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プロローグ ▽1 捨て身が呼んだ純風 この指止まれ
平成13年4月27日 神奈川新聞
プロローグ ▽2 宿敵
橋本氏がヒント 一本釣り
平成13年4月28日 神奈川新聞
プロローグ ▽3 改革協力なら味方に 多数派工作 平成13年4月29日
神奈川新聞
プロローグ ▽4 派閥限界
あぶり出す 真紀子カード
平成13年4月30日 神奈川新聞
プロローグ ▽5 地方の乱
本丸落とす 予 備 選
平成13年5月1日 神奈川新聞
▼1 反骨の系譜
上 庶民の側に立つ覚悟 平成13年5月14日
神奈川新聞
▼2 反骨の系譜
中 普通選挙実現に全力 平成13年5月15日
神奈川新聞
▼3 反骨の系譜
下 民意反映に心血注ぐ
平成13年5月16日 神奈川新聞
▼4 平和の血 戦争を繰り返さぬ決意
平成13年5月17日 神奈川新聞
▼5 大物市長 「手弁当」で改革実行 平成13年5月18日
神奈川新聞
▼6 人
情 派 無実の罪に一肌脱ぐ
平成13年5月19日 神奈川新聞
▼7 薩摩隼人
上 貧しさゆえの独立心
平成13年5月21日 神奈川新聞
▼8 薩摩隼人
中 故郷への恩を忘れず
平成13年5月22日 神奈川新聞
▼9 薩摩隼人
下 一族のきずな支えに 平成13年5月23日
神奈川新聞
▼10 上州えにし
横須賀に通じる気風 平成13年5月25日
神奈川新聞
▼11 逆境打破
愛と情けの運動具店 平成13年5月26日
神奈川新聞
▼12 脱「よそ者」 地域活動に心血注ぐ 平成13年5月27日
神奈川新聞
▼13 安
保 男 防衛問題に信念示す
平成13年5月28日 神奈川新聞
▼14 献 身
一直線に駆けた人生 平成13年5月30日
神奈川新聞
▼15 暴論は正論
上 「脱」しがらみが道標 平成13年5月31日
神奈川新聞
▼16 暴論は正論
中 育てた人脈と師弟愛
平成13年6月1日 神奈川新聞
▼17 暴論は正論
下 公論に決し 妥協は死 平成13年6月2日
神奈川新聞
プロローグ ▽1 捨て身が呼んだ純風 この指止まれ 
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小泉純一郎の表情は晴れ晴れとしていた。自民党総裁選への出場表明当日(11日)のことだ。党本部4階の会見場に向かう途中、出会った本紙記者に「異動で地元に戻るんだってな」と声を掛けた。
「おれも派閥(森派)を抜ける。これから戻る先といえば議員会館か地元だな。ちょくちょく会えるだろうね」。「首相官邸に入るんじゃないですか」と水を向けられると、「いや、それは難しいかな。でもやるときにはやらないとね」。勝敗を度外視した「捨て身の決意」をのぞかせた。
「本当の本当に派閥には戻らないのですか」。乗り合わせ橋本派の若手議員が小泉の真意を測りかねて問う。「うん戻らない。無派閥ならだれとでも気兼ねなく会える。自立した判断ってやつができる。だから議員会館に遊びにおいでよ」。相手の肩をポンとたたきエレベーターを降りた。
党本部4階はエレベーターホール正面に置かれた松の盆栽を挟み、右が会見場のある記者クラブ、左が党総裁室となっている「見事な松だ」と盆栽の前でしばし立ち止まった後、会見場へ向かおうとする小泉。顔見知りの記者たちが「左(総裁室)ですよ、左」飛ばしたジョークに苦笑い。「いやいや」と眼前で右手を左右に振った。
その翌日は総裁選告示日。エレベーターに乗り合わせた議員ら橋本派の若手4人は「投票する相手は候補者や国民の声を聴き判断するべきだ」と決起。「出馬候補者との対話運動」を起こした。同派会長の橋本龍太郎行改担当相の擁立を上意下達で決めた派閥運営への疑問が背景。派閥を飛び出し、政策本意で有志を募ろうとした「この指止まれ」方式の小泉の行動や「自立した判断」という言葉に触発されたのだ。
若手を抑え込もうとする派幹部の動きに橋本支持の議員さえも怒った。「自立した判断のどこが悪い。行動を起こした人たちを孤立させてはならない」と参加。たった4人の運動は50人あまりに膨らんだ。もはや、派閥にその勢いを抑え込む力はなかった。
一方、地方では神奈川県連が提唱して始まった予備選で「小泉旋風」が吹き荒れる。派閥を軸とした「数合わせ」の永田町論理は、「外」と「内」から木っ端みじんに吹っ飛んだ。
× × ×
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総裁選に選出された24日午後8時、やはり党本部4階でエレベーターを降りた。今度は迷うことなく左へと向かった。警護警察官と記者の一群が入れるのは自動ドアの手前まで。ドア奥の総裁室に入り本紙の単独インタビューに応じた。
地元への利益誘導はしない、ばらまき姿勢があれば党幹部はおろか総理にもかみつく、党内で干されても「これ幸い」と歌舞伎観劇など趣味ざんまい・・・。そんな政界の「一言居士」が頂点に登り詰めたのだ。
その表情には、さすがに疲れがにじんでいた。だが、質問が始まった途端にしゃんとする。構造改革で目指す国家像を「自らを律しょうとする人を増やすこと」と具体的に説明。「甘い援助は気力を奪う」とまで言い切った。国民への甘言は示さず「自助・自立の活力ある社会づくり」という目標を貫く姿勢は不変だった。
× × ×
「本院において小泉純一郎君を内閣総理大臣に指名いたしました」。26日午後1時34分、衆院本会議場に議長の声が響く。拍手の中、立ち上がり頭を下げた小泉の顔は決意に満ち満ちていた。
「自助の精神」と捨て身の戦略で総裁選に臨んだ小泉に「純風」を送ったのは派閥や業界団体など組織ではなく、予備選で示された一人ひとりの「国民の声」だった。
それは小泉に議員会館や地元に帰ることを許さず、「日本政治の中枢」である首相官邸のかぎを託す。小泉がかぎを握り続けられるかどうかは、その手腕へ期待を寄せる「国民の声」の行方次第だ。
◇
祖父・又次郎(逓信相)、父・純也(防衛庁長官)に続き親子三代で代議士を務めた小泉純一郎が県出身者として初の総理の座に就いた。「変革の人」の生い立ちや日本のトップに駆け上がるまでの足取りをたどりながら、総裁選で明らかになった「政治の地殻変動」を追う。(文中敬称略)(政局取材班)平成13年4月27日
神奈川新聞
プロローグ ▽2 宿敵
橋本氏がヒント 一本釣り 
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経済産業相・平沼赳夫(江藤・亀井派)から衆院議員会館の事務所にいる自民党総裁・小泉純一郎へ電話が入ったのは24日深夜のこと。小泉が要請していた党政調会長就任への断りの電話だった。
平沼「派閥の会長(元総務庁長官・江藤隆美)が『おれに事前の相談がない』とカンカンだ」
小泉「うん、いまテレビの中で江藤さんが怒っちゃっている。同時中継だな」
電話を切った小泉は、テレビの横の一人掛けソファに身を沈め熟考した。
「あっそうか」。ハラハラ見守っていた側近に小泉のつぶやきが飛び込んだ。手帳を開き、自分で電話をした先には、総裁選で対決したばかりの経済財政担当相・麻生太郎がいた。
× × ×
今回の人事で小泉が貫いた「一本釣り」は、自民党に衝撃を与えた。
「大学の合格発表を待っているようだ」「昔、入社試験を受けていたころを思い出した」。これまでは「入閣適齢期」とされてきた五期以上の議員たちは議員会館時事務所の電話の前に鎮座、固唾をのんだ。
秘書が電話を使おうとしようものなら「ばか者、回線は開けておけ」、かかってきた電話の主が小泉でないと分かれば「すぐ切れ」とどやしつけた。「電話が話し中だと他の人にポストが行ってしまうかもしれない」という強迫観念だ。
もっともエスカレートした議員ほど電話はかかって来ずじまい。そのあたりの失望を見越した小泉は、27日の就任会見で「がっかりした人を大勢出してしまたが人事の難しさ」とやんわり釈明した。
× × ×
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小泉は「一本釣り」に当たり、従来の慣行である各派閥からの「入閣希望リスト」を受け付けなかった。政策集団「YKK」の盟友・山崎拓、加藤紘一は何とか口頭で意向を伝えたものの二人の派閥からの入閣者は「意向」とは別人だ。
首相が自分の判断で候補を選び、声を掛けるという手法は、派閥の力の源泉である「人事権」を奪う。国民や党員に約束した「派閥解消」は着々と進む。
しかし、こうした「一本釣り」を党内で初めて仕掛けたのは、総裁選のライバルで党内最大派閥・橋本派(旧経世会)の会長・橋本龍太郎だった。第二次組閣(1996年11月)で首相・橋本が厚相として狙った相手。それが小泉だった。
95年9月の総裁選で橋本に敗れ「当面は充電」と思っていた小泉。議員事務所で橋本から「ぼくの一存で入閣してもらいたい。改革に力を貸してくれ」と電話を受けた。しかし、「ぼくに直接ではなく、きちんと派閥(当時は旧三塚派に所属)を通してほしい」と固辞。小泉は結局、派閥経由の従来手続きによって入閣している。
「橋本さんは頭がいい。ライバルをつぶす戦術を心得ている」。このことを振り返るたびに小泉は感心。「ほいほいと派閥素通しで大臣になれば派の幹部のメンツは丸つぶれ。派閥の求心力もなくなる」と解説してみせたものだ。「自分が首相になったら同じような手法をとるのか」との問いに「ムフフ」と笑い、「そうなったら『数は力』の派閥支配は終わりだ」と論評してみせた。
あれから5年。今回の組閣と党人事で、橋本派の党三役入りはゼロ、入閣者は17人中2人どまりだった。同派幹部への相談も承諾もない。旧経世会を誕生以来の危機へと突き落とした小泉流人事。そのヒントは皮肉にも、小泉の宿敵が与えたものだった。(文中敬称略)(政局取材班)平成13年4月28日
神奈川新聞
プロローグ ▽3 改革協力なら味方に 多数派工作 
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「私が総理になったということは政権交代が行われたのと同じこと」。28日、連合メーデー中央大会に来賓出席した首相・小泉純一郎は宣言した。先にあいさつに立った連合会長・鷲尾悦也が「しょせん自公保政権では改革はできない。政権交代が必要」と述べたことへの意趣返しだ。
「威勢がいい」 「おごりもはなはだしい」。一般組合員の受け止め方は分かれた。しかし、神奈川などの連合関係者は「小泉総理イコール政権交代」との発言を「『あの時』のことを覚えていたのか」との驚きで聞き「連合と本気で連携する腹積もりだ」と感じた。
