路を与えん。

 失われた、儚い面影の忘れ形見に誓い、彼は刹那の微笑みを刻んだ。


 W
 公子とその婚約者であるリシェーヌを待つ、ラルス公国軍分隊の陣営に逗留していたラーテムズは、おおよそ、余人には理解不能な計器の類を調整しながら、気難しげに眉をひそめた。
 スィール帝国が降伏したという報告が、ラルス公国の分隊にも、もたらされて間もない。
「ルシャンテ軍隊長」
 分隊の軍隊長は、ようやく一安心と、幕僚たちと歓談していた。
「アミュレット殿、いかがなされた?」
「スィールの分隊に不審な動きが見えます、公子の本隊はどの辺りまで?」
 その場にいた全員に緊張が走り、軍隊長の表情にも、深刻な険しさが宿った。
「峡谷を通過するはずだ、まさか、急襲するような……!」
 通過を知られているなら、峡谷は狙いやすい、危険な場所なのだ。
「――ええ」
 ラーテムズが肯定すると、軍隊長は短い硬直の後、椅子を蹴立てて呼ばわった。
「公子を出迎える! 動ける兵は全てかき集めろ!」

     *

「ディテイルさん、駄目です!」
「放せよ、カーナ! リシェーヌが……!」
 小さな砦の階段上。ディテイルは看病していたカーナと揉み合っていた。
「その怪我で動くのは無理です! それなのに戦場なんて、殺されます!」
 保護してもらったラルス公国の分隊には、さすがに、貴重な精霊使いまでは配されていなかったのだ。大腿を魔法で打ち抜かれたディテイルは、保護された時には重体だったし、手当ては傷薬を塗って、包帯を巻いてもらっただけのものだ。到底、動ける状態までは回復していない。
 それでも、リシェーヌの身に危険が迫っていると知らされて、黙っていられるような彼ではなかった。
「俺は死なない! 放せ、カーナ!」
 ディテイルが強く腕を振ったはずみに、しがみついていたカーナが側の柱にぶつかった。
「あっ!」
 さすがにためらったものの、ディテイルは心を鬼にして、その隙にカーナの腕を振り払った。
「ごめん! だけど、俺行かなきゃ……!」
 踏み出した場所に、床がなかった。
 だから階段――
 カーナの悲鳴が聞こえた気がした。急に、天井が視界に入る。
「ディテイルさんっ!!」
 腕を引っ張られ、束の間、天地の逆転が止まった。
「ばっ……!」
 とっさにカーナが引っ張ったところで、支えられるわけがないのだ。そのまま、ディテイルはカーナもろとも階段を転がり落ちた。
「カーナ!」
 ぐっと、彼女を庇って抱き締める。
 二人分の衝撃があり、意識が遠のいていった。


 ……さん――
 気付くと、真っ青な顔をしたカーナがそこにいた。
「ディテイルさん!」
「血が……」
「いや、誰か、誰か――!」
 ――怪我、させた?――
 悪いことをしてしまった。謝って済むだろうか?
 ふと、鈍く痛む後頭部を押さえた手に、ぬるりとした感触があって、彼はぞくっとした。
 その手を目の前にかざして、ようやく、血を流しているのがどちらなのか、わかった。
「誰か! ディテイルさんが――!」
 ほとんど泣き声で、必死にカーナが何事か叫んでいた。
 それでも、カーナを怪我させたわけではなかったことには、ほっとした。


