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1941年生まれ。66年小学館に入社し『おそ松くん』の6代目担当者となる。以後『もーれつア太郎』『レッツラゴン』などの作品を担当。少女マンガ部門に異動後、「ちゃお」「別冊少女コミック」「プチコミック」などの編集長を歴任する。2002年に退職後、2005年『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』(文藝春秋)を発表。
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第2回は「週刊少年サンデー」で複数のヒット作を担当された武居俊樹さんです。赤塚先生と最も親密だった担当編集者で、『レッツラゴン』の「武居記者」として赤塚先生とのバトルを演じるキャラクターとしても有名です。『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』では、先生との深い関係がコミカルかつ感動的に綴られ、話題の本となっています。
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--- 今年(2005年)5月に発売された『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』を中心に、突っ込んだ内容のお話をうかがえればと思います。まずこの本を出された経緯からお聞かせください。 |

| 武居: |
なにかものを書くんだったら、先生のことを書こうと思ってはいました。たまたま、2003年の北見けんいちさんの新年会で、文藝春秋の松井さん(週刊文春連載『ギャグゲリラ』3代目担当)と飲んでて、僕が昔小説を書いてたという話になりました。その年末に年賀状で「そろそろ赤塚不二夫伝でも書いてみようかな」って、一言添え書きをしたんです。
そしたら松井さんから4月に連絡があって、「赤塚不二夫伝」じゃなくて僕と赤塚不二夫の関係について書こうという形で進みました。それから取材したり、先生の作品や活字本を読んだりして、9月ぐらいから書き始めて年末にあがりました。赤塚先生についてはこの本にすべて書きましたから、これ以上突っ込んだ話は難しいな(笑)。

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--- 1966年当時の「週刊少年サンデー」では、新人は「手塚番」「赤塚番」のどちらかの担当になった(注1)と書かれていますが、これは伝統的なものだったのでしょうか。 |

| 武居: |
ええ、その後はわかりませんが、僕のあたりまでは若くてエネルギーがあるやつが担当、ということだったと思う。

| (注1) |
著書では武居氏が「赤塚番」として『おそ松くん』の担当を引きつぎ、アイデア会議に参加するエピソードから始まる。このアイデア会議の回「かけもちメリー=ポピンズ」は『おそ松くん』21巻に収録。
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--- 「手塚番」「赤塚番」以外に「○○番」という言い方は他のマンガ家の方ではされないですよね。担当が大変だということでも別格だったのでしょうか。 |

| 武居: |
(他に「○○番」という言い方は)しないですね。ストーリーマンガの手塚、ギャグマンガの赤塚というのは当時から別格でしたから。でも僕は赤塚番をちっとも大変だとは思わなかったですね。他の人もみんな楽しかったと思いますよ。手塚番は大変だったかもしれないけど(笑)。
僕はずっとフジオプロに詰めていましたが、他の人はそれぞれですね。ただ、仕事でなくてもあそこへ行ってるっていう人はいっぱいいました。赤塚先生といるとおもしろかったし、それだけ先生に魅力があったということだと思います。

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--- アイデア会議は『おそ松くん』の初代担当の椛島さんから始まった(注2)ということですが、当時の「サンデー」でそのようにアイデア会議をされている作品はあったのでしょうか。 |

| 武居: |
いや、ないでしょう。ひとつのマンガにいろんな人がかかわるというのは、おそらくトキワ荘の時代に何か創ろうとしたときにみんなでウワッて協力するっていうことがあったから、それを純化した形でアイデア会議になっていったんじゃないかと思いますね。
| (注2) |
担当の椛島氏はイヤミのモデルになったとされている。内容をよりおもしろくするため妥協を許さず、自らもアイデアを出していく人で、赤塚は「徹底的にしごかれた」と語っている。
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アイデア会議をやったのは、やはり調子が悪くても複数の人間がいたほうが、一定のレベルを保てるっていうところが一番大きな原因じゃないかなって思います(第一回参照)。僕の担当時代で、知ってる限りでは赤塚先生一人でアイデアをやったのは、「まんがNo.1」(注3)の『くそババア』ぐらいじゃないかな。本人から聞いてないから正確にはわかりませんけど、それまでアイデアを複数でやってて、これは一人でやってみようと思ったんじゃないかと思います。

| (注3) |
「まんがNo.1」(日本社 1972年創刊)は、赤塚が出資し赤塚不二夫責任編集として企画された雑誌(実質的には長谷邦夫氏が編集担当)。表紙に横尾忠則氏を起用し、レコードを付録につけるなど画期的な内容だったが6号で廃刊となった。
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--- 武居さんの働きかけで『天才バカボン』が「サンデー」へ移籍するという、当時では衝撃的な出来事(注4)がありましたが、このときの読者の反応はいかがでしたか。 |

| 武居: |
『天才バカボン』移籍の実情については、この本に書いた通りです。ある意味「サンデー」の読者も「マガジン」の読者もおもしろかったでしょう(笑)。「ヒエー、こんなことやるのか」っていう。「事件」として受け取られたと思います。