「あの時」とは1999年10月、民主党代議士・田中慶秋(5区)が横浜市内で開いたシンポジウム。出席者は小泉、鷲尾、民主党代表・鳩山由紀夫、公明党政審会長(現厚生労働相)・坂口力。偶然にもこの日、メーデー壇上に並んだ顔ぶれと同じだ。
小泉をシンポに駆り立てたのは「将来の構造改革には多くの協力を取り付けなければならない」との思いだ。野党主催のイベントだけに自民党からは「利敵行為になる」と出席自重の要求。しかし「日本最大の労働組織のトップの方針を問う絶好の機会」と批判どこ吹く風で参加した。
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「小泉総理誕生は政権交代も同然」という趣旨のやりとりは、当の小泉と鷲尾の間で繰り広げられた。鷲尾は郵政民営化について「郵便関係の組合には抵抗はあるだろうが、世のムードの大勢として『民営化』の声が聞こえてくる。時間をかけて理解を深めていくことが大事だ」と表明。これに小泉は「画期的な意見だ。今後ともぜひ協力を」と顔を紅潮させ喜んだ。
そこで鷲尾は「それには、まずあなたが日本のリーダーになることだが、それは自民党にとっては政権交代も同然」との見解を示しつつ「『難しい』の一言ではないか」と突き放した。小泉は「その時になったら絶対に協力をお願いしたい」と念押し。「新党でも結成するつもりか?」と場内をどよめかせた。
シンポを終えた鷲尾は淡々としていたが、小泉は違った。「連合は国民800万人の組織。その代表が改革に協力すると明言したのは大きい。自民党員だけではなく、国民全体に訴えれば改革を阻む外堀が埋まる。永田町にだって攻め上がれる」。シンポのことを問うたびに持論を繰り返し「あの感動は絶対に忘れない」とボルテージを上げた。総裁選で街頭演説を徹底的に重視した小泉だが理由の一端がここにありそうだ。
× × ×
年季法改正(1999年)をめぐる攻防をきっかけに政府と連合の関係は冷え切った。連合が民主を協力に支援した昨年の総選挙以降は絶縁状態だ。その関係をごく自然に正常化へと向かわせる当面のきっかけは、28日に実施されたメーデーだ。
「総裁選小泉勝手連」のメンバーで元労相の甘利明(13区)は官房長官・福田康夫と連合事務局長の笹森清の間を橋渡し。組閣翌日の27日未明に官邸─連合会談を持たせ、ギリギリのタイミングで小泉出席の流れをつくった。
「改革のために幅広い支持を取り付けたい」という小泉。「組合員の要求を政府に伝え実現したい」という鷲尾。両者の思いに接してきた甘利のファインプレーといえる。
一方で自民党内からは「時の首相がなぜ敵の集まりに出向くのか」といぶかる声も漏れる。それを伝え聞いた小泉は「放っておけ。ぼくの本当の敵は改革に協力しない連中だ」と取り合っていないという。
「政策や改革実現のためならだれとでも組む」という姿勢を貫くのが小泉流。早くも始まった素早い行動は野党ばかりでなく、自民党内の反発勢力の脅威となっている。(文中敬称略)(政局取材班)平成13年4月29日
神奈川新聞
プロローグ ▽4 派閥限界
あぶり出す 真紀子カード 
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「党執行部が問題にしているのは言葉の内容より話した相手。放っておけばいい」
自民党総裁選の最中に起きた「小渕恵三元首相おだぶつ発言騒動」に、小泉純一郎は動じなかった。「話した相手」とは田中真紀子・元首相・田中角栄の娘で「総裁選小泉勝手連」の看板中の看板だった。
小泉の頭には以前に出馬した総裁選(1998年)で、田中が自分を「変人」、小渕を「凡人」と評したときのことが思い浮かぶ。変人呼ばわりされた自分の陣営が冷め切っていたにもかかわらず、より穏便な言われ方をされた小渕陣営には火がつく。
角栄とたもとを分かって誕生した党内最大派閥・旧経世会(当時小渕派、現橋本派)にとって、「真紀子バッシング」が派内結束のエネルギーとなっていることを感じていた。
「真紀子さんを野放しにしたら、こちらがおだぶつになってしまう」。小泉陣営では一時、真紀子排除論も噴出した。「真紀子さんが話せば話すほど、橋本龍太郎サイドを刺激し、結束が強まる」─と不安を募らせてのことだ。
しかし、小泉は、国会議員や業界団体への締め付けを中心とした橋本陣営の派閥型選挙の限界を見透かしていた。「相手を結束させればさせるほどいい」と平然。「運動の対象は相手(旧経世会)は身内、こっちは国民だ。その構図が鮮明になれば戦いやすい」と、田中を経世会体質を露出させる「切り札」として位置付ける。「効果を上げる策には痛みが伴う」という政策上の持論を総裁選戦略にも踏襲したわけだ。
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「旧経世会つぶしの劇薬」─。田中の役回りをこう意識し始めた小泉は同時に、田中が主張する政策などを研究し始めていた。特に角栄との「二人三脚外交」の実績として、中国からの信頼を得ている点に着目した。
今年に入り外務省で機密費流用問題が発覚。矢面に立ったのは昨年末の内閣改造にも再任された外相・河野洋平(17区)だった。記者たちにこの事態の感想を求められた小泉は、独自の外相論を披露している。
いわく「日本の繁栄がアメリカとの関係を基盤に築かれてきた以上、首相は対米関係に軸足を置くことなる」。「よってその対極であるアジアやロシア外交は外相の重要な役目となる」と首相、外相のすみ分け論を説いた。
「対中国、ロシア外交を考えれば河野さんは適任。続投は当然だった」とした小泉だが「ほかに人材はいないのか」との問いにしばし沈黙。「うーん、いないわけではないが、党内的にはアウトローなんだな」とつぶやいた。「アウトロー」という言葉の裏に田中起用構想があったようだ。
× × ×
しかし、外相への田中起用という構想は「おだぶつ発言」をめぐる党紀委員会(20日)の判断によって立ち消えとなるはずだった。橋本派からの訴えを受けた党執行部は田中を役職停止処分を下し、総裁選後の内閣改造や党人事から排除する方針だったからだ。
一時、謹慎宣言をした田中だが「もう処分への流れは決まっているようだ。座して死を待つこともない」と応援を再開。20日は小泉を追い神戸入りした。遊説先に飛び込んだのは「処分見送り」の報だった。党紀委のメンバーで、小泉が離脱した森派に所属する塩川正十郎が「こんな形で前例を作って政治家の命である言論活動を封じ込めてもいいのか」などと机をたたいて逆襲。たった一人で執行部と他の委員を黙らせてしまったという。
塩川の温厚な側面しか知らなかった小泉は帰京後、その様子を聞いて驚く。「構造改革へ向けて国の財布を預かる人(財務相)は、古い勢力のたかり体質に動じない人でなくてはならない」。小泉なりの理想像が一致した瞬間だった。(文中敬称略)(政局取材班)平成13年4月30日
神奈川新聞
プロローグ ▽5 地方の乱
本丸落とす 予 備 選 
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「自民党は7月の参院選でなくなる。出ていきたい人は今のうちに出ていってほしい」。2月に開かれた自民党県議団の会議で、幹部の口からこんな爆弾発言が飛び出した。発言の主は県連会長・梅沢健治(県議)。首相・森喜朗のゴルフ問題など相次ぐ不祥事に堪忍袋の緒が切れたのだ。
「殿ご乱心」と慌てる周囲に梅沢は取り合わず、「『派あって党なし』は『派あって能なし』だ。派閥政治とともに自民党は滅ぶ」とだめを押した。
森退陣の流れが決定的となる中で森派会長・小泉純一郎はくたくたになっていた。各派との交渉は深夜におよび、ときには走って料亭をはしご。そこまでして得たのは「国民の常識とかけ離れた派閥政治へのむなしさ」だけだった。
森の後継首相の最大課題は参院選。「派閥にかつがれればその派の数だけの要求がつきまとう。そうとなれば借金漬けで日本も終わり」。小泉は「自分が首相にならない限り負の連鎖は断ち切れない」との自負と懸念を抱いていた。
しかし、党本部は党員投票を含めた本格総裁選を見送り、国会議員と地方代表による選挙方式を固めてしまう。後継総裁選出は最大派閥・橋本派(旧経世会)の意向次第という「旧態依然」の形勢となった。だが、小泉は黙っているわけにはいかない。「見送り三振はしない」。悲壮だが前向きな覚悟だった。
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3月13日の党大会で本格方式の総裁選見送りが決定的となる。会場の日本武道館で「いよいよ自民は死ぬ」と感じた梅沢は「同じ死ぬなら悪代官どもへの一揆を起こしてからだ」と予備選の実施を決断した。
当時、予備選の実施を検討していたのは東京都連などひと握り。孤立無援になりかねない。慎重論もあった県連内で梅沢は「横にらみなんて派閥もどきの思想はナンセンス。うちだけがやるなら『名誉ある孤立』だ」とげき。「費用はどうするか」という懸念も、こう一喝した。「玉砕する軍隊が兵糧を残して何になる。金なんか使ってしまえ」
神奈川から起こった「地方の乱」は、同じ危機感を抱く全国の地方組織へ燎原(りょうげん)の火のごとく燃え広がった。全国の都道府県連が予備選の実施を次々と決定。「国民の声援次第では国を動かすことができる」と感じた小泉は「派閥」というユニフォーム≠脱ぎ捨て国民の側へ。三信覚悟で総裁選の打席に立つ。放った打球は改革を求める大声援に乗って永田町に届き、派閥の論理を打ち砕いた。
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梅沢は生粋の党人派。党務を中心に政治活動を続けてきた。対する小泉は「代議士は国の仕事をすればよい」との立場。県連の機関協議に小泉本人が出席したのは1995年6月の参院選対策会議が最後。当然、お互いの間に距離が生じる。99年、小泉は県選出の野党議員主催のシンポに三回出席。県連が「これは利敵行為」に当たると役職停止処分(2000年末に解除)を行ってからはますます疎遠となった。
だが、今回の総裁選で「地方対中央」の対決構図をつくり、初の県出身者の首相に小泉を押し上げたのも、また県連だった。この間、小泉も梅沢も連絡を取り合うことは一度もない。しかし、ほぼ同じ時期に共通の危機感を抱き「捨て身」で臨んでいる。小説ばりの不思議な巡り合わせだ。
