ずーっと前の投稿で、1990年3月に大蔵省が金融機関に出した「総量規制」通達に関して、この通達を出した当時の大蔵省銀行局長、土田正顕氏を批判する内容のことを書きました。
しかし、竹森俊平氏の『世界デフレは三度来る』という本には、次のように書かれています。
“…「総量規制」は橋本蔵相や海部首相が、当時の土田正顕大蔵省銀行局長の反対を押し切って強行したものだった。
「僕(中井省大蔵省銀行局調査課長)の上司だった土田正顕さんは、実は総量規制に反対だった。ところが、橋本大蔵大臣に呼ばれて『総量規制をやれと、日本中が悲鳴をあげている。お前何とかやれ』と直接言われ、それでも渋っていると海部俊樹総理に官邸に呼ばれて『やれ』と強く指示された。大蔵大臣と総理に直接言われたのではやらざるを得なかった。バブルが潰れた後、『潰したのは土田正顕』というのが定説になってしまっているので、あえて擁護しておきます。」”
そうだったのか!この記述が正しいとすれば、「総量規制」を直接指示したのは、橋本蔵相と海部総理だったんですね。土田氏を一方的に非難してしまい、正直、すまんかった。
竹森氏の著作によれば、橋本龍太郎氏の政策は、日本経済を崩壊に導いていきます。
“念のために確認するが、政府側が取ったバブル潰し策である「総量規制」を実行したのは、橋本龍太郎である。
(…)わが国の悲惨な「失われた一〇年」の経験を振り返れば、橋本が「改革者」の顔と同時に、あまりよろしからぬ、もうひとつの顔を持つことも認めざるを得ない。それは「疫病神」の顔である。一九九一年以降の、実際にはすでに一〇年を超える「失われた一〇年」には、とくに目立った危機のない「停滞」の時期の合間に、いくつかの「大崩れ」のエピソードが挟まれている。その「大崩れ」のエピソードでは、必ずと言ってよいほど、蔵相や総理といった経済政策についての最も指導的なポジションに、橋本龍太郎が登場する。そしてことごとに日本経済を悪い方向に追い込む。その第一回目が一九九〇年である。前年の八月、橋本は大蔵大臣として登場し、負の資産効果を生ぜしめ、不動産市場を非流動化することによって不良債権問題を泥沼に追い込んだ、不動産関連融資の「総量規制」を導入する。
やがて橋本は、一九九六年一月に総理大臣に就任する。その時に、橋本自身の「政治生命」を終わらせることにもつながる、第二回目の政策的な失敗を犯す。すなわち一九九七年における、「消費税の増税」、「特別減税の廃止」、「医療費負担の増加」からなる九兆円規模の増税策である。これで景気の腰を折られた日本経済は、その後さらに十一月三日の三洋証券の破綻を皮切りに、十一月十七日、二十四日と、北海道拓殖銀行、山一證券という大手金融機関が立て続けに経営破綻するという金融危機が発生したために、久々のマイナス成長に落ち込む。
(…)「大崩れ」につながったわけではないが、長期デフレからの脱却の妨げとなった橋本の第三番目の政策的な失敗として、一九九八年三月の速水優日銀総裁の任命を挙げたい。こうして、九〇年代の日本経済にとり大事な節目の時期には橋本が現れ、毎回、誤った選択をする。(…)この人物に政治家としての優れた資質があることは間違いないが、その一方で、景況感や経済メカニズムの認識が絶望的に欠けている。一九九〇年の金融危機の最中における蔵相としての「総量規制」の導入や、一九九七年の金融危機の最中における、首相としての「大増税」の強行といった行動に一貫しているのは、金融危機が実体経済の足を引っ張る経済メカニズムについての認識不足である。”
まさに凄まじい「疫病神」ですね。こういう経済のことを何も理解していないずぶの素人が、世界第二の経済大国の蔵相と首相を務めることができたというのも驚きですし、日本の大きな悲劇でもあります。
もちろん、こういう人をそういう地位に押し上げたのは、(間接的にではあるにせよ)国民なわけで、まあ、文句は言えませんが…。
そういえば橋本龍太郎氏は、たしか「加藤の乱」のときに、「加藤は熱いフライパンの上でネコ踊りさせておけばいい」というような下品な言葉を吐いた人物ですね。この人には、自分の無能さが日本経済を崩壊に導いてしまったという自覚はあったのでしょうか?