 X
 風は冷たかったけれど、行軍はそれほど厳しくなかった。
 寄りかかっている青年の胸の温かさが、抱き締める腕の優しさが、すべてを、包み込んでくれる。リシェーヌは満ち足りていて、異国へ嫁ぐことも、フェルディナント公子の傍にいられるのなら、構わなかった。
 公子はリシェーヌを前に横向きに座らせ、危なげなく馬を進めている。
「どうやら、このまま故国に戻れるようですな。大公も兄上様もお喜びになりますぞ」
 それまで遠慮していたレオミュールが、退屈してか、馬を寄せて来た。
「まだ、わかりませんよ」
「何を仰いますか、凱旋なのですぞ。その上、大公がどう手を尽くしても、頑なに身を固めようとしなかったあなたが、アルン王家のお血筋の、稀に美しい姫君を花嫁として連れ戻るのです。大公の驚く顔が、目に浮かぶようですな」
 大公ともども、長年に渡り気をもんで来たらしいレオミュールは、やり遂げたことにいたく満足しているらしく、喜色満面だ。
「私などで、喜んで頂けますか?」
 リシェーヌが尋ねると、レオミュールは「もちろんですとも」と、太鼓判を押した。
 はにかんで微笑むリシェーヌの傍で、公子は涼しげに、穏やかに笑っているだけだ。
 レオミュールには、さっぱり理解できない。世にも清らかな乙女の微笑みに、男としてぐっとくるものはないのか。
「リシェーヌ様、不安になったりは、なさいませんか? わかりにくいでしょう、フェルディナント公子は」
 気遣わしげなレオミュールの様子に、リシェーヌは不思議そうに、途惑った瞳で公子を見た。
「リシェーヌ姫は精神感応者(テレパス)ですから、言葉を必要としない公家のやり方には、よく、馴染むようですよ。むしろ、言葉を使うことにあまり慣れていらっしゃらないのか、そちらに途惑われるようです」
 レオミュールは面食らって、あっけに取られて、つい、確かめてしまった。
「そうなんですか?」
 リシェーヌが安心したように微笑んで、こくりと頷く。
「はい」
 鈴を振るような綺麗な声だ。それなのに、これを、あまり使わないのか。なんとも、もったいない。
 ふいに、公子が虚空へと視線を向けた。
「フェルディナント様?」
「不穏な兆しが――」
 公子が眉を顰め、告げる。
「レオミュール、不穏な兆しが視えます、軍に警戒を促して下さい」
 幾分、血の気を引かせ、レオミュールはすぐ公子の指示に従った。公家に脈々と受け継がれる予知の力は、公国では、信仰さえされているものだ。
「リシェーヌ姫、あなたは私の傍にいてはいけない。召喚鈴を使えば、アルンに呼び戻してもらえるはずです」
「え……?」
 公子の指先の冷えに、リシェーヌはどきりとした。何を視たのか。
「私では、あなたを守り切れない、早く!」
 リシェーヌはきゅっと公子の軍装をつかむと、口許を引き結ぶようにしてかぶりをふった。
「フェルディナント様、私、残ります」
「リシェーヌ姫、何を言われるのですか」
 彼女は真摯な瞳で公子を見詰めた。
 公子が視たもの、それは――
 この峡谷での惨劇だ。おびただしい血が流され、部隊は公子もろとも、全滅する。
 けれど、サリディアが教えてくれた。運命は変えられるもの。
 公子も知っている。運命は突破できるもの。
 兄が闇に呑まれかけていたあの頃、何も、できなかった。
 サリディアが救ってくれなかったら、何もかも、闇に失っていたに違いないから。
 あの頃のように、何もせず、片隅にうずくまったまま失えない。
 そんなことを繰り返すのなら、何のために、守られたのか。
 たとえ、この峡谷で命を落としても、公子や優しい人達を守ろうとした彼女の想い、兄とサリディアだけは、きっと――
 哀切に、優しく微笑んだ公子が、彼女の胸元から、もはや彼女の意向を汲まず、首飾りにしていた召喚鈴を引き出した。
「リシェーヌ、愛しています。――必ず、迎えに行きます」
「フェルディナント様! そんな、や――!!」
 召喚鈴の放った神秘的な光の奔流が、峡谷を、刹那の幻想的な光彩で満たし、掻き消えた。
 リシェーヌは驚いて、砕け散った召喚鈴を見詰めた。彼女はまだ、峡谷に、公子の腕の中にいる。
 召喚鈴の魔力に、抗えた――?
「ティーダ、これは!?」
「結界です! 魔法封印の陣が、大掛かりに敷かれているようです!」
「なっ……」
 公子は表情を険しくすると、強くリシェーヌを抱き締めた。
「リシェーヌ、ここを突破するまで、あなたを気遣えないこと許して下さい」
「はい」
 敵方が戦略として敷いた魔法封印の陣に、アルンへの帰還魔法が阻止されたのだ。
 けれど、公子と同じ運命を辿れることに、彼女は感謝さえしていた。
 最後まで、公子の傍らで、彼女の全身全霊を懸けても、大切な人達を守りたい。
「続け!」
 馬を疾駆させる公子の胸に、リシェーヌはしっかりとつかまった。
 たとえ結界があろうとも、それは必ずしも、彼女の精霊魔法を完全には封印しない。結界は精霊の自然な働きを妨げ、精霊使いにより強い精神力と、精霊に力を与えながらの呼びかけさえ成し得る、高い魔力を要求するけれど。
 公子が視た惨劇を現実のものにしないためなら、この身を呈しても、構わない。彼女にも、きっと、出来ることはあるから。
 断崖の上から弓で狙い撃とうとするスィール兵を認めると、弓箭隊を指揮しながら、公子が号令を響かせた。
「駆け抜けろ!」
 峡谷は峡谷でも、針葉樹と氷河の峡谷だ。
 遮るものが何もないわけではない。
 敵軍が数倍の規模であろうとも、駆け抜けて、振り切ってしまえばそれまでなのだ。
 馬術と弓術がものを言う地形であり、だからこそ、その双方を得手とする公子の部隊は、この峡谷を選んで帰路としていた。
 キン――
 リシェーヌが召喚した氷壁が、さらに、部隊を弓矢から守った。
 氷を操る精霊魔法はセルリアードの方が得意だ。けれど、彼女にも、兄を真似ることくらいはできる。
 幾多の光を弾く(とばり)のような氷壁が、澄んだ音を立てて、鋭い矢を受け砕け散っていく。その様は、命懸けでさえなければ、幻想的で芸術的なまで美しい光景だった。
「――っ……」
 結界内での立て続けの精霊魔法の行使は、リシェーヌの身には高い負荷で、彼女は苦痛に喘ぎながら、なお、氷壁を召喚し続けた。
 それと気付いた公子が、優しく、慈しむように彼女を抱き締めた。けれど、無理をしないようにとは、言わなかった。彼女の精霊魔法に、近衛隊士の命と、彼女自身の命さえ、懸かっているためだ。それは、揺るぎのない事実。
 リシェーヌはそれでもほっとして、心地好さに優しい微笑みをこぼした。
 まだ、続けられる。
 部隊が峡谷を駆け抜ける、その短い時間さえ、守り切ればいいのだ。きっと、惨劇の未来を、変えられるから――