24日の総裁選。投票前の出陣式で小泉は「県連が仕掛けた予備選が地殻変動を起こしてくれた」と梅沢に一礼し、6年ぶりに握手を交わした。都道府県連の仲間たちから「神奈川初の首相おめでとう」と祝福を受けた梅沢は「いいえ、小泉首相は神奈川だけではなく地方全体の代表です」と笑顔を見せた。「『死ぬ』と思った時に何も怖くなくなった。この気持ちを忘れずあらゆることに立ち向かえば、自民党は出直せる」と話した。その言葉通り、小泉の内閣は80%超という脅威的な支持率で船出を果たした。(文中敬称略)(政局取材班)平成13年5月1日
神奈川新聞
変革の人
小泉三代記
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▼1 反骨の系譜
上 庶民の側に立つ覚悟 
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「これまでタブー視されてきた首相公選制や郵政民営化を、時の総理がこうして壇上から訴えている。『国民のためになる』と思ったことが自由に言える。これこそが変革ではないか」
第87代内閣総理大臣となった小泉純一郎(59)の衆院本会議初答弁(9日)。議席では与野党を問わず前列の若手議員が拍手で沸き、後列のベテラン議員が腕組みをして黙り込む。年功序列など旧来からの枠組みをめぐり「打破か存続か」という世代間のスタンスの違いが鮮明になった瞬間だ。
元横須賀市議会議長の井料克巳は純一郎の父・純也(元防衛庁長官)のおい。祖父・又次郎(元逓信相)の代から書生、秘書として小泉家に仕え続けた。今年は又次郎の死からちょうど半世紀。純也の33回忌にも当たる。
「小泉家の節目の年に、自分が子守りした純一郎が総理になるとは」。純一郎の答弁ぶりを伝えるテレビ中継を食い入るように見入る井料。その目には「親庶民、反特権階級」という姿勢を貫いた又次郎、純也の姿がだぶった。
× × ×
一定の年齢になれば選挙権、被選挙権が得られるという「普通選挙制度」。いまでこそ当然の権利だが、小泉又次郎が普選実現運動を展開した明治、大正期は違った。小泉家ゆかりの横須賀市で市史の研究を続けてきた同市立中央図書館長・今原邦彦は「納税額による制限選挙で成り立っていた時の政府や国会からすれば『普選』などもってのほかだ。普選運動の先頭に立つ又次郎氏は過激派、扇動政治家そのものだった」と説明する。
だが、又次郎は広く国民へ呼び掛けてデモや集会を開く大衆運動方式を徹底。国会で暴論とされた「普選」を世論の正論に変え、1925年(大正14年)に法律を成立させる。その精力的な風ぼうや姿勢は「野人」とも評された。「純一郎氏が持論を貫き国民の支持を得て総理になったのも、こうした血を受け継いでいるからだろう」と今原。
一方、純也氏にはそうした派手な一面はないが、「親庶民」を貫く姿勢は徹底していた。純也の二男で純一郎の秘書を務める正也(56)は「父はいつも、身近な支持者のさらに向う側にいる有権者のことを考え、見ていた」と振り返る。
いま小泉が代議士の立場にあるのは、会ったことも握手したこともない人たち支えがあるからだ」。海に向かって鍛錬し「名演説」と評された弁論の結びは、いま純一郎が「宝の山」とたたえエールを送る「無党派」への感謝の言葉そのものだったという。
純也は自分を支持しない人や団体からの要望や提案でも「大勢の人たちのためになる」と感じたら引き受けた。逆に支持してくれてきた相手でも「人のためにならない」と判断すれば取り合わない。「支持者とのけんかはしょっちゅう。これでは選挙に強かろうはずがない」(正也)。重ねた9回の当選のうちトップに立ったのは1回きりだ。
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又次郎、純也、純一郎の3人が小泉家の菩提寺「宝樹院」(横浜市金沢区)の近くで一緒に暮らしたのは第二次大戦の終戦直後からの約6年間。戦前、戦中にそろって代議士を務めた又次郎と純也はこの間、公職追放処分で失業の身だった。決して楽ではない生活の中、又次郎は孫との入浴を何よりの楽しみにしていた。
又次郎はこのとき、80歳を超えていたが、とび職の父に倣って彫った龍の入れ墨は「一切、老いを感じさせることはなく見事なものだった」(井料)。背中を流す井料の横には幼い純一郎。そのまねをして祖父の肌をこすり、色が落ちないのに首をかしげていたという。
「じいちゃんは野人だぞ」。湯船に入り話し掛ける又次郎。抱かれてはしゃぐ純一郎が両手でその額をぴちゃぴちゃたたいた。あどけない孫が後に政界の「変人」と呼ばれ、普選運動ばりの追い風で首相に上り詰めるとは、又次郎には思いも及ばなかったに違いない。
◇
又次郎の代議士初当選(1908=明治41=年)から93年。県出身者として初の首相となった純一郎までの親子三代の歴史は、日本政治史の「縮図」でもある。又次郎、純也の足跡をたどりながら「小泉首相誕生」までの底流を探る。(小泉三代記取材班、文中敬称略)平成13年5月14日
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▼2 反骨の系譜
中 普通選挙実現に全力 
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「労働神聖と口でほめて おらに選挙権なぜくれぬ」。1920年(大正9年)2月22日の東京は雲一つない快晴。東京・芝公園運動場を埋めた7万人の参加者は、会場に至る所に配置された楽団の演奏に合わせ「普選歌」を口ずさんだ。首相・小泉純一郎(59)の祖父・又次郎ら普通選挙制度推進派代議士172人が発起人となり開いた「普選大会」。国会議員が仕掛けた国民運動としてはみぞうの規模となり普選実現へ大きな一歩となった。
「特権の牙城から民衆を睥睨(へいげい=威かく)していた特権階級を正義、平等の一線にまで引き下す。それと共に虐げられた下層階級の地位を正義、平等までに引き上げる。両者の均衡と握手との間に幸福なる社会、健全なる国家を建設しようというところに希望の焦点がある」。又次郎は著書「普選運動秘史」(1927年刊)の中で普選運動の目的を総括。「共存共栄、平和なる社会の実現」という、自身が政界に進んだ目標と重ね合わせ情熱を注いだ理由を説いた。
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「小泉又次郎伝」(加藤勇著、1972年刊)の刊行委員会代表を務め、又次郎の代から小泉家との親交を持つ横須賀商工会議所会頭・小沢一彦は「又次郎は庶民との共闘を貫いたが、それは生い立ちや暮らしぶりが庶民そのものだったからだ」と論評する。
又次郎は1865年(慶応元年)5月、久良岐郡六浦荘村大道(現在の横浜市金沢区大道)にとび職の父・由兵衛の二男として生まれた。小学校を出た後に家を二度飛び出し上京。軍人になるべく士官予備学校へ通う。そのたびごとに連れ戻され病死した兄の代わりとして家業を継ぐよう言い含められた。入れ墨を彫ったのもこのころで「制服姿にあこがれ目指した将校への道を断ち切る覚悟が背景にあった」(小沢)という。
しかし、「向学心や世の中への関心は人一倍強かった」(小沢)。その後は政治を志し東京横浜毎日新聞の記者などを経て1908年(明治41年)の第10回総選挙に出馬し当選した。日本の敗戦を受けて公職追放となるまで連続12回、通算38年間の代議士生活を過ごす。
1929年(昭和4年)には浜口雄幸内閣で逓信大臣を務める一方、34年(同9年)には代議士と横須賀市長を兼務。市の赤字財政立て直しにも努めている。しかし又次郎の名を何よりも後世に知らしめたのは、憲政の神様と呼ばれる尾崎行雄とともに貫徹した普選運動にほかならない。
× × ×
「25歳以上で男性のみ」という枠はあったが普選が国会を通過したのは25年(大正14年)3月。又次郎はこの時に抱いた思いを次のように記した。
「憲政史上特筆大書すべき一頁を得んがため、幾多われわれの先輩や同志は20余年間にわたって骨をけずり肉をそぎ、血と涙の尊き奮闘を続けてきたことであったか」(普選運動秘史)。
「骨、肉、血、涙」という表現は決してオーバーではない。又次郎を軸に普選運動をたどるとその苦闘ぶりが浮き彫りとなる。(小泉三代記取材班、文中敬称略)平成13年5月15日
神奈川新聞
▼3 反骨の系譜
下 民意反映に心血注ぐ 
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「巡査横暴! 巡査横暴!」
首相・小泉純一郎(59)の祖父・又次郎は何度激怒したことか。運動の盛り上がりを狙いデモや集会を仕掛ける又二郎ら普通選挙推進派、それを阻止しようとする政府との対決。それは大正の半ばにピークに達した。
「いよいよ集会が始まろうという時に警察官が中止を叫ぶ。群集心理を心得ているものならば、それがかえって混乱をあおることはわかっていたはずだ」。述懐で又次郎は不信をあらわにし「混乱の責任は取り締まる側にあり」と断じた。
エスカレートした警察官は抜剣し参加者を威嚇。又次郎ら代議士にも殴りかかった。「議員徽章(きしょう)を身につけ、挑発もしていなかった」というだけに、反撃に出ないわけにはいかなかったようだ。混乱のさなかには新聞記者を私服警官と取り違え、えりくびをつかんでこずいたこともあったという。ようやく演説会を開いても暴漢が短刀を振りかざして弁士に斬りかかる。まさに命がけの運動だったのだ。
又次郎には常に警官の尾行がつき、それをまくのが日課となった。そのうち自宅は厳重な張り込みで近寄れなくなる。「浮き草のごとくさすらった当時のみじめな思い出は筆紙の尽くすところではない」。(又次郎著「普選運動史」)。だが幾多の国民を生み出す苦痛に過ぎないことを思うと、これくらいの犠牲は決して高価なものではない」(同)との思いが支えた。
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又次郎の苦闘は1925年(大正14年)、普選実現として実った。有権者数は300万人から1240万人へと大幅に拡大している。だが、又次郎はそれを手放しで喜んではいない。大勢の新しい有権者が誕生するという変化を重く受け止め「これからの政治家の責務」をこう見据えている。
「鉄道、港湾、道路、学校など俗耳(ぞくじ)に入りやすき眼前の利害問題のみ捕らえて政争の具に供し、純真なる国民をしてその去就に迷わしむるがごとき時代錯誤の手段をあらためる。政党本来の面目に立ちかえって大所高所より国家百年の大計に樹(た)つることに努めなければならない」(普選運動史)
又次郎が「秘史」を刊行したのは普選成立から間もない1927年(昭和2年)。公共事業を軸とした「利益誘導型政治」のまん延を早くも予測し、警鐘を鳴らしている。
