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習中国副主席・天皇会見が突き出したもの        かけはし2010.1.25号

「儀礼」の政治性に批判を

「公的行為」で拡大する「国民主権」と「非政治的象徴」との矛盾を暴く

羽毛田の批判
と小沢の反発

 昨年十二月十一日、羽毛田信吾宮内庁長官が十五日に行われる中国の習近平国家副主席と天皇の会見について、異例の政府批判を行ったことが大きな波紋を呼んでいる。羽毛田長官は、「天皇と外国高官との会見の申し込みは一カ月前までに申請する慣例があるが、政府からの申し入れは十一月二十六日だった。宮内庁は一カ月ルールにのっとって『応じかねる』と答えたが、平野官房長官から十二月になって二度にわたり強く要請され、了承した」と経過を説明し、このような「ルール違反は二度とあってほしくない」と露骨な不快感を表明した。羽毛田は、こうした政府の要請は「大きく言えば天皇の政治利用にあたる」との趣旨を主張したのである。
 メディアや野党から「天皇の政治利用批判」が強く吹き荒れる中で、習・天皇会見を強力にプロモートしたと見なされる小沢一郎民主党幹事長は、十二月十四日の記者会見で、羽毛田宮内庁長官の対応を口をきわめて非難した。
 「(1カ月ルールは)誰が作ったの? 法律で決まっているわけでも何でもないでしょ、そんなもん」「国事行為は内閣の助言と承認で行われるんだよ。天皇陛下の行為は国民が選んだ内閣の助言と承認で行われる、すべて。それが日本国憲法の理念であり本旨だ。だから、何とかという宮内庁の役人が、どうだこうだ言ったそうだが、まったく日本国憲法、民主主義を理解していない人間の発言としか私は思えない。……どうしても反対なら、辞表を提出した後に言うべきだ」。
 このように言いきった小沢は、「天皇陛下は、手違いで遅れたかもしれないけれども会いましょうと、……必ずそうおっしゃると思います」と、自ら天皇自身の「意向」を代弁する言まで付けくわえたのである。
 ここに小沢の戦後憲法における「象徴天皇」観が率直に表現されている、と見るべきだろう。つまり小沢にとって、天皇とはあくまで政府の「助言と承認」に従属し、時の政府によって利用されるべき「政治的道具」にほかならない、という考え方である。小沢の発言は、自らの意図をも超えて、戦後象徴天皇制の抱える本質的矛盾を改めて明るみに出したのである。

国事行為・公的
行為の問題点

 小沢は天皇と外国高官との会見を、「内閣の助言と承認」に基づく「国事行為」の中にふくめているが、言うまでもなくそれは誤りである。日本国憲法は「主権在民」原則と「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」という「象徴原理」の間の矛盾を繕うために「天皇はこの憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」(第4条)という建前になっている。
 そしてその「国事行為」とは、「一、憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。二、国会を召集すること。三、衆議院を解散すること。四、国会議員の総選挙の施行を公示すること。五、国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。六、大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。七、栄典を授与すること。八、批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。九、外国の大使及び公使を接受すること。十、儀式を行うこと」という十の項目に限定されている(第7条)。
 しかしこの「国事行為」の規定自体、天皇は「国政に関する権能を有さない」とされているものの、きわめて政治的な意味を持つものである。なぜなら行政・立法・外交にかかわる内閣の政治行為すべてが天皇の「国事行為」によって最終的に担保され、その正統性を付与されるという構造になっているからである。
 戦後憲法学の権威とされてきた宮沢俊義は「国事に関する行為」と「国政に関する権能」の使い分けに関して「文字の上だけからは、この使い分けの意味ははっきりしないが、そのほかの規定と合わせて、天皇の『国事に関する行為』というのは、元来、儀礼的・名目的な行為であるのか、さもなければ、『内閣の助言と承認』にもとづいて行われる結果として、実際に儀礼的・名目的な行為に帰着するのであるか、いずれにしても、天皇の意志決定をふくまない形だけの行為をいうものと解されている」(宮沢『憲法講話』、岩波新書)と、かなり苦しい説明を行っている。
 われわれは、この憲法の天皇条項の中に「象徴」としての政治性、すなわち「政治的に利用される存在」としての天皇の位置が根拠づけられていることを明らかにすべきである。

