(cache) 東中野氏「再現南京戦」(9) 国際法論争2

 

東中野修道氏 「再現 南京戦」を読む (9)
 

「敗残兵狩り」は「合法」か?

−「国際法」をめぐる吉田・東中野論争②−

 


東中野氏 『南京の支那兵処刑は不当か』


 この論稿で、東中野氏は、「便衣兵」の処刑には裁判の手続きが不可欠であること、また、「安全区に逃げ込んだ中国兵」が「便衣兵」ではないこと、を明言してしまっています。「便衣兵処刑合法説」に立つ旧来の否定派陣営にしてみれば、頭を抱えたくなるところでしょう。

 
東中野修道氏『南京の支那兵処刑は不当か』より

篠田博士は日清戦争や日露戦争の時と同じく支那事変に際しても、我が軍占領後の、占領地において、「占拠地内の住民」(54頁)にたいして、「予め禁止事項と其の制裁とを規定したる軍律」(54頁)を一般に公布し、守るべき軍律を周知させるべきことを説いて、その軍律として十一項目を列挙した。

その一つとして、「六、一定の軍服又は徽章を着せず、又は公然武器を執らずして我軍に抗敵する者(仮令ば便衣隊の如き者)」(55頁)という軍律があった。

その違反者は、「死刑に処するを原則とすべきである」(54頁)が、処刑の前に「必ず軍事裁判」(55頁)にかけるべきであると篠田博士も注意を促していた。

これは当然であったろう。便衣隊の一人として狙撃などに従事するときは、囚われたときのことをあらかじめ考慮して、自分は便衣兵ではなくどこそこの市民であり、名前(偽名)、住所、家族関係は次の通りという言い分を用意していたであろう。そこで相手の弁明を査問して、事実関係を明確にしない限り、良民が菟罪に苦しむことになるから、「軍事裁判」ないしは「軍律会議」 (昭和十二年十二月一日「中支那方面軍軍律審判規則」)の手続きは、氏も言うに、「不可欠」であった。

しかしそれはあくまで安全地帯の支那兵が便衣兵であった場合の話であった。


(『月曜評論』平成12年3月号 P55)

 
東中野修道氏『南京の支那兵処刑は不当か』より


なお断っておくが安全地帯には民兵や義勇兵や便衣兵はいなかった。
そこにいたのは、四条件を具備しない、戦時重罪人とも言えない、支那軍正規兵であった。

(『月曜評論』平成12年3月号 P56)


東中野氏がどうしてこのような論を唱えるに至ったかは、容易に推察がつきます。「便衣兵」であるとすると、国際法上その処罰には「裁判」が必要になる、という論点をどうしてもクリアできない。だから、「便衣兵」であることを否定しておきたかったのでしょう。




さてそれでは氏は、どのような論理で「安全区の敗残兵処刑」を正当化しようとするのでしょうか。

ここから氏は、何とも頭の痛くなるような議論を始めてしまいます。「南京の支那兵」は「便衣兵」ではなかった。かといって吉田氏の指摘するような「戦時重罪人」でもなかった。だから、裁判抜きで処刑して構わない、というのです。
*東中野氏のこの論稿は大変読みにくく、吉田裕氏の言を借りれば、「その論旨は、はなはだ曲がりくねっていて意味のとりづらい部分が少なくない」ものです。私自身精読には努めましたが、それでもなお、氏の主張を十分に把握しそこねている部分がある可能性はありますので、予めお断りしておきます。

