≪talker - You≫



きっと、兎太は覚えてないだろうけど。
辰己も覚えてないだろうけど。
幼稚園の頃、2人は決して仲が良い訳ではなかった。





教室中に、何とも子供らしい耳障りな泣き声が響いた。
突然の騒音に驚いて、部屋の隅の読書スペースで絵本を読んでいたおれは、思わず顔を上げてしまう。
幼い頭脳じゃ、今まで読んでいた絵本の内容さえ吹っ飛んでしまった。
そのくらいの、泣き声だった。

顔を上げると視界に入ったのは、
教室の真ん中で泣きじゃくる兎太と、
その横であからさまに不機嫌そうに頬を膨らます辰己と、
そんな2人を見て、深くため息をつく、年長クラスの日午だった。

…何故あのとき、彼が年中クラスに居たのかはよく分からない。



「何があったんだ?」

「…辰己がぶった…。」

「何でぶったんだ?」

「兎太がナマイキ言うから。」

「生意気?」

「だって、辰己が僕の絵見て笑ったんだもん…っ。」

「―――何で笑ったんだ。」

「すっげー下手だから。」

「……。」

「…。」



辰己のあまりに正直すぎる発言に、兎太も日午も一瞬言葉を無くす。

しかし、次の瞬間。

兎太は一層涙を零して、
日午は一層深く、ため息をついた。



「辰己、お前が悪い。」

「何でだ!」



何でって…。

―――とりあえず、あんまり見ていて巻き込まれるのも嫌だ。

そう考えて、視線をまた絵本に戻す。
予想通り、どこまで読んだか忘れてしまったおれは、また最初のページに戻って読み返すことにした。

別にこの頃の年齢向けの絵本なんて、ストーリー性はかなり大雑把なんだから、その続きから読み始めても何の支障もなかったのだろうけど。
中途半端は、好きじゃない。
そういう性格なんだから、仕方ない。

もう一度読み返して、
ただ読み返すだけではなんだから、
ぼんやりと絵の細かいところまで観察してみて、

そんなとき。



「何、読んでるの?」



「……。」



声を掛けられ、再び顔を上げる。



「絵本?」



そこには先ほどまで泣きじゃくってたとは思えないほど、
呑気な顔で小首を傾げる兎太の姿があった。

―――本を読んでいる相手に話し掛けて来るとは、何ともマイペースな奴だな。

そんなことを思いつつ、口で言うのも面倒だったので本を閉じて表紙を見せる。
それを見て、兎太はその表情のまま、僕もその本好き、と楽しそうに笑った。

いや、好きとか嫌いとか、そういう話じゃなくて。
―――何でおれは、今このとき兎太に話し掛けられたんだろうか。



「2人は?」

「ふたり?」

「辰己と日午、一緒だったよな?」

「辰己は、どっか行っちゃった。」

「…日午は?」

「辰己、追いかけて行っちゃった。」



―――どうやら辰己は、日午の説教から逃げ出したようだ。

それで、



「…何だ…?」

「え?」



何で兎太は、まだここに留まっているのだろうか。



「2人を、追いかけないのか?」

「んー…。」



俯いて、うなって。
それから兎太は、何故か俺の隣に腰を下ろした。

どうやら、2人を追いかけるつもりはないらしい。



「辰己がね、」

「?」

「何か、怒るとすぐに殴るんだ。」

「……そのようだな。」

「僕が泣くと、日午は怒るし…。」

「辰己をな。」

「…うん…だから、」

「?」

「ここで、待ってる…。」

「―――怖いのか?」

「…うん、怖い。」

「…。」

「でも、それより―――」

「…?」

「―――何か…ザワザワするのが、嫌い。」

「…………。」



俺の隣にしゃがみこんで、顔を隠すように膝を抱え込んでいる。
当然のことだが、その姿勢は兎太の表情まで隠してしまっていて。



「……ざわざわ…?」

「うん…。」

「…。」

「何かね、スゴイ……いやなんだ…。」

「―――……。」



俺は結局、何も言えなくて。

しかし、読書を再開することも出来ず。
ずっと膝の上に置きっぱなしだった絵本を、とりあえず棚に戻したりした。

棚に収めた絵本の背表紙にを題字をなぞる様に指で撫でて。

ふと、そのまま黙ってしまった兎太に視線を落とす。
兎太は相変わらず、膝に額を押し付けるような姿勢のままだった。

何かをこらえようとしているのだろうか。
足に添えられた手には何故か力が込められていて、指先が白く変色し、腕は弱く震えている。

そんな風にしたら、痕が残る。
そう、歳の割りに冷静に判断した俺は、とりあえず兎太の手首をつかんで、無理やりその姿勢を壊す。

てっきり泣いているのかと思っていたが、それは間違いだったらしい。
兎太は無表情ではないのに、何も感情が感じ取れない不思議な表情で、俺のことを見上げていた。

その目が、あまりに赤くて。



「ホントはね、」

「…?」



その目に見とれるように何も言えなかった、その沈黙に、兎太が口を開く。
別に何か言いたい事があって彼の腕をつかんだ訳ではないので、話すというなら聞こう、と耳を傾けた。



