質問

質問者:never-ness 酷似したIDを使う偽物
困り度:
  • 暇なときにでも
特定の利用者と酷似したID(またはニックネーム)を持つ利用者がいます。大抵は新規登録だったり、別のIDを持つ利用者のIDだったりするようです。
それは別段利用規約には違反していないようですが、利用形態となると他の利用者への掣肘に腐心していることが多いようです。
こういった偽物は自尊心というものが欠如しているのでしょうか?それとも別の心理が働いているのでしょうか?
質問投稿日時:10/01/23 15:59
質問番号:5616492
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回答

 

回答者:logger_man 偽者はいなくなったようだな。
>※ついでに「したり顔」で道を説く君。最近ようやく君の文になぜ「イラつく」か分かった。君の「凡庸さ」が嫌いなんだろね。
オレはこんなことはなんとも思っちゃいないぜ。
だからな、あんたは気にしないで身を引いてくれていいんだぜ。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 19:01
回答番号:No.72
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回答

良回答10pt

回答者:kigurumi Yのサイトの、某新興宗教のカテで、信者と元信者のバトルが繰り広げられているさなか、教祖の名前をハンドル名にしていた人が登場した事件があった。


私は教祖さまの本を読んだことが無いので、本物か偽者か書き込み内容では判断できなかったが、常識から考えて、こんなサイトに教祖が書き込みをするわけがない と思い、からかい発言をした。


しかし、元信者も現役信者も本物と断定するくらい、問答は本人そのものだったらしく 私は誰からも相手にされなかった。笑
つまり本物に対して失礼だ とかの注意も飛ばなかった。



で、結局 なりきりな奴の愛人からメッセンジャーにメッセージが届き会話したので、「わかっていたがやはり偽者」とはっきりしたわけですが、私と奴の愛人が裏で会話しているとは本人は知らないので、なりきって演技を継続してた。

現役信者も元信者も「本物だぁぁぁ」と感動しているのを、ククククっとか笑って眺めていた。
さて 奴はどうやってこの騒動を終わりにするつもなんだろう?って。


で、こいつは元信者だったんだそうです。
それも真面目で熱心な信者だったらしい。
だから教祖の出した本を熟読していたので、現役信者からの質問にすらすら答えられ、信者も元信者も偽者だとわからなかったわけです。
だって本の内容と本人の内容は同じだったから。 しかも細部にいたるまで。



脱会したので、結局誰でも言えてしまうことを教祖は言っているとか最後に暴露するつもりかなぁー と眺めていたが、一向に奴はやめない。

唯一 一人だけ現役幹部信者は「偽者」と言い続けてた。
この教団を批判する発言をして、現役信者とバトっていた元信者は、本物と直に会話でき、自分の脱会は間違えで、戻りたい必死に訴えている信者。
それを「冷静になれ 偽者だ」と説得する現役信者幹部。


うーん これまで大きくなると やばくね? と思った。
現役信者が本部に問い合わせ、それが本人に伝わり、偽者がネットに出たとなり、あの教祖裁判好きだから訴えられかねない。
情報が錯綜して、「本部に問い合わせたが偽者という情報は得られず」とか騒いでいた。

まじっすかーー もうそろそろ暴露しましょうよー とか思っていた。

私はメッセンジャーのログを保存したので、愛人の証言ログは持っているんです。
だけど、それを公開できない。
だって、愛人いわく 私と話をしたことが本人にばれたら本当に殺される と言ってたから。
本当にやりかねないほど狂気をはらんだ危険で魅力的な男だと言ってたから。
約束は守りますよぉ、嘘であっても 約束した以上 絶対にログは外に持ち出しません ってことで、黙るしかない。



で、当の本人は途中からなりきって、上からの物言いできる状況にうっとりしちゃって、自分を崇拝する信者たちの賞賛に自己陶酔しちゃったんでしょうねぇ。
人々を支配する快感 ってやつでしょうか。
自分が嫌って脱退したのに、支配される側から支配する側になれたらうっとりしてしまって、本来の目的を忘れてしまっている・・・・


最初はお遊びで騙ったわけですよね。
でも やっているうちハマってしまい、このままなら、相手に統合してしまい、自分を喪失してしまうことになる。


でそんな騒動の中、突然エンディングが訪れた。
元信者はどうやったのか知らないが、正体が見破った。
「以前書き込みをしていたAが正体だ」と見破って暴露。
(当たりー あたし 知ってたもんねー)

すると、あれだけふんぞりかえった発言をしていた奴は「ごめんさい どうか警察に連絡しないでください」と謝罪発言。
え? 別人格??? 
あれだけAのときも強気で、なりきっているときも強気だったのに。。。。


第一誰も警察に通報するとか言ってないのに、取り乱して何度も謝罪アップをしていた。

でも考えれてみれば、愛人からの情報だと精神を病んで入院したそうなので、特徴を聞く限り二重人格っぽい行動をする人格障害者かな って思った。


どこまでが正常でどこからが狂気かって、線引き難しいですよね。
人格障害の人って、一般の人以上に理性的な発言ができる一方で、犯罪っぽいこともやれる。
光の当たり具合でジキルとハイドと入れ替わる。
人格に統一性が無いわけです。

人はひとつだけの人格じゃなく 場面で人格を変える。
ただ 憑依したかのように本人になりすますってのは、一種の個の喪失で統合を求めているわけで、、、
要するに嫌い嫌いといいながら、執着をすることをやめれないわけで、つまり 好き ってことじゃないか と。
つまり 統合目的。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 18:25
回答番号:No.71
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回答

 

回答者:reireirei0 流石!伝説の釣り師!大漁ですなぁ


















ば〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜か!
種類:回答
どんな人:専門家
自信:自信あり
回答日時:10/01/23 18:07
回答番号:No.70
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回答

 

回答者:noname#103194 さてと、先ずは

>※ついでに「したり顔」で道を説く君。最近ようやく君の文になぜ「イラつく」か分かった。君の「凡庸さ」が嫌いなんだろね。

この謝罪をして貰おうかな。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 18:06
回答番号:No.69
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回答

 

回答者:noname#103194 連休も最終日になりましたネ。みなさんお疲れ様です。

唐突ですが、世の中の理不尽な出来事を見ていると、いいことが少なくて、悪いことがいっぱいという、つい捻くれた心境になったりします。

そこで、「教えてgoo」を利用しているみなさん。連休の終わりに、ちょっと清々しい気分になりませんか。

「教えてgoo」では日頃自分の関心のある分野などの質問と回答を見て、よそ様のやり取りの様子を楽しんだりしています。その中で出会った、「これは!」という回答例を教えてください。(自薦・他薦は問いません)

連休疲れに一服の清涼感を得て、明日からの活力を得られれば、という姑息な目的です。賛同された方のみ回答をお願いします。

ちなみに、私は最近このような回答をしてお礼を頂き、「やったー」と一人悦に入っていたところ、次のような回答を見て、「上には上がいる。まだまだ修行が足らない」と自戒しました。

私の回答:​​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3989724.html​

驚愕の回答:​​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1758204.html​
(ホントはもっと強烈なものがあったけれど検索に引っかからないので同レベルの回答をおきます。ララーだけで曲が分かるなんてすごい、すごすぎる!)

それでは、連休疲れの皆様、よろしくお願いします。
(最近、回答してもお礼もしてくれない質問者さんが多くて少しイジケ気味です。「教えてgoo」にもこういう使い方があってもいいのかと。もし、規約違反であれば削除されるまでスルーしてください)


私の回答:
これに関しては、関係各位が迷惑&不愉快になられるといけないので
リンクはやめておきますが、サクッと20ポイントかっさらうのは
気持ちいいです。

驚愕の回答:​​http://pcsoft.okwave.jp/qa3993306.html​
No14さんです。「神奈川県大和市民バージョン」に大笑いしました。
参考:​​http://www.sotetsu.co.jp/train/time/​


回答ありがとうございます。

いやぁ、皆さん連休にもかかわらずコアな遊びをしてますね!

No.14さん、見事です!驚愕を通り越して尊敬に近いです。
癒されます。


「笑える回答」で検索したところ、このような質問が見付かりました。

回答ありがとうございます。

いやぁ、ありがちですね。回答者も質問者もいい味だしてますね。

やはり疲れには笑いが清涼剤なのですかね。


No1さんの事例に出されている、質問者が私です。びっくりしました。

気持ち良いほど単純明快な回答、お礼がこれです。
因みにこの質問の良回答者が私なのです。おバカ質問、回答はお任せくださいませ。(探せばもっとありそうですが・・)

回答、有難うございます。

いやぁ、深いです。(と同時に浅いような…)

これだけおバカな回答が出来るのは並みの実力ではできません。
感服しました。ともに精進しましょう。

笑っちゃいけないんだけど、思わずクスッ。
まあ人の不幸は蜜の味とかいいますしね。

これです。
​​http://okwave.jp/qa3994117.html​

んで、これがこの人の身に起きたことです。
​​http://okwave.jp/qa3990940.html​

この人退会しちゃいました。
​​http://okwave.jp/user.php3?u=1112986​

よっぽどショックだったんでしょうね。
元気でね〜(^o^)/~

皆様、ありがとうございました。これから暑い6月が始まります。お体に気をつけてQ&Aを楽しんでいきましょう。みなさんに良回答をつけたかったのですが、最初の方につけさせていただきました。

回答ありがとうございました。

>笑っちゃいけないんだけど、

すみません、笑っちゃいました。いやぁ、もうしわけない。
申し訳ないけど、ぷぷっ、くくっ…(涙)
いやぁ、本当に申し訳ないです。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 18:05
回答番号:No.68
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回答

 

回答者:noname#103194 80年代までは輸入盤を中心に、いわゆるプログレッシヴ・ロックを聴いていました。抒情的なシンフォニックが好みです。

2008年になって何故か昔の情熱がよみがえり、オークションやネット通販でぼちぼちCDを買い始めています。

そこで問題になるのが乏しい資金と大量の作品群です。自分の好みのものを効率よく買うというのが避けられない条件になります。

そういう私に抒情プログレファンの皆様から90年代以降の名作やお薦め盤を教えていただければと思います。

ちなみに、私の好みの音は冒頭に書いた叙情的な音です。と書いても分かりにくいでしょうから90年代以前の音で気に入っているのは、

crack(スペイン)
bacamarte(ブラジル)
dogma-twin sunrise(ブラジル)これは95年
exodus-supernova(ポーランド)など

ジェネシスフォロワーでは

babylon(アメリカ)
england(イギリス)

などです。その他は補足で。よろしく。

私の持っているCDでしか分かりませんが・・・

・Atist/Album title

Spock's Beard/Day For Night

Pendragon/The Masquerade Overture(仮面舞踏への序曲)

The Flower Kings/Flower Power(2CD)

Lana Lane/Garden of The Moon

Transatlantic/SMPT:E

Opeth/Damnation(※このアルバム以外はデスヴォイスです)

こんな感じでしょうか
それとメタルが聴けるようでしたら
Dream Theater/Metropolis Part.2

知っていたら済みません。

いえいえありがとうございます。

Spock's BeardはThe LightはCDで持っています。
PendragonはKowtowまでフォローしています。
The Flower Kingsは1stだけですね。
Lana Laneはなぜか持ってました。ジャケットのMichael Parkesの絵に魅かれたもので(*^_^*)
Transatlanticはジャケットを見て「これはプログレにちがいない」と思ってました。
Opethはモノクロのジャケットの雰囲気がいいですね。

参考にさせていただきます。

Dream Theaterも1stのみ。接近してみます。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 18:03
回答番号:No.67
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回答

 

回答者:noname#103194 回答ありがとうございます。

>そういう類のものをトートロジーとか、恒真式とか言います。

トートロジー(tautology)は同義反復ですね。「AはAである」
ならば、「集中力はTPOであるべき」という当方の考え自体がトートロジーを内包しているという判断ですね。

また「恒真式」であるなら、当方の「集中力はTPOであるべきだ」は命題になりえず、「無意味」であるというわけですね。

いろいろな受け取り方があると分かりました。

>よく子どもの頃に言われた覚えのある方も多いかと思います。

子供の場合は集中力をつけること自体を目的に勉強したりします。

>日常生活で大したことをやっていないのに話しかけても返事をしない

こういうのはぼんやりしている。といって、集中しているとは言わないと思います。

ええっと、「典拠」はいいです。

「集中力をつけること自体を目的に」する勉強の例を挙げてくだされば結構です。

回答ありがとうございます。

>こういうのはぼんやりしている。といって、集中しているとは言わないと思います。

当方の申し上げたいニュアンスが伝わらなくて残念です。「ぼんやりしている」という状態というのは確かにありますが、この場合「集中している→気を取られている」状態です。それを「ぼんやりしている」と表現する、あるいはひと括りにするのは少し「おおざっぱ」ではないでしょうか。

>子供の場合は集中力をつけること自体を目的に勉強したりします。

初耳です。典拠をお示しください。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 18:02
回答番号:No.66
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回答

 

回答者:noname#103194  【「自ずと」集中と弛緩を】
 これは違います、弛緩してないと集中はありえません。
 完璧に弛緩があって、初めて集中です。集中があって弛緩ではない。
 用意や備えがあって集中するのではなく、まったくそういうものを放り出して、弛緩となり(油断ではなく)、そして集中です。

再びのご回答ありがとうございます。

>弛緩してないと集中はありえません。

ご指摘を尊重します。どうも修行実践の身でないと、集中や弛緩といった「勘どころ」に疎くなっていますね。

 不注意やぼんやりとは違う、という区別は当然つきますね。
 そういう区別の上でなお、何かに集中することは、突然としてありうることですね。
 したがってそれはやはり、TPOという小賢しい配慮(文殊の処世の知恵)がないといけませんね。
 でもやはり、集中できる性格やありようは大事ですね、事故などはありますが。馬鹿と呼ばれても。馬鹿であっても。賢しい(さかしい)知恵はその後の価値だと存じます。

 剣やその他の武道では、自然と対処できるように訓練しているのではないですか。
 無論剣をどこにおいているか、自分の身はどういう構えを採りうる蚊を常に配慮してはいるのでしょうし、障子の向こうや庭先、天井裏の状況も自然と頭の中にはいっているでしょうが。
 集中していることは、油断していることではないし、隙があっては集中はできないでしょう。ぼんやりと油断していては集中もできないでしょうね。

回答ありがとうございます。

「武道での集中」は想定外でした。新鮮な視点を提供してくださりありがとうございます。武道の達人は「臨機応変」ということですね。つまり集中することを訓練していると「自ずと」集中と弛緩を「場に応じて」切り換えられるわけですね。

ただ、平時にはその「集中」と「弛緩」の区別がつきにくい。外観からは分からないものですね。「動」があって初めて分かるのでしょう。例えば、秋葉原で起こった事件でも「静」の中に「集中」があれば兇刃を避けられたのでしょうね。でも、凡百の愚者には想像できない境地でもありますね。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 18:01
回答番号:No.65
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回答

 

回答者:noname#103194 よく子どもの頃に言われた覚えのある方も多いかと思います。

「集中力がない」「もっと落ち着いて取り組みなさい」「もっと集中するように」

勉強や仕事、また集中してやることで「成果」を出すようなある種の作業については、「集中力がある」とか「集中して取り組む」方がいいということは分かります。

テスト受験や根を詰める作業は集中力を必要とします。そのことに別段の意義を差し挟もうという意図はありません。

ただ、蓋し「集中力」はTPOであるべきだという気がします。
日常生活で大したことをやっていないのに話しかけても返事をしない(つまり聞こえていない)のは、如上の「集中力がある→よきこと」と「常識のように思い」、「問われたことに応えない→集中していたから仕方ない」すなわち「集中していれば声をかけられて返事をしないでも礼を失しない」という考えに縛られているように感じます。

周りの音が聞こえないで事故にあったりするのは、この「集中力あるをよしとする」風潮の一帰結ではいでしょうか。事故に会うのは「自己責任」としても巻き込まれるのはたまったものではありません。

と上のように時おり思うことがあるのですが皆さんはどう思いますか。

集中力にもいろいろあると思いますが、つまるところ集中力というのは命令に忠実であるということではないでしょうか。特に命令を自分で出している場合「われを忘れて」という状態になります。一方他人からの命令ではマニュアルに忠実であるような融通が利かないとかリスクに弱いといったような、やはりむしろ悪い意味でも集中力があるといえると思います。しかし戦場で熾烈な状況で頑強に陣地を守り抜く兵隊などには大変大切なものです。

回答していただきありがとうございます。

>集中力というのは命令に忠実であるということ

これも新鮮な視点です。ありがとうございます。

>命令を自分で出している場合「われを忘れて」という状態になります

これは考えようによっては「スキ」が出来ているのではないですか。「忘我」の状態で冷静な状況判断は難しいのでは。司令塔であれば「忘我」は「戦術」的にはあり得ても「戦略」的にはあり得ないのでは。

>戦場で熾烈な状況で頑強に陣地を守り抜く兵隊などには大変大切なもの

幸せなことに未だ戦場での殺し合いの経験はありません。思うに、戦場では「戦術と戦略」がありますから、冷静な「集中力」が求められますね。例えば旧日本軍の硫黄島での玉砕という「勝つための戦略を放棄した戦い」でない限り、自分の生き死にの問題に直接関わるものであれば人は「集中」するものでしょうね。ただ、集中するあまり「撤退時期」を誤ることもあるでしょう。「集中力」はそれだけでは十分に機能せず、常に周りへの正しい「状況判断」とセットですね。

当初の質問の趣旨からだいぶ離れているようですが、いろいろな見方があると分かりました。

よくしたもので、集中力がある人はえてして持久力がない。
一年のうち2回くらい大きな出番があってそのうち一ヶ月くらい集中して
仕事をこなして結構、評価は高い。
でも残りは、忘れられている。
本人も適当に息抜きして情報収集などしながらすごしている。
一日のうち3時間くらいはアウトプットを出して、残りは生き抜き。
そういう人が、日中 OK wave 教えてgooの回答者として活躍していたりする。

日本の社会は、持久力があってコンスタントに仕事できる人が支えている。
それはまったくもって正しい。

回答をありがとうございます。

>よくしたもので、集中力がある人はえてして持久力がない。

ご経験からですか。ま、よく聞く話しですね。

>本人も適当に息抜きして情報収集などしながらすごしている。
>一日のうち3時間くらいはアウトプットを出して、残りは生き抜き。(※ママ)
>そういう人が、日中 OK wave 教えてgooの回答者として活躍していたりする。

ちょっとギクリとしました。(・_・;)

>日本の社会は、持久力があってコンスタントに仕事できる人が支えている。

頭の悪い経営者の好きな話を思い出しました。

アリさんの話です。

アリを観察していると、約半分のアリは一所懸命仕事をしているが、約半数のアリは「忙しいフリ」をしている。世の中は一所懸命働く半数のアリで支えられてる。「さて、君たちはどっちのアリなのか」(と経営者は得意げに話し、働かない者はクビだぞと暗示する)

この話にはオチのようなものがあって

その一所懸命に働いているアリだけを集めてコロニーを作って観察すると、やっぱり約半数のアリが「働いていて」、約半数のアリは「忙しいフリ」をしていた、とのこと。

社会は複雑です。人間の集団は兵士ばかりでも駄目だし、後方支援者だけでも駄目だし、吟遊詩人だけでも駄目でしょう。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 18:00
回答番号:No.64
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回答

 

回答者:noname#103194 ★ この文言のキモは「信仰は合理を超えたところにある」という解釈でよろしいのでしょうか。
 ☆ 《合理を超えている》ということは 基本的に一般的に 経験合理性を容れているという意味です。と同時に その人間の能力の及ぶ範囲に限られるものではないという意味です。

 《信じる》という心の志向性は 《考える》を超えています。思考によって得られる知解を信じても 仕方ありません。それは 二重手間ですし 余分の強調です。つまりはまた アイドル(イドラ・偶像)視するものですが これは 趣味の問題です。哲学思想の問題ではありません。
回答を有難うございます。質問を締め切るためにお礼欄を利用させていただきます。

と申しますのもこの質問をめぐって当方は長い間考えてきましたがいまだ一定の結論に達していません。これからも(今後も)お示しいただいた考え方を参考に<信じる>とは何かについて思索を深めて参りたいと思います。

また機会があればお教えいただくこともあるかもしれません。

ありがとうございました。
門外漢からの書き込み。
 これは、中学のとき同級生がいうのを聞いたことがありました。
 そのときは、理屈がないから、信ずるのだとしか理解していませんでした。
 1. 判断と認識、そして決定(おなじことでしょうが)には理屈なく直截きまってしまうこともある。そして時にはあとから、理屈が見つかるか、くっつくこともあり、そうならないこともあり、だんだん生活の中で根をおろして、実在化していくものもありました。(あってきました━変な日本語)
 2. 信仰という認識もある。信仰は認識である。といえると存じます。そこには誤謬も時にはありうるが、自分の欲望、執着、偏見、狭隘をとれば、それほど間違いはない。いえ正しい。
 3. 三途の川でなく、理屈の河をわたることは認識のためには必要な場合もある。
 4. 私の景仰する教えの参考にしているものに禅宗がありますが、その一つに臨済があります。
 ​​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4035774.html​​においてANo.1さんが臨済の「直踏」ということばの意味を教えてくれています。
 これは、いろんな宗教でも通じる大事な話だと私は存じます、ご参考になるといいですね。
回答ありがとうございます。質問を締め切るためにいったんお礼を申し上げます。

回答を何回か読ませていただきましたが正直申して回答者さんが何を言いたいのかよく分かりませんでした。

当方の質問に暫しの間キーボードに向かわれた好意に感謝します。

今回の質問内容は当方にとっては小さくない問題です。また、こちらの考えがまとまった時点で再質問させていただきます。


 具体的に わたしたちは一般に 仏教を信じるあるいはキリスト教を信じると言ったりします。けれども 《おしえ・教義》は 人間の想像力によって表象され 人間の言葉で表現されたものです。つまり《考える》にとっての純然たる対象です。それを信じるのは 二重手間です。

 つまり もしわれわれ人間が 何かを信じるということが 正当にも あるとすれば それは その対象が 分からないという場合に限ります。あるいは 分からないかどうか これが 分からないという場合です。非対象と言いきることもできない。表象し得ない対象 それを もし 神と表わすとすれば この神というのも 信じる対象を 人間の言葉で代理したものであるに過ぎません。代理物やその想像物を しかも わたしたちは 信じるのではありません。わたしたちは
 ★ 逆立ちしても「信仰」を理解することはできぬ、と考えるべきでしょうか。
 ☆ そのとおりです。経験合理性による思考とその理解は 叶わぬというのが 正解です。ですが そういうときには
 ★ 「信仰から遠い存在」者には
 ☆ ではなく そうではなく すでにわたしたちは 一人ひとりが 自己の内面において その主観においては 真実の心の志向性を抱いているというのが 実態であり 正解です。

 教義・教祖・教団を持つかたちの集団としての宗教は まったく別ですが 個人の信仰というものは 誰もに ふつうに 存在しているということになります。《宗教として〈信仰〉を持つ》というのが 人類最大の誤解であり この誤解においてある人は かれらこそが 《信仰から最も遠い存在》者なのです。
 この誤解から自由になれば 人は 一般に だれもが それぞれ 信仰者であるはづですよ。人がどう思おうとどう言おうと 個人にとっての真実が 存在する限りでは それは 信仰という事態であると言うべきです。
 長くなりましたが ご批判も 自由に どうぞ。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 17:58
回答番号:No.63
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回答

 

回答者:noname#103194 (「神の存在証明」・「思弁」・「二律背反」等の伝統的言葉を含め)、
キリスト教的伝統からすると学術的論理を超えた範囲に「信仰の対象」が存在するという意味で解釈するべきでしょう。

決して「経験合理性を超えるもの」ではありません。

(この議論自体を肯定すること自体が、信仰の対象・信条でもある)

credo quia absurdum (RのあとのUは除いてください)について
元の言葉は、「起こりえないことでも信じることができる (credibile est, quia ineptum est」。この言葉は、キリスト教者の心情・信条を代弁するため、生涯哲学者として生き抜いたテルトゥリアヌスが、自身の弁明書簡「キリストの聖なる肉(カルネ)」のなかで、述べた言葉。当時、迫害されていたキリスト教の信者たちの社会的地位を獲得する為、多くの作品を書き残した。基本的にキリスト再誕の奇跡を実際に見たものがいれば、目撃者によって知覚された現象が真実であるという立場をとり、それを貫いている。

プラトン学派の不可知の真実(phantasm・新プラトン派の幽体離脱も加味)とアリストテレスを継承する哲学者達の形而上なるもの(tametataphysika/ metaphysic )を意識して、
不可思議な現象の可能性を強調し、表現されている。問題は、トーマス・ブラウン卿(17世紀の科学者キリスト教神秘主義・Thomas Browne)が、この言葉を誤って引用(certum, quia impossible est:信の対象とは、「不可能」という属性をもつ) 。さらには自己解釈(credo以下の引用)した。よく非論理的キリスト教の近年になって理論的背景となることがある。いまアメリカ教条主義者の間でトーマス・ブラウンの人気が高いということも興味深い。(進化論の反駁・・・もどき)

ttp://​​www.tertullian.org/articles/sider_credo.htm​

回答を有難うございます。質問を締め切るためにお礼欄を使用させていただきます。

お示しの文中、「学術的論理を超えた範囲」という個所と「経験合理性を超えるもの」ではない、という部分の整合についてよく分からりません。(仰りたいことのおおよそは理解したつもりですが)

この質問は当方にとってずっと疑問に思ってきたものです。再び思索を深めていきたいと思います。またお世話になることがあるかもしれません。そのときはよろしくお願いします。

言葉だけの問題ですが、信ずるというのは納得するというのと違うと思います。理解できないがどうもそうらしいというような時に信ずるという言葉が使われるように思うのですが・・・

回答有難うございます。質問を締め切るためにお礼欄を利用させていただきます。

「信じる」はそれが「何であるか」より優先するということでしょうね。参考になりました。

ありがとうございました。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 17:57
回答番号:No.62
この回答へのお礼この回答にお礼をつける(質問者のみ)

回答

 

回答者:noname#103194 こういうのを初めて見ました。

​​http://page7.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g78588581​

規約違反でしょうか。

なお、当該ページから別のオークションページへと誘導されますが、別のページは「アダルト」のページであり、当然不快な感想を持たれる方もいると思われます。予めお断りしておきます。

また、投稿者は該当ページの関係者(宣伝目的での質問欄利用)ではありません。

アドレスお元に確認したところ明らかに怪しいです何お売りたいのかもわからないうえにこの出品者はアダルトぽい物お他に1点出してます規約違反である旨おヤフーに言ったほうがいいです

回答ありがとうございます。

>何お売りたいのかもわからない

という点で規約違反ということなのですね。

>アダルトぽい物お他に1点出してます

これは「アダルト」カテゴリーがあり実際に売買が行われている以上「規約違反」とはならないのでは?

オークションサイトの「違反商品の申告 」をしてみては如何でしょうか。
実際に違反かどうかはサイト管理者に判断してもらえばいいと思います。

回答ありがとうございます。

グレーが黒かどうかはおっしゃるようにサイト管理者への「申告」が有効だと思います。

ここではその一歩手前の段階で、このサイトの利用者さんの「経験」をお聞きできればと思い投稿しました。

タイトル中のラテン語を普通は

不合理ゆえに吾信ず

と訳しますね。平たく言えば「不合理だから(だからこそ)私は信じる」ということでしょうか。

この「不合理だから信じる」については、手持ちの辞典等では

(1)逆説[英paradox]−1)一般に認められている見解と背反する、あるいは少なくともそう見える見解、奇をてらって人を驚かすために大した根拠もなく逆説が語られる場合もあるが、神の経験は尋常の言語では表現できぬと考えて、それを逆説をもって語る宗教的思索家の場合もある。教父テルトゥリアヌス(Tertullianus)の「不合理なるがゆえに信ず」という言葉などはその例。2)は略 岩波小辞典「哲学」44p

(2)不合理なるがゆえに信じる[ラ credo quia absurudum est]−〈(キリスト教の)信仰には理性にたよるよりもキリストのオシエと権威に信頼をおくことが必要だ〉〈不合理な、リクツに合わない事柄をマルノミに信じてこそ、合理的なコトばかり信じるよりも大なる信仰が得られる〉という意味の、信仰第一主義を示す命題。《合理的に考えてもどうせ分からないのだから、グズグズリクツをこねずに頭から信じこむほかはない》という長いモノにはマカレロ的敗北主義を意味するものではない、とキリスト教神学では説明する。(この命題は2世紀中頃に生まれたテルトゥリアヌスTertullianusの語と、17世紀以降考えられ、またアウグスチヌスの言葉ともされた。しかし二人の著作をあらっても、こうした文句は見出されない。もっともこうした考えを示す箇所はある)増補改訂「哲学・論理用語辞典」三一書房 226-7p

とあります。
もっと調べればいいのでしょうが、思うに、この文言のキモは「信仰は合理を超えたところにある」という解釈でよろしいのでしょうか。

すれば、当方のように「信仰から遠い存在」者には逆立ちしても「信仰」を理解することはできぬ、と考えるべきでしょうか。

また、このことについて解説してある著作などをご紹介いただければ有難いです。
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回答日時:10/01/23 17:56
回答番号:No.61
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回答者:noname#103194 回答有難うございます。

やはり「古典」「準古典」に落ち着くものですね。

内省的なもの、求道的なものはその折々の心のありようで「打てば響く」部分が違ってきますよね。

グスタフさんの「法哲学」は未読でした。探してみます。

「団栗」読了しました。

年表を見ると寅彦は二十四歳で妻君を亡くしているのですね。「団栗」発表が二十七歳。十九歳で結婚していますから若かったのですね。三十九歳で二人目の妻も亡くなっていて家庭には恵まれなかったようです。

おお、寺田寅彦ですか。

「団栗」は未読です。探してみましょう。

おお、寺田寅彦ですか。

「団栗」は未読です。探してみましょう。

回答を有難うございます。

これはのっけから衝撃的な…!

