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昭和の初めの国道は江戸時代の西国街道を通っていましたが、カーブが多く距離も長いため、己斐〜宮島間を直線的に結ぶ道路が計画されました。
草津地区は昭和10(1935)年に東町までが開通し、御幸川に架かる橋として欄干が石で造られた「草津橋」が新設されました。その後残っていた己斐〜草津間が出来昭和17(1942)年に国道として全線が開通しました。この道路は「観光道路」と呼ばれ草津町民にも親しまれました、草津橋は昭和50(1975)年橋の補強のため欄干がガードレールの橋に架替えられました。昭和56(1981)年からは広島市の主要道路に通称が付けられ現在は「宮島街道」と呼ばれています。平成18(2006)年住民の要望で欄干などの改修が行われ現在の趣のある橋になりました。 |
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草津橋は、昭和10(1935)年までは「思案橋」といわれ現在の草津橋より少し上流の位置にありました。
広島城下より宮島、月見ノ浜、草津梅林、井口の小己斐明神へ参詣しての帰り、この辺りにさしかかると、「このまま広島城下に帰るか、鍛冶町(いまの鷺森神社から慈光寺辺り)で一杯呑んで帰えろうか」と思案したので「思案橋」と呼ばれるようになったそうです。橋名が刻まれた道標は橋本家によって大切に保管されていましたが、この場所に設置されることになりました。 |
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思案橋と聞くと長崎を歌った思案橋ブルースの最後のフレーズが思い浮かぶわたしですが・・・
全国各地に思案橋があるのでしょうがここ草津にも合ったのかと思ったのです。2005年の交流ウォークのときは道標「思案橋」ありませんでしたが、2007年の交流ウォークのときに藤井先生に橋本さんのご好意でここに設置されたと伺いました。 |
08.02.12裕・記編集 |
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07.06.16撮影 |
広島市西区草津本町・浜町と草津東を結ぶ(国道2号線の)草津橋 |
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07.06.16撮影 |
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07.06.16撮影 |
(2006年に)欄干取替えや橋桁に陶板が嵌め込まれたり、歩道がカラー舗装になったりしました |
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1935年草津橋渡り初め式 |
(説明版の写真を使用しました) |
2006年全国都道府県対抗男子駅伝と(改修前の)草津橋 |
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