2010-02-01 新刊です 
- 作者: 小谷野敦
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2010/01/16
- メディア: 新書
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『大河ドラマ入門』の見本本が届いたが、その中に、私は「クレジットタイトル」と書いたのに「タイトルロール」にされている個所を発見して仰天した。タイトルロールというのは、『カルメン』のカルメン役という意味である。なんでよりによって私の本で、しかも私はちゃんと書いたのにこういうことになったのか、もう情けないとしか言いようがない。呉智英さんの本で「すべからく」が誤用されているみたいなものだ。
ほかにも私の責任ではない間違いが多い。笠谷和比古なんて「かさがや」とルビが振ってあったからゲラで直したのに直っていない。
35p「勘助の恋人らしい女が武田信玄に射られて死ぬ」これも私は「信虎」と書いた。
急いで作ったせいで凡ミスがある本ですが読むのに支障はないです。挿絵は、登場俳優の写真が肖像権の関係で使えないというので、私が電話口で「じゃあ私が似顔絵描きましょうか」と言ったら、じゃあそうして下さいと言われたので、おいホントかよいいのかよと思いつつ、僅か十日という納期で妻と手分けして描きました。あの時は電車に乗って人の顔を見ると似顔絵を脳内で描いてしまうという状態でした。断わっておくが私はこの似顔絵は気に入っている。まあもうちょっとクリナップすれば良かったと思うだけ。
(小学生レベルとか言ってる人は、じゃああんたは大人なんだから描いて見せて、と言いたい)
訂正
p.56 「温厚な紳士風の尾上菊蔵が」これは私は「児玉清」と書いた。『太閤記』は観ていないので尾上菊蔵のことなんか書くはずがない。(これは校閲が「尾上菊蔵では」と言い編集者が電話で私に伝え、私もいきなりだったから「そうですね」と言ってしまったようだ。違和感を覚えた記憶がある。校閲も良くない)
p.94 『新選組!』の西郷隆盛役・宇梶剛士(確かに私が身落としたのだが、編集者には「配役宝典」で確認するように言った)
『花神』の伊東孝雄は島津斉彬でなく徳川慶喜。これも私のミスだが上に同じ。
p.180「安積艮斎」は「安積澹泊」…これもゲラで直したはずなんだが。
p.110の「柳沢吉保」が「阪東八十助(現・三津五郎)」とあるのは「坂東三津五郎」つまり八代目だが、編集者が勝手に直した。
p、135の作曲家の表は、『秀吉』『功名が辻』が本来小六禮次郎のところにあるのが下へなぜかずれ、一つずつずれるという惨事になっています。
p.183 3行目「う詳しい」「う」は余計。
またp.160で、将軍家定は本当は脳性まひだったらしいが、その通り描いていたら視聴者が篤姫をかわいそうがって仕方がなかっただろう、と書いたのだが、差別表現になるとか言われて、適当に直して下さいと言ったらちょっとおかしな表現になった。
あと指摘された間違い
p.53 「読本『真田三代記』」は「実録」
あと時代考証の相馬皓というのは相馬御風の三男らしいのだが、『明治文学全集』の年譜を見ると三男だけ出生が書いていない。昭和女子大を見てこなければ。
84年死去、と分かった。
なお「配役宝典」への謝辞を忘れて申し訳ない。
- 作者: 小谷野敦
- 出版社/メーカー: ベストセラーズ
- 発売日: 2010/01/09
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新刊です。大橋洋一が東京外国語大学卒、とあるのは東京教育大学の間違いです。また英文学会会長は昨年から丹治愛氏に代わっています。
大橋洋一は英国へ研究員として一年間行っていたと指摘を受けたが、それは狭義の「留学」ではないし、これに
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/publication/nenpo08/nenpo8.3.20eibun.html
載っていないからあえて訂正しない。これは世間へ向かって業績を申告する文書であり、そこで留学ないし在外研究を記していないということは、本人の責任だからである。
なお東大の定年は3年ごとに1年ずつ上がって65歳に至るということです。しかし、となると誰も定年にならない時期が三年おきに来るってことですかね。旧帝大、筑波大、神戸大は63歳定年なので最終的にはそれを超えることになるのか。
また澤井繁男氏が「専任の声も何度かかかりましたが」と書いているのは、予備校の専任のことだそうです。
2010-01-29 第19次『新思潮』 
明治末期以来の伝統をもつ同人誌『新思潮』は、1976年から79年まで第19次が出たのが最後になった。東大生が中心だが、木下渉という人がいるが、これは消息不明。藤田衆という人は今は名城大学教授らしい。
ほか、沼野充義、松浦寿輝が詩を書いていて、沼野は道吉昭治の筆名を使っている。一号には、立教大学教授だった小嶋菜温子が書いており、下條信輔、丹野義彦といった意外な名前もあり、東大外からは川崎賢子が参加、あと関西大教授の澤井繁男が本名(茂夫)で参加、東大教授の菅原克也も小説を書いている。『新思潮』は、第二次から、和辻哲郎、後藤末雄など学者になる人が多かったが、蟻二郎がいた16次も学者になるのが多かった。下條が小説を書いているが、のち作家になったのは、詩を書いていた松浦くらいだろう。
