賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ。この前半は経済学的にナンセンスな表現だが、君自身が言い直したところによれば、労働者の「個々の生産性」だ(私のいう限界生産性)。ここで君は明確に、賃金は個々の労働者の生産性で決まるんじゃないと言い切っている。これは非常に強い命題で、常識では考えられない。だから私も他の人々も、いろんな解釈を試みたわけだ。この命題をAとしよう。
ところが君は、きょうの記事では「ぼくは最初から、同じ経済の中での賃金差はそれぞれの労働の需給で決まるし、その労働の中ではその個々の生産性で(ある程度)決まるという話をしている」という。この命題をBとしよう。君の話を整理すると、こういうことになる:
A. 個々の賃金水準は個々の生産性で決まるんじゃない
B. 個々の賃金水準は個々の生産性で(ある程度)決まる
ここで最初に「個々の」と補ったのは、「それは全体の賃金水準のことだ」などという逃げを許さないためだ(後述)。そう解釈しないと、デカ文字の命題は「全体の賃金水準は個々の生産性で決まるんじゃない・・・」という無意味な文になる(*)。
さて、いうまでもなくAはBの否定だ。同じ人物が、ある命題とそれを否定した命題を同時に主張するとき、それを読む人はどう解釈すればいいのだろうか。普通の解釈はひとつだ。彼は頭がおかしいのだ。Bを主張している人が、それとは正反対のAをデカ文字で強調して何度も繰り返すということが、常識で考えられるだろうか。
だいたい、最初の記事のどこに「個々の生産性で(ある程度)決まる」と書いてあるのかね。君は、いろんな例をあげて「技能や熟練水準と生産性とは、実はあんまり関係ない」とか「すべては需給なんだよ」と強調している。需給の結果決まる賃金は個々の労働者の(限界)生産性を反映しているという標準的な経済理論も無視して、賃金を決めるのは平均生産性なんだということをしつこく強調している。2回目の記事のタイトルでも「それでも賃金水準は平均的な生産性で決まるんだよ」と繰り返している。
そこで君のご自慢のEメールだが、質問はこうなっている:
全体的な賃金水準がその経済の平均的な生産性で決まるんだという発想――これはあなたのような自他共に認める立派な経済学者にとって、まるっきりばかげたものでしょうか?当たり前じゃないか。これは、経済学者に聞けば100人中100人が正しいというだろう(私も正しいといった)。これとAを比べればわかるように、君は最初に個々の賃金水準についていったことを全体の話にすりかえ、自明の命題の正否を質問して、それが「完全に正しい」とお墨付きをもらって喜んでいるわけだ。だから、せっかくの権威ある回答だけど、何の意味もないんだよ。質問が嘘なんだから。
こうなったらはっきりいうが、こういう嘘は君のいつもの癖だ。君を知っている人は、驚かないだろう。小谷真理氏を中傷して訴えられたときも、レッシグの本のあとがきで嘘をついて私に謝罪したときもそうだった。あの質問状から5年たって、また同じような嘘に遭遇するとは思わなかったよ。悪いけど、これは経済学以前の、君の人格の問題だ。もうこれ以上、君と議論するのは無意味だからやめておく。嘘つきと議論するのは、時間の無駄だ。
(*)こう書いてもわからない人がいるようだから、コメントで補足説明しておいた。この問題は、論理的思考力の試金石だ。
追記:松尾匡氏からコメントがついているが、ここで彼が説明しているのは、平均所得が平均生産性で決まるという自明の事実である。ここでは労働者は同質で完全に移動すると仮定しているので、国内では賃金が均等化し、二国間でのサービス業の賃金格差は製造業と同一になる。このモデルでは、国内のプログラマとウェイトレスの賃金格差は説明できない。詳細はコメント欄参照。
コメント一覧
時間の無駄ではなく、読者にとっては勉強になりましたよ。
意見がぶつかりあいつつ、いろんな人の理解が深まったのだからいいじゃないですか?
山形さんのエントリには以下のような記述がありますよ。
「前回述べたように、こうした企業が高い生産性を実現できるのは、その他の人々の支えがあればこそ、ではある。そうはいっても、やっぱり肝心なのはすさまじい労働生産性を達成している製造業なんだよ。もちろん、平均労働生産性で決まるのは、社会のベースラインとなる所得/給与水準だ。それだけですべてが決まるわけじゃない。その次に社会の中での需給水準に基づいて、それぞれの仕事の所得/給与水準が決まってくる。そしてその仕事の中では、生産性に応じて所得水準が決まる。もちろん、これが完全にあてはまらない場合もある。細かいところではいろいろ差がある。でも、全体がこんな段階を経て決まってることは理解しなきゃいけない。」
つまり、賃金水準の前に、最初から
"全体的な"がついていれば池田さんも
納得されていたわけですか?
大変ですね
学者さんの議論ですね(笑)
たしかに厳密に言うとお二人の考えに違いがありそうなのはわかりますが、現実に焼きなおすと似たようなものに見えます。
学者さんは大変だ。。
永田や「あるある」じゃないけれど、山形のやっていることが自作自演の偽メールでないことを祈りますよ。嘘つき男が、「メールを出しました」「答えが来ました」ということを言ったところで、私にはとうてい信じる気になれないもので。
松尾匡先生も山形氏を支持
http://www.std.mii.kurume-u.ac.jp/~tadasu/essay_70219.html
戦線は広がる一方です(笑
私も山形氏がアメリカの経済学者に宛てたメールをみて、
今まで議論してきたことと違うな、と思った。
今まで主張してきたこととは別の議論をアメリカの経済学者に投げかけて、
「ほら、みんな俺が正しいと言ってるじゃないか。」みたいな。
彼はメールで"the overall wage level"という表現を使ってる。ここでoverallといえば、
いろんな産業・職業をひっくるめた「国全体としての賃金水準」という意味だけど、
彼は今までこんなこと言ってなかった。
むしろ銀行員の賃金がどうとかプログラマがどうとか、個別の職業についての賃金について議論してたよね。
補足説明
デカ文字の命題に「全体的」を補ってみましょう。
>全体的な賃金水準は、絶対的な(個々の)生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ。
こんな文が、日本語としてありえないということがわかりませんか? わからない人が多いみたいだから、「個々の」をウェイトレスである「花子さんの」と置き換えてみましょう。
>全体的な賃金水準は、花子さんの生産性で決まるんじゃない。
いくら山形氏でも、ここまでおかしくはないでしょう。彼は
>花子さんの賃金水準は、花子さんの生産性で決まるんじゃない。
というsurprisingな命題を主張しようとしたんですよ。これは成立すれば、意味のある命題です。ところが残念ながら、そんなのが成立しないことは彼自身が認めてしまった。
また別の人がコメントして、自分で「間違えました」といってきたように、この「絶対的な生産性」を全体的な生産性のことだと解釈しましょうか。そうすると、この命題は
>全体的な賃金水準は、全体的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ。
という、やはり無意味な文になります。
生産性って大事ですね
>Unknown (Unknown) 2007-02-19 23:44:44 様
>銀行員の賃金がどうとかプログラマがどうとか、個別の職業についての
山形氏の最初のエントリの「もっと卑近な例!」三連発くらいのことでしょうか。私はあの文章を、個々具体例を挙げてひっくるめて日本全体を話そうとしているんだ、と理解してました。文章の読み方は人それぞれですね。
「山形さんが支持した分裂君の図解」と「松尾先生の解説」は全然、違うんだけどなあ???
いや、先生わかってない。
話の発端は「全体的な賃金水準は、花子さんの生産性で決まる」的なことを主張するトンデモがいたんです。
で、山形さんがそのトンデモがあたかも「みんなの意見」であるかのように装って、「バカどもに真実を教えてやろう」とばかりに反論したんですよ。
彼のいつもの行動様式です。
というかビジネススタイルです。
先生はオレオレ詐欺にやられたようなもんですわ。
問題はどっちが正しいかとかでなく
ボビーオロゴンは本当に日本語が分かってなかった!
って本当?