ラノベって「ライトノベル」ですよね。ストーリーだけ奇抜で内容のない薄っぺらな(偏見丸出しでごめんなさい)あのラノベですよね。

むむ…、しかも「専門家」の方…、一冊だけ読むとしたら何をお勧めしますか?
種類:回答
どんな人:一般人
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回答日時:10/01/23 17:55
回答番号:No.60
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回答

 

回答者:noname#103194 答番号:No.4
 はいそうです。
 レファレンスのサイトがたくさんありますから、法律のご専攻でなくても読めると存じます。
 大きなことは言えませんが、ご不明なところがありましたら、どうかこのサイトでご質問ください。
 私もわかることは説明申し上げます。

回答番号:No.3
 お礼を頂きました。恐縮です。
 グスタフさんとはあまり言いません。
 普通ラートブルッフと読んでいます。
 “さん”はつけません、ロマン・ロランにつけない、カンディーにつけない、リンカーンにつけないのと同じです。
 孔子やイエスにも釈迦につけません。
 
 原著も簡単に取り寄せられますが、あの田中耕太郎さんがいい翻訳をしております。東大出版会です。
 研究者でなければ、原著は読む必要は必ずしもありません。
 ラートブルッフはワイマール憲法の司法大臣もやりました。
 カントの西南学派だったと存じます。

こちらですね、見つけました。

ラートブルフ著作集 第1巻「法哲学」
出版社: 東京大学出版会 (1961/02)
ISBN-10: 4130340018
ISBN-13: 978-4130340014
発売日: 1961/02

再びの回答をありがとうございます。

「さん」づけへの”こだわり”ですね。ご気分悪くされましたか。当方悪気はさらさらありません。すみませんでした。

早速「ラートブルッフ」で検索をアマゾンでかけてみたものの、該当の書に行き当たりませんでした。少し息の長い探索をしようと思います。

村湖人「次郎物語・論語物語・心窓去来」
 ロマン・ロラン「“ジャン・クリストフ”、“魅せられたる魂”、“マハトマ・ガンディー”」
 パラマハンサ・ヨガナンダ「バガヴァッド・ギータ」
 グスタフ・フォン・ラートブルッフ「法哲学」
 出隆「哲学以前」
 
 愛と認識の出発、三太郎の日記、出家とその弟子
 倉田さん    阿部次郎   倉田さん
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回答日時:10/01/23 17:54
回答番号:No.59
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回答

 

回答者:noname#103194 ひとまず閉め切ります。

気持ちとしては回答者みなさんに平等に「気持ち点」を差し上げられればいいのですがシステム上無理とのこと。

こういう場合はどなたにも「評価なし」とし心の中で「感謝」します。

回答者のみなさん、ありがとうございました。

回答を有難うございます。

詩、ですか。
当方は「散文」あたりを想定していたのでちょっと驚きました。そうですね、詩を排除する理由はありませんね。

詩は当方にとっては難物です。特に現代詩あたりを熱心に読んでいた時期があって多分それについていけずに今はちょっと遠くから眺めている、という感じです。

詩を読んでその喚起するイメージの美しさに感動していた時期がありました。挙げておられる詩人の他に、小野十三郎や鮎川信夫なども入ります。伊藤信吉の『現代史の鑑賞』(新潮文庫)あたりは若い頃よく読みました。

>夏目漱石『吾輩は猫である』はどういうわけか数年に一度くらいの割合で無性に読みたくなる。

漱石の『猫』も面白いですね。当方は岩波文庫の旧かな正字で鍛えた時期があますから(といっても還暦まではまだだいぶあります)、お話を伺って旧かなの『猫』も読んでみたくなりました。

#1です。
「専門家」をクリックしたのは、誤りでした。すみません。

もちろん梶井基次郎とか太宰(汗)とかも好きですが、実は源氏物語も原書で読んだりもしますが、それらは読むたびに「初回と同じ感動」を得るので、「毎回違った感動を得る」となると、ラノベになってしまうのです。
仰るとおり、表層の発想が奇抜なので10代の頃はそこに目が行き、20代になるとその裏に潜んだ、純文学となんら変わらないテーマや人間性に目が行き、30代になると現実の生活で疲れてくるので、現実では必ずへし折られる正義や思いやりといったものが第一義になっているラノベ世界に気が休まる…みたいな感じで、感動に変化があるのだと思います。

ストーリーがハデなのは確かです(ものによりますが。ごく普通の学園生活ものが一世を風靡したこともあります。マリミテじゃなく)。内容がないかどうかは…うーん、私は太宰より藤本の方が濃いような気がします。

一冊お勧めは難しいですが「オンディーヌの聖衣」が、老いをテーマにしていて泣けました。
長いシリーズの途中の話ですが、しょせんラノベなので前後読まないでも意味はわかります。
設定は本当に奇抜ですが…。人が猫に変身してしゃべったりしていますが…。←いやこの設定も、一応科学っぽい理由がついていて、イラっとくるような薄さは感じません。なんで変身するのかは、一応1巻にあたる「月光のピアス」を読んでからの方がいいかもしれません。1巻というのは、やっぱりそんなに面白くはないんですが。

びの回答を有難うございます。

>「専門家」をクリックしたのは、誤りでした。

そうでしたか、「残念です」(えっ?)。

>内容がないかどうかは…うーん

これは、えーっと、当方がちょっと「構わせて」もらっただけです。気に無さらないでください(というか大人の対応でしたね)。

>一冊お勧めは難しいですが「オンディーヌの聖衣」が、老いをテーマにしていて泣けました。

頭の中に常時500冊ほど購入の(または読書の)優先順位がありまして、ラノベだからという偏見よりは勧められたことがないという点でラノベはその優先順位にはいっておらず、したがって買って(借りて)読もうという気にもなりませんでした。
しかし、こういう電気信号であれ「文字」を媒介としたやりとりも何かの縁でしょうか。近くの書店(ツタヤまで歩いて3分!)で手にとって見てみましょう。(感想は多分間に合いませんね)

>設定は本当に奇抜ですが…。人が猫に変身してしゃべったりしていますが…。

いえいえ、当方、幻想文学プロパーを自認しておりますので設定は「何でもあり」です。おっしゃる、「純文学となんら変わらないテーマや人間性」が感じ取れればいいです。
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回答日時:10/01/23 17:52
回答番号:No.58
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回答者:noname#103194 よく次のような言葉に出くわしたものです。

名作とは読むたびに感動を新たにする作品である。(あるいは)名作とは読み返すたびに教えられるこのと多い作品のことである。(あるいは)同じ作品を読んでも、20歳の感動とはまた違った感動が40(60)歳でも得られる。(等々)

具体的な作品名は失念してもかような文言だけが頭の片隅に残っております。

さて、短篇、長篇を問いません。国内国外を問いません。上記の言葉に該当するような文学作品がおありでしたら、(個人的な宝物でしょうが、出し惜しみをせずに)お教えください。

確かにおっしゃるとおり、
二十年、三十年ぶりに読み返してみると、まるで印象が異なって、愕然とすることがよくあります。
これは思い入れの相違や読むことの巧拙にもよるようですし、自分の考え方、受け取り方が相当に遷化してきた証しなんだろうと気づかされもします。生活環境の変化や残された時間の多寡も無視できないでしょう。

読むたびに感動が新たであるかどうか、はなはだ自信はありませんけれども、詩を読むことがそれに近いのではないかと思っています。私にとっては詩は音楽とアナロジーの関係です。お気に入りの曲を見つけては何度も何度も掛けてみるように、折にふれて詩を読みかえすのは、とりあえず楽しいことです。

萩原朔太郎、草野心平、西脇順三郎、堀口大學(訳詩集を含む)、宮沢賢治(童話を含む)、田村隆一、谷川俊太郎あたりが中心でしょうか。これに最近、辻征夫が加わりました。ひととおり読みかえす律儀なものではなく、あちらこちらを読み散らす、いい加減で怠惰なものです。

それと、『古今集』『新古今集』芭蕉あたりも、つまみ読み(?)するたび、なにかしら気づかされることがあるようです。もっともこれは、当方にはじめから知識や素養が欠けているだけなのかもしれません。

短編小説では国木田独歩や中井英夫なども、時おり二三編を読み返して満足しています。

夏目漱石『吾輩は猫である』はどういうわけか数年に一度くらいの割合で無性に読みたくなる。
何種類か持っているんですが、これは旧漢字旧かな、新漢字旧かななど表記上の違いのためもあるし、各出版物、出版社によって注釈がいろいろ異なっていて、それを読み比べてみるのも結構おもしろいんです。

三島由紀夫は長いあいだ嫌いな作家だったはずなんですが、あんがいそうでもなさそうだと最近になって気がつきました。ちょいとショック(笑)特に『仮面の告白』は出来がいいと思うし、いろんな意味で興味深い。

三島と思想も技法も文学観も対極にあると思われる井上ひさしも面白いですね。この二人、戯曲対決でもあります。

海外の作物も上げたいところですが、翻訳によってがらりと雰囲気の異なるもの。かつ、原語で読めない・読まない以上「本質的な影響はない」と、これは先日亡くなった加藤周一氏のいましめですので割愛します。

「出し惜しみをせず」とのお言葉に甘えて、詰まらないことを牛のよだれのごとくだらだらと。と、や、これは二葉亭四迷『平凡』。退屈さまでした。
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回答日時:10/01/23 17:51
回答番号:No.57
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回答

 

回答者:noname#103194 ここのサイトで質問と回答のやりとりを眺めていて、ふとストーリーを思いつきました。

倦怠期に入っている夫婦か恋人が、別々の事情から同一のサイトにアクセスし、お互いの素性を知らないながら(このサイトのように匿名)やりとりをしていくうちに惹かれあってゆき、恋心まで芽生えさせていざ実際に会おうとしたとき(会ったときでもいいですが)、当の相手が自分のよく知る妻(恋人)であり、また新鮮な気持ちで二人の愛を育てていく…

で、いっちょ「書いたろか」と妄想したところ、我が心に巣食う悪魔の声『そんなの誰かがきっともう書いているヨ!』がして、ふとわれに返りました。でも、最近の小説にうとい当方としては、その「誰かが書いている」筈の当の作品が分かりません。

という訳で、ディテールには拘りませんが、上記のような内容で書かれた作品をご存じの方、ぜひお教えください。(拘らないといっても、「ネット上のサイト」「匿名でのやりとり」は外したくはありません(*^_^*)。

よろしくお願いします。

質問の内容は現実に起こっています。
(質問の内容見たときに聞いた事があると思ったので、改めて調べてみました。)


ボスニア・ヘルツェゴビナで、倦期に入っている夫婦が、同一のサイトにアクセスし、
お互いの素性を知らないながら、匿名でやりとりをしていくうちに惹かれあって、
(お互いの結婚生活の悩みを打ち明けったら、境遇が同じだったため驚き、意気投合したとの事w)
恋心まで芽生えさせて、実際に会ったら、当の相手が自分の妻・旦那だったそうです。

ただ、この二人は新鮮な気持ちで二人の愛を育てていくのではなく、お互いの不貞行為を非難しあったとの事・・・


ちなみに、草上仁さんの「お父さんの会社」は旦那の方は妻の正体に最後まで気づきませんでしたが、
妻の方は旦那の正体を知っていました。
というか、妻はオンラインゲームにはまり込んでしまった旦那を理解するために
自分もゲームに参加する事にして、わざわざ、旦那のプレイヤーの仲間になっています。

回答をありがとうございます。

そうでしょうね。現実に起こりうることですよね。そして現実は物語ほどうまくはいかなくて

>お互いの不貞行為を非難しあったとの事

もそのほうが現実社会での出来事としては「自然」な感じがします。

>旦那の方は妻の正体に最後まで気づきませんでしたが、妻の方は旦那の正体を知っていました

は、旦那さんは最後まで気づかなかったのかな。作者としては、ある些細なことから「妻」であることを気付かせるようにしたほうが面白いでしょうね。

実例を挙げていただきありがとうございました。

 もっとSFにシフトしていますが(何せメールじゃなくて3Dのバーチャル空間が出会いの場ですから)、早川文庫の「ヴィーナス・シティ」​​http://www.amazon.co.jp/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%...
と言うのが思い出されます。もっとも夫婦じゃなくて、会社関係なのですが。

 夫婦だと、草上仁の「お父さんの会社」​​http://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E7%88%B6%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%...​なんてのもあった(これも3D)。愛情物語は添え物ですけど。

回答をありがとうございます。

おおっ、「ヴァーチャル空間」というのもありますね!

興味が出てきたので早い機会に読みたいと思います。

映画ですが『街角』をリメイクした『ユー・ガット・メール』は商売敵同士がメールを介した匿名のやりとりで親密になるという、まさにその路線の話ですね。
あとネタばれになるので詳しくは書けませんが、ロバート・F・ヤングの超名作短編ファンタジー『たんぽぽ娘』もそれに近いですね。

回答ありがとうございます。

『ユー・ガット・メール』。そういえばありましたね! トム・ハンクスとメグ・ライアン。でもあれって女の子にはすでに恋人がいませんでしたっけ。ま、似ているシチュエーションではありますね。

『たんぽぽ娘』はそうでしたっけ? 片一方が知ってていて…(おっとネタバレになるぅ)という展開じゃなかったでしたっけ。あの『今会いに行きます』的な。ちょっと外れたような…ゴメンナサイ。
種類:回答
どんな人:一般人
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回答日時:10/01/23 17:50
回答番号:No.56
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回答者:noname#103194 すみません。一部「抜け」がありました。

誤:>を愛する傾向

正:>ちょい悪いな感じで、ちょこまかとしてすっきりしない美を愛する傾向

回答をありがとうございます。

こちらの回答はNo.1さんとは違って

「あざとい」は「煩瑣な」にかかるという解釈ですね。

>を愛する傾向

うーん、もう少し「腑に落ちる」部分が欲しいですね。

>ちょこまかとしてすっきりしない美

つまり装飾過剰であったり、少しピントが外れてしっくりこない(構成の)美

ということでしょうか。謎が謎を呼んだみたいな…。

あくまで私見ですが、「空海の性格は、とにかく煩瑣な美を愛した」という事ではないでしょうか?

「あざといばかりに」を、「何も考えずに」とか、言葉が悪いですが「馬鹿みたいに」等と置き換えると解り易いかもしれません。

回答をありがとうございます。

やっぱり、「あざとい」は「愛した」にかかるのですね。

主語が「空海」なので、そちらに少し気を取られていましたね。

例文作成者はきっと「空海さん」が嫌いだったのかな。
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回答日時:10/01/23 17:49
回答番号:No.55
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回答

 

回答者:noname#103194 まず、文中の「あざとい」の意は『新明解』の語釈をそのまま採って
「(2)あくどいところがあって、悪い印象を与える様子だ。」というのは大前提ですよね。

であれば、
角川『新版国語辞典』式に読めば、
「程度が過ぎていやらしいほどに、こまごました美を愛する傾向」
岩波『広辞苑第五版』式に読んでも、
「程度をすぎていやみなほど、こまごました美を愛する傾向」
といったあたりかと思いますが…。

ここで「あくどい」というのは
「お代官様と越後屋のあくどい悪巧み」の「あくどい」ではなくて
第一義の方「しつこい。程度が過ぎていやらしい。」という意味と思われます。
(そうでないと「あざとい」の意味がおかしなことになります)

煩瑣な美を愛するその程度が過ぎて、しつこい、くどい、押し付けがましい、嫌味である、ということではないでしょうか。

ちなみに、「あざとい」の対応する語義は、
『広辞苑第五版』では「押しが強くて、やり方が露骨で抜け目がない。」
『新版国語辞典』では「どぎつい」となっています。
私の語感では『新明解』よりもこちらの方がしっくりきますね。

ご参考まで。

聞きっかじりですが、「空海は山師・ペテン師だ」という話があります。
ちょっと言い過ぎだと思いますが、識者によれば、彼の書いたものからは、文章力があり過ぎて、「正直や謙虚」とは反対の「ケレン味」を感じるそうです。
私は空海の書いたものを読んだことはありませんし、難しいことはわかりません。
ただ、空海の業績を見ますと、普通のお坊さんではなく、俗世間にもいないような、強腕で抜け目のない仕事師という印象を受けます。

ご質問文の
>「あざといばかりに煩瑣な美を愛する傾向」…★
を読んだとき、上のようなことを思い出しました。

「ゴチャゴチャとして、どぎつく、顰蹙を買うような美を愛する傾向」
・・・一応このように書いて見ました。
俗受けするところがあるんじゃないでしょうか

こんにちは。

>>>引用した国語辞書はユニークな語釈で有名な『新明解 国語辞典』第4版(1989.11.10)です。

あはは。
私は30年ぐらい前から使ってますが、
当時の国語の先生が「思い切った書き方をしている」とおっしゃったので、
それに惹かれて使い始めた次第です。
当時買ったのと、1997年版の両方を持っています。
たしかに、そう書いてありますね。

「あざとい」・・・ ちょい悪
「ばかり」・・・ 〜な感じ
「煩瑣」・・・ すっきりしていない、こまごまとして煩わしい

「あざといばかりに煩瑣な美を愛する傾向」
 = ちょい悪いな感じで、ちょこまかとしてすっきりしない美を愛する傾向

という感じです。
種類:回答
どんな人:一般人
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回答日時:10/01/23 17:48
回答番号:No.54
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回答

 

回答者:noname#103194 子どもが中学受験をしました。

>あくまで、難関大学合格を想定した場合の訓練として「必須」か、という問いです。

訓練として必須ではありません。
難関大学に合格できるくらいの潜在能力を持った子なら、訓練すればすぐに中学入試の問題を解けるようになるということなのです。
地方の難関公立高校から難関大学へ進学したお子さんも、小学生の頃に進学塾に通ったとしたら、あの算数の問題を解けるようになったことでしょう。
逆に私立中学から難関大学へ進学した子も、もし中学受験をしなくても難関大学へ合格しただろうと思います。

子どもの受験を終えて、私が思うのはこのようなことです

回答をありがとうございます。

>訓練として必須ではありません。

貴重な体験者としてのご感想ですね。選抜に必要な「ハードル」として必要は必要でしょうね。「必要悪」とまでは申しませんが…。

問題は、中学受験期の子どもたちがああいった問題をすらすら解く訓練がその時期に「必要」なのか、ということですね。私は、合格者よりも、いわゆる第一志望校に不合格になった子どもにも「知的レベル」では合格者に負けていないような方もいると感じています。他に知的レベルの「計測法」がないのかと思いますが、多分「ない」から現行の選抜ということなのでしょうね。

たまたま手持ちの国語辞書を眺めていたら「あざとい」の項目で

(1)浅はか・(小利口)な点が批判の対象となる様子だ。
(2)あくどいところがあって、悪い印象を与える様子だ。

この(2)の使用例のところに例が2つあって、その2つ目に

「空海の思想家としての性格はむしろ―ばかりに煩瑣な美を愛する傾向があり」

とあり

「ほぇー」と思ったものの

「あざといばかりに煩瑣な美を愛する傾向」…★

って「何じゃい?」とも思ってしまいました。

引用した国語辞書はユニークな語釈で有名な『新明解 国語辞典』第4版(1989.11.10)です。

どなたか★の文を分かりやすく説明して頂けないでしょうか?(文中のあざといの使用法が間違っているとは思いません。★の部分が何を言っているのかよく分からないのです)よろしくお願いします。

あざとい」の意味に、現代では「わざとらしい」を付け加えた方が分かり易そうですね。
「相手にどんな印象を与えるかをじゅうじゅう分かっていて、わざとそのやり方をする、巧妙な人」みたいな意味がありませんか?

もっともyahoo辞書でも
​​http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%81%82%E3%81%96%E...
という感じで、「わざとらしい」は出てきませんが、「浅はか」と「あくどい」だけだと、「あざとい」の伝えるニュアンスが完全に伝わらない気がします。
多分、本来の意味は「あくどい」等だけだったのが、使用されているうちに「わざとそんなことをするなんて、巧妙であくどいなあ」みたいな意味をしょうことになったんじゃないでしょうか。
分かりませんが。

その新明解の例文が書かれた頃には、すでに「わざとらしい」のニュアンスが少〜しかかってきているように思います。

空海が思想家として、聴衆だか読者だかにどんな印象を与えるかをじゅうじゅう分かっていて、わざと煩瑣な美を愛する姿勢で思想していた、みたいな。
「空海、おまえ『煩瑣な美を愛する自分萌え』だろ!」と突っ込んでるみたいな。
あるいは「あざとい」が「美」にかかるのなら、その美は、煩瑣すぎてかえってわざとらしい美だよなあ、みたいな。
種類:回答
どんな人:一般人
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回答日時:10/01/23 17:47
回答番号:No.53
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回答

 

回答者:noname#103194 私立中学校(または中高一貫校)の入学試験問題の算数では、公立小学校の教科書内容を基礎とし、そこから発展問題としてかなりややこしい解法を使用しなくてはいけない問題が出題されます。

それは、例えば公立小学校で使用している教科書をほぼ100%理解していても、「試験時間内に合格点を取る」だけの「解答力」はつかないということです。

おそらくこういったややこしい解法を使用する問題の出題は、(1)指導要領による制限と、(2)出題の難度を上げなければ「選抜試験」として有効でないから、という理由が考えられます。

さて、質問ですが、以下の内容にお応えください。

最高レベルの大学受験を目標としたときに、上記のような「ややこしい解法を知っていなければ時間内に解けない問題」を進学塾などに行って、自由時間を犠牲にして訓練を重ねなければいけないのか、ということです。「ややこしい問題の解法」は入学試験を突破するのには有効であっても、難関大学入試突破には「必須の基礎知識・学力」とは言えないのではないか、ということです。

というのは、地方のトップ公立高校でも上位10名くらいは難関大学に入学している現実があるからです。もちろん私立進学校の方が割合として、また現役合格率からも「有利」であることは承知していますが、大学受験数学などの内容を考えると、あの「解法」をマスターしなくても別に困らないのではないか、と思うのです。

とはいえ、込み入った問題を解くときに「論理的な手順を間違えることなく短時間で実行し解答に至る訓練」は、思考力の強化には有効でああるとは思います。その実効性には疑問を挟もうとは思いません。

あくまで、難関大学合格を想定した場合の訓練として「必須」か、という問いです。

私見では、そういった「解法」を訓練するより(私立中学校入学を希望する方は必要でしょうが)、早めに小学校レベル(教科書レベル)を終了し、中学校レベルの文字記号を使用した問題解法の訓練に入る方が、よほど先を見通した「訓練」になると思います。今回はこういった考えの是非については質問していません。

難関大学受験のためだけ、時間・費用を最小限にして・・と、いうことなら公立コース&予備校が正しいのかも知れません。

 しかし、私立中学は、公立校が一律でなくてはいけないのに反して、個性的でないと生き残れません。その個性に惹かれて、受験生が集まるのです。

 お問い合わせの件ですが、まず、算数の問題・算術の問題ですよね。解いていく過程で、自分の知っている知識をフル稼働して最短の糸口を探していくやりかたです。それは、勉強の元・・でないですか?

 子供が中学受験を経験し、高2になった頃、「勉強って、問題を見てどうやったら最短で解けるか試行錯誤していく訓練だったんだね、これはどんなことにでも使える手法なんだ。だから高学歴の人が就職において優遇されるのか、少なくとも、問題解決において試行錯誤していく手法については一歩先んじているんだから。」・・と申しました。その手法は、算数・数学が一番訓練しやすいです。

 小学校の時点で、算数の手法が、思考能力を訓練していく上で、とても高度な手法だ、というのは賛成します。しかし、いち早く数学の領域に進み、その世界で訓練することも可能です。しかし、そうすると現行の中学受験に当てはまらないようになり、個性豊かな私学に入学できなくなります。

 なお、首都圏で数校のみ、数学で受験できる学校もあります。そちらの学校の校風が気に入れば、算数をせず数学をされて中学受験できます。例を言うと公文国際学園は、数学受験できます、でも、高校2年生程度の実力がないと合格できないようです。

回答をありがとうございます。

>解いていく過程で、自分の知っている知識をフル稼働して最短の糸口を探していくやりかたです。それは、勉強の元・・でないですか?

は正に正論ですね。そしてお子様の

>勉強って、問題を見てどうやったら最短で解けるか試行錯誤していく訓練だったんだね、これはどんなことにでも使える手法なんだ。だから高学歴の人が就職において優遇されるのか、少なくとも、問題解決において試行錯誤していく手法については一歩先んじているんだから

という考えも、勉強が思考力を鍛える方途であることを理解した発言だと思います。

当方の質問の最大の意図は、「難関大学を突破するのに、進学実績のある私立中学校に入り学習するのでなければ、あの入試問題で課されるレベルの算数問題を解く訓練は『必須ではない』のではないか」というものでした。

回答者さんは、個性ある私立中学に入るために、また「思考能力を訓練していく上で、とても高度な手法」であり、現行の制度の制約上必要であるとお考えなのですね。つまり「必須」ではないが「必要」であるとの結論だと受け止めてよろしい、ということですね。

ありがとうございました。

 小5♀の父親です。娘が受験のため塾通いしていますが家では算数を教えています。自分が大学受験をしました。
 質問者様のお考えが正しいと思います。勉強をできる人、できない人の格差は才能と努力でしょう。ですので、努力をすればある程度才能がなくても難関大学に合格できますが、才能がある人は一を知れば十を知ることができる能力や記憶力がよく一度憶えれば忘れない能力などがあるような気がします。No.1さんの回答通り、この才能は中学受験でも現れています。

回答をありがとうございます。

こういった問題の一番のネックは、学力という目に見えないものについて、中学入試であれば4教科の「出題=解答」という経路(すなわち短時間で解答する能力)で能力を計測することがもっとも「能率的」で「公平」であるだろう、という点にありますね。

ですから、回答者さんお考えも出てくるのだと思います。

才能がある人はどういう経路を通っても「難関大学」の関門を通過するでしょう。でも多くのボーダー付近の人は「努力と根性」でがんばるのでしょう。それでも報われればよしとするのでしょうが、「努力と根性」でその関門を突破できなかった場合、その「努力と根性」が足りなかったのか、はたまた「才能」に原因を求めるのか、どちらにせよ

中学受験では、受験突破にしか要求されない解法を頭に詰め込むことが要求される

わけです。

あの「ややこしい」問題を解く方法をすんなりマスターできる思考力の持ち主はいざ知らず、多くの「努力と根性」の子どもには「やりがいのない負担」でしかないという印象がぬぐえません。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 17:46
回答番号:No.52
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回答

 

回答者:noname#103194 「人差し指」という言葉がありますから,本来は指してもいいんだろうと思わないではありません。

子供のころと思いますが,母親から注意された文句を再現すると,「人を指すと,自分たちが悪口を言っているとその人に誤解される。だから”あのポストの前の人”というふうに言葉で言え」と。

回答をありがとうございます。

「人差し指」ですよね。

インターネット版「英辞郎」で検索したらこんなのがありました。
・・・・・・
ボビー、おれたち、公園に行くんだ。一緒に来るー? (友達を指さしている)
Bobby, we're going to the park. Do you want to come (with us)? (Pointing his finger at his friend)
トミー、お友達をそんなふうに指差すのはやめなさい。誰にも指さしちゃ駄目だよ。失礼にあたるから! ボビー君、ごめんね。一緒に来る?
Tommy, stop pointing your finger at your friend like that. Don't point your finger at anyone. It's rude! Bobby, sorry about that. Do you want to come with us?
・・・・・
不躾なのは洋の東西を問わないみたいですね。

私もきっと幼いころに親から躾けられたのだと思います。そのときは

>自分たちが悪口を言っているとその人に誤解される

という「理由」は言ってもらえなかったような気がします。なにせ「躾」ですからね、理屈抜きでしたね。

ただ、「誤解される」を禁忌とするには今少し理由として「弱い」ような気がします。「誤解される」のを恐れる心理が「タブー視される」ほど強い理由とは思われないですね。

私立中学校(または中高一貫校)の入学試験問題の算数では、公立小学校の教科書内容を基礎とし、そこから発展問題としてかなりややこしい解法を使用しなくてはいけない問題が出題されます。

それは、例えば公立小学校で使用している教科書をほぼ100%理解していても、「試験時間内に合格点を取る」だけの「解答力」はつかないということです。

おそらくこういったややこしい解法を使用する問題の出題は、(1)指導要領による制限と、(2)出題の難度を上げなければ「選抜試験」として有効でないから、という理由が考えられます。

さて、質問ですが、以下の内容にお応えください。

最高レベルの大学受験を目標としたときに、上記のような「ややこしい解法を知っていなければ時間内に解けない問題」を進学塾などに行って、自由時間を犠牲にして訓練を重ねなければいけないのか、ということです。「ややこしい問題の解法」は入学試験を突破するのには有効であっても、難関大学入試突破には「必須の基礎知識・学力」とは言えないのではないか、ということです。

というのは、地方のトップ公立高校でも上位10名くらいは難関大学に入学している現実があるからです。もちろん私立進学校の方が割合として、また現役合格率からも「有利」であることは承知していますが、大学受験数学などの内容を考えると、あの「解法」をマスターしなくても別に困らないのではないか、と思うのです。

とはいえ、込み入った問題を解くときに「論理的な手順を間違えることなく短時間で実行し解答に至る訓練」は、思考力の強化には有効でああるとは思います。その実効性には疑問を挟もうとは思いません。

あくまで、難関大学合格を想定した場合の訓練として「必須」か、という問いです。

私見では、そういった「解法」を訓練するより(私立中学校入学を希望する方は必要でしょうが)、早めに小学校レベル(教科書レベル)を終了し、中学校レベルの文字記号を使用した問題解法の訓練に入る方が、よほど先を見通した「訓練」になると思います。今回はこういった考えの是非については質問していません。
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回答日時:10/01/23 17:44
回答番号:No.51
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回答

