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ガメ・オベールの日本語練習帳iii-大庭亀夫の生活と意見 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-10-18

gameover10012008-10-18

誤解

| 00:30 | 誤解 - ガメ・オベールの日本語練習帳iii-大庭亀夫の生活と意見 を含むブックマーク はてなブックマーク - 誤解 - ガメ・オベールの日本語練習帳iii-大庭亀夫の生活と意見 誤解 - ガメ・オベールの日本語練習帳iii-大庭亀夫の生活と意見 のブックマークコメント

「日本人というのは、まったく失礼な奴らだ」

おっちゃんは、さっきから、えらい勢いで怒っています。

ただですらゴルフ焼けして赤い顔を、怒りでますます赤くしているので、ジッと眺めているわしは「桃太郎に出てくる『赤鬼』っちゅうのは、やっぱり漂着した欧州人ではなかろうか」とのんびり考える。そうすると『青鬼』というのはアフリカ人かの。

「まったく、こんな不愉快なゴルフは初めてだ」

「ひとつ前に4人の日本人がいたんだが、まったく失礼極まる」

「いったい誰が、あんな品のない人間をゲストでプレイさせることにしたのか、この次の例会で追及せんわけにはいかん」

おっちゃんが、あまりにコーフンして卒中でも起こされると面倒なので、わっしは、一応礼儀に則って何があったのか質問してさしあげねばならぬ。

「どうしたんすか」

「いや、きみ。若い友よ。まあ、聞きたまえ。どこかの愚か者が連れてきた日本人たちがゴルフをやるのは良いが、この東洋人たちが、二言目にはお互いに、くそったれ、あほんだら、と言い合いながら笑いこける。わしは、我慢ならん!」

おっちゃんよりはカシコイわっしは、一瞬でことの真相を見破ります。

でもって椅子からややずるっこけながら、笑いくずれる。

「それ、『ああ、そう』って言ってるだけでんがな。確かにアスホールと発音、同じっすけどね。第一、お互いに日本語でずっと話してたんでしょう? それにさっき、どの日本人もカタコトのひでー発音の英語だって言ってだじゃねえすか。そこだけ、そんな上手な発音で言うの、ヘンだとおもわなかったんすか」

おっちゃん、口を小さく開けてポカンとしています。

やっと事態を理解して、今度は大笑いしだした。


実は、この誤解は、よくあるのです。「ああ、そう」という、日本のひとがよく使う日本語は、そのまま「アス・ホール」という、思いっきり汚い罵り言葉と発音がまるきり同じなので、たとえば、むかし、かーちゃんのかーちゃんも同じ誤解に基づいて顔をしかめていることがあった。


賢明なみなさんは気付かれたと思いますが、日本の現首相も英語国民にとっては名前が相当ビミョーである。わっしも頭ではわかっていますが、麻生首相、と聞くたびに、なにがなしモンティ・パイソンハンガリー人スパイを思い浮かべてしまいます。もちろん、首相の名前は日本では由緒正しい九州の名門であって、そんなことを考えるほうがバカガイジンだが。


スポーツの話、というのは特に初対面のひととよく話題にします。

万国共通の習慣である。わっしは普段、ほうっておくと、全然日本語を話しません。なんとなく照れくさいので知ってる素振りも見せませんが、わっしが日本語を理解するとすでにばれているひとの集まりでは無論 日本語で話します。わっしが自称ニュージーランド人であるものの、ほんとうはしょうもない連合王国人であると聞き及んでいるひとは、わしとの話の手始めにサッカーの話をするひとが多い。

わっしは実はサッカーはルールも知らないのであって、連合王国人として不埒ですが、日本のひとはサッカーが好きなので、こっちの気持ちにはお構いなく、どんどん知識を披瀝します。

いろいろ教えてくれる。

それは、よいが。


サッカーサッカー」と言われるのが、ちょっと困るのです。

どういうか、みんなが盛大にスープをすすり上げている狭いレストランにいる感じというか、腰が浮いてしまう。英語では、サッカー、というのは違う意味である。ジーン・ハーローに言われるのなら、まだ良いが。