ということなんであって、もう山形さんはいいんじゃないかなと。
あのノリが芸風でなかったことが分かればあとはもうなんでもいいです。
まあ
>話の重要なポイントとして、二つのセクターの財の相対価格について考えてください。労働者の生産性は実質製品換算賃金、つまりその人が生産している財ではかった賃金と等しくなります
要はこれで終わりでしょ。何を山形はぐだぐだ言ってたんだか…
限界生産性
山形氏の主張である「平均的な生産性」で賃金が決まらないことが自明である事はわかりました。しかし限界生産性は企業家(需要側)の論理であり、多くの人が分裂君に共鳴した部分は「需要と供給」で賃金は決まるのではないかという疑問です。(供給側の意見)
もちろん賃金が限界生産性を越える事はないとは理解できますが限界生産性と労働市場の相場は相関があることも事実ではないでしょうか。
需要が賃金を決めるという意味では(生産性による)「賃金格差が必要だ」はそのとおりと感じました。また例に挙がったウエイトレスのような生活必需では無いサービスは高止まりしているかもしれませんが流通などの生活必需分野では外資の影響もありコストダウンが進み、インフレを妨げてい(ると思います)ます。
ウィキペディアにかいてあるじゃん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%B4%BE%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6
古典派の公準
古典派経済学では次の2つの公準を柱として、分析を進めていく。
古典派の第1公準
実質賃金は労働の限界生産物に等しい。労働の限界生産物が実質賃金に等しくなるように雇用量(労働需要量)は決定される。
古典派の第2公準
実質賃金は労働の限界不効用に等しい。労働の限界不効用が実質賃金に等しくなるように労働供給量は決定される。
肝心な点
山形氏の問題は本人の器質の問題ですむのでしょうが、誤読されている人間が多いのにはあきれます。
池田氏と山形氏の主張は全く別だと思います。正反対だと言ってもいい。
一言で言えば、山形氏は現状の構造を追認しているだけなのに対して、池田氏は構造自体を変革する必要を主張されています。
また、「平均」という概念は格差のような話題を語るときに何の意味も持ち得ません。
(当たり前すぎて書きたくないのですが)生産性が9の人と1の人が一人ずついる場合と5の人が2人いる場合、平均生産性は同じと言うことになります。
「全体」という言葉も同様です。
Re:山形・池田「生産性論争」への今頃のコメント
経済学者からコメントがついたので、お答えしておこう。
http://www.std.mii.kurume-u.ac.jp/~tadasu/essay_70219.html
松尾氏のいう
>「ある産業での国際的な所得格差は、その産業の国際的な生産性格差に起因するものではない」
という命題は自明です。私も認めています。問題は、山形氏が
>賃金水準は、絶対的な(個々の)生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ。
と書いていることです。松尾氏は
>「賃金イコール社会の平均的な生産性」という命題と受け取ったのだろうか。まさかねとは思うが。
と書いているが、その「まさか」なんですよ。山形氏は、個々のウェイトレスの賃金が「平均生産性」で決まると主張しているのです。
生産性って大事ですね (UK) 様
>山形氏の最初のエントリの「もっと卑近な例!」三連発くらいのことでしょうか。
赤でデカデカと書いたちょうどそのすぐ下あたりですね。
彼の文章はつまらないギャグや自慢話が多すぎて読みにくいですが、ま、言いたいことは分かりました。
しかし、やはりあの赤い命題は、misleadingです。
単に言葉遣いの問題に見えるんですが
上のコメントで紹介されている松尾匡氏の文章は、私の山形氏のエントリー理解とほぼ重なります。
中でも、
>山形さんが本当に言いたかったことは、
>
>「ある産業での国際的な所得格差は、その産業の国際的な生産性格差に起因するものではない」
および
>それに「賃金は・・」というのもホントを言えば厳密でないんだよね。言いたいことは、「国際賃金格差は・・」ということだし、「賃金」というカテゴリー自体もこの論理次元ではホントは適切ではなくて、「所得」のほうがいい。
ここが肝なのかなと。山形氏は経済学内での用語の定義はひとまず措いて、一般向けにざっくり解説しようとしたのだと思います。専門用語にもなっている言葉を日常語として使って。(松尾氏の「一般の人が読んでイメージしやすいためには「賃金」と言って十分だし」ですよね)
「決まる」という強い表現と、「相関する」という弱い表現との区別がなされていれば、もっとすっきりした議論になっていたような。山形氏は後者の表現を用いるべきところで前者の表現を用いたので混乱を招いた、という印象。最終的に「決まる」と言えるのは池田氏の論理においてのみであり、その「決まる」に影響を与える「相関する」諸要素(そこに「平均生産性」が大きく関わる)によって、山形氏が描き出そうとした国際間の格差が生じる、というところではないでしょうか。
二律背反
>話の発端は「全体的な賃金水準は、花子さんの生産性で
>決まる」的なことを主張するトンデモがいたんです。
いや、最初の「賃金水準」を全体的な賃金と解釈すると、これは「生産性の高い国では賃金も高い」というtrivialなことをいっているだけで、ウェイトレスとプログラマの賃金格差という肝心のエピソードが説明できない。どっちに解釈しても、このデカ文字の命題はナンセンスなのです。
なんだかもうまったくわからなくなってきたんですが、結局、二人の争いってこんなコトなんじゃないですかね。
まず、これは俺流勝手経済学ですが、輸入不可能な職種においては、「波及効果」みたいなやつがあるわけですよ。典型的なのがウェイトレス。これは、日本の労働市場を完全に開放しない限り、発展途上国よりは高給なわけです。そして、その原因は、日本経済全体の平均生産性が高いから。逆に言えば、輸入不可能な職種についている限り、グローバル化などどうでもよく、問題は日本社会全体の平均生産性。
逆に、輸入可能なもの(Tシャツとか)の場合、どこの国でも同じ価格に収斂してしまう。よって、この場合、賃金を決めるのは、その人の生産性であって、その国全体の生産性ではない。
・・・ここまでが正しいとして、
輸入不可能なものに関するウェイトを極度に高くとって議論しているのが山形氏。
輸入可能なものに関するウェイトを極度に低くとって議論しているのが池田氏。
それだけなんじゃないのかなぁ。
なにか、おいら、間違ってますか?