戦時重罪人でなければ処刑して構わない、という明らかな「論理の飛躍」はひとまずさておきます。彼らはどうして「戦時重罪人」でないのか。氏の論理を追いましょう。

 
東中野修道氏『南京の支那兵処刑は不当か』より

では④⑤は戦時重罪 (war crimes) であったのか。氏が典拠とする『戦時国際法論』を見てみよう。立博士は「最も顕著なる戦時重罪」(42頁)五種類を挙げている。そこで、氏が④⑤(「ゆう」注.④は「制服の上に平人の服を着け」、⑤は「全く交戦者たるの特種徽章を附したる服を着さざるとき」)は戦時重罪になるというA「軍人(交戦者)に依り行はるる交戦法規違反の行為」(42頁)を見てみると、立博士が十一項目にわたって列挙している項目のなかに、氏のいう④⑤の行為は挙げられていないのである。

また、氏が戦時重罪となるというもう一つの⑤「変装せる軍人又は軍人以外の者の進入して行ふ所の敵軍の作戦地帯内又は其他の敵地に於ける有害行為」(46頁)の具体例を見ても、④⑤は列挙されていない。


(『月曜評論』平成12年3月号 P55)


東中野修道氏『南京の支那兵処刑は不当か』より

四条件を具備しないとき戦時重罪人として「処罰し得ぺき」対象として、立博士は「民兵又は義勇兵団に属すると称する者」(45頁)のみを挙げ、正規兵には一切言及していない。従って四条件を具備しない正規兵を戦時重罪人とみなすことはできないのである。

(『月曜評論』平成12年3月号 P56)


要するに、立作太郎の「戦時重罪」の「例示」にそのような項目がない、ということが理由です。一応、立の記述を確認しておきます。

立作次郎『戦時国際法論』より

第九章 戦時重罪

(甲)軍人(交戦者)に依り行はるる交戦法規違反の行為
 軍人に依る交戦法規違反の行為を例示せば(1)毒又は毒を施したる兵器を使用すること、(2)敵国又は敵軍に属する者を背信の行為を以て殺傷すること及暗殺を為すこと、(3)兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること、(4)助命せざることを宣言すること、(5)不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すること、(6)軍使旗、国旗其他の軍用の標章、敵の制服又は赤十字徽章を擅に使用すること、(7)平和的なる敵国の私人を攻撃殺傷すること、(8)防守せざる都市の不法の砲撃を為すこと、(9)船旗を卸して降を乞ふの意を表したる敵船を攻撃し又は之を撃沈すること、(10)病院船を攻撃又は捕獲し、其他ジュネヴァ条約の原則を海戦に適用するハーグ条約に違反すること、(11)敵船の攻撃を為すに当り敵旗を掲ぐること等である。

(同書 P42)



そして氏は、「便衣兵」でも「戦時重罪人」でもない、という意味で、「非捕虜」なる新語を発明してしまいます。

 
東中野修道氏『南京の支那兵処刑は不当か』より

権利は義務を遵守して初めて生じる。四条件を具備する交戦者は交戦者の特権を享受し、囚われたとき捕虜となりうる、―これが交戦者の最大の特権であった。

立博士も「交戦者たるの特権の主要なるものは、敵に捕へられたる場合に於て、俘虜(注、捕虜)の取扱を受くるの権利を有することにある」(54頁) と言う。

しかし義務違反は権利の消滅を意味する。そこで立博士は③「正規の兵力に属する者が、是等の条件 ( 注、四条件 ) を欠くときは、交戦者たるの特権を失ふに至る」と注意を促したのである。

つまり正規兵が四条件を破っていたときはその報いとして「交戦者たるの特権を失ふ」に至る。囚われても捕虜ではない、ハーグ陸戦法規の保護の外に置かれる「非捕虜」となるのである。

(『月曜評論』平成12年3月号 P56)



そして、さきほどの、「戦時重罪人」ではない、「非捕虜」なるものであれば裁判抜きで処刑して構わない、という「論理の飛躍」を、氏はどのように解決しようとするのか。要するに、国際法で明確に禁止されていないから「合法」である、という大胆な主張です。

 
東中野修道氏『南京の支那兵処刑は不当か』より

このように支那軍が降伏せず抵抗を継続しているさなか日本軍の行った「非捕虜の処刑」の違法性は、国際法のどこにも明記されていない。明確に禁止されていない限り、それは合法であったことになる。

