- 「この文はテコンドー哲学の構成原理(キム・ヨンオク著)」から抜粋したものです。 - 私の個人的な体験をもって話せば、私が道場に通った60年代でさえも「テコンドー」という言葉は総じて青涛館を中心に固執された特殊な無理のある言葉に過ぎず、一般に広く使われた語彙は「タンス(訳注:唐手の韓国語読み)」という一言だけであった。その他の多くの名称があっても一般の人々の口からよく出る言葉は「タンス」の一言であった。恐らく「テコンドー」という言葉が一般に普及したのは「ベトナム派兵」という事件がそのきっかけを作ったのだろう。ベトナム派兵で全将兵に義務的に教育され、またそれがダイハン(訳注:「大韓」のベトナム発音)のシンボルになり、国軍テコンドー師範団、派越教官団の国際的な活躍で国内外的にそれが普及することによって「テコンドー」は量的な膨張をするようになり、また我が国の一般国民の意識の中に、より大衆化され得る技芸として根ざすようになったのである。- 中略 - 60年代、私が経験したテコンドーの特質を要約すれば次の通りだ。私が習ったテコンドー(=タンス)は徹底的に「型(ヒョン)」中心であった。 型とは絶対的なその何かであり、工夫(クンフー)の程度はひたすらこの型の段階によってのみ決定し、そして型の段階は絶対に越権できないものであった。型の中に全てのクンフーの神秘と権威が含まれ、また、型の段階によって実戦の能力の段階も自然に決定するものと思っていた。そして組手は主に約束された形式に従って動くことであり、高級有段に上がれば「自由組手」が許されるが、自由組手もフルコンタクト(full contact)ではないノンコンタクト(non contact、拳や足が相手の体の寸前で止まること)を原則にするものであった。これは日本のカラテの典形的な特性をそのまま全て表したものである。 - 中略 - 東京留学中のある日、私はモリ(森)の動作から彼がカラテの有段者だということが分かり、彼に型をお願いした。これはどういうことだ? 私が純粋な韓国古来の武術だと信じていたテコンドーの型(ヒョン)と日本の学生モリが行なうカラテのカタ(型)と一挙手一動作、そして進行方向と形態が完全に同じものではないか? その上、型の名前さえ、平安、鉄騎、公相君など同じものではないか? 一体これをどう説明すればよいのか? 考えてみると「館」の名前までも青涛館、松武館というのは日本の松涛館から漢字を一つずつ取ってきたものではないか? 我々のものをこいつらが習ったのか? 同時に出てきたものがこのように正確に一致しているのか? 私はその時、その瞬間、背信感と失望、私が先輩たちに完全に欺瞞されたという歪んだ憤慨でどうすることもできなかった。私はそのとき、私が朝鮮人として感じるべき主体性に対する当惑感でどうすればいいか分からなかった。 あ〜そうだったんだ! 私の人生で忘れることができないその瞬間以来、私は韓国のテコンドーについての明確な認識を持つようになった。:大韓民国にはテコンドーがない。我々がテコンドーと呼ぶ全ての武術の造形は完璧にメイド・イン・ジャパンである。この事実についてわずかの嘘もあり得ない! テコンドーの通時態についての全ての記述は一旦上記の命題から出発しなければ駄目である。このハード・ファクト(hard fact:厳然たる事実)から出発しないどんな記述も捏造のみならず、我々のテコンドー史の主要争点と、また共有性の発掘や再創造する通時的な問題意識を汚す嘘だけを提供することになるのである。
(訳者以下略) |