因果律とモデルの問題
> これは「生産性の高い国では賃金も高い」というtrivialなことをいっているだけで、
> ウェイトレスとプログラマの賃金格差という肝心のエピソードが説明できない。
やはり、これを読むと、あらためて、自分がブログで書いたことが正しいような気がします。要するに、それをtrivialと考えるかどうかが「モデル」の違いだということです。
因果律についての細かい表現を別にすれば、お互いに矛盾しないことを言っているはずだと思います。むしろ問題なのは、「あるモデルで考えると他のモデルが見えなくなる」という、人間が陥りやすい間違いではないでしょうか。
maspyですよ。
とても混乱してきて
ちょっと悲しいですよ。
山形さんも、池田さんも、いつも楽しく
有意義な議論をされていて、大好きな
方ですが、喧嘩してるのを見たくはありませんよ。
実際のところ、お二人とも生産性というのを
あまりご存知じゃないのではと思います。
計算されたことございますか。
それから、
池田さんは、現実感覚から「平均生産性」と
いうのは、あまり今日的な意味をなさない・・
というようなミクロ的な観点から問題提起
されているようですので、そのあたりに
山形さんは、きちんと答える必要がある
ように思いますよ。
平均生産性というのは、一国のマクロ経済
が閉じているときには、たしかに有効でしょうが
今日のようなボーダレス経済下で
実証的に賃金水準を規定する主要な要因として
いえるのかどうか
かなり疑問がありますよ。
感覚的には池田さんが正しくて
セオリー的には山形さんが標準的なことを
いわれているだけでしょ。
センスがいいのは池田さんですので
それを凌駕しようと思えば、
山形さんには、さらにセンスがよいところを
見せていただきたいと思います。
失礼な物言いがあったらごめんなさいね。
山形メカニズム
平均的な生産性=平均的な所得水準が、彼女の相場感を通じ、その行動に影響して賃金水準を(ある程度)決める。これを立派なメカニズムと言わずして何と言いましょうか。
>だいたい、最初の記事のどこに「個々の生産性で(ある程度)決まる」と書いてあるのか
この部分じゃないですかね
>そしてその仕事の中では、生産性に応じて所得水準が決まる。
>そして……やっとのことで、同じ職種、同じ仕事の中で見たら、生産性の高いほう――単位時間でこなせる量の多いほう――が高い賃金を得るわけだ。
これが「ある程度」かという話もありますがね。
どちらを主と見るかだけの話に見えます。
理論は道具だと思うのです。
長期的な考え方としては、山形先生の説明が
わかりやすいし、私もそのように思いました。
しかし、短期的に現実の問題を具体的に解決する
手段としては、私も最初はお二人の主張にあまり
違いはないと思っていたのですが、池田先生が
山形先生の説明の重大な問題点を簡潔に指摘されて
いることに気がつき、盲を開かれたような思いが
しました。
限界的な生産性ということは、私の理解では、
その人がいなくなった場合の損失のことだと
思います。これは、現実には計測が不可能で、
仮想して見積もるにしても、時間軸における
平均範囲の定義も曖昧でわかりにくいものです。
しかし、例えば産婦人科のお医者さんが過酷な労働で
苦労されている問題について、本来市場の機能が
有効に働けば「神の見えざる手」によって、
問題が解決する方向に働くはずなのに、現実には
産婦人科のお医者さんの給与が限界的生産性と
乖離していてそういった機能は有効に働いておらず、問題を早急に解決する一つの手段としては、そういった視点がとても重要だと思います。
池田先生は、そのような指摘に対して、
山形先生が真摯に対応されないことについて、
問題にされていると思います。
山形先生も、池田先生の指摘が激しかったので、
素直になれないのではないかと思います。
そうですね
>そして……やっとのことで、同じ職種、同じ仕事の中で
>見たら、生産性の高いほう――単位時間でこなせる量の
>多いほう――が高い賃金を得るわけだ。
しいていえば、これでしょうね。しかし、これはデカ文字の命題を自分で否定しているわけです。
そして、ここでも明らかなように、彼のいう「賃金水準」は、生産性の高いほうが高い賃金を得るかどうかという「個々の賃金」を問題にしているわけです。ところが私に突っ込まれると、2回目の記事では「いや全体の賃金のことだ」という話になる。Eメールでも、そう書いています。つまり、彼はもともと個々の賃金の話をしていたのに、それがおかしいと追及されたら、全体の賃金だという話に変えたわけです。
しかし、この「賃金水準」が全体の賃金だったら、ウェイトレスとプログラマの賃金の差なんて最初から問題にならないのであって、デカ文字の命題はそもそも意味がない。こういうふうに、肝心の概念の定義が事後的に二転三転するようでは、まともな議論は成立しません。
空気嫁
どうやら山形信者も、彼の議論の矛盾が逃げられないということは理解したようですね。そうすると、今度は「山形先生は本当は『個々の生産性*だけで*決まるんじゃない』といいたかったんだ」と主張し始める。論理が破綻したら、気持ちで対抗しようというわけだ。「空気嫁」というやつね。
こういう甘えたことをいっているから、日本のブログではまともな言論が育たないのです。議論の誤りが指摘されたら、まず誤っていたことを認め、訂正することが基本的なルールです。そして5年前の山形氏は、ちゃんと誤りを認めた。これは立派だった。
今度は別に大した問題じゃないから、謝罪なんか要求しませんよ。しかし、これからは偉そうに他人に経済学の説教なんかしないことです。
問題の趣旨からずれますが私の個人的な感想は、山形は信用ならないというか、あーゆー権威を借りたやり方は、自分自身の論調に自信が無い事の表れだと思います。他人の意見を借りて自己を正当化するような論調は、人間として最低ランクです。だいたい文章が気持ち悪いです。バンコクに15歳の女の子でも囲っていそうな印象を受けました。
購買力
みなさんのコメントで、いいたいことはわかります。超効率的な製造業の生産性が、実質的にウェイトレスの賃金を引き上げているというのは正しい。しかしそれは「平均生産性で賃金が決まる」のではなく、円の「購買力」を高め、円を強くすることによって日本人を一様に豊かにするのです。この点がわかるように、2/16の記事を書き直しました。
山形さんがうける時代の空気
初めまして。興味を持って拝見していました。古典経済学の二つの公準は高校か中学の社会科で勉強した記憶があり、懐かしく思い出しました…という程度にしか経済学を知りません。
興味を持ったのは、山形さんの意見がそれなりに受けているのは、情緒的ないし心理的な理由による気がするからなんです。つまり、賃金の決定には「自分という個人」の効用以外の要素が支配的であると信じたいという願い、別の側面から言えば、「雇用側は<俺の>限界生産性を正確に判断できるのか」という疑問、もっと端的に書けば「<俺たち下流社会>の人間は、<貢献>に見合わない不当な低賃金で搾取されているのではないか」という閉塞感ないしいらだちの現れなのではないかと。
雇用が十分流動的ならば、職場を渡り歩くことで「自分の限界生産性」を試せるのでしょうが、成果主義がまともに導入されず、転職や起業が命がけで、一回失敗すると家族込み込み路頭に迷い右や左の旦那様という思いがある限り難しいのではないかとも感じましたね。
成果の評価という点では、事実上WEが導入されているような専門家でも難しい面がありますよね。特に潰しの効かない医師はきつくて、「世界最高水準の医療を提供しても貢献が評価されず、マスコミには千年一日のように叩かれ、事故が起きれば逮捕までされるのか」と思うと、立ち去り型サボタージュ→産科崩壊となってしまうわけです。教育や基礎研究に携わる場合も「成果といわれてもなあ」という思いがあるでしょうね。
あるあるそっくりの権威の引用
山形氏の今回の海外の経済学者への質問とその権威を借りた結論のミスリードは、あるある大辞典の捏造事件と構図がそっくりなような気がします。
テレビでコメントを都合良く編集しているのと同様、自分の元来の主張とは違う内容を質問して、それに賛同が得られると自分の主張が正しいことにしてしまう(多くの読者は英語の質問状など読まないのでその違いに気づきません)。
あるある大辞典の件と同様、海外の経済学者は、自分のコメントが、「賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ」という主張の支持に使われているとは、夢にも思っていないと思われます。
海外の経済学者にとっても、こういう自らのコメントを用いた恣意的な間違ったミスリードは、彼らの権威や名誉を傷つけることになりますし、好ましいことではありません。もし可能であれば、池田氏が、「山形氏があなたへの手紙に対する返事をこういう主張の正しさを証明するものだと日本でpublicに主張していますよ。貴方の主張は本当にこういう事でしょうか?」という忠告と質問をなされるのはいかがでしょうか?