四条件を破るという南京の支那兵の行為は世界の戦史においても恐らく類例を見ない極めて異様なる行為だったのである。

(『月曜評論』平成12年3月号 P56)






吉田氏 『南京事件論争と国際法』

立作太郎の「例示」の中に入っていないからこれは「戦時重罪」ではない。東中野氏のこの「理屈」は、ほとんど詭弁ともいえる議論です。まず吉田氏は、この点を衝きます。

吉田裕氏『南京事件論争と国際法』より


 東中野氏は、立が「戦時重罪」としてとりあげている行為の中に、正規軍兵士による四条件違反の行為が含まれていないことをとりあげて、正規軍兵士による四条件違反の行為は、「戦時重罪」ではないと主張する。しかし、これは、あまりにも無理な法解釈である。念のため、立の指摘を引用すれば、次の通りである。
 
戦時重罪中最も顕著なるものが五種ある。(甲) 軍人(交戦者)に依り行はるる交戦法規違反の行為、(乙)軍人以外の者(非交戦者)に依り行はるる敵対行為、(丙)変装せる軍人又は軍人以外の者の入りて行ふ所の敵軍の作戦地帯内又は其他の敵地に於ける有害行為、(丁)間諜、(戊)戦時叛逆是である(「ゆう」注 立作次郎『戦時国際法論』P41)

   
 言うまでもないことではあるが、立は、ここで主要な「戦時重罪」を例示しているにすぎない。その例示の中に正規軍による四条件違反の敵対行為が直接あげられていないからといって、それが「戦時重罪」 にあたらないとは結論づけることはできないのである。

 (『現代歴史学と南京事件』P71)

*東中野氏が小分類の「軍人に依る交戦法規違反の行為」11項目を取り上げているのに対し、吉田氏はここで大分類「戦時重罪」5項目を説明しており、若干議論が噛み合っていません。しかしいずれにしても、「例示」が全てであるかのような東中野氏の記述が誤りである、という結論には変わりありません。



「例示」の中にないからといってその項目が対象外とは限らない。全く当たり前の話です。

吉田氏の反論は、それだけにとどまりません。吉田氏は、この立氏の著作、及び信夫淳平氏の著作を丁寧に読み込むことで、二人が「第一条違反」を「戦時重罪」と考えていることを指摘して、東中野氏の詭弁をあっさりと粉砕してしまいました。

吉田裕氏『南京事件論争と国際法』より


 それでは、立は、正規軍による四条件違反行為をどのように位置づけていたのだろうか、それを考える直接の手がかりとなるのは、立の次の指摘である。
 
民兵又は義勇兵団に属すると称する者、(イ)部下の為に責任を負ふ者其頭に在ること、(ロ)遠方より認識し得べき固着の特殊徽章を有すること、(ハ)公然兵器を携帯すること、(ニ)其の行為に付き戦争の法規慣例を遵守すること等の条件を具備せぎるときは、戦時重罪人として処罰し得べきである(ハーグ陸戦条規第一条参照)。(「ゆう」注 立作次郎『戦時国際法論』P45)


 立は正規軍による四条件違反行為が「戦時重罪」にあたることを当然の前提とした上で、その原則は民兵や義勇兵にも適用されるとしているのである。そう判断するのが自然だろう。

ましてや東中野氏の場合は、前掲「南京の支那兵処刑は不法か」の中で、この四条件は、「全交戦者の義務」と明言している。それにもかかわらず、それへの違反行為が、民兵や義勇兵の場合にだけ、なぜ「戦時重罪」に問われることになるのだろうか。また、なぜ正規軍の違法行為は許容されるのだろうか。東中野説では、こうした疑問に答えることはできない。

(『現代歴史学と南京事件』P71-P72)



