クイーンズランドの南東部は天候に恵まれ食料の宝庫であったことより、一部族約50〜60人ぐらいで形成された多数の部族がこの地域に住んでいました。その中でもブリスベン地域にはジャガラ(Jagara)族とウンダンビ(Undanbi)族が住み、この地方で広範囲に渡り使われたターブル(Turrbul)語を言語としました。
獲物のいるところへ渡り移り住むアボリジニ族の食生活は、カンガルー、エミュー、バンディクーツ、トカゲ、ネズミ、蟻、芋虫、地虫、卵、魚、100種以上の植物、果物、蜂蜜などであり、食事の準備は一般的に男性が肉類を、女性が植物の根、木の実、貝類など用意します。特に決まった食事の時間をもちません。
アボリジニ族の成人式は、ボラ・リング(Bora Ring:丸く平らに盛りあげた大小の土地を500mの小道で結ぶ)に多数の部族が集まり神聖に行われました。成人を認められた後に、体に各部族を表す傷模様(切り傷をつけ炭の粉を擦り込んで作った模様)がつけられます。成人に達しない者と女性へは死に対しての痛みを見たり聞いたりすることが禁じられています。ブリスベンにボラ・リングの跡がケッぺラ(Keperra)、トゥーブル・ポイント(Toorbul Point)、サムフォード(Samford)、モギル(Moggill)地域に残っています。
アボリジニ族と白人との間に、土地に対しての考え方の根本的な違いがありまする。まず白人は土地は人が所有するものと考え、一方アボリジニ族は人が土地に属し聖なるものと考えています。もともとアボリジニ族は白人に対してとても友好的であり、例えばオーストラリア開拓当時の探検家へ水のある場所を教えるなど協力を惜しみませんでした。しかし、白人の入植が増え進むみしたがって、先住民・アボリジニ族の土地が奪われるようになり、土地をめぐって各地で小競り合いが発生しましたが、白人側では争いに全く関係しない地方のアボリジニ族を金銭で雇い、軍服と武器を与え自警軍を創り、結果的にアボリジニ族どうしで殺し合いが行われました。これをブラック・ウォー(Blak
War)と呼びますが、19世紀末までクイーンズランドにおいて数千人のアボリジニ族が殺され、生き残ったアボリジニ族は部族が解体され土地を完全に失ってしまいました。
伝統的な狩猟の場・土地を失ったアボリジニ族は白人の食料に頼ることになりました。しかし、小麦・砂糖など食材の変化によって体調を崩すアボリジニ族が後を絶えませんでした。また土地を失うことにより、古い規律、習慣、言語なども同時に失ってしまったのです。オーストラリア政府や各教会は先住民・アボリジニを救済しようとするが、それは孤立した場所へ彼らを集めることで行われました。
1967年に行われた国民投票の結果、連邦議会にて先住民・アボリジニ族への特別法が制定されました。連邦政府はアボリジニ族が社会の一員になることを願い、一方、アボリジニ族は彼らの土地や将来について発言力の強化を願っています。1980年にザ・ナショナル・アボリジニ・コンファレンスが設立され、そこではアボリジニ族の要望を受け連邦政府へ提案する役目を果たしています。
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