 

回答者:noname#103194 圧迫感を感じる(とがったものと同じ感覚)
モノのような扱いを受けていると感じる
指を指すのも含め、エラそうな態度全体に腹が立つ

ですかね?
あんまり心理学的な背景はわかりませんが、思いつくところだとこんなカンジで…。

回答をありがとうございます。

結局そういうことなんでしょうね。

回答をありがとうございます。

>その人の主体性を無視するというかもの扱いにするということ

について、なぜ人を指さすことが「主体性を無視」し「もの扱いにする」ことに通じるのでしょうか。

それが理由づけられれば今回の質問は終了ですね。

こんにちは、

心理学では、“指さす”ことは、自分が優位であることを示す行為と考えられていて、
それは、同時に相手を劣位置き、不快にするからです。
​​http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/hanasikata.htm​

対人関係の中で、人が人を指さすのは、自らを「ワン・アップ・ポジション」立つ行為であり
同時に、相手を「ワン・ダウン・ポジション」に置くことになります。

人は、対話などの交流関係の中で、常に上下や平行の関係を入れ替えながら交わっています。

例えば、このカテのように「質問」があり、
それに「回答」すると、瞬間的に「回答」した側が「ワン・アップ・ポジション」に立ち、
「良回答」を選ぶ段階では、質問者が「ワン・アップ・ポジション」に立ちます。

つまり、私たちは、「平行な関係の場合」色々な場面で、
瞬間的に“優位な立場”を入れ替えながら、交流しています。
上司と部下や親子などの場合、このポジションの割合が、
9:1や8:2とかに成るだろうと考えられます。

そんな訳で、自社(自校)の社長や校長を、人差し指一本で、
指さすのは、大変に失礼な行為となります。

どうしても指し示す必要がある場合、
マナー講座などでは、手のひら全体をつかって示すように教えられます。

回答をありがとうございます。

なるほど

>心理学では、“指さす”ことは、自分が優位であることを示す行為と考えられて

いるのですね。

この説明ですと、社会的関係において「優位にある者」が「劣位にある者」を

>人差し指一本で、指さすのは、大変に失礼な行為

には「ならない」ことになりますよね。でも、社長や校長から指さされれば「失礼なふるまいを受けた」という心持ちにはならないのでしょうか。

また、お示しの対人関係での「ポジション移動」では、例えば験をかつぐことの多い船乗りや漁村にある「船を指さしてはいけない」というタブーや西洋に一般的にある「天を指さしてはいけない」タブーなどは説明ができないことになりますね。
種類:回答
どんな人:一般人
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回答日時:10/01/23 17:43
回答番号:No.50
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回答

 

回答者:noname#103194 答をありがとうございます(って「退会」されたのでしょうか?)。

後半は難しくてよく分かりませんでした。

kaitara1ですが、私の素人考えでは、指を差された人は、指をさした人の頭の中に記号として取り込まれてしまい、この人の頭の中で勝手に扱われてしまうことが、主体性を失わされ、もの扱いされているという状態を意味するということではないでしょうか。

回答をありがとうございます。

>頭の中に記号として取り込まれてしまい、この人の頭の中で勝手に扱われてしまうことが、主体性を失わされ、もの扱いされているという状態を意味する

お示しの内容がいまひとつ理解できかねます。多分、当方の能力の問題ではないかと思います。

第三者が指さされた人を見ると「主体性を失わされ、もの扱いされている」と感じるから「不快」だと感じるのでしょうか。

記号は「もの」でしょうか。もう少し敷衍していただければ有意義であったかもしれません。

> 社長や校長から指さされれば「失礼なふるまいを受けた」という心持ちにはならないのでしょうか。

完全に順位や力の差のある状況では、普通に受け入れると思われます。
何故、不快感が起こるかは、下から上のものを逆転しようと言う行為と
本来平行の関係であるはずのものを、自分が上に立とうする行為だからです。
明らかに地位や役割が決まっているケースでは、不快感は起こりません。
余程、上司やトップに反抗心を持っている場合は別だと思いますが。

> お示しの対人関係での「ポジション移動」では…説明ができないことになりますね。

あの〜「対人関係」の意味をご存知でしょうか?
人間同士の関係の中でのことで、あり、そこには漁夫の“船”との関係も、
“天”との関係もまったく出てきません。

こじつけるなら、“擬人化した船や天”よりも、“指さした人”が偉いと示すなら、
“船や天”は不快になり、指さした人に復讐(罰を与える)だろう、と成ると思いますが・・・

しかし、そこまでを訊きたいのなら、最初の質問文に、記載するべきではないでしょうか。

後出しジャンケンは、指さしよりも不快です。

「いちゃもん」をつける気はさらさらありませんが、No.2の回答中の

>例えば、このカテのように「質問」があり、それに「回答」すると、瞬間的に「回答」した側が「ワン・アップ・ポジション」に立ち、「良回答」を選ぶ段階では、質問者が「ワン・アップ・ポジション」に立ちます

はよくある「幻想」だと思います。なぜなら、知らないことだけを聞いているのが質問だとは限らないからです。また、質問者が「良回答」を選ぶ段階でも「人間関係」の場はリアルには存在しませんから、すなわち「劣位」の者が質問者の頭の中にしか存在しませんから、「幻想」の中での「優位」でしかないでしょう。
もっとも「一般論」としては、せっかく回答してやったのに、自分の回答よりも他の回答を「良回答」に選びやがって、ということで「頭に来る」ことが多いのであれば

>質問者が「ワン・アップ・ポジション」に立ちます

は言えるかとも感じますが、どうなのでしょう(この終わり方はさらなる回答を求めている、ということではありません)。

再びの回答をありがとうございます。

>後出しジャンケンは、指さしよりも不快です。

そうです。おっしゃるとおりです。「お礼」を投稿直後に気付きまして「補足欄」からお詫びを記入しましたが、間に合いませんでしたね。ご気分を害されるような蛇足を記してしまい済みませんでした。

>完全に順位や力の差のある状況では、普通に受け入れると思われます
>明らかに地位や役割が決まっているケースでは、不快感は起こりません

かどうかはアンケートをとってみないと分かりませんね。少なくとも私には「見解の相違」と受け取りました。

「ポジション移動」については、人間が群生し社会構造を形成している以上組織運営という点でヒエラルキー構造、すなわち「上下関係」を持ち、対人関係においても形式的にも実質的であっても「場」に「上下関係」を持ち込む点はその通りだと思います。

「指さし」行為が「特定の対象を指定」し、多くの場合、対人関係の力学においては、「指さし」行為と同時に惹起する「場」の展開として、「指さし」た者が「指さされ」た者の、「(道義的)責任を問う」たり「間違いやミスを指摘したり」「非難したり」することが多い、というモデルがあり、それが一般的に「指さし」行為が対象者を「劣位」におくと解釈され、みだりに「してはならない」という躾の場での「タブー」扱いとなっているということですかね。

個人的にはそういう面も納得しながら、「指さす」という行為自体に

「呪術的」色彩

を感じているのですが、今回は「心理学的に」という限定なので、ご提示された解釈が「もっとも守備範囲が広い」と思わなくてはいけないようですね。

再度のご教示、ありがとうございました。
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回答日時:10/01/23 17:42
回答番号:No.49
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回答

 

回答者:noname#103194 言われてみれば不思議です。

おまえはバカだ と言葉で言われたときと
それに加えて指差されながら言われたときとでは
ショックの大きさが違いますね。

仮説に過ぎませんが、指を指す行為は、言葉が出来る以前の
類人猿のころから相手を示すときにそういう動作をやっていたのではないでしょうか。だから深く感じる。

同意、否定や喜怒哀楽の表情などと同じように悠久の時を刻んでいる
動作かも知れませんね。

ばななさんどさん、回答をありがとうございます。

>おまえはバカだ と言葉で言われた

これだけで当方などは大ショックですね。指さされはオマケに等しくなっちゃいます。

>悠久の時を刻んでいる動作

ふ、深い!そう考えると感慨深いものがあります。

恐れ入ります
マナー教室では禁じられています!!!
古代中国由来の指弾は人物を糾弾するときであるすなわち無礼な行為!!!
欧米では子供に注意を促す時のみ使用する大人には失礼な行為!!!
この様に教授されました

ご参考までによろしく

おおるどっぱさん、回答をありがとうございます。

>マナー教室では禁じられています!!!

そうですよね。相手に不快な思いをさせるのってマナー違反ですよね。

>この様に教授されました

なぜそうなのかという理由をお聞きになりましたか。

>しかし、人が人を指さす場面に遭遇したりすると、私などは「やや違和感を覚え」たり「不快な気分」になったりします。それは「不躾な行為」であり、正常で良好な人間関係に程度は軽いものの、「亀裂」や「軋轢」を呼ぶように思えます。>

 まったくその通りだと思います。相手は亀裂や軋轢を生じさせたいんでしょう。そうすることによって心理的解消を図るというのが意図のように思います。たとえば1:注意すると此方が咎められるような状況の時に対して行うとか2:不満や優位性の代償などの所謂すり替えの3:気を引きたい。この3パターンが多いように感じます。1:の場合一種の板ばさみ状態であって、当人にとってみれば気に食わない表現であるのだがそれに対して不快を表現すること自体が周りから反感を買うという状況下においての有効手段として使うのだと思います。つまり相手に攻撃したいのだが周りから反感を買いたくないという場合に指を指すということによって嫌な、変な、etc人扱いして差別攻撃をするというのが意図のように思います。つまり1:の目的で指を指された場合なんらかの意味で相手が気に食わない(もしくは攻撃されて悔しいetc)と感じているという表明になると考えて良いと思います。つまり「後ろ指指される」という表現がネガティブな表現して認識されるのはおそらく1:の意味で「嫌な目で見られる人」という感覚的にネガティブな意味で捉えられてきたのだと思います。3の場合も板ばさみ状態であるのだけどその板ばさみは恥ということだろうと思います。その人にかまって貰いたのだけど直接「僕のことをかまってAちゃん(くん)」と恥ずかしくて、情けなくて、カッコ悪くてetcの背面事情から言えず反動形成という形でかまってもらおうとするということだと思います。
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回答日時:10/01/23 17:41
回答番号:No.48
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回答

 

回答者:noname#103194 迷信が関係しないか調べてきました。

やはりそうでした。
キリスト教は信者から寄付されたお金でエクソシストを育成しています。
要するに魔法が使える人間を育てているんです。


科学が発展した現代においてありえない と思うかもしれませんが、真剣に真面目に魔法使いを育てています。

なぜかというと、彼らは自分が善であるとするためには、どうしても悪の存在が不可欠で、悪魔無しには自分たちが善でありえなくなってしまうから。

そうなると悪魔はいる となり、神様が悪魔にやられてしまわないように、自分達の中から悪魔を退治できる魔法使いである聖職者を育て悪魔を退治しよう ってことらしいです。


キリスト教が抱えるエクソシストたち、アポロ13号の発射かなにかも、打ち上げが失敗したとき、バチカンに依頼しエクソシストが召喚されたらしいです。
従ってアメリカ政府も悪魔の存在を信じているという・・・・



で、キリスト教は特に病的なまでに女性が嫌いです。
中世の有名な神学者は、女性は悪魔であると断言したほどです。
それもあって、カトリックの聖職者は一生童貞でなければいけないって法律ができたわけです。
悪魔である女性と交わると、穢れるから、童貞でいなさいってことですね。


悪魔の存在、魔法の存在を信じているので、魔女であると白状させようとして女性をつかまえて拷問し、拷問に耐えかねた女性は魔女であると嘘をつかざるを得ず、魔女だと言った女性は火あぶり。
拷問されても自分は魔女じゃないと言い続けた人は拷問により死亡。
どっちにころんでも、殺されていたわけです。

今こんなことをしたら、恐ろしいカルト集団で、連続殺人集団となるのですが、その頃は暗黒時代と呼ばれ、権力者がまるで悪魔のように世の中をノシノシ歩き、人々はなるだけこの悪魔のようなネジが外れた聖職者らの餌食にならないように、口を閉ざして言いなりにならざるを得ない時代でしたから。


で、キリスト教は、人差し指を母指であるとし、魔女が呪いをかけるとき、人差し指で行うと考えた。

キリスト教がどうして人差し指を魔女が呪いをかけるときの指だと思うようになったのかというと、エジプトが関係しているようです。

エジプトでは人差し指が母、中指が父をさしていたらしい。
キリスト教は拡大する際に、侵略先でその土地の人々に愛され信仰されていた神を悪魔だとしていきました。
多くの土地では女神が信仰されていたので、その神々を、悪魔、魔女だとして、侵略先の人々を改宗させていったわけですが、もっとも迷信を信じていたのは、キリスト教だと言えるでしょう。


その信仰している神は悪魔だとした自分達に対して、悪魔とされた神がいつか復讐をすると考えていたのではないかと。
悪いこと 間違えていることをしているという自覚があったからこそ、罪悪感に押しつぶされることになり、それを払いのけようとして、「いいや 自分達は間違えていない」とするため、さらに奇行がエスカレートしていくことになったと思えます。


悪いことをしているという自覚があったので、罰を絶対に受けると思い、恐れおののいており、人が指差す行為をすると、魔女が魔法をかけることを想起してしまい、「人を指差すな!!!!」となったのではないかと。
悪魔が相手に入って、自分に呪いをかけられたら、たまったもんじゃない という考えだったんじゃないかと。

ここらが西洋で人を指差してはならないってことになった理由のようです。
宗教的なもので、迷信ですね。



東洋では、人を指差す時、他3本は自分を向いていて、人を指差し非難すると、3倍それが還ってくるから人の指差すなってことらしいです。

キリスト教を見ていて、3倍どころか、事実日常生活がままならないほど、数々の悪事のツケが返ってきたといえるかもしれませんが、そういうのとは別に、日本では東洋思想が影響を受けていますので、日常人を批判すると、ただでは済まされず、復讐されることになるので、人を批判しないようにして和を保てば災難は起こさずに済むという先人の智恵なんじゃないかと。

きぐるみさん、回答をありがとうございます。

>キリスト教は(中略)魔法が使える人間を育てているんです。

わーお!そりゃ陰謀ですね。そこまでは考えなかったなぁ。

>彼らは自分が善であるとするためには、どうしても悪の存在が不可欠

これはおっしゃる通りです。自己の正統性を不断に保持するために(すなわち金のため?)悪を象徴する存在が必要でした。

>悪魔の存在、魔法の存在を信じているので、魔女であると白状させようとして女性をつかまえて拷問し、拷問に耐えかねた女性は魔女であると嘘をつかざるを得ず、魔女だと言った女性は火あぶり。

魔女狩りはローマ教皇の権威を知ろし食すためのおぞましい奸計でした。恐怖による統治。密告によって邪魔な者を抹殺できる社会、これがキリスト教の指導者の保身手段でした。

>その頃は暗黒時代と呼ばれ

最近の研究ではそんなに「暗黒」でもなかったようですね。

>魔女が呪いをかけるとき、人差し指で行うと考えた。
>キリスト教がどうして人差し指を魔女が呪いをかけるときの指だと思うようになったのかというと、エジプトが関係しているようです。

初耳です。勉強にまります。

>人が指差す行為をすると、魔女が魔法をかけることを想起してしまい、「人を指差すな!!!!」となったのではないかと。

うむむ、そうですか。

当方の調べでは、指先はとがっているもので、とがっているものにはエネルギーが集まる。そのエネルギーは善なるものではなくて邪悪なものである。したがって「指さされた者」はその邪悪なエネルギーにより禍が降りかかる。

だから西洋の「迷信」では船も指さしてはいけない、とのことですね。

>東洋では…

東洋っていいですよね。何かしら「こじつけ」ぽくって。人間が牛みたいな偶蹄目だったらどうしたんでしょうね。

>和を保てば災難は起こさずに済むという先人の智恵

ここら辺かもしれませんね
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回答日時:10/01/23 17:40
回答番号:No.47
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回答

 

回答者:noname#103194 今回の質問文はいくつかの意図が込められています。もともとことばですから受け取り側のキャッチ能力で様々な解釈が出来ると思います。質問文は、ややナイーヴな質問者から発信されたように作成しました。

なぜ、そういう迂遠な方法を採用したかというと、質問意図が長層的であることと、明示的な表現にすると

利用規約違反

と受け取られかねないものになるからです。

喩え話で失礼します(というか喩え話でしか書けません)。

質問者が学校のあるクラスにいるとします。
質問者が学校のシステム上のある点に気づいたとします。
そのことをあからさまにすることは所属する学校を批判することであり、退学を覚悟しなくてはいけない事態になる可能性もあります。
そこで、質問者は授業中にその学校の先生に質問し先生からの回答を得ることで、その質問自体への回答と、その質問をし回答を得たという行為を通じてその質疑応答を聞いていた感度のいい第三者に問題の所在に気づいてほしいと思いました。
質問内容はありきたりでどちらかといえば凡庸なものです。
先生からの回答も予想通りです。
でも、そのやりとりを通して感度のいいアンテナをもっているクラス内の第三者にはその問題の重要性が伝わる。これが含意です。含意はそれだけではないのですが、それを比喩で示すことができません。

こう書くと何やら言葉遊びめいてきますが、質問の表層部分への回答も大真面目に期待をして質問しました。

これも喩えは適切さを欠くようですが推理小説でいう「完全犯罪」を狙っています。

よけい分かりにくくなってしまいましたか。その点はお詫び申し上げます。

ぽこぺろぽさん、回答をありがとうございます。

このカテをはじめとしてぽこぺろぽさんの質問−回答をよく見させていただいてます。OKwaveを利用者にとってよりよい環境にしようという活動を「よいこと」だと思っています。

「ヲチ」という用語(例の2chのジャーゴンでしょうか)を初めて知り、検索してみてその意味を知りました。あたらしい言葉を覚えるのはそれがどういう由来であれ世界が少しだけ広がるものです。ありがとうございました。

ぽこぺろぽさんは精神的にタフなのですね。そういう人ばかりでもないと思い質問を投稿してみました。おっしゃっていることにはほぼ同意します。ただ

>一般人がネットで中傷被害に遭ったところで、何の不利益がありますか?

については「大問題」になりうるのでは、という考えです。

標記の通りの疑問です。「指さす」行為は日常的行為ですね。「物」を指さす。自分を指さす。その行為で「何が話題になっているのか」「探している物がどこにあるのか」「方角」を示す身振りですね。

しかし、人が人を指さす場面に遭遇したりすると、私などは「やや違和感を覚え」たり「不快な気分」になったりします。それは「不躾な行為」であり、正常で良好な人間関係に程度は軽いものの、「亀裂」や「軋轢」を呼ぶように思えます。

では、なぜ人が人を指さす行為を「礼を失した」行為と感じるのでしょうか。その心理的背景ないし理由はどこにあると考えられますか。「後ろ指を指される」という表現がネガティヴな文脈で使われることと関連があるのでしょうか。

ああ、そうか、特に正当な理由もなく自分の都合で 否定しあったからこそ、後ろめたさによる「反動で称えあった」と言えるわけで、こちらが 正義(独善的でない) であれば 否定、非難してもその 反動 は起こることもないということか

おうるしぷさん、回答をありがとうございます。

できたら一度にまとめていただければ嬉しかったです。

で、結局何をおっしゃりたいかいま一つよくわかりませんでした。スミマセンでした。もう少し勉強します。

で、黒が何を象徴しているかというと、やはり拒否 否定 虚無 『非存在』でしょう。

 つまり、指差すことで存在そのものを否定しているわけです。

 だから、理由抜きに心理的に誰でも不快になるのでしょう。

 で、存在しているのに 存在を否定する のは嘘を言っている、つまり悪(不正=嘘偽り)だから不快なんでしょう。

 ボクシングなどは拳で殴り合っているわけだから、相手を否定しあっているわけです。殴りあった後相手をたたえあうのは否定したことに対する反動で、否定したからこそ讃え合う ことが出来たということか... そう思うと「神への信仰」も否定してからこそできるということですね。

 ああ、話が少しそれました、 kigurumiさん、どうですか?

誤字訂正

こぶしを握り済めるグーは色としては黒を現す
⇒こぶしを握り締めるグーは色としては黒を現す

 で、どうして グー が黒を現すかといえば、
 おそらくクラドニ図形が示すような、音や色の、平面や立体における形が実際にあり、それに照らし合わせればグーが黒に対応する からでしょうか?

そうですね、そのシチュエーションの影響が結構大きいですかね、基本的に相手を指刺すケースというのは例えば職場の上司や同僚に対してはしないですね、対立したり、口論したりするときぐらいですね。

 ということは、ネガティブな感情を持っているときに指を刺すと考えられるわけで、ではなぜかと考えると...

 指を差すという行為は 指刺した相手に対して、その者の影響を良くも悪くも受けるということで、上位者であるという意識を持って対峙しているという表明になるかと。

 で、指差された相手は必然的に下位者であるという扱いを受けたわけで、結果 良い気持ちがしない

 あるいは指から何らかのエネルギーが放射されている

 ああ、そうかルドルフ・シュタイナーだったっけ、こぶしを握り済めるグーは色としては黒を現す、それに人差し指を立てると、その黒のエネルギーを相手に放射することになるから良い気分がしない ということか...
種類:回答
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回答日時:10/01/23 17:39
回答番号:No.46
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回答

 

回答者:noname#103194 あいですさん、回答をありがとうございます。

>ファイルを保存されたく無いのなら、ネット上にUPするな

そうですね。同意します。しかし、このサイトはそういうことを知りつくした人ばかりが利用している訳ではないですようね。それが問題だと思うのです。

全く問題ありません。なぜならここに限らずネットに書き込む時
は見てもらう為に書くのですから。見られて困る言葉は書かない
のが基本です。ネットは秘密討論の場所では無いのです

質問履歴などなくても人によっては注目した人の書き込みを
ファイルに保存して何度も持ち出す人もいます。情報の整理です。

目先の質問や書き込みだけで評価判断する人は別ですが大概の
場合は多くの書き込みで判断するのが普通です

質問履歴は利用者の作業を効率化しただけと言えます


かわせみ60さん、回答をありがとうございます。

>全く問題ありません。なぜならここに限らずネットに書き込む時
は見てもらう為に書くのですから。見られて困る言葉は書かない
のが基本です。ネットは秘密討論の場所では無いのです

同意します。しかし、様々な利用者がいますから

見られて困る言葉

が見られないと思い込んでいる場合は少し事情が違ってくると思います。

ニックネームですからプライバシーはありません

私はnever-nessさんがどんな人だか知りません、男か女かも

一般的に質問者はそんなの気にしません、自分の質問しか見てないから
この質問(never-nessさんの質問)を見てるのは回答者ばかりです


never-nessさん
このように回答にニックネームを入れる事で、検索に引っかかりやすいようになります(^^;

だから私はそれを回避する為に別の方法を使っています(^_^)v

あまんだ97さん、回答をありがとうございます。

ニックネームにはプライバシーはないのですね。同意します。

ただ

>一般的に質問者はそんなの気にしません、自分の質問しか見てないから

この部分が何をおっしゃりたいのかよく分かりませんでした。「気にする人」「気にしない人」もいるだろうし、「自分の質問しか見ない人」「他人の質問も見る人」もいるだろうに、という感想です。

>だから私はそれを回避する為に別の方法を使っています(^_^)v

を知りたいと思っても教えてはくれないでしょうね。

それどころか、私はヲチされて叩かれていますが、まったく平気です。ストーカーだって問題にしません。

 ご指摘のとおり、プライバシーの問題があります。大まかなことしか書きませんし、ブログもやっていませんから、私個人は特定されません。何の益にもならない詮索をする人は、愚かすぎてかわいそうになります。

 深く考えずに入会しましたが、自分の名前でGoogle検索すると、質問が見られるので、どうあがいても避けられないと悟りました。桶具という、鉄棒曳き御用達の、変な道具もあります。晒されているのは、このサイトだけではありません。実害があれば大問題ですが、一般人がネットで中傷被害に遭ったところで、何の不利益がありますか?私も嫌な思いはしました。しかし、叩く側にも理由があり、叩かれる側にも理由があるのです。もちろん、陰湿な叩きは忌むべきことですが、現状では仕方ないことなのです。

 しかし、私はヲチを許しているわけではありません。手の打ちようがないだけです。どうしても気になるようでしたら、運営者に問い合わせてください。働き掛けがあれば、少しずつでも利用しやすくなるでしょう。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 17:37
回答番号:No.45
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回答

 

回答者:noname#103194 「ニックネーム」検索によって特定の方の「質問履歴」を追えますよね。

これってプライバシーの観点からすると「大問題」ではないでしょうか?

それとも利用者の皆さんは、自分の「質問履歴」が第三者に見られる可能性を「前提」として、このQ&Aサイトをご利用になっていらっしゃるのですか?
すなわち、「見られても平気だ」とか「問題にするほどでもない」と考えている、ということでしょうか?

※質問の一字一句を吟味して投稿しています。この質問の文字列の奥にあるもの、すなわち「含意」の分からない方は回答をお控ください。
※当方にとっての初めての「すぐに回答ほしいです」の質問になりました。

III期です。

大問題とは思いません。前提として利用しています。見られても平気です。問題にするほどでもないと思います。
ネットで質問する以上全ての人に見られる可能性を覚悟しています。

しらはどりさん、回答をありがとうございます。

>III期です。

当方の「自己紹介」を参照していただいたのですね。この新しい「自己紹介」の前にはかなり過激な内容を書き込んでいました。そちらの拙い文は参観されていないことを願います(自意識過剰のかなり程度の低い文でした)。

>大問題とは思いません。前提として利用しています。見られても平気です。問題にするほどでもないと思います。
ネットで質問する以上全ての人に見られる可能性を覚悟しています。

同意します。当方も基本的にそういう思いで利用しています。

おはようございます。

この質問文に含まれている「含意」を正しく理解できたか、どうかはわかりません。
ただ、質問者様は、もしかしたら、私が最近が感じていることを、感じているのかなと思い、回答させていただきます。
私が、理解した「含意」の詳細については、問題があるので記載しません。
ただ、
>「見られても平気だ」とか「問題にするほどでもない」
という、この言葉だけが、妙に引っかかっています。

また、私は、基本的に質問をしていないのですが、
自分の回答履歴が公開されていることが、問題なのかと感じています。

基本的に考えて、ここのような質問、回答の場であるならば、
ニックネームを固定する必要はなく、
その質問時点や、回答時点における、日時等に基づいて生成されるものでよいと思います。

一方で、ニックネームを固定したいという利用者もいると思いますので、
その方達には、問題の可能性を認識させた上で、使用させればよいのではないかと、考えます。

回答になっていないと思いますが、ご参考になれば、幸いです。

びぃすぷらっしゅさん、回答をありがとうございます。

>私が、理解した「含意」の詳細については、問題があるので記載しません。

当方もこの質問が削除されることを現時点では望んでいませんから胸に秘めておいてください。

>基本的に考えて、ここのような質問、回答の場であるならば、
ニックネームを固定する必要はなく、
その質問時点や、回答時点における、日時等に基づいて生成されるものでよいと思います。

この部分に強く同意します。そして、

>一方で、ニックネームを固定したいという利用者もいると思いますので、その方達には、問題の可能性を認識させた上で、使用させればよいのではないかと、考えます。

については是非ここのサイト運営者の方々にそういう方向で検討してもらいたいと思います。

>回答になっていないと思いますが、

いえいえ当方にとっては新たな示唆を得る貴重な回答でした。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 17:36
回答番号:No.44
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回答

 

回答者:noname#103194 これ1029さん、回答をありがとうございます。

>思い込みに過ぎないことも多いですよね。

そういう場合も当然あるでしょうね。

>私と質問者様が同一人物だと考える人も、もしかしたらいるかもしれない。

自作自演というやつですね。その可能性もありますね。

以前、こういうことがありました。

回答履歴が見られるのに質問履歴はみられないんですね

という質問があり、「いえ、見られますよ」ということで、その質問者さんの過去の質問をいくつか回答に張り付けたところ

そんなことするのは気持ち悪い。あなたのせいでニックネームを変えます。退会します。

などと、あまりにナイーヴな反応が返ってきました。当方も「やれやれ」と思い、運営に「これこれの理由で質問者に気分の悪い思いをさせた。該当の回答を削除してほしい」と伝えたところ都合のいいように切り貼りされて、逆に「ほぉ、著作権はないのね」と感心するという顛末がありました。その経験から、他人の質問履歴が見られないから「自分の質問履歴も見られない」と思いこんでいる質問者がいると知った次第です。


質問履歴は検索でもけっこう追えるし
桶○なんてのもあるしね
見られたくないならIDを2つ作って質問用と回答用に分ければ良い

番さん、回答をありがとうございます。

>見られたくないならIDを2つ作って質問用と回答用に分ければ良い

それも一つの手ですね。それでも「追える」場合があると思いますが。

だいたい分かりました。どうもこの問題は当方の杞憂のようです。みなさん、「同定出来ない」「同定されても平気」というご意見ですね。

>としたらどうでしょう?

IDの同一性を特定したいと言う単純な「技術論」でしょうか。

これは追跡は可能ですがそれを特定する事は困難です。

理由:ある個人がいつもおなじパソコンの同じネットワーク経路で利用するとは限らない。また同一のNICをするとは限らない。
   ある個人のパソコンを別の人物が使う可能性は極めて高いのでパソコン(NIC)と言う単位では個人の特定は困難です。

ただし過去の質問文とその後の質問文の内容の共通性が見られる場合は同一人物の可能性はありますが、そこまですね。


注意:追跡は可能です。

走る750さん、回答をありがとうございます。

NICって何ですか?

