ここから本文です

解決済みの質問

知恵コレに追加する

【500枚】横浜米軍機墜落事件と港の見える丘公園「愛の母子像」について

rice_ohmori_iiさん

【500枚】横浜米軍機墜落事件と港の見える丘公園「愛の母子像」について

1977年、横浜の住宅地に米軍機が墜落し、巻き添えとなって母親と幼い子ども2人が亡くなりました。
亡くなったこの母子をモデルにした「愛の母子像」が港の見える丘公園にあります。
遺族が横浜市に寄贈する形で1985年に設置されましたが、行政側は都市公園法の解釈を理由に、墜落事件を説明する碑文を認めなかったため、予備知識がない人にとってはこれがなんの像なのかの分からない状態が続いていました。
市民の間から疑問の声が上がり、2005年2月に、中田宏横浜市長(当時)の定例記者会見の中でこの問題がとりあげられ、2006年1月に墜落事件の概要を簡潔に記述した碑文が設置されました
像の設置から碑文設置まで実に約21年が費やされました。

そこで質問です。
碑文設置のきっかけとなった横浜市長への記者会見で、この問題を質問した記者はどこのメディアの記者なのでしょうか?(横浜市のサイトにある会見要旨を読んでも、どこの社なのかは分かりません
会見要旨
http://www.city.yokohama.jp/se/mayor/interview/2005/050225.html
事件の概要(wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E...

すでに質問したのですが、有効な回答がなかったので再度質問します。
この事件については、知れば知るほど怒りが込み上げてきます。
米軍機のパイロットはパラシュートで脱出して無傷だったこと。
事故直後、現場に急行した自衛隊のヘリは、脱出した米軍パイロットだけを乗せて現場を立ち去り、住民の救出や搬送、消火活動などはまったく行わなかったこと。
けが人の搬送は住民ら民間人がすべて行ったということ。
日本には捜査権はなく、現場も米軍が仕切り、米軍パイロットはアメリカに帰って何の罰も受けなかったこと。

国の主権が侵され、同じ国民がむざむざと殺されているに、なんの声も挙げない政治家とその支持者。
いま、ネットで吠えるナショナリストたちは、この事件についてどう考えるのでしょうか
本当に国を愛しているのなら、アメリカや日本の政府の対応は絶対に許せないと思うのですが。

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

bridge_japan_daubentoniiさん

>碑文設置のきっかけとなった横浜市長への記者会見で、この問題を質問した記者はどこのメディアの記者なのでしょうか?
毎日新聞だと思います

>ネットで吠えるナショナリストたちは、この事件についてどう考えるのでしょうか?
質問者さんもおっしゃってますがこの事件について知っている方は少数だと思われるのでネット上ではあまり議論は熱くありません!
他の方がどう考えているかは知りませんが、日本はもっと強く言うべきではと個人的には思っております。(今更遅いが)

質問した人からのコメント

  • 回答ありがとうございました。
    ただ、当時、東京新聞が精力的に報道していたようです。この記者がどこの社なのかはもう少し私も調べてみたいと思います。
    それから、ストーカーがわざわざ別IDまで作ってこの質問にもアラシ回答をしてきました。私への批判はまだ許せますが、何の罪もない事故の被害者の命と尊厳を踏みにじるarasi_kitaaaaaの行為を、人間として許すことができません。
  • コメント日時:2010/1/21 12:01:45

グレード

この質問・回答は役に立ちましたか?
はい
いいえ

お役立ち度:お役立ち度 0点(5点満点中)0人中 0人が役に立つと評価しています。

ベストアンサー以外の回答

1件中11件)

 

arasi_kitaaaaaさん

今件は既に国会答弁も行われ、報告書も纏められている

事実を捻じ曲げて何を叫ぶのか?