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それから70余年。「選挙目当て」との批判がつきまとう資本注入型の積極財政に歯止めをかけ、構造改革に乗り出すことを掲げ、首相となったのが純一郎である。その純一郎は過去に小選挙区制導入をめぐり「死票が増え、民意の反映と逆行する」と徹底抗戦。「守旧派」のレッテルを張られ、「自民党除名」までささやかれる事態にまで追い詰められてもひるまなかった。また、「民意反映のための政治における究極の規制緩和」として「首相公選制の実現」を公約に掲げてきたが、これを首相になってからも訴え続けている。
「むちゃはよせ」という周囲の心配に純一郎は答えたものだ。「自分は政治生命をかけて戦っているが、ぼくのじいちゃん(又次郎)は本当に命がけだったんだよ」。普選をめぐる祖父の戦いは、純一郎に勇気を与え、その政治活動の支えとなっている。(小泉三代記取材班、文中敬称略)平成13年5月16日
神奈川新聞
▼4 平和の血 戦争を繰り返さぬ決意 
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「兄が総理に就任したのも皆さんが三代にわたり支えてくれたから。尽力いただきながら亡くなった方々に兄の総理就任を見てもらいたかった」
13日、快晴の成田山新勝寺(千葉県成田市)。首相・小泉純一郎(59)の弟で秘書の正也(56)は集まった約100人に頭を下げた。正也は「前日、兄から電話で『残念だが今年は行けない。できるだけ早い時期に再び参加したい』と連絡があった」とも付け加えた。
この集まりは「横須賀泉勝講」。成田山新勝寺の講の一つだ。日露戦争が終わった1905年(明治38年)に祖父・又次郎の弟である岩吉が講元となり始めた。岩吉の長男を経て、現在は孫の小泉一郎が講元を引き受けている。又次郎、純也、純一郎という小泉家の政治家三代も参加してきた。
今年で96回目。寺の一角に岩吉の銅像が設けられ、年に一回お参りする。「それぞれの宗派はばらばら。平和を願い戦争犠牲者を慰霊する。年に一度集まって顔を合わせることに意味がある」と参加者の一人。「小泉が勝つ」から来た名称は第二次大戦後に使い始めている。それまでは「選勝講」だった。
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「戦勝」という名称は「武運長久」を連想させるが「岩吉や又次郎の目的は平和祈願だった」と一郎。その根拠は岩吉が残した説明文にある。岩吉はこの中で戦勝講について「日露戦争平和克復と同時に組織した」と説明。発足のきっかけを「戦勝」ではなく「平和克復」としている。「克服」ではなく「復活の復」を使っている点も興味深い。「『戦勝講』の名称は平和を声高に言えなかった時代に『泉勝』にひっかけて工夫したらしい」と一郎。「講の発足は当時としては精いっぱいのレジスタンス」だったようだ。
説明文には「父である由兵衛の遺志を継いだ」ともある。軍人になろうと二度にわたり無断で上京した又次郎、そのたびごとに連れ戻した由兵衛。「家業のとび職を継がせることが目的だった」とされるが「実際は子供が戦争で死ぬのが嫌だったからではないか」と一郎は見る。又次郎が軍人になることに徹底して反対した由兵衛が、政界入りは許しているという経緯も推測の根拠だ。小泉家なりの「平和への願い」は、政治家三代よりも長い四代にわたり受け継がれている。
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純一郎は母方のいとこ・井料鉄五郎を終戦間際の1945年6月、特攻で失っている。享年25歳。父・純也の故郷である鹿児島を訪ねた際には、特攻の基地があった知覧町へ足を延ばし平和記念施設を訪問。いとこのめい福を祈ることを忘れない。
69年総選挙落選から純一郎ははい上がり、初の議席を得たころ、ひときわ熱心に応援してくれる支持者が現れた。純一郎は支持者が鉄五郎と同じ部隊に所属していたことを知らず、支持者も純一郎が鉄五郎のいとこであることを知らなかった。後にお互いの関係が分かったとき、純一郎は「いとこが天国から助けてくれたのだ」と涙したという。鉄五郎の遺族に「自分が政治家になった以上、戦争は二度とさせない」と決意を表明している。
国会で「8月15日に靖国参拝をする」と答弁し続ける純一郎。一方で国連常任理事国入りに関しては「武力行使と犠牲者を出すことは許さない」と慎重姿勢だ。一見、「タカ派」「ハト派」が並存するかのようような純一郎の言動の背景には、小泉家と平和との長いかかわりがある。(小泉三代記取材班、文中敬称略)平成13年5月17日
神奈川新聞
▼5 大物市長 「手弁当」で改革実行 
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「諸君にイヂメられるのかな。まア諸君に色々教育して貰って勉強して見やう。ナニ慣例により毎日会ふんだって?毎日セメられてはたまないナ。いづれ諸君と一席やるかネ」
1934年(昭和9年)5月18日の横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)に載った「小泉問答」=原文ママ=だ。首相・小泉純一郎の祖父・又次郎は前日の17日、第13代横須賀市長に就任した。当日は69歳の誕生日でもあった。
又次郎はすでに衆院副議長や逓信相などを歴任。当時の仕組みで代議士との兼職は可能とはいえ、閣僚経験者の首長就任は異例だった。前任市長・三上文太郎の病死を受け、市政のかじ取り役を買って出た。軍事施設が多いために税収は少なく、一方で人口が多いために出費はかさむという赤字財政に苦しむ横須賀市の窮状を見かねたようだ。
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当時、市長は市民の直接投票によらず市議の投票で選ばれた。又次郎は市長受託の条件として「名誉職市長」になることを望みその通りにさせた。決して「名誉」という肩書きを求めたのではなく、そうなれば市長給与を返上することができるからだ。
初登庁の訓示は「私は形式的なあいさつは嫌いだ」との切り出しで始まる。「はからずも市長の職を汚すことになった。長年、中央政界で政治活動をしていたので地方自治にははなはだ暗い。市長の重職を果たすにはみんなの援助がなければなし難い。市の仕事に一つとして重要ならざるものはない。自分を捨てて誠心を持って公に尽くす覚悟であるから協力一致、私を助けていただきたい」
代議士の立場におごらず地方自治の実務経験のなさを素直に明かす。そして市の仕事への敬意を示し決意を表明。市庁舎会議場に集まった200人の職員はその姿勢に胸を打たれたに違いない。
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又次郎の代から小泉家を知る元横須賀市議会議長・井料克巳、横須賀商工会議所会頭・小沢一彦らの証言から浮かぶ市長時代の又次郎の生活ぶりは「市の財政状況を考えて質素そのもの」(小沢)だったという。
代議士としての居宅を当時、東京の西大久保に構えていた又次郎。横須賀市へは横須賀線で電車通勤していた。公用車は返上し、公務には自家用車(シボレー)を使用。昼食は市庁舎から最寄のそばやへ歩いて通った。「無給の上に食費、交通費などすべて自腹」(井料)だったという。
翌35年(昭和10年)、市営公益質屋で職員による公金横領事件が発覚。又次郎はその責任をとって市長を辞任する。その任期は1年半と短かった。しかし、この間に二つの大きな行革を手掛けている。一つは「昭和」がスタートしたことを受けて計画されていた「横須賀記念館」の建設の中止。もう一つは専門学校の「一市一校主義」を掲げ二校あった高等女学校を統合したことだ。
自治体横並びの記念行事を切り、同窓生や父母や地域住民の反発は必至の学校統合に率先して取り組んだ又次郎。「痛みをともなう改革でも進める」と主張し続ける純一郎には、その血が流れている。(小泉三代記取材班、文中敬称略)平成13年5月14日
神奈川新聞
▼6 人
情 派 無実の罪に一肌脱ぐ 
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「阿鼻驚嘆の城ヶ島」1936年(昭和11年)2月3日付の横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)にはこんな見出しが躍った。北原白秋の詩の舞台になった三浦半島南端の城ヶ島が火に包まれたのは、同2日未明。民家から上がった火は強風にあおられ、島の全戸数119戸のうち最終的には106戸を全焼した。消防署員2人が殉職、島民約600人が寒空に迷う大惨事となった。原因を放火とにらんだ警察は、次々と島民らを容疑者として捕らえた。神奈川県警察史には「同年末までに116人が検挙された」と記されているが、これは拷問によって自白を強要されるなどの結果でその後、県警史上に残るえん罪事件に発展する・・・。
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このぬれぎぬを晴らすのに首相・小泉純一郎の祖父、「人情大臣」として知られる小泉又次郎が一肌脱いだのだ。
現在、純一郎を支援する島民で組織される城ヶ島小泉同志会の会長・石橋藤吉=同町城ヶ島=の父・要吉も無実にもかかわらず共犯とされ、ひどい拷問を受けた一人。「たばこの火を腕や足に押し付けられたり、正座した上から石を積まれたり・・・。それはひどいものだったようです」と石橋。こうした島民が増えるに従い、残った島民は多くの有力者を頼り、早期解決、身柄釈放の陳情を警察などに繰り返したが、事件の真相は明らかにならなかった。
困り果てた島民が最後にいちるの望みをかけたのが、地元選出の代議士の又次郎だった。島民は逓信大臣までも務めた雲の上のような存在の又次郎を東京に訪ね、直訴に及ぶ。又次郎は面識もない島民を自室に招き入れ、「若い働き手がいなくなり、島がもたない」との島民の訴えに、すぐに動いた。
黒川喜久之助=(同)=の父・徳右衛門も窮状を訴える一行の中にいた。「父の話では、又次郎先生はその場で警察の高級官僚を自室に直接呼びつけたそうです」。そして、徳右衛門らの目の前で又次郎はその官僚に一言だけ言った。「黒いものを白というつもりはない。本当のことをもう一度確かめてくれ」と。