いやぁ、当方パソコンは使用歴はそこそこあるんですが、用語にはからきし弱いのです。一般にこういう不特定多数の利用するサイトでは「知らない」を前提にお話されるとよろしいのでは。難しく悩ましいところですね。

でも、いきなり

RDMはね…

とかでてきたら分かります? 分かりませんようね。それと同じですよ。

匿名のIDを使っている時点でプライバシーは守られていると思います。

前のIDを特定されることにも何ら問題を感じません。
たまに回答で怒らせてしまった方から「お前、ka○pa-yだろ。」と勝ち誇らったように言われることがありますがPCの前で「はぁ。」と呟くくらいです。
大抵締め切られていて、ソコには回答できなくなっていますので。
(「」内の伏字は一応形式上ということで。^^;)

氏名、住所、電話番号、好きな女性のタイプまで特定されたら流石に困るとは思いますが。。。

きうりyさん、回答をありがとうございます。

>匿名のIDを使っている時点でプライバシーは守られていると思います。

そうです、おっしゃるとおりです。氏名、住所、電話番号などは流出という事態がなければまず知れることはないでしょうね。

問題の所在は、たとえば

質問数:2件+4件

ということが簡単にわかり、なおかつ「素朴でナイーヴな利用者」が再登録して自分の退会前の質問が「ニックネーム」が違うから「わからないだろう」と思っていることに「ある」と思われることです。「恋愛相談・人生相談」などでは「かなり深刻な相談」が見受けられますが、「ニックネーム」変更者の方が現在このサイトを利用しているその同時進行の現場において過去の質問からプロファイリングされ、一種「のぞき見」のような楽しみを第三者に与えている、ということです。

ニックネームが個人を特定できる情報とは言えないので、プライバシーの侵害とはなりません。
例えば、質問者さんや私のニックネームが氏名や電話番号などの個人情報とは結びつきません。

但し、質問内容や回答内容から、住んでいる地域や年齢・職業など、ある程度の範囲で推測することは可能です。
これが嫌なのであれば、そもそもここのようなQAサイトを利用することに無理があるのではないかと思っています。

うなこわさん、回答をありがとうございます。

>ニックネームが個人を特定できる情報とは言えないので、プライバシーの侵害とはなりません。

そうですね、「プライバシーの侵害」はないでしょうね。当方も「プライバシー侵害」についての質問ではありませんから(ゴメンナサイ。揚げ足取りではありません)。

実は、この質問にはやっかいな問題がありまして、

ニックネームだけでは個人情報と結びつかない

という正論を引き出すためのものではなく、また質問だけをされている利用者さんの回答ではない回答を引き出すためのものなのです(分かりにくい表現でゴメンナサイ)。もう少し回答がたまることを望みつつ、とりあえずのお礼とさせていただきます。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 17:35
回答番号:No.43
この回答へのお礼この回答にお礼をつける(質問者のみ)

回答

 

回答者:noname#103194 ↓少し前にした質問です。

「ニックネーム」検索によって特定の方の「質問履歴」を追えますよね。

これってプライバシーの観点からすると「大問題」ではないでしょうか?

それとも利用者の皆さんは、自分の「質問履歴」が第三者に見られる可能性を「前提」として、このQ&Aサイトをご利用になっていらっしゃるのですか?
すなわち、「見られても平気だ」とか「問題にするほどでもない」と考えている、ということでしょうか?

↑以上は別のカテでの質問文です。回答を寄せて頂いた方はほとんど

書き込んだ時点で他人に見られる可能性を覚悟している。
書き込んだ内容を他人に見られたくないなら書き込むな。

というお考えでした。すごく納得できますが、一点だけ

退会する前の質問も現在の質問者との同定が簡単に行える

としたらどうでしょう?何かの事情があって「教えてgoo」を退会したのち、再び新たに登録し「ニックネーム」を変えても同定されるとしたら、それでも

書き込んだ時点で他人に見られる可能性を覚悟している。
書き込んだ内容を他人に見られたくないなら書き込むな。

とおっしゃる方が大勢なのでしょうか。回答をお待ちします。

こんばんは。

朝から、回答すべきか、しないべきか、悩みながらみていました。
この質問の意図は、何なのか?
単に私を誘い出すためのものか、それとも、私と同じ問題に気がついているからか?

いくら考えても、答えがでません。そこで、とりあえず回答することにしました。

私ごとですが、
今現在、私は、ある人から、複数のIDを持って、「のぞき見」をしている悪党にされています。
私が、複数のIDを持っているかどうかは、他人には分かりませんので、言いたいように言わせることにしました。
また、この人とのトラブルのときに、直接的な関連はないのですが、ある問題に気づきました。

これで、この質問が、私を誘い出そうとしているものか、という疑念を持ったことは、ご理解いただけると思います。(失礼しました。)

さて、本題ですが、質問者様が、感じておられる問題と、私が感じている問題が同じであるなら、
この問題は、非常にデリケートですから、あまり、深く突っ込まないほうがよいと思います。とりあえず、自分がこの問題に直面したときの、対応だけ考えておけばよいのではと思います。

おそらく、質問者様や、ここで回答されている回答者様は、この問題に直面する可能性は極めて低いと思います。
他人については、気がついたときに、きっかけを与えるような、回答をする以外、手はないと思います。


び−すぷらしゅさん、回答をありがとうございます。

>質問者様が、感じておられる問題と、私が感じている問題が同じであるなら、この問題は、非常にデリケートですから、あまり、深く突っ込まないほうがよいと思います。

おそらく同じ問題を考えているのだと思います。この問題は深刻な問題でありながらこのサイトのシステムと深くかかわっています。それをどうすべきか。

>とりあえず、自分がこの問題に直面したときの、対応だけ考えておけばよいのではと思います。

やはりそういうことになるしかないのですかね。

>おそらく、質問者様や、ここで回答されている回答者様は、この問題に直面する可能性は極めて低いと思います。
他人については、気がついたときに、きっかけを与えるような、回答をする以外、手はないと思います。

この表現に端的に表れています。問題の根はやっかいなところにあります。同じ問題意識を共有しておられる方がいらっしゃったことで少し落ち着きました。いましばらく様子を見守りたいと思います。

>非常に、分かりにくい回答になったことを、お詫びします。

>何かの事情があって「教えてgoo」を退会したのち、再び新たに登録し「ニックネーム」を変

えても同定されるとしたら、

思い込みに過ぎないことも多いですよね。
以前、違うIDで回答と質問をしたことがあったのですが、
自分ではない他の人と同一人物だろうって、ここや他サイトで勘違いされていました。

そうするとこういう考え方もできませんか?
私と質問者様が同一人物だと考える人も、もしかしたらいるかもしれない。
当人同士でなければ、はっきりと違う人間だという認識はできませんよね。

前のIDにしても、同じことが言えますよね。
違う人の過去のIDと勘違いされることもあるでしょうね。

きっと勘違いされちゃうことの方が多いんじゃないんでしょうか?
質問者としては勝手に想像する第三者を、
「また勘違いしてる」と思い、コソッと微笑んでいればいいだけなのではないですか。

もし実際にIDを知られていたときも同じ要領でシラをきりとおせばいいだけですね。

ちなみに私の場合ですが、なんら困る問題もありません。
今から考えると、退会するんじゃなかった。
退会した過去の自分の質問がなかなか追えなくて困っています。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 17:33
回答番号:No.42
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回答

 

回答者:noname#103194 私も芸術方面は素人ですが、同様のテーマについて少しは考えたことがあります。

まず、ご存じのこととは思いますが、「すべての芸術は音楽の状態にあこがれる」はW. Paterの『ルネサンス』(ジョルジョーネ派)からの引用(All art constanly aspires towards the condition of music.)ですよね。

もっとも、その起源はショーペンハウアーにあるようでして、彼は「(音楽は)現象によるのでなしにそれ自体に従つて、いわば現象の最も内奥のたましいを、身体なしに表現する」(『意思の表象としての世界』)と語っています。

要するに、音楽だけが、他の芸術のように、何かの媒体(「現象」、「身体」)の助力を仰がずともく、それ自体で《媒体=本質》たりうるということではないでしょうか。
ところが、他の芸術においては、たとえば言語を媒体とする詩の場合、どうしても辞書的に規定された概念(語義)の制約や束縛を免れることはできませんよね。
この限りにおいて、やはり音楽の方が、詩に較べてより純度の高い芸術であると言わざるをえないのではないでしょうか。

なお、ニーチェにいたっては、「音楽にくらべれば、むしろあらゆる現象は比喩にすぎない」(『悲劇の誕生』)とまで言い切っておりますから、昔から、音楽は狭義の芸術の根源であるどころか、世界の究極の相それ自体を体現している、とさえ考えられてきたのではないでしょうか。

かどわかしさん、回答をありがとうございます。

そうでした!『ルネサンス』でしたよね。私の錆びた脳みそはいつの頃からかこのことばは「哲学は…」と勝手に変換していて、思い出しては「?」となっていました。多分、おっしゃるところのショーペンハウアーと被っていたのでしょう。さいわい日本語訳もあるようなので探して読んでみますね。

媒体=本質

理想的ですね。

はい、哲学の玄人より、素人のほうが素直なアタマの良さがあると思われますので安心してください。

 GONTITIの、 GRAVITY LOVES TIME――重力は時間に恋してる―― というアルバムがありますが、関係ないかな...

 音楽は、空間を持たず、時間の進行による表現方法だということで、物質ではなく、実体を持たないがゆえに、最もダイナミックで、自由な芸術ですね。

おうるしぷさん、回答をありがとうございます。

音楽は不思議な特権的な芸術ですよね。

無媒介

作曲する天才、民族の心性に合致した旋律をつくる無名の作者。いずれも「天の恵み」と思わずにはいられません。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 17:32
回答番号:No.41
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回答

 

回答者:noname#103194 すみません。ド素人です。

質問タイトルです。以前は分かっていたつもりでした。
最近(?)だいぶボケてきたのか「分かっていた」内容がでてきません。

多分、「分かっていなかった」というのが正しいのかも(泣)。

どなたか訳知りの方で、ボケた頭にも分かるように「解説」していただけませんか?(頂いた「解説」自体が理解できないという可能性大ですから、かなり「手加減」をお願いします)

 言語で理解しているか、言葉に出来なくても本質的に把握しているかの違いはありますが、このような場 あるいは書物など文字を使わなければならないケースにおいては、西洋人の理性、論理性が優れていると言えるわけです。

 例えば文学作品における詩的な表現は、同じような感性を持った人であれば感応できるが、そうでない人にとっては何を言っているのか全く理解できないわけです。

 今の文明社会において、計画、合理性、理論を備えた西洋社会と西洋人のほうが優れていると 憧れ、なんとなく 感じるなら、やはり理由があるのです。

 過去と未来があるとか仮定し、人間は未来に進むべきものだと 主張するなら、やはり西洋人のほうが優れているのです。

おうるしぷさん、再びの回答ありがとうございます。

>西洋人の理性、論理性が優れていると言えるわけです。

西洋の土俵の上ではそうでしょうね。そして西洋有利は多分、西洋において産業革命と大量生産が起こり、世界中の富が一時期西洋に集中した結果でしょうね。

>今の文明社会において、計画、合理性、理論を備えた西洋社会と西洋人のほうが優れている

のは歴史からみて西洋諸国が自国に有利な関係を永続化しようと目論見、その路線を固定化しよと躍起になってきた結果でしょうね。つまり発展途上国はいつまでも途上国のままという構図ですね。

それでも、とわたしなぞは思います。

闘争を避け共存を目指す東洋的志向もいいもんだ、と。

それはそうでしょう。ショーペンハウアーやニーチェなど西洋人がそんなことを言い出すより遥か以前に、日本人はそのことにとっくに気が付いていました。平安時代、『源氏物語』よりも前に出来た長編物語『うつほ物語』によると、琴の響きは天地を揺るがし、季節でもないのに空には霰が降り、星はさわぎ、瑞雲が棚引き、地上の楽の音はすべて消え失せ、琴の響きのみが澄みわたる。あげくには天上界から菩薩や天子も舞い降りて来て賛嘆するそうです。

以下にその一部を抜粋しておきます。

俊蔭、「せた風」を賜りて、いささか掻き鳴らして、大曲一つを弾くに、おとどの上の瓦、砕けて花のごとく散る。今一仕うまつるに、六月中の十日のほどに、雪、衾のごとく凝りて降る。

、、、何心なく掻き鳴らすに、天地揺すりて響く。

涼は、弥行が琴を、少しねたう仕うまつるに、雲の上より響き、地の下より響み、風 雲動きて、月 星騒ぐ。礫のようなる氷降り、雷鳴り閃く。雪、衾のごと凝りて、降るすなわち消えぬ。、、、天人、下りて舞ふ。

これだけの奇瑞の起こる芸術は他にあるでしょうか。あらゆる芸術が音楽のこの状態にあこがれなくて何にあこがれるというのでしょうか。

西洋人の言ったことに感心するのもいいですが、ときどきは自分たち日本人の先人達が言ったことにも耳を傾けてみて、場合によっては西洋人達にそれを教えてあげられるようになりたいものですね。

ちょとつさん、回答をありがとうございます。

我が邦の優れた文化にはなかなか目がいかないものですね。

宗教が教え(ことば)だけでなく音楽(だれにでも分かる)を活用するのも分かりますね。特にキリスト教の荘厳なミサ曲はこの世のものではないものを感じさせます。

またちょくちょくお教えください。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 17:30
回答番号:No.40
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回答

 

回答者:noname#103194 このサイトの楽しみの一つは、様々な質問とそれへの(程度の差こそあれ)オーソドキシーを外した回答にあると思っています。

「真面目な質問」と「真面目な回答」+回答者だけが大「真面目な回答」のミスマッチ(不真面目に見える質問はここでは除外しておきます)。これは原理原則を「利用規約」として運営者が定めていても、誰が見てもその規約に違反していると思われる「分かりやすい」質問と回答の他に、ある人がみて「何でもない」質問や回答が別の人が見れば「気に障る」質問や回答になりうるという、いわば「グレーゾーン」の(判断に迷う)質問と回答がある、という面白さだと勝手に納得しております。

さて、近頃このカテを賑わせていた「質問」に

このサイトを健全なものにするために、質問と回答の両方をバランスよくしよう

なる考えへの当否を聞く質問が複数あり、それへの回答として「利用規約」を持ち出して

そんなことは利用規約に記されていない

とか

回答専門・質問専門で何が悪い

との回答が優勢を占め、さらに「参考になった」という回答者以外の「意見表明」がその手の「原理主義的=教条主義的」回答に多く集まるという推移がありました。

質問者の「質問の意図」の誤読や、質問文の書き方が「原理主義的」反応を誘発する「表現」となっていた、と当方は解釈していますが、ここでの質問はその解釈の「当否」をお聞きするものではありません。

質問は以下です。

利用規約を大切に守り、それをこのサイト内で順守するようにいう利用者が、例えば特定の回答者が「回答の最後に決まり文句を記す」ことへ不快感を表明し、ことさらに「これは何」と鉄棒曳きよろしく騒ぎ立てるという二面性は、このサイトがもたらす利便性へ寄与するかどうか?

というものです。内容ある回答をお待ちします。

原理主義者が鉄棒曳きとイコールではないと思われる方はスルーして結構です。私は同一人物である(あるいは同一人物がその両面を持ちうる)という認識です。
言うまでもなく「その認識」の当否を論う回答はご遠慮ください。
また、それは「きっと私のこと」と思われる利用者さんからの回答も大歓迎です。

※あえて「あざとい」書き方をしています。この質問が「利用規約」違反だと思われる方は、回答の終わりで結構ですから「こういう理由で規約違反だ」とお知らせください。
(予めゴミ掃除をしておくと、この質問は「自分の考えへ同意を求める」質問ではありません。為確認)

画面が黒い時代の影響でTEでは短文癖が抜けず。また、欲する回答でないことをご容赦願います。

ご質問文を拝読中、以下の言葉が頭を過ぎりました。
 「踊る者」「踊らされる者」「踊らせる者」「糸を引く者」「傍観する者」「観照する者」
どの立場が望ましいかは問題ではなく、各人の現状での利用スタイルで変わる多面性をもつものであろうと。

ハード環境、WEB環境等の進歩で身近になった昨今、利用者の爆発的増加とそれに群がる商業ベースとの弊害。
利用者と運用者の利害関係(発信したい利用者と数が欲しい運営者)が一致した結果の表れではないかと理解しています。
利便性を求めうるかについては、「何についての利便性であるのか」で答えが変わる思います。

また、全ての利用者とは申しませんが、規約云々は方便でしょう。
手軽に情報の入手が可能な現状において、説明書、約款などの認識及び理解がされていないと同意と思います。
 その場限りの自己都合での解釈
 「そういえば規約があったな」程度の存在の認識のみで内容の把握はなし
が現状でしょうか。

「誹謗中傷」ご法度の、このコミュで不思議な漏れの存在もあることを付記します。
失礼しました。

お三方の回答を得て閉めさせて頂きます。

「スルーして」と書いたから「スルー」されたのでしょうかね。半分残念です。

今回の一連の出来事について「規約原理主義」者の方たちの優勢は、そのまま現実社会の様相を反映しているようでした。思うに「古くて新しい」問題でしょうからいずれの日にか「再燃」するでしょうね。そのときに、また一から始めるのは苦労だなという趣旨で質問をしましたが、質問の仕方がよくなかったようで「空振り」でしたね。今後の教訓としましょう。

この質問でひとまず終わります。しかし、このサイトの現状が孕む「問題」については思うところもありますので、再び形を変えて質問することもあろうと思います。

ではでは。

ふぁーいーすとさん、回答をありがとうございます。

>どの立場が望ましいかは問題ではなく、各人の現状での利用スタイルで変わる多面性をもつものであろうと。

人は人、自分は自分ということですね。

>利便性を求めうるかについては、「何についての利便性であるのか」で答えが変わる思います。

それはそうでしょうが、いささか「紋切型」に感じる部分があります。しかし、そういう回答が一番ふさわしい質問をしたということでしょうね。

>このコミュで不思議な漏れの存在もあることを付記します。

このサイトの面白さの一つだと思います。

利用規約を大切に守る人なら他者の書き込みに私的な
感情で生まれる言葉を書きはしません。回答に対する
意見の書き込みはそれこそ規約違反でしょうからね

回答に対して意見を書く人は利用規約を大切に守る人では
ありません。利便性以前に質問が成立しません

かわせみさん、回答をありがとうございます。

>利用規約を大切に守る人なら他者の書き込みに私的な感情で生まれる言葉を書きはしません。

これは、こういう内容をお書きになりたい気持ちはわかるのですが「意見表明」であり「質問に答えていない回答」であり、その意味で「規約違反」ではないでしょうか。

>回答に対する意見の書き込みはそれこそ規約違反でしょうからね

******

ここまで書いて、回答者さんの回答の意図を理解しました。リセットしてください。当方の*より上の駄文は自分への戒めで残したものです。

>私的な感情で生まれる言葉を書きはしません。

そうですね、この点が分かりにくいのがこのサイトのネックですね。

>回答に対する意見の書き込みはそれこそ規約違反でしょうからね

そういう質問や回答も削除されないという現実があります(という点ではこの質問もかなりあやしい)。おそらく利用数の増加に運営者側のマンパワーが追い付かないのが原因でしょう。

>回答に対して意見を書く人は利用規約を大切に守る人ではありません。利便性以前に質問が成立しません

「質問が成立しない」ものも許容される(ように見える)のは、このサイトの人間臭さではないかとも思います。

当方のひねくれた質問に冷静に回答していただいてありがとうございました。

規約違反でないから、バランスが取れていなくてもいい。

 それは当たり前すぎます。こうおっしゃる規約原理主義者の皆さんには、規約は毎年のように変更されること、運営者独自の見解であること、規約以外にも様々な見解があっていいということ、これらを申し上げねばなりません。どのみち現行規約に沿って対処されるので、、わざわざ規約を持ち出す、支那の紅衛兵の真似事は自殺行為です。

 ある方のご質問に反対意見をお持ちなら、別の趣旨のご質問を立てたらよろしい。例に挙げられた方も違反でないので、それを認識した上で、各自のご判断でよろしいかと考えます。回答が間違っていても規約に反していないのに、鬼の首を取ったかのように指摘する違反を犯す人ほど、規約を持ち出したがります。

 発言は自由です。規約に則っているかを、最終的に判断するのも運営者なら、それに異を唱える自由もあります。ご自分なりの尺度でお考えになればよろしい。

ポコさん、回答をありがとうございます。

>発言は自由です。規約に則っているかを、最終的に判断するのも運営者なら、それに異を唱える自由もあります。ご自分なりの尺度でお考えになればよろしい。

みなさんそのつもりで質問や回答の書き込みをされていると思います。であるならば、かの「コミュニケーション障害」は何が原因なのでしょうか。Q&Aサイトは「利用規約」を熟読した利用者が質問者の時には「役に立つ回答を得られる利便」を享受し、回答者のときには役に立ったと感謝されることで「人の役に立ったという満足感」を得られる、相互補完の形をとっています。であるならば「コミュニケーション障害」は無くすべきものになります。ですが現実は相互理解には程遠い結果となっています。それは結局ナイーヴな利用者から見放される原因となるやもしれません。

それでこのサイトがどうなろうと知ったこっちゃない

というのも

>ご自分なりの尺度でお考えになればよろしい。

となるのでしょうが、そうなるには惜しい豊かさをこのサイトは持っていると思います。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 17:29
回答番号:No.39
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回答

 

回答者:noname#103194 かいたらさん、回答をありがとうございます。

>ほかの人によるミスを見ても自分のミスのように思える

ご苦労様です。こころ優しきお方です。

>石川九楊氏の著作

ちょっと意識しておきます。紹介していただいてありがとうございます。

>で

で? 続くのでしょうか。

飽く迄変換ミスです。
それを投稿した本人は、正しい漢字を知っているでしょう。
(まぁ、本気でそう思っている人も中にはいるでしょうが)

スペースを押して変換後、すぐEnterを押下して確定。
それを再度正しい漢字に変換し直す手間が面倒。
読める(つまり同音異義)からそのまま投稿。
きっとこんな感じですよね。

まあ、読めるんだから、いちいち正しい漢字にする必要ないだろ
めんどくせー。お前ら読めるだろ?
ってのがほとんど本音だと思いますけどね。

なので、イライラするのではなく、『そのまま読めばよくて、
意味を理解している人物ならば、正しい漢字に脳内変換すれば
いい』です。
いや本当に、それでエネルギー消耗するの、結構疲れるんです
よね・・・。

私も初めの頃は気になりましたが、今はもう完全に慣れて
います。
私が文字打つ時は、どっちもしています。
 ・特に急いで文字を確定させる必要がない場合は正しい漢字を。
 ・MMORPGをする時はリアルタイムに人と会話したり緊急だったり
  する為、誤字脱字は完全無視。
  (大抵の人が私の言いたいことを理解可能)

なくたくさん、回答をありがとうございます。

>飽く迄変換ミスです。

飽くまで、悪魔で、開くまで、空くまで、開くまで、厭くまで…混乱

そういうリテラシーを獲得し損ねた人間はどうすればいいのでしょう?

>今はもう完全に慣れています。

慣れるのですね( ..)φメモメモ←顔文字使えます!

読めればいい←可能動詞の「れる」「られる」は「五段活用の動詞のみ」、ああ…

意味が通ればOK、ということですね。そう思うようにせよと。できるかなぁ…。

変換ミスでイラッと来るのであれば、「そうゆうこともあります。」って感じの根本的な国語の間違いはどうでしょうか?(苦笑)
「ふんいき」を「ふいんき」とか、色々居ますよ、国語力低下・・・w

我慢の限界手前で、ネットを切ってテレビか本でも読むか、ネットで対戦麻雀とかゲームでもやるとか・・・。

ばけらったさん、回答をありがとうございます。

漢字表記は時の推移によって流動化するものである、というのはいいのです。
お示しの

「ふいんき」

に出くわしてそれを発した者がいれば、その者との現実の人間関係の強弱の度合によって「叱り飛ばしたり」「注意したり」「無視したり」します。自分より年上の方だと居心地悪くなります。年長者は基本的に無条件で尊敬から入ります。自分と同年齢以下だと「よくもオレの眼の黒いうちにそういう不始末を見せたな」と絞り上げます(嫌われているかも)。

>我慢の限界手前で、ネットを切ってテレビか本でも読むか…

やはり「気分転換」しかないのでしょうかねェ。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 17:27
回答番号:No.38
この回答へのお礼この回答にお礼をつける(質問者のみ)

回答

 

回答者:noname#103194 どうも自分が古い人間のせいか

ネット上で、あの「変換ミス」を見つけるとストレスがたまります。

「降雨確立」? 何を確立するんだ!
「建設再会」? 中断した工事がまた始まるから関係者が再会するのか!

きりがありません…。

ネットに接したときもういい歳になっていたので、「変換ミス」はスルーする(「スルーする」は息子に教えてもらいました)のがネットの「常識」だってかなり後で知りました。

如上の理由からでしょうか、「変換ミス」を見つけるとイラっとしてムズっとして、よくないエネルギーの持って行き場に困ります。

この質問をご覧になった「ワシもそう思う」という絶滅危惧種の心やさしい方へ。どうしてそのイラムズを成仏させていますか?

ご教示ください。

※こう書いていて自分の文章中に「変換ミス」の放置を見つけると一瞬だけ「死にたく」なります。
※この質問への回答中での「変換ミス」には、多分、寛大になれると思います。私のような者のために回答していただいた。感謝の気持ちと相殺されるでしょう。

​​http://okwave.jp/qa5189631.html​
上記相談の回答、No.2は、私です。 時々、訂正というか、教えてあげます。

自分の母国語も満足に使えない・・・、もちろん自分(その人)の努力不足もあるけど、誰も間違いを指摘してくれないから誤って理解したまま成長したんだと思うと、怒りより、哀れみというか気の毒だって気持ちが沸きます。

もう少し、ご自分の心に余裕を持つようにしては如何でしょうか?
そして、教えてあげては・・・?
ギャル語(「そぅゅぅときゎ・・」とか小文字使い)は、完全スルーでかまったりしません(笑)。 近寄りません・・・。(笑)

日本語は、「あお」という色を表すにも、「青」だったり「蒼」だったり「碧」だったり・・・。 表現力豊かな、美しい言葉です。
大切に使っていきたいなと、常々思っています。

ばけらったさん、再びのお越しありがとうございます。

>誰も間違いを指摘してくれないから誤って理解したまま成長した

ことばというのは大げさにいえば民族のアイデンティティですよね。長い歴史を持ち、「これが正用法だ」という「文化を維持する力」が働く場でもあります。その実行者はことばの使用に敏感な「大人」であり、「年少者」に対して「公共的なしつけ」感覚で対します。

ネットでの書き込みにおいて「変換ミス」をスルーするという「寛容な文化」(?)が浸透し容認され続けると、恐らくやがて「まともな文一つ書けない人間」を数多く排出する原因となりうるのではないか、と危惧します。そしてよりハングリーで優秀な民族の後塵を拝するようになるでしょう。

>日本語は、(中略)表現力豊かな、美しい言葉です。

おっしゃる通りです。母語を美しいものにするのはそれを使用する人のこころです。PC使用のリテラシーの普及は大いに奨励されてしかるべきものです。しかし、それは母語を使いこなす能力を前提としたものであってなくてはならないと思います。

以前は言葉遣いにやかましい大人は「ウザい」ものでしたが、こうやって自分が同じことを言ったりしていると少々複雑な気分ですね。

まったく同感です。しかし私はなぜかほかの人によるミスを見ても自分のミスのように思えることが心理的な負担になっているように思います。すこしずれますが、同音異義語が充満している漢字文化で育てられた人間は無意識のうちに耳から聞いた言葉を漢字に直して理解しているのではないかと思います。いわゆる誤字を見ると不安になるのは音として口の中で呟いても一向に意味がわからないことも不安の要因だと思います。これは仮名だけの文章を読まされた時の不快感にそっくりではないでしょうか。確率の場合は確立に気の毒な感じがします。このよくあるミスのために確立という言葉が何か悪い存在のようにさえ思えるからです。細菌と最近などは音からだと理解できることが多いのですが、字を見ると護持(後で気がつきました)として使われている言葉が嫌になります。しかし結論的には柔軟にコンピュータを日本文化の中に取り入れてしまう日本人の力を評価する方が良いように思います。この問題に関連して石川九楊氏の著作はおそらく貴方が興味をもたれるのではないかと思います。氏は手で書かないことの意味を書家の立場から論考しています。で
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回答日時:10/01/23 17:26
回答番号:No.37
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回答

 

回答者:noname#103194 質問者に自由があるなら、
回答者にも自由がある。

回答者に誠実なとか相手を思いやってとかを求めるなら、質問者にも同じ事を求めよ!


いよさんさんまるさん(さんが3つ!)、回答をありがとうございます。(最初はあいかな?)

>質問者に自由があるなら、回答者にも自由がある。

これまた教条的な!

>回答者に誠実なとか相手を思いやってとかを求めるなら、質問者にも同じ事を求めよ!

はて?質問者が回答者を思いやる?どうやってですか?丁寧な言葉遣いででしょうか。だって「程度の低い質問」をする質問者はそうとは思わずに質問しているんですよ。その方は「自分基準」ではこれで必要十分だと思うから「質問文」を作成しているんですよね。

で、どうやって「質問者に同じことを求め」るんですか?

ああ、回答者に応えやすいように質問せよということですか。
再び、問います。

どうやってするんです?

程度が低すぎて
うざい
んだと思いますよ。
程度の低い質問に「丁寧」に答えてしまうと
「程度の低い質問だらけ」になるおそれもあります。
ある意味で、質問者への「警告」とも言えます。

この意味はわかりますよね?