ただ、実際は、山形氏のように単なる翻訳者ならいざ知らず、経済学者がこういう初歩的だと思われる事柄について海外の研究者にメールを出すのは馬鹿らしくて出来ないと思いますが・・・。
反論は歓迎
ここに来たコメントは、基本的にそのまま載せています。上の内容を見ればわかるとおり、私を批判するものは載せないということはありません。TBも同じです。論理的な反論は歓迎します。
コレにつきる気がします
Gim氏の見解が妥当のような気がします
http://d.hatena.ne.jp/Gim/20070219
>超効率的な製造業の生産性が、実質的にウェイトレスの賃金を引き上げているというのは正しい。
これがコメントで何度か言われている「スピルオーバー」のことですよね。平均生産性が高い国ははサービスのような生産性に差がない産業でも賃金が高くなるというのは、スピルオーバーの恩恵を受けた結果であり原因ではないということですよね。
だったら山形氏の話は逆の因果を誤解しているようにしか思えないのですが
>ここで彼は「平均生産性」と「平均所得」が存在することを示している。それは当たり前だ。しかし両者が存在することが、どうして前者が後者を決めることになるのだろうか(このblogの2/14)
ということですよね
Re:コレにつきる気がします
これがさっき言った「空気嫁」のバカコメントの典型。
>賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない(中国と日本のプログラマの生産性の違いだけできまるんじゃない)
原文のどこに「だけで」と書いてあるわけ? そういうふうに読者が解釈することと、原文にそう書いてあることの区別もできないのかね。
いい本が山形訳で台無しになる。おしつけがましい、あとがき。出版社はそろそろ山形を訳者に使うのをやめろよ。こんなやつの金儲けに手を貸すな。自分を知的な商品として売っているにすぎない。コンサルらしいやり方だ。
バカって言うと、伝わるものも、伝わらなくなるよ。学者には、一般人よりも、ずっと高いモラルが必要とされるんだよ。
繰り返しですが…(モデルと因果律)
> しかしそれは「平均生産性で賃金が決まる」のではなく、
> 円の「購買力」を高め、円を強くすることによって日本人を一様に豊かにするのです。
> この点がわかるように、2/16の記事を書き直しました。
いずれにせよ上でも書いたようなモデルの違いですね。
この記述は墓穴を掘っているに思えます。
表面的なロジックでは池田氏が全面的に正しかったとしても、
揚げ足取りという批判は免れないのではないでしょうか。
Gim氏のブログもこの趣旨で読むべきだと思います。
ちなみに、これは著作権は財産権か論争で、
池田氏が揚げ足取りをされていたのを、
自分が擁護したときと全く逆の構造になっています。
自分は好き嫌いで発言したりしませんので。
話は変わりますが…
> ここに来たコメントは、基本的にそのまま載せています。
> 上の内容を見ればわかるとおり、
> 私を批判するものは載せないということはありません。
> TBも同じです。論理的な反論は歓迎します。
という形で、以下のブログに反論されているようですが、
このブログの批判は、論理的ではない批判、
「中傷」をどう処理するかとうい問題なので、
話がすれ違っています。念のため。
検閲の責任/芹沢氏
http://d.hatena.ne.jp/DocSeri/20070220/1171939456
山形氏は格差の話をしてくれませんね。
あげあし取りの議論ではなく、
松尾匡さんのように
「こういう風に書けば意味が通る」
という建設的にコメントすれば、全ての人にわかりやすいかも知れませんね。
山形さんの記事の言いたかったことは、なんとなく伝わるわけですから、それを汲んでコメントしてあげるのも議論の価値をあげることになるかと。
揚げ足取り
と皆さんおっしゃいますが、このデカ文字の命題は、数学でいえば「定理」ですよ。その表現が誤っていたら、訂正して「いや、実はこう考えていたんだ」というのが当たり前でしょう。ところが2回目の記事では「賃金は平均賃金のことだ」とか「日本経済に1人しかいなかったら同じだ」とか逃げ回り、おまけにその逃げ口上を海外の経済学者に応援してもらおうとしたから、驚いたのです。山形氏の逃げ口上は
1. 賃金は個々の生産性でも(ある程度は)決まると言っている
というのと
2. ここでいう賃金とは平均賃金だ
という2種類ありますが、この2種類の逃げ口上は矛盾するんですよ。1の場合の賃金は個人の賃金だから、2のそれとは違う。しかも、この2種類の言い訳がごちゃごちゃに出てくるから、読んでるほうも混乱してしまう。だからあえて命題の形にして、その矛盾をはっきりさせたのです。
反論歓迎?
> 私を批判するものは載せないということはありません
それは命題としては真ですが、批判的コメント/TBと、賛同的コメント/TBでの掲載率は等しいでしょうか?
レベルで選んでると自然と批判的コメント/TBのほうが掲載出来ないモノが多いとおっしゃるかも知れません。
が、現に掲載されているコメントを見ると、賛同側的コメントも相当「レベルが低い」率が高く見えます。
もちろん個人のブログですから、何を載せて何を載せないかは個人の自由ですし、その方針について捏造的な表明をしても個人の良心の問題に留まりますが。
池田氏がある言葉を中心に重点的に行われているようには感じます。けれども、「お母さんに言いつける」ようなやり方で担任の教師に情報を上げて、「僕をイジメているのは池田君です」と言う発想が、ついこの間までのイジメ問題の根幹では無いですか?クラスのヒーローに追随してヒーローの言う事が正しいと。
私が個人的に池田さんに思うのは、各エントリーが点と点では繋がっていると思うのですが、線に見えるというか面に見えるような。なんというか、通して読んでいると何が言いたい事なのかだんだんわからなくなってきたりはします。
それでも、価値のある発言とは、一瞬の発想にあって煮詰まって考えたモノは結局のところ、煮詰まった感じがしていて、自然ではないと私は思います。
>原文のどこに「だけで」と書いてあるわけ?
ちゃんと留保してあると思います。
>もちろん、平均労働生産性で決まるのは、社会のベースラインとなる所得/給与水準だ。それだけですべてが決まるわけじゃない。その次に社会の中での需給水準に基づいて、それぞれの仕事の所得/給与水準が決まってくる。そしてその仕事の中では、生産性に応じて所得水準が決まる。もちろん、これが完全にあてはまらない場合もある。細かいところではいろいろ差がある。でも、全体がこんな段階を経て決まってることは理解しなきゃいけない。
撤収したほうがよいのでは。
厄介な相手との論争になりましたね。
相手はもともとアカデミックな議論するだけの知的訓練(知的な誠実さといってもいい)を受けていない上に、中途半端に業界用語を知っているので逆に尻尾を捕まえにくいのです。今後も議論は永遠にかみ合わないでしょう。というのはかみ合ったら最後、撃破されるのは必定なので、追っかければ物陰に隠れ、引き上げれば勝ったと騒ぎ、その間に次々と不正確な知識と言語をばら撒いて野次馬を煙に巻く戦法を相手はとっているからです。そしてうかつにそれらに関わると「揚げ足取り」という非難をするわけです。こういうタイプの議論をする人間はパソコン通信時代から散々見てきていますのでよくわかります。
これはいうなればゲリラと正規軍の戦いのようなもので、深入りすればするほど正規軍のほうが分が悪くなるのです。
さて、野次馬としてはこのような状況は面白いのでしょうが、本来のブログの趣旨やこれまで書かれてきたことのレベルを考えると、いつまでもこんな下らない論争でこのブログの質を低下させるのはばかばかしいと思います。
今後も書くべきことのスケジュールは立てていらっしゃると思いますし、速やかにそちらに戻られたほうがいいのではないでしょうか。
挑発に乗ってはだめです。実りある議論はこの相手とは無理なのですから、貴重な精神活動に当てるべき時間をあるべき場所に戻しましょう。
心ある読者はすべて了解しています。
今回の山形ブログのやり方
今回の山形ブログのやり方は引いた。援軍を頼むにしても池田ブログ山形ブログを読ませた上でコメントを引き出すべきだろう。池田先生には敵も多そうだし日本語の読める経済学者に頼めなかったものか。
専門家にメールしたのは
山形氏の経歴その他については詳しくないので間違った推論かも知れませんが、ご自身に経済の専門的な素養がない(たしか工学専攻ですよね)ことを自認しての行為なのでは?と考えれば、わざわざ専門家にメールしたことも頷けるのでは。メールの内容は全文公開れているようですから都合の良いところだけつまみ食いしたわけでもないし。
ところで話は変わりますが、この件について私が「中傷と取れる表現は避けるべき」という内容のコメントをしたのは何故非掲載に処理されてしまったのでしょうか。差し支えなければお教え下さい。
言葉尻…
内容の話からどんどんそれて行きますね。
個人的にも、パソコン通信時代に経験があります。
有名人になぞらえれば、立花隆と渡部昇一の『朝日ジャーナル』誌上での“角栄論争”でしょうか──。
相手は「自分が間違っていること」について確信がありますから、その点を突けば突くほど のらりくらり と逃げ回ります。
挙句の果てに、ちょっと感情的になると言葉尻をとらえて「学者ともあろう者が感情的なことを言い立てる。おおこわぁ」などと言い始める。
> 心ある読者はすべて了解しています。
然り……。
ブログの真実。
得た物は?
