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「東洋のマタ・ハリ」やはり処刑? 台湾で公文書発見(1/2ページ)

2010年1月22日19時19分

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写真:男装した軍服姿の川島芳子男装した軍服姿の川島芳子

 【台北=野嶋剛】戦前の中国大陸を舞台に旧日本軍スパイとして暗躍、「男装の麗人」「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた川島芳子(中国名・金璧輝)を国民党政権が1948年に死刑にした際の確認公文書が、台湾が保管する当時の公文書の中からこのほど見つかった。

 川島芳子をめぐっては、処刑に替え玉が使われ、実は生存していたという説が根強くあった。だが、今回の公文書は、死亡説を補強する論拠になりそうだ。

 川島は中国清朝の王女として生まれ、日本の大陸浪人、川島浪速の養女になり少女時代を日本で過ごした。成人してからは中国大陸の日本側の特務機関で情報活動に従事。満州国建国や上海事変などにかかわった。「漢奸(売国奴)」として45年に北京で逮捕され、死刑判決を受け、48年3月25日に銃殺された。

 しかし、直後から「別の女性が金のネックレスと引き換えに替え玉になった」とのうわさが流布。知り合いだった故笹川良一氏も「遺体は別人」と語ったとされ、最近も「彼女を見た」といった証言が相次ぐなど、川島芳子の生存は歴史ファンの間で一種の伝説のように語られてきた。

 川島を逮捕した当時の国民党政権は処刑の翌49年に共産党に敗れ、中国大陸から台湾に敗走。この際、公文書も台湾に運ばれていた。

 昨年になり、台湾法務部(法務省に相当)が、刑務所行政の史料集を編集する作業中に、文書を総統府の研究機関「国史館」の資料庫から見つけた。川島の処刑1カ月余り後の48年5月17日、当時の国民党政権の司法行政省が、死刑判決を下した河北高等裁判所に事実関係の調査を指示したことが分かる内容で、指示は当時すでにあった生存説を受けたものだった。

 これに対し、刑を執行した何承斌・検察官は「彼女は国際的なスパイで顔を知らない者はいない。遺体は刑務所の外にさらされ、自由に写真も撮らせた。死刑囚は金璧輝(川島)に間違いない」と供述していた。

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