島民の気持ちを代弁した「正論」は当局を動かし、再捜査が行われた結果、犯人は単独犯と判明。25人が1年数ヵ月も無実の罪で留置された大えん罪事件は解決する。島の周辺では「頼りになる又次郎さんの人気は不動のもの」(石橋)になり、今でも先祖の代の恩義を感じている人がいる。
× × × 彰功碑
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市井の人々の気持ちをくみ取る又次郎のエピソードは数多く残る。理髪店を営む大木勝次郎=横須賀市衣笠栄町=が15、6歳のころ、修業先の理髪店に又次郎がやってきた。「又次郎さんは『小僧の度胸付けだ。やってみろ』と私にバリカンで頭を三分刈りに刈らせた。緊張で手が震えていたら『バリカンがダンスしているぞ。しっかりしろ』としかられた」という。大木は「又次郎さんは人を引き付ける力があり、大臣でも絶対に威張らなかった。大臣就任時は地元支援者がお祝いに服や帽子を贈るほど親しまれていた」と庶民派ぶりを振り返る。
また、逓信大臣時代の地方視察の時、ある旅館で又次郎は「従業員がすべてそろいの新調の着物で出迎えてくれた。その心遣いがうれしい」と細かいことにも気を回し、自腹で祝儀を弾んだこともあった。入れ墨があることも庶民の人気に拍車をかけ、地方の視察先では現職の「入れ墨大臣」を一目見ようと、人々が集まったという。
地位や職業で相手を区別せずに受け入れ、困っている人には親身になって面倒をみる。そんな庶民的な人柄は、普選運動の闘士のもう一つの魅力だった。(小泉三代記取材班、文中敬称略)平成13年5月19日
神奈川新聞
▼7 薩摩隼人
上 貧しさゆえの独立心 
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「バンザイ!」。小泉純一郎が自民党総裁に就任した4月24日、喜びに沸く南国のまちがあった。純一郎の父・純也の生まれ故郷、鹿児島県加世田市だ。同市は薩摩半島の南西部に位置する人口2万5千人に満たない小都市。開票時には地元公民館に約100人が集まり、テレビで結果を見守った。夕方からは日の丸の小旗を振りながら、200人以上が通りを練り歩いた。
後に純一郎の祖父・又次郎の娘婿になり小泉姓を名乗ることになる純也は1904年(明治37年)1月24日、東加世田村の小松原地区(現加世田市小湊)に生まれた。兄弟は3男6女。純也は下から2人目3男だった。
生家の鮫島家は網元だったが、事業に失敗して倒産したといわれている。父親の彌三左衛門は地元のかつお節の製造業者に雇われ生計を立てていた。しかし、純也が11歳の冬に死去した。生活は厳しかった。母親のトメは、近くの港で魚を仕入れ、4、5km先の町まで行商に出掛けていた。
山本禎三=加世田市小湊=は少年時代の純也を回想する。「純也さんは学校を終えると毎日、知り合いから借りた自転車で母親を迎えに行った。行商の手伝いをした後、道具を自転車に載せて帰ってきた」女手ひとつで一家を支える母を手伝う姿が、いまでも鮮明に残っている。
その母も、純也が16歳の20年(大正9年)に亡くなった。兄弟は離ればなれになり、生家も取り壊された。
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かって、純也が生まれた小松原地区はすぐそばに海が広がる漁村だった。しかし、農業には適さなかった。加世田市議の相星二三夫は「砂地で土壌に恵まれず、貧しい家が多かった。県外や海外まで出稼ぎに行くのは珍しくはなかった」と説明する。
相星はこんなことわざを紹介した。「小松原の人間に会うと、三文損をする」。貧しさ故か、小松原の出身者は独立心が強く、商才にたけているというのが通説だった。純也にも、そんな「血」が流れていたのだろう。東加世田尋常高等小(現万世小)を卒業してからは鹿児島市内に出て、老舗百貨店の山形屋で働きながら夜学に通った。地元で「よかにせ」(好青年)と呼ばれた純也はやがて上京し、又次郎と出会うことになる。
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「私の父は貧しくて、やむを得ず東京に出ていきました。明治・大正時代に東京へ行くということは、今の時代でニューヨーク、ロンドンに行くよりはるかに困難だったと思います。昔の人の志は大変なものだったと思います」
一昨年12月、万世小の新築落成祝賀会に招かれた純一郎は純也の歩んだ苦難の道を振り返りながら、後輩たちに語りかけた。いま、純也の生まれた故郷に鮫島家の血をひく人はいない。小高い丘にあった鮫島家の墓地跡には、純一郎直筆の記念碑が立っている。(小泉三代記取材班、文中敬称略)平成13年5月21日
神奈川新聞
▼8 薩摩隼人
中 故郷への恩を忘れず 
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鹿児島市内で働いていた首相・小泉純一郎の父・純也はやがて上京し、鹿児島選出の代議士・岩切重雄の書生となる。純也の生家近くに住む中村透=加世田市小湊=は「私のおばが東京の岩切代議士宅でお手伝いをしていたとき、代議士から『だれかいい書生はいないか』と相談され、純也さんを紹介したらしい」といきさつを語る。
純一郎の祖父・又次郎と初めて出会ったのは23歳のころ。「純也さんは岩切代議士の家に住み込みながら、日本大学の夜学で学んでいた。岩切代議士や又次郎さんが所属する民政党事務局の書記として、手紙を届けたりしたのがきっかけらしい」。吉峯幸一=同市唐仁原=は、純也と親交のあった元万世町長の父親、喜八郎からそう聞いたことがある。
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又次郎には一人娘の芳江がいた。純也は又次郎宅に出入りするうち、三歳年下の芳江と恋に落ちる。しかし、又次郎は二人の結婚に反対した。「小泉又次郎伝」(加藤勇著、1972年刊)によると、「鮫島(純也)のような政治家を志す者と結婚すると、ゆき先苦労する」というのが理由だった。芳江は別の男性と見合いさせられたこともある。
又次郎の反対にも屈することなく、二人は恋を成就させようと駆け落ちし、都内のアパートで同せい生活を始める。政党職員の身でありながら、その政党要人の娘と駆け落ちするという大胆な行動からは、薩摩隼人の頑固一徹さがうかがえる。
逓信大臣の娘だけに、この恋愛事件は当時の新聞紙上をにぎわした。地元の人は「又次郎さんは新聞の尋ね人欄に『帰って来い』というような広告を出して娘の消息を気遣っていたらしい」と話す。曲折を経て、又次郎はついに二人の結婚を認める。純也27歳で又次郎の秘書となった。
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上京後の純也は、青雲の志を持つ同郷の士とも親交を深めた。鹿児島海陸運送の創業者・大西栄蔵や、地元財閥の重鎮となる上原三郎らだ。「おじきは大西さんとは無二の親友で、一緒に銀座をげたばきで遊んだ仲だったようです」と、純也のおいにあたる姶良町議の井料正公=姶良町西姶良=。こうした親交が、やがて政治家になるための大きな財産になっていく。
加世田市の人たちは親愛の情を込めて、純也のことを今でも「スミヤさん」と呼ぶ。「戸籍上は『スミヤ』になっているが、横須賀に行ってから『ジュンヤ』と呼ばれるようになったようだ」(加世田市職員)。純也は1936年(昭和11年)に故郷の鹿児島から立候補し、次点(五位)で落選した。偶然の一致だろうが、純一郎も初陣の際には落選の憂き目に遭っている。
東京で知り合った大西、上原や地元の若者たちの支援もあり、純也は翌年同じ選挙区から再出馬。二位で初当選を果たした。33歳だった。純也は又次郎の後継として選挙区を神奈川に移してからも、故郷への恩を忘れることはなかった。公共施設の誘致から就職口の世話までした。「中央にあって郷土の教育、民生、土木、郵政に大きな功績を残してくれた」。功績をたたえ、母校の万世小学校に建てられた純也の胸像には、こう記されている。(小泉三代記取材班、文中敬称略)平成13年5月22日
神奈川新聞
▼9 薩摩隼人
下 一族のきずな支えに 
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5年前の七夕の夜。小泉純一郎は京都ホテルにいた。年配者の輪に入りながら、浴衣姿でお気に入りの歌を口ずさんでいた。集まった約30人は純一郎のいとこと、その連れ合い。母・芳江は一人娘だったため、全員が純一郎の父・純也のおいやめいに当たる。純也の秘書を務めた元横須賀市議会議長・井料克巳の呼び掛けで、初めて開催された通称「いとこ会」だ。
用事のあった純一郎はその晩に退席する予定だったが、克巳らに引き止められて泊まり込み、近況報告や昔話に花を咲かせた。克巳がまとめた名簿によれば、いとこは総勢23人。彼らにとって、純也は格別の存在だった。
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克巳の兄で鹿児島県・姶良町議の正公は純也が防衛庁長官になった1964年(昭和39年)、純也に頼まれて防衛庁に贈るためのソテツをトラックに載せ、東京まで運んだことがある。喜ばれると思ったら、「なぜ他の者に任せず、自分で運んで来たんだ」と怒鳴られた。「あのときは頭にきたが、おま思うと私の体を気にかけてくれたのだろう」(正公)。
沼田幸子=兵庫県西宮市=は大阪に嫁いでいった3歳年上の姉・ヤスエの三女。「大阪に来ると、私たちを百貨店に連れて行ってくれたり、ホテルでごちそうしてくれた」ことを思い出す。いとこでただ一人、純也の生家である鮫島姓を継承する達郎=横須賀市青葉区=には「本家の長男なんだから。しっかり勉強しろ」と励まし、小遣いを与えたという。
純也は亡くなる2年前の67年(昭和42年)、故郷の加世田市に帰郷した。県会議員選挙に初めて立候補しためい(サチ)の夫・松岡健蔵を応援するためだった。「動いて回らんな負くっとよ」。選挙事務所で休んでいた運動員に鹿児島弁でハッパをかけ、炊事担当の女性にも「とにかく回れ」と言い続けいた。たった一日のお国入りだったが、故郷の名士の支援で、松岡は見事に当選。「スミヤ(純也)さんのおかげで議員になれた」と、いまでも語り草になっている。
大学を卒業したばかりの純一郎も応援に駆けつけた。運転手を務めた加世田市議の相星二三夫は「純也さんが帰った後、『僕が頑張らないと』と懸命に支持を訴えていた姿」が忘れられない。