山形氏は元々ああいう芸風で、「またか」で済みますが、池田氏が今回失ったものは大きいような気がしますね。攻撃のための攻撃にしか見えませんでした。
プロレスはリング内でね
> 心ある読者はすべて了解しています。
そう思います。
みんな見てますよ、山形さん。分かる人には分かるので、
ごまかしたって遅いです。こんなに卑劣なやり口に
訴えるほど不誠実とは思いませんでした。
>>専門家にメールしたのは
専門家にメールしたのが問題ではなく、日本語の読めない専門家ばかりにメールしたのが問題では?相手は山形訳でしか経緯を知らないわけですし。
まあこの論争を当事者である池田先生のブログでしかやれないというのは先生も我々も不便ですね。先生は、はてぶアドバンスに期待されておられるようですが、私は2ちゃんねるアドバンスに期待。
私は山形氏が「生産<水準>」と書いていたので、個々人の賃金が平均生産性で決まるという話だとは思わなかった人間です。
しかし、山形氏に答えたゴードン氏の答えはおもしろいと思いませんか? 考えていることをうまく説明できないのですが、ちょっと因果関係は措いておいて、製造業の生産性があがったとしても、しばしば製品価格が下がっているので、価値で図った生産性(価格×数量)は、製品を生産する能力という意味の生産性ほどは上昇していない。一方、サービス業の生産性がまったく向上していないとしても、(物の価格の下落によって)サービスの相対価格は上昇しているので、価値で図った生産性は上昇していることになる。だから、生産力とか能力の差ほど賃金の差はひらいていない、ということになるような気がします。(「生産性」という言葉がどうにももどかしいです。)
これは池田先生の説明と似ているようでいて、外国が関係しない閉じた経済でも(したがって円の強さなどとは関係なく)成立するように思われるのです。山形氏が「絶対的な生産性で決まるんじゃない」と言ったのは、こういう含みもあるのかな、と感じましたが。
まとめてお答え
きのうは、何も投稿してないのに33000PVを超えました。火事と喧嘩はブログの華ですね。コメントも膨大なので、スパムと答えるのが面倒な愚問以外は、ほとんど読まないで載せています。だから、質問に答えることは期待しないでください。
日本語の読める経済学者
>池田先生には敵も多そうだし日本語の読める経済学者に頼めなかったものか。
日本語の読める経済学者である松尾匡さんが、山形さんを支持する文章を書いています。明快で誰にも理解できるまとめです。
>松尾氏は
>>「賃金イコール社会の平均的な生産性」という命題と受け取ったのだろうか。まさかねとは思うが。
と書いているが、その「まさか」なんですよ。山形氏は、個々のウェイトレスの賃金が「平均生産性」で決まると主張しているのです。
池田さんの批判は、松尾さんが「まさかねとは思うが」と言う独自の読み方が唯一の正しい読み方であることを前提にしなければ成り立ちません。
ところが多くの人は、わたしも含めて松尾さんのような読み方をしているわけです。ある文章について2つ以上の解釈ができる場合、自分の解釈だけが正しい解釈であると言える特権は誰にもありません。
したがって、山形さんを批判するとすれば、せいぜい「複数の解釈を許すような雑な書き方をしてはならない」という文章表現上の批判をすることしかできないでしょう。
本当に日本語が読めるんですか
どういう根拠があって、自分が「多くの人」を代表してると僭称するんですかね。当ブログにコメントした(あなた以外の)経済学者は全員、山形氏の議論はナンセンスだと断じています。
松尾さんのモデルは、要するに「平均所得が平均生産性で決まる」という自明の話です。彼はすべての労働者の生産性を同一と仮定してるんだから、賃金が国内で均等化するのは当たり前。山形氏は、生産性の異なる労働者の賃金が平均生産性で決まると主張しているんですよ。これが正しいとしたら、ウェイトレスとプログラマの賃金格差は何で決まるんですか。
超訳はよしませんか>>Unknownさん
日本は自衛隊が憲法9条に反しない、という政府見解が長年まかりとおる国なのであなたの言い分に賛同するひとも多いのかもしれません。
しかし松尾氏の山形ブログの読み方は日本語の超訳としか呼びようのない読み方で、無理に無理を重ねた上で、それでも山形氏を弁護しきれずに山形氏のミスリーディングを認めています。
いわばUnknownさんのコメントは超訳*超訳といえるものではないでしょうか。
私は山形氏がクルーグマンの文章を紹介してきたことをありがたいと思っていますし、インフレターゲティング政策に関する池田氏の見解に違和感を感じているものです。
しかし、今回の山形氏のやり方は、経済学に関する知性や知識以前の問題をかかえており、私は共感できません。悲しいです。
そうか
このUnknownは「日本語の読める経済学者」じゃなくて、ただの「日本語の読めない素人」なんだね。
ついでにいうと、前にも書いたように、山形がデフレ論争で果たした役割は、今回よりはるかに有害だったと思いますよ。問題のクルーグマン論文は、理論的に致命的な弱点があるということで、正式の学術誌には載らなかったものです。これ以外にインフレ目標を正当化する理論らしきものはないのに、みんなが大騒ぎして、日銀にプレッシャーをかけた。
結果的には、企業収益が改善したらデフレも改善された。デフレは、不況の原因ではなく結果だったのです。
ちなみに山形さんの2/13記事の"If you achieve western productivity, you will get western wages."の元ネタはこちらのようです。
http://web.mit.edu/krugman/www/ricardo.htm
ここでは、
"Wages are determined in a national labor market:
...When one tries to talk about trade with laymen, however, one at least sometimes realizes that they do not think about things that way at all. They think about steelworkers, textile workers, and so on; there is no such thing as a national labor market. ...First, unless it is carefully explained, the standard demonstration of the gains from trade in a Ricardian model -- workers can earn more by moving into the industries in which you have a comparative advantage -- simply fails to register with lay intellectuals. ...Second, the link between productivity and wages is thoroughly misunderstood. Non-economists typically think that wages should reflect productivity at the level of the individual company."
のように書かれており、クルーグマン自身が、個々の賃金が個々の生産性ではなく、労働者の移動を通じて最終的に全体の生産性から決まるような書き方をしています(「生産性をめぐる誤解と真の問題」エントリの2007-02-15 00:16:24コメントで引用させていただいた対Kuttner論争中の文章もそうでしたが・・・)。
また、下記のカナダ人の経済学者も簡単な実証データを示しながら、やはり山形=分裂勘違い理論に近いことを述べています。
http://www.economica.ca/ew72p1.htm
なるほど
ネタ元は明らかにこれですね。どうせなら、これを丸写ししてくれれば、話はわかりやすかったのに、国外にいたから検索しきれなかったんでしょう。
これは要するに、製造業の生産性上昇の効果が、労働移動を通じてサービス業にも波及するという話ですね。私のいう「スピルオーバー」で、別に何の不思議もない話だし、「賃金が平均生産性で決まる」なんてクルーグマンもいってません。先ほどの松尾モデルのように労働生産性が完全に同一だと仮定しないかぎり、そんなことは起こらない。
それに笑えるのは、この話のすぐ後に、別の話題で"if they achieve Western productivity, they will be paid Western wages"というフレーズが出てくることです。これは単位労働コストの話で、国内賃金の均等化とは関係ない。両者がどう結びついているのか、わからなかったんだけど、山形氏の脳内では「クルーグマンの受け売り」という点で結ばれてたんですね。
目が滑る、というのは実在するのだな。
どうせ何をいっても元の文章を読みもせずにミスリーディングだ超訳だ日本語読めないだと非難するしか能がない野次馬があとを絶たないのだろうから、問題の部分を書き写してみる。
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20070211/p1
話はわかるだろう。人間を相手にするサービス業では、時間あたりの処理人数で見た生産性は大差はありえない。どっかで生身の人間を相手にする以上、その処理効率の改善には限界があるからだ。電話やコンピュータを間にはさむ場合はいざ知らず、対面が要求される多くの職業では、最低限の接触しかないコンビニの店員さんですらお客一人あたり数分はかかるし、それは先進国でも後進国でも変わりようがない。にもかかわらず、その稼ぎには大きな差がある。なぜ?