 Y
 凍りかけた湖の中央、古風で奥ゆかしい佇まいの神殿が在った。
 聖地フォラギリアと呼ばれる地方にあって、さらに聖域とされる場所だ。
 けれど、その神殿の存在も、聖域そのものの存在も、伝説に過ぎないものと、忘れ去られて久しい。
 その聖域に、たった今、一人の少女が召喚された。
 栗色の髪の、綺麗な少女だ。むしろ、容姿よりも、彼女がその身に纏う、澄んだ雰囲気が美しい。
 肩で切り揃えられた髪が、風に揺れた。


(ここは――?)
 サリディアは茫然として、風を受けながら、湖と神殿を見た。周辺の木立を見、一本の樹木の枝に、彼女を召喚した主の姿を見た。
 恐怖に、心臓が止まるかと思った。
「よく来たな、地の魔道師(アストヴェナー)
地の(アスト)魔道師(ヴェナー)……?」
 何の悪夢に、召喚されたのか。
 誰であれ、契約もせずに遠隔地への召喚をかけることなど、できないはずなのだ。
 けれど、そこは見知らぬ土地で、樹木の枝の上から、天魔ディルアードが彼女を見下ろしていた。
「私が貴様を手にかけるのは、儀式の最中(さなか)だ。四元の魔道師の資格は渡るもの。今、貴様をどうにかしても、世界は滅ばぬ」
 ただ、興味があったのだと。天魔が召喚をかけると、中空に三本の宝剣が現れた。
 天魔が魔力を帯びた手をかざし、瞳を鮮やかに光らせると、それらの宝剣は硝子が砕けるような澄んだ音を立て、本来の姿を取り戻した。
地祇の環(アストヴェスト)風韻の珠(ヴァスティオン)流水の杖(ヴィーラ)――」
 ディルアードは無造作に、それらを彼女に投げ与えた。
「数刻のうちに、聖魔も残りの魔道師も揃うだろう。だが、それが地祇の環の成れの果てだ。それでも、貴様は時の存続を願うのか。その象徴である、聖魔に(くみ)すつもりか?」
 天魔は対極の英雄だと、伝説は謳う。四元の魔道師を覚醒させ、神が下賜した祭具を与え、宿命に導く力は聖魔と同等なのだ。
「本来の姿にだけは、戻してやったがな。祭具は貪欲な人間どもに破壊されたのだ。四元の魔道師が、儀式の最中に息絶えることなど――」
 創世には、あり得なかったことだなと。
 神が下賜した祭具の護りは堅く、世界を呑み込む祭儀の衝撃にさえ、耐え得るものだった。まして、天魔が四元の魔道師を手にかけることなど、出来ようはずがなかったのだ。
「だが、もはや神の威光は凋落した。『聖魔伝説』は四元の魔道師の犠牲なしには成就すまい。――残り数刻の命なら、愚かなる人間どもに復讐し、天魔に与せばどうだ」
 祭具には、欠損してなお確かな力が宿り、地祇の環のみならず、風韻の珠も、彼女の魔力に呼応するようだった。
 時の終焉を望むはずの天魔が、彼女に力を与えるような真似をすることに、サリディアは途惑った。
「私が、地の魔道師(アストヴェナー)……?」
 ディルアードは冷笑し、肯定した。
「貴様の命はあと数刻だ。その命を絶つのが、天魔ならぬ人の欲望であっても、聖魔は――」
 時の存続を望むのかと、試練を与えんとするようにも、摩訶不思議に遭遇したようにも見える瞳で、理解し得ぬ酔狂だと、ディルアードはほろ苦く笑った。
「人間の醜悪さ、それに蹂躙される世界の脆弱さを知れ。人類の君臨により、世界は穢れ、腐り果てたのだ。もはや、汝等が一命を懸けてまで存続させる価値はない。――流水の鏡【ヴィーラ・アード】」
 それは、水の魔道師を召喚するための手掛かり。虚空に具現した水鏡に映し出されたものは――
「リシェーヌ!」
 サリディアは絶叫して、顔を覆った。

     *

 ――フェル――
 突然に、響いた声。
 ――フェル、行かないで! 私を助けて!――
 びくっと体を震わせ、公子は硬直した。
 その声が、誰より慕い慣れ親しんだ、亡き公女ディアナのものだったからだ。
「フェルディナント様!」
 馬を止めてしまった公子を、追い抜いたレオミュールたち側近が、あわてて馬首を返す。
 リシェーヌも、その腕の中から、不安げに公子の様子をうかがった。
「――リシェーヌ姫……」
 姉のはずは、ない。
 公女ディアナは死んだのだ。
 けれど、体は動かない。
 一刻も早く、この峡谷を駆け抜けなくては――
 思考が虚しく空転していた。
 姉では……!
 公子はリシェーヌを抱く腕にぐっと力を込めた。何よりも大切に想う、守るべき少女の存在を確かめ、迷いを断ち切るために。
 耳について離れない声を振り切り、公子が再び、馬を駆けさせようとした、刹那だった。
 ヒヒー……ン……
 馬が、苦しげに(いなな)いた。
 白い駿馬の腹に、飛来した数本の矢が突き立っていた。
「フェルディナント様!!」
 レオミュールが叫ぶ。公子は素早くリシェーヌを抱きかかえ、倒れかかる馬の背から飛び降りた。
 既に囲まれている。
 すぐに斬り合いになった。