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9人兄弟の下から2番目に生まれ、16歳で両親を失った純也は、姉たちが唯一の支えだった。克巳と正公の母となる6歳年上のユエは弁護士の家でお手伝いをしながら、物心両面で純也たちの面倒を見ていた。井科家に嫁いでからは、夫の市次が純也を援助したという。
純也がおいやめいたちを気にかけていたのは、そんな姉たちへの「恩返し」ともとれる。「最後に頼れるのは兄弟や親族のきずな」という父の信念は、純一郎たちにも継承されているようだ。純一郎は姉と弟を秘書に据え、国政のトップに立った。幼くして母と別れた純一郎の二人の息子は兄弟や親族が面倒を見てきた。
首相になっても、いとこたちの脳裏には、マイクを握って笑顔を見せる「純ちゃん」が映っている。(小泉三代記取材班、文中敬称略)平成13年5月23日
神奈川新聞
▼10 上州えにし 横須賀に通じる気風 
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「群馬からおいでになったそうですね」。23日夕方のことだ。政府がハンセン病訴訟について「控訴せず」を表明する2時間ほど前、官邸を訪れた原告の代表と面会した首相・小泉純一郎は、東日本訴訟原告団代表・谺(こだま)雄二の手を握り、話し掛けた。周囲は、相手の出身地まで事前に把握していた純一郎の用意周到さに感心する一方、群馬とのかかわりにも思いを巡らせた。
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群馬県新治村。小泉家のある横須賀から約200kmも離れたこの温泉地にも、小泉家三代の足跡が残されている。敗戦の1945年(昭和20年)までの約2年間、純一郎の祖父・又次郎、父・純也ら一家は新治村に疎開していた。純一郎はまだ2歳だった。
疎開先を探したのは、同村出身の代議士で、又次郎と同じ立憲民政党に所属していた生方大吉。又次郎は「入れ墨大臣」、生方は「やじ将軍」と呼ばれ、ともに政界で異彩を放った人物だった。大吉の五女・生方正子は「二人とも風変わりな人だったから、気が合ったのでしょう」と振り返る。
又次郎は大物政治家として知られていただけに、地域住民らも近づきにくかったらしい。又次郎らの住む家を世話した西山菊太郎の長男・宏h「『偉い人なんだから、ぶらぶら遊びに行ってはいけないよ』と父にくぎを刺されていた」とはなす。
又次郎、純也とも代議士でありながら、疎開先では苦労した44年(昭和19年)の春先、上越線の最寄り駅から新治まで約6kmの険しい山道を、大きなリュックを背負い、両手にふろしき包みを持って歩く純也の姿があった。
東京で食料を調達し、疎開先へ戻る途中だったようだ。駅で待っていたバスは満員で乗り切れず、仕方なく歩いた。神保善之助はそんな純也に声を掛け、荷物運びを手伝った。「代議士とは知らなかったが、話し方に気品があり、ただ者じゃないと思った。後で丁寧な礼状をもらった」
純一郎は父が急死し初めて臨んだ69年(昭和44年)の衆院選で落戦後、自らが疎開していた群馬県出身で当時大蔵大臣だった元首相・福田赳夫の門をたたいた。玄関の掃除や電話番などをこなし、三年間にわたり私設秘書を務めた。純一郎が初当選した72年(同47年)の選挙では福田自身が応援に駆けつけ、「将来大物になる」とその人柄に太鼓判を押したという。
今回の組閣で、純一郎は女房役の官房長官に福田の長男・康夫を再任した。もちろん本人の能力を買ってのことだが「政治家・純一郎を育ててくれた福田家への恩返し」とみる向きもある。
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「横須賀と群馬との縁は実に不思議だ」。横須賀の歴史に詳しい同市中央図書館長・今原邦彦は、横須賀製鉄所を建設し、群馬で官軍に斬首された勘定奉行・小栗上野介忠順と純一郎との共通点を探る。
小栗が唱える近代的造船所の建設計画は薩摩と長州、そして幕閣からも強い批判を浴び、奉行職を罷免された。それでも、小栗は主張を曲げなかった。「周囲の強硬な反対にしり込みして横須賀製鉄所の建設を断念していたら、日本は今のような工業技術大国にはなっていなかった」(今原)「こういう人をもっと有名にしないといけない」。一昨年11月、横須賀市内でのヴェルニー・小栗祭に招かれた純一郎は、小栗の銅像の前でそうつぶやいた。
四面楚歌の中、信念を貫き通し、近代日本の基礎を築いた小栗。「無信不立(信なくば立たず)」を座右の銘にする純一郎。小栗の政治姿勢に自分を重ね合わせ、自らを奮い立たせているのかもしれない。(小泉三代記取材班、文中敬称略)平成13年5月25日
神奈川新聞
▼11 逆境打破
愛と情けの運動具店 
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芳江「売り物だから大事に遊びなさいよ」
純一郎「手になじんだ方が使いやすいもん」
1950年(昭和25年)、横浜市金沢区の国道16号沿いにあった「八景運動具店」。母・芳江の掛けた声に答えながら、小学2年生の純一郎がグローブを手に飛び出した。三つ違いの弟の正也、父・純也のおいで20歳の井科克巳が追いかける。近くの空き地で日暮れまで夢中で遊んだ。
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小泉家が国政にかかわって93年。その間に議員バッジを失った期間が二度ある。一度は、首相・小泉純一郎が父・純也の急死で初めて挑んだ1969年(昭和44年)の総選挙=次点で落選=から72年(昭和47年)の総選挙で初議席を得るまでの間。
いま一度は、第二次大戦の敗戦で代議士だった又次郎、純也がそろって公職追放処分となった時だ。追放が解けた直後の51年(昭和26年)、又次郎は自宅で急逝した。享年86歳。翌52年の総選挙で純也が横須賀市などの地盤を引き継ぎ、返り咲きを果たす。
とりわけ敗戦から純也当選までの間は小泉家にとって、最も苦しい時期だった。知人の家に間借りし質屋通いで生計を立てる日々。見かねた支持者が野菜などを届けることもあった。それはかって又次郎が関東大震災の時、弟の岩吉や金三の建設会社をフル動員し、家の修復などのボランティアをしたことへのお礼でもあった。まさに「情けは人のためならず」である。
しかし純也は、「情けにすがってばかりもいられない」と、空き店舗を借りて井科とともに商売を始める。運動具店を選んだ理由は「周囲の商売と競合しなかったことと、野球ブームなどで需要があったからだったと思う。何よりも子どもの遊び道具にもなるという、一石二鳥を狙った面もあったかな」(井科)という。
自立しようとする小泉家の気持ちをくんだ近所の人たちは、配給でやっと手に入れた日本酒を「うちでは飲まない」「余っちゃうから」と理由をつけて持ち寄った。井科はそれを担いで東京の料理屋へ売りに行き、その金で運動具を仕入れた。「2年続いた」とも「4、5年ぐらい」とも言われるこの商売が小泉家の生活を支えた。店番は芳江や純一郎の姉たちが務め、セールス担当の純也は夏には真っ黒に日焼けしていたという。純一郎や正也も遊んでばかりいたわけではなく、道具磨きを手伝った。
井科と純一郎は使ったグローブをピカピカに磨くと仕入れたままの品と並べて展示した。必ず磨いたグローブの方が売れたという。「新品、まっさらだから売れるというものではない。使い込んで磨かなければ光らないし売れない。これは人間も一緒」と井科。そんな「実地教育」に純一郎は目を輝かせていたという。
政界に返り咲いた純也は「貧は金なり」と好んで口にした。貧しい中できずなを深める家族と、周囲の温かさに包まれた日々が良い思い出として残ったからだろう。
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時は流れ、1999年夏の高校野球神奈川大会。純一郎の二男・進次郎が関東学院六浦高の二塁手として出場し、ベスト16まで勝ち進む。純一郎は連日スタンドに通い、夢中で声援を送った。
多くの政治家、官僚を絶望のふちへと追いやった公職追放処分。しかし、小泉家はそれを逆手にこれまでかかわったことのない商売の世界に踏み込み、その楽しさ、つらさを学んだ。商品のグローブで遊んだ子ども時代の自分と、息子の晴れ姿を重ね合わせた純一郎。小泉家のたくましさ、きずなの深さを実感したに違いない。(小泉三代記取材班、文中敬称略)平成13年5月26日
神奈川新聞
▼12 脱「よそ者」 地域活動に心血注ぐ 
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基地の街・横須賀で初の革新市長となった長野正義。1973年(昭和48年)まで、4期16年にわたり横須賀市政のかじ取り役を務めた。
社会党に推薦された元教育長の長野は57年(昭和37年)、三選を目指した梅津芳三を破って市長の座を射止めた。首相・小泉純一郎の父・小泉純也は自民党の代議士でありながら、長野を側面から支援した。「横綱(梅津)と幕下(長野)の戦い」をひっくり返した一因とされている。
「梅津さんは『純也さんと仲の悪い勢力』、つまり田川誠一さん(元自治相)の一派と仲が良かった。純也さんには宿敵だ。長野候補を公然とは支援しなかったが、小泉派の保守系無所属市議らが長野候補の後援会を結成して応援した」。長野市政誕生に携わった社会党の元県議・斎藤正はこう打ち明けた。
長野は市長になってからも純也を頼りにした。純也も快く相談に乗っていたという。「革新」の顔を立てる形でライバルを抑え、一方では、「革新」を味方につける。純也のしたたかな一面がのぞく。
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往年の純也を知る人は、「何事も他人任せにせず、地元の面倒をよく見る人だった」と懐かしむ。人情に厚いという性格もあったろう。加えて、鹿児島出身の娘婿という立場が、重くのしかかっていた。
公職追放が解除され、神奈川2区(定数4)で初めて当選した52年(昭和27年)の総選挙。岳父・又次郎は前年に死去している。故郷・鹿児島での選挙と違い、同級生や知人にも頼れない。まさに「ゼロからのスタート」だった。「周囲の面倒を見ることで、『どうせあの人はよそ者』という風評をはね返そうとした」。純也の秘書を務めた元横須賀市議会議長・井科克巳にはそう見えた。
選挙に苦労した。小さな集会所ごとにくまなく個人演説会を開いた。最初は語りかけるように静かに話し、聴衆の関心を引きつける。佳境に入るにしたがって声が大きくなり、顔も紅潮してくる。その熱弁ぶりは評判を呼んだ。