| (注4) |
『天才バカボン』は「週刊少年サンデー」に移籍して『もーれつア太郎』とダブル連載を開始(1969年35号〜)した。しかし、『もーれつア太郎』のニャロメ人気で『天才バカボン』の影は薄くなり、半年後に『バカボン』は終了する(その後「週刊ぼくらマガジン」を経て「週刊少年マガジン」に復帰)。
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--- 赤塚先生は雑誌の中でトップを取りたい、という気持ちは強かったのでしょうか。「マガジン」の五十嵐さんは、『バカボン』移籍の理由のひとつに、「マガジン」ではトップをとれなかったから(第一回参照)というのがあったのでは、という話がありました。 |

| 武居: |
いや、先生はそういうことを考えるタイプではなかったですよ。トップをとったほうがいいとは思っていたんだろうけど、それは読者が判断することだっていう。われわれは単純に「先生、(人気アンケートが)何位だよ」と言ってはいましたが、そういう種類の話はしたことないですね。五十嵐さんはそう思ったのかもしれないけど。
『おそ松くん』のときはトップをとってましたが、その後はトップを外れているときもあったね。「サンデー」では『ターゲット』(園田光慶 1969年〜1970年連載)がずっとトップだったんじゃないかな。その前の『あかつき戦闘隊』(作:相良俊輔 画:園田光慶 1967年〜1969年連載)もすさまじくおもしろかったし。この二つは赤塚先生を抜いているかもしれない。
でも、われわれは赤塚不二夫のベストが出せればいいと考えてましたからね。相対的に誰かの方が人気ということは、担当者としては悔しいこともありますけど、先生は考えなかったんじゃないかな。ギャグとストーリーマンガなんだし。

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--- 「劇画のマガジン」に対して「ギャグのサンデー」という言葉がありましたが、当時「サンデー」のギャグマンガの中での競い合いというのはありましたか。 |

| 武居: |
いや、ギャグの種類も違いましたから、そういうのもないと思います。「マガジン」に乗り込んでいくときはそういう気持ちもあったかもしれないけど(注5)、でもあの人はウソをつくからね(笑)。後づけの理由じゃないかな。とにかく「サンデー」「マガジン」というふたつのトップ雑誌に描きたかったんじゃないかと思います。

| (注5) |
『天才バカボン』の連載開始にあたり、赤塚は武居氏に「マガジン連載の森田拳次のギャグ作品をぶっ飛ばしたい」という内容を語ったとのこと。
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--- 『もーれつア太郎』の途中(全集では4巻)から、「サンデー」掲載の作品はすべてページ四隅の枠線が丸くなっているのはなぜでしょうか。 |

| 武居: |
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小学館「週刊少年サンデー」1969年11月2日号55Pと109P。角が丸くなっている
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これはふたつ理由があって、ひとつは画面にソフト感を出すということと、もうひとつは画面を横にちょっと広くしたということです。雑誌だとハシラ(欄外に入る告知などの文字)がありますが、先生はハシラをいやがったんです。
ハシラが入るぐらいだったらちょっとでも画面を広げようっていう先生のサービス精神ですよ。
誌面で5ミリから7ミリぐらいの拡大かな。最初と最後のページだけはハシラが入るようにしてます。先生の提案を「サンデー」はOKしたんですよ。『天才バカボン』も「サンデー」掲載の回は角が丸いのでわかります(注6)。

| (注6) |
『天才バカボン』の「サンデー」掲載分は、赤塚全集では6巻、7巻、8巻に収録。最初の講談社版『天才バカボン』の単行本には「サンデー」掲載分は未収録だった。
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--- 『もーれつア太郎』のニャロメ人気で、当時の学生運動のセクトに「全学連ニャロメ派」ができたそうですが、赤塚先生は政治的な思想みたいなものはある人でしたか。 |

| 武居: |
政治的な思想や党派性みたいなものは全くなかったんじゃないでしょうかね。ただ、人間の生き方として「権威みたいなものに対して許せない」というような気分はあったかもしれません。
ニャロメやチビ太なんかがそうですけど、虐げられているもの、疎外されているものに対する愛情が強いですね。彼らは決して強くはなくて、六つ子たちに反抗していってはじき飛ばされる。先生はワキ役のそういうキャラクターのほうがイキイキと描けるんですよ。