     *

「どう? どれだけ探しても、風の魔道師(シルファーン)なんて、いないかのようだわ」
 刻限が迫っているからと。契約の履行を促しに訪ねたマーディラが、その麗しい眉目に怪訝そうな色を湛えて、セルリアードを見た。
 どことなく、心ここに在らずの風情で、柔らかな雰囲気の彼の様子に、彼女はふっと、微笑みをこぼした。
「ふふ、機嫌がいいのね。そんなに、サリディアが可愛い?」
「――? 私なら、普段どおりだ」
 それでも、彼は何か思い出したように、ひどく甘い微笑を浮かべた。
「私の機嫌はともかく、サリディアは可愛いよ。愚問だな」
 マーディラは途端に、ご馳走様な気持ちになって、肩をすくめた。
「あんた、しらふで平然とよく言うわ。まぁ、セティアンに比べたらまともよね。セティアンなんて、目を離したら、地平にでも天空にでも響くように、とうとうと愛を語りそうだったもの。世界中の人に向かって『マーディラさん愛してますー!!』って叫びたいとか、恐ろしいこと言ってたわ。そんな途方もないこと、よくも考えつくわよね」
「……は? 誰が、何を?」
 セルリアードの表情が、傍目にも強ばって見えた。行為よりも、対象の恐ろしさにだろう。
「ああ、いいの。あたしの話は、よた話よ」
 珍しく、瞳に寂しげな翳りを宿して、傷ついたことを隠すように微笑む彼女を、意外そうに見て、彼が途惑う。
 マーディラは苦笑して、いいからと首を振って、話を戻した。
「それより、風の魔道師の方はどう?」
 頷いたセルリアードが、聖魔の本能で、知覚領域を拡大させた。
 遠く、スィール帝国領に隣接するラルス公国領に、水の波動。
 スィール帝国領アネモスから、移動しつつある、炎の波動。
 祭儀が行われる聖地には、既に祭具を手にしているのか、一際(ひときわ)、鮮やかな地の波動――
「わからないな、風だけ探せない」
「いったい、どういうことなのかしら」
 それにしてもと、マーディラは小気味好さげに微笑んだ。
「あんた、サリディアが地の魔道師(アストヴェナー)だってことに、動じてないじゃない? 驚いたわ」
「――サリディアが?」
 地の魔道師は聖地にいるのだ。彼が経緯を確かめようとした、矢先のことだった。
 カタンと物音がして、サリスディーン博士が、部屋の入り口に姿を見せた。
 幾分、その顔色が悪い。
「私の娘を、サリディアを地の魔道師と言ったか……?」
 立ち聞きなど意に介さないマーディラが、答えた。
「ええ、言ったわ?」
「風の魔道師が、いないのか」
 博士の声は、苦渋に満ちた呻きのような響きだった。
「何か、心当たりが?」
「――ある。……いないなら、私が死なせた娘だ……」

     *

 針葉樹の林、冴えた空気に剣戟の音が鳴り響く。
 その至る所に鮮血が滴り、雪と氷の銀世界だった峡谷は、地獄と化していた。
 もはや勝敗は、誰の目にも明らかだった。
 圧倒的多数の敵兵に取り囲まれ、なすすべもなく、フェルディナント公子の部隊は斬り捨てられていった。

「レオミュール!」
 脇を斬り裂かれながら、それでも渾身の力を込めて剣を振り下ろす。ここまで接近戦になってしまうと、ラルス公国お家芸の馬も弓も、到底、その真価を発揮し得ない。
 それでも、レオミュールはここに至るまで公子とリシェーヌを守り抜いていた。もはや、彼らの周辺に、まともに立っていられる近衛の姿は皆無だ。
「くそっ……!」
 懸命に、彼らの命を摘ませまいとする少女が哀れだった。魔法封印の結界に阻まれ、おいそれとは使えないはずの精霊魔法で、今この時も、彼の傷を癒そうとしている。
 その身を守って欲しいからではないのだ。ただ、公子の身を案じ、血を流して倒れる近衛を放っておけない、深窓の令嬢なのだ。
 レオミュールはただ、胸を痛めた。
 たとえ、ここで果てようとも、彼女は決して公子を恨みはすまい。
 一目で魅せられたあの日から、ずっと、守り続けてきた青年を。まだ、あまりに若く清らかな少女を。もはや、一命を懸けても、守り切ることはできないのか――
 ふいに、スィール兵が退いた。