どうでもいいさん(素敵なニックネーム!)、ご回答をありがとうございます。

>うざい
んだと思いますよ。

その「うざさ」が「スルーできない程度」であるということですね。つまり、「程度の低い質問」が件の「回答ならざる回答」を必然的に招来させる、ということでしょうかね。

>程度の低い質問に「丁寧」に答えてしまうと
「程度の低い質問だらけ」になるおそれもあります。

私などは逆に「程度の低い質問」に「丁寧に」応えると(もちろん回答の中に調べ方なんかをさらっと仕込みます)、「程度の低い質問だらけ」にはならないんじゃないか、と考えます(見解の相違ですね)。

>ある意味で、質問者への「警告」とも言えます。
この意味はわかりますよね?

これって私も教育していただいているということですね。ありがとうございます。

実際に自分の足で調べればすぐに解決することでも ネットで検索したり 人に聞いた方が楽ですからね。
私自身 本当に困って質問したら質問内容を理解していないような稚拙な回答が返ってきました。
あからさまな釣りなら 乗ってみるということもありますが 真面目に考えている方からすれば くだらないことを訊くなよ・とりあえずは自分で努力してからにしろよ ということではないでしょうか。

ーすさん、回答をありがとうございます。

>真面目に考えている方からすれば くだらないことを訊くなよ・とりあえずは自分で努力してからにしろよ ということ

は、まあ、一般的に「思う」と思うんですよ。そして件のような「回答」をする。広い意味で「教育している」というご意見ですね。
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回答日時:10/01/23 17:25
回答番号:No.36
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回答

 

回答者:noname#103194 >で、どうやって「質問者に同じことを求め」るんですか?
出来ないでしょ。
だったら回答にケチを付けるな。
世の中は雑多なんです。

おお、再度回答をありがとうございます。

当方の「どうやってやるんですか?」は修辞的疑問文つまり反語でした。回答を求めてはいなかったのです。

>出来ないでしょ。

というのが反語の後半部分でした。

>だったら回答にケチを付けるな。

「意味のない回答」もありがたく頂戴せよというご命令ですね。その理由が

>世の中は雑多なんです。

というもの。

私は実生活でもこういうやりとりのときには次のように聞くようにしています。

あなたはいついかなるときでもこのように回答するのですか。見ず知らずの人や、自分の子ども、目上の人にも。人間は悲しいかなそのときどきで態度を豹変させます。よくいえば「臨機応変」、悪く言えば「節操がない」。

いよさんさんまるさんは尋ねた人によって回答内容を変えますか?
もちろんイエスですよね。そういったご回答の様子ですからね。

でも、これって立派なん「ディスコミュニケーション」の事例ですね。だって、あなたは自分の思いを「分かるように」伝えようとしていませんからね。

よろしければ

>出来ないでしょ。

から

>だったら回答にケチを付けるな。

が導かれる経緯を敷衍してください。(あ、もっとも回答しない自由もあります。わたしもナイーヴなふりはいつまでもできません)

正直な話、私はここのサイトに来るまで
「ぐぐれ」って何のことかしりませんでした。

毎日ネットで楽しんでいる若年層にとっては
当たり前のことでも、あまりネットに詳しくない
中高年層には検索するという知識さえない場合はあります。

逆に中高年層にとっては常識であっても、
若年層にとっては検索してもわからないことがあると思います。

「赤子叱るな」「老人笑うな」という諺がありますが、
その言葉はそのままこういうサイトの質問にも当てはまります。

判らないから聞いているのですから、
相手のレベルは問わないことにしています。

ぐぐれ。っていうのは解決策の一つですが、
「ぐぐるってなんですか、どうするのですか」
というような再質問があってもよろしいと思います。

質問者にもいろんなレベルがあるように、
回答者にもいろんなレベルがあり、
質問者は質問者のレベルにあった回答を採用すればよいだけで、
レベルの低い回答を排除する必要はないと思います。

なららさん、回答をありがとうございます。

>質問者は質問者のレベルにあった回答を採用すればよいだけで、
レベルの低い回答を排除する必要はないと思います。

それはそうですね。いわゆる大人の対応です。
問題はなららさんのような大人だけではない、というところにあるようです。

>レベルの低い回答を排除する必要はないと思います。

これも大人の対応ですね。でも中にはこころない「回答」に厭な思いをされるかたが結構いるようですよ。

質問者は分からないから質問している。これが出発点ですよね。壁に当たっているから質問している(そうでない場合は一応除外)。

例を出すと分かりやすいかな。

喉が渇いてしまい、どうしても我慢ができなくて見ず知らずの人に、「すみません、水をくれませんか?」と言ったとします。で、問われた人はその言い方にカチンときて曰く「おい、もう少し尋ね方を考えろ」。これだけ言って去っていったとします。そうやって何度目かの人に「今水はもっていないけど、あの角を曲った所に水飲み場があるよ」と教えてもらいました。渇きが癒されました。

「程度の低い質問」に回答ならざる回答をする人の振る舞いは、最初に問われた人のようなものです。「意味」がないのです。この「意味のなさ」はこのサイトを一種のアノミー状態を作り出すのではないかと思うのです。

このサイトは今の当方にとって十分魅力的です。それが悪い方向へ地滑り的に移行していかないかと懸念しているのです。それが「意味のない回答」です。
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回答日時:10/01/23 17:24
回答番号:No.35
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回答者:noname#103194 では何の為に「検索サイト」が存在するのでしょうか?
と云う事に成ると思います。
熟年層の人向けにNHK教育でPCの番組が在りましたが、アレは丁寧に教えてましたね。
PCのマニュアルの中には検索サイトの使い方も紹介してのも在ります。
大前提は「自助努力」です。
思いの外ネットの世界は「シビア」です。
努力しない人には手を差し伸べたくても出来ません。
特にこう云った趣旨のサイトではね。
2chなんかはもっと酷いですよ?

あいですさん、回答をありがとうございます。

>では何の為に「検索サイト」が存在するのでしょうか?

この時点で当方の質問に応えていただけないということですね。

>大前提は「自助努力」です。
思いの外ネットの世界は「シビア」です。
努力しない人には手を差し伸べたくても出来ません。
特にこう云った趣旨のサイトではね。

このサイトの主旨って「努力しない人には手を差し伸べたくても出来ません」でしたっけ。回答者が任意に判断しているんじゃないんだ。もう一回「利用規約」を熟読しますね。

いいことを教えていただきました。また、よろしく!

ネバーネスさん、バランスいかが。ぽこぺろぽです。

 ここのボスは回答者に厳しく、質問者に甘いのですが、私から言わせれば、どっちもどっちですな。くだらない質問はやはり迷惑ですから、件数が制限されています。誰も答えなければ、QAとして成立しないのだから、質問趣旨に納得しなければ、答えなければいいのです。これは、批判的な回答がいけないという意味ではありません。質問そのものを否定した時点で、回答とはいえないのです。

 質問者の一部には、質問を立てること自体が、目的化している者もいます。これには、答えてはならないのですが、回答者の一部にも、難癖をつけることが目的化している者もいるので、ジャレ合いになっているのが現状です。

 きちんとした質問文を書くように言い含めるには、自分もきちんと質問しなければなりません。検索するように諭すなら、ヒントを示すべきでしょう。質問者を教育する資格がない者が、説教を垂れるのでややこしいのです。

 質問者は一般に、サイトの利用法に無関心な者が多いので、回答も盛んにするようになれば、悪質回答者について、的確な批判ができるようになるでしょう。これからは質問者が回答者を教育する時代です。それでは、バランスよう!

ぽこさん、ども。

最初に、「バランスいかが」はなんとなく分かるのですが「バランスよう!」という表現が?です。「意味不明」なのと音数律的に座りが悪いように感じます。ひょっとしてぽこ流「ゴキゲンよう!」ですか? 少し無理が…。

>質問趣旨に納得しなければ、答えなければいいのです。

これが当方の今回の質問のライトモチーフでした。

>質問者を教育する資格がない者が、説教を垂れるのでややこしいのです。

結局ここに行きつきますか。(ここで一句:日暮れていつか来た道とぼとぼ帰る)

現在が「過渡期」である、ということですね。
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回答日時:10/01/23 17:22
回答番号:No.34
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回答

 

回答者:noname#103194 ANo9です。

>非政治的人間の政治責任
>このタイトルの意味わかりますよね
ゴメンネ、分かりません。

おおおおお、はしるさん、更なる回答をありがとうございます。

>ゴメンネ、分かりません。

いえいえ、いいのですよ。

もう質問とはかけ離れたやり取りになっていますから、サイトに負荷をいたずらにかけないためにこれではしるさんとは一旦お開きにしましょう。ども、でした。

ANo8です。

>「回答者」=「教育者」論ですね。
違うよ。

全部わたし自身の楽しみのためです。

おお、またまたはしるさん、ご回答をありがとうございます。

アーレントでしたっけ

非政治的人間の政治責任

という著作。このタイトルの意味わかりますよね。事は何も政治に限らない。そういうことです。

個人的にはちょっと違います。

部分回答とか7割回答を意識しています。
つまり技術論の質問には意図的にキーなる部分を記述しません。

>ひょっとして「ググれ」という回答で未熟な質問者を教育しているのでしょうか。
これでは100%回答なので面白みがありません。

はしるさん、回答をありがとうございます。

アンケカテでご活躍の方ですよね。

>部分回答とか7割回答を意識しています。
つまり技術論の質問には意図的にキーなる部分を記述しません。

「回答者」=「教育者」論ですね。

お示しの7割回答ですが、そのご回答が質問者にとって5割回答ということもありますよね。質問者がそのヒントを気づけばOK、気づかなければ「意味不明回答」になる、ということですよね。そうすると回答は一種のゲーム感覚が入っているとうことですね。いえ、善悪につなげる気はないです。それはそれで有益なヒントであれば質問した甲斐があったということでしょうね。

はしるさんってまともな人だったんだ。スンマセン、偏見もってました。
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回答日時:10/01/23 17:21
回答番号:No.33
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回答

 

回答者:noname#103194 感情の発露が多くなるのは簡単にググって出てくる内容よりも
高いレベルの回答を出せないからと思います。

例を上げると 今日は9日ですが明日は何日ですか?
普通は10日としか回答出来ません。そこで感情が爆発します。

ところが人によっては高いレベルの回答が可能な場合が在ります
上記の例ですが使用している暦は何か?地球の場所は何処か?
今日と明日は同じ場所の事なのか?などの補足により高度な

回答が可能に成るのです。総合的に高い回答能力を持つ参加者は
めったに感情的書き込みはしないのです。質問者も同じ事ですね

感情的になっている状態では適切な教育など不可能です
感情の発露から能力を推測して相手に合わせた対処をする事です

かわせみさん、回答をありがとうございます。

>今日は9日ですが明日は何日ですか?
普通は10日としか回答出来ません。そこで感情が爆発します。

すみません。うけてしまいました。確かにおっしゃる通りです。これって日常生活でよくあることですよね。

>総合的に高い回答能力を持つ参加者は
めったに感情的書き込みはしないのです。質問者も同じ事ですね

ここにつきるようですね。

>感情的になっている状態では適切な教育など不可能です

警察でも相手が感情的になってる場合は手を焼きますからね。

>感情の発露から能力を推測して相手に合わせた対処をする事です

かわせみさんてひょっとして「達人」?当方も見習いたいものです。

>一種の感情の発露としか思えない
>質問の文面からはそういった個々の事情などは分からない
>どうして「スルー」できないのでしょう。
>このサイトの主旨って「努力しない人には手を差し伸べたくても出来ません」でしたっけ。

貴方のおっしゃることはいちいちごもっともです。久しぶりに共感できるご意見がみられて嬉しいです。しかし、そういった回答者が後を絶たないのが現実です。

そういった回答をされる方は、おそらくそのような単純な質問に「むかつく」のでしょう。(ちなみに、私は別に腹は立ちませんが) そしてむかつく相手に「お前ムカツクんだよコラァ」と言いたい、ただそれだけなのです。

現実には、怖いお兄さんが煙草のポイ捨てをしたところで「拾えやこらァ」なんて言いたくても言えません(勿論私もです)、ところがネット界では思ったことを100%言えるのです。こんな機会を逃す手はありません。(ネット界にもモラルがあり、思ったことを100%言ってもよいわけではない、という事は、この手の方は無視されているようです)

つまり、「むかつく相手に一言いいたい」という「うさばらし」ですね。彼らは「子供」なので、「スルーする」という「大人」の対応ができないのです。

さて、そのような「単純な」質問をする質問者にもいろいろ理由はあると思いますが、彼らの目には、このサイトや回答者を辞書代わりに使っている=人間扱いしていない、と映るのでしょう。で、自分たちを人間扱いしていない相手に対しては人間扱いする必要はない=どんな失礼な回答をしても構わない、という方程式となり、悪いことをしている自覚がない、むしろ「正義の鉄槌」を下している気分となり「気分が良い」のでしょう。

結局は、質問者にも回答者にも「未熟者」はいる。ということで、理由は「そういうものだから」あるいは「嫌な世の中だから」としか言いようがないのではないでしょうか。

ただ、自分を「正義」「教育者」「賢者」と思っている分だけ、質問者の未熟者より、回答者の未熟者の方が性質が悪いかもしれません。

余談:そんな訳で最近の私は質問恐怖症になってしまいました。never-nessさんは私の分まで頑張って下さい。

さわいさん、回答をありがとございます。

えーっ、私より先輩じゃないですか(歳はどうか知りませんが)!

>彼らは「子供」なので、「スルーする」という「大人」の対応ができないのです。

いい歳をしたおっさんが「子ども」の真似はいただけませんね。第一「子ども」に失礼ですよね。

>このサイトや回答者を辞書代わりに使っている=人間扱いしていない

これって感じ方は人それぞれですよね。

>自分たちを人間扱いしていない相手に対しては人間扱いする必要はない=どんな失礼な回答をしても構わない

そういう人たちは、あのアウシュビッツから奇跡的に生還したフランクルの書いた『夜と霧』を薦めたいですね。麦畑の感動的なエピソード!

>質問者の未熟者より、回答者の未熟者の方が性質が悪いかもしれません

ポイントはここですね。だからある人たちから「バランス」などといわれるのです。言われて腹を立てている人は他の質問でもわんさかいますね。

思うにこの「バランス」なることば。その実態についての「やり取り」は面白い現象続発で傍から見ていて飽きません。一部の方たちのとっては「とても痛い点」を突かれているように思うようですね。「誤解」と「プライド」のバランスはとてもいいようなのに。「バランス」と言われてカッカくる人たちにもう少しの思考力と感受性を!

>余談:そんな訳で最近の私は質問恐怖症になってしまいました。never-nessさんは私の分まで頑張って下さい。

そんなー、先輩、見捨てるようなこと言わないでください(誰が先輩じゃ!)よ。先輩はきっとナイーヴなんすね(嗚呼、我ながら書いてておかしくなりそう)。

えっと、もう少しで閉め切ります。もっと、かまってくれると思っていたのに。文章力がないのって悲しいなぁ。
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回答日時:10/01/23 17:20
回答番号:No.32
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回答者:noname#103194 ご参考まで
 
>1.ポイントをつける自分基準というのがありますか? 
役に立った順番で、特に字数は気にしません。
ただポイント付与で迷った場合は、回答の早い方を優先にしています。

>2.ポイント制度はこう改善してほしいという点がありますか?
素晴らしい回答が1件あった時、その回答に20pt+10ptを合わせて付与出来たらいいなあ。

>3.回答者側から優良な質問をした(と思う)「質問者」へのポイント付与制度は新設すべきでしょうか?新たな混乱の原因となるでしょうか?
類似した質問も多く、過去に似た質問を検索としたとしても甲乙付け難くいらないのでは・・・
またカテゴリーでの人気Q&Aが表示されているので、こんな感じで良いのでは?

そらのあおさん、回答をありがとうございます。

>回答の早い方を優先にしています。

考えても迷うときの対処法ではありますね!

>その回答に20pt+10ptを合わせて付与出来たら

その発想はありませんでした。現行では20ptであとはナシと同じですね。

>またカテゴリーでの人気Q&Aが表示されている

新しいのは混乱のもとですね!閲覧数で「良質問」ってすればいいのかも。

1.90%以上はアンケート質問なので、「 面白いもの 」「 為になったもの 」が基準です。
  あらかじめキーワードを決めておいて、合致した人に付ける場合もあります。
  ちなみに私も回答者が3人は嫌いです。放置したくなります。(笑)

2.ポイントは廃止したほうが良いと思ってます。
  (本当に地域通貨のような使い道があるなら、存続◎ですが・・・)

3.狙ってくる質問が増えそうなので「このQ&Aは役にたった」で十分だと思います。

だうんあんださん、回答をありがとうござます。

>「 面白いもの 」「 為になったもの 」が基準です。

アンケートカテもなかなかポイントつけづらいですね。

>ポイントは廃止したほうが良いと思ってます。

お気持ちはわかります。

>「このQ&Aは役にたった」で十分だと思います。

新たに増やすまでもない、ということですね!

割合は承知していませんが、このサイトの質問の中に

「おいおいそんなこと検索すれば分かるだろ」
「人に聞くなよ。調べれば分かるだろ」

という未熟な質問を見かけることがあります。

それに対して

「ググれ!」
「自分で調べろ!」

などという疑問に答える「回答」ではない、一種の感情の発露としか思えないような「回答」を見かけることがよくあるように思います。

質問者にとっては「自分の精一杯のスキルで分からなかったから聞いているのに」というものから、単に「面倒くさい」から質問しましたまで、様々な理由があっての質問だと思います。しかし、質問の文面からはそういった個々の事情などは分からないし、また普通はそういった事情は書かないでしょう。それでも「聞きたいから聞いた」「答えを得たくて聞いた」はず。

そういった知識やスキルのある方から見れば「突っ込みたくなる質問」に対して、なぜ「役に立つ回答」ではなく質問者が求めていない上記のような回答をするのでしょう。どうして「スルー」できないのでしょう。

ひょっとして「ググれ」という回答で未熟な質問者を教育しているのでしょうか。

最近こういった内容の質問が多く出されています。「回答」らしい「回答」は得られないかもしれません。質問に対して「意味」と「意義」のあるご回答にお礼を差し上げたと思います。どうぞよろしく。
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回答日時:10/01/23 17:19
回答番号:No.31
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回答

 

回答者:noname#103194 しょりんじさん、回答をありがとうございます。

>無駄に長い回答文を書く人がいます

私なぞは真っ先に切られますね。というのも自分の考えを相手に理解してもらうための地均しをするために結構長い文を書きますから。ことばは繊細で微妙です。

細やかなニュアンスを伝えたい場合はどうしても最後の一文を書くために前提が必要になるのです。当方が技術系の質問以外のフィールドにいるせいですが。

>端的にまとまった回答

これが無駄のない回答ですね。でも

>端的にまとまった回答

だと誤解を与えかねない性質の話題もありますから「ケースバイケース」でしょうね。

回答者さんは自分でも「端的にまとまった回答」をするようにこころがけていらっしゃるのですね。

>1.ポイントをつける自分基準というのがありますか?
はい、あります。

>2.ポイント制度はこう改善してほしいという点がありますか?
個人的な好みの問題なので言えばきりがありません。
このままでよいです。

>3.回答者側から優良な質問をした(と思う)「質問者」へのポイント付与制度は新設すべきでしょうか?新たな混乱の原因となるでしょうか?
この運用システムが複雑になるのでシステム自体の信頼性を損ないそうです。
ですのでいりません。

1 あります。
・問題解決に直接結びついた→20ポイント
・問題解決のヒントになった→10ポイント
良回答多数の場合(過去にその経験がありませんが)、
回答順、文章の丁寧さ、わかりやすさが基準になります。
(一言で言うと愛を感じた順です)
回答順にするのは、先の質問をヒントに回答する人がいるからです。

2 特にありません

3 特に思いません。
  それをすると「そのためにする質問」が増えるだけで、
 このサイトの趣旨に反すると思います。

ならららさん、回答をありがとうございます。

>一言で言うと愛を感じた順です

いいですねぇ、あいをかんじないかいとうがおおいですからね。

>「そのためにする質問」が増えるだけ

そうですね。変わった人がいっぱいいますからねェ。

1.ポイントをつける自分基準というのがありますか?
   困った時は、「回答者の経験談等、他では得られない情報がある」・「字数に明らかに差がある場合は、多い方に」等を総合して考えます。すべてが同程度なら先着順です。

2.ポイント制度はこう改善してほしいという点がありますか?
  現行でも、それほど悪くない制度とは思います。 
  複数の方に順位を付けて回答できるのですから。

3.回答者側から優良な質問をした(と思う)「質問者」へのポイント付与制度は新設すべきでしょうか?新たな混乱の原因となるでしょうか?
  サイト趣旨に合わないと思います。
  現行でも「このQ&Aは役に立った」がありますので、それで十分でしょう。

ぐうえびしさん、回答をありがとうございます。

>すべてが同程度なら先着順です。

ある意味公平ですね。

>それほど悪くない制度

当方もそう思うときもあり、そう思わないときもあり、です。

>「このQ&Aは役に立った」があります

これのランキングとかはないのかな。個別に質問を見なければ分からない仕組みですかね。
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回答日時:10/01/23 17:18
回答番号:No.30
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回答

 

回答者:noname#103194 質問者は質問を締め切る際に「お礼ポイント」なる「地域通貨のようなもの」を、自分が「役に立った」と思う回答をしてくれた回答者に付与できます。20ptと10ptの2名分がそれです。もちろんポイント付与に「値せず」と判断して誰にも付与せずに〆切ることの可能ですが、自分の質問にわざわざ時間をとって回答していただいたわけですから、基本は感謝の気持ちの「お礼ポイント」だと思います。

ここで少し困るのが3名以上の回答を得た場合でしょう。1人目に20pt、2人目に10pt、はて3人目の方には…涙を呑んで0pt。感謝のことばで気持ちを示す、ということになるのでしょうか。

私などは、質問を締め切るときにこの「お礼ポイント」で少し悩むんですよね。公平にするために0ptという考えもありますがそう度々はしたくない。〆切るたびに人知れず悩み葛藤の末にポイントをつけさせてもらっていますが、「後味」がよくないときもある(大抵は一晩寝れば忘れますけど)。ま、成績をつけるみたいで「苦手」なんだと思いますが。

ここで質問です。

みなさんは
1.ポイントをつける自分基準というのがありますか?
 ※もちろん「役に立った順」でしょうが、付けるのに困ったときですね。字数の多い順とか、20ptはめったにあげないとか。
2.ポイント制度はこう改善してほしいという点がありますか?
 ※別に運営に物申すわけではなく他の利用者の感想を知りたいだけです。
3.回答者側から優良な質問をした(と思う)「質問者」へのポイント付与制度は新設すべきでしょうか?新たな混乱の原因となるでしょうか?

1〜3の全てでもいいですし選んで回答していただいてもいいです。
 

1.本当に役に立った回答につける場合と、全くいい加減にサイコロ転がして決める場合があります。(その比率は社外秘です。)
こう言っておけば、良ポイントをもらった人は自分の回答がプラスになったんだな、と思えますし、ポイントなしの人は今回はサイコロだな、と考えればいいので誰も傷つけずに済みます。
2.ポイント制度はなくても良いと思います。
質問者からするとポイントの付与は苦痛です。
また回答者からするとポイントよりお礼の方が嬉しいですし、質問者の主観で評価されるポイントよりも、多数の客観的評価である「この回答は参考になったボタン」の方を重要視しています。
3.私は回答がついただけで嬉しいので、回答の件数=質問者への見えないポイントだと思っています。

だいどりっちさん、回答をありがとうございます。

>サイコロ転がして決める

ある意味公平ですね。昔は大学の先生でいい加減な先生は学生の答案の採点をそれに類する方法でやっていた、という本当らしい噂話を思い出しました。

>質問者からするとポイントの付与は苦痛です。

ですよね〜。ま、苦痛というほど苦痛じゃないけど、何かすっきりしない感じが残ることが多いです。

>回答の件数=質問者への見えないポイントだと思っています。

至言ですね。まったく質問者冥利(?)はそこですね。ただし、同じ人が何回も書き込んでいただくと、有難いやら有難くないような困ったような…。

1.は特にないですが、無駄な回答がつかないように、答えが得られたら、なるべく早く締め切るようにしています。

2.例えば持点50点で、それを40+10, 20+20+10, 10+10(のみで30は与えない)など自由に使えればよいかと思います。もっとも、それを運営側に提示するほどではありませんが。

3.今の「役に立った」で十分。

ぷるぬさん、回答をありがとうございます。

>答えが得られたら、なるべく早く締め切るようにしています。

利用者の鑑のような…真似したいです。

>持ち点50点

面白いかもしれませんね。でも配分で悩むのは同じですね。悩ましいところです。

>今の「役に立った」で十分。

実は「役に立った」はあまり注目していませんでした。だって分かりにくい所にありませんか。もっと目立つところにあれば皆さん利用されると思いますね。

ポイントをもらうために無駄に長い回答文を書く人がいますが私はそういった人にはポイントをつけないようにしています。端的にまとまった回答をしていただいた方にポイントをつけていますね。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 17:17
回答番号:No.29
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回答

 

回答者:noname#103194 おお、びすぷらしゅさん、回答をありがとうございます。

>最近、色々やっておられますね。

いやぁ、何のことでしょう(と、とぼけてみる)?

>第1に、無視する。

第2がないのでこれが「ファイナルアンサー」ですね。

>自分以外の人間(あったこともない人達ですから)を信用しないことにしています。

こういうふうにどういう形であれ「確固たる方針」をもってぶれないようにすればいいのですね。

>ご参照ください。

見ました。参考にします。

>誤解・誤読を避けるた
不可能です。面と向かっても誤解が生じるのに、ネットで誤解が生じないはずがありません。

​​http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson9.html​
メラビアンの法則という都市伝説は置いといて。

日常生活とは相手に与える情報量(声のトーンや顔の表情など、非言語によるコミュニケーション)が格段に減っていますから、言葉でそれを補うしかありません。で、言葉でそれを補うとすれば長文になりますので、センテンスを短くしたり、箇条書きにするなどして理解しやすいように努めなければなりません。

>日常生活で頻繁に使われる「定型文」「紋切り表現」は丁寧にいうと却って「変」になります。
日常生活とはまったく別物のコミュニケーションだと思ってください。日本語の文法をきちんと守り、紛れのない文章を書くように心がけると良いでしょう。
で、誤解されても慌てない事。リアルの友人なら別の手段でフォローすればよいし、そうでなければ放置すること。

おけぐさん、ご回答をありがとうございます。

>不可能です。面と向かっても誤解が生じるのに、ネットで誤解が生じないはずがありません。

割り切り方、お見事です。

>そうでなければ放置すること。

結局そこに行きつきますかね。つまり現実でも無理なものをネットという特殊な環境ではさらに無理という「達観」ですね。参考にします。

ココのQA限定のコミュニケーション
基本的には一方的な回答なのでわたしの回答がそのまま伝われば良いと思います。
従って判断に迷うような記述は一切不要と考えています。

特に技術論のカテであればその傾向は極めて強いです。


ただし・・・
「猫」カテで別デェ〜す。
ニャンコ大すきだからです。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 17:15
回答番号:No.28
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回答

 

回答者:noname#103194 ぽこぽろぽろさん、ども。

補足要求とのことですが、まことに申し訳ありませんが、当方ただいま「利用規約遵守月間」に入っておりまして、質問の主旨と「かけ離れた回答」にはお応えできないのです。

お示しのテーマに関わる質問はいずれ近いうちに形を変えて上げる予定でおります。そのときに改めて補足要求をしていただければ幸いです。

そうは申しましても「他生の縁」ということばもあります。
実は当該の質問及び回答者とのやり取りの中にすでに本意は見え隠れしています。「あるものを探し出す」これだけでよいのです。
再びの熟読をお願いします。

不尽

「なぜくだらない質問に回答するのか」の方に投稿しようと思ったのですが、ちょっと遅れてしまいました。そっちの方に書く方がいい内容なのですが、こっちにもわずかに掠ることができるかもと思いますので。

私の場合ですが、その「くだらない質問」あるいは「モラルのない質問」その手の人にとって切れやすい質問への回答として

「嫌です」

という言い方をよくします。



なんか変じゃないですか?
「ググレ」じゃない。「そういう水の頼み方をするな」でもない。つまり、質問者をかわすのでなく向き合ってまともに拒否する。しかも、質問者を見下すこともしない。
この「見下さない」ということが大きなキーポイントになります。

その気持ちがある限り、おそらく議論はかみ合います。これはスキルじゃない。メンタルです。

>おっ、いい点じゃん」
愛情がありません。向かった相手がいい点だろうと悪い点だろうとかまわないという立場から放たれた言葉である。
>何かのお礼の際に
「〜していただいて感謝のことばもありません」
本当に感謝してない社交辞令だからである。本当に感謝しているのならばこんな紋きり型の言葉は出ない。そして、相手も同様です。

がこさん、回答をありがとうございます。

>質問者をかわすのでなく向き合ってまともに拒否する。しかも、質問者を見下すこともしない。

それが終着の正攻法(正対法?)なのですね。「見下さない」というスキル。これはかなりハードルが高いですね。でもおっしゃるとおりです。参考にします。

>本当に感謝しているのならばこんな紋きり型の言葉は出ない。

「クリシェ」は日常世界では「潤滑油」です。「本当に感謝しているかどうか」ではなくそういうことでするする回ることが「多い」ということではないですか。いわば「必要悪」に近い「潤滑油」。

新らしい方が次から次に…です。最近ちょっとした経験から「スルー」することを覚えました。少しスキルアップしたかな。

おひさしぶりです。

最近、色々やっておられますね。

今の私の心境で、質問に、ご回答します。

相手との誤解が生じた場合、どうするか。
第1に、無視する。
誤解を解こうとして、下手にうごくと、ここを利用している他の人に迷惑をかける(経験談)。
誤解が生じても、生じる気持ちの問題を小さくするには、相手に対して、字面や、言い回し等で、優しさを感じさせることに気を使わず、自分が回答できる範囲の内容を、書くことだけです。
それを、相手がどう見るかは、相手次第という感覚を保つことではないかと思います。

人間的には、非常に冷たく見られると思います。
それから、私は、暇つぶしに、自分のスキルアップのために、やっているので、自分以外の人間(あったこともない人達ですから)を信用しないことにしています。

最後に、ご存知であると思いますが、

​​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5110510.html​

ご参照ください。ご心配なく、私が立てた、質問です。
種類:回答
どんな人:一般人
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回答日時:10/01/23 17:14
回答番号:No.27
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回答

 

回答者:noname#103194 誤解を避けるためには強い言葉で解釈しないこと。

したほうがいい→強制されたと反発する
のではなく
したほうがいい→アドバイスと捉える

「ああ言えばこう言う」といった類のお礼をしない。

英国_きぷろすさん、回答をありがとうございます。

>誤解を避けるためには強い言葉で解釈しないこと。

そうですね、それができればやり取りがぎこちなくなることはないでしょうね。

>「ああ言えばこう言う」といった類のお礼をしない。

無駄な応酬のなんと多いことか。でもその通りだと思います。

おっしゃるようにそれぞれが相手への配慮を少しすればいいでしょうね。でも、世の中は広いですよ。実に様々な方がいらっしゃる。特に「文字面」の表層的な部分を捉えて「感情的反発」をされる方も数多くいらっしゃいます。そういう方とも誤解を最小限にした闊達なやりとりが出来ればいいと思います。


はじめまして、中心Errorでない、OKの「ポコポロポロ」と申します。

 あなた方が、単問では当たり障りの無い設問およびリサーチに見え隠れする(意図的リーク?)、

『質問者あるいは回答者(利用者)、システムの問題』について取り組むstrategy(本意)を補足頂けませんか?