ここでは、東中野氏の主張に反して、立作太郎が「四条件違反」を「戦時重罪」と考えていることが明記されています。つまり、立が考える「戦時重罪」は、「例示」の11項目に限定されたものではなかったわけです。東中野氏の主張にとっては、かなりの打撃です。



吉田氏はさらに、信夫淳平の記述を紹介して、追い討ちをかけます。

吉田裕氏『南京事件論争と国際法』より



 「戦時重罪」の位置づけをより明確な形で述べているのは、同時代の著名な国際法学者、信夫淳平である。信夫は、「戦律罪」(「戦時重罪」のこと)について、次のように指摘している。

戦律罪を以て論ぜらるべき事項は、その総てではないが、多くは国際法規の上に禁止のことが規定されてある(例えば陸戦法規慣例規則第一条および第二条に依り適法の交戦者と認められざる者の敵対行為、第二十三条の各号、第二十五条、第二十八条等の禁止事項、赤十字条約の諸規定、一九三〇年の倫敦海軍条約中の潜水艦の遵由すべき法則等の違反の如き)。(「ゆう」注 『戦時国際法講義』第二巻 P870)

 念のため、東中野氏のために簡単な解説をくわえておくと、右の指摘は、次の二点が重要な意味を持っている。第一には、国際法の上で明文をもって禁止されている行為だけが、「戦律罪」ではないということである。そして、第二に、ハーグ陸戦規則の第一条に規定されている四条件に違反する行為は、「戦律罪」とみなされていることである。

 さらに重要なのは、信夫が「戦律罪」として言及しているハーグ陸戦規則の第二十三条である。同条は、「特別ノ条約ヲ以テ定メタル禁止ノ外、特二禁止スルモノ左ノ如シ」として、(イ) から (チ)までの八項目をあげているが、そのうちの (へ)、「軍使旗、国旗其ノ他ノ軍用ノ標草、敵ノ制服又ハ『ジユネヴァ』条約ノ特殊徽章ヲ擅二使用スルコト」について、信夫は次のように指摘しているのである。

敵の制服の擅用禁止に関する本へ号の条句は、文字の上に不備の点が少なくも二つある。その一は、本号禁止の制服は単に敵のそれに係り、中立人の制服又は平服の擅用に関しては何等説及してないことで、その二は、本号は単に敵の制服の擅用を禁ずるに止まり、敵兵が一般に平服を擅用することに関しては、これ亦明現する所ないことである。

〔中略〕二の戦場に於て敵兵が常人の平服を擅用することに関しては、本へ号の上では明晰を欠くも、本規則〔ハーグ陸戟規則のこと〕第一条に於て交戦者たる正規軍の要求する条件の精神から推して、それは許されざるものと解釈すべきであらう。
(「ゆう」注 『戦時国際法講義』第二巻 P383、P384)

 明らかに信夫は、正規軍の将兵が民間人の平服を身につけて行動することを、「戦時重罪」にあたるとみなしていたのである。

(『現代歴史学と南京事件』P72-P73)


信夫もやはり、「第一条違反」を「戦時重罪」と位置づけています。



そもそも,、先ほど見たように、「戦時重罪人」でなければ裁判抜きで主張しても構わない、というのも乱暴な議論です。

秦郁彦氏も言うように、「捕虜としての権利がないから裁判抜きで殺していいということにはならない。自然法に照らしても不法でしょう。古代の暴君ならともかく、こいつは悪い奴だから、その場で処刑していいというのは、文明国がやることではない」(『諸君!』2001年2月号 座談会「問題は「捕虜処断」をどう見るか」P134)というのが、まずは常識的な理解でしょう。


もはや蛇足になりますが、吉田氏は、東中野氏の「「非捕虜の処刑」の違法性は、国際法のどこにも明記されていない。明確に禁止されていない限り、それは合法であったことになる」という暴論にも、冷静な批判を加えます。