 不安げに寄り添うリシェーヌを、公子はそっと背に庇った。
「久しいな、フェルディナント」
 騎兵がゆっくり、前に進み出た。中年の、下卑た笑みを浮かべた男が騎乗している。
 立派な楯には、スィール皇家の紋章。
 チェル家の嫡男、チェル・テリアス・ヴァレインの部隊なのだ。
 スィール帝国の旧皇家であるチェル家は、新帝に粛清され、からくも生き延びたヴァレインも、その権限の多くを剥奪されたはずだった。
 終戦の混乱に乗じ、新帝に反旗を翻したか、あるいは――
義兄上(あにうえ)、スィール帝国の降伏は偽りか、あるいは、あなたの独断で、一部隊を逆賊たらしめたのか!」
 公子の糾弾に、ヴァレインが憤慨(ふんがい)し、怒鳴った。
「黙れ! 逆賊だと……!? 忌まわしい魔族を、誰が皇帝などと崇めるものか! おのれ、無様に命乞いでもすればよいものを……!!」
 スィール兵がどよめいた。ヴァレインに追随し、公子を罵倒、嘲笑する者。独断なのかと、指揮官ヴァレインに不審を抱く者。いつ降伏したのか、誰が魔族なのだと、混乱し、右往左往する者。
 統制など、まるで取れていない部隊なのだ。
「偉大なる、歴史と伝統あるスィール帝国が降伏なぞするものか! 愚か者め、魔族のたわごとを真に受け、凱旋を夢見たか……!? フェルディナント、忘れぬぞ、俺とディアナの婚約を破談にし、貴様が、ディアナをサーヴァントなどに嫁がせたのだ!!」
 それは突然の、私怨でしかない弾劾だった。しかし、ヴァレインはただ、復讐の悦びに酔っていた。
「おとなしく、俺に嫁がせておけばよかったものを。貴様のおかげで、あの女がどうなったか知りたいか……?」
 ヴァレインの暗い笑みに、憎悪に満ちた含みがはらまれた。
「ククッ、貴様ら、嘘偽りなく人間か? どこぞの魔族の落とし(だね)だとしたら、笑えんな。奇襲は察知する、ディアナの声は聞こえる――」
「――っ!」
 初めて、公子が浮かべた鬼気迫る表情に、ヴァレインは満足げな哄笑を上げた。
慄然(りつぜん)としたなぁ?」
「……な、にを……ヴァレイン、貴様、姉上に何をした!!」
 亡骸(なきがら)を見たのだ。生きてなど、いるはずがない。――絶対に!
「さぁて、何をしたっけなぁ〜??」
 傍目にも、公子は呼吸を乱し、錯乱しかけ、酷く、身を震わせた。
 心配したリシェーヌが、遠慮がちに、氷のように冷たくなったその手を取った。
 それは、悪夢の闇の中に見た、一条の光彩。生命そのものを象徴するような、澄んだ碧の瞳――
 細く柔らかな少女の手は優しく温かく、守るべき者の存在を、公子に思い出させた。
 恐慌は、水を打ったように静まり、公子は微笑みさえして、リシェーヌを安心させるように、その手をきゅっと握り返した。
 ヴァレインが、その様子に気に入らなげな悪態を吐く。
(しゃく)に障る、女を捕らえ、連れて来い! 邪魔するなら容赦するな、女以外は斬り捨てろ!!」
 ほんの束の間、公子がリシェーヌを抱き締めた。その刹那に、想いの全てを込めて。
「フェ……」
 引き離したリシェーヌをレオミュールに託し、公子は地を蹴り、針葉樹の間隙を縫うように、敵兵のただ中へと、疾駆した。
 それはほとんど、ヴァレインが声を限りに命令し終えたのと、同時だった。
「なっ……」
 一息に間合いを詰め、剣を抜く。
 フェルディナント公子の剣に、死を贈る者(アルバレン)と呼ばれたセルリアードの剣のような、技巧や速さはない。
 近衛隊長レオミュールのような、剛剣でもない。
 けれど、ごく丁寧な剣さばきは、相手が歴戦の勇士でもなければ、まず、引けは取らないものだった。
 敵兵が状況を認識して動き始める前に、公子はヴァレインの眼前にまで到達していた。
 あわてて斬りつけてくる剣を難なく受け流し、公子は正確にヴァレインの心臓目掛けて、剣を突き入れた。
 ヴァレインの絶叫がこだました。