これは四年やって五号しか出なかったが、これで『新思潮』は31年途絶えている。なおこの頃、太宰治賞の予選通過作品を見ると、小見さゆり、盛田隆二などの名が見える。
2010-01-28 混同しやすい 
『私は猫ストーカー』という猫マニアのための環境ビデオみたいな退屈な映画を観ていたら、古書店で働いているヒロインに、青年が話しかけて「ルイス・シンクレアの『バビット』はありませんか」と言い、「シンクレア」について一席ぶつのだが、それを言うなら「シンクレア・ルイス」である。どうもアプトン・シンクレアと混同しているのではないかと思ったのだが、『バビット』はルイスのほうだし、アメリカ人で初めてノーベル文学賞をとったというのも、ルイスのことである。何しろこの青年、「シンクレア」はアメリカの真実を描いたから無視されている、と言うのだが、そう言いつつ、「シンクレア」はないだろう。
筒井康隆もアメリカ文学会で講演した時にこの二人を混同して「誰も指摘してくれないんだものなあ」と書いていた。年齢はアプトンのほうが九つ上でどっちも自然主義だから混同しやすいわけだが。
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『文藝別冊 開高健』で栗原さんが、開高のイメージがなぜぼやけているのかについて書いているのを立ち読みしてきたが、私には開高というのは、もともと大した作家ではないから、という愛想のない感想しかない。何しろ牧羊子を妊娠させてしまって仕方なく結婚したが牧は悪妻で、開高はためにうつ病になり、飛行機で海外へ行く段になると離陸と同時にうつ病が治るとか、谷沢永一が書いているから、牧と離婚する度胸がなかったのがいけなかったと思うし、あの太りようはまずいだろう。
『北の国から』の最初の連続もので、五郎の「恋人」みたいだったスナックの女児島美ゆきが「あたし今開高健(けん)に狂ってるの」と言い、それまで文学書など読んだこともなかった五郎がこっそり開高を読むというシークエンスがあったが、あれはなんでだろう。当時『オーパ!』とかちょっと話題だったからか。
『日本三文オペラ』の完成度は高いのだが、なんかノンフィクション作家のような人だった。あ、そういえばSFの名作10とかいうのをあげて筒井康隆が、なんちゅう素人ぶりだと怒って、挿絵を描いた山藤章二が開高ともつきあいがあるし、と困っていたっけ。
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「独断」っていうのは、本来合議制で決めるべき時に一人で決めること、だと思ったから、なんで私が一人で書いた本について「独断」とか言われるのかよく分からなかったのだが、『岩波国語辞典』によると、正当な根拠なく断じること、ともあるからその意味か。
ただなんかね、「独断」という語が濫発される背景には、「空気読め」的な大勢迎合が感じられるのだよね。
2010-01-26 『徳川家康』と日米ソ 
http://plus.harenet.ne.jp/~kida/topcontents/news/2010/012401/index.html
紀田先生ありがとうございます。
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『大河ドラマ入門』で、山岡荘八の『徳川家康』が、今川をソ連、織田を米国、松平家を日本になぞらえたものとされた、とあるのは逆で、今川が「京の文化に憧れるアメリカ」、織田が「新興国ソ連」である。これは単行本『徳川家康』第一巻あとがきに、山岡自身が、読者からそうではないかと投書があったと書き、自分でもそうかもしれないと言っているもので、文庫版にも引き継がれているから、読んだ人はみな知っているはずのことだ。
1954年、黒澤明の『七人の侍』がキネマ旬報で三位になった。一位は『二十四の瞳』だからこれに負けるのは仕方がないとして、二位『女の園』にさえ負けたのは、野武士がソ連、農民が日本、七人の侍が米国という見立てではないかとして左翼批評家が批判したからであるという。
私が間違えたのは、山岡が自民党系保守派文化人だったからで、家康は今川家の人質になり、信長が義元を討ったために解放されて、以後織田家の支持者となるからで、もしこの見立てだと、山岡は左翼文化人になってしまうからだ。その「投書」が新聞に出たのか、山岡に直接来たのか分からないが、もしかするとその投書者は山岡を親ソ作家だと思ったのだろう。
連載開始が50年、単行本第一巻が出たのが53年で、56年のスターリン批判の前であり、山岡は連載開始時には公職追放中だったし、以後は平和主義者として振舞い、保守派文化人になっていくのは後年のことだ。だとしたら、53年の時点では、あえて「そうかもしれない」と書いておいた可能性もある。とはいえ逆は逆なのであとで訂正する。
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http://d.hatena.ne.jp/kokada_jnet/20100126#p2