吉田裕氏『南京事件論争と国際法』より

明文をもって禁止されていない行為はすべて合法であるという考え方は、当時の国際法学界の中では明確に否定されていた。
信夫淳平は、陸戦に関する諸条約について、この点を次のように指摘している。

 これ等諸条約の規定する所とても、陸戦の凡ゆる行動を律するに就て決して全掩的のものではない。戦闘手段の中には、成文の交戦法規の上に規定するに至らざりしものも多々あり、その当然違法行為を以て論ずべきものにして、明文の上には特に禁止又は制限されてないものも少なくない。然しながら、その規定がないからとて、違法が化して適法となるに非ざるの理は銘記するを要する。

陸戦法規慣例条約の前文には、『実際二起ル一切ノ場合二普ク適用スベキ規定ハ此ノ際之ヲ協定シ置クコト能ハザリシト雖、明文ナキノ故ヲ以テ規定セラレザル総テノ場合ヲ軍隊指揮官ノ擅断二委スルハ亦締結国ノ意思二非ザリシナリ。』

又、『締約国ハ其ノ採用シタル条規二含マレザル場合二於テモ、人民及交戦者ガ依然文明国ノ間二存立スル慣習、人道ノ法規、及公共良心ノ要求ヨリ生ズル国際法ノ原則ノ保護及支配ノ下二立ツコトヲ確認スルヲ以テ適当卜認ム。』と特に宣言した。

即ち苟も文明国間の慣例に反し、将た人道に悖戻すること明白なる行為は、たとひ法規に明文なしと錐も、之を戒筋すべきは当然である。
(「ゆう」注 『戦時国際法講義』第二巻 P14)
  

「陸戦法規慣例条約」とは、「陸戟ノ法規慣例二関スル条約」のことだが、その前文から引用されている二つ目の文章は、「マルテンス条項」として知られるものであり、国際法の人道主義的な運用という面で大きな力を発揮してきたと評価されている。

そして、「陸戟ノ法規慣例二関スル条約」の前文は、このマルテンス条項に言及して、陸戦規則の第一条および第二条は、「特二右ノ趣旨ヲ以テ之ヲ解スベキモノナルコトヲ宣言ス」としていた。 つまり、四条件違反者に対する処罰に人道的な配慮を求めていたのである。

(『現代歴史学と南京事件』P74-P75)




論争の経緯を振り返ると、東中野氏は、立作太郎の「戦時重罪の例示」に「四条件違反」が見当たらない、従って「四条件違反」は「戦時重罪」に該当せず、裁判なしの処刑は合法である、という主張をしていたわけです。

ところが吉田氏によって、立や信夫が、「例示」11項目以外にも「戦時重罪」項目が存在すると考えていたことが示されてしまいました。しかも、立・信夫とも、当の「四条件違反」を「戦時重罪」と考えていたことは明らかです。



東中野氏にとって、これに反論する方法は、いや、吉田氏の理解は誤っており、やはり立や信夫は「四条件違反」を「戦時重罪」とは考えていなかった、と論証することでしょう。あるいは、立や信夫は、「四条件違反」は「民兵」については「戦時重罪」となるが「正規兵」については「戦時重罪」とはならないと考えていた、という、論証でもいいかもしれません。

しかし次に見るとおり、東中野氏にはそんな「論証」などできませんでした。


吉田氏はこの論稿の最後で、「以上、南京事件をめぐる国際法論争を東中野氏の言説を中心に検討してきた。東中野氏からの反論を期待したい」(P81)と、思い切り氏を「挑発」しています。さて、東中野氏はどのようにこの「挑発」に応えたでしょうか。