 よろしくお答え願います。

よく読んだら

>あなた方が、

だったのですね!

>あなたが、

と読み間違いをしていました。「あなた方が」であれば答えようがありません。「あなた方」とはわたしと「誰」のことでしょうか。

ということで、「あなたが」と誤読した「この回答へのお礼」文中

お示しの…
種類:回答
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回答日時:10/01/23 17:13
回答番号:No.26
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回答

 

回答者:noname#103194 たとえばテレビを見ているとします。

CMに変わると急に音が大きくなります。

このときにある方はうるさいのをいやがり

「消音して」と頻繁にいいます。

当方はうるさいのはうるさいものの

注意して聞かなければ、その音はさほどまとわりつくようでもなく、いらいらするような音にもなりません。自動的に聞く耳と聞かない耳にチェンジするというか自分の側のONとOFFで対処しているようです。

ここで質問です。

聞く必要のないような音は少し大きくてもスルーできますか?
それともスルーできなくていらいらして音を小さくするような行動にでますか?

自分がそうではないので他の人はどうなのだろうと思い質問しました。

よろしくお願いします。

ひらかわさん、回答をありがとうございます。

>我が家のTVには、CM時に音を小さくする機能があります

えーっ、それは素晴らしい。本編とCMでは音声信号を送る方式が違うのをTV側で判断する機能ですね!音量0にもできそうですね。

最近の技術の進歩(?)はそこまできたのですね。うちはまだ地デジ対応ではないので買い替えるときに必須項目にしましょう。わたしは少しくらいの音の大きさはいいのですがイヤなひとは我慢が出来ないようなので。

妙に声の小さい映画などを見ていて音量を上げているときに大音量のCMが入ると、ぎょっとして音量を下げます。
アクション映画やバラエティ番組とか見ているときはCM入っても気にならないです。
あと、一時期妙に大音量のCMが多かった気がしますが、最近CMの音量があまり大きくないように思うので、スルーすることが多くなった気がします。

早速の回答をありがとうございます。

>大音量のCMが入ると、ぎょっとして音量を下げます。

そうですね!おっしゃるように映画ではその傾向がありますね。

>アクション映画やバラエティ番組とか見ているときはCM入っても気にならないです。

これは当方と同じですね。聞こうと思わなければそれですます時って多いですよね。でも、かならず耳障りと騒ぐ人がいるのですよ。

ネットでの「スキル」について質問させていただきます。

ネットでの「やりとり」はこういったサイトでは主に「ことば」のやりとりを旨とします。(近頃ツールとして音声、画像が添付できるようになりました)

実生活では「やりとり」の際に「いい方」や「表情」などが「ことば」とともに判断材料にされて微妙な「ニュアンス」を伝え、支障の少ない闊達なやりとりを可能にすると思います。

一方、このようなQ&Aサイトではやりとりされることばに上記の「いい方」「表情」などは期待すべくもなく、「字面」がすべてという制約が出てきます。

そこで問題が発生します。「字面」のみで反応されることがよくあります。場が荒れたりする原因の多くもこの発せられた「意図」が伝わらず、「字面」の表層で反応されることに帰すと思われます。
問題例をあげてみましょう。

<事例1>
テストの返却時、友達が悪い点を取ったのを見て
「おっ、いい点じゃん」
その反応として
(1)「なにがいい点だ。皮肉か。次は見返してやる」
(2)「なにがいい点だ。いい点と悪い点の区別もつかないのか。こいつはバカか」
<事例2>
何かのお礼の際に
「〜していただいて感謝のことばもありません」
その反応として
(3)「いや、そんなに丁寧に言っていただくと恐縮します」
(4)「何だって!人が親切にしてやったのに、感謝のことばがない。お礼の仕方も知らないのか。失礼なやつだ!」

いずれも言葉の字面のとらえ方のスキルの生み出す悲喜劇です。では、どうやってそういった「齟齬」をできるだけ減らせるのか。ことばを選んで誤解を与えないよう、また相手の身になって「言う」ことは必要でしょうが

日常生活で頻繁に使われる「定型文」「紋切り表現」は丁寧にいうと却って「変」になります。

質問:それへの誤解・誤読を避けるためにはどうすればいいのでしょうか?

※ネットで「荒れる」原因の多くは何気ないことばのやりとりでの「行き違い」があるようです。ですから今回の質問は古くて新し問題であると思います。
※「ネットスキル」修行中の身ですからわかりやすい「回答」をお願いします。
※「国語」カテではなく「Q&Aカテ」を選んだのは、このカテでの最近のやりとりを踏まえたものです。
※<事例>提示の巧拙の有無への言及は避けてください。
種類:回答
どんな人:一般人
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回答日時:10/01/23 17:12
回答番号:No.25
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回答

 

回答者:noname#103194 1.あります。
2.あってもいいです。
3.専門家がいればいいと思います。

2.の補足です。
「正字旧かな」に限らず引用されると「だから何?」と思います。
そして解説してもらう羽目になり二度手間になります。
学が無いものにとっては嫌味です。

英国−キプロスさん、たびたびの回答をありがとうございます。

私はキプロスさんに謝らなくてはいけない。キプロスさんのようなナイーヴな方はかの質問に来てはいけなかった。もう少し回答がつけばわが「透明な悪意」も自ずと見えてくるでしょう(キプロスさんのおっしゃるものでは残念ながらなかったのですが)。へんな絡み方をして申し訳なし、です。

さて、ご回答へのお礼を。

>解説してもらう羽目になり二度手間になります。

そうでしょうね。私が古い文章に接したのは図らずも孤独の味をそれとは知らずに舐めていたときですからね。二度手間はいやなものです。でもラテン語などよりも簡単ですよ。何せ50年くらい前まで流通していた表記ですから。

>学が無いものにとっては嫌味です。

そこまでおっしゃるのは嫌な思い出があるのでしょうか。大丈夫です。この表記は既に絶滅危惧種認定です。マニアの玩具になる日も近いでしょう。

1.全くない!
2.(心情的には・・・)思わない!
3.これと言った方策はないが・・・、旧かな遣いの文章を、教育(国語など)の中に取り入れるようにするとか・・・

旧かな遣いで書かれた書物に接する機会が多いので、全然苦にならない。寧ろ旧字体と新字体と比較出来るので爲になる!

あえさん、回答をありがとうございます。

恐らく「舊假名遣ひ」はあと数十年の寿命でしょうね。死後は細々と大学や好事家のサークルで古語として命脈を保っていくでしょう。

惜しむらくは質問文にも掲げたように詩的なイメージを語るに相応しい宝物が消えてゆくことですね。

我が亡きあとに洪水よ来たれ!

問であるには違いないですが、この質問に答えてもらうことで、何らかの「問題の解決」につながるのでしょうか? その点が疑問です。
その意味では、「アンケート」の分類に入れるのがふさわしいかもしれないと思います。

私は旧仮名は嫌いではありません。
ただ、昔の旧仮名の本は、漢字も旧漢字であるので、漢字の読みがかなり好い加減になったりします。
漢字は新漢字に改めて、仮名遣ひのみ旧仮名遣ひにした新しい本は、読みやすさの点では助かります。
旧仮名遣ひは、本当は「旧」ではなくて、日本語本来の仮名遣ひであらうとは思っています。
けれど、現今、パソコンで入力するのに、旧仮名遣いだと変換するのにも大変な面倒さを覚悟しなければならない。
和歌や俳句は旧仮名遣ひで記述するのが正当な記述方法ですから、その伝統自体は続いていくと思ひます。

>その意味では、「アンケート」の分類に入れるのがふさわしいかもしれない

おっしゃる通りです。冒頭にも記してあるように本来「アンケート」の分類が相応しいと思います。

日常であう「疑問」には、「○○は何であるか?」とともに「他人はどう考えているか?」も頻繁に登場すると思います。今回の質問は後者ですね。そしてアンケートカテゴリーが最も相応しいでしょう。ですが、質問者は「より的確な回答」を求めたいという気持ちがあります。質問内容は「正字旧かな」ですから、質問対象は「読書」に親しんでいる方が対象であることが望ましいと愚考しました。そういう「質問意図」ですのでご了承ください。

>旧漢字であるので、漢字の読みがかなり好い加減になったりします。

逆に当方などは漢和辞書を頼りに「読み」も学習して楽しかった覚えがあります。ただ、おっしゃるように「読みのいい加減な漢字」は害の方が多いですね。

今の日本の公教育ではこの「正字旧かな」を教えませんね。古文や漢文はそれに近い面もありますがそれだけでは十分ではない。若い人が過去の遺産である「正字旧かな」文献から遠ざかるのは随分もったいない気がします。

>パソコンで入力するのに、旧仮名遣いだと変換するのにも大変な面倒さを覚悟しなければならない

専用の「契沖」なるワープロソフトはありますがごく一部の好事家対象なのでしょうか。

>和歌や俳句は旧仮名遣ひで記述するのが正当な記述方法です

その正統な表記方法はこのままでは廃れていくように危惧しています。
種類:回答
どんな人:一般人
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回答日時:10/01/23 17:11
回答番号:No.24
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回答

 

回答者:noname#103194 アンケートカテとも考えましたがより的確な回答をいただけると思い読書カテを選びました。

現在の書き言葉(新聞・雑誌・書籍・ネット等)のほとんどは戦後に定められた表記法である「新字新かな」表記です。もう移行期ではないのでその定着具合云々は意味をなさないものでしょう。

しかし、わたしなどは「正字旧かな」という「文化」も後世に残しておいていい「文化」だと感じています。

岩波文庫の正字旧かな表記のものが新字新かな表記に移行するのに手間取っていたのか、私の読書熱中時代I期の高校生のころは、まだ結構古い表記のものがありました。「のめり込むように」読んでいた時期が丁度その時期だったので今でも正字旧かなの文には抵抗はありません。

「ツァラトゥストラかく語りき」というタイトルや「聖書」の文語文の詩的な魅力は圧倒的なものがあると思います。

ところが同じ年代でも少し若い年代でも、話が偶然そういった表記のことになると「正字旧かなはイヤです」という反応が圧倒的なのです。

ここで質問です。このページをご覧の方は
1.正字旧かなには抵抗がありますか?
2.正字旧かなはなくなればいいと思いますか?
3.2でNoの方はどういう風にすれば後世に伝えていくことができるとお思いですか?

以上、全てにでも選んでいただいても結構です。

>わが「透明な悪意」
できるだけ分りやすくお願いします。
少し長居をしすぎたようです。
暫くおイトマを頂きます。

こんにちは。
1.正字旧かなには抵抗がありますか?
 まったく抵抗はありません。私の蔵書の中にも正字旧かなの本は何冊もあります。中には新字新かなで書かれた本を持っているにもかかわらず、あえて正字旧かなで書かれた版(古本)を買い求めたこともあります。物好きだとあきれられています(苦笑)。
2.正字旧かなはなくなればいいと思いますか?
 いいえ。(問い詰められると説明に困ってしまうのですが)正字旧かなの文章が好きなので、なくなってしまふと考へるだけで、悲しく思へてなりません。
3.2でNoの方はどういう風にすれば後世に伝えていくことができるとお思いですか?
現在、正字旧かなで出版されている本はできるかぎりこのまま残していただきたいと思います。中学、高校の授業で使う国語の教科書にも可能なものは正字旧かなを用いて掲載していただきたい。
そうしたからといって確実に後世に残り、皆が読める状態が維持されるわけではないと思いますが…このまま失われていくよりかは、幾分ましでしょう。

たかだか数十年前の本を読むのに一苦労、それも手間がかかるから嫌ひと言ふ風潮がなんとも悲しくなっちまいますね。
調べて読む、手間をかけても読むといふ、心の余裕がなくなったように思います。
私たちの祖父母、親世代には当たり前に書かれていた文章なのですが。


がーのっとさん、回答をありがとうございます。

>あえて正字旧かなで書かれた版(古本)を買い求めたこともあります。物好きだとあきれられています(苦笑)。

当方と似たような(笑)。海外の翻訳もので現行の「新字新かな」のものより古書でしか手に入らない「正字旧かな」のものの方が高い評価を得ているものがあります。例えばホフマンの『黄金寳壺』の正字旧かな訳とかあります。
他の人に言っても理解してもらえないので私は「誰にも言ってません」。

>なくなってしまふと考へるだけで、悲しく思へてなりません。

じょじょになくなっていくのでしょうね。惜しむべきことです。

>中学、高校の授業で使う国語の教科書にも…

やはり教科書という存在が大きいですね。でも、悲しいことに望むべくもありません。近年「声に出して読む〜」という名文に触れようとという一種の「日本語ブーム」がありましたが、わが「正字旧かな」へは続かないでしょうね。

わたしはあの「格調の高さ」が殊の外好きなのです。現在とこれからの日本にとって不可欠であるという思いが強いだけに悲しい気持ちがあります。

一応、参考意見と云ふことで。

1.正字旧かなには抵抗がありますか?
読む限りでは、ほぼ抵抗はありません。
書くことになると、旧仮名遣ひはともかくとして、
正字は自信がない字が多いです。
パソコンで打ち込む場合、此のやうに、仮名は容易に扱へますが、
変換が難しいため正字は殆ど使用してゐません。
私の周囲の人の意見としては、旧仮名遣ひは読めないことはない。
正字は知ってゐれば読めるけど、読めない文字が多い。とのこと。

2.正字旧かなはなくなればいいと思いますか?
連綿と続いた日本の文化です。
残していくべきものだと思ひます。
もつとも、正字旧仮名も時代と供に変遷してゐるため、
現代仮名遣ひも その変遷の1つとして容認してもよいとは思ひます。

3.2でNoの方はどういう風にすれば後世に伝えていくことができるとお思いですか?
とにかく、ご自身がまず正字旧仮名を使ふことです。
それを見た周囲の人が興味を持つかもしれません。
1人でも使ふ人が居れば、後世に伝へることができます。
公式な文書では難しいかもしれませんが、
(役所の書類を旧仮名遣ひで書いても通ると云ふ事例と、通らないと云ふ事例と両方あるやうですが)
自分自身の覚へ書き(メモ)などに使つてみるのは如何でせうか。

喩へ 現代で廃れても、正字旧仮名で書かれた文書が残つてゐれば、
後世で興味を持つた人が復活するかもしれません。
文字の文化とはそれほどに素晴らしいものだと、個人的には思ひます。

いこあんさん、回答をありがとうございます。

おお、まさしく「歴史的仮名遣ひ」!私めの小さな理想です。

>読む限りでは、ほぼ抵抗はありません。
書くことになると、旧仮名遣ひはともかくとして、
正字は自信がない字が多いです。

正字は台湾の「煩字体」はいいですね。確かに書くには根性入れて練習しなければいけませんが。

>とにかく、ご自身がまず正字旧仮名を使ふことです。

ひぇー(ご無礼をお許しください)!ハードルが少し高い。まともな日本語も綴ることが難しいのに…。でも、そうすることが一番いいのでしょうね。最近でも旧仮名遣いで書かれた新書などが出ています。きっと潜在的な関心はあるのでしょうね。

>文字の文化とはそれほどに素晴らしい

おっしゃる通りだと思います。日本の優れた文化であると。

1.正字旧かなには抵抗がありますか?
若干あります。
私は基本的には読書好きの文系人間なのですが、高校・大学では理系をとりました。
そのため古文漢文教育を最低限しか受けてないのです。
そんな訳で旧仮名遣いの本を手にとっても「…読めないかも知れない」と早々に諦めることが多く、情けなく思っています。

2.正字旧かなはなくなればいいと思いますか?
もちろんそうは思いません。
シェイクスピアなどの古英語で書かれた作品も、イギリス人でも原文を読めない人が多いと聞きました。
日本でも同じ状況でしょうが、古典や旧仮名の書物が専門家だけの物で、一般人は新仮名に「翻訳」された文章だけ読めればいいというのは寂しいですね。

3.2でNoの方はどういう風にすれば後世に伝えていくことができるとお思いですか?
学校で教える時間を増やすというのも簡単ではないでしょうし、難しいですね。

じるすまま(?)さん、回答をありがとうございます。

>若干あります。

ということは元気なときはOKとういう風ですね。

>「…読めないかも知れない」と早々に諦める

正字は面白いですよ。「躯」は「体」、「禮」は「礼」なんて初めて知った時はワクワクしたくちです。

>学校で教える時間を増やす

学校は英語には力を入れますが少し古い日本文化には見向きもしません。口ではいろいろと言いますが。
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回答日時:10/01/23 17:09
回答番号:No.23
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回答

 

回答者:noname#103194 やっかいなテーマでお邪魔します。

「感動する」という表現があります。ネットの辞書には「感動」の説明で

>[名](スル)ある物事に深い感銘を受けて強く心を動かされること。

とあります。

さて同じ音楽を聞いても、同じ絵画を見ても、同じドラマを観てもそうですが感動するポイントは人により違うようです。

私の知り合いで「洋楽のよさが分からない」といって演歌ばかり聴いている人がいます。趣味は人それぞれなのは言うまでもないことです。しかし、ここでは趣味について喋喋しようという意図はありません。

人によって「より深く感動することが出来る」というのは、どうもその人の「才能」ではないか、という印象が拭えません。

このページをご覧の皆さんは「質問タイトル」についてどうお考えでしょうか。

※より深く感動できることができないことより「いい」という前提が質問内容から伺えると思います。それは否定しません。

>人によって「より深く感動することが出来る」というのは、どうもその人の「才能」ではないか

その通り、それは疑う余地のない事です。


道端に落ちている石ころ1つに強く何かを感じる人もいれば、それは‘ただの石ころ’でしかない人もいます。

優れた表現作品(アートなり文学なり)を生み出す‘表現者’に共通する性質、それは、他の人が思いもつかないポイントに強くインスパイアされる・・つまり「心動かされる」という性質がまず不可欠な様に思えます。これは間違いなく、彼等の特筆する才能の1つですね。(勿論それだけではなく、それを形にする能力も不可欠ですが。)

ただ、本当に優れた表現者というのは、表現活動においてパーソナルなものを多分に有するものです。
絵画やドラマや音楽は所詮、よその人に用意された‘感動生成機’でしかありません。「感動する」対象が「絵画やドラマや音楽」でしかない人は所詮、人と似たりよったりなものに感動しているだけの‘凡人レベル’の範囲内でしかないのかもしれません。

るどふぃしゅさん、回答をありがとうございます。

質問の主旨を超える部分で「有意義」な回答をいただきました。この質問の次あたりにご回答の内容に抵触する質問をしようと思っていました。これを「余禄」というのですかね。近いうちにもう少し絞った質問をさせていただきます。

難しく考える必要は無いと思います

感動をするという事をは何かに対してドーパミンが出るということ

ならばあなたの言う才能と言うのは
何に対してどれだけの量のドーパミンが出せるかの違いです

それは才能というか能力だと思います

さかなきらさん、回答をありがとうございます。

ドーパミン、ですか。ドーパミンを出す才能ということですね。

どうもそういった一種の「還元主義」ではとらえきれない魅力を「感動」という現象はもっています。そのことへの質問だったのですが、質問の仕方がまずかったですね。仕切り直しをしたいと思います。
種類:回答
どんな人:一般人
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回答日時:10/01/23 17:08
回答番号:No.22
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回答

 

回答者:noname#103194 創価学会員です。

お盆のもともとの意義についてですが、「盂蘭盆経」という経典に基づいて先祖や故人を供養する「盂蘭盆会」という儀礼があり、これを略して「お盆」と呼ぶようになりました。先祖崇拝の篤い中国では盂蘭盆会が盛んに行われ、それが日本にも入ってきたわけです。しかしながら、仏教の創始者である釈尊は、このような儀礼を説いてはいないのです。後世に作られた儀式にすぎないのです。

盂蘭盆の成立の背景には、仏教が次第に本来の精神を失い形骸化して、僧侶が特権化していったという要因があります。“僧侶が祈らなければ、成仏できない”というように、「故人の成仏には、聖職者の介入が必要である」と、歪められてしまったのです。このような考えは、釈尊の精神に違背し、仏法の本義に反する邪義です。そもそも釈尊は「僧は修行に専念し、葬儀には関わるな」と弟子に命じ、葬儀を在家信徒に任せたのです。自身の葬儀にさえ、弟子が関わるのを禁じました。また、我々にとっての御本仏である、日蓮大聖人もまた、信徒の葬儀を執り行なったり、信徒の死後、戒名を与えたということは、全くありませんでした。

故人を真に追善供養する方法は、大聖人が「今日蓮等の類い聖霊を訪う時法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え奉る時・題目の光無間に至りて即身成仏せしむ、廻向の文此れより事起るなり」と仰せのように、生きている我々が、正しい法(南無妙法蓮華経)を信受し実践する功徳を、故人に回(めぐ)らし向けることです。これを回向(廻向)といいます。我々は毎日の勤行・唱題の時に、この回向を行っています。毎日回向を行うことから、これを「常彼岸」ということがあります。この正しい法がありさえすれば、だれだって故人の追善回向ができるのです。特別な聖職者の存在など、必要はないのです。池田名誉会長も「大聖人の仏法においては、自分自身が御本尊を信じ、仏道修行に励んで成仏することが根本であり、その功徳を故人に回向することが、真の追善供養になる。したがって、毎日の信心の実践が、真のお盆・彼岸の供養の実践になる(常盆・常彼岸)のである」という指導をされています。

とはいえ、仏教には、「随方毘尼(ずいほうびに)」といって、仏法の本義に背かなければ、その地域の風俗・習慣を取り入れても差し支えないという考えがあります。お盆の日に故人を偲んで縁ある人が集い、追善の儀式を行うことを禁じているのではありません。創価学会でもお盆の日に、全国各地の会館、墓園で、諸精霊追善の意義をとどめる勤行法要を開催しています。

のんとろさん、回答をありがとうございます。

>故人の成仏には、聖職者の介入が必要である

宗教改革前のカトリックのようですね。

>仏教には、「随方毘尼(ずいほうびに)」といって、仏法の本義に背かなければ、その地域の風俗・習慣を取り入れても差し支えないという考えがあります。

仏教の許容度が大きいとうことですね。私も仏教は寛容の宗教だと思います。

お示しの
>盂蘭盆経
は『父母恩重経』と同じく中国でつくられた「偽経」ですね。中国人の持っている儒教的な祖先祭祀へのメンタリティーに合わせた「拵え物」です。
それが祖先供養とつながるのは理解できます。

興味深いのは「いない魂」を仏教の行事で呼び寄せる行為ですね。

アイルランドでキリスト教と妖精が同居しているようなものです。

>仏教と日本的祖先崇拝という原始的感情の現実的融合といった妥協の産物なのでしょうか?

おっしゃるようなことではないかと思いますが、他の仮説も考えてみます。

仏教的に「他の生命への感謝」は正しく、よって「祖先への感謝」も正しい。ただし、「祖先への感謝のみ偏重する」のは正しくない。相当な暇(論理性の蓄積)が受ける側になければ、ここら辺を説明するのは難しい。よって、生産性や国民的論理性の限界による妥協の産物なのではないでしょうか。

にきさん、回答をありがとうございます。

>おっしゃるようなことではないかと思います

この件について「論理的破綻しているじゃないか」とかケチをつける気は一切ありません。破綻してようがしていまいが連綿と続けられる伝統行事は厳としてあり、必要があるから続いていると思います。

「他の仮説」も興味深いものでした。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 17:07
回答番号:No.21
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回答

 

回答者:noname#103194 教カテがないのでこのカテをお借りします。

本日は全国の大部分で「迎え盆」ということで祖霊を迎える行事が行われるとのことです。

引用:AllAboutから:​​http://allabout.co.jp/family/ceremony/closeup/CU20010801A/​
●いわれ
お盆は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」を略したもので、旧暦の7月15日を中心に行われる先祖供養の儀式で、お正月と同じく重要な行事の一つとされています。先祖の霊があの世から戻ってきて、また、天に帰っていくという日本古来の信仰と、仏教の行事が結びついたものです。

>>>参考
盂蘭盆会:釈迦の弟子であった目連が死んで地獄に落ちた母を、釈迦の教えによって僧侶に食べ物を施し、供養する事によって救う事ができたという言い伝えによるものです。つまり地獄におちて苦しんでいる霊を救うために供養を営むことです。

ここで質問をします(初歩的で済みません):

仏教では死亡した方の「魂」は中陰を経て「転生」するのではないでしょうか。祖先の「魂」も然りでしょう。つまり亡くなった方の「魂」は、中陰にあるか転生したか、あるいは成仏しかたの三パターンではないのでしょうか。

仏教の教えでは「魂」は「呼べど叫べど」戻ってくることは「ありえない」ことになるのではないでしょうか?

祖先祭祀は儒教のもつ「宗教性」の考えだと思います。では、なぜ仏教で「いないものを迎える」行事を大真面目に行っているのでしょうか。

仏教と日本的祖先崇拝という原始的感情の現実的融合といった妥協の産物なのでしょうか?

仏教の教えでは「魂」は「呼べど叫べど」戻ってくることは「ありえない」ことになるのではないでしょうか?

こういう考え方が正しいのであれば先祖供養などはまったくの詐欺でしかなくなりますね。
仏教でも先祖供養を肯定しているということは霊魂もお盆の時期に子孫に会いに来るからなのでしょう。地獄の釜の蓋もお盆の時期に開くとも言われてますね。
仏教といえども三パターン程度の解釈もあれば中国の天台チギのように三千世界もあれば空海上人のように十住世界のように様々ですね。
多様な世界に住んでいるのであれば転生輪廻も多様な世界からこの世への輪廻になりますね。昔の偉い坊さんは三パターンとは言ってないんですね。まあ、昔から面々と続いている行事には後代の下手な解釈にまさるものがあるということですね。
むしろ行事が正しくて解釈が間違いということもあるのですね。
また霊的世界は目に見えない世界ですから安易な解釈が蔓延していることも事実ですが、仏教はちょっと理解できないような難しい部分があるのですね。その部分に先祖供養は引っかかっているというだけです。
あの世の霊人もあの世の人生があるので子孫になどかまってられないんですね。そこで1年のある時期、お盆の時期だけ会いに来るということなんです。これは世にいう成仏した霊ですね。成仏してない霊は地上を徘徊したり、地獄にいますからたまには供養してあげないといつまでも成仏できないんですね。そういういろんな境涯の先祖霊がいますから先祖供養も複雑なんですね。

みみきいさん、回答をありがとうございます。

>先祖供養も複雑なんですね。

複雑なのですか。それは大変ですね。よく知らない人間にとっては

何でもあり

という印象です。複雑でも複雑怪奇の方でしょうか。問題は宗派・名僧によって考え方が違うということですね。

>仏教でも先祖供養を肯定しているということは霊魂もお盆の時期に子孫に会いに来るからなのでしょう。地獄の釜の蓋もお盆の時期に開くとも言われてますね。

輪廻転生しているというのが教義でも、先祖の霊魂も例外なく転生しているということはないのですね。いまだに霊魂が子孫に会いに来る、という部分が引っ掛かります。

>昔から面々と続いている行事には後代の下手な解釈にまさるものがある

そう。だから少しやっかいなのですね。

んーー

神仏習合。
これは民間信仰と仏教が合体したもの。

どの時代だったか忘れましたが、神仏習合をした時代があって、日本の仏教は民間信仰と合体しているんです。

祖先供養をする習慣があったので、供養という意味合いでお盆の行事が決まっていったんじゃないかと。

仏教では違うとしても、地元の祖先供養の気持ちは強く、布教が成功したのは、人々に祖先を祭り自分の存在は祖先がいてくれたからこそだという古代からある感謝の気持ちを、大事にしたからじゃないかと。


キリスト教がはやらなかったのは、祖先供養を否定したこと。
<祖先じゃあない。 俺達の神様のお陰だ>としたので、信者を獲得できなかったという歴史があります。

仏教は祖先を否定しなかったので、スムーズに日本に入ってこれたんじゃないかと。

きぐるみさん、回答をありがとうございます。

>日本の仏教は民間信仰と合体しているんです。

霊魂についての見方・考え方は「宗教の根本」ですよね。
そこを「曖昧」にし、現実の勢力伸長のためにその土地に習俗に合わせて「妥協」するのは何のための「教え」なのでしょう。
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回答日時:10/01/23 17:05
回答番号:No.20
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回答

 

回答者:noname#103194 これは哲学的に答えろってことですか?
般的に?倫理的に?