元三浦市議の吉田益男は、三浦市内の演説会で司会を務めたことがある。純也は「三浦半島をよくしたい。皆さんのために働きますので、応援をお願いします」と支持を訴えた。「演説の後、『君、よくやってくれるなあ』とねぎらわれた。若い者にも気配りしてくれた」(吉田)
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正月は支持者をどんどん自宅に上げた。居場所がない子供たち。「純一郎は『おやじがつくるすき焼きが好きだった』と言っていたが、それはすき焼きが来客のない一家団らんの象徴だったからだ」(井科)
そんな父を見て育った純一郎は、全く正反対の態度を取っている。正月は自宅に客を上げず、息子たちと過ごす。新年会は毎年1月4日、後援会主催の「集い」に一本化した。
「国政に専念させたい」という周囲の配慮もあり、地元の政治には口出ししない。父の築いた地盤に支えられ、総選挙期間中も他候補の応援を優先。地元に戻ることは少なく、留守部隊に任せている。「国会議員は国の仕事に専念すべきだ」。純一郎は、講演などで常に主張し続けている。
とはいえ、血は争えない。「以前は物静かだったのに、国会答弁で机をたたく姿など、最近になって熱血漢ぶりが目立ってきた」と親族の一人。薩摩隼人の父親がだぶって見える。(小泉三代記取材班、文中敬称略)平成13年5月27日
神奈川新聞
▼13 安
保 男 防衛問題に信念示す 
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1964年(昭和39年)7月、首相・小泉純一郎の父・純也は60歳にして初入閣を果たす。第三次池田勇人改造内閣で、国務大臣・防衛庁長官となった。小泉家では又次郎が逓信大臣に就任してから、35年ぶりの慶事だった。
「選挙区が横須賀で米軍関係者や自衛隊幹部とも接触が多かった。志願してもやりたい職務だ。自衛隊は国民に愛され、国民のものでなくてはならない」 純也は就任のあいさつでこう力説した。
当選8期と党内ではベテランの域だったが、何度も大臣候補に挙げられながら、組閣名簿から最後は名前が消えていた。「人を押しのけたり、頭を下げてまで猟官運動をするタイプでなかった」と、純也の後任の防衛庁長官を務め、現在は純一郎の助言者的な役割を務める元代議士・松野頼三はみる。それだけに本人の意気込みは並々ならぬものがあったろう。続く佐藤栄作内閣でも留任し、翌年6月まで約1年間、大臣を務めた。
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純也が歩んだ政治家としての道には、日米安保条約問題、防衛問題がたびたび突き当たる。基地の町・横須賀の土地柄が目を向けさせるようになったようだ。その横須賀では旧軍港市転換法に基づく、旧軍財産の市への払下げに尽力。
60年1月の新日米安保条約調印式の際には、米国への派遣議員団の一員となり、岸信介首相とアイゼンハワー米大統領の調印の場にも立ち会った。その様子を純也は米国から神奈川新聞に「百年に一度という歴史的意義ある中に自分はある。政治家の本懐というべきであろう」と感激ぶりを伝えた。調印を終えた全権の一人・藤山愛一郎外相と握手した際のことを、純也は「『おめでとうございました』といったきり、もう私は涙で口がきけなかった」と述懐している。以後、安保に執着する原点となったようだ。
常々、「新安保条約の防衛的な性格を国民に周知徹底させる。この条約は日本経済の発展の基礎である」と主張。晩年は「だれでも分かる安保ガイドブック」の出版計画に情熱を注ぐ。自らの死によって日の目は見なかったが、純也の口述を原稿用紙に50枚以上も書き写した。「純也先生は『日米安保の改正のたびに日本で騒ぎが起きていては、日本の国益を損なう』とよく言っていた。1人でも多くの国民の理解を得ようとしていたのだろう」と、その心中を察した。
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長官在任中、防衛史上に残る事件にも直面した。日本初の有事研究といわれ、北朝鮮を仮想敵国とした自衛隊幹部による極秘文書「三矢研究」だ。65年2月、国会で社会党により暴露された。防衛庁長官の頭越しに行われた研究は一時、純也を窮地に追い込む。三矢研究小委員会が設置されるなど、数ヵ月にわたり国会は紛糾したが、「内容は不適当な面もあったが、防衛庁に正規に決定された文書でなく、あくまで幕僚の研究」との主張を押し通した。
ときは移り、宰相となった長男・純一郎は、純也が野党の追及の矢面に立った同じ国会の場で、歴代首相が二の足を踏んできた有事法制の研究や憲法9条の改正問題について、積極的な発言を続けている。「平和のときに乱を忘れないのは政治で最も大事だ。有事にどういう体制を取るかの研究は大事」「集団的自衛権を行使できるように憲法を改正するのが望ましいが、なかなか難しい。あらゆる事態について研究していく必要がある」
民主党や公明党が「論憲」の立場に転じるなど、憲法をめぐる政治的な環境の変化を受けての、「タブーへの挑戦」ともいえる。「カラスが鳴かない日があっても、三矢研究が追及されない日はないな」。「安保男」の異名を取った純也が秘書らにこう嘆いた時代状況とは、様変わりだ。(小泉三代記取材班、文中敬称略)平成13年5月28日
神奈川新聞
▼14 献 身
一直線に駆けた人生 
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おもむろに背広の上着を脱いで、聴衆に肩口の古い傷あとを見せつける。
「皆さんは『自民党は労働者に冷たい』というが、私も若いころは、労働者として鶴見のガラス工場で職工をやっていた。そのときガラスで切った傷だ!」
首相・小泉純一郎の父・純也にとって、最後の選挙となる1967年(昭和42年)1月の総選挙でのひとこま。「黒い霧解散」によって突入した選挙戦は自民党に逆風が吹き、元防衛庁長官の純也でも当選は危ういとみられていた。選挙区の旧神奈川2区では、革新政党が強い川崎市内の演説に自然と力が入った。当時63歳の純也。選挙区の候補者の中では最年長だったが、若手候補に負けずに得意の熱っぽい演説で聴衆を引き付ける。結果、予想を覆し3位(定数4、候補9人)で9回目の当選を果たす。
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「吾道一以之貫(吾道一をもってこれを貫く)」自分の道を決めたら、とことん追及するといった意味のこの言葉が政治信条だった純也。地元で秘書を務めた県議の牧島功が「純也先生は聴衆が50人でも500人でも、手を抜かずに全力で演説していた」と感心するように、純也は真っすぐゆえに不器用な性格でもあった。防衛庁長官就任時の各新聞紙上の純也評も「直情怪行でウソをいわない」「万事手堅くというのがモットーだけに、実直そのもの」などとある。
純也のおいで元横須賀市議会議長の井科克巳によると、「これまでの防衛庁長官は夏に北海道、冬に九州と楽な方へと巡視をした。だが、純也は『隊員の厳しい任務の実態に接したい』と反対のコースでくまなく出向いた」という。隊員を励まし、地元住民の理解を求めるため、直接対話に情熱を傾けた。55年体制の最中で、自衛隊への風当たりは強く警備上の不安もあったが、「父は『それが自分の仕事だ』といって平気だった」と、二男の正也もいちずな父の背中を思い出す。井科はさらに言う。「こうした身を削るような姿が、寿命を縮めたのかもしれない」
68年(昭和43年)7月の参院選全国区に、現東京都知事・石原慎太郎が出馬したときのことだ。横須賀で開かれた講演会に純也は病を押して、35歳の若い石原の応援に出向いた。党内一とうたわれた雄弁家、純也は演説後、自宅に石原を招き、「間の取り方はこうだ」「水は飲まない方がいい」んどと熱心にアドバイスしていたという。
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一方、石を集めるおだやかな趣味もあった。自宅、議員会館に大小数百もの石がずらり。後援会「小泉同志会」青年部のメンバーだった遠藤喜義=横須賀市船越町=は、かって石の好きな理由を尋ねた。「長い年月をかけて、どういう風にこんな形になったのか考えていると、無言のうちに気持ちが静まる。精神統一するんだ」と純也。大学時代に書生として小泉家に出入りした前県薬剤師会事務局長の雪田義昭は、純也が「石は口を聞かないが、こちらの気持ち呼応してくれる。悲しいときは慰めてくれるようだ」と話していたことを思い出す。寡黙な石に自身の強い意思を重ね合わせていたのかもしれない。
苦学しての上京、又次郎の一人娘との駆け落ち、初当選、公職追放からのカムバック、最後は大臣へ・・・。波乱の人生を駆け抜けた純也は最期まで病気をひた隠しにしていたが、69年(昭和44年)8月、肺がんのため永眠する。65歳の若さだった。当時、27歳の首相・純一郎は、留学先のロンドンでこの悲報を受け取ることになる。(小泉三代記取材班、文中敬称略)平成13年5月30日
神奈川新聞
▼15 暴論は正論
上 「脱」しがらみが道標 
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「必勝 小泉純一郎君」
1969年8月。父・純也の死を留学先のロンドンで聞いた首相・純一郎は日本にとって返す。純也は色紙を残し、純一郎に後継を託した。
しかし、その年の12月には解散総選挙に突入。準備不足は克服できなかった。旧神奈川2区(定数4)で10万3千票を得ながら、4千票差の次点で敗れる。ここから72年12月の総選挙で初当選を果たすまでの間、純一郎のとった行動は「政界の常識」とはかけ離れたものだった。
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初めての選挙戦で純一郎は「組織や団体票をあてにしていては新人は勝てない」との教訓を得る。選挙区の自民党の先輩は田川誠一(後に新自由クラブ、進歩党を経て引退)。あらゆる組織のトップと意見を交わして人望を得る一方、末端の支持者へもこまめに手紙を書いて交流を持つなど、新人には食い込めない環境を築いていたという。
純一郎は純也が「私の当選は私と会ったこともない人たちの一票のおかげ」と無党派への呼び掛けを繰り返していた理由を実感。再挑戦にあたり「支持してくれたとしても特定の団体や組織の言いなりにはならない」と宣言をした。「決して田川さんが言いなりになっていたわけではない。既成の団体や組織は新人の自分を応援してはくれないだろうし、こちらが先に『決別宣言』をしただけ」。後に純一郎は答えている。