それはだね、稼ぎ――つまり賃金水準――というのは、絶対的な生産性で決まるんじゃないからだ。その社会の平均的な生産性で決まってくるものだからだ。
はてなブックマーク連中よ、ここを絶対に見逃すなよ。賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ。ここだけ理解してくれれば、本稿の他の部分なんかどうでもいいくらい。念のため赤でも書いとこう。賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ。
<引用ここまで>
「その稼ぎには大きな差がある。なぜ?」の「その」を、
「プログラマとウェイトレスの間では、その稼ぎには大きな差がある。なぜ?」と読んだか
「先進国のコンビニ店員と後進国のコンビニ店員の間では、その稼ぎには大きな差がある。なぜ?」と読んだかの違いとしか思えない。まさかね。
だってその前に散々、「ガーナやマラウィの医者vs日本の医者」「フィリピンやガーナの床屋vs日本の床屋」「スリランカのマクドナルド店員vs日本のマクドナルド店員」「タイのメイド喫茶の女中vs日本のメイド喫茶の女中」「モンゴルの官僚vs日本の官僚」の話がされているんだよ。まさかね。
何いってるの
山形氏の記事に何と書いてあるかなんて、どうでもいい。あなたのような信者にとっては、教祖が何といったかが大事なのかもしれないけど、普通の読者にとって問題なのは、その理論がどれぐらい説明力があるのかということです。山形氏の話も松尾氏のモデルも、「平均生産性」では国内の賃金格差を説明できないんですよ。
生産性で賃金が決まる、というのは、ここ数年の内に大学院で標準的なマクロ経済学のトレーニングを受けた人間にとってはもっともな話のように思います。
「平均生産性」では国内の賃金格差は確かに説明できませんが、そのような Heterogeneity を扱うモデルを池田先生はどれくらいご存知なのでしょうか?(eg. Aiyagari[1994, Restud]。一方で、このクラスのモデルでも、「平均賃金」は「平均生産性」によって決まる)
Representative agent を仮定するごくごく標準的なマクロ経済学に普段から慣れ親しんでいる人間からすると、山形氏の意見のほうがしっくりくるものだと思います。
要は、お二人の議論がかみ合っていないような印象を受けるのですが。
池田 = 国内の賃金格差(=Heterogeneity)を考慮したモデル
山形 = Representative agent economy 同士の多国間モデル
かみ合う、かみ合わない
以前の問題ではないでしょうか?
山形氏の意見がしっくりくるという方は
池田氏が指摘された
A. 個々の賃金水準は個々の生産性で決まるん
じゃない
B. 個々の賃金水準は個々の生産性で(ある程度)
決まる
という上記2つの矛盾した口上をつなげて説明
してください。
私は経済のど素人で、経済Ⅰも読んでませんが、
・山形氏の議論が矛盾している
・山形氏は矛盾を抱えたまま、外国の経済学者に
まで動因して正当性を主張しようとした
・誰もその矛盾を解決・認めて訂正等することなく
「こう読めばいいんじゃない?」
「文脈の前後をみればあきらかだ」など
擁護または論点違いにもっていこうとする
上記の行為を赤字の命題でアルファブロガーに
やられてしまうと、大部分の読者である、
時間かけても命題を理解しようと努めている
私のようなど素人が揃って間違った認識をもちます。
私を含めた多くの読者の勉強不足という指摘は
甘んじて受けますが、多くの人に影響を与える
山形氏のような論客が自分の提示した命題の
矛盾に対して責任をとっていないことが今回の
問題なのではないでしょうか。
論理矛盾もさることながら、倫理崩壊のほうが
非難の対象ではないかと。そしてそれを
「そんなことはない、倫理も問題ない」と
説明できないのなら山形氏は擁護に値しないはず。
異質性
たしかに労働が同質的で、資本も可塑的だと仮定すれば、労働移動によってすべての企業で賃金が同一になります。この場合は「平均」という言葉も意味がなく、労働生産性によって賃金は一意的に決まります。これが私もいっている「パテ」理論です(松尾氏の話もこれ)。これはこれとして、近似的に意味はあると思います。この立場からみると、賃金格差の原因は国内の労働市場の不完全性(異質性)ということになりますね。
その意味では、「賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない・・・」という最初の命題がどうしようもなくミスリーディングでした。ここでは、プログラマやウェイトレスなど、労働の異質性を前提にしているのに、それが「平均」で決まるという話をしたから、突っ込まれると、わけがわからなくなった。整理すると、こういうことです。
・労働が均質で完全に移動できるモデルでは、国内の賃金は全産業で均等化するので、賃金は国ごとの生産性だけで決まる
・しかし労働市場に異質性があると、各産業ごとの賃金格差が生じる
この場合も、最終財の市場で技術移転が行なわれれば、要素価格は均等化するので、二国間の賃金格差はなくなります。つまり、こういうモデルは、国内で労働が同質的で完全に移動すると仮定すると同時に、国際間では労働が異質的で、技術がまったく移転しないとアドホックに仮定しているわけです。
いまグローバル化で問題になっている変化は、国内の異質性が残ったまま、国際間の同質化が進んで要素価格が均等化するという変化だから、このモデルは日本経済の問題を考えるには、あまり役に立たないと思います。松尾モデルをベンチマークにすると、その限界がわかりやすいですね。
池田先生が最初の記事を誤読したとかいう意見が一部に転がってるけど、山形先生の文章のこの部分が
>>あなたの給料が高いのは、社会全体の平均的な生産性が圧倒的に日本のほうが高いからだ。そしてそれを引き上げているのは何だろう。床屋でも官僚でも管理職でもプログラマでもない。トヨタが、松下が、帝人が、すさまじい大量生産によってすさまじい生産性を実現しているからだ。こういうところの工場労働者たちは、後進国に比べて一人あたり数十万倍以上の生産性を実現している。スリランカの労働者は、車(たとえばオートリキシャのボディだけでも)を作るのに一週間以上かかる。だって手で板金を曲げて、パイプを溶接して、屋根つけて、塗装して……というのをやるんだもん。日本では、たぶん、平均で見ると工場の労働者一人あたり二、三分に一台くらいで車が生産できる。ほとんどすべてオートメーションの工場だもんね。
もしスリランカに超能力で1秒に車を1000台作る人間がいても社会全体の給料があがるようにしか読めない俺は文盲なんですね、本当にありがとうございました。
山形先生の生産性って言葉の使い方がアクロバッチックすぎて、僕にはウルトラE難度の日本語でした。
命題の前半
”賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない。”(命題の前半)
この部分を松尾氏は「ある産業での国際的な所得格差は、その産業の国際的な生産性格差に起因するものではない」と解釈した。私を含め、そう解釈した人は山形氏の意見に納得する。
山形氏のブログを読み返してみると、その命題が書いてある章の題名は”生産性の国際比較 サービス業は世界的に大差ありませんわよ”とある。
この章で取り扱われているのは、さまざまな産業の国際比較であり、その結論として”賃金は、・・・”とある訳だから、「(ある産業での国際的な)賃金(
格差)は、・・・」との解釈が自然なような気がします。
問題の本質
他のブログ上でトラックバック付きで私のコメントが批判されていたが、確かに人格批判的なコメントは好ましくなかったと思います。
# 池田氏においても、明らかに罵詈の類は掲載してほしくなかったところです。
ただし、トラックバック元や周辺ブログを読んで、批判の思いがさらに強くなりました。
私の考える問題の本質は以下の通りです。
a. 論理構成や表現手法が支離滅裂であること
b. aについて誤りを正すという姿勢がないこと
c. 他人の反論の正しい部分を受け入れられないこと
d. b、cが相まって、人格批判、陣営批判に訴えること
e. dの逆に人格、陣営を擁護するために曲解や付け足し、論点ずらしを行うこと
f. 影響力をもって(あるいは相互扶助をもって)a-eの姿勢を伝播させること
嘆かわしいのは、上記a-eがあたかも「知的人間のあるべき姿」のように伝染していっていることです。
私は池田氏がすべからく正しいとは考えていませんが、少なくとも他人から間違いを指摘されて正したり、対立陣営(この流れでは小飼氏など)の主張が正しい場合は「正しい」と認めたりという姿勢を見せている部分があることは確かでしょう。
話は変わりますが、上記コメントの流れでのコメントです。
そもそも、ことの発端はY氏の「ゴッドランドの経済学」なるエントリから発展しており、そこでは明らかに「同一集団内の多様な生産性の分布の必要性」を訴えています。
その流れから見れば、氏の「国際的な格差」の比喩は多様な生産性が分布する社会とそうでない社会とを比較し、「同一集団内の多様な生産性の分布の必要性」という主張を補強しようとしたものと読み取るのが自然でしょう。
それが、何故か、いつのまにか、氏が「国際的な格差」を主眼に論理展開しているという話になっているように見受けられます。
結局、一連の流れを俯瞰した上で、「赤字太文字」のような表現の強弱を加味して、「当たり前に」読解できる能力があるか否かに、分水嶺があるように見受けられます。
はじめまして
下記ブログのコメント欄に説明を書いたら、池田先生のブログに書けとの意見があったので、とりあえずお知らせしておきます。
私自身はもともと誰を責めるつもりもありませんが。
http://d.hatena.ne.jp/Gim/20070219#c
こぴぺですが
hamachan 濱口桂一郎 政策研究大学院大学教授
EU労働法政策雑記帳
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_b2df.html
>そういう話を不用意な設定で議論しようとするから、某開発経済実務家の方も、
>某テレビ局出身情報経済専門家の方も、へんちくりんな方向に迷走していくんだ
>と思うのですよ。
>だけど、それをマクロな国民経済に不用意に持ち込むと、今回の山形さんや池田
>さんのようなお馬鹿な騒ぎを引き起こす原因になる。マクロ経済において意味を
>持つ「生産性」とは値段で計った価値生産性以外にはあり得ない。
構造改革ってなあに?