 Z
「……あれには……娘は、双子だった――」
 震える声で、博士は淡々と語った。それは永遠に、忘れ得ない記憶。恐ろしい感触。
「難産で、私の手での、帝王切開に踏み切った……」
 失敗し、双子の女児の一児は即死、最愛の妻も死んだのだと。唯一、残された娘がサリディアで、その娘がどれほど可愛いか、わかるまいがと、それきり、博士は口を噤んだ。
 サリディアを命懸けで守っている者に、わかるまいがもない。マーディラはご愁傷様な気持ちで、セルリアードを一瞥(いちべつ)した。さぞや不満かと思いきや、彼はただ、博士にどう声をかけたものか、思案している風だった。
 マーディラはふっと微笑むと、告げた。
「わからなくもないわ、そんな娘さえ残らない絶望を知っているし。――風韻の鏡【ヴァスティオン・アード】」
 蜃気楼のような魔力が立ち昇り、虚空に風鏡が出現した。
「ああ、なるほどね。最初の風の魔道師はティアス・メルセフォリア。確かに、落命したようね」
 過去の風の記憶を断片的に投影し、風鏡はまた別の像を結び始めた。
「二人目が――ライディア・リューカティ。ディルアードに滅ぼされる前の、スィール皇室に仕えていた宮廷魔道師かしら。天魔の手にかかったようね。天魔も、それと知ってたわけでもないんでしょうけど」
 四元の魔道師としての魔力は宿主が命を落とせば他へと渡り、伝説の刻限まで、運命の天秤は終焉にも存続にも傾き揺れ動く。
「三人目――ディアナ・ラルスィア。公女様かしら。スィール皇室と共に、滅ぼされたようね。当代の風の魔道師は、祟られてるわ」
 その魔力を受け入れられる資質を持って生まれて来る者は、そう多くはない。あまり、転々とされても困る。
 風鏡はやおら曇り、なかなか、次の像を結ばなかった。
「マーディラ、地の魔道師(サリディア)が聖地に召喚されている。探せないなら、風の魔道師も聖地に召喚する方法は?」
「え……? サリディアがいつ――」
 セルリアードの指摘に、彼女はにわかに妖艶な美貌の面を強張らせ、知覚領域と意識を地の魔道師に向けた。
「あの、馬鹿っ!!」
 マーディラは肩先を小刻みに震わせて、首を横に振った。
「気付いていたなら、早く言いなさいな! 聖地に地の魔道師を召喚できるのなんて、聖魔でなければ天魔だけよ!」
 息を呑んだセルリアードが、やがて、冷酷な怒りを瞳に孕ませ、ディルアードに相対する真意を確かめるようにマーディラを見た。
「まだ、エルファランを返してもらっていないわ。セルリアード、サリディアの命と引き換えに、約束したことは忘れないで」
 もっとも、たいがい、どうかしているのはディルアードだ。四元の魔道師に祭具を与えれば、その魔力は天魔のものなど遥かに凌駕する。死にたいのか。
(――忘れてた、天魔は死にたいんだわ)
 マーディラは苦虫を噛み潰したように、刹那の自嘲を浮かべ、すぐに厳しい眼をして、すっくと立ち上がった。
「――聖地へ!」

     *

地の魔道師(アストヴェナー)だったが不幸だな。貴様は、私を滅ぼさぬ限り、ここを動けぬ。天魔がこの地でかける召喚には、抗し得ぬぞ。いずれ、間に合うまいがな――」
 サリディアが、公子の部隊を助けに行きたいのを知っていて、ディルアードは嬲るように告げた。
「諦めろ、見せて欲しいものはこれからだ。貴様も、他人の心配ができる身の上でもあるまいよ」
 ディルアードは興じる様子もないまま、流水の鏡から目を離さない。
 その真摯さは、絶望と憎悪の闇に、何かの残滓さえ踏みにじりたいようでも、その真逆でもあるようだった。
「一部隊を追い詰めて、何を見せて欲しいと――?」
 サリディアが尋ねると、ディルアードは妖艶に薄く笑んだ。
「人間どもが、醜悪な化け物にひれ伏し、逃げ惑う様を見られよう。――人間どもの蔓延するところ、騙し奪える者だけが、権力の座に就け、地上を腐敗させるのだ。どれほど価値ある美しい存在も、ただ、その供物となるのみ。愛する者の命が、忌まわしき存在に欲望のままに穢され散らされる様を、貴様もその記憶に刻み込むがいい」
 サリディアはひたと天魔を見据え、虚空に一条、高質量の魔力による軌跡を残した。
「――させられない」
 彼の真意が言葉通りなら、時の終焉さえ望む天魔が、滅びの前には瑣末に過ぎない一部隊の惨劇を、『見せて欲しい』はずはない。
 言葉よりも、天魔の双眸にこそ、その真意が見え隠れしていた。
 血の惨劇も、断末魔も見ていない。
 どんな心境の変化があったのか、信念が揺らいでいるのだ。
 誰の言葉にも耳を貸さず、殺戮を繰り返して来た天魔の憎悪が、揺らいでいるのだ。
 血の惨劇を、信念を確かめ、滅びを望むためにこそ、『見せて欲しい』かのようだった。
 それは、凄惨な矛盾を(はら)む。
 天魔の手駒であるはずのヴァレインの部隊が、峡谷を血に染める光景など、彼は滅びを望むほど、『見せて欲しくない』のだから――
 遂に、辻褄が合ったようだった。遂に、全てが符合する。天魔がなぜこれほどまで、真摯に惨劇を見据えるのか。絶望と憎悪しか宿さない双眸で見据えるのか。ここに至るまでに、繰り返された殺戮と支配の意味さえ。
「あなたは、世界を滅ぼすべきか、己が滅びるべきか、迷って――?」
 たとえ、それが天魔の真意であっても、そのために、大切に想う人々が犠牲とされるのを、黙って見ているわけにはいかない。
「――黙れ」
 天魔の怒りに大気が震え、ざわっと、陽光さえ遮るほどの暗黒が、死を象徴する陽炎のように立ち昇った。
 虚空にポっ、ポっと、鬼火のような呪塊が灯され、天魔の両眼が、サリディアを射抜くように見た。
「貴様などを、召喚したのが間違いだった。――不興だ、死して償え」
 呪塊が一斉に放たれ、サリディアに迫った。
 けれど、ディルアードの鋭い眼光にさえ、サリディアは竦んでも、緊縛されてもいなかった。
 地祇の環(アストヴェスト)を片腕に、呪文を唱える。
 透き通るような、仄かな光を放つ魔力の結晶が中空に出現し、瞬く間に、襲い来る幾多の呪塊を消滅させて砕け散った。
 地祇の環が何であるか、サリディアにはよく、見極めがついた。
 これだけの魔力を無尽蔵に放出すれば、地祇の環がなければ、まず、命に別状があるはずなのだ。ところが、本来、術者の命核から削り出す魔力を、地祇の環は大地から(もら)い受ける。しかも、その魔力は聖光波動(ホーリーライト)と称される、呪いを癒す力を持つものだった。大地を源とするゆえんだ。
 地の魔道師を呪術で仕留めることは、極めて困難なのだ。とはいえ、天魔にしても、呪術など目くらましに過ぎないようだった。
 抜き身の剣を片手に、猛禽(もうきん)のように突っ込んできたディルアードの斬撃を、サリディアは間一髪よけた。直前に発動させていた一条の魔力の弧から、結晶化した魔力を立て続けに放つ。
 ディルアードが薄笑みさえ浮かべ、それらを喰魔結界(ハウル・カミラ)で片端から粉々に砕き――
 彼は突如として、己が命核を襲った異変に、その表情を強張らせた。
 天魔の命核から、聖光の環が数度、閃くように放たれた。
 サリディアもまた、驚いて立ち尽くした。
 ディルアードは地に片膝を落とし、喘ぎながら、その命核の変容に全身全霊を懸けて抵抗していた。
 地の魔道師を滅ぼそうとして、その反撃さえ、力ずくで捩じ伏せようとして、己が命核を削り過ぎたのだ。
「くっ……!」
 生れ落ちた時から、異質な命核を抱えていた。いつか、喰らうべく――
 ――喰らう? 喰らわれる、だ――
 血迷った。限界が近いとわかっていて、地の魔道師を相手取るなど狂気の沙汰だった。
 まだ、滅べない。
 この命尽きる前に、滅ぼさねばならない者がいる。
 滅ぼさねばならない、世界がある。
 ヴァレインの死に様だけは――!!
 最後まで、報復の仕方がわからなかった。そのために、あの醜悪なケダモノを生かしたままで終わるなど――
「――渡さん!!」
 ディルアードの咆哮と、水鏡の向こう側からの悲鳴が交錯した。