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--- 『レッツラゴン』(注7)は、連載途中からお二人でアイデア会議をされていたとのことですが、その状況について聞かせてください。向かい合って座って、しゃべりながらネームを入れていくのでしょうか。 |

| 武居: |
そうです。しかもネーム用紙ではなくて原稿用紙に直接描くんです。だから描き始めると後戻りできない。先がまったくわからない緊張感の中でやってました。普通は会議でレポート用紙にまとめたアイデアを先生がセリフを決めてネーム用紙に入れていきますが、原稿用紙に直接っていうのは、当時は初めてですね。やりなおしなんてしないですし、最後のページへ行っても、オチがどうつくかもわからない。

| (注7) |
『レッツラゴン』(「週刊少年サンデー」1971年35号〜)はシュールかつアナーキーな過激さを持つ作品で、後に赤塚は自身で「オレが最後に描いた本当にナンセンスの漫画なんだよ。自分でいちばん好きな漫画なの」と評している。
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--- 『レッツラゴン』には臨場感というかスピード感というか、強い勢いを感じました。そのように創作する方は今もほとんどいないと思いますが、当時としては特に画期的だったのではないでしょうか。 |

| 武居: |
当時のことを知ると特にそう感じるかもしれないですね。でも、(画期的かどうかについては)そんな方法で創られているなんて、編集部の人も誰も知らなかったですから。

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--- 『レッツラゴン』ではその回の冒頭に武居さんが出てきて、赤塚先生とのバトルが始まることがありますが、ソファーをカッターで切るなどのエピソード(注8)は本当のことなんでしょうか。 |

| 武居: |
そんなことやりませんよ(笑)。みんなで遊んでいるときにはいろいろやりましたが、基本的には常識のある人たちですから。「武居記者」はそういうキャラクターであって、僕自身とは関係ないんだって思ってました。会社のエレベータにションベンぐらいはしたかな? でも先生のところではしませんよ(笑)。

| (注8) |
赤塚:「ソファーを切った武居さん! 犯人はあなたですか?」 武居:「バカ塚へ!! ガタガタ言うと連載切るぞ!! バーロー!!」などのやりとりが冒頭で展開された(『レッツラゴン』6巻に収録)。
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--- 「武居記者」はそんな人だと信じてしまう人もいたんじゃないでしょうか。 |

| 武居: |
読者も遊んでたんですよ。そういうことをする「武居記者」を楽しんでいたんじゃないかな。ありそうでなさそうでっていうキャラクター、マンガの中のゴンとかおやじとかゲンちゃんとかとは違う次元のキャラクターがいて、種類の違った笑いを提供しようっていうことだったんですね。

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--- 『天才バカボン』でもイガラシ記者(五十嵐記者)が出てきますが、あくまで「編集者とマンガ家」というストーリーの形になっていてニュアンスは違いますね。担当者による違いはあるのでしょうか。
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| 武居: |
僕のことをヘンな部分があるやつだっていうぐらいのことは思っていたんでしょう。こいつだったらデフォルメしたらこんなことをやりそうだ、っていうことは考えてたかもしれない(笑)。

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--- 担当の違いで言うと、五十嵐さんが言うには、「武居さんは熱情派で先生と一緒に盛り上がって作品を創っていくタイプ。自分はマジメなので一定の水準のものをとっていく」という話をされていました(第一回参照)。 |

| 武居: |
いや、彼も「武居がどんなにがんばっても『バカボン』を抜けないだろう」って思ってたんじゃないかな(笑)。僕も悔しかったですよ。圧倒的に『バカボン』のほうがおもしろいわけだから。客観的に見ると自分でもはっきりとわかりますからね。
ただ、あそこまで赤塚先生とベタっとやるっていうスタンスは確かに異常でしたね。でも、もちろん僕の中にも編集者として客観的な部分、赤塚不二夫のそのときのベストの原稿を取るんだっていうのがありました。だから、先生も「武居にいい加減な原稿は描けない」と思っていたと思うし。編集者と作家っていう部分は永遠に変わらないですから、どういうタイプが好きかというのはまた別の話でしょうね。
あの人は、新人であろうがベテランであろうが、重役であろうが編集者であろうが、分け隔てをするような人ではなかった。人間の幅が広いんですよ。僕みたいな生意気なマンガを知らない文学青年だか映画青年だかが突然来てもスッと受け入れる度量がある。
あの人は相手の力を引き出すのがうまいんです。コイツには他と違った面があるだろうっていうところを引っ張り出そうとする。話しながら性格を読んでいくうちに、アイデアにうまく使っていくような貪欲な部分があったんじゃないですかね。

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--- 今年は赤塚先生に関する本がたくさん出ましたね。10/15の青梅の赤塚不二夫会館の記念イベントでは、藤子不二雄A先生が(病床の)赤塚先生の顔色がとてもいいとおっしゃってました。 |

| 武居: |
『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』は、先生が今年70歳の誕生日と画業50周年を迎えるということを知っていて執筆しました。先日週刊文春に書評を書いた「赤塚不二夫のオコトバ」(二見書房 9月発売)が出て、オンデマンド版の全集も出て、記念のお祝いになるかなって思います。先生の顔色がいいのはそりゃそうでしょう。だって今は体に悪いこと何もしてないからね(笑)。

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| (2005年10月 神保町「古瀬戸」にて取材) |
<参考文献>
・ 武居俊樹『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』文藝春秋 2005年
・「週刊少年サンデー 30周年記念増刊」小学館 1989年
・ 『アカツカNo.1』イーストプレス 2001年
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| 次回のインタビューは、元アシスタントの北見けんいちさんです。 |
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