僕はもたらさないと思う。
つまり歴史的に見て多数派は常に被支配層であった。
つまり彼らは常に体制の変換を求めている。
善を求めているのではなく自身の利益を求めている。
単純なので外国勢力などにとっての駒にもなりやすい。
原理が善かどうかは場合による。少なくとも個々にとっては
善であったり悪であったりするだろう。
おして同じような方法論でも賞賛や非難は結果による。
結果はさまざまな要因によるから
「最大多数の最大幸福はどちらかに常にかたむく」こともない。
歴史上、チャーチルは勝ったが、風向きによってはヒトラーが勝っていた、と言うこと。

多数決は一種の妥協案であると思います。
株式会社でも発言権は株数によるので↑にはよらない。
また非株式会社、またはグーグル方式に見られるように独裁的
企業でも成功してる場合もある。

アメリカ下院や中南米選挙に見られるように純粋なケインズ主義は
かなり偏った政策立案を産むと言う弊害を生みやすい。

これは哲学的に答えろってことですか?
般的に?倫理的に?

僕はもたらさないと思う。
つまり歴史的に見て多数派は常に被支配層であった。
つまり彼らは常に体制の変換を求めている。
善を求めているのではなく自身の利益を求めている。
単純なので外国勢力などにとっての駒にもなりやすい。
原理が善かどうかは場合による。少なくとも個々にとっては
善であったり悪であったりするだろう。
おして同じような方法論でも賞賛や非難は結果による。
結果はさまざまな要因によるから
「最大多数の最大幸福はどちらかに常にかたむく」こともない。
歴史上、チャーチルは勝ったが、風向きによってはヒトラーが勝っていた、と言うこと。

多数決は一種の妥協案であると思います。
株式会社でも発言権は株数によるので↑にはよらない。
また非株式会社、またはグーグル方式に見られるように独裁的
企業でも成功してる場合もある。

アメリカ下院や中南米選挙に見られるように純粋なケインズ主義は
かなり偏った政策立案を産むと言う弊害を生みやすい。

回答をありがとうございます。また「お礼」が遅くなりました。

>多数決は一種の妥協案であると思います。

他に見つからないから、ですね。

>株式会社でも発言権は株数によるので↑にはよらない。

「株主総会」のことでしょうか。「株主総会」は普通会社のシナリオにそって進みますから「多数決原理」の例としては適切さを欠くのでは?

>純粋なケインズ主義

これは少し勉強してみます。参考にします。

ここに12人います
そのうち5人はAがよいと言う
また別な4人はBがよいと言う
残りの3人はCが良いという

多数決しました

5:4:3

Aを初めから推していた人は5人、それ以外は7人。
最終的な結果だけ見ると、Aを望まなかった7人のほうが
多くなってしまっている。このようにアンチAである'多数派'が
負けることが現実に起こりえます。

-----------------------------------------------------------
1.最大幸福という点ではこのケースは一応もたらしている
 と言えるかもしれない。ただ重要なのはこのケースの様に
 "幸福である人数が必ずしも多数派とは限らない"ことである


2.最善策かどうかについて。
 
・人数多いとこ勝ったから仕方なくこれにしよう。しかたなく
 それを最善の策としましょうと考える。こうすればそれは
 最善の策だったと言っていいでしょう

・A勝ったけど、BもCもやっていこう。そうすればAだけやるより
 最大幸福をもたらすだろう。と考えるなら多数派の意見に従う
 というのが最善策とは言えなくなるかもしれません。

これは場面ごとの使われ方次第です。つまり臨機応変にルールを
変えていく(多数派だけ勝利というルール)ことが最大幸福だと
思います

総括すると1はもたらしていない、2は最善でないと私は思います
 

をありがとうございます。

>最終的な結果だけ見ると、Aを望まなかった7人のほうが
多くなってしまっている。このようにアンチAである'多数派'が
負けることが現実に起こりえます。

これについては普通「決選投票」という手段を用いますから「一般論」の論拠とするのは無理があるのではないでしょうか。

ですから「決選投票」では

>"幸福である人数が必ずしも多数派とは限らない"ことである

は「言えない」ということになりませんか。

>臨機応変にルールを変えていく(多数派だけ勝利というルール)ことが最大幸福だと思います

つまり静的でなく動的な運用が「最大幸福」であるということですね。しかし、一回「決」をとれば「その時点では最大幸福」であるということですから

>2は最善でない

の論拠も崩れることになりませんか。
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回答日時:10/01/23 17:04
回答番号:No.19
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回答者:noname#103194 >人間集団内の合意形成や方針決定では、対立意見があった場合
つまり人々の日常的な意思を決定する状況で考えればいいんですよね。そのような時ってほとんどが、自民か民主か。とか、死刑廃止か継続か。のように竹を縦に割ったような「AかBか」ではなくて、例えば
夏休み仲間達と海か山に遊びに行こうと計画。海派2、山派2、どちらでもない派が4いたとします。
どちらでもない人は、みんなどちらかといえば山派。理由は泳ぎたくないし水着になるのも嫌だから。でも山は虫がいるからそんなに行きたくもない。という場合、海派はそれなら泳がなくても楽しめるようにバーベキューもしようとか、海の時間を減らして市内巡りをしようといったように、みんながより望む意見に変えていくことができます。

多数決がもたらしているのは最大幸福ではなく、最多幸福(?)。多数の人が利益を得られることです。そのためにみんなで薄く広く利益を分け合うというのが本質でしょう。
最大幸福を得たいなら、最小であるべきだと思います。
「僕はあれもしたい。これもしたい。そのあとこうして欲しい。それが僕の最大幸福だ」などといってもほとんどの人が賛同してくれないはずです。
賛同を得るためには望むことを絞っていかなくてはなりません。多数の賛同を得るためにはもっと絞っていかなくてはなりません。最大幸福を得たいなら、突き詰めれば独裁であるべきです。
人によっては多数派にいるということが最大幸福と感じているような人もいる気がしますので、そういう人たちは例外ですが。

というわけで、多くの人が薄く広く利益を得られるという意味ではいい策だと思います。多数派の中核が一方的に利益を得られないように、賛同するかわりに条件をつけて釘を刺すことだってできます。独裁では無理なことです。
ただ、歴史を振り返ればいくらでも例があるとおり、多数派は間違わないということもありません。これよりいい方法が私には見当たらないので、そういった意味では最善かもしれませんが、とても最高とは言えない。といったところではないでしょうか。

回答をありがとうございます。また「お礼」が遅くなりスミマセン。

>これよりいい方法が私には見当たらないので、そういった意味では最善かもしれませんが、とても最高とは言えない。

おそらく最多の方々に支持される意見でしょうね。

>みんなで薄く広く利益を分け合う

これが「多数決」が採られている背景ですね。

No.1ですが

決選投票だろうが最多票が勝つルールだろうが同じです。
決選投票で最終的に過半数などの規定以上で可決されたとしても
それは初めに他のところを支持していたが、決選投票
だからしかたなく選んだという妥協があります。
必ずあると私は思ってます。


そもそも1回で過半数が決まるならわざわざ決選投票なんか必要ないですし、1回で決まるならば"幸福である人数が必ず多数派"となるといっていいと思います。

しかし妥協させてでも1つに案をまとめるというその
「決選投票」というシステム自体が
"幸福である人数が必ずしも多数派とは限らない"こと
だと思うのですがどうでしょう?




2つめの
>一回「決」をとれば「その時点では最大幸福」であるということですから

確かにそれはもっともです。しかし
私は決があった現在においての幸福や最善かではなく、その後の
未来においてその決が最善だったんだろうかと振り返るのが自然
だと考えています。


5人いて帰り道に
右の道と左の道どっちか決めて

右に多数決されて進んだとき、車が突進して5人死亡
これは最善だったのでしょうか?

未来にこういう結果が起きると左にしとけば って思いますよね?
選んだとき多数だからその時幸福で最善というのはちょっと
短絡的だと思うのですが。

再びの回答をありがとうございます。また「お礼」が遅くなりました。

>決選投票だからしかたなく選んだという妥協があります。

そうですね。この「仕方なく」というのがポイントですね。

>しかし妥協させてでも1つに案をまとめるというその
「決選投票」というシステム自体が
"幸福である人数が必ずしも多数派とは限らない"こと
だと思うのですがどうでしょう?

その可能性は大きいと思います。

>選んだとき多数だからその時幸福で最善というのはちょっと
短絡的だと思うのですが。

「決定時」と「その結果」を絡めるとおっしゃる通りでしょうね。
ただ、ネガティヴな例示では「そうなる」のは当たり前のような気がします。
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回答日時:10/01/23 17:03
回答番号:No.18
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回答者:noname#103194 再度の回答をありがとうございます。

>たちの悪い人間ほど増えるとすれば、それらの「最大幸福」を考えること自体がどうなのか?

性質が悪くても一人一人が基本的人権を尊重された「個人」ですからね。そもそも「多数決原理」はそういった「性質の悪い人間の増加」を想定していないでしょうね。

>原理と呼べるのでしょうか?

ここでは「多数決」を「意志の統合」とみなす「決定原理」として使用しています。「最大多数の最大幸福」は原理とは呼べませんね。

1:
選ばれた最大多数の事象の質によってだと思います。
多くの人が、自分大の意向や考えでなく、問題全体を総体的・客観的に考えた上で、その問題が良い方向に導かれるか、問題の根を摘むことが出来るかなど、大きく広い視野での捉え方をした答えであるかに左右されるのだと思います。自己否定はなくても、多数派の一人一人が、自己の満たされる意見云々でない、抑制を効かせて全体が幸せになれるかどうかを基に支持したなら、その決は、多くの人の理解あるものになると思います。

2:
最善の策とは、言い難いと思います。
個人個人の価値観が違う上に、普通という基準さえ曖昧だからです。
常識と言う最低ラインの物事を受け入れるのは、社会生活での必然ですが、人として生きる以上は、思想・目的・表現などに主観を持ち、自由でいて然るべきだと思います。

回答をありがとうございます。また「お礼」が遅くなりました。

>選ばれた最大多数の事象の質によってだと思います。

多分お示しの内容を「理想」とする背景があるのでしょう。

>最善の策とは、言い難いと思います。

そうでしょうね。自分の意見が受け入れられなかった人からすれば「最善」でないのは当たり前。しかし、それに勝る「決定原理」がない以上、やむなく従っているのが現状、ということですね。

 一般に、欲の強い人、野心の強い人ほど、他者に強く働きかけると思います。反対に、無欲で、満たされている人ほど自分ひとりで満足しているので、他者に働きかけない。

 もしそうだとすると、強く希望したり、強く望んだが故に実現したことがあるとすれば、それは良くの強さから生じた結果であろうから、ますます貪欲な人間が得をし、無欲な人間が行きにくくなる社会になる と言うことも出来ますね。

 しかし、一揆のような本当に民間レベル、底のレベルから沸き上がる 動きであれば、最大幸福をもたらすのではないか。

 例えば、群れている魚がいっせいに 向きを変える映像をテレビなどでも見ますが、そのように、全体の意思が反映されるなら、全体としての種の保存、存続においては間違った方向に行かないだろうと思う。

 これを人間社会にも実現させるには、ネットワークシステムをどのように有効に活用するか。これしかないだろうと思われますが。

回答をありがとうございます。また「お礼」が遅くなりました。

>ますます貪欲な人間が得をし、無欲な人間が行きにくくなる社会になる

ここから「社会的矛盾や問題」が多く発生するのでしょうね。

>民間レベル、底のレベルから沸き上がる 動きであれば、最大幸福をもたらすのではないか。

ここの「見極め」が難しいでしょうね。
一揆といえば、学生のころのイメージは、苛斂誅求の支配階級に対する被支配階級たる農民他が「命をかけて」蜂起するというものでしたが、実は農民の方も「命をかけるまでもない」ということで結果を見越した賢い動きをしていたと最近知って感心しました。

>ネットワークシステムをどのように有効に活用するか

「多数決原理」に勝るシステムがあるのでしょうか。
種類:回答
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回答日時:10/01/23 17:02
回答番号:No.17
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回答者:noname#103194 人間集団内の合意形成や方針決定では、対立意見があった場合

1.賛否両論の主張をする
2.合意点・一致点が制限時間内に得られない
3.多数決による「決」をとる
4.少数派もその「決」に従う

という手続きが一般的だと思われます。

この場合「多数派工作」をした側が、自分たちの主張が通るわけですから現実社会では有利になり、決定後の新ルール(制度)の恩恵を受けることになります。

1.その「最大多数」の選ぶ「決」は常に(または大抵)「最大幸福」をもたらしているのでしょうか?

2.その原理は人間の持っている最善の「策」なのでしょうか?

多数決は必ずしも最善ではないというのは、既に明らかになっています。

この点について、例えば、投票のパラドクスや、アローの不可能性定理を参照してください。簡単にいえば、上位○の選択肢にしか投票できないというシステムそのものが問題なのです。


横レスですが、

> これについては普通「決選投票」という手段を用いますから「一般論」の論拠とするのは無理があるのではないでしょうか。

決選投票の対象となる選択肢の中に、「最大幸福」の選択肢が残るとは限りません。したがって、決選投票の有無はそれほど影響を与えません。

また、決選投票自体がそれほど行われるわけでもありません。

回答をありがとうございます。また「お礼」が遅くなりました。

>投票のパラドクスや、アローの不可能性定理を参照してください

おお、ありがたい示唆です。

>決選投票の対象となる選択肢の中に、「最大幸福」の選択肢が残るとは限りません

それが「最大幸福」でないと決めるのは「誰」なのでしょうか?

>決選投票自体がそれほど行われるわけでもありません。

そうなんですか?まあ、「決定方法の採択」に依存しますからね。

「多数派」の考えは最大幸福をもたらすか?

絶対の答えがあれば、それをやればいいと思いますが、
今のところ、集団の意見から1つの決断を決めるのは、多数決のやり方ということでしょう。
 しかし、絶対の幸福ということではなく、「意思決定」というところまでです。
 多数決で戦争にもなりますし、多数決で平和もできます。
ですから、集団の意識レベルで結論は変わってくるでしょう。
 ですから、集団では、平均した意見が多数ということでしょう。
 ですから多数決で平均の意見を選ぶということでしょう。

回答をありがとうございます。また「お礼」が遅くなりました。

>集団では、平均した意見が多数ということでしょう。
多数決で平均の意見を選ぶということでしょう。

「平均の意見」は実態が見えないのが怖いですね。極端な話し、100人がテストを受けて平均点が50点とします。実際に50点を取っている人がいない場合、この50点は「統計的数字」ということになり、数字の解釈が問題になってきます。

「平均の意見を選ぶ」のは常に危険が付きまとうのかもしれません。

考えたことを、忘れないように勢いのまま打ち込むので、誤字が多い。

 それは良くの強さから生じた結果であろうから、

⇒それは欲の強さから生じた結果であろうから、

 無欲な人間が行きにくくなる社会になる

⇒無欲な人間が生きにくくなる社会になる

1.魚でも、動物でも下等生物ほど多く子供を産むことを考えると、たちの悪い人間ほど増えるとすれば、それらの「最大幸福」を考えること自体がどうなのか?

2.原理 とは ―事象、活動、運動などを成り立たせるもっとも基本的な法則のこと―  ということでよろしいですか?だとすれば、最大多数の最大幸福は、原理と呼べるのでしょうか?
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回答日時:10/01/23 17:00
回答番号:No.16
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回答者:noname#103194 回答をありがとうございます。

>改良どころか改悪される

そうなんですか。わたしは登録は少し前ですが意識しだしたのは最近ですから、長く使っていらっしゃる方のご意見はありがたいです。

>専門家がいなくなった

コンサルタントで儲かる世の中でですからね。大衆化が平均化を促した、というところでしょうね。そういった本当のプロが集まるサイトが「いいサイト」といえるかもしれません。

>無料Q6Aサイトが廃れ、専門家ニーズが増す

無料と有料での使い分けになるかもしれませんね。

お礼ありがとうございました。

私のプロフィールを見ていただくと、お分かりになると思いますが
私のID取得は2001/09/21ですので丁度8年前ですね。

その頃からの変化としては、、

1.参加者が増えた事。
2.知の巨人のような詳細な専門的な長文回答をしてくる回答者が
 何人かいらっしゃったのですが、、今は1人もいなくなった事。
3.画像、動画が投稿できるようになったこと

ぐらいです。

ですので、、この先10年もあんまりは変わらないと思います。
ただ、10年前はネットでこれほど動画が扱われるなんて夢にも
思いませんでしたから、、今は想像できないけど10年後には
ネットで当然になるようなものは導入されていると思います。

ぐらいです。。

再びの回答をありがとうございます。

>私のID取得は2001/09/21ですので丁度8年前ですね。

おお大先輩!

>知の巨人のような詳細な専門的な長文回答をしてくる回答者が
 何人かいらっしゃったのですが、、今は1人もいなくなった事。

そんな方がいらしたのですね。一度遭遇しみたかったですね。利用者の増加と関係があるんでしょうかね。

データベースとして蓄積と整理が進めば「ありきたりの疑問」には「良回答」がずらりとファジー検索で並べられて、リアル回答者の出る幕がなくなるかもしれませんね。それも進化かな。

10年前と大して変わってないんで、10年後も大して変わってないと思うよ

荒らしや中傷等の規約違反については迅速な対応になってるかもね

>>一般的に利用者が増加すれば「利便性の高まり」と同時に「トラブルも増加」します。

その話はどこのサイトも同じ立場ですし。
どーでしょうかね。すでに爆発的な増加期は越えて円熟期に
入っていると思うので、新機能を追加しながらゆるゆる生きていると
思います。
物を知りたいという人間の欲求は無限なので、そういう意味では
ニーズはなくならないですからね
種類:回答
どんな人:一般人
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回答日時:10/01/23 16:59
回答番号:No.15
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回答

 

回答者:noname#103194 回答をありがとうございます。お礼を充分尽くせなかったのが心残りでした。

>Q&Aサイトにはコアなニーズがあり、10年後も廃れることはない

おっしゃる通りですね。第一に手軽ですものね。

>深刻なメンタル上の問題を抱え、誰も相談できる人が側にいないとき、このサイトは力になり得る

わたしもそれは感じています。誰にも相談できないから「匿名サイト」を利用している。このサイトのすぐれた点ですね。

>それに関する質問がスーッと来なくなり、私はやることが無くなってしまいました

積極的に利用している方にしか分からない変化ですね。貴重なご意見です。

>IPによる管理は避けられないのではないか

その方途になるか有料化への道ですね。例えば1登録300円としていわゆる「捨てアカ」を利用している者はアカウントごとに×300円の出費ということになりますから根絶な無理としても一定の「抑止効果」は期待できるかもしれません。また、日本人の感覚で「水と空気はタダ」という感覚から「便利なものは有料」という変化の波がいつか来るでしょうね。有料でも「著作権放棄」は死守するでしょうね。

利便性と快適性が高まるのは結構なことですから運営サイドにもがんばってもらいたいですね。

私は、このOKWaveと知恵○を利用しています。
それを比較すると、こちらの方がはるかに削除基準が厳しいため、比較的秩序が守られています。
知恵○は、2チャンネルと勘違いしているほどの荒れようです。

また詳しくは知りませんが、教えてgooプラスができて専門的なことを質問できるようになったみたいです。
はてな人力検索では、ポイントを換金できるみたいですし。

このように棲み分けがさらに広まると思いますから、ここはそれほど荒れないのではないでしょうか。
(つまり、同類項の人たちが集まるようになる)

さらに検索サイトとも関連しますが、利便性ではキーワードからより的確な回答が得られる、何らかの仕組みもできてくるのではないでしょうか。

回答をありがとうございました。

>キーワードからより的確な回答が得られる、何らかの仕組みもできてくる

これは初心者にはありがたいですね。でも初心者は(わたしも含めて)自分の疑問のありかをうまく伝えられないものでしょうね。いくつかのキーワードを並べれば、ファジー検索で的確な回答を絞り込めるような機能があればいいでしょうね。データベースが巨大化すれば検索ツールも進化させないと「巨大な森の中で迷う」ことになりかねませんからね。

回答をありがとうございました。

>キーワードからより的確な回答が得られる、何らかの仕組みもできてくる

これは初心者にはありがたいですね。でも初心者は(わたしも含めて)自分の疑問のありかをうまく伝えられないものでしょうね。いくつかのキーワードを並べれば、ファジー検索で的確な回答を絞り込めるような機能があればいいでしょうね。データベースが巨大化すれば検索ツールも進化させないと「巨大な森の中で迷う」ことになりかねませんからね。
回答良回答20pt
回答者:Scotty_99 私は教えてgooを利用して7年以上経過するものです。

教えてgooの成長をつぶさに見てきました。

1.改良どころか改悪される

教えてgooではページビュー数を増やすためにしょっちゅう改悪されます。たとえば、ログイン画面が増えたり、マイページ画面が増え、質問回答履歴に直接いけなくなったり、新着質問一覧でページを見るときに1ページづつ見ていかないといけなかったり。ふつうは利便性が向上するのですが、どんどん利便性が悪くなります。このサービスは珍しいです。

2.専門家がいなくなった

以前は本物の専門家がいて私も仕事上のリーガルな質問をたくさんし、答えて頂いてました。kyaezawaさんという人は経理、法律のプロの方のようで何度も指導してもらい、私は会社経営者になれました。しかし、いまはどのカテゴリーにもそういう専門家が不在です。おそらくOkwaveが専門家に頼んでいたのかも?そういう専門家もありがとうポイントなるポイントじゃやってられないので退散しました。

かくいう私も会社設立、経理のプロとして回答すればよいのでしょうが、なんのメリットもないんで回答しません。お金払うべき問題はお金を払いましょうというスタンスです。こういう当たり障りない質問のみに回答するようにしています。無料で書き込みすればするほど儲かるのはOkwaveですから。

3.Okwaveの売上げ

こんなメジャーQ&Aサイトですが、なんと売上げはたった15億円です。10年経て、ページビューを増やす改悪も繰り返した挙句、15億円しか年商がありません。サイバーエージェントは800億円。Yahooは3000億円です。ネットイヤーという無名企業ですら30億円あります。

しかも上場先がセントレックスなるマイナー市場。この先、Okwaveに未来はないと思います。後発のYahoo知恵袋が一気にOkwaveを抜きました。

原因はOkwaveに質問してもなんの解決もしないことだと思います。これは本当に役立つ回答がされなくなったことに起因するでしょう。また、せっかく役立つ回答をしても報酬がなければ回答する人も減ります。いまはこちらに書くくらいなら自分のブログに書いてアフィリエイトや情報商材で稼げる時代です。ある有名情報商材のおじさんいわく、教えてgooを読んで、情報商材を作りあげるとまで言われています。つまり、質問の回答をわざわざこちらで書かないで情報商材として製作し、1万円で販売するのです。回答にはそのくらい価値があるときもあるのです。

さて、10年後ですが、無料Q6Aサイトが廃れ、専門家ニーズが増すと思います。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 16:58
回答番号:No.14
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回答

 

回答者:noname#103194 一般的に利用者が増加すれば「利便性の高まり」と同時に「トラブルも増加」します。

このまま利用者が増えていくと、このQ&Aサイトはどうなっていくと思いますか。10年後を予想してください

専門性を備えた回答者様が減っている。
そういった質問も減っている。
両者は、
片方は答え甲斐のある良質問に巡り合う機会を得ることが以前より困難になっている。
片方は幾ら高等な質問をしても答えが返ってこない。
つまり満足度納得度が落ちてきている。
本当に良く考えた上でのどうしても分かりません的な質問が減っている。
最後のお社は随分温めになってきている。

失礼します。

10年後の予想ですが、

有益なデータベースに成長している、または、

無益な、荒れに荒れた、掲示板になっている。

どちらか、両極端の状態になっていると、思います。

利用者、運営スタッフの努力しだいということです。

聡明な、質問者様であれば、有益なデータベースに成長させるための、
行動も起こせるのではないでしょうか。

わたしは、この後、退会いたします。それでは。(びーすぷらっしゅ)

先日はお世話になりました。元「いいいいい」です。

まず、こういったQ&Aサイトにはコアなニーズがあり、10年後も廃れることはないだろうと思います。また、ここの特徴として、Yahooにはない複数回答(お礼)が可能であるところも貴重であり、それも廃れないであろうと思います。

私がここを利用するきっかけとなったのは、Webプログラミングをしていて、分からないことがあった時、ネット検索を入れると、ことごとくここのQ&Aが引っかかり、時にはそれが劇的な解決に結びついたということです。変化の早いITの世界は、関連書籍の出版やドキュメントの発表、またはそれの日本語化が追いつかず、こういったQ&Aサイトがないと立ち往生してしまいます。

視点を変えて、メンタル系のカテゴリなどは、私も良く書き込みましたが、回答者が何度も書き込まなければ解決には結びつきません。そして、匿名性のもたらすメリットとして、そういった方が気軽にここに相談できるということです。本当に深刻なメンタル上の問題を抱え、誰も相談できる人が側にいないとき、このサイトは力になり得ると思います(私が関わったのは、主にご家族の方でしたが)。
そこで私は、メンタル系で得意な分野につき、できるだけ正確で詳細な情報を書き込み、検索を加えることや、自分の履歴を参照することから、その問題については、ここに接すれば解決する、という環境を整えてみようと試みたことがあります。そしてそれはそれなりに成功したと考えています。私がその試みを行ってからしばらくすると、それに関する質問がスーッと来なくなり、私はやることが無くなってしまいました。

上記の事を考え合わせると、そういった利便性を持つこのようなサイトが廃れようはずもなく、統廃合は分かりませんが、必ず存在し続けるでしょう。

その上で、利用者が激増した場合の対処として、IPによる管理は避けられないのではないかと考えています。つまり、利用停止はIPに関して行われ、利用停止を受けたものは、そのIPアドレスからはIDを取得できない。というような(あくまで「というような」)制度が導入されざるを得なくなるのではないかと考えています(同一メルアド拒否でも一定の効果はあるでしょう)。

結論として、IP管理(のような)手法の導入などの利便性の減殺と引き替えに、「荒らし」的な行為が劇的に増殖することが避けられ。加えて、「教えて!goo」の持つ、データベース性と、質問者・回答者間の相互性は維持・ないしは改善され(ここは改悪されないだろう)て行き、結局は、10年後のIT環境を当然に含ませながら、社会的には、なんとか今のような立ち位置を維持している。という感じだと思います。
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回答日時:10/01/23 16:57
回答番号:No.13
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回答者:noname#103194  目を瞑るでしょうね、よく分かりませんが雰囲気第一主義者はおそらく目を瞑ります。心地よくさせて頂いた分嘘が入っていてもそれは悪意がないからOKということになるでしょう。この手のタイプは外形的認識と主体性とがごっちゃごちゃになっているタイプで自分の感性もしくは自己感性に規律正しい存在に対してはマイナス次元をチャラにします。
 そうすることによって感性の認識を外形と順同化させようとします。ここで他の人が声を挙げたとした場合その人は空気を破壊した不貞野郎という目で見る人が出てくるということになると思います。この「不貞野郎」と見るかどうかが感性の違いになります。例えば本当に異常な侮辱的な発言があるとか過激になって争いが起こるとかそのようなレベルにまで抑制するなとは言いませんが悪意もなく指摘をしたという事実を「不貞野郎」と取るか「指摘」と取るかによって大分その場の空気というのは違いを見せるのではないかと思います。なのでおそらく>「実話」と銘打たれている「作品」が創作であったとしても、「感動」を与えてくれたものであれば「実話でない=ウソ」の部分には目をつぶる、非難しない、ということがあるとしたら「感動という見返り」があったから<なのでしょう。空気の研究という本があるのですがそこである会社の仲間は助けて目の前で他の人が倒れていても助けなかったという事実があります、これは一人だけ別行動を取ると処罰されるという恐怖から目の前で人が倒れていても助けられなかったという一文です。「嘘だろ?」と思いましたがそこまで空気というのは絶対性を秘め主体性にとっては命と同等の価値があると思い込むのでしょう、空気は絶対です空気から逃げ出すことは無理ですし空気がなければ我々は心地よく生きていけません、しかし時と場合によってはそれを一時切り離し判断しなければならない場合があるのではないかと個人的には思います。


経験で言うなら逆だと思いますね。

感動した分裏切られたと思うんじゃないでしょうか。

目をつぶるとしたら、最初から興味がなかったと思います。

ただし、目をつぶってもいいだけの小さい悪さである事が前提ですが

回答をありがとうございます。

>感動した分裏切られたと思うんじゃないでしょうか。

もちろんそれもありますね。しかし「感動したから、ま、いいか」もあると思います。

>目をつぶるとしたら、最初から興味がなかったと思います。


回答をありがとうございます。

>完全に実話とシンクロしていなくても、誠意があり、又作品として素晴らしければ、作品として感動します。作品に対して感動します。

要は実話にまつわる「公正さ」よりも「誠意と作品としての素晴らしさ」を取った方がいい、ということですね。

>作品とは作った品ですから。作りモノなのです。

ここに辿り着くのでしょうね。
すると、作りものを素朴に「へぇー、そうだったんだ。実際にあったんだ、知らなかった!」と信じてしまう方々は「実話をもとにしたと称する作品」のよい鑑賞者ということですね。
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回答日時:10/01/23 16:56
回答番号:No.12
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回答者:noname#103194 「ウソ」はいけません、と親にも学校にも教えられます。なるほどを思い大きくなります。

すると世の中には「ウソ」と「マコト」も「その中間」もあると知ります。
また「よくできたウソ」というものもあります。

この「よくできたウソ」は実害があれば「ダマシ」ということで処罰されます。しかし実害がないどころか感動を与えるような創作は「名作」と言われ名誉を与えられます。

ここからが質問です。
では、「実話」と銘打たれている「作品」が創作であったとしても、「感動」を与えてくれたものであれば「実話でない=ウソ」の部分には目をつぶる、非難しない、ということがあるとしたら「感動という見返り」があったからでしょうか?

