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| 終戦直前、満州からの引き揚げを短歌と文章で綴る。 |
満州の思い出 1
一九四一年二月、満州の東北部に位置する林口という街で私は生まれました。日本海軍の機動部隊が真珠湾攻撃をする丁度十ヶ月前です。当時、父は満鉄(南満州鉄道)職員で、煉瓦造りの洋館が官舎として与えられていました。極寒の地だけあって、防寒の設備は完璧だったそうです。
冬の生活用水は全部お湯で、部屋中熱湯の配管が施されていました。今のセントラルヒーティングと同様のものです。窓は二重窓で、居間には赤々とペーチカが燃えていました。
外は零下三十度、四十度というのが、この土地の冬の気温ですが、このような設備のお陰で、室内はブラウス一枚でも平気でした。そんな暖かい部屋の中で、幼かった私はゼンマイ仕掛けのネズミのオモチャが恐く、ネジを一杯に巻いて離すと床の上を私めがけて追い掛けてくるのでキャッキャッと言って逃げ回り、ソファーによじ登り、それが動かなくなるのを待っていた微かな記憶があります。このほか、私の記憶では定かでありませんが、母の思い出話によりますと、私は日本の祖父母に送る絵を描いたり、自分の名前が書けたと両親を喜ばせたり、父が私の箱橇を買って来て、それで近くの牧場へ牛乳を買いに行くのが楽しい朝の日課だったそうです。一寸汽車に乗って行くと、ハルピンという美しい街があり、新婚時代の両親は、その街で映画を観たり、美味しい食事をしたり、また松花江(すんがり)での川遊びで『マーチョ(馬車)』という名前をつけた船に乗り、楽しんだということです。
家には満人の男女が通勤で仕事をしてくれていたそうです。小学校も高学年になった頃から、折につけ両親から聞かされた満州の話は、余りにも辛く悲しかっただけに、この一時の幸せが私の幼児体験の一番の宝物で今も色鮮やかに輝いているのです。
【註】 南満州鉄道・・日露戦争後、ポーツマス条約によって我が国が南満州鉄道株式会社を設立(明治四〇年)して経営した鉄道。大連・長春間の本線と幾つかの支線があった。同社は半官半民の組織で、鉄道経営のほか、炭鉱・港湾等の経営、或いは鉄道府属地の行政をも担当した。昭和二十年中国に接収。路線は東支鉄道の部分と併せて、新たに中国長春鉄道の名で総称。満鉄。(新村出・編『広辞苑・第二版』岩波書店)
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