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中立的な論者の仕事は簡単だ。ただ政権を批判していれば成り立つからだ。
反面、与党だろうと野党だろうと、特定の政党・政治家を擁護することほど難しいことはない。なぜなら政治には「完璧」がないからだ。
残念ながら、どの国の政治を見ても、特定の政党・政治家を擁護するためには、清濁を合わせて飲まなければならない。その際、「清」の部分にだけ言及して、「濁」に目をつぶることができれば、それはそれで楽な仕事だ。しかし何か逃げているような気がする。 |
![1.故人献金問題](/contents/031/762/214.mime4) |
今月から始まる通常国会の焦点は予算ではなく、悲しいことながら、鳩山首相の金銭問題だろう。
簡単に整理しておけば、秘書が鳩山氏の母から多額の資金提供を受け、それをすでに亡くなっている方の名義で献金を受けたことにしたという話だ。
ここにはいくつかの問題が絡まっている。
(1) 虚偽記載をしたとのことで、秘書が起訴されたこと。これは法的な問題だ。
(2) これが脱税になるかもしれないということ。これも法的な問題で、本当なら重大なことになる。
(3) 仮に(1)について鳩山氏個人が何も知らず、まったく秘書一人の犯罪だとしても、監督責任者である議員の責任がある。これは政治的・道義的問題だ。
(4) 以上の(1)から(3)について、鳩山氏に何らやましいところがなく、国民のだれ一人として鳩山氏の辞任を望んでいないとしても、国民が納得するような十分な説明がなされていないとの批判もある。これも形を変えた政治的・道義的責任だ。
(5) この報道を聞いただれもがその額の大きさに度肝を抜かれたはずだ。一方、鳩山氏は「人の命を大切にする政治」を掲げて、貧しい人たちの生活に焦点を絞った政治を行おうとしている。一部には「こんな金持ちの坊ちゃんに、貧しい人たちの気持ちがわかるのか」という批判がある。これは一見、道義的な問題に見えるが、その実は認知の問題だ。
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![2.鳩山氏の道義的責任](/contents/031/762/215.mime4) |
おそらくこのなかで一番難しいのが(3)と(4)だろう。(1)に関しては、裁判の行方を見守るしかないし(これは逃げ口上ではなく、まったくの正論だ)、意図的な所得隠しが発覚しないかぎり、(2)で鳩山氏を立件することは不可能だ。
すると、まず野党時代の鳩山氏の「秘書の汚職は議員の汚職」という発言との整合性が問われ、次に、仮にこの整合性が問われないとしても、説明責任が十分に果たされているかが問題になる。
いままできれいごとを言ってきた野党に、政権に就いた途端にこのような事件が持ち上がると、やはり擁護者としてはうろたえてしまう。どれほど政策的に立派であっても(もちろん、ここにも異論があろう)、この手の汚職事件で評判は一気に崩れてしまう。
ならば、まったくの反対の極論を想定してみよう。つまり「鳩山氏はいますぐ辞任すべきだ」という議論を検討してみよう。おそらくこれを本気で思っている人はそんなに多くないのではないか。
そう、何か心に引っかかるのだ。納得はいかないけど、「辞めるべき」とも言い切れないのだ。それは大いに鳩山氏の人柄に依存する。単純に、同氏が嘘をついているようには見えないのだ。
確かに脱税という疑惑は残るが、素朴に考えて「これほどの金持ちがこんな姑息な手で私服を肥やそうとしているとは思えない」というのが多くの人たちの正直な気持ちではないか。
もしこの想定が正しいなら、すなわち鳩山氏が私服を肥やすことを意図していたとは考えにくいなら、「辞めるところまでいかなくていいだろう」というのが大勢ではないか。
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![3.鳩山氏の説明責任](/contents/031/762/216.mime4) |
では説明責任は果たされたか。正直、私は昨年12月24日の記者会見を聞いていて、納得はせずとも十分に鳩山氏の言い分は理解できた。
その最大の決め手は、「所詮、一生かかっても手にできない金を、毎月親からもらえる人の状況はわからない」ということを理解したことだ。その人の文脈で見れば、私には納得できないことでも、十分に通用することがあるのだ。
すると上記の(5)に行き着く。これに関しては、私は完璧に納得がいく。「豊かな人に貧しい人の惨状は理解できない」というのは間違いである。感情移入さえできれば、貧しい境遇にない人でも、貧富の格差に心を痛めることはある。だから「金持ちのボンボン」という批判はまったく的を外している。
(このコラムは毎月1日と15日の月二回。次回は1月15日です。)
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![政治学者 森田浩之のプロフィール](/contents/031/762/217.mime4) |