墜落機
「RF-4B ファントム2」 は
戦術偵察機。 恐らく軍事機密も含まれる
仮に日本側の捜査のみで事故原因を突き止める事は出来ただろうか
※事故原因はアフターバーナー部位の装着不

自衛隊救難隊ヘリ
「S62-シルコスキー」
民間でも広く使用されている輸送ヘリ


昭和53年04月14日 参議院 決算委員
13:17分頃 墜落 パイロットは「約2-3km前」で離脱
13:23分頃 米軍からパイロット救助要請を受け、救難隊ヘリ出動
13:25分頃 救難隊ヘリ 現場付近の黒煙発見
13:30分頃 上空から現場を視認「既に消防車による救援活動を確認」←重要
13:37分頃?3km前のパイロットを救
帰りに再度現場の状況(救援活動)を確認、事故現場を離脱→航空隊に報告

同時に、陸上救難隊の四十数名が出動準備をしていたが、既に救難活動が行われている、及び距離も十八キロ離れている為、その陸上救難隊は未出動

Q米軍機のパイロットはパラシュートで脱出して無傷


A 墜落機は飛行時より炎に包まれており
既に墜落は免れなかっ
脱出については早すぎるのではないか?との批判もある

Q事故直後、現場に急行した自衛隊のヘリは、脱出した米軍パイロットだけを乗せて現場を立ち去り、住民の救出や搬送、消火活動などは全く行わなかった


A 自衛隊のヘリが現場に最初到着したのは墜落から10-13分前後
パイロットを拾って再び現場に戻ったのが約20分後

自衛隊のヘリが現場に最初に到着した時
現場では既に消防車が消火活動中

また事故現場から50m程の所で宅地造成工事をしていた東急建設小黒作業所の社員が車によって(敬称略)椎葉悦子、林裕一郎、康弘兄弟、林早苗を青葉台病院に搬送

搬送については本件被害者 土志田 和枝さんの手記『あふれる愛に』
及び『米軍機墜落事故』(河口栄二)に記載されている

搬送者が居ても1977年当時、ヘリの対応の病院があったか疑問
また自衛隊法の論議もある

■日本には捜査権はなく、現場も米軍が仕切り、米軍パイロットはアメリカに帰って何の罰も受けなかった

日米地位協定について大雑把に

1945年8月14日 日本政府ポツダム宣言受諾を連合国に通知
1945年8月15日 玉音放送にて国民に発表
1945年8月16日 日本全軍に『停戦命令』 占領軍の駐留を受容
1951年9月08日 サンフランシスコ講和条約 締結 効力発揮後正式に終戦 駐留軍はアメリカ軍となる
1951年9月08日 同日・日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧 安保条約) 締結
1960年1月19日 ワシントンD.C. 『日米同盟』 締結
1960年1月19日 新安保条約 締結 安保第6条に基ずく日米地位協定 締結

不平等とされる条約だ
ポツダム宣言受諾、大日本帝国敗戦→占領軍駐留の一連の流れを汲む。
国際世論から甘受せざるを得ないのではないだろうか?

驚異的な軍事力と経済力を誇るアメリカとの同盟は日米地位協定を補っても余りある国益
であると言える
http://4ki4.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_6eba.html
http://ameblo.jp/sunshine-berkeley/entry-10346734880.html


またアメリカ政府の対応は迅速

1977年9/27日13時17分頃 墜落

事故当日
厚木基地司令官と西太平洋艦隊航空部隊司令部参謀長が被害者宅を訪問し謝罪
午後13時の墜落と考えると対応は極めて早

翌28日
マンスフィールド駐日米国大使が外務次官を訪問
在日米軍司令部参謀長が防衛施設庁長官を訪
再発防止に最善の努力を払う旨表明

翌29日
カーター米大統領から福田内閣総理大臣宛に
被害を出した事に遺憾の意を表し、被害者家族に対し悲しみと哀悼の意を表する

同日 ブラウン米国防長官から三原防衛庁長官へ謝罪・調査の全面協力等

日米は「日米合同委員会」を授け可能な限り迅速に本件事故原因の究明・再発防止策を講じる


死亡者3名 重傷者2名 軽症者4名
これは不幸な事故であった


※二児の兄の裕一郎くん(3才)は「パパ、ママ、バイバイ」
と言って亡くなったとされるが これは作者である早乙女氏の創作
亡くなる時の様子は遺族の手記に記載されている

※事故後 被害者 土志田 和枝さんは国により精神病院に強制転院させられたとされる
事故後の悲しみと心労の為 精神を病んだのは事実 次第に無理や難題・暴言を吐くようになり精神病院に転院となった


その後、国会答弁や報告と異なるプロパガンダビデオ「パパ、ママ、バイバイ」が製作される

引導を渡してあげましょう

PR

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。

お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。

話題のキーワード

[カテゴリ:事件、事故、流行]

ただいまの回答者

01時45分現在

1891
人が回答!!

1時間以内に3,780件の回答が寄せられています。