サッカーというカタカナ語をつくったひとは、きっと何か日本人に恨みがあったのであって、それで、こういう表記にしたのではないか、とわっしはむかしから疑ってます。

あれは、どう考えても「ソッカー」でなければ、不穏である。


ニュージーランドの若い層は日本人のことを「ジャップ」 と言うひとが結構増えた。

あんまりジャップ、ジャップと言うので、「ジャップというのは、蔑称なんだから、あんまり使わない方がいいんだぜ」というとキョトンとしています。

なんで? と言う。

だって、ジャップはジャップでしょうが、他にどう呼ぶの。

連合王国人もそうですが、例えば日本のクルマを普通に「ジャップ・カー」と言う。

特に軽蔑的な意味を持たせているわけではありません。

わしが子供の時には「ノー・ジャップ・カー」という巨大な横断幕を張り巡らした有名なクルマ屋があったくらいで、堂々たるものです。

そういう習慣があるものだから、さっきから目の前で「ジャップ、ジャップ」と連発しているニーチャンの頭のなかでは、「ジャップ」という言葉が単に「ジャップ・インポート」からインポートが落ちただけと意識されているのでしょう。

合衆国では日本の略号はJPNですが英国圏ではJAPであるのも影響しているかもしれません。本人たちは日本のひとがマクドナルドマックと読んでいるくらいのつもりなのである。

しかし、これを聞く日本のひとたちにとっては、あまり愉快なことでないのは言うまでもない。


もっとビミョーで、もっと深刻な言葉や習慣の行き違いもあります。

テキサスの酒場で、日本の留学生が半殺しにされるまで殴られたことがあった。

この若い日本人は「軽い気持ちで」相手に中指を立てた。

「ファック・ユー」と言って、にやにや笑った。

実は、少しくだけた挨拶くらいのつもりで中指を立てて見せたのだそうです。

このジェスチャが如何に深刻な侮辱であって、「軽い意味」など全くないことを知らなかった。

わっしはロスアンジェルス空港で「ファック・ミー」とでっかく胸に書いた Tシャツを着ている日本の女の子を見たこともある。

あの女のひとは無事に日本に帰れたろうか、といまでも時々思い出して考えることがあります。残念ながら、まったく無事に帰れた可能性は低いと思う。


英語が堪能であるifeelgroovyのシャチョーも、合衆国のレストランで、指を鳴らして、「ヘイ!」とデカイ声でウエイトレスを呼んで、わっしをびびらせたことがある。

「そーゆーことをしては、いけません」と言うと、「えっ?だって映画とかで、やってんじゃん」 と不服そうであった。

シャチョーのビジネス相手であるテキサスのおっちゃんが、それを面白がって、バーベキュー屋で「ヘイ」と言って、ふざけてウエイターを呼んでました。シャチョーは、それを演じてみせるテキサスおっちゃんの、シャチョーに対してはソートーに失礼なテキサス風の茶目っ気も判らないので、ますます悩んでおった。


戦後の日本人BC級戦犯の裁判記録を読んでいると、こういう些細な誤解が時にいかに重大な結果を引き起こすか、よくわかります。

わっしは、「死の行進」で弱りきったアメリカ兵になけなしのキンピラゴボウを分け与えたせいで戦犯として死刑を言い渡された日本兵のところまで読んで活字が涙でにじんで読めなくなる。

その簡単すぎる裁判記録から浮かび上がってくるのは、見るに見かねて敵兵に親切にしようと考えた若い日本兵の緊張と照れからくる強張った顔と突っ慳貪な態度であって、若い弱りきったアメリカ人の胸に突き倒すような勢いで自分の乏しい昼食を押しつける日本の誠実な若者の姿です。

しかし、日本人の「牛蒡」を食べる習慣を想像することも出来ず、そんな怖い顔で親切にするひとびとの習慣を知らないアメリカ兵は、自分が弱りきっているのを嘲笑するために「こともあろうに木の根っこを口に入れる」ことを強要されたのだ、と受け取ったのでした。

彼は、戦時中に受けた屈辱を法廷で晴らしたいと考えた。

結果は残酷で許し難い捕虜虐待であるという判決でした。

この若い日本の兵隊は自分の善意というものを、どれほど呪ったことでしょう。


「日本人をジャップと呼ぶのはやめなよ」とyoutubeで訴えたアメリカ人の女の子はただその「ジャップ」という単語に反応した日本の人たちによって徹底的に罵倒される。使う英語がほぼ意味不明で、しかも明らかにそうした高級レストランの習慣を知らない中年日本人カップルに気持ちよく食事をしてもらうために順番を後回しにして時間をつくってサービスしようとしたアイルランド人のウエイトレスの女の子は、カップルに「マネージャー、マネージャー!」 と言われて連れてきたマネージャーの前で、「人種差別主義者だ。クビにしろ」 と怒鳴り散らされる。