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_b2d6.html
Re:はじめまして
どうも。本人からのコメント恐縮です。
>松尾匡です。私のエッセーのモデルは国内労働移動が完
>全なので、一国内の労働所得が産業部門によらず均等に
>なり、全体で見ても個別部門で見ても当然話は変わりま
>せん。他方、部門間労働移動が不完全な場合には、各市
>場の需給状態に依存して、産業間所得格差は生じます。
これは私が本文の追記で書いたことと同じですね。私も最初に、現実の賃金格差を決めているのは「不完全競争」だと書いています。これを
>これが山形語の「社会の平均的な生産性で決まる」の
>意味であり、賃金決定の限界生産力説とも両立してい
>るし、マネタリーに読めば貿易財のPPP説になっている
と解釈するかどうかは、日本語の問題です。通常の経済学の論文で、こんな表現をすることはありえない。松尾さん自身も認めるように、平均生産性では「産業間所得格差」は説明できないんだから。
逆に、素人向けに解説するなら、「平均生産性」なんてむずかしげな説明は必要なく、「製造業の稼ぎのおかげで日本人はみんな豊かになってるんだ」という実感的にも当たり前の話でしょ。だから、「はてなブックマーク」なんかに群れてるバカな素人が「山形は正しい」「池田は誤読している」とか騒いでるわけです。
しかし何度もいうように、これこそ錯覚なんですよ。いくら製造業が強くても、中国への技術移転が進めば、要素価格均等化の影響は避けられない。今は影響が出ていないが、それに備えて没落する重厚長大産業をいかに早く撤収し、人材を再訓練・移転するかということが、産業政策として最大のテーマだと思います。
資本と労働…
> いくら製造業が強くても、中国への技術移転が進めば、
でも、株を持ってれば。というか、資本家としての日本人には…
ま、それは労働分配率が…、ということでありまして
>重厚長大産業をいかに早く撤収し、人材を再訓練・移転する
とは言え、こちらの問題が解消する訳ではありませんが…
もしも池田氏がアルファブロガーでなければ、こんな騒ぎにならなかったでしょう。
もし山形氏が著名人でなければこんな騒ぎにはならなかったでしょう。
つまり、池田氏や山形氏が知名度があるからこんな騒ぎになってしまったわけで、逆に言えば、それはお二方の知名度の凄さを物語っているわけです。
膨大な数の観客がいますから、各分野の専門家から批判されることもあるでしょうし、大変だとは思いますが、池田氏のブログを楽しみにしている人は決して少なくないということはお伝えしておきたいと思います。
他の先進国の対処方法
池田先生、はじめまして
ひとつわからないことがあるのでお教えいただけないでしょうか。
>いくら製造業が強くても、中国への技術移転が進めば、要素価格均等化の影響は避けられない。
これは当然日本だけの問題ではないわけですがほかの先進国はどうやってこの問題に対処しているのでしょうか?
そのとおり
>しかし何度もいうように、これこそ錯覚なんですよ。いくら製造業が強くても、中国への技術移転が進めば、要素価格均等化の影響は避けられない。今は影響が出ていないが、それに備えて没落する重厚長大産業をいかに早く撤収し、人材を再訓練・移転するかということが、産業政策として最大のテーマだと思います。
製造業は国際競争にさらされる以上、賃金は上がりにくい。むしろ非正規の増加で賃金が下がってもおかしくない。
自民党のような製造業至上主義は、終わりにして、枝野が唱えてるように、サービス業や国内の付加価値の高い産業に人材や資金を移転したほうがいい。
製造業にしがみつく、政治家や経営者はもはや不要。
平均生産性と賃金
>す様
参考までにお聞きしたいのですが,平均生産性が賃金を決定するというのはどの論文を読めばわかりやすいのでしょうか?私はマクロや国際経済には疎いのでご教示頂ければ幸いです.
そこまでおっしゃるのなら論理の問題として(因果律とモデル)
自分としては「揚げ足取り」ということで
まとめるのが池田信夫先生にとっても得策ではないかと思います。
それでも「論理の問題だ」と頑なに言われるなら、
ちょっと言葉遊びをさせてください(笑)。
問題となっているのは以下の記述です。
> 賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない。
> その社会の平均的な生産性で決まるんだ。
一般に、
<AがBによって決まる>というのは二つの意味があって、
「AはBの要素だけで完全に決まる」(1)
「AはBの影響を受けている」(2)
という二つの解釈ができるでしょう。
一方この否定としては、
<AがBによって決まるんじゃない>という主張があります。
「AはBの要素だけで完全に決まるわけではない」(1')
「AはBの影響を受けていない」(2')
という解釈ができます。
山形氏の「赤いデカ文字で強調した部分」は、
本人の意図としては一つ目が(1')で、二つ目が(2)です。
ところが、池田氏は、
一つ目を(2')と解釈したわけです。
池田氏のように解釈にも一理あります
というのも、一つの文の中で
(1')と(2)が共存しているのはおかしいとも言えるからです。
しかし、こう解釈したらおかしいのは明らかです。
というのも、経済に限らず科学的な分析において、
(1)や(2')の主張がありえないのは明確だからです。
このことが分かっていれば、
山形氏の文章は、(1')+(2)としか読めません。
たしかに日本語として分かりづらい面はありますが、
社会科学における因果律がどういうものか分かっていれば、
曖昧な点はないのです。
したがって、池田氏の解釈は
批判のための恣意的な解釈に過ぎないとまで言えます。
そういう意味では山形氏は常識的な議論をしているわけで、
問題ないと言うこともできるでしょう。
これに対してどうお答えになるでしょうか?
ちなみに、大きな視点でとらえたとき、
(1)と(2)の議論が混同されてしまうのは、
「遺伝子 vs 学習(氏か育ち)」論争と同じ、
「因果律とモデル」の問題だというのは、
すでに何度も申し上げていることです。
詳しくはリンク先を参照してください。
しつこいな
「AはBの影響を受けていない」という命題は、いくらでもあります。たとえば私の賃金は、アフガニスタンのウェイトレスの生産性の影響を受けていない。あなたの勝手な「空気嫁」解釈を他人に押しつけるのはやめてください。
致命的な問題は否定形の解釈ではなく、「賃金」の意味についての山形氏の説明が個人の賃金だったり平均賃金だったりすることです。私は、あなたのブログなんか読んでいないし、読む気もない。ナンセンスな話を何度も投稿するのはやめてください。
理解不能ですな
>ここでは労働者は同質で完全に移動すると仮定しているので、
労働者が完全に移動するって、今の世の中にどこでもドアがあるんですか?
超遅コメント
> 一般に、
> <AがBによって決まる>というのは二つの意味があって、
> 「AはBの要素だけで完全に決まる」(1)
> 「AはBの影響を受けている」(2)
> という二つの解釈ができるでしょう。
書いていますが、もう一つ、というか(2)の変化系ですが、AはCよりもBの影響を強く受ける、という強調の意味を込めて発せられることもあり、私の読んだ限りでは当該の山形氏の発言は、この3つ目の強調で意味で書かれたのではないかと感じました。
つまり、大まかな構図として、社会問題を経済学の立場から強くコミットとしていこうとしている池田さんから見て、現状の追認に終始する山形氏の傍観主義的な匂いに苛立ち、さらに格好の開戦の口実となる文言(賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ。)を発見するに至り、その苛立ちを爆発させた、ということだったのではないかと。
私にはよく分かりませんが、恐らく論争の発端となった山形氏の記事のような物言いでは、既得権益に浴する人がより蔓延ることに貢献するのではないですか?