 [
「きゃあぁああ!」
 リシェーヌの絶叫が、地獄に迷い込んだような氷雪の峡谷に響き渡った。
 誰もが、目撃した身の毛もよだつ光景に、その目と耳を疑った。
「畜生! 痛ぇなぁあ!!」
 ヴァレインが狂気じみた眼光を放ち、胸に突き立った剣を抜くや、不気味な哄笑を上げた。
 何の悪夢か――
 ひどく異様で醜悪なものがフェルディナント公子を貫いていた。まだらの蛇のような。
「フェルディナント様!!」
 我を忘れて、公子に駆け寄ろうとしたリシェーヌを、レオミュールがすんでのところで押しとどめた。
「痛ぇえ〜!!」
 ヴァレインが血に穢れた手を伸ばし、公子の首を締め上げながら、嘲笑した。
「ば、化け物……!」
 スィール兵の誰かが叫んだ。途端、蜘蛛の子を散らしたように、スィール兵の多くが峡谷から逃げ出した。あるいは、竦み上がってその場に硬直する者、事態に愕然としながら、ただ凝視する者――
 それほどの異様だった。蛇は、ヴァレインの上半身から生えていたのだ。
「フェルディナント様!」
 公子に託された、半狂乱で泣き叫ぶリシェーヌを、レオミュールはしっかりとつかまえていた。彼女は精霊使いなのだ。何を間違っても、敵の懐に入ってはならない。まして、半ば錯乱状態のままでは――
「よぉお、女ぁ、来いよぉお、早くしないとなぁ〜?」
 ヴァレインが公子の首を締め上げたまま、その身を貫く蛇を蠢かせた。公子の顔が苦痛に歪み、白を基調とした礼装が見る間に真紅に染まった。
「やめてぇ!!」
 リシェーヌは悲愴な、泣き濡れた瞳でレオミュールを見詰めた。このままでは公子が殺されてしまう。化け物から公子を解放したいのだ。
「なりません、リシェーヌ様――!」
 もはや、何をどうしてもヴァレインが公子を殺すことを、レオミュールは認めたくはなくとも、認めざるを得なかった。
 それだというのに、澄んだ碧の瞳の、何の魔力によるものか――
 レオミュールは我知らず、リシェーヌをしっかりと押しとどめた手を離してしまった。
「リシェーヌ様!」

● つづく ●

【次回予告】 ≪2010/02/04(木)更新予定≫
 レオミュールの制止を振り切り、公子の元へ馳せ参じようとしたリシェーヌが、聞いた声。
 それは、声を封殺された公子が放った精神波だったが――?