選挙区定数4を占めるのは自民、社会、公明、民社。「主要政党の現職がそろい踏みする中で勝ち抜くには、組織とは無縁の無党派的な支持層に呼び掛けていくしかなかった」と弟で秘書の正也。「父は反面教師。自分は自分なりにやる」という純一郎の姿勢は支持者に反発を招く一方、共感と反省も呼び起こした。
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純也は祖父・又次郎の娘婿で鹿児島県出身。「よそもの」のレッテルを張られることを避けようと細かい陳情をこなし地域政治にも深くかかわった。9期務めた純也の入閣は防衛庁長官として一回きり。「純也さんは地元のことでエネルギーを費やし過ぎた。純ちゃん(純一郎)におなじてつを踏ませるわけにはいかなかった」と小泉家を支援し続けたきた横須賀商工会議所会頭・小沢一彦。
「わがままには付き合えない」と離れていった支持者や団体があった一方、新たに加わってきた人たちもいた。純也の細かい口出しをめぐり、小泉家とたもとを分かっていた元県議会議長・竹内清は「親とは違いドライな姿勢を貫こうとしている」と純一郎に好感を抱く。せまい上に茶菓子一つも出せないという純一郎事務所の窮状を知るや、経営するビリヤード場を休業して提供した。「しがらみのない政治家を育てのびのび働いてもらう」。小沢や竹内が純一郎に託したロマンは求められる政治家の理想像でもあった。
そして、臨んだ72年12月の選挙戦。初当選を「脱しがらみ」の道標(みちしるべ)にしようと気丈に振る舞う純一郎だが実際には心身ともにくたくただった。演説会場をはしごする間は竹内の車の中で死んだように眠りこけた。正也は小泉家の菩提寺・宝樹院(横浜市金沢区)を訪ね、又次郎と純也の墓の前で一心不乱に拝んでもいる。結果は公明、民社の2前職を退けて初当選。「手伝う自分にとって、自分の選挙よりつらかった」(竹内)という激戦を勝ち抜いた純一郎は、父を超える強固な地盤と政策主張のフリーハンドを得た。その後は危なげなく連続10期当選を重ねている。
「見える票(組織・団体票)におびえていては改革はできない」と主張し続ける純一郎。「見える票は現職のもの。それを超えて当選してきた新人時代を思い出せ」と議員たちを鼓舞する。「脱しがらみ宣言」で戦い抜いた初当選時の経験が自信の背景だ。(小泉三代記取材班、文中敬称略)平成13年5月31日
神奈川新聞
▼16 暴論は正論
中 育てた人脈と師弟愛 
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「福田赳夫さんに学べ」1969年春、ロンドン留学中の首相・小泉純一郎は父・純也からの手紙を受け取る。「『おれに何でも言ってこい』というタイプだったおやじがどうしたのだろうかと思った。その時にはすでに病魔に侵され死を覚悟していたのだろう」と純一郎。69年8月、葬儀のため帰国。弟の正也からも「福田さんに付け」との父の遺言を伝えられた。
当時蔵相の福田とは、純也葬儀のときが初対面。総選挙出馬(同年12月)にあたっては大臣室にあいさつに出向く。「『がんばんなさい』と励まされたが、相手が大物だと思っていたからこっちはコチコチだった」。田中角栄との「角福戦争」、そして竹下、小渕、橋本派という田中派の流れをくむ派閥との対決。福田を師に選んだ純一郎は以後、「数の力」という党内最大勢力と戦い続けることになる。
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純也はなぜ福田にこだわったのか?正也によると、ともに「安保派」の岸信介の流れをくみ政策的に一致することが第一点。福田が小泉家のような「党人政治家」と違い「官僚政治家」であったことも背景という。大蔵官僚出身の福田は国の仕組みを熟知していた。軍用地払い下げなどをめぐり官僚とやり合うことが多かった純也の相談にのり助けていたとされる。「お互い不器用。地位を得ようとして小細工をしたり妥協したりできない。それが共感を深めたいったようだ」(正也)という。
最初の総選挙で落選後、純一郎は東京に通い、福田の下で修業することを決意する。「地方議員になるわけではないのだから国の仕組みを知り、人のつながりを持たないとだめだ」との思いからだ。「そんなことは当選してから考えろ」「選挙区回りが最優先だ」「など周囲からは反発も。「脱しがらみ宣言」と同様、政界の常識とはかけ離れた行動だったからだ。
しかし、横須賀商工会議所会頭・小沢一彦ら長年の小泉家支持者は修業賛成派に回る。「地域にどっぷりつかった純也さんと同じ道を、息子(純一郎)にまで歩ませることはない」(小沢)。何よりも一連の行動が「政治家として大化けする可能性」を予感させ「思い通りにさせずにはいられなかった」という。
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秘書時代の純一郎は毎朝4時に起き、東京の福田の私邸まで電車で通った「朝7時までに家に入らなければならないが、来客はすごい数。列をなしているという表現はオーバーじゃない」。訪問目的は陳情、相談事、意見交換など多彩。官僚、文化人、企業関係者らあらゆる種類の職種や地位の人が訪れた。純一郎は玄関でそのはきものを並べ、福田が記念の色紙を書くための墨をすった。
福田さんは真剣に人の話を聞いた。聞き流しをしない。そして約束は口約束でも必ず守った。政治家としてかくありたい」。純一郎は思った。一方、福田は直情怪行的な父・純也にはない純一郎の辛抱強さを買うことになる。
福田は純一郎にプラスとなると感じた来客は引き合わせた。特に純一郎と同世代の官僚や企業関係者が「お使い」に来ると「彼(純一郎)は必ず大物になるから末永く付き合ってほしい」と頭を下げたという。純一郎の初当選後、小沢の音頭で発足した後援組織「福泉会」には各界の若手有志が集結した。今もシンクタンクの役割を担っている。
1978年、初の予備選方式で行われた総裁選で福田は、田中が推す大平正芳に大敗。「天の声にも変な声がある」との名言を残し総理総裁を降りた。悔しさから人目もはばからず泣いた純一郎。23年目のことし、雪辱を果たし、天にいる師匠の恩に報いた。(小泉三代記取材班、文中敬称略)平成13年6月1日
神奈川新聞
▼17 暴論は正論
下 公論に決し 妥協は死 
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「横須賀生まれの注目の新人は小泉純一郎と山口百恵。二人とも日本の大スターになる」
1973年新春のことだ。純一郎の初当選後、初めて地元・横須賀で開かれた後援会の集い。自民党総務会長として弁士に招かれた松野頼三は切り出した。祖父又次郎と父・純也の政界での活躍を熟知し、純一郎の師匠・福田赳夫とも親しい松野。「小泉家の血プラス福田イズム」という計算式から純一郎の未来をこうぶち上げた。
「三振もあるがホームランだって打つ。気長に応援してほしい。ここ一番で必ず必要な政治家になる」松野の純一郎評は「いちずなところは祖父、こびないところは父譲り、主義主張を何よりも重んじ徒党を組まないのは小泉家流」。純一郎なりの独自色については「賛成の時には黙っているが、反対の時には相手がだれであろうとかみついていく。名犬は一匹おおかみから出るが、その代表格ということだ」と持論を展開する。
そこに加わった福田イズム。「数は力」の田中角栄型政治と戦い続けたその底流は「アンチ妥協」だ。
「多数が少数と妥協すればのみ込んでしまうが、少数が多数と妥協すれば殺される」と松野。「ものをはっきり言うが愛想がない男」という純一郎の第一印象に「地位や名誉におぼれて奴隷となるより、政策実現のためのやせがまんの道を選ぶ」との政治家としての理想像を重ね合わせた。純一郎と与野党の有望な政治家による忘年会「闇鍋(やみなべ)の会」を主宰するなど支援を続けている。ちなみに純一郎が党政調会長に狙いを定めた経済産業相・平沼赳夫、前経済財政担当相・麻生太郎は同会のメンバーだ。
× × × 百恵 碑
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純一郎が頭角を現すのは1980年の大蔵政務次官時代、郵貯充実策などを掲げた郵政相に「民業圧迫する」とかみついた。この時、仲裁に入った官房長官・宮沢喜一は首相になると純一郎を郵政相に任命する。自民として国民の人気を集め始めた純一郎を取り込む意図があったともされるが、就任会見(92年12月)でいきなり郵貯の高齢者マル優枠の拡大に反対。与野党双方から攻撃を受けても持論を曲げなかった。
93年7月の総選挙で自民党が過半数割れをすると「国民の声に従うべきだ」と宮沢に退陣勧告。辞表をたたきつけて郵政相を辞任する。95、98年の党総裁選では苦戦覚悟で郵政民営化を公約に掲げた。民営化の超党派勉強会の運営に力を注いだここ数年は閣僚や党役職につくことを拒否。「政治家も行革に協力すべきだ」などとして在職25年の永年勤続表彰も辞退している。
「こびず妥協せず」の姿勢は永田町的には「スタンドプレー」と映り、支持は広がらなかった。しかし、純一郎は「永田町の暴論は世間の正論だ」「やせてはいるけどやせがまんとは無縁」などとどこ吹く風。「一言居士」で通し続けた。政治不信が頂点に達した21世紀冒頭、その一貫性が「旧来の政治の対極にいる政治家」として小泉をクローズアップ。首相へと押し上げることになった。
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「主義主張を通して死すことはあっても、命を永らえてまで妥協するな」。首相就任報告をした電話で松野から強烈な激励を受けた純一郎は「初心を貫く」と応じた。「永田町の少数派」を脱する道は険しい。打ち上げた改革のボールをスタンドにまで到達させるには、自ら首相にした世論の追い風が不可欠だ。
「万機公論に決すべし」。
25日官邸の庭で首相就任一カ月の感想を求められt純一郎は「国民の声」をよりどころに政治を進めていく決意を表明した。その言葉は祖父・又次郎が普通選挙実現運動を戦い抜くために掲げたメーンスローガンにほかならなかった。(小泉三代記取材班、文中敬称略)平成13年5月14日
神奈川新聞 この連載は報道部・有吉敏、鈴木昌紹、川崎支局・佐藤浩幸、横須賀支社・石川修巳が担当しました。







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更新日 2001/07/2