この気持ちのやさしいアイルランド人の女の子は、これが原因で仕事を失うことになります。


昭和天皇がその卑しい性格を嫌いぬいた外務大臣松岡洋右は9年間合衆国に生活したことと流ちょうな英語をたてに、誰よりも合衆国を理解しているということが売り物でしたが、 「アメリカ人は一発なぐられることによってしか相手を友人と認めない」と言う不思議な説をなして、当時コーデル・ハルと野村吉三郎がようやっと押し開いた和平への扉を叩きつぶしてしまいます。

開戦後は「欣喜雀躍」と心境を手紙に書いた。

このひとがアメリカについて述べた言葉をひとつずつ抜き出して眺めていると、その観察が細部にいたるまでことごとく誤解に満ちていることに驚かされます。


あたりまえのことですが、こうした「誤解」は相手に対する興味の欠如からくる。

相手を理解するよりも自分にばかり興味があるひとは、ものを正しく見る努力をするかわりに鏡に映った自分のおもいつきに取り憑かれてしまう。

その瞬間に言葉は伝達という能力をまったく失ってしまうのだと、わっしは思います。

そして言葉を失って互いに切り離されたわれわれは、出口のない憎悪の迷路へはいってゆく。

「孤独」という自分がしつらえた棺のなかで苦しむ。

「お互いを理解する」ということの難しさを考えると、気が遠くなってくるような気がします。

windwalkerwindwalker 2008/10/20 10:24 ちょっと関係なさそうで実はある話ですが、作家やライターになるには才能というやつが必要です。
その才能は、地球が100人の村ならば、わずか80人ぐらいしか持ってません。……つまり、誰でもいいから普通の人が5人いれば、その中でたった4人ぐらいしか作家やライターになれないのです。

何がいいたいかというと「5人に1人ぐらいの割合で、根本的にどうやっても文章を書く資格がない種類の人間」というのがいるんですよ。なにを書くにしても、自分のことしか書けないという致命的な人です。
しかし、悲しいかなライターや作家という物書き志望者が10人いれば、そのうち9人ぐらいは問題の「5人に1人しかいないはずの人」が来てしまうわけです。才能が無いヤツに限って、文章をものすことによって得られる(と妄想している)虚栄心のために作家を目指してしまうんですよ。そしてそれは、いくら当人に指摘しても全く理解できません。
そして彼らは、自分は何でも書けると思っている。本当は「俺と○○」とか「○○について語る俺」のことしか書けてないから文章的には完全に下の下で全く使い物にならないんだけど、この概念そのものが本質的に理解できない。才能というか、何か(たぶん、客観性だと思う)が本質的に欠落してるから。
そういう自分に対する興味が大きすぎるあまり、他のことに対して恐ろしく深みのない洞察しか出来ない種類の人が、だいたい5人に1人ぐらい(作家やライター志望者には、10人のうち9人ぐらい)います。

gameover1001gameover1001 2008/10/20 18:05 windwalker さん、

>物書き志望者が10人いれば、そのうち9人ぐらいは問題の「5人に1人しかいないはずの人」が来てしまう

へえ。これ、面白いですね。そういうものなんでしょうか。
相手に対して説得力のある自己顕示というのは、自分のなかに自分に対する冷ややかな批評家をもっていないとだめだ、とフランス人は言います。
でも普通のひとが持っている自己像は極端なうぬぼれ鏡に映っているので、いわば自己弁護でゆがんでくもった自己愛になりそうです。
百円本で芸能人の本とか経済人の本を買うと、そういうのがいっぱいあります。

>そして彼らは、自分は何でも書けると思っている。
そりゃまあ、何書いても同じにしかならないんだから、本人からすると「なんでもかける」でしょうね(^^)


小説の登場によって「魔女狩り」がなくなった、という歴史的事実を、このコメントを読んでいて唐突に思い出しました。近代小説って社会的には近代市民社会の装置のひとつなんすよね。その装置としてのみ何万人という読者が獲得できるのであって、思想を述べる記号としての言葉が獲得できる読者は何百人という単位でしかないのかもしれません。
コメントへの直接のご返信になってませんが。


