イントロダクション
1.創価学会は池田学会か?
この20年ほど、創価学会がマスコミにとりあげられる場合は、それらのほとんどがスキャンダラスな話題であったといって過言ではない。
もちろん、中には学会造反派や内部告発者らによる批判もあったが、それとても創価学会を批判する形はとりながらも、実質的には、“池田大作をターゲット”にして攻撃したものであった。
「創価学会=池田大作であり、公明党=池田大作である」
という認識、イメージは、いまや当たり前となっている。
創価学会員にいわせると、
「いや、そんなことはない。池田先生は学会の名誉会長だけれど、学会自体は、秋谷会長や森田理事長らによって合議のうえ運営されている」
ということになる。
しかし、これは
「学会は池田氏によって私物化されているのではないか」
という疑問なり批判に対してなされる単なる反論にすぎない面もあろう。
それは、学会員が他人を折伏する時のことを考えればよくわかる。
彼らが折伏する際に、「これを読んでみて」と相手に渡すものは、池田氏の“著作”であり『聖教新聞』である。
その聖教新聞も、池田氏が著名人と会談したことや、勲章や名誉市民、名誉教授、名誉博士号を貰ったことを一面に大きく掲載したものがよく使われる。
これはグラフ誌である『グラフSGI』でも同様であり、学会員自らが学会のことよりも池田氏の話題を、話を始めるきっかけにしているのだ。
学会員は無意識のうちに池田氏を“人寄せパンダ”(死語)にしているといえよう。
ところが、外部の者からしてみれば、それは「池田氏の売名行為」に思え、そのような池田氏を礼讃する学会員にあきれ、うんざりし、かえって池田氏を下すだけだという事に、学会員は気がつかないのである。
池田氏が名誉博士号や勲章を貰うことに反対するつもりはない。
それによって学会員が自分達の指導者を誇りとする気持ちも理解できるし、大いに結構なことである。
しかし、勲章や名誉博士号が、金品の授受によって行なわれることがあるのも、また、事実なのである。
著名人との会見も、しかり。
池田氏の場合がそうであるというのではない。
だが、勲章や名誉博士号を貰ったり、著名人たちと文学談義や人生談義を交わすことより、彼らを折伏した方が、よほど実りある行為だという批判も少なくない。
(かつて、失脚したパナマのノリエガ将軍が学会員であると一部のマスコミで報道されたが、池田氏の折伏によるものであるかどうかは不明であり、ここでは池田氏による著名人折伏の例とはしない)
2.唯神論による世界戦略と創価学会
また、池田氏の著名人会見ツアーや国連重視路線も、創価学会の教義や日蓮正宗の信仰とは全く関係ないものといってよいであろう。
それどころか、池田氏の言動は、彼が信仰しているはずの日蓮正宗以外のものに依って為されている、という飛躍した意見もある。
この件については、ここでこれ以上触れるつもりはないが、池田氏の著名人会見ツアーや国連重視路線の原点は、彼の入信以前、昭和20(1945)年、創価学会第2代会長(当時 理事長)だった戸田城聖(当時 戸田城外)にあると考えられるということだけは記しておこう。
現在世界情勢は、東西冷戦を過去のものとして、パックス・アメリカーナへと移行しているが、その本質は、いうならば“唯神論による世界戦略”であり、「パックス・ゴッディズム」とでもいうべきものであろう。戦後過程を通じてより明らかとなってきたであろうその真理は、ABCDラインの全世界規模での再現を目指していると考えられる。
創価学会が、世上よく言われるように、“池田学会”(この語は昭和51年当時、われわれが初めて使ったものであるが)であるならば、池田氏以外の学会員がどの様に考えようとも、創価学会は“唯神論による世界戦略”に、既に完全に組み込まれているといってよいと思われるのだ。
もちろん、創価学会なり池田氏なりが、最初からそうであったとは決して思わないし、悪いとも思わないが、しかし、徐々に変化・変質して現在にいたったことは間違いないだろうと思われる。
どのように変化し、変質したかは、創価学会の歴史を再点検することによって、明らかとなってくるであろう。
3.創価学会史区分の試み