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※ 本編『第三部/祈り』は完結まで全文、無料公開する予定です。待ち切れない貴方へv(*^-^*)

* 第15章 成就の刻 に続く

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◆ご感想◆
 
  1. ディルアードも辛いなぁ、うぁーん、切ない…っ!(涙・セルリアードとディルアードってある意味ポジとネガ…?)
  2. 「それが世界の選択なのよ」(ののみ風)

    現代社会においては、聖魔伝説よりも天魔伝説に共鳴する人の方が多いんじゃないかと、
    戦々恐々としつつも、天魔の心理描写にも手を抜かないクライマックスです(`・ω・´)b

    選んだのは、必ずしも、彼ら自身ではなくて。
    セーは十歳くらいまで、両親に愛されて育っているので、その時期に世界は優しいものだという基礎認識が確立したです。
    辛いこともたくさんあったけれど、サリディアちゃんの傍で取り戻した世界は、やっぱり優しいもので。それは間違いのないこと。

    でも、ディルは生まれてこの方、世界に優しくされたことがなくて。
    物心ついた時から天涯孤独で、誰も彼を守ってはくれなくて、それでも、彼にとっての世界は初めからそんなもので。
    世界は確かに彼に優しくなかったけれど、彼も世界に優しくしなかったし、別に、おあいこで。
    ただ、フィルニーさんは彼と違って、世界に優しかったから。
    世界が彼女には優しいといい。それが彼の望みで、それだからこそ、彼女にあまりに残酷だった世界を許せないまま、憎しみが止まらない。
    彼自身が優しくされても、彼の憎悪は高まるばかりで、強い存在に媚びているだけだろうって、余計に吐き気がするのです。
    儚くとも綺麗で真に価値あるものを、踏みにじる世界である限り。滅んでしまえと。

    対極に位置する彼らが織り成す物語の結末にも、どうぞ、ご期待下さい(*^-^*)
  3. 二人がちゃんと出会ったので、敵前逃亡を企てて欲しいと願ってしまう自分・・・。だって、サリディアちゃん限界な気がするし、あんなに怯える彼女から離れて欲しくないし・・涙
    でも、物語の伝説の謎とかも気になるし・・・ここで逃げたら終わってしまう気もして、複雑だぁ・・。という訳で楽しみにしてます☆(支離滅裂でごめんなさい)
    播(≧▽≦*)グー!!
    どこぞのレオン君と違って、セーはちゃんとサリディアちゃんの状態とか考慮する人なので、ここは敵前逃亡、もとい、救出優先です☆彡
    伝説の謎からはここで逃げても逃げられないので、ご心配には及びません!(*^∇^*) ← 爽やかな笑顔で何かめっさシビアな事を!?
    だって、ディルりんとの対決はいつでも出来るけど、サリディアちゃんはもう保護しないと命に別状が…!(>_<)

    読み応えのある素敵コメントに、やる気充填です♪ 感謝ですv(≧∇≦)
  4. ひっそりと聖魔の更新心待ちにしておりました。セーちゃんまで聖魔になるのは予想外だったっ!無理の無い範囲で更新頑張ってくださいませ〜
    (≧∇≦)b
    何を隠そう、セーは前代聖魔さんの直系です☆彡 性格は前代聖魔さんに似なくて良かっ(強制終了)
    ケルト君がちらっとモノローグしていた、祭具を破壊した人間を血祭りにあげた聖魔――北の魔王(シェラザード)が、母方の曽祖父に当たります。 ← でも、そんなことはラディアさんとマーディラさんしか知らない。
    前代聖魔さんは、前代水の魔道師さんを最初の妻に迎えてたのですが、人間が祭具である流水の杖(ヴィーラ)を破壊したがために、彼女は亡くなってしまったのです。(つまり前代水の魔道師さんがセーの曾祖母に当たります)
    血祭りにもあげますよね(*ノД`*)
    神が四元の魔道師に下賜したものを、人間がなに、自分達のためにカスタマイズして壊してくれてんだと。
    その数百年後に東の魔王(オプティスマ)に幻惑されて、マーディラさんが生まれるという、なかなかに凄絶な。
    前代聖魔さんはマーディラさんに殺害されるまで、九百年も生きただけあって、しかもディルりん並に直感的で隙だらけだったので、相当いろいろやらかしてくれてるのですが、長くなるのでまたの機会にでもw(゚∀゚) ← それ以前に誰も聞いてな(ry)

    本当に、お待たせしてしまいました!(≧ω≦)
    その分まで、相変わらずのつたなさですが、精一杯で書かせて頂きました彡(≧∇≦)9
    ご感想、ありがとうございましたv(*^∇^*)

    【余談】聖魔は別に魔族限定じゃないんですが、魔族比率高いですね〜。人間の血は散逸していて(世代交代が早いため)、妖精族の血はフィルニーさんが亡くなったきり絶えてしまって。――ファスちゃんが多少引いてはいるものの、魔族の血の方が濃いんですよね。長老に頑張ってもらうべきでしょうか。今さら聖魔に覚醒してみま(ry) 何千歳なのかおじいちゃん。まだまだ現役!?(エー) ← ご老体は労わりましょう。
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