かなり前に山形氏のウェブを読んでいた時にイライラした経験から推察しているだけで、明確な根拠はありませんが。
私には、お二人のこの論争における経済認識に本質的な違いを見い出せません。
AはBとCの影響を受けると、お二人とも言っているわけですから(そう言っているようにしか思えない)。
経済学的な本質よりも、まず論争の出発点に立ち返り、池田さんがご自分で何をどう感じて彼に戦いを挑んだのかを、なるべく詳しく思い返してみるべきだと思います。
社会を正しい方向へ導こうとする者にとって、自身への冷厳な観察と制御のスキルは、必要条件であるはずです。
論争へのコメント
2年も前のポストに、いまごろコメントをすること、お許しください。
賃金水準は、なにが決めるか。国ごとの賃金格差は大きなものです。4月になって国際貿易論を始めるに当たって、いまどういう議論がされているか、WEB上で調べていたら、「山形・池田論争」というものにぶつかりました。
2009年度の第1回目の講義では、こういう議論がWEB上であったということをまずは紹介して、考える手ががりにしてもらえればと思っています。その意味で、「山形・池田論争」に謝謝!です。
経済学のかなり根本的な論点が、blog間の論争になったということで、日本のblogの水準も大分上がってきたという印象をもちました。こういう論争は、もっとあってもいいと思います。そういう中から経済学の新しい知見が生まれるようになれば、日本の(日本語による)経済学もようやく本格的といえるでしょう。
論争を蒸し返すつもりはありませんが、ことのついでに、わたしのなりの感想をすこし書いておきます。
国際貿易論にとって「山形・池田論争」がどういうように関連しているかについては、最後の補足注を参照してください。
国別の賃金格差を説明するものとしては、山形浩生さんの説明で大体よいとわたしは思っています。詳しいことは、貿易理論論半期分の講義の内容ですし、とうてい展開できません。(昨年度[2008年度]の国際貿易論の概要は、 国際貿易論2008年度に掲示してありますが、添数などの処理がないので読みにくいことお断りしておきます。)
池田信夫さんの説明は、価格体系が存在して、その上で限界生産性が個人の仕事の成果として、かなり正確に計測できる場合はよいのでしょうが、それ以外の場合は「限界生産性」という概念自体がかなり曖昧あるいは定義困難なものだと考えます。
小飼弾さんの、新説「賃金水準は、生産性で決まるんじゃない。社会の消費性で決まるんだ。」というのは、賃金水準の決定法則としてはなく、生産性の定義としては、重要なところを突いているとおもいます。
小飼さんのblogへのコメントの中でosakaecoさんが、わたしの古い論文「スラッファと不況の理論」(1978)に言及してくれています。この中でわたしは「生産性」という言葉は使っていないとおもいますが、この論文の批判の対象は「限界原理」でした。
不況になれば、社会の需要が減少し、ここの企業に振り向けられる需要も一般には減少ます。そうなると操業率が下がらざるをえず、労働を雇用労働人数で計れば、労働生産性は減少します(経営者が労働時間を完全に伸縮させることができるならば、労働生産性は変わりませんが、少なくとも一人当たりの1月あたり産出額/付加価値額は減少します)。
この意味で、生産性を左右する非常に大きな要因が需要です。小飼さんのいう「消費」は、定義を見ると「貯蓄も消費に含めている。お金の行き先を決める行為は、すべて消費ということにしている。」ということですから、普通の意味の需要/有効需要です。そうすると、子飼さんの主張は「不況期に生産性を決める最重要な要因は、有効需要の大きさである」ということを言っていることになりくます。わたしの立場からは大変正しい、重要な主張です。
なお、ついでに言っておけば(熱心な支持者たちからの反論必死ですが)Prescotらの実物景気循環論(Real Business Cycle Theory)で、不況期(のとくにその初期)に生産性が落ちるのは当然のことです。これを実物景気循環論は、生産性の変動という技術ショックによって景気循環が起こるといいますが、少なくともこの関係についていえば、因果関係は逆でしょう。
補足注:
国際貿易論は、ふつう貿易パタンとか貿易収支を研究する分野と考えられていますが、この理論のもっと重要な役割は、なぜ国によって実質所得水準≒賃金賃金水準に大きな差がでるかを説明/解明することだと、わたしは考えます。
この意味で国際貿易論を分けますと、基本的には ①リカード・スラッファ型貿易理論と ②ヘクシャー・オリーン・サミュエルソン型貿易理論(HOS理論) の二つしかありません。
1970年代以降、山形さんの先生でもあるKrugmanなどが、貿易理論に収穫逓増を持ち込んで、産業内貿易の理論を作った(新貿易論)。1990年代以降は、アウト・ソーシングや中間財貿易の理論が発展してきた(新新貿易理論)。という状況がありますが、新貿易論も新新貿易論も、部分理論で、各国の賃金水準がどう決まるかを理解するような枠組みにはなっていません。
大学では、ふつう、①のリカード理論にちょっと触れて、そのあと②のHOS理論がより近代的な理論として紹介されています。なぜ、リカードでは不十分かというと、そこでは労働投入しか想定されていないからです。しかし、現在では、わたしの論文が示すように、任意の国の数、任意の財の数、同一財に関する複数の技術とその選択を許す場合に、リカード型理論(正確にはリカード・スラッファ型理論)が開発されています。
Shizoawa, Y. 2007 "A New Construction of Ricardian Trade Theory?A Many-country, Many-commodity Case with Intermediate Goods and Choice of Production Techniques?" Evolutionary and Instituionary Economics Review 3(2): 141-187.
二つのうち、どちらがより現実に近いかというと、この判定はなかなか難しい事情がありますが、クルーグマン&オブズフェルト『国際経済』Ⅰ国際貿易(第3版) p.106に言及されているように「純粋なヘクシャー=オリーン・モデルについてはいまのころ経験的に強い反証が存在」します。
しかし、重要なのは、二つの理論の分配ないし実質賃金水準の決定に関する結論部分です。
①は、各国は異なる技術水準をもち、(一部、需要構成に左右されるものの)基本的には技術格差が各国の賃金率の差を形成する、と考えます。もちろん、2国の技術体系が近似してくれば、両国の賃金率は接近します。
②は、標準理論では、各国の技術水準は同じ(各国の生産関数は同じ)と考え、貿易は各国における生産要素の存在比率の差から生ずる。この差異があまり大きくない状況では、各国の生産要素の価格(簡単にいうと、資本利子率と賃金率)とは、[貿易前には大きな差異があるが]貿易を通して均等化される、と結論が従います。生産関数が国ごとに異なる理論は論理的には考えられ、均衡の存在などはいえるでしょうが、ほとんど分析は不可能になります。
1990年ごろの一時期、ベトナムと日本とでは、ドル換算の名目所得水準で約70倍の差がありました。このような差を②HOS理論は、到底、説明するものではありません。わたしは理論的には、経験的証拠の点でも、政策含意において、現実的にも、①のリカード・スラッファ型貿易理論の方が勝っていると思っています。
Re: 論争へのコメント
これはこれは。塩沢さんには、学生時代に青木昌彦氏の研究室で何度かお目にかかったことがあります。
それはともかく、山形氏の一連の記事は互いに矛盾しているので、論理的に一貫した「山形さんの説明」というのは存在しません。彼は最初に限界生産力説を否定するかのような話をしながら、途中で「それも少しはきいている」という話にすり替わり、最後は「平均生産性で平均賃金が決まる」というトートロジーに終わっています。
それを別にすると、おっしゃるように限界生産力で賃金が決まるという説は実証的に検証されていません。その説明としては多くの理論がありますが、塩沢さんのモデルもその一つなのでしょう。私は国際経済学が専門でもないので、それが正しいかどうかは判断できませんが、この記事を教材にすることはおすすめできません(笑)
混乱しているところに価値がある
日曜日というのに、さっそくコメントを返してくださり、恐縮です。
自分で考えてもらうのが目的ですから、いろいろ議論が紛糾しているのが「教材」としてよても良いのです。議題も今日的ですし。