「儀礼」の果たす
役割を問い直す

 「国事行為」は、憲法によれば、前期の十項に限定されている。しかしその後、きわめて政治性を帯びた天皇の行為は、不断に拡大されてきた。国会開会式や戦没者追悼式典での天皇の「お言葉」、さらには国体、植樹祭、海つくり式典などへの年中行事への出席と「お言葉」、さらには「皇室外交」と外国元首の「歓迎式典」など、「私的行為」とはいえない天皇の行動は「象徴としての地位」に発する「公的行為」という位置づけを与えられ、時の権力者によって最大限に政治的に利用されてきたのだ。
 とりわけ現天皇になって飛躍的に増加した「皇室外交」は、天皇が事実上の「外交上の元首」として振る舞うことを内閣が意識的に推進するという形で展開されたのであった。この「皇室外交」に端的に示された「公的行為」が違憲の政治活動であることは明白である。そして内閣は、「皇室外交」を閣議決定することで、事実上この違憲行為について「国事行為」に準ずるものという体裁をとっているのだ。「皇室外交」は「儀礼的」なものという言い訳は通用しない。「外交」は国家の最高レベルの政治意思の発現なのであり、その最重要のアクターとして天皇の役割が期待されている以上、われわれは「儀礼の政治性」という観点から、この問題への批判を強めなければならない。
 鳩山民主党主導内閣の下で、岡田外相の、衆院開会式での「お言葉」文言の「見直し」要求、小沢民主党幹事長の「天皇訪韓」の打ち上げ発言など、「公的行為」をより露骨に「利用」しようとする発言が相次いでいる。メディアや自民党などは、こうした民主党の動きを「政治利用」として批判し、極右勢力もまた「民主党叩き」をエスカレートしている。しかし自民党などが「天皇の政治利用」を批判することはできない。天皇を自らの政治的・外交的な手段として、かつ国民統合の武器として最大限に利用してきたのが自民党であったことは明白だからである。天皇が「政治的利用手段」であることを最も知っていたのは歴代自民党内閣だったはずだ。

「象徴としての
尊厳」とは何か

 羽毛田宮内庁長官の「習・天皇会見」批判を契機にした右翼天皇主義者からの「天皇の政治利用」キャンペーンの中で、「象徴天皇制」のあり方をめぐる混乱した軽視しがたい言説がふりまかれている。
 例えば岩波新書から『憲法とは何か』(2006年)を著し、また朝日新書からも杉田敦・法大教授との対談本『これが憲法だ!』(2006年)を刊行している憲法学専攻の東大教授・長谷部恭男は、朝日新聞に掲載された杉田敦との対談で羽毛田の内閣批判会見を擁護しつつ、「重要な国の友人だから会ってほしいというのは、天皇を単に利用価値のある手段としてしか見ておらず、結果的に天皇ないし皇室独自の価値や尊厳を掘り崩してしまう」「役に立つか立たないかの問題として考えないから、天皇には尊厳が備わるのであり、尊厳があるから国の象徴たりうるのです」と述べている(「朝日」1月6日 対談・「政治主導」と民主主義の行方)。
 日本国憲法の「象徴天皇」規定に、その不可欠の要件としての「尊厳」や「皇室独自の価値」規定が内在しているとするこの憲法学者の発言は、「神聖にして不可侵」の天皇という大日本帝国憲法と紙一重である。長谷部に問おう。「個人の尊厳」と区別された「象徴天皇の尊厳」とは、どのような中身を持っているのか。「価値観の多元性」と「公私の区分」を立憲主義の基準に置く長谷部には、「公」の領域に属するであろう「象徴天皇制の尊厳」が、いかに「私」の領域を侵すものであるかという意識が完全に欠落し、天皇主義者そのものになってしまったようである。
 他方、共産党の志位和夫委員長は、十二月二十七日のテレビ朝日系「サンデープロジェクト」の党首討論で「国事行為は天皇の行為としては政治性格を持たない」ことを承認し、「『公的な行為』……にも政治的性格を持たせてはいけない」のに「今度の件は内閣が関与することによって政治的性格を持たせてしまった」と鳩山内閣を批判している。志位は、宮内庁の「一カ月ルール」についても「そのための(政治的性格を与えないための)それなりのルールだった」と羽毛田宮内庁長官の批判を肯定的に評価している。この発言には谷垣自民党総裁から「この点は志位さんに同感だ」とエールが送られる始末だった(「しんぶん赤旗」09年12月28日)。
 政治性を持たない「国事行為」「公的行為」という建前の天皇の活動をまるごと鵜のみにする志位委員長の発言に比べれば、「憲法上、天皇は『象徴』だが、ある意味、存在自体が政治的だ。……『政治利用だ』という議論が起きて、国民はあらためてそういう存在なんだと認識させられたのではないか。今こそ天皇の在り方を論議すべきだ」という奥平康弘東大名誉教授の発言(東京新聞、12月12日)は、はるかに本質をついている。
 「天皇訪韓」が日韓両国政府から日程に上げられようとしている今年、われわれはあらためて「皇室外交」など象徴天皇制の「政治」そのものを批判する主張と運動を広げていく必要がある。(1月10日 平井純一)




反天皇制運動連絡会が集会
錯綜するリベラリズムとナショナリズムの行方は?