「殴られる、ときにね…辰己の目にね、僕の顔が映るんだ…。」

それはまあ、当然だろうな。

「そのね…僕の、顔が―――」

「………嫌なのか?」

「…うん…。」

「―――、」

「何か…スゴイ、怖い顔してるんだよ。」

「………。」



イマイチ、よく分からないが。

さっきの喧嘩で、まだ気が動転してて言葉が上手くないのかも知れない。

とりあえず落ち着かせてみるか、と彼の両腕を離して、泣いた子供をあやすようにその背中を撫でてみた。

兎太は相変わらずの表情のまま、ぼんやりと、されるがままにしている。



「……。」



本当、彼は何を考えているのだろうか。

何を思っているのだろうか。

何を感じたのだろうか。

何を、



「……。」



―――何を、抱えているのだろうか。



思えば俺は、彼が『庄治 兎太』という名前であること意外は、彼のことを何も知らない。

そんな当たり前の事実に、今更ながら気が付いて。

彼に触れる手の平が、少しだけ強張ってしまった。



何を、しているんだろう。



「―――…、」



ああ、きっと。

きっと、彼なんかより。



「ね、」

「……?」

「また、逃げてきても良い…?」

「―――…、」



兎太よりきっと、俺の方が。

あの騒がしさに、何かを奪われてしまったんだ。

だって俺は、さっき、あんなにも。

巻き込まれるのはゴメンだと、心の底から思っていたのに。



「…ああ、」



―――気が付くと俺は、そう一回だけ頷いて。

手の平にこもった強張りを無理やりといてでも、彼の背中を撫でていた。












そのまま、しばらく経って。

あまりに静か過ぎると背を撫でながらもこっそり兎太の表情を覗き込んでみると、
彼は膝を抱え込んだまま眠ってしまっていた。
そのことに、その表情に、何故か安心して。

とりあえずしばらく起きそうも無いから、先生にタオルケットでも貰ってこようと廊下に出た。

今日は良い天気で、暖かいからか。

他の奴らはきっと、外で騒がしくはしゃいでいるのだろう。
教室の北側にある廊下は、少し暗くて冷えてて、ただ静かで。
別にそういう雰囲気に恐怖心を抱くことは無いけども。



―――物音がした。



次に、人の気配。

別にここは廊下なんだから、自分以外の誰かが居ても不思議なことなど何一つ無いのに。
何故か、気になって。

差し掛かった角で、視線が自然に物音がした方を向いた。



「―――……、」



そこに立っていたのは、何故か辰己だった。

いまだに日午から逃げ回っているのだろうと考えていた俺は、少しだけ驚いて。
いったいこんな廊下で立ち尽くして、何をしているのだろうと、目を凝らす。

辰己の視線の先は、廊下の掲示板。
そこには先日の絵を描く時間に描かされた作品が、全員分張り出されていた。

全員分ともなれば、その枚数は百に近い。
それほどの数が、一面に張り出されているのに。



「へったくそな絵。」



彼が見詰めるその先にあるのは、たった一枚だけ。

他の物には、―――自分の物にだって、目もくれない。



「ホント、」



それなのに、ブツブツその絵に文句をつけて。



「―――へったくそ。」



それなのに、そんな風に。
普段の彼からは想像できないくらい、優しく顔を綻ばすから。

―――何だ、そういうことか。



「…辰己、」



そう、否が応でも理解してしまった。



「…わっ、何だ。羊かよ。」

「うまく逃げれたんだな。」

「おー、まあな!……って、何でお前知ってんだ?」



あの時俺も、あの場所に居たんだ。
お前にはきっと、見えてなかったんだろうけど。



「兎太が、教室で寝てるんだ。」

「え、ホントか?」

「ああ。」

「―――兎太、ホントよく寝るな…。せんせーに布団借りてくるかー。」

「……。」



言って、辰己は先生たちが居る部屋の方に歩き出す。

本当は、

兎太が教室で寝ていて、しばらく起きそうも無いから、タオルケットでも借りてきてやったらどうだと、伝えるつもりだったのに。

その半分も口にしないうちに動き出す辰己の行動が、何だかおかしくて。
少しだけ、笑ってしまった。



「せんせー、布団貸してくれー。」

「あら、また兎太くんおねんね?」

「おー。」



この廊下が、あまりに暗く、冷えて、静かだからか。

遠くから、辰己と先生が話している声が響いてくる。



兎太が、



兎太が、俺のところに逃げたいというのなら拒まないし、

絵本を読んでやっても、一緒に遊ぶも断りはしない。

助けてほしいというなら助けても良い。



でも、それは一番最後に、だ。



辰己に近づけなくなって、

日午に頼れなくなって、

先生も家族も、他の誰も居なくなってしまったなら。



俺が、助けてあげるよ。



そのときまで、俺はお前好みの静寂で居よう。

お前が俺を逃げ場所に使おうとしても、

本当は、お前に俺は必要ないのだから。



ぼんやりと。
そんな考えを心に滲ませた。





なのに、



―――あの幼稚園が、兎太の瞳のように赤い赤い炎に包まれたのは、
それから確か、一ヵ月後のことだった。




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アップが随分遅くなってしまいました…申し訳ないです。
ETOハスタ、生き残り組小説(笑)最後の1人の羊小説、読んでくださりありがとうございます。
時間軸は、兎太たちが幼稚園だったころの話です。
ホントはこの前段階で、兎太は羊を好意的に思っていて、仲良くしたいなーって思ってましたって小説を書こうとして断念しました。
小説は、難しいです。
この後、何だかんだで2人は仲良くなって『薬指の約束』まで辿り着く訳です。

ETO全シリーズプレイ、ありがとうございました!