「創元SF文庫」については完全に私の勘違いで、国会図書館OPACで「創元SF文庫」で検索したら、1960,70年代のものが出た。これは90年代以降「創元SF文庫」になったSF部門のものを再納入したものだったのを、当時出たと勘違いしたものです。
ロバート・ネイサンは、日本では『ジェニイの肖像』で知られるためファンタジー作家、とされたのかもしれませんが、『英米文学辞典』ではちゃんと作家として立項されており、「ファンタシーの作品や牧歌風なロマンスの作者として知られ」とあり、ファンタジーでないものもあるようです。
カール・セーガンについては、議論の分かれるところでしょうね。なおムアコック、ハーバートについては、「スペースオペラ」を「冒険もの」と見なしてここに記しています。
清水俊二については、チャンドラーのうち、双葉十三郎が訳したのもあり、清水が訳したものは村上春樹訳にとってかわられたのに対し、『そして誰もいなくなった』は今も清水訳ということでああ書きました。
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『一夫多妻論 私は三人の妻を持っている』米良道博(オリオン社 1964)は古書でも入手困難である。編集部によるまえがきがあって、気狂いと思われてもこの本を出すことにした、とあり、著者の紹介はほとんどなく、本文を見ると、東京、大阪に三人妻がいるらしい。あと哲学・宗教・動物
学などを引いて、一夫多妻制こそ自然であり、一夫一婦制は退屈へと落ち込むと論じている。かなりの嫌煙家らしいが、自動車も批判している。
2010-01-25 文化手帖 
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/1380183/
ああ、配っているのか。私はもう15年くらい毎年この「文化手帖」を買って使っている。初めは八重洲ブックセンターで見つけて買ったのかな。最近は潮に直接注文している。なぜかアマゾンとか潮のウェブサイトにも載っていないから。コメント欄で「センチュリータイプ」と書いている人がいるけど、違います。「資料つき」というやつで、アマゾンでは買えません。
しかし文春の『文藝手帖』だって『文藝年鑑』だってこの程度には載っているし、この産経の記者は知らないのかな。三笠宮だって『文藝年鑑』に載ってるよ。まさか当人の了解は得ているわけだろうし、驚愕することか。なお私は載っていない。「草野唯雄」が「く」の部に載っていたから、「そ」じゃないかと教えたら今年から直っている。
さすがに、志茂田景樹は載っていない。
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長部日出雄が右傾化している。『「阿修羅像」の真実』(文春新書)を立ち読みして、ここまで行っちゃったか長部さんと思った。私は長部さんの太宰治伝『桜桃とキリスト』を絶賛してお葉書を貰ったことがある。この本も全編に皇室礼賛が満ち満ちており、それは美智子さん崇敬の念から始まったといい、光明皇后を論じて亀井勝一郎に触れ、美貌の皇后こそ阿修羅像のモデルではないかとするものだが、私が指摘した滝川政次郎の、光明皇后の皇位簒奪には触れていないが、知らないのだろう。まあこれはもう老いておかしくなったと考えるしかないだろう。
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『文学研究という不幸』の悪口を言っている連中というのは、大別すれば、
1、「文学」と「文学研究」を混同して、私が、文学はもう終わりだと言っていると思って笙野頼子的に憤激しているやつ。ないし、混同していなくても、文学研究の未来を素朴に信じているか、『ある学問の死』のスピヴァクのように、政治的公正さを求める文学研究の提案を私がしたりしないことに不満な奴、ないし単に事実を認められない連中。
2、私が批判した、碌な業績もないのに大学教授とかになっている連中の崇拝者または関係者。ないし自分がそれだという連中。
3、とにかく批判とかゴシップみたいなものは聞きたくない、本というのは、美しい逸話とか感動させられる物語を読む場だと思っていて間違って買ったやつら。
「2」についてはそれはもう論外だが、私が気にかかるのは「3」である。筒井清忠先生からいただいた『日本型「教養」の運命』文庫版の、文庫版あとがきのようなところに、若い人が新しい小説や映画を称賛し、オリジンを探ろうとしないという現象を挙げているが、これは私も気にかかっていたところである。
たとえばミクシィの川上未映子コミュなどは、川上への批判は許さないというファンサイトめいた姿勢で一部で知られているが、これなどそういう問題の系であって、つまり文学に関するコミュでありながらあたかも藝能人ファンクラブの様相を呈し(まあ歌手・女優でもあるわけだが)、批評とか自由な討議をする気がないのである。
しかしその背後には、出版社が、売りたい作家、売れ筋の作家について、批判するような批評家は排除するという動きがあり、愚昧な読者たちはその影響を受けているのである。『ヘヴン』の宣伝文の「涙がとまらない」「ひれ伏せ」とかいうぞっとするようなのも、その姿勢の表れである。まあさすがにこれには『文學界』で相馬悠々が論難していたが、紛れもない出版社の「川上未映子シフト」に乗ってしまう者らがいるのは確かである。