異議あり!行動
が新宿で宣伝

 十二月二十三日の「天皇誕生日」に、「天皇即位二十年奉祝」に異議あり!え〜かげんにせーよ共同行動は、午前十一時から新宿駅東口アルタ前で、天皇誕生日と十二月二十五日に池袋の東京芸術劇場で開催される「天皇陛下在位二十年奉祝」都式典に抗議する宣伝活動を行った。二人の「背高男」や「笑顔のお手ふり」を描いたシーツをかぶる「キツネ面」も登場し、道行く人びとが注目する。共同行動の仲間たちは、都の「奉祝」式典が「民間」団体主催という形式をとりながら実際には事務局の大半が都の職員であり、都民の税金を使って行われようとしていることを厳しく批判した。

「韓国併合」百年
と天皇訪韓構想

 新宿での街頭宣伝の後、午後一時半から反天皇制運動連絡会が主催して、千駄ヶ谷区民会館で「民主党政権下の象徴天皇制〜『リベラリズム』とナショナリズム〜」と題した集会が行われた。いつものように四十台もの天皇制右翼の宣伝カーがすさまじい騒音と罵声を浴びせかける中で、百十人の参加で会場は一杯となった。主催者を代表して新孝一さんが中国の習近平国家副主席と天皇会談をめぐって巻き起こった「政治利用」だという批判を取り上げ、「公的行為」というごまかしで「皇室外交」という違憲の政治行動を積み重ねてきた歴代政権を批判した。
 パネル討論の発題者は太田昌国さん(民族問題研究)、浜邦彦さん(早稲田大学教員)、天野恵一さん(反天連)の三人の論客。
 太田さんは「政権交代」情勢について触れながら、民主党については幻想を持ちえないものの、沖縄の米軍基地問題などで「何かが変わるかもしれない」という予感を持つのは当然であり、自分としては死刑制度、拉致問題が鳩山政権の下でどのような進展を見せうるのかについて関心があると語った。この政権の登場をチャンスと捉え、機会を生かして活用すべきという民衆運動が出てくることに一定の理解を示した太田さんは、しかし和田春樹氏や大沼保昭氏などが「韓国併合」百年の二〇一〇年にあたり「日朝国交正常化」「独島(竹島)問題の解決」と合わせて、天皇・皇后が韓国を訪問し李王朝の墓に詣でることを提案していることを紹介し、それが「謝罪」にあたるとはどのような歴史認識に基づくものなのかと、厳しく批判した。あえて天皇を持ち出すことで国家間の懸案を「解決」しようという思考法への異議である。
 浜さんは、「自己責任」「自己実現」というネオリベラリズムに支配された大学の中で、若者の意識状況が極端に内向きになり、自分自身のことにしか関心がなく、社会と関わることに恐怖心を抱いている、と評価した。
 「新自由主義では経済がボーダーレスになるとともに国家の障壁は高くなっている。米国の入国管理に日本もならい、必要な移民だけ受け入れるというのだ。その中で国家の役割は福祉から監視に移行した。格付け・ランキング社会化し、就活では自己分析させる。その中では他人からの批判は受け付けず、乱暴な二分法しかできなくなっている。コミュニケーションのあり方も変化し、自分がどういうコミュニケーションを行っているかのスタイルばかりが意識され、コミュニケーションの内容は関係ない」。
 このように語った浜さんは「『公共性』そのものが私企業化されているが、今こそ『みんなのもの』(コモンズ)としての『共』が問われている。『プレカリアートのつながり』が始まり、反貧困ネットも広がりを見せている。社会のほころびの中から異質なものがつながり、『コモンズ』の次元に至る可能性が見える」と語った。
 天野恵一さんは、中国の習副主席の天皇との会見に対し羽毛田宮内庁長官が異例の不快感を記者会見で述べたことに小沢・民主党幹事長が激しく反発して政治問題化していることを取り上げ、「『朝日新聞』12月20日付に掲載された石川健治東大教授の発言は『象徴作用自体には実体はない。だが、実体を連想させて人を動かす力がある』というものだ。しかし実体なき力とは何なのか。天皇が国民国家の象徴であるかぎり、政治的でないわけはない。それは一個の身体が国家の象徴であることの根本的矛盾であり、天皇の存在意義は政治的に利用されるためにこそある」と訴えた。
 さらに戦後日本の「国体」としての日米安保という歴史的構造が、対中関係の比重の増大によって「対米自立」的傾向へと向かうベクトルが働き、一義的にはいかなくなっていることをも指摘した。

若者たちの現実と
極右レイシズム

 討論の中では、太田さんから天皇訪韓について大沼氏や和田氏が語っている内容で民主党が進んでいくならば、われわれの側の問題提起が右翼の「訪韓反対論」との関係でどのようなものになるべきかの検討が求められている、と注意を喚起した。また浜さんは若者たちが在特会的なものに動員される危険性について、「その場の空気を読んで周りに合わせる」という生き延び方との関係で指摘した。
 民主党主導政権の中での「象徴天皇制」の今後について、民主党が追求する東アジア外交や、外国籍住民の地方参政権法案と、それに対する極右排外主義の危機感を含めてさらに論議を深める必要がある。 (K)


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