創価学会の歴史を概観すると、いくつかの転換点と事件を指摘することができる。
すなわち、大きく区分するならば、
戦前の創価教育学会時代を第1期、
戦後の戸田城聖による再建から彼の死までを第2期、
言論問題のあった1970年までを第3期、
政教分離以後、正信覚醒運動の始まりまでが第4期、
それから日蓮正宗と創価学会の対立再燃までを第5期、
そして日蓮正宗による創価学会の破門を経て現在までを第6期、
というふうに捉えてみたい。
これらを更に細分化するならば、第1期は教育研究団体から信仰組織へ方向転換した時点で区切られ、第2期は戸田城聖の会長就任をもって分けることができよう。
第3期は衆議院進出と公明党の結成のあった1964年で区切れ、第4期は共産党との10年協定および池田・宮本題治会談をひとつのエポックとすることができる。
第5期は、北条浩第4代会長の急死によって分けられるが、それ以後池田氏の本格的な復権が始まったと考えられる。
第6期は現在も続いていると考えられるが、池田氏をはじめとする創価学会大幹部の日蓮正宗信徒除名と、日蓮正宗による創価学会の破門で区切ることができるだろう。
これらの時期を、後半をそれぞれ′(ダッシュ)期としたうえで、各期における事件をあげてみよう。
まず1期には、牧口常三郎初代会長の著作『創価教育学体系』が4巻までで刊行中止となり、1′期には牧口、戸田をはじめとする学会幹部の検挙および牧口の獄死がある。
2期は、“折伏大行進”、2′期は地方選および参議院選という“政界進出”があった。
3期には公明政治連盟の結成と国立戒壇論の放棄、さらには公明党の結党と衆院進出がある。3′期には、安保論争を吹き飛ばした観のある“言論問題”と公明党との“政教分離”があった。
4期は、言論問題以後の“柔軟路線”への転換と正本堂の建立、妙信講との教義論争などがあり、4′期では世上を騒がせた日本共産党との“10年協定”“池田・宮本会談”日蓮正宗からの独立路線の発覚と脱会者および正宗僧侶による正信覚醒運動があった。
5期には日連正宗における反学会派僧侶の大量除名と、池田氏の巻き返しがあり、5′期は、北条浩4代会長急死による池田氏の本格的な復権があったものの学会および公明党の実力者幹部らによる相つぐ池田批判が巻き起こっている。
6期は、日蓮正宗との紛争再燃、6′期には公明党の政権与党化と池田氏を「永遠の師」と会則に明記した。
物語には起承転結があるが、それを創価学会の歴史にあてはめるとするならば、現在はどういうことになるだろうか。
約20年前に、われわれは次のように記した。
「終焉か更なる飛躍か、文字通り決定的な転換期をむかえていることは確かなようである。
いや、それは池田氏や創価学会だけでなく日本それ自体についても言えることかもしれないのだ。」
当時はまだ、創価学会破門前、バブル経済も破綻してはいなかった。
しかし、まもなくして創価学会も、そして日本も「文字通り決定的な転換期をむかえ」ることとなった。
とりあえず、われわれは、創価学会の歴史を辿ってみることから、作業を始めよう。
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【補足】
学会史を区分するのにもっとも分かり易いのは、牧口時代・戸田時代・池田時代の3つに分けることではある。
本稿でいえば第3期以降は池田時代ということになる。
しかし、この池田時代は既に半世紀近くにも及ぶ長期にわたっている。
当然のことながら、この間に創価学会自体は大きく変貌をとげた。
これは変貌、変化、変質などさまざまな形容で語ることができるが、近い将来に訪れる「ポスト池田」時代には、また新たな創価学会が出現してくるであろう。
来年、2010年は創価学会・公明党による「言論出版妨害事件」のいちおうの終息から丸40年になる。
この「批判拒否体質」「無謬神話」はいまもって是正されているとは思えない。
では、この創価学会の体質のよってきたるところは何処にあるのか、それを考え検証することで今後の彼らの方向も見えてくるのではないかと思うのだ。
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