●廃仏毀釈 はいぶつきしゃく
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明治維新政府は王政復古、“神武創業の始めに基づく”政治政策を遂行し、そのために祭政一致を目標とし、神社を国家統合のための機関にしようと意図していた。そこで伝統的な神仏習合の信仰形態を一掃し、国家神道としての体裁を整えるために神仏分離政策が行われた。まず1868年(明治元)3月に神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の達が出され、ついで同月太政官達として〈一、中古以来、其権限、或いは牛頭天王の類、其の他、仏語を以って神号に相ひ称へ候神社。少なからず候、何れも其の神社の由緒委細に書き付け、早早、申し出づべく候事、(中略)一、仏像を以って神体と致し候神社は、以来相ひ改め申すべく候事〉を出し、神仏混淆的な神号・神体を一掃することが表明された(神仏判然の沙汰)。同年4月には〈社人ども、俄かに威権を得、陽に御趣意と称し、実は私憤をはらし候様の所業も出来候〉という状況が生じており、宗教界に大きな波紋を引き起していった。その後も菩薩号などの仏教的神号の禁止、神主は仏教に係わらないことなど、次々に布達が出された。こうした神仏分離政策の遂行は伝統的に神仏習合によって成り立っていた宗教的世界を世俗的権力がつき崩していった。
【廃仏毀釈の実態】廃仏毀釈を最初に強行した神社として日吉神社が著名である。日吉神社は日吉山王権現社として仏教的色彩がきわめて濃厚で、京の人々の信仰を集めていた。1868年に神官たちが乱入し、日吉神社内にある仏像・仏具・その他仏教的色彩のあるものはことごとく追放したり、焼いてしまっている。そして旧社名山王権現も日吉神社とあらためられた。こうした暴挙に対して支配寺である比叡山延暦寺は上訴し、首謀者などは処分された。しかし、この事件を契機に全国に廃仏毀釈の動きがおこっていった。さらに南都七大寺の一つである興福寺の場合、僧侶が全員春日神社の神主となり、堂塔・伽藍は西大寺・唐招提寺の預りとなり、諸堂などはことごとく破壊された。また、神仏分離政策を強行し、廃寺政策がとられた藩も多くあった。その論理としては日本の皇道の基本は神道であり、その神道の復興、神葬祭の普及をめざし、さらに窮乏した藩の財政を建てなおすために寺領を削減していこうとするものである。そして領民の負担を軽減すると説いていく。具体的には津和野藩では檀家に対して神葬祭に改変すべく命じている。また、松本藩では松本市内だけでも24カ寺中21カ寺が廃寺(後に10カ寺再興)となっている。廃寺政策を強行したのは富山藩である。その内容は一宗1カ寺とし、領内で6カ寺のみ残すというものである。当時領内に1,635余りの寺があったので、その廃寺の方針はいかにすさまじいものであったかがわかる。廃寺・合寺には兵士まで派遣し、梵鐘や仏具など鉄砲製造のために没収し、僧侶は帰農させた。また、伊勢神領では明治天皇の伊勢神宮参拝がきまった明治2年までに、神領のなかの参道や仏像はことごとく取り払うよう、仏教追放を命じ、196カ寺が廃寺されている。以上のように明治4年ごろまでに遂行された神仏分離政策は、江戸時代に檀家制度・寺請制度をもとに幕藩権力の一翼を担っていた仏教寺院に代わって、国家公認の宗教として神道を置き、神社を“国家ノ宗祀”としての体裁を整えさせていった。しかし、それまで神社・神職は従属的地位におかれてきた仏教寺院に対して、廃仏毀釈として寺院の廃寺、仏像破壊まで発展し、伊勢神宮を天皇・国家の宗廟として位置づけ、神社は“国家ノ宗祀”とする神道国教化政策が矢つぎばやに展開されていった。しかし、廃仏毀釈においても、民衆の仏教寺院への反発もあり、廃寺などが断行しえたが、それも強い抵抗に逢い1871年(明治4)ごろには挫折せざるをえず、また、民衆の宗教的心意は断ち切れなく、多くの寺院が再興された。
〔参考文献〕圭室文雄著『神仏分離』1977、教育社新書
柴田道賢著『廃仏毀釈』1978、公論社