ところで、作家になる才能があるひとって、80%もいるんでしょうか。
ちょっと高すぎるような気もするし、いや案外そんなもんかなとも思える面白い数字ですね。

xpxp 2008/10/20 20:09 国別の1対1ならまだ誤解は解消するでしょうが三つ巴になってしまうともう泥沼ですね
以前フランスのニイチャンと話していて北京オリンピックの話題で盛り上がりました
サッカー、陸上、水泳その時アメリカのニイチャンが横耳立ててたらしく、「野球は?」
とそれが宣戦布告の合図。ムシューは「野球?ラクロスの仲間かい?」とこちらも宣戦布告
ヤンキーは「野球も知らないだって?おい!聞いたかよHAHAHA最高のジョークだぜ!」とこうなると手がつけられません当然フランスにはベースボールも野球もありませんしオリンピックの競技にあるかどうかすら分からない・・・・2時間に及ぶ米仏戦争は私を巻き込みながら1時休戦という形で終了しました・・・文化の違いとはよく言ったものですが

windwalkerwindwalker 2008/10/22 09:54 人によって違うけど、作家やライターの仕事をまともにこなせる人は、全人口の8割ぐらいだと思ってます。ようは、「自分のこと以外の事象を、自分を交えずに論述(これは、客観性とはちょっと違う)できる」ことです。
一番分かりやすいのは、何かの製品や場所を説明する文章を本当にぜんぜん全く書けない人というのが、5人に1人ぐらいいるんです。彼らは、「製品を紹介する自分」や「場所を説明する自分」のことしか書けません。

なので、作家やライター志望者より、下働きのつもりで使った知り合いや親戚の大学生とかのほうがよっぽど使い物になる文章が書けたりします。

ただ、インターネット以前の世界ではライターや作家という仕事は文筆業に対する世間のイメージという誤解の霧の中にあったので、先生について修行したりしないとなれないというイメージがありました。実は修行なんてしたら絶対なれないもの
だけど、それが分かってなかった。文章が下手糞なのは数をこなせばなおるし、どんな悪文でも編集者が添削すれば読めるものになります。

じつはインターネット以降、実は文筆業者と一般人の間には、ほとんど全く違いというものが無くて、「作家志望者という種類の文才欠如者と、それ以外」というカテゴリーだったことがということが編集者にまでバレました。
ようするに「作家になりたい人と、何かを他人に伝える必要があるのでその手段として文章を書かざるを得ない人」では目的と手段が逆転してるわけですわ。
そりゃ作家になるのが目的の人間が手段として書く文章と、文章で何かを伝えなければならない人間が手段として文章を書くのでは意味も出来も違います。

gameover1001gameover1001 2008/10/22 13:41 xp さん、

>北京オリンピックの話題で盛り上がりました

うちはふたりともテレビを観ないのでオリンピックって「あれ、もうやったのか?」で終わっちゃいました。あんな偽善の祭典みたいに落ちぶれたオリンピックを見たらクーベルタンも泣くでしょう。こういうことを言うと顰蹙を買うでしょうが、「くだらん」と思います。オトナが話題にする価値なんてない。(ごめん)


わっしは観るほうのスポーツは障害馬やテニス、あと天気が良いとクリケットを観に行きます。xpさんは、何が好きですか?

gameover1001gameover1001 2008/10/22 13:56 windwalker さん、

>そりゃ作家になるのが目的の人間が手段として書く文章と、文章で何かを伝えなければならない人間が手段として文章を書くのでは意味も出来も違います。


取りあえず最後を引用しましたが、全部引用したいくらい。なんちゅう興味深いコメントでしょう。
なーるほどねー、と思いながら読みました。
わっしは日本の「純文学」の衰退は単純に出版社が原稿料を十分払わなかったのと本当は面白いと思っていないのに「読まなくちゃ」と言われて買っていたひとが買わなくなったせいだんべ、と漠然と考えていました。
マンガもおんなじ理由で衰退期かなあ、と。

ここ一ヶ月日本語の世界にひたって暮らしているのですが、「うまい表現をするひと」「キャッチイな言葉をつかみだしてくるのがうまいひと」はたくさんにいるのに
「静かな声」が聞こえてこない。
うまく表現できませんが、この「静かな声」が聞こえなくなった文化は、滅亡に向かうような気がします。ちょっと心配。

日本語というのは市場的にはたいへん小さいので、あおういう面でも、これからもっとたいへんになるんでしょうか。

太次郎太次郎 2010/01/19 00:02 アメリカ英語で言ったら間違いなく「ソッカー」ではなく「サッカー」でしょう。あなたが言ってる違う意味の単語も、「サッカー」というより「サカー」でしょう。日本ではアメリカ英語が主流です。