モーやんの回歓録
坂口、大木の無念の涙(1)
私がプロレス担当になった1973年(昭和48年)、日本マット界は一大転換期を迎えていた。一代の英傑・力道山が1963年(昭和38年)12月15日、東京・赤坂のナイトクラブで客と口論になり、腹部をナイフで刺され39歳の若さで帰らぬ人となった。それから10年の時が流れた73年、力道山が心血を注いで築き上げた日本プロレスが消滅の時を迎えた。
力道山というカリスマを失った日プロだがジャイアント馬場、アントニオ猪木を2枚看板に、人気を保っていたが幹部連中のアバウトな金銭感覚が原因で経営に陰りが見え始めた。その実情に不安を覚えた猪木が、経営の改善と経理公開を求めたが幹部が突っぱねたことで大騒動に発展し、72年(昭和47年)2月に猪木が新日本プロレス、10月に馬場が全日本プロレスを設立して離脱した。それ以降、新日、全日は激しい興行合戦を繰り広げることになるが、その第1弾が日プロで孤軍奮闘していた坂口の争奪戦だ。柔道日本一という金看板を背負う世界の荒鷲を自軍に取り込めば絶対的有利な立場に立てるからだ。
その時の胸の内を坂口は、昨年11月まで本紙で連載した『格闘半世紀』の中で告白しているが、苦悩の末に下した決断が猪木との合流。だがこれに大木、小鹿、上田、松岡らが猛反発。日プロ内は殺伐とした空気が漂った。そんな時のプロレス担当、しかも先輩の「俺たちは日プロの最後を見るに忍びない」という屁理屈で日プロを担当させられたのだからたまらない。連日連夜、責め苦が続いた。
日プロの事務所や試合会場に行けばアンチ坂口派の面々から「あいつら今、どうしてる」「猪木や馬場の動きは?」の質問攻め。坂口と行動を共にしていた小沢や木村も同じような事を聞いてくる。分裂の経緯や、複雑な人間関係はもちろん、プロレスの技もろくすっぽ知らない2、3週間の新米記者に、そんな事がわかるはずもなく「分かりません」と突っぱねると「それでよく記者が勤まるな」と訳の分からない言いがかりをつけられたが、それほど誰もが疑心暗鬼に陥っていた。
(続く)
力道山というカリスマを失った日プロだがジャイアント馬場、アントニオ猪木を2枚看板に、人気を保っていたが幹部連中のアバウトな金銭感覚が原因で経営に陰りが見え始めた。その実情に不安を覚えた猪木が、経営の改善と経理公開を求めたが幹部が突っぱねたことで大騒動に発展し、72年(昭和47年)2月に猪木が新日本プロレス、10月に馬場が全日本プロレスを設立して離脱した。それ以降、新日、全日は激しい興行合戦を繰り広げることになるが、その第1弾が日プロで孤軍奮闘していた坂口の争奪戦だ。柔道日本一という金看板を背負う世界の荒鷲を自軍に取り込めば絶対的有利な立場に立てるからだ。
その時の胸の内を坂口は、昨年11月まで本紙で連載した『格闘半世紀』の中で告白しているが、苦悩の末に下した決断が猪木との合流。だがこれに大木、小鹿、上田、松岡らが猛反発。日プロ内は殺伐とした空気が漂った。そんな時のプロレス担当、しかも先輩の「俺たちは日プロの最後を見るに忍びない」という屁理屈で日プロを担当させられたのだからたまらない。連日連夜、責め苦が続いた。
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本日の見出し
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