東中野氏 『再現 南京戦』


さて氏は、この書の第14章で「国際法」議論を始めるにあたり、いきなり東中野説への批判をずらずら並べるという、何とも大胆な構成を試みました。

『再現 南京戦』より


日本軍の処刑にたいする一九八〇年代からの論調

一九八〇年代から、この日本軍の処刑にかんして次のような論調が出てくる。散見されるものを著者名の五十音順に挙げてみる。

①北村稔『「南京事件」の探求』、平成十三年、一〇一頁
〈筆者の見るところ、「ハーグ陸戦法規」の条文とこの条文適用に関する当時の法解釈に基づく限り、日本軍による手続きなしの大量処刑を正当化する十分な論理は構成しがたいと思われる。両者の論争は「虐殺派」優位のうちに展開している〉 ( 傍点筆者 )(P343-P344)

②中村粲「敵兵への武士道」 ( 『興亜観音』第二十四号、平成十八年 )
〈軍司令官には無断で万余の捕虜が銃刺殺された。それを「便衣の兵は交戦法規違反である」と強弁してはならず、率直に(それは)戦時国際法違反であり、何より武士道に悖る行為であったことを認めねばならぬ〉

③原剛 ( 「板倉由明『本当はこうだった南京事件』推薦の言葉」、平成十一年、八、九頁 )
〈まぼろし派の人は、捕虜などを揚子江岸で銃殺もしくは銃剣で刺殺したのは、虐殺ではなく戦闘の延長としての戦闘行為であり、軍服を脱ぎ民服に着替えて安全区などに潜んでいた「便衣兵」は、国際条約の「陸戦の法規慣例に関する規則」に違反しており、捕虜の資格はないゆえ処断してもよいと主張する。しかし、本来、捕虜ならば軍法会議で、捕虜でないとするならば軍律会議で処置を決定すべきものであって、第一線の部隊が勝手に判断して処断すべきものではない〉 ( 傍点筆者 )

④秦郁彦 ( 坂本多加雄・秦郁彦他「昭和史の論点』、平成十二年、九六、九七頁 )
〈南京事件の場合、日本軍にもちゃんと法務官がいたのに、裁判をやらないで、捕虜を大量処刑したのがいけないんです。捕虜のなかに便衣隊、つまり平服のゲリラがいたといいますが、どれが便衣隊かという判定をきちんとやっていません。これが日本側の最大のウイークポイントなんです。・・・捕虜の資格があるかないかはこの際関係ありません。その人聞が、銃殺に値するかどうかを調べもせず、面倒臭いから区別せずにやってしまったのが問題なんです〉 ( 傍点筆者 )(P344)

⑤吉田裕『現代歴史学と南京事件』、平成十八年、七〇頁。
〈もちろん、正規軍の場合でもこの四条件の遵守が求められており、それに違反して行われる敵対行為は、国際法上の「戦時重罪」 ( 戦争犯罪 ) を構成する。しかし、そうした国際法違反の行為が仮にあったとしても、その処罰には軍事裁判 ( 軍律法廷 ) の手続きが必要不可欠であり、南京事件の場合、軍事裁判の手続きをまったく省略したままで、正規軍兵士の集団処刑を強行した所に大きな問題がはらまれていた。以上が私の主張の中心的論点である〉

このように一九八〇年代以降は、南京大虐殺があったという前提に立って、その根拠を裁判なしの捕虜処刑に求める論調になっていった。裁判なしの捕虜処刑であったから、日本軍の処刑は不法殺害にあたるというのである。

(P343-P345)

*原文の「傍点」は、「下線」で表現しました。


東中野説を批判する5名の論客のうち吉田氏を除く4名が、いわゆる「右派」の論客であることは、特筆してもいいでしょう。氏は、自分の「孤立」ぶりを自ら告白してしまった形です。

氏はよほど、自説に自信を持っているのでしょうか。ここまで大胆なことをやる以上、当然読者は、劣勢を一挙に覆すような驚異の論を、東中野氏が隠し持っているものと期待します。しかし・・・。