具体的な作品名も挙げられますが「非難」「同意意見の募集」が目的ではないのでご自身の経験の範囲でお答えください。

個人的な「想い」を、追加させていただきます。
まもなく公開される「ココ・シャネル」に興味を感じています。
ココ・シャネルは自己愛性人格障害(的)であっただろうと、指摘する専門家がいるのです。
そんなココ・シャネルを、どのように作品として表現するのか、大いに気になるのです。

「ココ・シャネル」という一人の人間。とてつもない幅があると思います。
作り手たる人間から見た、人間たるココ・シャネル。その存在の大きさは、無限大に近いでしょう。
どちらも同じ人間なのですから。
よってどこかを切り取るしかないと思います。
どこをどう切り取ってどう描くのか、個人的に作品として大いに興味を感じています。

「作品」ということなら尚更、完全に実話として作ることが、そもそも不可能です。
写実絵だって作り手が介入します。写真ですら露出とか光の当て方とか、
全体からどの部分をどういう構図で撮るか等で、作り手が介入します。
作り手が介入するからこそ「作品」なのです。

或いは歴史モノなどなら、作品ができた後に新事実が発覚することだってあります。
他にも様々なことが考えられます。
そもそも、誰かが誰かを完全に理解すること自体が、不可能なのです。
完全に相手に何もかも分かって貰おうというのは、甘えです。
究極的には、人間は一人です。
ということは、100%完全に外界に自分を投射することはできないのです。
それだけもう、完全な実話など有り得ないことが分かります。
「あの人は心でこう考え、それによってこういう表情をした」というモノを作っても、
本当にそうなのか確認し切れない場合が殆どでしょう。
完全な実話を作れない理由というのは、枚挙に暇がありません。

確かに不誠実な作品というのはあります。
作品である以上、完全に実話として作ることはできないということを
逆手に取ったような、そんなモノもあります。
その場合は、感動は醒めます。
しかし完全に実話とシンクロしていなくても、誠意があり、又作品として素晴らしければ、
作品として感動します。作品に対して感動します。

完全に事実を伝えることではなしに、事実に基づいて「別の何か」を表現するのが「作品」なのです。
作品とは作った品ですから。作りモノなのです。
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回答日時:10/01/23 16:55
回答番号:No.11
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回答者:noname#103194 以前はよく教育現場で使用されていた「ツール」に「エビングハウスの忘却曲線」というものがありました。↓参照ください。

参照;
​​http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%98%E5%8D%B4%E6%9B%B2%E7%B7%9A&a...

エビングハウスの実験は3文字の無意味「文字列」(たとえばzit,kokなど)の中期記憶にかかわるものでした。

お粗末なことに教育現場ではこの曲線をさも自説の権威づけのためか(?)援用し、「学習後の復習」について「学問的権威」を背景にした指導というものがありました。ひょっとしたら今でもその被害にあっている中高生がいるかもしれません。

ここで質問です。
「復習理論」(?)で使用されている有効な(根拠ある)記憶理論による「忘却曲線」はあるでしょうか?

よろしくお願いします。

(下種の深読み?をするなら)"その他(PCパーツ周辺機器)のカテや"性の悩み"でもその傾向はあるのかも知れませんが、素人に対峙する玄人との括りを設けると不味いのは現役議員の資質の急激な凋落との切口から"政治"のカテでは??"と私は感じたのです。
因みに"教えて!農業"経由で始の10問を見ると下の如く映ります。↓
​​http://qa.oshiete-nougyou.com/208/c303_10.html​
そして、「素人」&「関係者」&「専門家」表示式から「一般人」&「経験者」&「専門家」表示式への変更は

●"政治の裏舞台を知るには"→​​http://www.qa.d-yutaka.co.jp/qa10918.html​​ (ユタカの何でも相談室経由)
●"景気への補正予算は必要?"→​​http://oshiete.kyoushujo.com/qa11499.html​​ (教えて!運転免許経由)
の両質問を比較して行く限り、概ね、(20)00年10/19迄とその翌日たる10/20辺りが境の模様と解して良さそうな気がします。

尚、私自身(例えば社長や経営者にはなった事はないものの、社長秘書を務めた、の類)の経験上(!?) 「関係者」はせめて復活させてほしいナァ!! とつい2、3日前に思ったのを吐露して、今回の拙いカキコみを閉じます。 失礼しました。

こんにちは。

「関係者」「素人」ってのが笑えますが
これは10周年として是非復活させて欲しいですね。
「専門家」が減るかもしれない。
「いちばん放置されてる質問」を発掘した人にも「お疲れ様m(__)m」です。当時こんな顔文字もなかったですよね。
もうちょっと早く見つけていれば7月29日に祝えましたねw
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回答日時:10/01/23 16:53
回答番号:No.10
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回答者:noname#103194 >>では、いま「すぐれた師」に出会おうとするならどこを探せばいいのでしょうか?

本屋で探せばいいんですよ。 あなたが師と呼ぶような人なら書籍の一冊や二冊は出しているはずですから、本を手にとって読んでみれば人物の程度はおのずとわかるでしょう。あなたのこころのフィルターで選別できればあなたなりの師は見出せるでしょう。
私もそのようにして師を見つけましたから。

すぐれた師は、埋もれているわけがなく、どこかに出現しています。
NHK語学講座の講師は、りっぱな「師」です。NHK高校講座の講師も「師」です。大学の教育も、放送大学だけでなく、講義ノートを公表したり、公開講座や、政府と協力して、プロジェクトを立ち上げて、研究の成果を国民に還元してもよいのではないでしょうか?
「新型インフルエンザを終焉させるプロジェクト」とか、「日本の農業を元気にするプロジェクト」とか、「松の木の松枯を防ぐプロジェクト」「日本を明るくするプロジェクト」「日本全国地震基礎研究断層徹底研究」などなど、いろんな大学や研究機関、公務員、企業から参加して、面白いことをやって、実際に問題を解決したら、経済効果が抜群です。必ず「師」はでてきます。ヒカルの碁の塔矢行洋のせりふではないが、「プロの棋士ならいつか出てくる」というわけです。とくに、世界的な危機であれば、なおさら、人類を救うプロジェクトを立ち上げれば、必ず「有志」が参加してきます。そのなかに「師」は、必ずいます。
そんな国をつくりませんか。総選挙です。ここにも、「師」は出馬しているかもしれません。オバマ大統領が大統領選挙に出馬したとき、だれがオバマ大統領の誕生を予測したでしょうか?
学問のわくが少しせまくなってきたのではないでしょうか。

>「師」とはある技芸に習熟するためのノウハウを持ち導いてくれる達人ということにします。※範囲を限定するためにここでは「人格陶冶」や「学問」系に限定

この設定ならば大学に師と言われる人がいるかも?しれません。
「かも?」にしたのは例えば皆があの人は師だと思ってもあなた自身が自分より劣ると思ったらあなたは「師」とは認めないでしょう。

「人格陶冶」や「学問」におけるあなたの習熟度がどれ程のレベルなのか、この質問では解らないので「かも?」です。

先日だったかnewsかwebで見たのですが 「ある男が疑問を解決しようとしてネットを調べまくったそうです。しかし、どんなに調べても男の疑問を解く鍵の様な答えは見つからなかった。 やっとの思いでこれだ!と見つけたのは以前に自分が書いたものだった.....男は既に自分がきずかぬうちにその道の第一人者だったのだ。 (あなたはこれに当てはまるのではないですか)

誰もに認められて第一人者になった人は、知識や経験が自分より乏しい人でも、そういう人の話を聞いて自分を向上させる。
ほかにいないから第一人者になった人は、自分の知識や経験を守ろうとして、「格下」と判断した人の意見や考えは拒絶する。

自分の発言力を言葉の武器として使う人は、私は好きじゃない。発信しているだけでは、人は向上していかないんじゃないのかな。

たとえば、参考URLのような私塾を探すという手があると思います。
これは一例で、ネット検索で出てきた一つに過ぎません。また、その内容を保証するものでもありません。

全国津々浦々を探し歩くわけにも行かないでしょうから、
このような私塾を検索してみるのも効率的かもわかりません。

ただ、ご自分にとって「師」と呼べる人物を探そうとするなら、
実際に足を運んで、話を聞いてみてという手順は、最終的には省けないはずですが。

はじめまして。 お久しぶりです。

また、活動を再開されたんですね。

さて、質問における『師』とは、誰にとっての『師』であるのか、これが一番の問題です。
『師』が、すばらしい技芸のノウハウを持っていたとしても、
それを習う者が、それを受け取る技量、能力を持ち合わせていなければ?
自分が、受け取ることができない、技芸のノウハウを教えてくれる人が、
その時点における自分の『師』であるのか?(いや、今の自分では、手の届かない人である。)

上のように考えると、『師』とは、今現在の自分の周りにいる人達ではないのかと、私は思います。

そして、今現在、自分の周りにいる人達から、その人達が持っている、
技芸のノウハウを受け取り、自分の中で処理できるようになったときには、
新たな『師』が、自分の周りにいると思います。

すなわち、人生において、自分自身が何らかのかたちで関わった全ての人が、善しにつけ、悪しにつけ、
自分にとっての『師』であると思いたいです。

したがいまして、

『師』は、探す必要がなく、
誰もが、すぐに近づけるところにいる、

というのが、当方の結論です。

当方は、哲学という学問につきましては、全くの素人ですので、
学問的なツッコミについては、ご容赦のほど、お願いします。
対応できません。
また、変な、宗教的思想もありませんの、ご容赦のほど、お願いします。

人生、いそがす、ゆっくり生きていくのが一番でしょう。
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回答日時:10/01/23 16:52
回答番号:No.9
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回答者:noname#103194 独我論 というものが、自分の認識したことが絶対的に正しいと思う在り方を現すのであるとすれば、自分や他者の誤認識も在るということを知っていて、認識力を高めるように努力している者の唯識論とは区別しなくてはならないのではないかと思います。

0か1か、在るかないかが、物事を考える上での立脚点として、最も根源的なものであると思います。在るかないかを認識するのは心以外に無く、0が無だとすれば、1は在る、つまり心 なんだと思います。

 ということで、唯心論ではなく、唯識論 と言っても良いのかもしれません。一般に言われている、定義づけされている 唯識論とは違うのかもしれませんが。

 もし、「認識のみが全てである」という言葉を否定できるとすれば、その説明を聞いてみたい気がします。

>うーん、そうでしょうか

 はい、そうだと思います。

>確かにそういった「側面」はあるでしょうね。

 これ以外の世界の生成の要因があれば是非ご教示を。

ヨコ失礼。
>「凡庸さ」とは「大勢に流され独自の見解・生き方を持たない」とすれば
「凡庸さ」とは「独自の見解・生き方がたまたま大勢と一致していた」です。

凡庸でなかったおかげで損をしている方の例を調べると、その答えが自ずと出てくると思います。

最近の例で凡庸でなかったおかげで損をしたのは、酒井法子の覚せい剤騒動でしょう。彼女は好み如何に関わらず、その美しさで凡庸からほど遠い、抜きん出た方です。彼女が並の女性だったら、あんな腑抜けな旦那に掴まらず、従って覚せい剤のかの字も知らずに一生を過ごせ、凡庸だが幸せな一生を送れた可能性が桁に違いに高くなります。非凡であるが故に覚せい剤を覚えてしまい、また、非凡であるが故にマスコミに大喜びで大騒ぎされています。非凡であると人生の揺らぎが大きくなり、自分で人生をコントロール出来無くなって、潰されてしまうことがしばしばあります。

明治の在野の歴史学者の雄、山路愛山は「義経の最大の不幸は、彼の非凡な軍人としての能力が、人生の中で最も野心の高い頃の年齢で発揮されてしまったことだ」と言っておりました。こんな不幸は、凡庸な人間には起こり得ません。平家物語の「六道」の巻きでも、壇ノ浦で入水した安徳天皇の母建礼門院が、天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄と順に落ちて行く悲壮な自分の一生を語っておりました。こんなのも、凡庸な我々の語り得ないところでしょう。凡庸な人間は、時代を越えて人々の涙をそそるような悲劇を語ることが出来ません。何故なら、そのような悲劇を体験出来ないからです。

 上記の投稿を読んでの感想ですが、やはり
 世界の恒常性を保つ効果は、あるかも。抽象的な思想によるもので、真意のほどは確かめようも無いが、精神のあり方が世界を象(かたち)作って居ると考えれば、やはりそうなのかもしれない。

これは確信ではないのですが、ごく普通の幸せをまっとうして人生を終える確率が(上位のひとたち、あるいは普通以下の人たちに比べて)一番高いのではないでしょうか。
上位のいわゆる恵まれたひとたちはたかころびにこける可能性も高いのではないかと思うのですが、これはひがみでしょうか?少なくともかれらは並みの人生を送っても私達よりも満足度が低いのではないかと思うのですが、これもわれら凡庸人の僻みだとすれば、この説は撤回するしかありませんが(哂;)。
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回答日時:10/01/23 16:51
回答番号:No.8
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回答者:noname#103194 多少の社会経験からしますと、病んだ回答にはスルーがよいです。相手をするのは不健康です。すでに優れた回答も出ているのですから、掘り下げる意味のない地層は掘り下げないことが肝要です。これは回答主旨です。
時と場を一顧だにしないで掘り下げれば何か得られる的な、一種の欲目とか我執とか自己充足とか惰性のようなものが、存外、頽廃(どっちかというと退廃がなじむのですが)をみた頭脳労働のなすことではないかと思います。病んだ方のしつこさというものが、そういう特徴に集約していることからもそのように言えます。
知的というのは追及心を持つのかどうかも括弧に入れておきたいところです。ポンと飛べばポンと着くようなわざをもって発揮される性質のような気がします。それは着こう着こうとするような追及よりも飛び方の変化自在なうまさといったものです。
例示されたようなものは、ネームドロッピングとか怠惰とか日和見とか剽窃とか老いとかの、志が低いという例です。そういうことよりもむしろ志が空回りしている状態をもって、知的退廃と呼びうるのではないかという回答でした。


(1)例えばnever-ness様がキュプロスに無礼なお礼をした場合、
そのキュプロスがプライドが高いとnever-ness様ごときに不快感を持たされることを許せず寛容する。
(2)同様のケースで無礼を働いたnever-ness様をキュプロスが「恥をかかされた」と許さない。
(3)生き方によって変わる。

これは確信ではないのですが、ごく普通の幸せをまっとうして人生を終える確率が(上位のひとたち、あるいは普通以下の人たちに比べて)一番高いのではないでしょうか。
上位のいわゆる恵まれたひとたちはたかころびにこける可能性も高いのではないかと思うのですが、これはひがみでしょうか?少なくともかれらは並みの人生を送っても私達よりも満足度が低いのではないかと思うのですが、これもわれら凡庸人の僻みだとすれば、この説は撤回するしかありませんが(哂;)。
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回答日時:10/01/23 16:49
回答番号:No.7
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回答者:noname#103194 そもそも、真理を探究する動機が「ゴキブリを誅滅」(おっと、過激ですね、「汚れた川を綺麗に保ち、自分が清流の魚から川魚へ変貌するのを防ぎたいために」なら、良いでしょうか)することから発したのであるとすれば、 頽廃 と見えたとしても、それはいよいよ動き始めた と捉えても良いかもしれません。

部屋にひょっこりと顔を出したゴキブリを叩き潰したところで、事後処理に過ぎず、根本原因を冷静に把握しないと問題解決、とはならないですからね。

我流の唯識でしたら、簡単に説明できます。

 あるかないかでいえば、今確かにここに私はある。この、あるという感覚さえ嘘、虚であるとすれば、そこから派生する全ての概念は虚であろうから、何も始まらない。私はある という実感を確実なこととする。それが、あらゆる事象を考え、認識するための根本の立脚点とする。

 それが全てであり、それさえ否定するなら 何も考える、認識する必要はない。

 私が存在する、ここに在るということを前提にして、物事を観ていく。

 こんな感じですか...

 赤と黄色 という色があったとして、私が見ている赤は、他者にとっての黄色であり、私が黄色と見ている色が、他者にとっての赤である ということが在るだろうか?人間の目鼻口耳が、大体同じ形で、同じ数あり、同じような位置に、同じ構造で設置されている。このことを考えれば、自分が見ている赤色は、多少の誤差の可能性はあれども、大体同じ色を見ているだろう、ほとんど同じ色を見ているだろう。と思う。

大命題といったような大それたものでなく、哲学しないで普通に考えれば、解ることではないでしょうか。

 はっきりいって、「哲学的には初心者」、と言われてもおかしくない文章を自分で書いたと思います。

 熱いものを、人によっては 冷たい と感じるはずがない、丸いものを四角いと認識するはずがない、高い音を低い音として認識する他者がいるはずがない。そうであったとしても、『確認のしようがない』つまり、考えたところで意味がない。共通の「赤」という認識があり、それが科学技術や日常生活においての共通の認識として互いに分かり合えるなら、なにも問題はない。
「あの、赤い道具を持ってきてくれ」と言われて、「ああ、わかった」と、普通に生活できるなら、何を「違うのではないか、おかしいのではないか」などと、考える必要が在るだろう。

 結局は、「思考、思索」に、逃げているだけなんだろう。

>現在あることそのこと自体への「自己目的化」も頻繁でしょう。

 これは、言い換えれば「今ここに自分が居るから、それだけで正しい、存在そのものが善である」と言ってのさばっている一部の人たちのことを言っているのですね。その通りです。

 しかし、第三者の思惑による介入もあり、なかなか彼らが自覚することは難しいようです。第三者の意図思惑が入ると必ず「メンドクサイ」ことになるようです。
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回答日時:10/01/23 16:47
回答番号:No.6
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回答者:noname#103194 高校までの教科書に出ているのになどの
知っているべきという根拠がありません。

「自分が知っているという理由で持ち出した話題なのだから
相手が知らなくても劣っているとは言えない」
これは誰でもわかる常識です。
それを知らないのはあなたの方ですよ。
あなたの方が、レベルが低い知識を取らないのだから
人を責めることはできません。

> 引用元を明記しなくても、一読すればどういった作品の一節であるか了解されると思っていました。

自分は、そう思い込んでいたが、現実は違った、ってだけのことではないですか。

> ところが最近のこと、この文を巡って、これが何であるか分かってもらえないどころか「気が狂った」文という「やりとり」を目にして少々吃驚しました。

あぁ、心理学カテかどっかで見かけたような...
ひょっとして、本質問は、そのネタにされたご本人の質問ですか。ま、それはともかく

> そこで質問ですが、上記引用した文章がどういった作品からの引用なのかお分かりになる方はいらっしゃるでしょうか?

それをここでお尋ねなされてどうなるんですか?
No.1さんが
ロートレアモンやらロールケーキじゃなかったマルドロールやらとおっしゃってますが、まさにこれであるなら、学校で習った憶えもなく、当方も知らなかったからというわけじゃないけど、知らん人のほうが多いと思いますがね。フランス人じゃないし。
アンケでもとってみますかね?

> 質問文に書いてある通りですが

「最も反応のよいと期待できる」っていうことですか?
だから、それで、どうなんだ、ってことを言ったつもりです。

> 引用元を明記しなくても、一読すればどういった作品の一節であるか了解されると

> 多分、高校までのレベルでは習わないと思いますね。だから「文学的素養」とお聞きしている訳

だから、
自分は、そう思い込んでいたが、現実は違った、ってだけのことではないか
知らん人のほうが多いと思いますがね、って言ってるんですよ。
「文学的素養」ってな、義務ですかい?

みなさんがわってて回答してるのかよく分かりませんが。
とりあえずこの文を見て作品知らないにしろ話の大筋あるいは何についてかかれたものか理解する力を持ってる人がまわりにいないと。
そこで文学カテゴリを見て回っている人なら多少なりとも分かる人がいて、自分が如何に常識的であったか、もしくは世間ではあほが多いか、ひとつの指標にしたいとそういうことでしょうか?

さて、私なりに考えた本題に対する回答ですが。

まったく分かりません、始めの方読んだときは禁断の果実か〜とかおもったけど

前人未到の荒地にこれ以上奥深く踏み込まないうちに、廻れ右するんだ

って言う分をひたすら回りくどくしてるだけのものじゃないかなーと感じました。
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回答日時:10/01/23 16:45
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回答者:noname#103194 >それが「復讐するは、われにあり」という言葉。それを信じておれる者だけが、「忘れずに忘れて」いられます。自分の命を縮めずにおれます。
哀しいかな、そこにたどり着くだけでも、凡人は大いに大いに苦労をするのです。

>心底から、まことに僅かも些かも許すわけにいかない者であるならば、御自身の命を無用に縮めさせることなく、忘れず忘れていてください。それが最大最高の復讐となるでしょう。
>そこには、世の全ての崩壊・壊滅という報いすらもあり得ますよ。



凡人です。
君もそうみたいですね。
凡人はいらぬ苦労しますな。
腸は煮えくりかえっていても
それでもやっと自分で納得できるようになりましたわ。


同カテ内の質問
復讐に意味はあるのでしょうか。
中の他者文無断引用失礼
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回答日時:10/01/23 16:42
回答番号:No.4
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回答者:noname#103193 >>どうも「幸福を願う心」こそが結果として「不幸への道案内」をしているように思えます。

そうですね。そのようにもみえますね。
「幸福を願う心」をもう少し分析的に捉えると、個人でいえば、幸福になりたいという意味は、欲しいものが手に入る。ということでしょうか。そういう意味での幸福であれば欲望は際限ないですから「不幸への道案内」になりますね。別の質問に愛が欲しいというのがありましたが、これも幸福と同義でしょうね。言葉の意味が正確に使われていないので渇愛のことを愛と勘違いしているのでしょう。奪う行為を愛といってみたり、欲望の渇えをしのぐことを幸福といってみたりしているのでしょうね。
個人に限らず国家も同じですね。小さな岩島の領有権を奪うことが国家の幸福と考えているふしが見えますね。
確かに人間は幸福を追求する生物ですが、人間が追い求める幸福が財であったり、地位であったり、名誉であったり、土地や支配などであれば、求めれば求めるほど互いの争いが増え、「不幸への道案内」になりますね。そういう意味でご指摘の通りですね。
では「人間が求める幸福とは何ぞや」ですね。これが哲学者・宗教家・教育者が提示できなければあなたのご指摘が真理になってしまいますが、事実はそうではないのですね。多くの者がどのように幸福や愛を誤解しようが、人間が求める真の幸福や愛は、やはりさらなる幸福への道案内なのですね。
真の幸福というのは目に見えないので捉えずらいし表現しずらいのですが、多くの回答者も漠然とは感じているのでしょうね。それ故、問いかけの言葉に対する反発もあるのではと思います。あえて真の幸福を言葉にすれば、真の幸福とは何にもない子供時代と全てがむなしくなった死ぬ直前の自分を比較して人生で何か得るものがあっただろうかということだけなんですね。進歩したと感じればそれが真の幸福でしょうね。
人生のとじで得た物、ゴミ知識などを全て捨てた時の個人個人の感覚ですから表現が難しいですよね。宗教家は魂の向上、哲学者は精神の向上、教育者は立派な人という言い方でしょうか。
仮の幸福は人生のとじでいろいろあるでしょう。有名校に入れたとか、財をなしたとや、美人と結婚できたとか子供が立派になったとか、きりがないけど、どれも死んでもっていけるものは生まれた時と同じで自身の身一つですからね。
世の中一般では仮の幸福が幸福という意味でしょうから「不幸への道案内」とはいえますね。でもそれは世の中一般が悩乱しているからだけなんでしょう。といいたいのですね。
哲学カテなのでちょっと御託が長くなってしまいましたね。
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回答日時:10/01/23 16:40
回答番号:No.3
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回答者:noname#103193 貴方の書いている事は人生の表面を、或いは人間の心の上っ面だけを見ているように感じます。人間は欲しがっている間は手に入らないものが在ると云う事です。

人間の計らいで望む事が在ります。それは論理的に、分析して科学的に事を図ろうとした場合です。つまり何か目的を持って期待をして生きてゆく処につまずきが在る場合があると言う事です。

その躓きの原因の事を貴方は、どうも「幸福を願う心」こそが結果として「不幸への道案内」をしているように思えます。と云う言葉になっています。

是は人生に対する洞察力が足りない事、或いは人間心理に対する理解の足りなさから生じている疑問に見えます。人間の意識に障害が生まれる場合が在ります。それは手に入らないものを強く望んだ場合の事です。

此処までは貴方の言うとおりですが、本当はその先に見えなくてはいけないものが在ります。例えば誰だってお金や地位や名誉を望んでいます。処がそれらを望むように手に出来る人はあまり多くはいません。

この事がどうして起きてしまうのかを説明してみます。それは人生は期待をしたり、当てにした場合には、当てが外れると言う事が在るからです。期待をしないでする事が出来たなら、期待通りに生きる事が出来ます。つまり人生には「無功徳」=しても何にもならない、と云う原理が働いています。

その最たるものが「何のために生きるのか?」或いは「我々は何処から来て何処へ行くのか?」と云う疑問です。その疑問のために人間は苦しんできました。この疑問と、どうも「幸福を願う心」こそが結果として「不幸への道案内」をしているように思えます。

この事が密接に関係しています。簡単に言うならば、これらの二つには「分別する心」言い方を替えたなら「分別脳」=「自我意識」がその人を支配したためです。

人間の心は自我意識だけで出来ている訳では無いと言う事を言いたいと思います。人間の感情は自我意識だけで自由になるわけでは無いと言う事です。そうして人間の体も自我意識だけでは自由に動く事さえもおぼつかなくなります。

その例を挙げるとしたら、優勝が掛った一打を打つ場合等です。或いは体操やスケートなど、失敗が付きまとう競技などです。自我意識のははからいが出た場合には大抵が失敗します。「自我意識が」出ないようにした場合にはうまくゆく確率は上がります。

自我意識が出ない時は誰が演技や競技をしているのでしょうか?是が答えです。人間には自我意識の他にもう一つ意識が在ります。それは人間の命そのものを働かせている「意識」です、或いは人格と云っても良いと思いますが。

人間は自我意識が出ない状態が「無病息災」の時です。子供の心の時です。「私は誰でしょうか?」なんて誰も思っていません。何をするにも目的意識は持っていません。処が「心は」何時も健康的で、はつらつとしています。是はまだ分別脳が発達をしていなくて、分別しない心で生きているためです。

そこで結論を言いたいと思います。

どうも「幸福を願う心」こそが結果として「不幸への道案内」をしているように思えます。と思える貴方は、「分別する方の脳で」考えています。

その脳では無くてもう一つの脳(意識)で考えて下さい。それは期待しない方の心です。人間の行いは期待しない方が、期待通りになる。と云う事を知っている脳の事です。

説明をうまく出来ません。金や地位や名誉は「期待しない心」が強く出た時にかなうものかも知れません。例えば貴方がそれらを望む事よりも人の幸福を強く望む時の事です。そういう事を望んでそういう行為を「期待しないで」できるようになった場合の事です。

貴方は金や地位や名誉や幸福を望まなくなった時にこそ、そういうものが手に出来るかも知れません。何も期待しない(無功徳=自分を捨てると言う事)と云う事の効用が身に付く様に学ぶ事が人間には大事な事と思います。
種類:回答
どんな人:専門家
自信:自信あり
回答日時:10/01/23 16:39
回答番号:No.2
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回答

 

回答者:noname#103194 「曲解」というのが、な。曲解というのは、ない。と、オレは思う。あるのは「人それぞれの解釈」だけだ。少なくとも、ここではな。なぜなら、ここは単に「質問し、回答する」というだけの、「お互いが片道切符のやり取り」で成り立っている場所だからだ。

曲解というからには、少なくとも「一般的な解釈であればあきらかにこうとるはずである」といった暗黙の認識があり、それをあえて捻じ曲げる、ということでないといけないよな? だが、このような「お互いに、一回こっきり答えるだけ」では、そもそも「一般的な共通認識」のようなものが形成し得ない。そこまで、大勢が共有できる解釈を持ちうるほどに会話・議論することができない。ある種の「場」のようなものを形成できないところでは、曲解しようにもやりようがない、とオレは思うんだがな。

結局、こういう非常に舌足らずなやり取りしかできない場所においては、自分の思ったように相手が解釈してくれれば僥倖、されないのが当たり前、と思ってやりとりするしかないとオレは思う。そして、そういった「言葉の解釈によって回答が大きく変わってしまう」類いの質疑は、こうしたサイトには向かないと思う。オレは技術系のカテゴリで主に回答しているが、こうしたところでは、技術的な固有名詞を正しく記述することで、たいていは正しく意図が伝えられる。とりあえず「ソースコードを貼れば、何が悪いかわかる」という世界だからな。だから、オレにとってはここはそこそこ役に立っている。技術系の分野では、技術者どうしの間で統一された解釈の専門用語が多数あり、それらを使い組み立てることで、短い一方通行のやり取りでもお互いにほぼ同じ解釈を共有することができる。

だが、そうしたベースとなる共有の概念を持たない分野では、「質問し、回答して終わり」というこのサイトのスタイルでは、解釈の共有はほぼ不可能と考えるべきだろうさ。

だから、利用の仕方としては、おそらく「さまざまな解釈による回答の中から、自分が意図した解釈をしている回答を抜き出す」ということだろう。10ある回答から1か2、こちらの意図した通りに理解している回答があればオッケー、じゃないかね。「無用のトラブルは避けたい」というが、これは「無用のトラブル」じゃない。この種のサイトを利用する上で「不可欠のトラブル」だとオレは思う。そのトラブルを疎む者は利用に向いていない、と思う。
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:10/01/23 16:37
回答番号:No.1
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