その、続きです。

『再現 南京戦』より


 不法戦闘員は裁判などを受けるいかなる権利も有しなかった 

三四〇頁の表でも見たように、不法戦闘員は拘束されても戦争捕虜(俘虜、POW)としては扱われず、彼らにはいかなる権利もなかった。そもそも捕虜とはなり得ない不法戦闘員を捕虜と位置づけることが、戦時国際法上致命的な誤ちであった。
そしてまた裁判とは、判断上何らかの留保があるときにおこなわれる審理であって、助命などの権利はまったく問題外となった不法戦闘員にたいして、捕虜となり得るかどうかの判定をおこなう裁判は不要であった

しかし、もう少し国際法の規定を慎重に見ておきたい。というのは、吉田教授は詳しく根拠を提示して、南京の中国兵は「国際法上の『戦時重罪』(戦争犯罪)を構成する」とし、その処罰には「軍事裁判(軍律法廷)の手続きが必要不可欠」であったと主張しているからである。(P345-P346)

そこで吉田教授がその主張の根拠としている立博士のその部分を見てみる。次のように立博士は書いている。

「戦時重罪中、最も顕著なるものが五種ある。
( 甲 ) 軍人 ( 交戦者 ) に依り行はるる交戦法規違反の行為、
( 乙 ) 軍人以外の者 ( 非交戦者 ) に依り行はるる敵対行為、
( 丙 ) 変装せる軍人亦は軍人以外の者の入りて行ふ所の敵軍の作戦地帯内亦は其他の敵地に於ける有害行為、
( 丁 ) 間諜、
( 戊 ) 戦時叛逆等、是である」 ( 改行は筆者、四六頁 )

 吉田教授は、南京の中国兵の違反行為は「 ( 戊 ) 戦時叛逆等」に含まれるとしている。立博士の言う「 ( 戊 ) 戦時叛逆」 (War treason) は、信夫博士が『戦時国際法提要』 (上巻) に言う「敵軍幇助」(War treason) 、すなわち捕虜逃走支援などの「交戦国に於て自国の作戦上に有害と認定する所の特定行為」 ( 八一二頁 ) のことである。そうすると、交戦者の資格四条件のうちの第一から第三までの条件、 ( 一 ) 部下ノ為ニ責任ヲ負フ者其ノ頭ニ在ルコト、 ( 二 ) 遠方ヨリ認識シ得ヘキ固着ノ特殊標章ヲ有スルコト、 ( 三 ) 公然兵器ヲ携帯スルコトに違反したことは、「 ( 戊 ) 戦時叛逆」には該当せず、「戊」には含まれないことになる。

しかも右の ( 甲 ) を見ていただきたい。この ( 甲 ) は交戦者の四条件の一つである、 ( 四 ) 其ノ動作ニ付キ戦争ノ法規慣例ヲ道守スルコトにたいする違反行為のことである。従って ( 四 ) と同じく他の三条件(一)(二)(三) が「戦時重罪」「戦争犯罪」であるならば、必ず「甲」の前に同じように挙げられているのが当然であった。ところが、挙げられていたのは ( 四 ) だけであった。

このように見てくると、「交戦者の資格」の四条件のうち三条件は正規兵が戦争をおこなううえで破ってはならない鉄則であった。
それを守らない戦闘員の三条件違反行為は「戦争犯罪」以上の大罪であった。つまり助命や裁判にかんする「いかなる権利」も有しなかったのである。(P347)

(P345-P347)


何のことはありません。東中野氏は、吉田氏から批判された論点を完全にスルーしてしまいました。


吉田氏は、根拠を挙げて、立作太郎、信夫淳平という当時の代表的な国際法学者が「四条件違反」を「戦時重罪」と見ていると考えられることを説明しました。そうであれば、その処罰には「裁判」が必要になるのですが、東中野氏は、これに完全に沈黙してしまった形です。

東中野氏が「四条件違反は戦時重罪ではない」と主張してきたのは、立の記述に基づいていたはずです。立が他のところで明確に「戦時重罪」と考えていることが示されているのに、立の考えを無視して、今さら「いや、こう考えるべきである」と根拠の薄い(そして、極めてわかりにくい)主張を述べても仕方がありません。

*東中野氏のこの部分の「反論」は、おそらく読者の方には、一体何が書いてあるのやら、ほとんど理解不能であろうと思います。この「わかりにくさ」は、論に詰まった氏が、とにかく何か書いておけ、と、この部分をいい加減に書き飛ばしたためかもしれません。一応、私なりに解釈してみます。

東中野氏は「吉田教授は、南京の中国兵の違反行為は「 ( 戊 ) 戦時叛逆等」に含まれるとしている」と述べますが、実際の吉田氏の表現は、「その場合は、「軍人(交戦者)に依り行はるる交戦法規違反の行為」、もしくは、「変装せる軍人又は軍人以外の者」が行なう「有害行為」に該当し、「戦時重罪」(戦争犯罪)を構成する」(「国際法の解釈で事件を正当化できるか」P163-P164)でした。つまり、(甲)もしくは(戊)、ということになります。

にもかかわらず、東中野氏は、吉田氏の(甲)の部分を取り出して、これは(戊)ではない、と見当違いのことを述べています。吉田氏は(甲)について述べているのですから、(戊)でないのは当たり前の話です。

さらに、「しかも右の(甲)を見ていただきたい」以下の文では、東中野氏は、立は「四条件」のうち一から三までは「戦時重罪」に該当しないと考えていた、と言いたいようですが、前に吉田氏が批判した通り、これは「例示」であるに過ぎませんでした。反論され済の「理屈」を、ここでもう一度繰り返しても仕方がないのですが。


論争は、東中野氏が反論不能に陥り、吉田氏のシャットアウト勝ちという形で終息した、と判定してよいでしょう。
*余談ですが、東中野氏はここで「戦闘員の三条件違反行為は「戦争犯罪」以上の大罪であった」という、びっくりするようなことを書いています。

例えば立の「戦時重罪」(戦争犯罪)の例示を再掲すると、
「(1)毒又は毒を施したる兵器を使用すること、(2)敵国又は敵軍に属する者を背信の行為を以て殺傷すること及暗殺を為すこと、(3)兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること、(4)助命せざることを宣言すること、(5)不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すること」といったようなものでした。

東中野氏は、このような明らかな非人道的行為よりも、「平服に着換えて戦闘行為を続ける」(実際には「戦闘行為」は行っていませんが)方が「大罪」である、と本気で考えているのでしょうか。これは東中野氏の「苦し紛れの方便」の感があります。



 さて、笠原氏が、両者の論争をこのように論評しています。

笠原十九司氏『南京事件論争史』より


 東中野の、中国軍捕虜の処刑は戦時国際法で合法であったとする論法に対しては、吉田裕「南京事件論争と国際法」に、東中野の国際法理解の誤りが明確に指摘されている。たとえば、東中野は、「ハーグ陸戦法規」の民兵や義勇兵が同法規の適用を受けるためには必要だとされた指揮官の存在、兵士としての特殊徽章の明示の規定を、「支那軍正規兵」の規定にあてはめて、南京の敗残兵、投降兵には指揮官もなく、軍服も脱ぎ棄てていたので、同法規適用の資格がなかったので、処刑してかまわなかった、と捕虜処刑は合法であるというのである。

 
戦時国際法をめぐって「吉田・東中野論争」が行われたが、東中野が論破され、以後東中野はこの問題をめぐってあまり言及しなくなった。東中野ら否定論者は、批判され、論破され、反論できなくなると論点をずらせ、新たな側面を見つけて否定論を展開し、それで南京事件がなかったように思わせるのを常套手段としている。


(同書 P249-P250)


以上の議論経緯を見ると、妥当な評価である、と考えられます。


(2008.4.14)


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